ファウスト ゲーテ(下巻)







  埋葬





  死霊(単吟。)

こんなにまずい家の普請を誰がした。
鋤で、鍬で。


  死霊等(合唱。)

麻の襦袢(じゅばん)の陰気男のお前には
ちと出来過ぎた。


  死霊(単吟。)

こんなにけちな座敷の飾を誰がした。
(つくえ)もない、椅子もない。


  死霊等(合唱。)

ありゃちょいとの間借りたのだ。
掛取共の多いこと。


  メフィストフェレス

体は倒れている。霊が逃げようとしている。
早くあの血で書いた手形を見せよう。
どうも此頃は悪魔の手から霊を取り上げるに、
色々な手段があって困る。
もう昔の流儀では間に合わない。
新しい流儀にはまだ慣れていない。
昔は己がひとりで遣ったが、
今は手伝を連れて来なくちゃならない。

どうも己達は何をするにも都合が悪くなった。
在来の習慣も、昔の権利も、
何一つ引当(ひきあて)にすることが出来ない。
元は極(き)まって最後の息と一しょに飛び出すのを、
己が待ち受けていて、極(ごく)すばしこい鼠のように、
ひょいと、堅く握った拳の中に攫(つか)むのだった。
所が今では霊奴(れいめ)が用心深くなって、
陰気な場所を、厭(いや)な死骸の、胸の悪い家を容易に出ない。
とうとう互に嫉(にく)み合う元素が、
情なくもそいつを逐い出してしまうのだ。
そこで朝から晩まで己は苦労するのだが、
いつ、どんな風に、どこから出るかが、厄介な問題だ。
死と云う古い奴(やつ)がすばやい力を亡くしてからは、
果して死んだかと云う事からが、長い間疑わしい。
己がしゃっちこ張った体に色目を使っていると、
それはただ見掛(みかけ)だけで、そろそろ動き出すことがある。

(羽の生えたる神人の如き、奇怪なる呪咀(じゅそ)の挙動。)

さっさと遣って来い。もっと駈足をして来い。
角の直(すぐ)な先生に、角の曲った先生。
どれもどれも、正真正銘の悪魔の門閥家だ。
ついでに地獄の顎(あご)も持って来い。
勿論地獄には顎が沢山、沢山ある。
そいつが身分次第、位階次第で呑み込むのだ。
だが未来へ逐い込む、この最後の洒落を遣るのに、
格別窮屈に選(よ)り分けるわけではない。

(左の方(かた)に恐るべき地獄の顎開(ひら)く。)

や。地獄の口の糸切歯が開(あ)いた。
(のど)の天井から恐ろしい勢で火焔(かえん)が涌き出る。
そしてその奥の沸き返る蒸気の中に、
永遠に燃えている、炎(ほのお)の城が己に見える。
赤い波が歯の直(じき)(うしろ)まで打ち寄せて来る。
(のろ)われた奴等が助かりたさに泳ぎ附く。
ところをハイエナの牙めく牙にひどく噬(か)まれて、
奴等は心細い、火の中の彷徨(さまよい)をまた繰り返す。
あの隅々にはまだ気の附かなかった物を
沢山に見ることが出来る。狭い間(あいだ)に許多(あまた)の恐怖がある。
まあ、こんな風に罪人共を威(おど)かすも好かろう。
どうせ夢だ、まやかしだとしか思ゃあしない。

(短き直なる角の胖大鬼等に。)

おい。火のような頬っぺたをした、太った横著者共。
硫黄で肥えて、好く燃えているぞ。
短い、動いたことのない、木の株のような項(うなじ)をしているな。
今に燐のように光る物が出るから、
ここの下の所で待っていろ。それが霊(れい)だ。
羽の生えたプシヘエだ、それをむしると、きたない蛆(うじ)になる。
己がそいつに極印を打って遣る。
その時火炎の渦巻く中を持って逃げて貰うのだ。

なんでも体の下の方(ほう)に気を附けていろ。
食もたれ奴。それがお前達の職分だ。
霊殿(れいどの)がその辺にお住いになっているか、
それはしかとは分からない。なんでも臍(へそ)には住みたがる奴だ。
あそこから飛び出すかも知れないから、
好く気を附けているのだぞ。

(長く曲れる角を戴ける痩鬼等に。)

そっちの風来もの共。羽の生えた巨人(おおひと)共。
お前達は止所(とめど)なく虚空を攫んで見てくれ。
(ひじ)をずっと伸ばして、尖った爪を見せて、
ふらふら飛んで逃げる奴を掴まえてくれなくちゃならない。
奴は古家の中にいるのが厭に違(ちがい)ない。
それに天才と云う奴はすぐ上へ抜けたがるのだ。

(上右の方より光明さす。)



  天人の群

罪人(つみびと)(ゆる)し、
塵に命あらせんため、
ゆるやかに天翔(あまがけ)り来(こ)よ。
御使(みつかい)よ。
(あま)の族(うから)よ。
たゆたふ列(つら)
(そら)に漂ふ隙に、
あらゆる物の上に
やさしき痕を留めよ。


  メフィストフェレス

厭な音(おと)が聞えるぞ。溜まらない調子だ。
待ちもしない夜明と一しょに上の方から来おる。
敬虔がる趣味の奴に気に入りそうな、
野郎とも娘っ子とも附かない歌いざまだ。
己達がやけになって、人間の根だやしをしようと思ったことは、
お前達も知っているはずだ。
なんでも己達の工夫した、一番ひどい罪悪を、
奴等は祈って救うに丁度好いとしている位だ。
畜生奴。陰険に遣って来やがる。
これまで幾人横取をして行かれたか知れない。
己達の武器を、奴等は使って、己達を退治るのだ。
あいつ等もやっぱり悪魔だ。ただ仮面(めん)を被っているだけだ。
ここで負けようものなら、永遠な恥辱だ。
墓の側へ寄って、穴の縁(ふち)をしっかり守っていろ。


  合唱する天使等(薔薇の花を蒔(ま)く。)

色赫(かがや)ける、
高き香(か)送る薔薇(そうび)の花よ。
閃き、漂ひ、
みそかに物を活かすものよ。
小枝を翼とせる、
(つぼみ)の封(ふう)の披(ひら)かれたるものよ。
(と)く往きて花咲け。

春よ。芽ぐめ。
紅に、はた緑に。
楽土を
憩へるものに与へよ。


  メフィストフェレス(悪魔等に。)

なんだって屈(こご)んだり、びく附いたりするのだ。
それが地獄の流儀かい。蒔くなら蒔かせて、こたえていろ。
銘々持場に就くのだ。
多分奴等は、こんな花を雪のように降らして、
火のような悪魔を埋めてしまう積(つもり)だろう。
お前達が息をすれば、融けて縮(ちぢ)れてしまうのだ。
ぷっぷと吹くのだ。頬膨奴(ほおふくれめ)。それで好(い)い、好(い)い。
お前達の息で飛んでくる花の色が皆褪(さ)める。
そうひどく遣るな。鼻を塞いで、口を締めい。
やれやれ、余りひどく吹き過ぎたのだ。
どうも程と云うものを知らぬから困る。
(ちぢ)れたばかりなら好(い)いが、乾いて、茶色になって、燃えるわ。
もう毒々しい赤い火になって、飛んで来る。
皆固まっていて、こたえろ。
や。勢が挫けたな。丸で意気地がなくなった。悪魔共。
そろそろへんな不気味な熱さを感じて来おったな。


  天使等(合唱。)

尊き花弁(はなびら)
悦ばしき炎は
愛を広く世に施し、
心の願ふ
(よろこび)を生ぜしむ。
(まこと)の詞(ことば)
澄めるこう気の中に、
とはの天人の群に、
到る処に曙光を仰がしむ。


  メフィストフェレス

馬鹿者共、咀われていろ。恥をかきおれ。
悪魔ともあろうものが逆立をして、
不細工な体で翻筋斗(とんぼがえり)をして、
けつから先(さき)へ地獄に堕ちて往きゃあがる。
自業自得の熱い湯に難有(ありがた)く這入るが好(い)い。
己はここにこたえているぞ。

(漂ひ来る花を払ひ/\。)

鬼火奴。逃げんか。どんなに光っても、
握ると、胸の悪い、べとべとした物になるのだ。
何をふら附くのだ。引っ込まんか。
厭に 児(ちゃん)か硫黄のように、項に引っ附きゃあがる。


  天使等(合唱。)

汝達(なんたち)の物ならぬ物をば
汝達避(さ)けでは適(かな)はじ。
汝達の心を乱るものをば
汝達の受け容るべきことかは。
さはれ尚力強く迫り来んときは、
我等心を励さでは適はじ。
愛する人をば
たゞ愛のみ引き入るゝものぞ。


  メフィストフェレス

ああ。頭が燃える。胸が、肝(きも)が燃える。
悪魔以上の火だ。
地獄の火よりよほど痛い。
お前達、失恋の人達が、棄てられて、
首を捩じ向けて、恋人の方(ほう)を見て、
恐ろしく苦しがるのは、こんな火のせいだね。

己もへんだぞ。妙にあっちへ顔が向けたくなる。
あいつ等と仲直りの出来ぬ喧嘩をしている己ではないか。
いつも見ると、ひどく厭なのだがな。
なんだかおつな物が己の体に染み渡ったようだぞ。
己はあの妙に愛くるしい餓鬼共が見たくてならない。
何もここで悪態を衝いてならんと云うわけはあるまい。
もし己が旨くぼかされてしまったら、
跡になって馬鹿だと云われるのは誰だろう。
大嫌な横著小僧共。
どうも厭に愛くるしく見えてならないぞ。

おい。綺麗な餓鬼共。己に言ってくれ。
お前達もやっぱりルチフェルの裔(すえ)ではないか。
いかにも可哀らしいなあ。ほんにキスでもして遣りたい。
丁度好い所へ来てくれたように思われてならぬ。
なんだか内証らしく、小猫のように、物欲しげな様子が、
もう千遍も見たことがあるようで、
己は気楽に、好い心持になった。
見れば見る程美しくなりゃあがる。
もっと傍へ来ないかい。己を一目見てくれんかい。


  天使等

往きますとも。なぜあなたお逃(にげ)なさるの。
今傍へ往きますから、そこにいられるなら、おいでなさい。

(天使等回旋しつゝ、この場所を全く填(うず)む。)



  メフィストフェレス


(舞台の前端へ押し出さる。)

お前達は己達を咀われた霊だと云っているが、
そっちの方(ほう)が本当の魔法使(つかい)だ。なぜと云って見ろ。
お前達は男をも女をも迷わすのだ。
己はなんと云う怪しからん目に逢う事だろう。
一体この火が愛情の元素なのかい。
己は体中(からだじゅう)がその火のようになっているから、
項に焼け附くのが分からん位だ。
そんなにふらふら往ったり来たりしないで、降りて来い。
そしてその可哀らしい手足を、少し人間らしく働かさないか。
実にその真面目くさった所が似合っているなあ。
だが一度で好(い)いから、ちょっと笑って見せてくれ。
そうしたらどんなにか己が喜ぶだろう。
あの色気のある奴が互に見交す目附(めつき)だ。あれがして貰いたい。
口の角(すみ)をちょっと引き吊らせてくれれば好(い)いのだ。
おい。そこの背の高い小僧。
己は貴様が一番好(すき)だ。その坊主面はちっとも似合ってはいない。
少し色気のある目で見ないかい。
それにもっと肌の見えるような風が出来そうなものだ。
その長い、襞のある襦袢は行儀が好過ぎる。
おや。あっちへ向いたな。餓鬼奴。
旨そうな背後附(うしろつき)をしていやがるなあ。


  合唱する天使等

愛の炎等よ。
いざ澄む方(かた)へ向け。
(おのれ)を咀ふもの等を、
(まこと)よ、救へ。
かくて喜ばしく
悪を逃れて、
諸共に
救はれよ。


  メフィストフェレス


(気を取り直す。)

己は妙な気がするぞ。体中が、ヒオップのように、
火ぶくれだらけになって、自分でも気味が悪いが、
同時にまた自分を底まで見窮めて、
自分と自分の種族とに信頼して、凱歌を奏しているのだ。
悪魔の高尚な部分は助かって、
愛の祟が皮の上に出た。
もう厭な火は燃えてしまった。
そこで己はお前達一同を咀って遣る。それが当然なのだ。


  合唱する天使等

(せい)なる火よ。
周囲(めぐり)にその火の燃えなむ人は、
世にありて、善き人と共に
安らかに思ひてぞあるべき。
汝達諸共に
起ちて称へよ。
風は浄められたり。
霊よ、息衝け。

(天使等ファウストの不死の霊を取り持ちて空に升(のぼ)り去る。)



  メフィストフェレス


(あたりを見廻す。)

はてな、どうしたのだ。どこへ行ってしまったのだ。
丁年未満の奴等。出し抜けに来やがって、
(えもの)をさらって天へ升って行きゃあがったな。
道理でこの墓の傍で、撮食(つまみぐい)をしそうにしていたのだ。
己はたった一つの大きな霊を取られてしまった。
己の質に取って置いた、高尚な霊なのを、
それをすばしこく掻(か)っ撈(さら)って行きやがったな。

そこで誰に苦情を持ち込んだら好(い)いだろう。
誰が己の已得権を恢復してくれるだろう。
手前、年が寄って人に騙さりゃあがったぞ。
自業自得だ。ひどく景気が悪いぞ。
己は馬鹿げた下手を遣った。外聞の悪い。
大為事(おおしごと)が無駄になってしまった。
不仁身(ふじみ)になっている悪魔のくせに、
劣情や無意味な色気を出したからな。
世間を知った己が、子供らしい、
途方もない事に掛かり合っていて見れば、
跡になって、己のした馬鹿さ加減は、
小さくない事になるのだて。







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