ファウスト ゲーテ







  ペネイオス河



(池沼、ニュムフェエ等に囲繞(いにょう)せられたり。)



  ペネイオス河

(そよ)ぎ囁け、蒲(かば)の葉よ。
しばし破れし夢に、
(よし)の妹達(いもたち)、そと息嘘(ふ)き掛けよ。
柳の木立軽くさやぎおとなへ。
(ふる)ふ楊樹(ようじゅ)の梢みそかに物言へ。
凄まじき物のけはひ、
微かに物皆動かす震(ふるい)
波の中、静けさの中より我を醒ましつ。


  ファウスト(川に立ち寄る。)

己の僻耳(ひがみみ)でないなら、この木立、
この梢の入り違った茂(しげり)の中から、
人の声に似た物音が
聞えるように思われる。
波もくどくどと何やら云って、
風も何やら喜び戯れているらしい。


  少女ニュムフェエ等


(ファウストに。)

御身をこゝに横へ、
疲れたる手足を
涼しき所にて息(やす)め、
常に御身の得難き眠を
味ひ給はんこそ
もとも宜しからめ。
われ等さやぎ、そよめきつゝ、
(ささやき)を聞せまつらん。


  ファウスト

己はこれでも覚めている。己の目の
見遣るあそこに、譬(たと)えようのない
あの姿を、あのままおらせて貰いたい。
不思議な程身にしみじみと応える。
夢だろうか。昔の記念(かたみ)だろうか。
これまでこんな幸に逢ったことが一度ある。
軽く戦いでいる、茂った灌木の群の
爽かな中を、水が這って通る。
荒い音は立てぬ。やっとそよめくだけだ。
(もも)の泉が八方から集まって
(ゆあみ)の出来るように、浅く窪んだ、
清く澄み切った池になっている。
(すこや)かな、若い女等の手足が
水鏡に映って、二重に、
目を悦ばせてくれる。
そして女等は中善く、楽しげに浴(あ)びたり、
大胆に泳いだり、こわごわ渉(わた)ったりしている。
そのうち、とうとう叫び交わして水合戦をする。
己はこれだけの事を見て満足して、
目を悦ばせていなくてはならぬのに、
己の心はそれに安んぜずに、先へ先へと進む。
そして目はあちらの物蔭を鋭く穿(うが)とうとする。
緑に茂ったあの木の葉が
(きさき)の姿を隠している。

や。珍らしい。入江の方(ほう)から、
威厳のある、清げなけはいで、
(くぐい)も泳いで来る。静かに漂って、
優しく群れて遊んではいるが、
また世に傲(おご)り、自ら喜ぶ気色もある。
あの頭や嘴(くちばし)を動かす工合を見るが好(い)い。
中に一羽が群を凌いで大胆に、
どの鳥をも跡に残して走って行って、
誇りかに振舞うのが見える。
体中の羽根をふくよかに起して、
足掻(あがき)に波を立てて、
神聖な所へ入り込んで行く。
外の鳥共は穏かに羽根を赫(かがや)かして、
あちこちを泳ぎ廻って、
折々は臆病な少女等を賺(すか)して、
后を守護する勤(つとめ)を忘れさせ、
自分々々の安危を思わせようとして、
騒がしい、晴がましい争をして見せる。


  ニュムフェエ

皆さん。この青い岸の段々に、
耳を押し附けて聞いて御覧なさい。
わたしの聞違(ききちがい)でないなら、なんだか
馬の蹄の音がするようですね。
今宵の祭に急(いそぎ)の使になって来るのは、
まあ、誰でしょうかねえ。


  ファウスト

駆けて来る馬の蹄に
大地が鳴り響くようだ。
向うを見れば、
幸運が
もう己に向いて来たらしい。
無類の奇蹟だ。
騎者が一人駆けて来る。
智もあり勇もありそうな人だ。
眩い程の白馬に乗っている。
己の僻目でないなら、もうその人も知れている。
フィリラが生んだ名高い倅だ。お待なさい。
ヒロンさん。あなたに言いたい事があります。


  人首馬身のヒロン

なんです。何事です。


  ファウスト

ちょっと留(と)まって下さい。



  ヒロン

いや。己は留(と)まらぬ。


  ファウスト

そんなら連れて行って下さい。



  ヒロン

そんなら乗れ。そうしたら、己の問う事も
問われよう。どこへ行くのだ。お前は岸に
立っているが、川を越させて遣っても好(い)い。


  ファウスト(乗る。)

どこへでも連れておいでなさい。御恩は長く
忘れません。あなたは大人物だ。高尚な教育家だ。
英雄の一種族を名の揚がるように育てたのだ。
あのアルゴオの舟に乗った立派な人達や、
その外詩人の材料になった人達を育てたのだ。


  ヒロン

そんな事はそっとして置いて下さい。
パルラスでさえ師匠としては誉められない。
どうかすると、門弟は教えたも教えなかったも
同じ事で、勝手に遣って行きますからね。


  ファウスト

それにあなたは草木を一々知っていて、
その根ざしを底の底まで窮めて、
(きず)を癒(い)やし、病人を救って遣られる。その心身共に
健かなあなたに、わたしは載せられているのだ。


  ヒロン

それは傍で英雄が創を負えば、
救って遣ることもわたしには出来る。
しかし先々の手当は
巫女や僧侶に任せて置く。


  ファウスト

なるほどあなたは、人の称讃に耳を借さない
真の大人物だ。自分のようなものは、
外にいくらもあると云う風に、
話をそらしてしまうのですね。


  ヒロン

お前さんなかなか辞令に巧だ。王者にも
人民にも程の好(い)い事を言う性(たち)だね。


  ファウスト

でもこれだけは承認なさるでしょう。
あなたは同時代の大英雄を目撃して、
事業はその最上の人の風を慕って、
半神として誠実に暮らされたのです。
そこで御承知の英雄達の中で、あなたは
誰を一番えらいと思いますか。


  ヒロン

先ずアルゴオの舟に乗った立派な人達は、
それぞれ変った、えらい所があって、
自分の授かった力量次第で、
外の人に出来ない事をしたのだ。
少壮で風采の好い事では、
ジオスコロイの兄弟が勝を占めていた。
敢為邁往の気象で身方の利を謀ったのは、
ボレアスが伜兄弟の手柄だ。
沈著で、剛毅で、聡慧で、物の相談が好く出来、
女共に悦ばれて、勢力のあったのはイアソンだ。
それから優しく、物静かに、ゆったりして、
オルフェウスは善くリラの琴を弾じた。
千里眼のリンケウスは、夜昼(よるひる)油断なく
暗礁を避(よ)けて神聖な舟を進めた。
同心協力しなくては危険を凌ぐことは出来ぬ。
一人の働が皆の誉になるのだね。


  ファウスト

なぜヘラクレスの事を少しも言わないのです。


  ヒロン

そんな名を言って、己に懐旧の情を起させては
困るなあ。フォイボスや、またアレス、ヘルメス
なんどと云う神達は、己は見なかった。
己の目の前に見たのは、世の人が皆
神と称える、あの人だけだ。
あれは実に生れながらの王者で、
若い時は類(たぐい)のない立派さであった。
それでいて兄には善く仕えて、
美しい女子達には優しくしていた。
ゲアの胎(たい)からも、あんなのは二人と生れまい。
ヘエベエもあんなのを二人と天へ連れては行かぬ。
歌に歌おうとしても及ばぬ。
石に彫ろうとしても似せることは出来ぬ。


  ファウスト

なる程塑造家が随分骨を折りますが、
どうも本物(ほんもの)のように立派には出来ませんね。
そこで一番立派な男のお話を承ったから、
こん度は一番美しい女のお話を伺いましょう。


  ヒロン

なんですと。女の美なんと云うものは詰まらない。
兎角凝り固まったような形になり勝(がち)だ。
己は喜ばしげに生(せい)を楽みながら発現する
姿でなくては、褒めない。
美の尊さは独立している。己がいつか
載せて遣った時のヘレネなんぞは、
誰も反抗することの出来ぬ嬌態を持っていた。


  ファウスト

あなたが戴せましたか。


  ヒロン

うん。この背中に載せた。



  ファウスト

そうでなくても心苦しいのですが、そんな難有(ありがた)
背中にわたしは載せられているのですか。


  ヒロン

お前さんが今しているように、あれもその鬣(たてがみ)
握んでいたのだ。


  ファウスト

わたしは全く気が遠くなる。

どうしてそんな事があったか、話して下さい。
あれはわたしの慕っているただ一人の女です。
どこからどこへ載せて行ったのですか。


  ヒロン

その御返事をするのは造作はない。あの時は
ジオスコロイの兄弟があれを
賊の手から救って遣った。
しかしあれは負けていたくない性分なので、
元気を出して跡から駆けて来た。
所で兄弟の急ぐ足をエレウシスの
沼が遮り留めた。兄弟はぼちゃぼちゃ渉る。
己はあれを載せてごぼごぼ這入って泳ぎ越した。
あれは飛び降りて、濡れた鬣をさすって、
愛らしく賢しげに、しかも気高く、
世辞のある礼を言った。実に
老人の目をも悦ばせる、若い、美しさだった。


  ファウスト

でもその時はまだ十(とお)ばかりで。


  ヒロン

ははあ。博言学の

先生達が自ら欺いて、お前さんをも騙したのだな。
神話の女は別な物だ。あれは詩人が
都合の好いように書いて見せるのだ。
いつ丁年になるでもなく、年が寄るでもなく、
いつも旨そうな肉附をしていて、子供半分で
奪われたり、更(ふ)けてから大勢に慕われたりする。
詰まり詩人は時間に縛せられないのだ。


  ファウスト

ですからあの女も時間に縛せられないが、
(い)いのです。アヒルレウスがフェレエであれを
見附けたのも時間の外でした。不思議な幸ですね。
運命に逆(さから)って恋を遂げたのですから。
わたしだってこれ程の係恋(あこがれ)の力で、またとない
あの姿を現(うつつ)に返すことが出来そうなものです。
あの偉大で、しかも優しく、尊厳で、しかも可哀い、
神々と同等な、永遠な姿をですね。
あなたは昔見られた。わたしは今見たのです。
動されずには、慕わずにはいられない美しさです。
もうわたしの心も魂も緊(きび)しく捉われて、
あれを手に入れずには、生きていられません。


  ヒロン

おい。他所物(たしょもの)。人間としてはそんなに感動して
いるも好かろうが、霊(れい)どもの仲間から見ると
気違染みている。しかし丁度好(い)い事がある。
己は毎年ちょいとの間、アスクレピオスの娘の
マントオを尋ねて遣ることになっている。
あれはいつも静かな祈を父に捧げている。
どうぞお父(と)う様の御威徳で、
医者共の夢を醒ましてお遣(やり)になって、
大胆に人を殺すことをお廃(よ)させなされて
下さいと云うのだ。巫女(みこ)共の中で一番好(すき)な女だ。
情深く優しくて、目まぐろしくこせつかない。
お前さんを少しあれが所に滞留させたら、薬草の
根の力で、病気を根治して上げることが出来よう。


  ファウスト

直してなんぞ貰いたくはありません。魂は
丈夫です。直されて俗人同様にはなりたくない。


  ヒロン

神の泉の霊験を曠(むなし)くせぬようになさい。
さあ、お降(おり)なさい。もうそこへ来たのだ。


  ファウスト

どうぞ言って下さい。気味の悪い夜中に、川床の
小石を踏んで、どこの岸へ連れて来たのですか。


  ヒロン

ここがロオマとグレシアとの争った所だ。右は
ペネイオスの流、左腋はオリムポスの山だ。最大の
版図が、水の砂に吸われるように滅びた。
王は奔(はし)る。公民は凱歌を奏する。頭(あたま)を挙げて
御覧。直傍(じきそば)に月の光を浴びて
永遠の祠(ほこら)が立っている。


  巫女マントオ(内にて夢見心地に。)

馬の蹄に
神の階段(きざはし)が鳴る。
半神が来ると見える。


  ヒロン

(ちがい)ない。
目を開(あ)けて御覧。


  マントオ(醒む。)

好くおいでなさいました。闕(か)かしはなさいませんね。


  ヒロン

お前さんの祠もちゃんと立っていますからな。


  マントオ

今でも草臥(くたび)れずに駆けてお歩(あるき)なさいますか。


  ヒロン

あなたがいつも神垣の中にじっとしていると
同じ事で、わたしは駆け歩くのが面白いのです。


  マントオ

動かずにいるわたしの周囲(まわり)が廻るのです。
そしてこの方(かた)は。


  ヒロン

評判の悪い祭の夜が

渦巻に巻き入れてこの人を連れて来ました。
物狂おしいような心持になって、
ヘレネを手に入れようとしていますが、どこで
どう手を著けて好いか、知れないのです。
アスクレピオスの療治を受けるに誰よりも適当でしょう。


  マントオ

出来ない事を望む人はわたしは好(すき)です。

(ヒロンは去ること既に遠し。)

大胆なお方(かた)。お這入なさい。そしてお喜(よろこび)なさい。
ペルセフォネイアさんの所へ暗い廊下から
行かれます。オリムポス山の空洞(うつろ)な底で、幽界の
(きさき)は禁ぜられた挨拶を内証で聴かれます。
いつぞやオルフェウスさんをそっと通したのも
ここです。さあ、大胆にあれより旨くお遣(やり)なさい。

(共に降り行く。)








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