ファウスト ゲーテ







  隣の女の家



マルテ一人登場しゐる。



  マルテ

まあ、内の檀那さんに罰が中(あた)らねば好(い)いが。
わたしを随分ひどい目にお逢わせなされた。
(わら)の上へひとり残して置いて、
自分は世間へ飛び出しておしまいなされた。
不断腹をお立(たて)になるようなことをせずに、
どんなにも大切にしてお上(あげ)申す積(つもり)でいるのに。

(泣く。)

事によったらもうお亡くなりなされたかも知れぬ。
鶴亀々々。せめて死亡証でも手に入ったら。

マルガレエテ登場。



  マルガレエテ

おばさん。


  マルテ

  グレエテさんかえ。なんだい。



  マルガレエテ

わたしびっくりして膝を衝いてしまいそうだったの。
またこんな箱がわたしの箪笥(たんす)
あったのですもの。箱は黒檀でしょう。
中に這入っているものと云ったら、
こないだのより、もっと、もっと立派なの。


  マルテ

そうかい。それはおっ母さんに言わないが好(い)いよ。
また懺悔(ざんげ)の時に持って行くといけないから。


  マルガレエテ

まあ、見て御覧なさいよ。それ。


  マルテ(マルガレエテを装飾す。)

まあ、お前さんはなんと云う為合(しあわせ)な子だろう。


  マルガレエテ

だって、こうして往来へ出たり、お寺へ行ったりすることが
出来ないのだから、詰まらないわねえ。


  マルテ

いつだってわたしの所へ来て、
そっと体に附けて見るが好(い)いよ。
そして暫くの間、鏡の前を往ったり来たりして御覧。
わたしが一しょに楽んであげるからね。
その中にはお祭かなんかで、好い折が出来ようから、
目立たないようにぼつぼつ体に附けて出るさ。
最初は鎖を掛けて出る。それから耳に真珠を嵌(は)める。
おっ母(か)さんも気は附くまいが、また何とか云い様もあろうよ。


  マルガレエテ

ねえ、おばさん。この箱を持って来たのは誰でしょう。
なんだか気味が悪いじゃありませんか。

(戸を敲(たた)く音。)

おや。大変だわ。おっ母さんじゃないでしょうか。


  マルテ(窓掛を透し視る。)

知らない男の方(かた)だよ。お這入(はいり)下さいまし。

メフィストフェレス登場。



  メフィストフェレス

失礼ですが、ずんずん這入ってまいりました。
どうぞ御免なさって下さいまし。

(マルガレエテに敬意を表して卻(しりぞ)く。)

マルテ・シュウェルトラインさんにお目に掛かりたいのですが。


  マルテ

マルテはわたくしでございます。なんの御用で。


  メフィストフェレス(小声にてマルテに。)

お前さんですか。こうしてお目に掛って置けば好(い)い。
お客様はどちらの令嬢ですか。
どうも飛んだ失礼をしましたね。
いずれ午過ぎにでもまた来ましょう。


  マルテ(声高く。)

あら、まあ。グレエテさん。お聞(きき)よ。
この方がお前の事をどこかの令嬢だろうとさ。


  マルガレエテ

まあ。わたし貧乏人の娘なのに、
このお方がそんな事にお思(おもい)なさっては困るわ。
飾は皆わたしの物でもないのに。


  メフィストフェレス

いえ。御装飾品だけを見て云ったのではありません。
御様子と、それにお目が鋭いので。
このままいて宜しければ、こんな難有(ありがた)い事はありません。


  マルテ

御用はなんですか。早く伺いたいもので。


  メフィストフェレス

さよう。もっとめでたいお知らせだと好いが。
持って来たわたしが怨まれなければ好いと思うのですよ。
御亭主が亡くなりましたよ。お前さんに宜しくと云うことで。


  マルテ

おや、まあ。とうとう亡くなりましたの。
可哀そうに。本当に亡くなったでしょうか。ああ。


  マルガレエテ

まあ。おばさんしっかりなさいよ。


  メフィストフェレス

まあ、気の毒な最期を聞いて下さい。


  マルガレエテ

だからわたし生涯男は持たなくってよ。
亡くなった時どんなにか哀しいでしょう。


  メフィストフェレス

(かなしみ)の隣に喜(よろこび)があり、喜の隣に悲があるのです。


  マルテ

どうぞ亡くなった宿がどうなったかお話(はなし)なすって。


  メフィストフェレス

あのパズアの聖アントニウスのお傍で、
極難有い場所に
葬って貰われて、
そこを永遠に冷たい臥所(ふしど)にしておられますよ。


  マルテ

その外には何もおことづかりなすったことはございませんか。


  メフィストフェレス

まだ大したむずかしい事があるですよ。
お前さんに三百度のミサを読ませて貰いたいそうで。
それから遺物(ゆいもつ)と云うものは何もありませんでした。


  マルテ

まあ。諸国を廻る職人の徒弟でも、笈(おい)の底に
飾の一つや、変銭(かわりせん)の一つ位は取って置いて、
(たと)え餓えても、乞食をしても、
それは記念(かたみ)に残すのに。


  メフィストフェレス

どうもお前さんには実にお気の毒ですよ。
しかし実際無駄遣をしたわけでもありません。
自分でも悪かったと云って後悔していました。
そう。それよりも不為合(ふしあわせ)を怨んでいましたっけ。


  マルガレエテ

まあ。人間は不為合のあるものでございますね。
わたくしもその方(かた)のために少しレクウィエムでもお唱(となえ)申しましょう。


  メフィストフェレス

お見受(みうけ)申す所、あなたはもう直(すぐ)にお嫁入をなさっても
宜しそうでございます。愛敬のおありになる方(かた)ですね。


  マルガレエテ

あら。まだなかなかそんな事は出来ませんわ。


  メフィストフェレス

それは御亭主でなくても、差当(さしあたり)(よ)い方(かた)
御交際なさるが好(い)い。ただいとしい、可哀いと
抱き合うばかりでも、世の中の主(おも)な楽(たのしみ)の一つです。


  マルガレエテ

そんな事はこの土地ではいたさぬ事になっています。


  メフィストフェレス

そうなっていても、いなくても、すれば直(すぐ)出来ます。


  マルテ

もし。まだお話がございましょうか。


  メフィストフェレス

ええ。息を引き取りなさる所に、

わたしは附いていましたが、五味溜よりは少し好い、
腐り掛かった藁の上でした。でも信者として
死なれましたよ。まだ大ぶ罪滅(つみほろぼし)がせずにあると云って。
そう云われましたっけ。「己は自分が心(しん)からいやだ。
こんな渡世のお蔭で、女房をああして置いて死ぬるのだから。
ああ。思い出すと溜まらなくなる。
どうぞこの世で己の罪を免(ゆる)してくれれば好いが。」


  マルテ(泣きつゝ。)

可哀そうに。わたしはもう疾(と)っくに免して上げたのに。


  メフィストフェレス

「だが神様が御存じだ。己より女房が悪かったのだ。」


  マルテ

嘘ばっかし。そんな事を。死際に嘘を衝くなんて。


  メフィストフェレス

へえ。わたしには余りよくは分からないが、
断末魔の譫語(うわこと)だったかも知れません。
そう云いましたっけ。「己はうっかりぽんとしていたことはなかった。
子供は出来る、パンを稼ぎ出さなくてはならぬ。
パンも極広い意味のパンだからなあ。
そして落ち著いて己の分を食うことも出来なんだ。」


  マルテ

まあ。あんなにわたしは夜昼(よるひる)となく働いて、
万事親切に世話をして上げたのを忘れてさ。


  メフィストフェレス

いいえ。その事は心(しん)から喜んでいたのですよ。
そう云いましたっけ。「マルタ島を立つ時は、
己は女房子供のために、心(しん)からの祈祷をした。
丁度首尾好くスルタンの
宝を積んだトルコの船を
こっちの船が攫(つか)まえた。
骨折甲斐のある為事(しごと)で、
貰うだけの割前は
己も貰った。」


  マルテ

まあ。どうしたでしょう。どこかへ埋めでもしたでしょうか。


  メフィストフェレス

ところがそれを東西南北、どこへ風が飛ばしたやら。
ナポリへ著いて知らぬ町をぶらついているうちに、
綺麗首が銜(くわ)え込んで、
死ぬる日までもあの男の骨に応える、
結構なおもてなしをしたのですね。


  マルテ

まあ、ひどい人だこと。孫子の物を盗んだのだよ。
どんなに落ちぶれても、困っても、
浮気は止まなかったのかねえ。


  メフィストフェレス

そうですよ。だがその報(むくい)には死にました。
まあわたしがお前さんなら、
ここの所一年程おとなしく喪に籠っていて、
そのうちそろそろ替の人でも捜すですね。


  マルテ

そんな事を仰ゃっても、先の亭主のような人は、
世間は広いが、めったに見附かりません。
ほんに可哀い気前の男でござんした。
(きず)はあんまり旅が好(すき)で、
よその女やよその酒に現(うつつ)を抜かし、
お負(まけ)に博奕(ばくち)を打ちました。


  メフィストフェレス

なるほど、なるほど。そこで男の方(ほう)からも、
ざっとその位大目に見ていたとすると、
随分旨い話でしたな。
そんな条件の附く事なら、わたしなんぞも
難有くあなたの御亭主になりますなあ。


  マルテ

おや。御笑談ばかし仰ゃいます。


  メフィストフェレス(独語。)

おっとどっこい。そろそろこの場を逃げなくては。
本物の悪魔の詞質(ことばじち)をもこの女は取り兼ねんぞ。

(マルガレエテに。)

ところで、あなたのお胸の御都合は。


  マルガレエテ

へえ。なんと仰ゃいます。


  メフィストフェレス(独語。)



ふん。憎い程おぼこだなあ。


(声高く。)

いや。どなたも御機嫌好う。


  マルガレエテ

 さようなら。



  マルテ

あの、ちょっと伺いますが、

宿がいつ、どちらで、どんな風に亡くなったと云う
書附がありましたらと存じます。
わたくしは何事も極(き)まりの附かないことが嫌(きらい)で、
出来ます事なら新聞にも書いてお貰(もらい)申したいので。


  メフィストフェレス

なに、お前さん。証人が二人あれば、
どこでも言分は通ります。
わたしには好(い)い友達が一人いますが、
そいつが一しょになん時でも裁判所へ出て上げます。
そのうち連れて来ましょうよ。


  マルテ

そんならどうぞそんな事に。



  メフィストフェレス

ええと、このお嬢さんもここにおいでになるのですね。
わたしの友達は好(い)い奴です。世間を広く渡って来て、
御婦人方に失礼な事はいたしません。


  マルガレエテ

あんな事を仰ゃるのですもの。お恥かしくて。


  メフィストフェレス

いえ。王様の前へお出になってもお恥かしがりなさいますな。


  マルテ

そんならあちらの奥庭で、お二人のおいでを
お待申しておりましょう。







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