若菜集 島崎藤村



三 生のあけぼの


  草枕

夕波くらく啼(な)く千鳥
われは千鳥にあらねども
心の羽(はね)をうちふりて
さみしきかたに飛べるかな

若き心の一筋(ひとすぢ)
なぐさめもなくなげきわび
胸の氷のむすぼれて
とけて涙となりにけり

蘆葉(あしは)を洗ふ白波の
流れて巌(いは)を出づるごと
思ひあまりて草枕
まくらのかずの今いくつ

かなしいかなや人の身の
なきなぐさめを尋(たづ)ね侘(わ)
道なき森に分け入りて
などなき道をもとむらん

われもそれかやうれひかや
野末(のずゑ)に山に谷蔭(たにかげ)
見るよしもなき朝夕の
光もなくて秋暮れぬ

(おもひ)も薄く身も暗く
残れる秋の花を見て
行くへもしらず流れ行く
水に涙の落つるかな

身を朝雲(あさぐも)にたとふれば
ゆふべの雲の雨となり
身を夕雨(ゆふあめ)にたとふれば
あしたの雨の風となる

されば落葉と身をなして
風に吹かれて飄(ひるがへ)
朝の黄雲(きぐも)にともなはれ
(よる)白河を越えてけり

道なき今の身なればか
われは道なき野を慕ひ
思ひ乱れてみちのくの
宮城野(みやぎの)にまで迷ひきぬ

心の宿(やど)の宮城野よ
乱れて熱き吾(わが)身には
日影も薄く草枯れて
荒れたる野こそうれしけれ

ひとりさみしき吾耳は
吹く北風を琴(こと)と聴(き)
悲み深き吾目には
色彩(いろ)なき石も花と見き

あゝ孤独(ひとりみ)の悲痛(かなしさ)
味ひ知れる人ならで
(たれ)にかたらん冬の日の
かくもわびしき野のけしき

都のかたをながむれば
空冬雲に覆(おほ)はれて
身にふりかゝる玉霰(たまあられ)
(そで)の氷と閉ぢあへり

みぞれまじりの風勁(つよ)
小川の水の薄氷
氷のしたに音するは
流れて海に行く水か

(な)いて羽風(はかぜ)もたのもしく
雲に隠るゝかさゝぎよ
光もうすき寒空(さむぞら)
(なれ)も荒れたる野にむせぶ

涙も凍る冬の日の
光もなくて暮れ行けば
人めも草も枯れはてて
ひとりさまよふ吾身かな

かなしや酔ふて行く人の
踏めばくづるゝ霜柱
なにを酔ひ泣く忍び音(ね)
声もあはれのその歌は

うれしや物の音(ね)を弾(ひ)きて
野末をかよふ人の子よ
声調(しらべ)ひく手も凍りはて
なに門(かど)づけの身の果(はて)

やさしや年もうら若く
まだ初恋のまじりなく
手に手をとりて行く人よ
なにを隠るゝその姿

野のさみしさに堪へかねて
霜と霜との枯草の
道なき道をふみわけて
きたれば寒し冬の海

朝は海辺(うみべ)の石の上(へ)
こしうちかけてふるさとの
都のかたを望めども
おとなふものは濤(なみ)ばかり

暮はさみしき荒磯(あらいそ)
(うしほ)を染めし砂に伏し
日の入るかたをながむれど
(わ)きくるものは涙のみ

さみしいかなや荒波の
岩に砕(くだ)けて散れるとき
かなしいかなや冬の日の
(うしほ)とともに帰るとき

(たれ)か波路を望み見て
そのふるさとを慕はざる
誰か潮の行くを見て
この人の世を惜(をし)まざる

(こよみ)もあらぬ荒磯の
砂路にひとりさまよへば
みぞれまじりの雨雲の
落ちて潮となりにけり

遠く湧きくる海の音
慣れてさみしき吾耳に
怪しやもるゝものの音(ね)
まだうらわかき野路の鳥

嗚呼(ああ)めづらしのしらべぞと
声のゆくへをたづぬれば
緑の羽(はね)もまだ弱き
それも初音(はつね)か鶯(うぐひす)

春きにけらし春よ春
まだ白雪の積れども
若菜の萌(も)えて色青き
こゝちこそすれ砂の上(へ)

春きにけらし春よ春
うれしや風に送られて
きたるらしとや思へばか
梅が香(か)ぞする海の辺(べ)

磯辺に高き大巌(おほいは)
うへにのぼりてながむれば
春やきぬらん東雲(しののめ)
(しほ)の音(ね)遠き朝ぼらけ

  春


   一 たれかおもはむ

たれかおもはむ鶯(うぐひす)
涙もこほる冬の日に
若き命は春の夜の
花にうつろふ夢の間(ま)
あゝよしさらば美酒(うまざけ)
うたひあかさん春の夜を

梅のにほひにめぐりあふ
春を思へばひとしれず
からくれなゐのかほばせに
流れてあつきなみだかな
あゝよしさらば花影に
うたひあかさん春の夜を

わがみひとつもわすられて
おもひわづらふこゝろだに
春のすがたをとめくれば
たもとににほふ梅の花
あゝよしさらば琴(こと)の音(ね)
うたひあかさん春の夜を

   二 あけぼの

(くれなゐ)細くたなびけたる
雲とならばやあけぼのの
       雲とならばや

やみを出(い)でては光ある
空とならばやあけぼのの
       空とならばや

春の光を彩(いろど)れる
水とならばやあけぼのの
       水とならばや

(はと)に履(ふ)まれてやはらかき
草とならばやあけぼのの
       草とならばや

   三 春は来ぬ

春はきぬ
  春はきぬ
初音(はつね)やさしきうぐひすよ
こぞに別離(わかれ)を告げよかし
谷間に残る白雪よ
葬りかくせ去歳(こぞ)の冬

春はきぬ
  春はきぬ
さみしくさむくことばなく
まづしくくらくひかりなく
みにくゝおもくちからなく
かなしき冬よ行きねかし

春はきぬ
  春はきぬ
浅みどりなる新草(にひぐさ)
とほき野面(のもせ)を画(ゑが)けかし
さきては紅(あか)き春花(はるばな)
樹々(きぎ)の梢(こずゑ)を染めよかし

春はきぬ
  春はきぬ
(かすみ)よ雲よ動(ゆる)ぎいで
氷れる空をあたゝめよ
花の香(か)おくる春風よ
眠れる山を吹きさませ

春はきぬ
  春はきぬ
春をよせくる朝汐(あさじほ)
(あし)の枯葉(かれは)を洗ひ去れ
霞に酔へる雛鶴(ひなづる)
若きあしたの空に飛べ

春はきぬ
  春はきぬ
うれひの芹(せり)の根を絶えて
氷れるなみだ今いづこ
つもれる雪の消えうせて
けふの若菜と萌(も)えよかし

   四 眠れる春よ

ねむれる春ようらわかき
かたちをかくすことなかれ
たれこめてのみけふの日を
なべてのひとのすぐすまに
さめての春のすがたこそ
また夢のまの風情(ふぜい)なれ

ねむげの春よさめよ春
さかしきひとのみざるまに
若紫の朝霞
かすみの袖(そで)をみにまとへ
はつねうれしきうぐひすの
鳥のしらべをうたへかし

ねむげの春よさめよ春
ふゆのこほりにむすぼれし
ふるきゆめぢをさめいでて
やなぎのいとのみだれがみ
うめのはなぐしさしそへて
びんのみだれをかきあげよ

ねむげの春よさめよ春
あゆめばたにの早(さ)わらびの
したもえいそぐ汝(な)があしを
かたくもあげよあゆめ春
たえなるはるのいきを吹き
こぞめの梅の香ににほへ

   五 うてや鼓

うてや鼓(つづみ)の春の音
雪にうもるゝ冬の日の
かなしき夢はとざされて
世は春の日とかはりけり

ひけばこぞめの春霞
かすみの幕をひきとぢて
花と花とをぬふ糸は
けさもえいでしあをやなぎ

霞のまくをひきあけて
春をうかゞふことなかれ
はなさきにほふ蔭をこそ
春の台(うてな)といふべけれ

小蝶(こちょう)よ花にたはぶれて
優しき夢をみては舞ひ
(ゑ)ふて羽袖(はそで)もひら/\と
はるの姿をまひねかし

緑のはねのうぐひすよ
梅の花笠ぬひそへて
ゆめ静(しづか)なるはるの日の
しらべを高く歌へかし

  小詩

くめどつきせぬ
わかみづを
きみとくまゝし
かのいづみ

かわきもしらぬ
わかみづを
きみとのまゝし
かのいづみ

かのわかみづと
みをなして
はるのこゝろに
わきいでん

かのわかみづと
みをなして
きみとながれん
花のかげ

  明星

浮べる雲と身をなして
あしたの空(そら)に出でざれば
などしるらめや明星の
光の色のくれなゐを

朝の潮(うしほ)と身をなして
流れて海に出でざれば
などしるらめや明星の
(す)みて哀(かな)しききらめきを

なにかこひしき暁星(あかぼし)
(むな)しき天(あま)の戸を出でて
深くも遠きほとりより
人の世近く来(きた)るとは

(うしほ)の朝のあさみどり
水底(みなそこ)深き白石を
星の光に透(す)かし見て
朝の齢(よはひ)を数ふべし

野の鳥ぞ啼(な)く山河(やまかは)
ゆふべの夢をさめいでて
細く棚引(たなび)くしのゝめの
姿をうつす朝ぼらけ

小夜(さよ)には小夜のしらべあり
朝には朝の音(ね)もあれど
星の光の糸の緒(を)
あしたの琴(こと)は静(しづか)なり

まだうら若き朝の空
きらめきわたる星のうち
いと/\若き光をば
(なづ)けましかば明星と

  潮音

わきてながるゝ
やほじほの
そこにいざよふ
うみの琴
しらべもふかし
もゝかはの
よろづのなみを
よびあつめ
ときみちくれば
うらゝかに
とほくきこゆる
はるのしほのね

  酔歌

旅と旅との君や我
君と我とのなかなれば
酔ふて袂(たもと)の歌草(うたぐさ)
(さ)めての君に見せばやな

若き命も過ぎぬ間(ま)
楽しき春は老いやすし
(た)が身にもてる宝(たから)ぞや
君くれなゐのかほばせは

君がまなこに涙あり
君が眉には憂愁(うれひ)あり
(かた)く結べるその口に
それ声も無きなげきあり

名もなき道を説(と)くなかれ
名もなき旅を行くなかれ
甲斐(かひ)なきことをなげくより
(きた)りて美(うま)き酒に泣け

光もあらぬ春の日の
独りさみしきものぐるひ
悲しき味の世の智恵に
老いにけらしな旅人よ

心の春の燭火(ともしび)
若き命を照らし見よ
さくまを待たで花散らば
(かな)しからずや君が身は

わきめもふらで急ぎ行く
君の行衛(ゆくへ)はいづこぞや
琴花酒(ことはなさけ)のあるものを
とゞまりたまへ旅人よ

  二つの声

   朝

たれか聞くらん朝の声
(ねむり)と夢を破りいで
(あや)なす雲にうちのりて
よろづの鳥に歌はれつ
天のかなたにあらはれて
東の空に光あり
そこに時(とき)あり始(はじめ)あり
そこに道あり力あり
そこに色あり詞(ことば)あり
そこに声あり命あり
そこに名ありとうたひつゝ
みそらにあがり地にかけり
のこんの星ともろともに
光のうちに朝ぞ隠るゝ

   暮

たれか聞くらん暮の声
霞の翼(つばさ)雲の帯
煙の衣(ころも)露の袖(そで)
つかれてなやむあらそひを
闇のかなたに投げ入れて
夜の使(つかひ)の蝙蝠(かはほり)
飛ぶ間も声のをやみなく
こゝに影あり迷(まよひ)あり
こゝに夢あり眠(ねむり)あり
こゝに闇あり休息(やすみ)あり
こゝに永(なが)きあり遠きあり
こゝに死ありとうたひつゝ
草木にいこひ野にあゆみ
かなたに落つる日とともに
色なき闇に暮ぞ隠るゝ

  哀歌

    中野逍遙をいたむ
『秀才香骨幾人憐、秋入長安夢愴然、琴台旧譜前柳、風流銷尽二千年』、これ中野逍遙が秋怨十絶(しゅうえんじゅうぜつ)の一なり。逍遙字は威卿、小字重太郎、予州宇和島の人なりといふ。文科大学の異材なりしが年僅(わづ)かに二十七にしてうせぬ。逍遙遺稿正外二篇、みな紅心の余唾にあらざるはなし。左に掲ぐるはかれの清怨を写せしもの、『寄語残月休長嘆、我輩亦是艶生涯』、合せかゝげてこの秀才を追慕するのこゝろをとゞむ。

    思君九首     中野逍遙

思君我心傷    思君我容瘁
中夜坐松蔭    露華多似涙

思君我心悄    思君我腸裂
昨夜涕涙流    今朝尽成血

示君錦字詩    寄君鴻文冊
忽覚筆端香    外梅花白

為君調綺羅    為君築金屋
中有鴛鴦図    長春夢百禄

贈君名香篋    応記韓寿恩
休将秋扇掩    明月照眉痕

贈君双臂環    宝玉価千金
一鐫不乖約    一題勿変心

訪君過台下    清宵琴響揺
佇門不敢入    恐乱月前調

千里囀金鶯    春風吹緑野
忽発頭屋桃    似君三両朶

嬌影三分月    芳花一朶梅
渾把花月秀    作君玉膚堆

かなしいかなや流れ行く
水になき名をしるすとて
今はた残る歌反古(うたほご)
ながき愁(うれ)ひをいかにせむ

かなしいかなやする墨(すみ)
いろに染めてし花の木の
君がしらべの歌の音に
薄き命のひゞきあり

かなしいかなや前(さき)の世は
みそらにかゝる星の身の
人の命のあさぼらけ
光も見せでうせにしよ

かなしいかなや同じ世に
生れいでたる身を持ちて
友の契(ちぎ)りも結ばずに
君は早くもゆけるかな

すゞしき眼(まなこ)つゆを帯び
葡萄(ぶどう)のたまとまがふまで
その面影をつたへては
あまりに妬(ねた)き姿かな

同じ時世(ときよ)に生れきて
同じいのちのあさぼらけ
君からくれなゐの花は散り
われ命あり八重葎(やへむぐら)

かなしいかなやうるはしく
さきそめにける花を見よ
いかなればかくとゞまらで
待たで散るらんさける間(ま)

かなしいかなやうるはしき
なさけもこひの花を見よ
いと/\清きそのこひは
消ゆとこそ聞けいと早く

君し花とにあらねども
いな花よりもさらに花
君しこひとにあらねども
いなこひよりもさらにこひ

かなしいかなや人の世に
あまりに惜しき才(ざえ)なれば
(やまひ)に塵(ちり)に悲(かなしみ)
死にまでそしりねたまるゝ

かなしいかなやはたとせの
ことばの海のみなれ棹(ざを)
磯にくだくる高潮(たかじほ)
うれひの花とちりにけり

かなしいかなや人の世の
きづなも捨てて嘶(いなな)けば
つきせぬ草に秋は来て
声も悲しき天の馬

かなしいかなや音(ね)を遠み
流るゝ水の岸にさく
ひとつの花に照らされて
(ひるがへ)り行く一葉舟(ひとはぶね)




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