ファウスト ゲーテ(下巻)







  僭帝の帷幕(いばく)


玉座。奢侈(しゃし)なる周囲の装飾。
はやとり。はやえ。



  はやえ

とうとう一番先へここへ来たのね。


  はやとり

己達より早くは鴉(からす)にも飛べまいよ。


  はやえ

まあ、好(い)い物がうんとあるわねえ。
どれを先に取ろうかしら。どれを跡にしようかしら。


  はやとり

ほんに幕の中に一ぱいあるのだから、
己にもやっぱり手が著かない。


  はやえ

この敷物なんか丁度好(い)いわ。
わたしどうかすると随分ひどい所(とこ)に寝るのだから。


  はやとり

ここに鋼鉄(はがね)で宵の明星が拵えてある。
己はとうからこんな物が欲しかったのだ。


  はやえ

この金糸で縁を取った緋の引廻しね、
こんなのが疾(と)うから欲しかったわ。


  はやとり


(武器を手に取る。)

こいつはこれで重宝だぞ。
人を敲(たた)き切って置いて、先へ出られる。
お前もう随分たくし込んだが、
まだ何一つろくな物は取らないなあ。
そのがらくたはそこに置いて、
この箱を一つ持って行け。
これは兵隊に払う給金で、
中実(なかみ)は金貨ばっかりだ。


  はやえ

まあ、恐ろしく重いこと。
わたしには持ち上がらないわ。


  はやとり

早くしゃがめよ。しゃがむのだよ。
己が背中へ背負(しょ)わせて遣る。


  はやえ

おう痛。わたしもう駄目よ。
重くて腰が折れそうだわ。

(箱転がり落ち、蓋開く。)



  はやとり

見ろ。金貨が一ぱいだ。
早く取らねえか。


  はやえ(蹲(うずくま)る。)

早くこの前掛にしゃくい込んでおくれよ。
この位持って行けばかなりあるわねえ。


  はやとり

それが好(い)い好い。早くしろよ。

(女立ち上がる。)

や、大変。前掛に穴が開(あ)いているぜ。
立っている所(ところ)にも、歩いて行く先にも、
お前金(かね)をばら蒔(ま)いているじゃねえか。


  我帝の護衛等

この大切な場所で何をしている。
お手元金になぜ手を著ける。


  はやとり

なに。こっちは体を売物にして出たのだから、
勝利品の割前を貰うのです。
敵の天幕に来れば、これは極(き)まりだ。
こっちもやはり兵士だから。


  護衛等

いや。そんな奴は我々の仲間には向かぬぞ。
兵士と盗坊とは兼ねられぬからな。
こっちの殿様の方へ来るものは、
正直な軍人でなくてはならぬ。


  はやとり

所が正直と云う奴は分かっていらあ。
すぐに徴発と来るのだ。
お前さん達だって一つ穴だ。
「よこせ」と云うのが仲間の挨拶だ。

(はやえに。)

往けよ。持っている物は引き摩って行くのだ。
ここでは己達はもてないからな。(退場。)


  第一の護衛

おい。なぜすぐにあいつの横っ面(つら)
ぶんなぐって遣らないのだ。


  第二の護衛

なぜだか己は力が抜けて手が出せなかった。
変に怪物臭い奴等だから。


  第三の護衛

己もなんだか目の前に
火花が散るようで、好く見えなかった。


  第四の護衛

己もなんと云ったら好(い)いか知らんが、変だよ。
きょうは一日厭(いや)に暑くて、何やら気になるように、
息が詰まるように蒸々(むしむし)していた。
平気で立っている奴がある。遣られて倒れる奴がある。
手探(てさぐり)で歩きながら人を切る。
刀を一振振る度に、敵は倒れる。
目の前には霧が掛かっているようで、
耳はがんがん鳴っている。
始終そんな風で、とうとうここへ遣って来たが、
どうして来たのか、自分にも分からないのだ。

帝と四諸侯と登場。
護衛等退場。



  帝

どうしてこれがこうなったにしても、兎に角会戦には勝った。
逃げた敵はもうちりぢりに野原に散らばった。
玉座は空しく残っていて、絨緞にくるまれながら、
(ほの)かに見える宝物が所狭(ところせ)きまで置いてある。
己達はここで立派に身方の護衛を随えて、帝王の威厳を以て、
県々(あがたあがた)の使者を待ち受けるのだ。
どの方面からも好い便(たより)が来る。
国内は平穏になって、民は帰服したそうだ。
よしや戦争に幻術が手を貸したとしても、
詰まり戦うことは自分で戦ったのだ。
昔から偶然の事が軍隊の助(たすけ)になったことは往々有る。
隕石(いんせき)がある。敵陣の上に血が降る。
身方を鼓舞して、敵の心をひるまする
怪しい物音が岩穴からした例(ためし)もある。
敗者は殪(たお)れて、謗(そしり)は必ず下流に帰し、
勝者は栄華を受けて、助くる神を称(たた)う。
命令を須(もち)いずして、万民信服し、
異口同音(いくどうおん)に「神よ我等汝を称う」と呼ぶ。
しかし今まで己は忽(ゆるかせ)にし勝(がち)であったが、敬虔な目を
今我胸に注いで、ここに最高の価値を認める。
年若な、気軽な君主は徒(いたずら)に日を送りもしょうが、
年を取っては重大な、刹那々々の意義を考える。
だから己は今すぐに、お前達四人の元勲と、
こん内(だい)こん外一切の事を掟てようと思う。

(第一の臣に。)

侯爵。軍隊の巧妙な部署をしたのはお前だ。
それから機を見て大胆な処置に出(で)たのもお前だ。
以後は平時相応な事業をお前に托する。
お前を式部卿にして、この刀(とう)をお前に授ける。


  式部卿

今まで国内に働いていた、忠実な軍隊が、
玉体と御位(みくらい)との固(かため)に、疆(さかい)を安く戍(まも)る上は、
代々お住まいなさる広い城の大広間で、祭の日に
御膳部の用意をいたすことをお許(ゆるし)下さいまし。
清浄にして献上し、清浄にお給仕をいたして、
尊いお側を離れませぬ。


  帝(第二の臣に。)

次には天晴(あっぱれ)の勇士であって、しかも優美に、おとなしい
お前を侍従長にする。これは容易な役ではない。
お前は宮中一切の職員の頭(かしら)だ、好く和合せぬと、
職員が己の役に立たぬ。主君にも、同僚にも、
誰にも気に入るようにして、これからお前
職員一同の模範になってくれんければならぬ。


  侍従長

善人をば助けて遣り、悪人にも害を加えず、
その上潔白で欺かず、沈著で偽らなかったら、
(かみ)の御意図に副(かな)うわけで、必ずお気に入りましょう。
ただこの胸の中をお見抜(みぬき)下されば、それだけで満足いたします。
お祭の日の事まで想像いたして宜しゅうございましょうか。
あなたが食卓にお就(つき)になれば、
わたくしは金(きん)のお盥の耳を持っていて、お楽(たのしみ)の央(なかば)
折々お手をお滌(すすぎ)なさる時、お顔を拝して喜びましょう。


  帝

いや。己は今重大な事を思っていて、祭の事は
考えぬが、それは宜しい。それも務(つとめ)の励(はげみ)になる。

(第三の臣に。)

次にお前には光禄卿を申附ける。猟の事、鳥屋(とや)
菜園(さいえん)の事は、今後お前に受け持たせる。
月々出来る物の中で、好(すき)な物を選(よ)ることは
己に任せて、料理を旨くさせてくれい。


  光禄卿

味の好いものを差し上げて、御賞味あそばすまでは、
わたくしは義務として、何も戴かずにいましょう。
御料の季節を早めたり、遠方の品を取り寄せたり、
(くりや)の役人と打ち合せて、油断なくいたしましょう。
(もっと)も食卓の飾にする初物(はつもの)や珍物(ちんぶつ)はお好(このみ)なさらず、
滋養になる常の品がお望(のぞみ)だとは存じていますが。


  帝(第四の臣に。)

どうも祭の話は所詮逃(のが)れられぬと見えるから、
次には若い勇士のお前を、良うん令にして遣(つかわ)そう。
その役になったからには、好い酒がたっぷりと
いつも穴倉にあるようにいたして置け。
しかし自分は節酒して、うかと機会に誘われて、
酔ってしまわぬようにいたせ。


  良うん令

殿様の御信任さえ受けますると、若い者も、
三日見ぬ間に、立派な男に変っています。
わたくしも一つ大宴会の時を想像いたしましょう。
金や銀の、美しい盃で、なるたけ立派にわたくしが
御殿の食卓を装飾いたしますが、
しかし一番結構なお杯は御用に取って置きましょう。
それは透き徹(とお)ったヴェネチアの玻璃(ビイドロ)で、
(なか)に楽(たのしみ)が待ち受けて酒を旨くし、酔わせませぬ。
しかしさような宝を手頼(たより)にいたすは尋常(よのつね)で、
寡欲のお徳はそれに増すお身の備でございます。


  帝

この大切な日にお前達に言おうと思った事だけは、
お前達、慥(たし)かな口から、信じて聞いたことだろう。
綸言(りんげん)は重いもので、授けた物に相違はないが、
それを確めるには書物(かきもの)がいる、印璽(いんじ)がいる。
方式に適(かな)うように、それを調えて取らする事は、
その司(つかさ)のものが然るべき時にいたすであろう。

(大司祭兼相国(しょうこく)登場。)

円天井の建物も、土台の石に重(おもり)を托して、
それで永く崩れずに立っている。
そこにいる四人の諸侯を見い。今差当り内廷を
維持して行くに有利だと思う廉々(かどかど)を話していた。
国内全体の政治に関した事は、これから五人に
しっかりと申し附けて置くことにしよう。
お前達の領分は余(よ)の臣下より立派にしたい。
そこで己に叛いたもの共の地所を併せて、
今直(すぐ)にお前達の領地界を広めて遣(つかわ)す。
お前達には随分結構な土地を遣った上に、
今後譲受、買受、交換の折毎に、
それを広めて行く権利をも授ける。
その外領主として正当に行うはずの廉々は、
故障なく行うように、この場できっと許して置く。
裁判官としては最後の審判をいたして好(よ)い。
その審判に異議は申させぬことにする。
それから賦割、利足、献納物、道銭、租金、税金から、
塩や鉱産物の専売、貨幣の鋳造まで、皆差し許す。
これは己の感謝の意を十分に表するために、
帝位の次に引き上げたお前達であるからだ。


  大司祭

一同に代って厚くお礼を申し上げます。
我々を強く堅固になさるのも、詰まり王室のお為(ため)でござります。


  帝

まだお前達五人に托する一層重い事がある。
現に己は生きていて、これからも生きていたいが、
祖宗歴代の鎖(くさり)は、落ち著いた己の目を、
邁往(まいおう)の衢(みち)から畏敬の道へ呼び戻す。
己もいつかは親族に別れずばなるまい。
その時は、お前達、己の世嗣(よつぎ)を選んでくれい。
宝冠を戴かせた上、贄卓(にえづくえ)に登らせて、
騒がしかった世の末を、太平に結んでくれい。


  相国

(ほこり)を深い胸に蔵め、敬(うやまい)を色に表(あらわ)して、
人臣の最上たる諸侯がお前(まえ)に拝伏します。
忠義の血がこの脈を漲(みなぎ)り流れておりまする間は、
我々は君の意志で働く、一つの体(からだ)でござります。


  帝

そこで最後に言って置くが、これまで申し渡した
一切の事は、追って書附(かきつけ)にして、親署して遣(つかわ)す。
総てお前達の所有物は自由に処理して宜しいが、
分割することはならぬ。それが唯一の条件だ。
また己に貰った物を、どれだけ殖やしていようとも、
それをそのままお前達の嫡子に譲って遣って好(よ)い。


  相国

国家の栄(さかえ)、我々の栄のため、大切なお定(さだめ)を、
直様(すぐさま)、謹んで記録に留めまして、
浄書、封緘(ふうかん)は記録所で扱わせます。
どうぞ御親署を遊ばして下さりませ。


  帝

それでは一同暇を取らせる。大切な日であるから、
銘々この場を引き取って、内省いたしているが好(よ)い。

(世俗の四諸侯退場。)



  大司祭


(一人残りて、荘重に言ふ。)

相国は引き取りましても、大司祭は残りました。
あなたのお耳に入れたい諫(いさめ)の情に駆られまして、
父のような心がお身の上を気遣うのでござります。


  帝

この喜(よろこび)の日に何の気遣(きづかい)があるのか。それを申せ。


  大司祭

こう云う日に、神聖な、あなたのお心が、
悪魔と結托しておいでなさるのを、いかにも苦痛に存じます。
無論見掛(みかけ)は御位(みくらい)が安全なようでござりますが、
惜むらくは主(しゅ)や法王の祝福がおありなさりません。
法王がもしお聞(きき)になったら、すぐに神聖な御権威で、
罪の深いこの国をお罰しになりましょう。
あなたが戴冠式の日に、今殺そうと云う悪魔師を、
お救(すくい)になったことを、法王はまだお忘(わすれ)にはなりませぬから。
お冠から出た、特赦の第一の光は、
クリスト教世界に危害を与え、咀(のろ)われた人の頭(こうべ)に落ちました。
どうぞお胸にお問(とい)になって、擅(ほしいまま)に受けられた
この幸福の一分を、ロオマへお返しなさりませ。
あの悪魔がお身方をしに出て参って、
あなたが偽貴族の甘い詞(ことば)をお聴納(ききいれ)になった時、
あなたの帷幕の張ってあった、あの一帯の丘陵を、
過を悔いて、敬虔に、ロオマへ御寄附なさりませ。
山や茂った森の広がっている限、
肥えた牧場になっている高地も、魚の多い、澄んだ湖水も、
(まが)りながら急いで谷に灌(そそ)ぐ、無数の小川(こがわ)も、
下の牧場や、原や、谷合(たにあい)になっている、広い低地も、
そっくり御寄附なさりませ。そうなされたら、お詫が適って、
お赦免になるでございましょう。


  帝

いや。思い掛けぬ失錯を教えられて恐懼(きょうく)に堪えぬ。
寄附の地所の境界は、お前勝手に極(き)めてくれい。


  大司祭

先ず取り敢えず、あの罪悪の場所であった、
咀われた土地を、なるべく早く、尊い祭の場所にすると、
御沙汰をなされて下さりませ。厚い石壁が忽(たちま)ち聳え、
歌者(かしゃ)の座に朝日がさし込み、段々建て添えられる寺院が
十字形に広がり、信者のいる中の間(ま)が延び、高まり、
歓喜する信者の群が、
熱心に立派な門から籠み入って、
天に聳立つ塔の上から、鳴り響く第一の鐘の音が、
山にも谷にも聞え渡り、再造の恩が受けたさに、
懺悔(ざんげ)の民が寄って来るのが、もう心に浮んで来る。
どうぞこの霊場の落成の日に早く逢いたい。
(かみ)の御臨場が当日の最大の光栄でござりましょう。


  帝

なるほど神の徳を称え、己の罪障を消滅させるには、
そんな大工事で、真心を広く知らせるも好かろう。
(よ)い。己の心の澄んで来るのが、もう分かるようだ。


  大司祭

御決裁と文書の作成とを、相国としてお願申します。


  帝

その寄附の合式証書をお前作って、己の前へ持って来い。
己は喜んで署名をいたして遣(つかわ)す。


  大司祭


(暇乞して起ち、出口にて顧みる。)

さて追って出来上がりまする寺院には、
十分(ぶ)一金、利足金、上納金なんど、一切の租税を、
永遠に御免除下さりませ。立派に維持してまいるにも、
綿密に経営いたすにも、大した費用が掛かります。
かような荒地へ、至急に工事をいたすには、
戦利品の財宝を多少お下渡(さげわた)し下さりませ。
その外遠方の材木、石炭、スレエトなんぞを使うと申すことも、
申し上げずには置かれません。
運搬だけは、説教いたして、人民に負担いたさせます。
冥加(みょうが)のために運んで来て、祝福を受けるのでござります。

(退場。)



  帝

いや。己の身に負った罪は重くて大きい。
風来の魔法使奴が己にえらい迷惑を掛けおった。


  大司祭


(また帰り来て、最敬礼を行ひつゝ。)

今一つ申し上げます。あの評判の悪い男に、
全国の海岸をお遣(つかわ)しになりましたね。
あそこの十分(ぶ)一金、利足金、上納金、一切の租税も、懺悔の思召で、
寺院へ御寄附なさらぬと、あの男が寺院の罰を受けます。


  帝(不機嫌に。)

あれはまだ海の底で、土地にはなっていないのだ。


  大司祭

権利を戴いて忍耐していれば、時節が参るのでござります。
お詞は有功だと、わたくし共は心得ておりましょう。

(退場。)



  帝(一人残る。)

あの様子では国を皆遣っても満足はすまいなあ。








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