折口信夫 死者の書



死者の書

折口信夫


   一

彼(か)の人の眠りは、徐(しず)かに覚めて行った。まっ黒い夜の中に、更に冷え圧するものの澱(よど)んでいるなかに、目のあいて来るのを、覚えたのである。

した した した。耳に伝うように来るのは、水の垂れる音か。ただ凍りつくような暗闇の中で、おのずと睫(まつげ)と睫とが離れて来る。膝が、肱(ひじ)が、徐(おもむ)ろに埋れていた感覚をとり戻して来るらしく、彼の人の頭に響いて居るもの――。全身にこわばった筋が、僅かな響きを立てて、掌・足の裏に到るまで、ひきつれを起しかけているのだ。

そうして、なお深い闇。ぽっちりと目をあいて見廻す瞳に、まず圧(あっ)しかかる黒い巌(いわお)の天井を意識した。次いで、氷になった岩牀(いわどこ)。両脇に垂れさがる荒石の壁。したしたと、岩伝う雫(しずく)の音。

時がたった――。眠りの深さが、はじめて頭に浮んで来る。長い眠りであった。けれども亦、浅い夢ばかりを見続けて居た気がする。うつらうつら思っていた考えが、現実に繋(つなが)って、ありありと、目に沁(し)みついているようである。

ああ耳面刀自(みみものとじ)。
甦(よみがえ)った語が、彼の人の記憶を、更に弾力あるものに、響き返した。

耳面刀自。おれはまだお前を……思うている。おれはきのう、ここに来たのではない。それも、おとといや、其さきの日に、ここに眠りこけたのでは、決してないのだ。おれは、もっともっと長く寝て居た。でも、おれはまだ、お前を思い続けて居たぞ。耳面刀自。ここに来る前から……ここに寝ても、……其から覚めた今まで、一続きに、一つ事を考えつめて居るのだ。
古い――祖先以来そうしたように、此世に在る間そう暮して居た――習しからである。彼の人は、のくっと起き直ろうとした。だが、筋々が断(き)れるほどの痛みを感じた。骨の節々の挫(くじ)けるような、疼(うず)きを覚えた。……そうして尚、じっと、――じっとして居る。射干玉(ぬばたま)の闇。黒玉の大きな石壁に、刻み込まれた白々としたからだの様に、厳かに、だが、すんなりと、手を伸べたままで居た。耳面刀自の記憶。ただ其だけの深い凝結した記憶。其が次第に蔓(ひろが)って、過ぎた日の様々な姿を、短い聯想(れんそう)の紐(ひも)に貫いて行く。そうして明るい意思が、彼の人の死枯(しにが)れたからだに、再(ふたたび)立ち直って来た。

耳面刀自。おれが見たのは、唯一目――唯一度だ。だが、おまえのことを聞きわたった年月は、久しかった。おれによって来い。耳面刀自。
記憶の裏から、反省に似たものが浮び出て来た。

おれは、このおれは、何処に居るのだ。……それから、ここは何処なのだ。其よりも第一、此おれは誰なのだ。其をすっかり、おれは忘れた。

だが、待てよ。おれは覚えて居る。あの時だ。鴨が声(ね)を聞いたのだっけ。そうだ。訳語田(おさだ)の家を引き出されて、磐余(いわれ)の池に行った。堤の上には、遠捲(とおま)きに人が一ぱい。あしこの萱原(かやはら)、そこの矮叢(ぼさ)から、首がつき出て居た。皆が、大きな喚(おら)び声を、挙げて居たっけな。あの声は残らず、おれをいとしがって居る、半泣きの喚(わめ)き声だったのだ。其でもおれの心は、澄みきって居た。まるで、池の水だった。あれは、秋だったものな。はっきり聞いたのが、水の上に浮いている鴨鳥の声だった。今思うと――待てよ。其は何だか一目惚(ひとめぼ)れの女の哭(な)き声だった気がする。――おお、あれが耳面刀自だ。其瞬間、肉体と一つに、おれの心は、急に締めあげられるような刹那(せつな)を、通った気がした。俄(にわ)かに、楽な広々とした世間に、出たような感じが来た。そうして、ほんの暫らく、ふっとそう考えたきりで……、空も見ぬ、土も見ぬ、花や、木の色も消え去った――おれ自分すら、おれが何だか、ちっとも訣(わか)らぬ世界のものになってしまったのだ。

ああ、其時きり、おれ自身、このおれを、忘れてしまったのだ。
足の踝(くるぶし)が、膝の膕(ひつかがみ)が、腰のつがいが、頸(くび)のつけ根が、顳(こめかみ)が、ぼんの窪が――と、段々上って来るひよめきの為に蠢(うごめ)いた。自然に、ほんの偶然強(こわ)ばったままの膝が、折り屈(かが)められた。だが、依然として――常闇(とこやみ)。

おおそうだ。伊勢の国に居られる貴い巫女(みこ)――おれの姉御。あのお人が、おれを呼び活(い)けに来ている。

姉御。ここだ。でもおまえさまは、尊い御神(おんかみ)に仕えている人だ。おれのからだに、触ってはならない。そこに居るのだ。じっとそこに、踏み止(とま)って居るのだ。――ああおれは、死んでいる。死んだ。殺されたのだ。――忘れて居た。そうだ。此は、おれの墓だ。

いけない。そこを開けては。塚の通い路の、扉をこじるのはおよし。……よせ。よさないか。姉の馬鹿。

なあんだ。誰も、来ては居なかったのだな。ああよかった。おれのからだが、天日(てんぴ)に暴(さら)されて、見る見る、腐るところだった。だが、おかしいぞ。こうつと――あれは昔だ。あのこじあける音がするのも、昔だ。姉御の声で、塚道の扉を叩きながら、言って居たのも今(いんま)の事――だったと思うのだが。昔だ。

おれのここへ来て、間もないことだった。おれは知っていた。十月だったから、鴨が鳴いて居たのだ。其鴨みたいに、首を捻(ね)じちぎられて、何も訣らぬものになったことも。こうつと――姉御が、墓の戸で哭き喚いて、歌をうたいあげられたっけ。「巌岩(いそ)の上に生ふる馬酔木(あしび)を」と聞えたので、ふと、冬が過ぎて、春も闌(た)け初めた頃だと知った。おれの骸(むくろ)が、もう半分融け出した時分だった。そのあと、「たをらめど……見すべき君がありと言はなくに」。そう言われたので、はっきりもう、死んだ人間になった、と感じたのだ。……其時、手で、今してる様にさわって見たら、驚いたことに、おれのからだは、著(き)こんだ著物の下で、(ほじし)のように、ぺしゃんこになって居た――。
臂(かいな)が動き出した。片手は、まっくらな空(くう)をさした。そうして、今一方は、そのまま、岩牀(いわどこ)の上を掻き捜(さぐ)って居る。

うつそみの人なる我や。明日よりは、二上山(ふたかみやま)を愛兄弟(いろせ)と思はむ
誄歌(なきうた)が聞えて来たのだ。姉御があきらめないで、も一つつぎ足して、歌ってくれたのだ。其で知ったのは、おれの墓と言うものが、二上山の上にある、と言うことだ。

よい姉御だった。併し、其歌の後で、又おれは、何もわからぬものになってしまった。

其から、どれほどたったのかなあ。どうもよっぽど、長い間だった気がする。伊勢の巫女様、尊い姉御が来てくれたのは、居睡りの夢を醒(さま)された感じだった。其に比べると、今度は深い睡りの後(あと)見たいな気がする。あの音がしてる。昔の音が――。

手にとるようだ。目に見るようだ。心を鎮めて――。鎮めて。でないと、この考えが、復(また)散らかって行ってしまう。おれの昔が、ありありと訣って来た。だが待てよ。……其にしても一体、ここに居るおれは、だれなのだ。だれの子なのだ。だれの夫(つま)なのだ。其をおれは、忘れてしまっているのだ。
両の臂は、頸の廻り、胸の上、腰から膝をまさぐって居る。そうしてまるで、生き物のするような、深い溜(た)め息(いき)が洩(も)れて出た。

大変だ。おれの著物は、もうすっかり朽(くさ)って居る。おれの褌(はかま)は、ほこりになって飛んで行った。どうしろ、と言うのだ。此おれは、著物もなしに、寝て居るのだ。
筋ばしるように、彼(か)の人のからだに、血の馳(か)け廻るに似たものが、過ぎた。肱(ひじ)を支えて、上半身が闇の中に起き上った。

おお寒い。おれを、どうしろと仰(おっしゃ)るのだ。尊いおっかさま。おれが悪かったと言うのなら、あやまります。著物を下さい。著物を――。おれのからだは、地べたに凍りついてしまいます。
彼の人には、声であった。だが、声でないものとして、消えてしまった。声でない語(ことば)が、何時までも続いている。

くれろ。おっかさま。著物がなくなった。すっぱだかで出て来た赤ん坊になりたいぞ。赤ん坊だ。おれは。こんなに、寝床の上を這いずり廻っているのが、だれにも訣らぬのか。こんなに、手足をばたばたやっているおれの、見える奴が居ぬのか。
その唸(うめ)き声のとおり、彼の人の骸は、まるでだだをこねる赤子のように、足もあががに、身あがきをば、くり返して居る。明りのささなかった墓穴の中が、時を経て、薄い氷の膜ほど透けてきて、物のたたずまいを、幾分朧(おぼ)ろに、見わけることが出来るようになって来た。どこからか、月光とも思える薄あかりが、さし入って来たのである。

どうしよう。どうしよう。おれは。――大刀までこんなに、錆(さ)びついてしまった……。

   



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