宮沢賢治 『春と修羅』





風景とオルゴール



 
 



不貪慾戒



油紙を着てぬれた馬に乗り
つめたい風景のなか 暗い森のかげや
ゆるやかな環状削剥(くわんじやうせうはく)の丘 赤い萱の穂のあひだを
ゆつくりあるくといふこともいゝし
黒い多面角の洋傘(かうもりがさ)をひろげ
砂砂(すなさ)糖を買ひに町へ出ることも
ごく新鮮な企画である
   (ちらけろちらけろ 四十雀)
粗剛なオリザサチバといふ植物の人工群落が
タアナアさへもほしがりさうな
上等のさらどの色になつてゐることは
慈雲尊者(じうんそんじや)にしたがへば
不貪慾戒(ふとんよくかい)のすがたです
   (ちらけろちらけろ 四十雀(しじふから)
    そのときの高等遊民は
    いましつかりした執政官だ)
ことことと寂しさを噴く暗い山に
防火線のひらめく灰いろなども
慈雲尊者にしたがへば
不貪慾戒のすがたです


(一九二三、八、二八)
 
 



雲とはんのき



雲は羊毛とちぢれ
黒緑赤楊(はん)のモザイツク
またなかぞらには氷片の雲がうかび
すすきはきらつと光つて過ぎる
  北ぞらのちぢれ羊から
   おれの崇敬は照り返され
   天の海と窓の日おほひ
   おれの崇敬は照り返され
沼はきれいに鉋をかけられ
朧ろな秋の水ゾルと
つめたくぬるぬるした蓴(じゆん)菜とから組成され
ゆふべ一晩の雨でできた
陶庵だか東庵だかの蒔絵の
精製された水銀の川です
アマルガムにさへならなかつたら
銀の水車でもまはしていい
無細工な銀の水車でもまはしていい
   (赤紙をはられた火薬車だ
    あたまの奥ではもうまつ白に爆発してゐる)
無細工の銀の水車でもまはすがいい
カフカズ風に帽子を折つてかぶるもの
感官のさびしい盈虚のなかで
貨物車輪の裏の秋の明るさ
  (ひのきのひらめく六月に
   おまへが刻んだその線は
   やがてどんな重荷になつて
   おまへに男らしい償ひを強ひるかわからない)
 手宮文字です 手宮文字です
こんなにそらがくもつて来て
山も大へん尖つて青くくらくなり
豆畑だつてほんたうにかなしいのに
わづかにその山稜と雲との間には
あやしい光の微塵にみちた

幻惑の天がのぞき
またそのなかにはかがやきまばゆい積雲の一列が
こころも遠くならんでゐる
これら葬送行進曲の層雲の底
鳥もわたらない清澄(せいとう)な空間を
わたくしはたつたひとり
つぎからつぎと冷たいあやしい幻想を抱きながら
一梃のかなづちを持つて
南の方へ石灰岩のいい層を
さがしに行かなければなりません


(一九二三、八、三一)
 
 



宗教風の恋



がさがさした稲もやさしい油緑(ゆりよく)に熟し
西ならあんな暗い立派な霧でいつぱい
草穂はいちめん風で波立つてゐるのに
可哀さうなおまへの弱いあたまは
くらくらするまで青く乱れ
いまに太田武か誰かのやうに
眼のふちもぐちやぐちやになつてしまふ
ほんたうにそんな偏つて尖つた心の動きかたのくせ
なぜこんなにすきとほつてきれいな気層のなかから
燃えて暗いなやましいものをつかまへるか
信仰でしか得られないものを
なぜ人間の中でしつかり捕へようとするか
風はどうどう空で鳴つてるし
東京の避難者たちは半分脳膜炎になつて
いまでもまいにち遁げて来るのに
どうしておまへはそんな医される筈のないかなしみを
わざとあかるいそらからとるか
いまはもうさうしてゐるときでない
けれども悪いとかいゝとか云ふのではない
あんまりおまへがひどからうとおもふので
みかねてわたしはいつてゐるのだ
さあなみだをふいてきちんとたて
もうそんな宗教風の恋をしてはいけない
そこはちやうど両方の空間が二重になつてゐるとこで
おれたちのやうな初心のものに
居られる場処では決してない


(一九二三、九、一六)
 
 



風景とオルゴール



爽かなくだもののにほひに充ち
つめたくされた銀製の薄明穹(はくめいきゆう)
雲がどんどんかけてゐる
黒曜(こくえう)ひのきやサイプレスの中を
一疋の馬がゆつくりやつてくる
ひとりの農夫が乗つてゐる
もちろん農夫はからだ半分ぐらゐ
(こ)だちやそこらの銀のアトムに溶け
またじぶんでも溶けてもいいとおもひながら
あたまの大きな曖昧な馬といつしよにゆつくりくる
首を垂れておとなしくがさがさした南部馬
黒く巨きな松倉山のこつちに
一点のダアリア複合体
その電燈の企画(プラン)なら
じつに九月の宝石である
その電燈の献策者に
わたくしは青い蕃茄(トマト)を贈る
どんなにこれらのぬれたみちや
クレオソートを塗つたばかりのらんかんや
電線も二本にせものの虚無(きよむ)のなかから光つてゐるし
風景が深く透明にされたかわからない
下では水がごうごう流れて行き
薄明穹の爽かな銀と苹果とを
黒白鳥のむな毛の塊が奔り
  ああ お月さまが出てゐます
ほんたうに鋭い秋の粉や
玻璃末(はりまつ)の雲の稜に磨かれて
紫磨銀彩(しまぎんさい)に尖つて光る六日の月
橋のらんかんには雨粒がまだいつぱいついてゐる
なんといふこのなつかしさの湧きあがり
水はおとなしい膠朧体だし
わたくしはこんな過透明(くわとうめい)な景色のなかに
松倉山や五間森(ごけんもり)荒つぽい石英安山岩(デサイト)の岩頸から
放たれた剽悍な刺客に
暗殺されてもいいのです
  (たしかにわたくしがその木をきつたのだから)
   (杉のいただきは黒くそらの椀を刺し)
風が口笛をはんぶんちぎつて持つてくれば
  (気の毒な二重感覚の機関)
わたくしは古い印度の青草をみる
崖にぶつつかるそのへんの水は
葱のやうに横に外(そ)れてゐる
そんなに風はうまく吹き
半月の表面はきれいに吹きはらはれた
だからわたくしの洋傘は
しばらくぱたぱた言つてから
ぬれた橋板に倒れたのだ
松倉山松倉山尖つてまつ暗な悪魔蒼鉛の空に立ち
電燈はよほど熟してゐる
風がもうこれつきり吹けば
まさしく吹いて来る劫(カルパ)のはじめの風
ひときれそらにうかぶ暁のモテイーフ
電線と恐ろしい玉髄(キヤルセドニ)の雲のきれ
そこから見当のつかない大きな青い星がうかぶ
   (何べんの恋の償ひだ)
そんな恐ろしいがまいろの雲と
わたくしの上着はひるがへり
   (オルゴールをかけろかけろ)
月はいきなり二つになり
盲ひた黒い暈をつくつて光面を過ぎる雲の一群
   (しづまれしづまれ五間森
    木をきられてもしづまるのだ)


(一九二三、九、一六)
 
 



風の偏倚



風が偏倚して過ぎたあとでは
クレオソートを塗つたばかりの電柱や
逞しくも起伏する暗黒山稜(あんこくさんりよう)
  (虚空は古めかしい月汞(げつこう)にみち)
研ぎ澄まされた天河石天盤の半月
すべてこんなに錯綜した雲やそらの景観が
すきとほつて巨大な過去になる
五日の月はさらに小さく副生し
意識のやうに移つて行くちぎれた蛋白彩の雲
月の尖端をかすめて過ぎれば
そのまん中の厚いところは黒いのです
(風と嘆息(たんそく)との中(なか)にあらゆる世界の因子(いんし)がある)
きららかにきらびやかにみだれて飛ぶ断雲と
星雲のやうにうごかない天盤附属の氷片の雲
  (それはつめたい虹をあげ)
いま硅酸の雲の大部が行き過ぎようとするために
みちはなんべんもくらくなり
   (月あかりがこんなにみちにふると
    まへにはよく硫黄のにほひがのぼつたのだが
    いまはその小さな硫黄の粒も
    風や酸素に溶かされてしまつた)
じつに空は底のしれない洗ひがけの虚空で
月は水銀を塗られたでこぼこの噴火口からできてゐる
   (山もはやしもけふはひじやうに峻儼だ)
どんどん雲は月のおもてを研いで飛んでゆく
ひるまのはげしくすさまじい雨が
微塵からなにからすつかりとつてしまつたのだ
月の彎曲の内側から
白いあやしい気体が噴かれ
そのために却つて一きれの雲がとかされて
  (杉の列はみんな黒真珠の保護色)
そらそら B氏のやつたあの虹の交錯や顫ひと
苹果の未熟なハロウとが
あやしく天を覆ひだす
杉の列には山烏がいつぱいに潜(ひそ)
ペガススのあたりに立つてゐた
いま雲は一せいに散兵をしき
極めて堅実にすすんで行く
おゝ私のうしろの松倉山には
用意された一万の硅化流紋凝灰岩の弾塊があり
川尻断層のときから息を殺してしまつてゐて
私が腕時計を光らし過ぎれば落ちてくる
空気の透明度は水よりも強く
松倉山から生えた木は
敬虔に天に祈つてゐる
辛うじて赤いすすきの穂がゆらぎ
  (どうしてどうして松倉山の木は
   ひどくひどく風にあらびてゐるのだ
   あのごとごといふのがみんなそれだ)
呼吸のやうに月光はまた明るくなり
雲の遷色とダムを超える水の音
わたしの帽子の静寂と風の塊
いまくらくなり電車の単線ばかりまつすぐにのび
 レールとみちの粘土の可塑性
月はこの変厄のあひだ不思議な黄いろになつてゐる


(一九二三、九、一六)
 
 







沈んだ月夜の楊の木の梢に
二つの星が逆さまにかかる
  (昴(すばる)がそらでさう云つてゐる)
オリオンの幻怪と青い電燈
また農婦のよろこびの
たくましくも赤い頬
風は吹く吹く 松は一本立ち
山を下る電車の奔り
もし車の外に立つたらはねとばされる
山へ行つて木をきつたものは
どうしても帰るときは肩身がせまい
  (ああもろもろの徳は善逝(スガタ)から来て
   そしてスガタにいたるのです)
腕を組み暗い貨物電車の壁による少年よ
この籠で今朝鶏を持つて行つたのに
それが売れてこんどは持つて戻らないのか
そのまつ青な夜のそば畑のうつくしさ
電燈に照らされたそばの畑を見たことがありますか
市民諸君よ
おおきやうだい これはおまへの感情だな
市民諸君よなんてふざけたものの云ひやうをするな
東京はいま生きるか死ぬかの堺なのだ
見たまへこの電車だつて
軌道から青い火花をあげ
もう蝎かドラゴかもわからず
一心に走つてゐるのだ
  (豆ばたけのその喪神(さうしん)のあざやかさ)
どうしてもこの貨物車の壁はあぶない
わたくしが壁といつしよにここらあたりで
投げだされて死ぬことはあり得過ぎる
金をもつてゐるひとは金があてにならない
からだの丈夫なひとはごろつとやられる
あたまのいいものはあたまが弱い
あてにするものはみんなあてにならない
たゞもろもろの徳ばかりこの巨きな旅の資糧で
そしてそれらもろもろの徳性は
善逝(スガタ)から来て善逝(スガタ)に至る


(一九二三、九、一六)
 
 



第四梯形



   青い抱擁衝動や
   明るい雨の中のみたされない唇が
   きれいにそらに溶けてゆく
   日本の九月の気圏です
そらは霜の織物をつくり
(かや)の穂の満潮(まんてう)
     (三角山(さんかくやま)はひかりにかすれ)
あやしいそらのバリカンは
白い雲からおりて来て
早くも七つ森第一梯形(ていけい)
松と雑木(ざふぎ)を刈(か)りおとし
   野原がうめばちさうや山羊の乳や
   沃度の匂で荒れて大へんかなしいとき
   汽車の進行ははやくなり
   ぬれた赤い崖や何かといつしよに
七つ森第二梯形の
新鮮な地被(ちひ)が刈り払はれ
手帳のやうに青い卓状台地(テーブルランド)
まひるの夢をくすぼらし
ラテライトのひどい崖から
梯形第三のすさまじい羊歯や
こならやさるとりいばらが滑り
   (おお第一の紺青の寂寥)
縮れて雲はぎらぎら光り
とんぼは萱の花のやうに飛んでゐる
   (萱の穂は満潮
    萱の穂は満潮)
一本さびしく赤く燃える栗の木から
七つ森の第四伯林青(べるりんせい)スロープは
やまなしの匂の雲に起伏し
すこし日射しのくらむひまに
そらのバリカンがそれを刈る
    (腐植土のみちと天の石墨)
夜風太郎の配下と子孫とは
大きな帽子を風にうねらせ
落葉松のせはしい足なみを
しきりに馬を急がせるうちに
早くも第六梯形の暗いリパライトは
ハツクニーのやうに刈られてしまひ
ななめに琥珀の陽(ひ)も射して
  たうとうぼくは一つ勘定をまちがへた
   第四か第五かをうまくそらからごまかされた
どうして決して そんなことはない
いまきらめきだすその真鍮の畑の一片から
明暗交錯のむかふにひそむものは
まさしく第七梯形の
雲に浮んだその最後のものだ
緑青を吐く松のむさくるしさと
ちぢれて悼む 雲の羊毛
    (三角(さんかく)やまはひかりにかすれ)


(一九二三、九、三〇)
 
 



火薬と紙幣



萱の穂は赤くならび
雲はカシユガル産の苹果の果肉よりもつめたい
鳥は一ぺんに飛びあがつて
ラツグの音譜をばら撒きだ
   古枕木を灼いてこさへた
   黒い保線小屋の秋の中では
   四面体聚形(しゆうけい)の一人の工夫が
   米国風のブリキの缶で
   たしかメリケン粉を捏(こ)ねてゐる
鳥はまた一つまみ 空からばら撒かれ
一ぺんつめたい雲の下で展開し
こんどは巧に引力の法則をつかつて
遠いギリヤークの電線にあつまる
   赤い碍子のうへにゐる
   そのきのどくなすゞめども
   口笛を吹きまた新らしい濃い空気を吸へば
   たれでもみんなきのどくになる
森はどれも群青に泣いてゐるし
松林なら地被もところどころ剥げて
酸性土壌ももう十月になつたのだ
   私の着物もすつかり thread-bare
   その陰影のなかから
   逞ましい向ふの土方がくしやみをする
氷河が海にはひるやうに
白い雲のたくさんの流れは
枯れた野原に注いでゐる
  だからわたくしのふだん決して見ない
  小さな三角の前山なども
  はつきり白く浮いてでる
栗の梢のモザイツクと
鉄葉細工(ぶりきざいく)のやなぎの葉
水のそばでは堅い黄いろなまるめろが
枝も裂けるまで実つてゐる
   (こんどばら撒いてしまつたら……
    ふん ちやうど四十雀のやうに)
雲が縮れてぎらぎら光るとき
大きな帽子をかぶつて
野原をおほびらにあるけたら
おれはそのほかにもうなんにもいらない
火薬も燐も大きな紙幣もほしくない


(一九二三、一〇、一〇)
 
 



過去情炎



截られた根から青じろい樹液がにじみ
あたらしい腐植のにほひを嗅ぎながら
きらびやかな雨あがりの中にはたらけば
わたくしは移住の清教徒(ピユリタン)です
雲はぐらぐらゆれて馳けるし
梨の葉にはいちいち精巧な葉脈があつて
短果枝には雫がレンズになり
そらや木やすべての景象ををさめてゐる
わたくしがここを環に掘つてしまふあひだ
その雫が落ちないことをねがふ
なぜならいまこのちひさなアカシヤをとつたあとで
わたくしは鄭重(ていちよう)にかがんでそれに唇をあてる
えりをりのシヤツやぼろぼろの上着をきて
企らむやうに肩をはりながら
そつちをぬすみみてゐれば
ひじやうな悪漢(わるもの)にもみえようが
わたくしはゆるされるとおもふ
なにもかもみんなたよりなく
なにもかもみんなあてにならない
これらげんしやうのせかいのなかで
そのたよりない性(せい)質が
こんなきれいな露になつたり
いぢけたちひさなまゆみの木を
(べに)からやさしい月光いろまで
豪奢な織物に染めたりする
そんならもうアカシヤの木もほりとられたし
いまはまんぞくしてたうぐはをおき
わたくしは待つてゐたこひびとにあふやうに
鷹揚(おうやう)にわらつてその木のしたへゆくのだけれども
それはひとつの情炎(じやうえん)
もう水いろの過去になつてゐる


(一九二三、一〇、一五)
 
 



一本木野



松がいきなり明るくなつて
のはらがぱつとひらければ
かぎりなくかぎりなくかれくさは日に燃え
電信ばしらはやさしく白い碍子をつらね
ベーリング市までつづくとおもはれる
すみわたる海蒼(かいさう)の天と
きよめられるひとのねがひ
からまつはふたたびわかやいで萌え
幻聴の透明なひばり
七時雨(ななしぐれ)の青い起伏は
また心象のなかにも起伏し
ひとむらのやなぎ木立は
ボルガのきしのそのやなぎ
天椀(てんわん)の孔雀石にひそまり
薬師岱赭(やくしたいしや)のきびしくするどいもりあがり
火口の雪は皺ごと刻み
くらかけのびんかんな稜(かど)
青ぞらに星雲をあげる
   (おい かしは
    てめいのあだなを
    やまのたばこの木つていふつてのはほんたうか)
こんなあかるい穹窿(きゆうりゆう)と草を
はんにちゆつくりあるくことは
いつたいなんといふおんけいだらう
わたくしはそれをはりつけとでもとりかへる
こひびととひとめみることでさへさうでないか
   (おい やまのたばこの木
    あんまりへんなをどりをやると
    未来派だつていはれるぜ)
わたくしは森やのはらのこひびと
(よし)のあひだをがさがさ行けば
つつましく折られたみどりいろの通信は
いつかぽけつとにはひつてゐるし
はやしのくらいとこをあるいてゐると
三日月(みかづき)がたのくちびるのあとで
肱やずぼんがいつぱいになる


(一九二三、一〇、二八)
 
 



鎔岩流



喪神のしろいかがみが
薬師火口のいただきにかかり
日かげになつた火山礫堆(れきたい)の中腹から
畏るべくかなしむべき砕塊熔岩(ブロツクレーバ)の黒
わたくしはさつきの柏や松の野原をよぎるときから
なにかあかるい曠原風の情調を
ばらばらにするやうなひどいけしきが
展かれるとはおもつてゐた
けれどもここは空気も深い淵になつてゐて
ごく強力な鬼神たちの棲みかだ
一ぴきの鳥さへも見えない
わたくしがあぶなくその一一の岩塊(ブロツク)をふみ
すこしの小高いところにのぼり
さらにつくづくとこの焼石のひろがりをみわたせば
雪を越えてきたつめたい風はみねから吹き
雲はあらはれてつぎからつぎと消え
いちいちの火山塊(ブロツク)の黒いかげ
貞享四年のちひさな噴火から
およそ二百三十五年のあひだに
空気のなかの酸素や炭酸瓦斯
これら清洌な試薬(しやく)によつて
どれくらゐの風化(ふうくわ)が行はれ
どんな植物が生えたかを
見ようとして私(わたし)の来たのに対し
それは恐ろしい二種の苔で答へた
その白つぽい厚いすぎごけの
表面がかさかさに乾いてゐるので
わたくしはまた麺麭ともかんがへ
ちやうどひるの食事をもたないとこから
ひじやうな饗応(きやうおう)ともかんずるのだが
(なぜならたべものといふものは
 それをみてよろこぶもので
 それからあとはたべるものだから)
ここらでそんなかんがへは
あんまり僭越かもしれない
とにかくわたくしは荷物をおろし
灰いろの苔に靴やからだを埋め
一つの赤い苹果(りんご)をたべる
うるうるしながら苹果に噛みつけば
雪を越えてきたつめたい風はみねから吹き
野はらの白樺の葉は紅(べに)や金(キン)やせはしくゆすれ
北上山地はほのかな幾層の青い縞をつくる
  (あれがぼくのしやつだ
   青いリンネルの農民シヤツだ)


(一九二三、一〇、二八)
 
 



イーハトヴの氷霧



けさはじつにはじめての凜々しい氷霧(ひようむ)だつたから
みんなはまるめろやなにかまで出して歓迎した


(一九二三、一一、二二)
 
 



冬と銀河ステーシヨン



そらにはちりのやうに小鳥がとび
かげろふや青いギリシヤ文字は
せはしく野はらの雪に燃えます
パツセン大街道のひのきからは
凍つたしづくが燦々(さんさん)と降り
銀河ステーシヨンの遠方シグナルも
けさはまつ赤(か)に澱んでゐます
川はどんどん氷(ザエ)を流してゐるのに
みんなは生(なま)ゴムの長靴をはき
狐や犬の毛皮を着て
陶器の露店をひやかしたり
ぶらさがつた章魚(たこ)を品さだめしたりする
あのにぎやかな土沢の冬の市日(いちび)です
(はんの木とまばゆい雲のアルコホル
 あすこにやどりぎの黄金のゴールが
 さめざめとしてひかつてもいい)
あゝ Josef Pasternack の指揮する
この冬の銀河軽便鉄道は
幾重のあえかな氷をくぐり
(でんしんばしらの赤い碍子と松の森)
にせものの金のメタルをぶらさげて
茶いろの瞳をりんと張り
つめたく青らむ天椀の下
うららかな雪の台地を急ぐもの
(窓のガラスの氷の羊歯は
 だんだん白い湯気にかはる)
パツセン大街道のひのきから
しづくは燃えていちめんに降り
はねあがる青い枝や
紅玉やトパースまたいろいろのスペクトルや
もうまるで市場のやうな盛んな取引です


(一九二三、一二、一〇)








底本:「宮沢賢治全集1」ちくま文庫、筑摩書房
   1986(昭和61)年2月26日第1刷発行
   1998(平成10)年5月12日第17刷発行
※底本で注を表す記号として用いられていた「※」は「*」に置き換えました。
※底本は、物を数える際や地名などに用いる「ヶ」(区点番号5-86)を、大振りにつくっています。
入力:柴田卓治
校正:かとうかおり
2000年10月4日公開
2011年5月11日修正
青空文庫作成ファイル:
このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。







●表記について

[#…]は、入力者による注を表す記号です。






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