ビクトル・ユーゴー レ・ミゼラブル 第三部 マリユス


   第三編 祖父と孫

     一 古き客間

 ジルノルマン氏はセルヴァンドニ街に住んでいたころ、幾つかのごくりっぱな上流の客間(サロン)に出入りしていた。彼は中流市民ではあったが、拒まれはしなかった。否かえって、彼は二重の機才を、一つは実際持っているものであり一つは持ってると人から思われていたものであるが、二重の機才をそなえていたので、喜んで迎えられ歓待された。彼は自分が羽振りをきかせ得る所へでなければどこへも出入りしなかった。どんな価を払っても常に勢力を欲し常にもてはやされることを欲する者が世にはある。彼らは自分が有力者であり得ない所では、道化物となるものである。ところがジルノルマン氏はそういう性質の人ではなかった。出入りする王党の客間(サロン)における彼の羽振りは、彼の自尊心を少しも傷けないものだった。彼は至る所で有力者だった。ド・ボナルド氏やバンジー・プュイ・ヴァレー氏にまで匹敵するほどになっていた。

 一八一七年ごろ、彼はきまって一週に二回はその午後を、近くのフェルー街のT男爵夫人の家で過ごすことにしていた。彼女はりっぱな尊敬すべき人物で、その夫はルイ十六世の時にベルリン駐剳(ちゅうさつ)のフランス大使だったことがある。このT男爵は、生存中磁気の研究に無我夢中になっていたが、革命時の亡命に零落してしまい、死後に残した財産としてはただ、メスメルとその小桶(訳者注 メスメルは動物磁気研究の開祖)に関するきわめて不思議な記録を赤いモロッコ皮の表紙で金縁にしてとじ上げた、十冊の手記のみだった。T夫人は品位を保ってそれらの記録を出版しなかった、そして、どうして浮き出してきたかだれにもわからないあるわずかな年収入で生活をささえていた。彼女は彼女のいわゆる雑種の社会たる宮廷から離れて、気高い矜(ほこ)らかな貧しい孤立のうちに暮らしていた。一週に二回数人の知人が、その寡婦(かふ)の炉のまわりに集まることになっていて、そこに純粋な王党派の客間(サロン)をこしらえていた。皆お茶を飲んだ。そして時勢だの憲法だのブオナパルト派(訳者注 ブオナパルトはボナパルトの皮肉な呼称)だの青色大綬を市民へ濫発(らんぱつ)することだのルイ十八世のジャコバン主義だのについて、風向きが悲歌的であるか慷慨的(こうがいてき)であるかに従って、あるいは嘆声を放ちあるいは嫌悪(けんお)の叫びを上げた。そしてシャール十世以来初めて王弟によってほの見えてきた希望のことを、低い声で語り合った。

 そこでは、ナポレオンのことをニコラと呼ぶ俗歌が非常に喜ばれた。社交界の最もやさしい美しい公爵夫人らが、「義勇兵ら」(訳者注 ナポレオンがエルバ島より帰還せし時の)に向けられた次のような俗謡に我を忘れて喝采(かっさい)した。

ズボンの中に押し込めよ、

はみ出たシャツの片端を。

白き旗を愛国者らは

掲げたりと人に言わすな。(訳者注 白き旗は王党の旗)

 また人々は、痛烈なものだと思ってる地口を言ってはおもしろがり、皮肉だと思ってる他愛もない洒落言葉(しゃれことば)を言ってはおもしろがり、四行句や対連句を言ってはおもしろがった。たとえばドゥカーズやドゥゼール氏らが連なっていた穏和なデソール内閣についての次のような句。

ぐらつく王位を固めんためには、

土地(ソール)、室(セール)、小屋(カーズ)を取り代うべし。

 あるいはまた、「おぞましきジャコバン院」である上院の名簿を作り、その中に種々な名前を組み合わして、たとえば次のような句をこしらえ上げた。「ダマス、サブラン、グーヴィオン・サン・シール(訳者注 みな王党の人々)。」そして非常に愉快がった。

 その仲間だけでまた革命の道化歌を作った。彼らは革命の暴威をあべこべに革命者どもの方へ向けさせようとする一種の下心を持っていた。人々はその小唄(こうた)の「よからん」を歌った。

(ああ)、よからん、よからん、よからんや!

ブオナパルト派は絞首台!

 小唄は断頭台のようなものである。何らおかまいなしに、今日はこちらの首を切り、明日はあちらの首を切る。それは一つの変化にすぎない。

 当時一八一六年の事件たるフュアルデス事件については(訳者注 行政官フュアルデス暗殺事件)、人々は暗殺者バスティードやジョージオンの味方をした。なぜならフュアルデスは「ブオナパルト派」であったから。また人々は自由派を「兄弟同士」と綽名(あだな)した。それは侮辱の極度のものであった。

 教会堂の鐘楼に鶏形風見があるように、T男爵夫人の客間も二つの勇ましい牡鶏(おんどり)を持っていた。一つはジルノルマン氏で、一つはラモト・ヴァロア伯爵であった。この伯爵のことを人々は一種の敬意をもって互いにささやき合った。「御存じですか、あれが首環事件のラモト氏です」(訳者注 一七八五年ごろラモト伯爵夫人によって惹起せられた有名な首環紛失事件)。仲間の間ではそのような特殊な容捨も行なわれるのである。

 なおここにちょっと付言する。市民間においては、光栄ある地位はあまりに容易な交際を許す時にはその光を減ずるものである。だれに出入りを許すかを注意しなければいけない。冷たいものが近づく時に温気(うんき)が失われるように、一般に軽蔑されてる人物を近づける時には尊敬が減ずるのである。しかし古い上流社会は、他の法則と同じくこの法則をも意に介しなかった。ポンパドゥール夫人の兄弟であるマリニーはスービーズ侯の家に出入りした。兄弟であったけれども、ではない、兄弟であったから、である。ヴォーベルニエ夫人の教父デュ・バリーはリシュリユー元帥の家で歓待された。そういう社会はオリンポスの山である。メルキュール神もゲメネ侯も等しくそこに住む。盗賊であろうとも、それが一個の神でさえあれば、そこに許されるのである。

 ラモト伯爵は、一八一五年には七十五歳の老人で、いくらか人の目につく所と言ってはただ、黙々たるもったいぶった様子と、角立(かどだ)った冷ややかな顔つきと、きわめて丁重な態度と、首の所までボタンをかけた服と、燃えるような濃黄土色の長いだぶだぶのズボンをはいていつも組み合わしてる大きな足だけだった。その顔もズボンと同じ色をしていた。

 ラモト氏がこの客間のうちで「もてて」いたのは、その高名のゆえであり、また言うもおかしいがしかも確かなことは、そのヴァロアという名前のゆえであった。

 ジルノルマン氏の方に対する敬意は、まったく彼のよい地金(じがね)のゆえであった。彼は上に立つべき人だったから上に立っていたのである。彼はごく気軽であり快活であるうちにも、市民的に尊大な威圧的な堂々たる率直な作法を持っていた。その上老年の重みまで加わっていた。人は事なく百年も長生きすることはほとんどできないものである。ついには歳月のために尊むべき蓬髪(ほうはつ)を頭のまわりに生ずるのが普通である。

 その上彼は、まったく昔気質のひらめきとも称すべき名句の才を持っていた。ある時プロシャ王は、ルイ十八世を王位に復してやった後、リュパン伯爵として王を訪問してきたところが、そのルイ十四世大王の後裔(こうえい)たる王によって、かえってブランデンブルグ侯爵として最も微妙な横柄さをもって待遇せられた。ジルノルマン氏はそれを喜んで、そして言った。「フランス王でない国王は、皆ただ一州の王たるに過ぎない。」またある日、彼の前で次のような問答がなされた。「クーリエ・フランセー紙の編集者はどういう刑に処せられましたか。」「ていし刑(発行停止刑)です。」するとジルノルマン氏は横から言葉をはさんだ。「ていだけ多すぎる。」(すなわち死刑)その種の言葉は人に一つの地位を得させるものである。

 ブールボン家復帰の記念謝恩日に、タレーラン(訳者注 革命、帝政、王政復古、と順次に節を曲げし政治家)が通るのを見て彼は言った。「彼処(あそこ)に魔王閣下が行く。」

 ジルノルマン氏はいつも自分の娘と小さな少年とを連れてきた。娘というのはあの永遠の令嬢で、当時四十歳を越していたが、見たところは五十歳くらいに思われた。少年の方は、六歳の美しい児で、色が白く血色がよく生々(いきいき)としていて、疑心のない幸福そうな目つきをしていた。しかし彼がその客間に現われると、いつもまわりで種々なことを言われた。「きれいな子だ!」「惜しいものだ!」「かわいそうに!」この子供は前にちょっと述べておいたあの少年である。人々は彼のことを「あわれな子」と呼んでいた。なぜなら彼の父は「ロアールの無頼漢」(訳者注 ナポレオン旗下の軍人)のひとりだったからである。

 そのロアールの無頼漢は、既に述べておいたジルノルマン氏の婿(むこ)で、彼が「家の恥」と呼んでいた人である。

     二 当時の残存赤党のひとり

 その頃、ヴェルノンの小さな町にはいって、やがて恐ろしい鉄骨の橋となるべき運命にあったあの美しい記念の橋の上を歩いたことのある者は、橋の欄干を越してひとりの男を見ることができたであろう。その男は五十歳ばかりの老人で、鞣革(なめしがわ)の帽子をかぶり、灰色の粗末なラシャのズボンと背広とをつけ、その背広には赤いリボンの古く黄色くなってるのが縫いつけてあり、木靴(きぐつ)をはき、日に焼け、顔はほとんど黒く頭髪はほとんどまっ白で、額から頬(ほお)へかけて大きな傷痕(きずあと)があり、腰も背も曲がり、年齢よりはずっと老(ふ)けていて、手には耡(すき)か鎌(かま)かを持ち、ほとんど一日中そこにある多くの地面の一つをぶらついていた。それらの地面は皆壁に囲まれ、橋の近くにあって、セーヌ川の左岸に帯のように続いており、美しく花が咲き乱れて、も少し広かったら園とも言うべく、も少し狭かったら叢(くさむら)とも言うべきありさまだった。それらの囲いの土地はどれも皆、一端に川を控え他端に一つの人家を持っていた。上に述べた背広と木靴(きぐつ)の男は一八一七年ごろには、それらの地面のうちの最も狭くそれらの家のうちの最も粗末なものに住んでいた。彼はそこにひとりで寂しく黙々として貧しく暮らしていた。そして若くもなく老年でもなく、美しくも醜くもなく、田舎者(いなかもの)でも町人でもないひとりの女が、彼の用を足していた。彼が自分の庭と称していたその四角な土地は、彼の手に培養さるる美しい花によって、町で評判になっていた。花を作るのが彼の仕事だった。

 労力と忍耐と注意とまた桶(おけ)の水とによって、彼は造物主に次いで巧みな創造をすることができた。そして自然から忘られていたようなみごとなチューリップやダリヤを作り出した。彼ははなはだ巧妙だった。アメリカや支那からきた珍しい貴重な灌木(かんぼく)を培養するために小さな石南土の塊(かたま)りを作ることにおいては、スーランジュ・ボダンにもまさっていた。夏には夜明けから庭の小道に出て、芽をさしたり、枝をはさんだり、草を取ったり、水をやったり、花の間を歩き回ったりして、善良な悲しげなまた安らかな様子をし、あるいは夢みるように数時間じっとたたずんでは、木の間にさえずる小鳥の歌やどこかの家からもれる子供の声などに耳を傾け、あるいはまた、草の葉末に宿る露の玉が太陽の光に紅宝玉のように輝くのを見入っていた。彼の食卓はごく質素で、また葡萄酒(ぶどうしゅ)よりも多くは牛乳を飲んでいた。子供に対しても彼は一歩を譲り、召し使いからまでしかられていた。気味悪いくらいに内気で、めったに外出することはなく、顔を合わせる者とてはただ、彼のもとへやってくる貧民どもと、親切な老人である司祭のマブーフ師のみだった。けれども、町の人だのまたは他国の人だのだれであろうと、チューリップや薔薇(ばら)を見たがってその小さな家を訪れて来る時には、彼はほほえんで門を開いてくれた。それがすなわち前に言った「ロアールの無頼漢」だったのである。

 それからまた、軍事上の記録や、伝記や、機関新聞や、大陸軍の報告書などを読んだことのある者は、そこにかなりしばしば出て来るジョルジュ・ポンメルシーという名前を頭に刻まれたであろう。そのジョルジュ・ポンメルシーはごく若くしてサントンジュ連隊の兵卒であった。そのうちに革命が起こった。サントンジュ連隊はライン軍に属することになった。王政からの古い連隊は、王政顛覆(てんぷく)後もなおその地方の名前を捨てないでいて、旅団に編成されたのはようやく一七九四年のことだったのである。さてポンメルシーは各地に転戦し、スピレス、ウォルムス、ノイスタット、ツルクハイム、アルゼー、マイヤンスなどで戦ったが、このマイヤンスの時などは、ウーシャールの後衛たる二百人のうちのひとりだった。彼は十二番目にいて、アンデルナッハの古い胸壁の背後でヘッセ侯の全軍に対抗し、胸壁の頂から斜面まですべて敵砲のために穿(うが)たれるまでは本隊の方に退却しなかった。マルシエンヌおよびモン・パリセルの戦いの時にはクレベルの下に属し、後者の戦いでは腕をビスカイヤン銃弾に貫かれた。次に彼はイタリー国境に向かい、ジューベールとともにテンデの峡路(きょうろ)をふせいだ三十人の擲弾兵(てきだんへい)のひとりだった。その時の武勲により、ジューベールは高級副官となり、ポンメルシーは少尉となった。ロディーの戦いでは、霰弾(さんだん)の雨注する中にベルティエのそばに立っていた。「ベルティエは砲手であり騎兵であり擲弾兵であった」とボナパルトをして言わしめたのは、その戦いである。またノヴィーにおいては、自分の古い将軍たるジューベールが剣を上げて「進め!」と叫んでる瞬間にたおれるのを見た。また戦略上自分の一隊を引率して小船に乗り、ゼノアからやはりその海岸のある小さな港へ向かった時には、七、八艘(そう)のイギリス帆船の網の中に陥った。ゼノア人の船長の考えでは、大砲を海中に投じ、兵士を中甲板に隠し、商船と見せかけて暗中をのがれたがった。しかるにポンメルシーは、旗檣(きしょう)の綱に三色旗を翻えさし、毅然(きぜん)としてイギリス二等艦の砲弾の下を通過した。それから二十里ばかり行くうちに、彼の大胆さはますます加わり、その小船をもってイギリスの大運送船を襲って捕獲した。その運送船はシシリアに兵士を運んでいたのであって、舷側(げんそく)までいっぱいになるほど人員と馬とを積んでいた。一八〇五年には、フェルディナンド大公からグンズブールグを奪ったマーレル師団の中にいた。ウェッティンゲンにおいては、弾丸の雨下する中に、竜騎兵第九連隊の先頭に立って致命傷を受けたモープティー大佐を腕に抱き取った。アウステルリッツにおいては、敵の砲火の下を冒してなされたあの驚嘆すべき梯形(ていけい)行進中にあって勇名を上げた。ロシア近衛騎兵(このえきへい)が歩兵第四連隊の一隊を壊滅さした時、その近衛騎兵をうち破って返報をした者の中にポンメルシーもいた。皇帝は彼に勲章を与えた。次に、マンテュアにてウルムゼルを捕虜とし、アレキサンドリアにてメラスを捕虜とし、ウルムにてマックを捕虜とした各戦争に彼は参加した。モルティエに指揮されてハンブールグを奪取した大陸軍の第八軍団に彼は属していた。次に昔のフランドルの連隊だった歩兵第五十五連隊に代わった。エイラウにおいては、本書の著者の伯父たる勇敢なルイ・ユーゴー大尉が、八十三人の一隊を提げて二時間の間敵軍の攻撃をささえたあの墓地に、彼もいた。彼はその墓地から生き残って脱してきた三人のひとりだった。彼はまたフリードランドの戦いにも参加した。次に彼はモスコーを見、ベレジナを見、ルッチェン、バウチェン、ドレスデン、ワルシャワ、ライプチッヒなどを見、ゲルンハウゼンの隘路(あいろ)を見、次に、モンミライ、シャトー・ティエリー、クラン、マルヌ川岸、エーヌ川岸、恐るべきランの陣地を見た。アルネー・ル・デュックにおいては、大尉になっていて、十人のコザック兵をなぎ払い、将軍の生命をではないが部下の伍長の生命を救った。その時彼は方々に負傷し、左腕からだけでも二十七個の弾丸の破片が見いだされた。パリー陥落の八日前には、彼は一同僚と地位を代わって騎兵にはいった。彼は旧制度の下でいわゆる二重の手と呼ばれたものを持っていた、すなわち、兵士としては剣と銃とを同じく巧みに操縦し、将校としては騎兵隊と歩兵隊とを同じく巧みに操縦し得る能力を持っていた。そういう能力が更に軍隊教育によって完成さるる時に、特殊な軍隊が生まれたのである。全体として騎兵でありまた歩兵であった竜騎兵はその一例である。ポンメルシーはナポレオンに従ってエルバ島に赴(おもむ)いた。ワーテルローにおいては、デュボア旅団中の胸甲騎兵中隊の指揮官だった。ルネブールグ隊の軍旗を奪ったのは彼であった。彼はその軍旗を持ち帰って皇帝の足下に地に投じた。彼は血にまみれていた。軍旗を奪う時、剣の一撃を顔に受けたのである。皇帝は満足して叫んだ。「汝は今より大佐であり、男爵であり、レジオン・ドンヌール勲章のオフィシエ受賞者だぞ。」ポンメルシーは答えた。「陛下、やがて寡婦たるべき妻のために御礼を申しまする。」一時間後に彼はオーアンの峡路におちいった。さてこのジョルジュ・ポンメルシーとは何人(なんびと)であったか。それはやはりあの「ロアールの無頼漢」その人であった。

 以上が彼の経歴の大略である。ワーテルローの戦いの後、読者は思い起こすであろうが、ポンメルシーはオーアンの凹路(おうろ)から引き出され、首尾よく味方の軍隊に合することができ、野戦病院から野戦病院へ運び回され、ついにロアールの舎営地に落ち着いたのである。

 王政復古のために彼は俸給を半減され、次にヴェルノンの住居へ、すなわち監視の下に、置かれることになった。国王ルイ十八世は一百日(訳者注 ナポレオンの再挙の間のこと)のうちに起こったすべては無効であると考えていたので、彼に対しても、レジオン・ドンヌール勲章のオフィシエ受賞者であることも、大佐の階級も、男爵の肩書きも、少しも認めてはくれなかった。彼の方ではまた、あらゆる場合に陸軍大佐男爵ポンメルシーと署名することを欠かさなかった。彼は古い青服を一つしか持たなかった。そして外出する時にはいつも、レジオン・ドンヌール勲章のオフィシエの略綬(りゃくじゅ)をそれにつけていた。検察官は彼に「該勲章の不法佩用(はいよう)」について検事局が起訴するかも知れないと予告してやった。その注意がある公然の規定をふんで手もとに達した時、ポンメルシーはにがにがしい微笑を浮かべて答えた。「私の方でもはやフランス語を了解しなくなったのか、あるいはあなたの方でもはやフランス語を話さなくなったのか、いずれだか知れないが、とにかく私にはあなたの言うことがわからない。」それから彼は一週間続けてその赤い略綬をつけて外出した。だれもあえてとがめる者はなかった。また二、三度陸軍大臣と管轄の司令官とは、「ポンメルシー少佐殿へ」として手紙を贈った。それらの手紙を彼は封も開かないで返送してしまった。やはりちょうどそのころ、セント・ヘレナにいたナポレオンは、「ボナパルト将軍へ」としたハドソン・ローの信書を同じようにつき返したのである。ポンメルシーはついに、こういう言葉を許していただきたいが、皇帝と同じ唾液(だえき)を口の中に持つに至ったのである。

 それと同じく、昔はローマにおいてカルタゴ兵の捕虜らは、督政官フラミニウスに敬礼することを拒み、多少ハンニバルと同じ魂を持っていたのである。

 ある日の朝、ポンメルシーはヴェルノンの町で検察官に出会い、彼の前に進んでいって言った。「検察官殿、顔の傷はこのままつけておいてもよろしいですか。」

 彼は騎兵中隊長としてのわずかな俸給の半額のほか何らの財産も持たなかった。それゆえヴェルノンでできるだけ小さな家を借りた。そこに彼はひとりで住んでいた。そのありさまは上に述べたとおりである。帝政時代に、両戦役の間に、彼はジルノルマン嬢と結婚するだけの時間の余裕があった。老市民であるジルノルマン氏は、内心憤りながらもその結婚に承諾せざるを得なかった。そして嘆息しながら言った、「最も高い家柄でも余儀ないことだ。」ポンメルシー夫人はいずれの点から見てもりっぱな婦人で、教養がありその夫に恥ずかしからぬ珍しい婦人であった。しかし一八一五年に、ひとりの子供を残して死んだ。その子供は、孤独な生活における大佐の慰謝だったはずである。しかるに祖父は、権柄ずくでその孫を請求し、もし渡さなければ相続権を与えないと宣告した。父親は子供のために譲歩した。そしてもはや子供をも手もとに置くことができなくなったので、花を愛し初めた。

 その上彼はすべてを思い切ってしまい、何らの活動もせず計画もしなかった。彼は自分の考えを、現在なしている無垢(むく)な事がらと過去になした偉大な事がらとに分かち与えていた。あるいは石竹(せきちく)の珍花を育てんと望み、あるいはアウステルリッツの戦いを回想して、その時間を過ごしていた。

 ジルノルマン氏はその婿と何らの交渉も保たなかった。大佐は彼にとってはひとりの「無頼漢」であり、彼は大佐にとってひとりの「木偶漢(でくのぼう)」にすぎなかった。ジルノルマン氏が大佐のことを口にするのはただ、時々その「男爵閣下」を嘲笑(ちょうしょう)の種にする時くらいのものだった。子供が相続権を奪われて追い戻されはしないかを気づかって、ポンメルシーは決して子供に会おうともせず言葉をかけようともしないだろうということは、前後の事情から明らかだった。ジルノルマン家に対しては、ポンメルシーは一つの疫病神(やくびょうがみ)にすぎなかった。一家のものは自分たちだけで思い通りに子供を育てるつもりだった。そういう条件を受け入れたのは大佐の方もおそらく誤っていたかも知れない。しかし彼はそれに甘んじて、別に悪いこととも思わず、自分だけを犠牲にすることだと思っていた。ジルノルマン氏の遺産は大したものではなかったが、姉のジルノルマン嬢の遺産は莫大(ばくだい)なものだった。この伯母(おば)は未婚のままで、物質的に非常に富裕だった。そしてその妹の子供は当然その相続者だった。

 子供はマリユスという名だったが、自分に父のあることを知っていた。しかしそれ以上は何もわからなかった。だれもそれについては聞かしてくれなかった。けれども、祖父から連れてゆかれる社交場での、人々のささやきや片言や目くばせなどは、長い間に子供の目を開かせ、ついに子供に多少の事情をさとらした。そして、言わば彼の呼吸する雰囲気であるそれらの思想や意見は、自然と彼のうちに徐々に浸潤し侵入してきて、いつのまにか彼は、父のことを思うと一種の屈辱と心痛とを感ずるようになった。

 彼がそういうふうにして生長している間に、二、三カ月に一度くらいは、大佐は家をぬけ出し、監視を破る刑人のようにひそかにパリーにやってきて、伯母のジルノルマンがマリユスを弥撒(ミサ)に連れて行くころを見計らい、サン・スュルピス会堂の所に立っていた。そこで、伯母がふり返りはしないかを恐れながら、柱の陰に隠れ、息を凝らしてじっとたたずんで、子供を見るのだった。顔に傷のある軍人も、その老嬢をかくまで恐れていたのである。

 そういうところから、彼はまたヴェルノンの司祭マブーフ師とも知り合いになったのである。

 そのりっぱな牧師は、サン・スュルピス会堂のひとりの理事と兄弟だった。理事はあの男があの子供をながめてる所を幾度も見た、そして男の大きな頬(ほお)の傷と目にいっぱいあふれてる涙とを見た。大丈夫らしい様子をしながら女のように泣いているのが、理事の心をひいた。その顔つきが頭の中に刻み込まれた。ところがある日彼は、兄に会いにヴェルノンへ行くと、橋の上で大佐に出会い、それがあのサン・スュルピス会堂の男であることを認めた。理事はそのことを司祭に語り、ふたりして何かの口実の下に大佐を訪れた。そしてそれをきっかけに何度も訪問するようになった。大佐は初めいっさい口をつぐんでいたが、ついに事情を打ち明けた。それで司祭と理事とは、大佐の身の上をことごとく知り、ポンメルシーが自分の幸福を犠牲にして子供の未来をはかってる事情を知るに至った。そのために、司祭は大佐に対して敬意と温情とをいだき、大佐の方でもまた司祭を好むようになった。その上、もしどちらも至ってまじめであり善良である場合には、およそ世の中に老牧師と老兵士とほど、容易に理解し合い容易に融合し合うものはない。根本においては彼らは同じ種類の人間である。一は下界の祖国に身をささげ、一は天上の祖国に身をささげている。ただそれだけの違いである。

 年に二度、一月一日と聖ジョルジュ記念日(訳者注 四月二十三日)とに、マリユスは義務としての手紙を父に書いた。それは伯母が口授したもので、形式的な文句の書き写しともいえるようなものだった。ジルノルマン氏が許容したことはただそれだけだった。すると父親はきわめて心をこめた返事をよこした。祖父はそれを受け取って、読みもしないでポケットに押し込んだ。

     三 彼らに眠りあれ

 T夫人の客間(サロン)は、マリユス・ポンメルシーの世間に対する知識のすべてだった。彼が人生をながむることのできる窓は、それが唯一のものだった。けれどその窓は薄暗くて、その軒窓ともいうべきものから彼にさして来るものは、温暖よりも寒気の方が多く、昼の光よりも夜の闇(やみ)の方が多かった。その不思議な社会にはいってきた当時、喜悦と光明とのみであった少年は、間もなく悲しげになり、その年齢になおいっそう不似合いなことには、沈鬱(ちんうつ)になってきた。それらの尊大な独特な人々にとり巻かれて、彼は心からの驚きをもって周囲を見回した。するとすべてのものは、ただ彼のうちにその茫然(ぼうぜん)たる驚きを増させるだけだった。T夫人の客間のうちには、きわめて尊むべき貴族の老夫人らがいた、マタン、ノエ、それからレヴィと発音されてるレヴィス、カンビーズと発音されてるカンビス、などという夫人が。それらの古めかしい顔つきとそれらのバイブルにある名前とは、少年の頭の中で、彼が暗唱している旧約書の中にはいり込んできた。そして彼女らが、消えかかった暖炉のまわりに丸くすわり、青い覆(おお)いをしたランプの光にほのかに照らされ、きびしい顔つきをし、灰色かまたは白い頭髪をし、寂しい色しかわからない時勢おくれの長い上衣を着、長い間を置いては時々堂々たるまたきびしい言葉を発しながら、みなそこに集まっている時、小さなマリユスはびっくりした目で彼女らをながめて、婦人というよりもむしろ古代の長老や道士を見るような気がし、実在の人物というよりもむしろ幽霊を見るような気がした。

 それらの幽霊に交じってまた、その古い客間には常客たる数人の牧師がおり、それから数人の貴族らがいた。ベリー夫人の第一秘書役たるサスネー侯爵、シャール・ザントアンヌという匿名で単韻の短詩を出版したヴァロリー子爵、金の綯総(よりふさ)のついた緋(ひ)ビロードの服をつけ首筋を露(あら)わにしてこの暗黒界を脅かしてるきれいな才ばしった妻を持ち、かなり若いのに胡麻塩(ごましお)の頭を持っていたボーフルモン侯、最もよく「適宜な礼儀」を心得ていたフランス中での男たるコリオリ・デスピヌーズ侯爵、愛嬌(あいきょう)のある頤(あご)をした好人物アマンドル伯爵、王の書斎と言われてるルーヴルの図書館の柱石であるポール・ド・ギー騎士。このポール・ド・ギー氏は、年取ったというよりもむしろ古くなったという方が適当な禿頭(はげあたま)の人で、その語るところによると、一七九三年十六歳のおり、忌避者として徒刑場に投ぜられ、やはり忌避者たる八十歳の老人ミールポア司教と同じ鎖につながれたそうである。ただし彼の方は兵役忌避者であったが、司教の方は僧侶法忌避者であった。それはツーロンの徒刑場だった。彼らの役目は、夜間断頭台の所へ行って、昼間そこで処刑された者の首と身体とを拾って来ることだった。彼らは血のしたたる胴体を背にかついできた。そして徒刑囚としての赤い外套(がいとう)は、朝にはかわき晩にはぬれて、首筋の後ろに血潮の厚い皮ができるようになったそうである。そういう悲壮な物語はT夫人の客間に満ち満ちていた。そしてマラーをののしる勢いに駆られて、トレスタイヨンまでを賞揚した。過激王党的な数人の代議士は、ホイストの勝負を争っていた、ティボール・デュ・シャラール氏、ルマルシャン・ド・ゴミクール氏、および右党で名高い嘲笑者(ちょうしょうしゃ)のコルネー・ダンクール氏など。大法官フェルレットは、その短いズボンとやせた足とをもって、タレーランの家へ行く途中に時々この客間を見舞った。彼はもとアルトア伯爵の遊び仲間であった。そして美婦カンパスプの前に膝(ひざ)を折ったアリストテレスと反対に、女優ギマールを四つ足で歩かし、それによって哲学者の仇(あだ)を大法官が報じたことを古今に示したのである。

 牧師の方には次のような人々がいた。アルマ師、これはフードル紙上の仲間たるラローズ氏が、「へー、何者だ、五十歳にも満たないで、たぶん黄口の少年輩だろう、」と云ったその人である。それから、国王の説教師であるルツールヌール師。まだ伯爵でも司教でも大臣でも上院議員でもなく、ボタンの取れた古い教服を着ていたフレーシヌー師。サン・ジェルマン・デ・プレ会堂の司祭クラヴナン師。次に、法王の特派公使。これは当時ニジビの大司祭マッキ閣下と称し後に枢機官になったが、その瞑想的(めいそうてき)な長い鼻で有名だった。なおもひとりイタリーの高僧がいたが、次のような肩書きがついていた、すなわち、パルミエリ師、宮廷教官、七人の法王庁分担大書記官のひとり、リベリア本院の記章帯有のキャノン牧師、聖者代弁人すなわち聖者の請願師、これは列聖事務に関係あることで、ほとんど天国区隊の参事官ともいうべき意味である。終わりにふたりの枢機官、リュゼルヌ氏とクレルモン・トンネール氏。リュゼルヌ枢機官は文筆の才があり、数年後にはコンセルヴァトゥール紙にシャトーブリアンと相並んで執筆するの光栄を有した。クレルモン・トンネール氏はツールーズの司教であって、しばしばパリーにやってきて、陸海軍大臣だったことのある甥(おい)のトンネール侯爵の家に滞在した。彼は快活な背の低い老人で、教服をまくって下から赤い靴下(くつした)を出していた。その特長は、大百科辞典をきらうことと、撞球(たまつき)に夢中になることとであった。当時、クレルモン・トンネールの館(やかた)があったマダム街を夏の夕方などに通る者は、そこに立ち止まって、撞球の音を聞き、随行員でカリストの名義司教たるコトレー師に向かって、「点数、三つ当りだ、」と叫ぶ枢機官の鋭い声を聞いたものである。クレルモン・トンネール枢機官は、元のサンリスの司教で四十人のアカデミー会員のひとりである彼の最も親しい友人ロクロール氏から、T夫人の客間に連れてこられたのである。ロクロール氏は、その背の高い身体とアカデミーへの精励とによって有名だった。当時アカデミーの集会所となっていた図書室の隣の広間のガラス戸越しに、好奇な者らは木曜日には必ず元のサンリスの司教を見ることができた。彼はいつも立っていて、あざやかに化粧をし紫の靴下(くつした)をはき、明らかにその小さなカラーをよく見せんためであろうが、戸に背を向けていたものである。右のような聖職者らは、その大部分教会の人であるとともに宮廷の人だったが、T夫人の客間の荘重な趣をますます深からしめていた。また五人の上院議員、ヴィブレー侯爵、タラリュ侯爵、エルブーヴィル侯爵、ダンブレー子爵、ヴァランティノア公爵らは、客間の貴族的な趣を増さしていた。このヴァランティノア公爵は、モナコ侯すなわち他国の主権者ではあったが、フランスおよび上院議員の位を非常に尊敬していて、その二つを通じてすべてのものを見ていた。「枢機官はローマのフランス上院議員であり、卿(ロード)はイギリスのフランス上院議員である」と言っていたのは彼である。けれども、この世紀には革命は至る所にあるはずであって、この封建的な客間でも、前に言ったとおりひとりの市民が勢力を振るっていた。すなわちジルノルマン氏がそこに君臨していたのである。

 実にこの客間のうちに、パリーの白党の本質精髄があった。世に名高い人々は、たとい王党であろうと、そこから遠ざけられていた。名声のうちには常に無政府臭味があるものである。シャトーブリアンがもしそこにはいっていったら、ペール・デュシェーヌ(訳者注 民主主義の代表的人物)がはいってきたほどの騒ぎをきたしたであろう。けれども、四、五の共和的王政派の人々は、この正教的な社会のうちにはいることを特別に許されていた。ブーニョー伯爵も条件つきで迎えられていた。

 今日の「貴族」の客間は、もはやそれらの客間と似寄った点を少しも持たない。今日のサン・ジェルマン郭外には異端派的なにおいがある。現今の王党らは、誉(ほ)むべきことには、もはや一種の民主派である。

 T夫人の客間においては、皆秀(ひい)でた階級の人々であったから、花やかな礼容の下に、趣味は洗煉(せんれん)されまた尊大になっていた。習慣は無意識的なあらゆる精緻(せいち)さを含んでいた。そしてこの精緻さこそ、既に埋められながらなお生きている旧制そのものだったのである。その習慣のうちのあるものは、特に言葉の上のそれは、いかにも奇妙に思われるものだった。ただ表面だけを見る観察者らは、単に老廃にすぎないものを田舎式(いなかしき)だと見誤ったかも知れない。女に対して将軍夫人などという言葉がまだ言われていた。連隊長夫人という言葉もまったく廃(すた)れてはいなかった。美しいレオン夫人は、おそらくロングヴィル公爵夫人や、シュヴルーズ公爵夫人などの思い出によってであろうが、侯爵夫人という肩書きよりもそういう名称の方を好んでいた。クレキー侯爵夫人も自ら連隊長夫人と言っていた。

 チュイルリー宮殿において、王に向かって親しく言葉を向ける時には、いつも国王という三人称を用いて、決して陛下と言わない巧妙さを作り出したのは、やはりこの上流の小社会であった。なぜなら陛下という称号は、「簒奪者(さんだつしゃ)(訳者注 ナポレオン)によって汚された」からである。

 そこでまた人々は、事件や人物を批判した。人々は時代をあざけり、ために時代ということを了解しないで済んだ。人々は互いに驚きの情を深め合った。また互いにその知識を分かち合った。メッセラはエピメニデスに物を教えた(訳者注 共に太古の人物で、前者は長命を以って後者は長眠を以って有名である)。聾者(ろうじゃ)は盲者の手を引いた。彼らはコブレンツ(訳者注 一七九二年王党の亡命者が集合せし地)以来経過した時間をないものだとした。ルイ十八世が神のお陰によって治世二十五年目であったのと同じく、移住者らもまさしくその青年期の第二十五年目だったのである。

 すべては調和がとれていた。何物もあまりに生き生きとしてるものはなかった。人の言葉はようやく一つの息吹(いぶき)にすぎなかった。新聞は客間と一致して一つの草双紙にすぎないらしかった。若い人々もいたが、それもみな多少死にかかっていた。控え室においても、接待員はみな老耄(おいぼれ)だった。まったく過去のものとなっているそれらの人物には、やはり同じ種類の召し使いが仕えていた。それらのようすを見ると、もう長い前に生命を終えながら、なお頑固(がんこ)に墳墓と争っているかのようだった。保存する、保存、保存人、そういうのが彼らの辞書のほとんど全部の文字だった。「においがいい」(評判がいい)ということが問題だった。実際それらの尊ぶべき群れの意見のうちには香料があった、そしてその思想にはインド草の香(かお)りがしていた。それは木乃伊(ミイラ)の世界だった。主人はいい香りをたき込まれており、従僕は剥製(はくせい)にされていた。

 亡命し零落したひとりのりっぱな老侯爵夫人は、もうひとりの侍女しか持っていなかったが、なお言い続けていた、「私の女中ども」と。

 T夫人の客間のうちで人々は何をしていたか? 彼らはみな過激王党派だったのである。

 過激派(ユルトラ)である、というこの言葉は、それが表現する事物はおそらくまだ消滅しつくしてはいないであろうが、言葉自身は今日ではもはや無意味のものとなっている。その理由は次の通りである。

 過激派であるということは、範囲の外まで逸することである。王位の名によって王笏(おうしゃく)を攻撃し、祭壇の名によって司教の冠を攻撃することである。おのれが導くものを虐遇することである。後ろに乗せて引き連れてるものを後足(あとあし)でけることである。邪教徒の苦痛の程度が少ないと言って火刑場を悪口することである。崇拝されることが少いと言って偶像を非難することである。過度の尊敬によって侮辱することである。法王に法王主義の不足を見いだし、国王に王権の不足を見いだし、夜に光の過多を見いだすことである。白色の名によって石膏(せっこう)や雪や白鳥や百合(ゆり)の花などに不満をいだくことである。敵となるまでに深く味方たることである。反対するまでに深く賛成することである。

 過激的な精神は、ことに王政復古の第一面の特質である。

 およそ歴史中、一八一四年ごろから初まり右党の手腕家ヴィレル氏が頭をもたげた一八二〇年ごろに終わったこの小期間に、相似寄った時期は一つもない。その六年は実に異様な一時期であって、騒然たると同時に寂然として、嬉々(きき)たると同時に沈鬱(ちんうつ)で、あたかも曙(あけぼの)の光に照らされてるがようであると同時に、なお地平線に立ちこめてしだいに過去のうちに沈み込まんとする大災厄(だいさいやく)の暗雲におおい隠されてるがようであった。その光と影との中に、新しくまた古く、おかしくまた悲しく、年少でまた老年である一小社会があって、目をこすっていた。復起と覚醒(かくせい)とほど互いによく似寄ってるものはない。ふきげんにフランスをながめ、またフランスから皮肉にながめられてる一群。街路に満ちてる人のいい老梟(ろうふくろう)たる公爵ら、帰国せる者らとよみがえった者ら、すべてに驚きあきれてる旧貴族ら、祖国を再び見て歓喜し、もとの王政を再び見得ないで絶望して、フランスにあることをほほえみまた泣いている善良な貴族ら、帝国の貴族すなわち軍国の貴族に恥辱を与える十字軍の貴族。歴史の意義を失った歴史的人種。ナポレオンの仲間を軽蔑するシャールマーニュ大帝の仲間。上に述べきたったとおり、剣戟(けんげき)は互いに凌辱(りょうじょく)し合った。フォントノアの剣は笑うべきものであり、一つの錆(さび)くれにすぎなかったと言う。マレンゴーの剣は擯斥(ひんせき)すべきもので、一つのサーベルにすぎなかったと言い返す。昔は昨日をけなした。人々はもはや、偉大なるものに対する感情も持たず、嘲笑(ちょうしょう)すべきものに対する感情も持たなかった。ナポレオンを称してスカパンと言う者もいた(訳者注 スカパンとはモリエールの喜劇中の人物にて、奸知にたけた悪従僕の典型)。しかしそういう社会は今はもうなくなっている。くり返して言うが、今日ではもう影も止めていない。で、今日、偶然その相貌(そうぼう)を多少つかんできて、頭の中に浮かべようとする時には、あたかもノアの洪水(こうずい)以前の世界ほどに不思議なものに思われる。そしてまた実際その社会も一の洪水によってのみ込まれてしまったのである。二つの革命によって姿を消してしまったのである。思想とはいかに大なる波濤(はとう)であるか! 破壊し埋没すべく命ぜられたすべてをいかに早くおおい隠し、恐るべき深淵をいかにたちまちの間にこしらえることか。

 そういうのが、このはるかな廉潔な時代の客間のありさまであった。そしてそこでは、マルタンヴィル氏はヴォルテールよりもいっそうの機才を持っていたのである。

 それらの客間は、自分だけの文学と政治とを持っていた。フィエヴェーが信用を得ていた。アジエ氏が法令をたれていた。マラケー川岸の古本出版商コルネ氏が種々批評を受けていた。ナポレオンはそこでは、まったくコルシカの食人鬼にすぎなかった。その後、国王の軍隊の陸軍中将ブオナパルテ侯爵(訳者注 ナポレオンのこと)という語が歴史の中に入れられたのは、時代精神への譲歩であった。

 それらの客間は、長く純潔であることはできなかった。既に一八一八年ごろより、数人の正理派は芽を出し初めて、不安な影となった。それらの人々のやり方は、王党であるとともにそれを弁明することだった。過激派らがきわめて傲然(ごうぜん)としていたところに、正理派らは多少の恥を感じていた。彼らは機才を持っていたし、沈黙を持っていた。その政治的信条には、適当に倨傲(きょごう)さが交じえられていた。その成功は当然だった。彼らは白い襟飾(えりかざ)りとボタンをすっかりかけた上衣とを濫用したが、それももとより有効だった。正理派の過誤もしくは不幸は、老いたる青春をこしらえたことだった。彼らは賢者のような態度をとった。絶対過激なる主義に一つの穏和なる権力を接木(つぎき)しようとした。破壊的自由主義に保守的自由主義を対立させ、しかも時としては珍しい怜悧(れいり)さをもってそれをした。人々は彼らがこう言うのを聞いた。「勤王主義に感謝せよ。勤王主義は少なからざる役目をした。それは伝統と教養と宗教と尊敬とを再びもたらした。忠実で正直で誠実で仁愛で献身的であった。たとい自ら好んでではなかったとはいえ、国民の新しい偉大さに王国古来の偉大さを交じえた。そしてその誤ちは、革命と帝国と光栄と自由と、若き思想と若き時代と若き世紀とを、理解していないことである。しかしそれが吾人に対して有する誤ちは、吾人もまた時としてそれに対して有しなかったであろうか。吾人がその後を継いだ革命は、すべてに聡明(そうめい)なるべきはずである。勤王主義を攻撃することは、自由主義の矛盾である。何たる過失であり、何たる盲目であるか。革命のフランスは、歴史のフランスに、言い換えればその母に、また言い換えればそれ自身に、敬意を欠いている。一八一六年九月五日以後王国の高貴さが受けている待遇は、あたかも一八一四年七月八日以後帝国の高貴さが受けた待遇と同じである。彼らは鷲(わし)に対して不正であったが、吾人は百合(ゆり)の花に対して不正である。かくて人は常に酷遇すべき何かを欲するのであるか。ルイ十四世の王冠の金を去り、アンリ四世の紋章を取り除くことは、有用なことであるか。イエナ橋からNの字(訳者注 ナポレオンの頭字)を消したヴォーブラン氏を吾人は嘲笑(ちょうしょう)する。しかしいったい彼は何をなさんとしたのであるか。吾人がなしてることと同じことをではないか。マレンゴーと同じくブーヴィーヌも吾人のものである。Nの字と同じく百合の花も吾人のものである。それは吾人のつぐべき遺産である。それを削除することが何のためになるか。現在の祖国と同じく過去の祖国をも否認してはいけない。何ゆえに歴史のすべてを欲してはいけないのか。何ゆえにフランスのすべてを愛してはいけないのか。」

 そういうふうに正理派らは、批評されるのを喜ばずまた弁護されるのを憤っていた勤王主義を、批評しまた弁護したのである。

 過激派は勤王論の第一期を画し、融合はその第二期の特質となった。熱狂に次ぐに巧妙をもってしたのである。そしてわれわれはこれをもってそのスケッチの終わりとしよう。

 この物語の途中において、本書の著者は、近世史のこの不思議な一時期に出会った。そして通りすがりに一瞥(いちべつ)を与えて、今日もはや知られないその社会の奇怪な状態を少しく述べざるを得なかったのである。しかし著者は急速に、また何ら苦々(にがにが)しい嘲笑的(ちょうしょうてき)な考えもなしに、それをなすのである。思い出は、母たる祖国に関するものであるから親愛と尊敬とを起こさせ、著者をこの過去の一時期に愛着せしむる。かつまたその一小社会も、偉大さを持っていたことを言っておきたい。人はそれをほほえむことはできよう、しかしそれを軽蔑しまたは憎むことはできない。それは昔のフランスだったのである。

 さて、マリユス・ポンメルシーは普通の子供と同じくいくらか勉強をした。伯母のジルノルマン嬢の手から離れた時祖父は彼を、最も純粋な古典に通ずるりっぱな教師に託した。開けかかっていた彼の若い心は、似而非貞女(えせていじょ)から腐儒の手に移った。それから彼は数年間中学校に通い、次に法律学校にはいった。彼は王党で熱狂家で謹厳であった。彼は祖父の快活と冷笑とを不快に感じてあまり好まなかった。そしてまた父のことを思うと心が暗くなった。

 それに彼は、上品で寛容で誇らかで宗教的で熱誠で、冷熱あわせ有する少年だった。厳酷なるまでに気品があり、粗野なるまでに純潔であった。

     四 無頼漢の死

 マリユスが古典の勉強を終えたのとジルノルマン氏が社交界から退いたのとは、ほとんど同時だった。老人はサン・ジェルマン郭外とT夫人の客間とに別れを告げて、マレーのフィーユ・デュ・カルヴェール街にある家に住んだ。そして召し使いとしては、門番のほかに、マニョーンの次にきた小間使いのニコレットと、前に述べておいた息切れがしてぜいぜいいってるバスクとがいた。

 一八二七年に、マリユスは十七歳に達した。ある晩外から帰って来ると、祖父は手に一通の手紙を持っていた。

「マリユス、」とジルノルマン氏は言った、「お前は明日ヴェルノンへ行くんだ。」

「どうしてですか。」とマリユスは尋ねた。

「父に会いにだ。」

 マリユスは震えた。何でも期待してはいたが、ただこれだけは、いつか父に会うようになろうとは、まったく思いもかけなかった。彼にとっては、これほど意外なことは、これほど驚くべきことは、そしてまたあえて言うがこれほど不愉快なことは、何もあり得なかった。それは遠ざかろうとするものにしいて近づけられることだった。一つの苦しみのみではなかった、一つの賦役だった。

 マリユスは政治的反感の理由のほかになお、いくらか気がやわらいだ時にジルノルマン氏が呼んだように猪武者(いのししむしゃ)である父は、自分を愛していないと思い込んでいた。父が彼を今のように見捨てて他人の手に任しておくのを見ても、そのことは明らかだった。自分が愛せられていないと感じて、彼もまた父を愛しはしなかった。これほどわかりきったことはない、と彼は思った。

 彼はまったく呆然(ぼうぜん)として、ジルノルマン氏に訳を尋ねることもしかねた。祖父はまた言った。

「病気らしいのだ。お前に会いたいと言っている。」

 そしてちょっと口をつぐんだ後に、彼は言い添えた。

「明日の朝、出かけなさい。フォンテーヌの家に、六時にたって夕方向こうに着く馬車があるはずだ。それに乗るがいい。至急だということだから。」

 それから彼は手紙をもみくちゃにして、ポケットに押し込んだ。実はマリユスは、その晩にたって翌朝は父のそばに行けたのである。ブーロア街の駅馬車が、当時夜中にルアン通いをやっていて、ヴェルノンを通ることになっていた。しかしジルノルマン氏もマリユスも、それを聞き合わしてみようとは考えもしなかった。

 翌日薄暮の頃、マリユスはヴェルノンに着いた。もう灯火(あかり)のつき初める頃だった。彼は出会い頭(がしら)の男に、「ポンメルシーさんの家」を尋ねた。なぜなら、彼は内心復古政府と同意見を持っていて、やはり父を男爵とも大佐とも認めてはいなかった。

 彼は父の住居を教えられた。呼び鈴を鳴らすと、ひとりの女が手に小さなランプを持って出てきて、戸を開いてくれた。

「ポンメルシーさんは?」とマリユスは言った。

 女はじっとつっ立っていた。

「ここがそうですか。」とマリユスは尋ねた。

 女は頭でうなずいた。

「お目にかかれましょうか。」

 女は頭を振った。

「でも私はその息子です。」とマリユスは言った。「私を待っていられるんです。」

「もう待ってはおられません。」と女は言った。

 その時彼は、女が泣いているのに気づいた。

 彼女はすぐ入り口の室(へや)の扉(とびら)を彼にさし示した。彼ははいって行った。

 その室は、暖炉の上に置かれてる一本の脂蝋燭(あぶらろうそく)の光に照らされ、中に三人の男がいた。ひとりは立っており、ひとりはひざまずいており、ひとりはシャツだけで床(ゆか)の上に長々と横たわっていた。その横たわってるのが大佐だった。

 他のふたりは医者と牧師とで、牧師は祈祷(きとう)をしていた。

 大佐は三日前から、脳膜炎にかかった。病気の初めから彼はある不吉な予感がして、ジルノルマン氏へ息子をよこしてくれるように手紙を書いた。果たして病気は重くなった。マリユスがヴェルノンへ着いたその夕方、大佐には錯乱の発作が襲ってきた。彼は女中が引き止めようとするにもかかわらず起き上がって叫んだ。「息子はこない! 私の方から会いに行くんだ。」それから彼は室を飛び出して、控え室の上に倒れてしまった。そしてそれきり息が絶えたのである。

 医者と牧師とが呼ばれた。医者は間に合わなかった。牧師も間に合わなかった。息子のきようもまたあまり遅かった。

 蝋燭(ろうそく)の薄暗い光で、そこに横たわってる青ざめた大佐の頬(ほお)の上に、もはや生命のない目から流れ出た太い涙が見えていた。目の光はなくなっていたが、涙はまだかわいていなかった。その涙こそ、息子の遅延のゆえであった。

 マリユスはこれを最初としてまた最後として会ったその男をじっとながめた、尊むべき雄々しいその顔、もはや物の見えないその開いた目、その白い髪、そして頑丈(がんじょう)な手足、その手や足の上には、剣の傷痕(きずあと)である黒い筋と弾丸の穴である赤い点とが、そこここに見えていた。また彼は、神が仁慈をきざんだその顔の上に勇武をきざみつけてる大きな傷痕(きずあと)をながめた。そして彼は、その男が自分の父であり、しかももはや死んでいることを考え、慄然(りつぜん)として立ちつくした。

 しかし彼が感じた悲哀は、およそ人の死んで横たわってるのを見るおりに感ずる普通の悲哀だった。

 悲痛が、人の心を刺す悲痛が、その室(へや)の中にあった。下女は片すみで嘆いており、司祭は祈祷(きとう)しながら嗚咽(おえつ)の声をもらしており、医者は目の涙をふいていた。死骸(しがい)自身も泣いていた。

 その医者と牧師と女とは、一言も発せず、痛心のうちにマリユスをながめた。彼はその間にあってひとり門外漢だった。マリユスはほとんど心を動かしていなかった、そして自分の態度をきまり悪く感じ、また当惑した。彼は手に帽子を持っていたが、悲しみのためそれを手に保つ力もなくなったと見せかけるため、わざと下に取り落とした。

 と同時に彼は一種の後悔の念を感じ、自らその行ないを卑しんだ。しかしそれは彼が悪いのだったろうか。いかんせん、彼は父を愛していなかったではないか!

 大佐の遺産とては何もなかった。家具を売り払っても葬式の費用に足るか足らずであった。下女は一片の紙を見つけて、それをマリユスに渡した。それには大佐の手で次のことが認めてあった。

予が子のために――皇帝はワーテルローの戦場にて予を男爵に叙しぬ。復古政府は血をもって贖(あがな)いたるこの爵位を予に否認すれども、予が子はこれを取りこれを用うべし。もとより予が子はそれに価するなるべし。

 その裏に大佐はまた書き添えていた。

なおこのワーテルローの戦争において、ひとりの軍曹(ぐんそう)予の生命を救いくれたり。その名をテナルディエという。最近彼はパリー近傍の小村シェルもしくはモンフェルメイュにおいて、小旅亭を営めるはずなり。もし予が子にしてテナルディエに出会わば、及ぶ限りの好意を彼に表すべし。

 父に対する敬虔(けいけん)の念からではなかったが、常に人の心に強い力を及ぼす死に対する漠然たる敬意から、マリユスはその紙片を取って納めた。

 大佐のものとては何も残っていなかった。ジルノルマン氏はその剣と軍服とを古物商に売り払わせた。近所の人々はその庭を荒らして、珍しい花を持って行った。その他の花卉(かき)は、蕁麻(いらぐさ)や藪(やぶ)となり、あるいは枯れてしまった。

 マリユスはヴェルノンに四十八時間しか留まっていなかった。葬式の後彼はパリーに帰って、また法律の勉強にかかり、もはや父のことはかつて世にいなかった者のように思い出しもしなかった。二日にして大佐は地に埋められ、三日にして忘られてしまった。

 マリユスは帽子に喪章をつけた。ただそれだけのことだった。

     五 弥撒(ミサ)に列して革命派となる

 マリユスは子供の時からの宗教上の習慣を守っていた。ある日曜日に彼は、サン・スュルピス会堂に行き、小さい時いつも伯母(おば)から連れてこられたそのヴィエルジュ礼拝堂で弥撒(ミサ)を聞いた。その日彼は平素よりぼんやりして何か考え込んでいて、一本の柱の後ろに席を占め、理事マブーフ氏の背に書いてあるユトレヒトのビロードを張った椅子(いす)の上にうずくまって、それに自ら気もつかないでいた。弥撒が初まったかと思うと、ひとりの老人が出てきて、マリユスに言った。

「あなた、ここは私の席です。」

 マリユスは急いで横にのいた。そして老人はその椅子にすわった。

 弥撒がすんでからも、マリユスは考え込みながら四、五歩向こうにじっとしていた。老人はまた彼の所へ近づいて、そして言った。

「先刻はお邪魔してすみませんでした。そしても一度お許し下さい。きっとうるさい奴とおぼし召すでしょうが、その訳を申しますから。」

「いえ、それには及びません。」とマリユスは言った。

「ですが、私を悪く思われるといけませんから。」と老人は言った。「私はあの席が好きなんです。同じ弥撒(ミサ)でもあすこで聞くと、一番よく思われます。なぜかって、それは今申します。あの席から私は、長年の間、きまって二、三カ月に一度は、ひとりのりっぱな気の毒な父親がやって来るのを見たのです。その人は自分の子供を見るのにそれ以外には機会も方法もありませんでした。家庭の都合上、子供に会うことができなかったのです。でいつも子供が弥撒に連れてこられる時間を計らって、その人はやってきました。子供の方は、父親がそこにいることは夢にも知りませんでした。おそらく父親があることさえも知らなかったでしょう。罪のないものです。父親は、人に見られないようにあの柱の後ろに隠れていました。そして子供を見ては涙を流していました。その子供を大変愛していたのです。かわいそうな人です。私はそのありさまを見たのです。そしてあの場所は、私にとっては聖(きよ)い場所となりまして、いつもそこで弥撒をきくことになったのです。私は理事として当然すわり得る理事席よりも、あの席の方が好ましいのです。また私は多少その不幸な人の身分を知っています。舅(しゅうと)と金持ちの伯母(おば)と、それから親戚もあったのでしょうが、とにかくその人たちは、父親が子供に会うなら子供に相続権を与えないとおどかしていたのです。でその人は、子供が他日金持ちになり仕合わせになるように、自分を犠牲にしていました。政治上の意見から遠ざけられたのです。なるほど政治上の意見も結構ですが、世には意見を意見だけに止めない人がいます。まあ、ワーテルローの戦いに加わったからと言って、それが悪魔だとは言えますまい。そういう理由で親と子供とをへだてるわけはありません。その人はボナパルトの下に大佐でした。もう死んだと思います。司祭をしてる私の兄と同じくヴェルノンに住んでいました。何でも、ポンマリーとかモンペルシーとか……言っていました。確か剣で切られた大きな傷痕(きずあと)がありました。」

「ポンメルシーではありませんか。」とマリユスは顔の色を変えて言った。

「さよう、さよう、ポンメルシーです。あなたもその人を知っていましたか。」

「ええ、」とマリユスは言った、「それは私の父です。」

 老理事は両手を組んで、叫んだ。

「え! あなたがその子供! なるほど、そうです、今ではもう大きくなっていられるはずです。まあどうでしょう、あなたを深く愛していたお父さんがいられたのですよ。」

 マリユスは老人に腕を貸して、その宅まで送っていった。そして翌日、彼はジルノルマン氏に言った。

「友人と狩猟の約束をしましたから、三日間ばかり出かけたいんですが。」

「四日でもよい、」と祖父は答えた、「遊んでおいで。」

 そして彼は目をまたたきながら低い声で娘に言った。

「何か女のことだな。」

     六 会堂理事に会いたる結果

 マリユスはどこへ行ったか。それは少し後にわかるだろう。

 マリユスは三日間の不在の後、パリーに帰ってきて、すぐに法律学校の図書館に行き、機関紙のとじ込みを借り出した。

 彼はその機関紙を読み、共和および帝政時代のあらゆる歴史、「セント・ヘレナ追想記」、あらゆる記録、新聞、報告書、宣言、などを片端からむさぼり読んだ。大陸軍の報告書の中に初めて父の名を見いだした時は、一週間も興奮した。彼はまた、ジョルジュ・ポンメルシーが仕えていた将軍らを、なかんずくH伯爵を訪れた。彼が再び尋ねて行ったマブーフ理事は、大佐の隠退やその花やその孤独など、ヴェルノンの生活のありさまを聞かしてくれた。ついにマリユスは崇高で穏やかで世に珍しいその男のことを、自分の父であった獅子羊(ししひつじ)とも言うべきその人のことを、十分に知り得るに至った。

 かくて、すべての時間と考えとをささげたその研究にふけってる彼は、ほとんどジルノルマン一家の人々と顔を合わせることがなくなった。食事の時には姿を見せたが、あとでさがすともういなかった。伯母(おば)は不平をもらした。ジルノルマン氏は微笑して言った、「なあに、ちょうど娘のあとを追う年頃だ。」時とすると彼はつけ加えた、「いやはや、ちょっとした艶事(つやごと)と思っていたが、どうも本気の沙汰(さた)らしいぞ。」

 いかにもそれは本気の沙汰だった。

 マリユスは父を崇拝し初めていた。

 同時に、彼の思想のうちには異常な変化が起こりつつあった。その変化の面は、数多くてしかも次から次へと移っていった。本書はわれわれの時代の多くの精神の歴史を語らんとするものであるから、この変化の面を一歩一歩たどりそのすべてを指摘することは、無益の業(わざ)ではないと思う。

 今マリユスが目を通した歴史は、彼を驚駭(きょうがい)せしめた。

 第一の結果は眩惑(げんわく)であった。

 その時まで彼にとっては、共和、帝国、などという言葉はただ恐ろしいものにすぎなかった。共和とは薄暮のうちの一断頭台であり、帝国とは暗夜のうちの一サーベルであった。しかるに今彼はその中をのぞき込んで、混沌(こんとん)たる暗黒をのみ予期していたところに、恐れと喜びとの交じった一種の異様な驚きをもって、星辰(せいしん)の輝くのを見たのである。ミラボー、ヴェルニオー、サン・ジュスト、ロベスピエール、カミーユ・デムーラン、ダントン、それから、上り行く太陽のナポレオン。彼は自分がどこにあるかを知らなかった。彼はそれらの光に眼くらんで後退(あとじさ)った。そのうちしだいに驚きの情が去り、それらの光輝になれ、眩惑(げんわく)なしにそれらの事業をながめ、恐怖の情なしにそれらの人々を見調べた。革命と帝国とは、彼の夢見るような瞳(ひとみ)の前に遠景をなして光り輝いた。そして彼は、その事変と人物との二つの群れが、二つの偉業のうちにつづまるのを見た。民衆に還付された民権の君臨のうちにある共和国と、全欧州に課せられたフランス思想の君臨のうちにある帝国。そして革命のうちから民衆の偉大なる姿が現わるるのを見、帝国のうちからフランスの偉大なる姿が現わるるのを見た。実にすばらしいことだ、と彼は自ら内心に叫んだ。

 あまりに総合的な彼の第一の評価が眩惑のために見落としたことを、ここに指摘するの必要はあるまいと思う。ここに語られるものは、前進する一精神の状態である。すべて進歩というものは、皆一躍してなされるものではない。そしてこのことを、前後すべてにわたって一度に言っておきながら、物語の先を続けよう。

 マリユスは、自分の父を了解していなかったと同じく今まで自分の国を了解していなかったことに、その時初めて気づいた。彼は両者いずれをも知らなかったのである。そして好んで自分の眼に一種の闇(やみ)をきせていたのである。しかるに今や彼は眼を開いてながめた。そして一方では賛嘆し、一方では愛慕した。

 彼は愛惜と悔恨との情に満たされ、心にあることを語り得るのは今や一つの墳墓に向かってのみであることを思って、絶望の念に駆られた。ああ父がなお生きていたならば、父がなおあったならば、神がそのあわれみといつくしみとをもってなお父を生かしておいてくれたならば、彼はいかにそのそばに走り行き、いかにしかと身を投げかけ、いかに父に叫んだことであろう!「お父さん! 来ましたよ。私です。私はあなたと同じ心を持っています。私はあなたの児です!」いかに彼は父の白い頭を抱き、その髪を涙でぬらし、その傷をながめ、その手を握りしめ、その服をなつかしみ、その足に脣(くちびる)をつけたことであろう。ああなぜに父は、長寿を保たず、天の正しき裁きをも受けず、息子の愛をも受けないで、かくも早くいってしまったのか。マリユスは心の中で絶えずすすりなきし、常にそれを「ああ!」と言葉にもらした。同時に彼はまた、いっそう本当にまじめになり、いっそう本当に沈重になり、自分の信念と思想とにいっそう固まった。各瞬間に、真なるものの光が彼の理性を補っていった。彼のうちには一種の内的発育が起こってきた。自分の父と自分の祖国と、彼にとっては新しいその二つのものがもたらしてくる、一種の自然の生長を彼は感じた。

 鍵(かぎ)を手にしたがようにすべては開けてきた。彼は今まできらっていたものを了解し、今まで憎んでいたものを見通した。それ以来彼は、嫌忌(けんき)すべく教えられた偉業について、のろうべく教えられた偉人らについて、天意的にしてまた人間的なる犯すべからざる意義を明らかに見た。昨日のものでありながら既に古い昔のもののように思われる以前の意見を考える時には、自ら憤り自ら微笑を禁じ得なかった。

 父に対する意見を改めるとともに、彼は自然にナポレオンに対する意見をも改めるに至った。

 けれども、第二の方は多少の努力を要したことを、言っておかなければならない。

 子供の時から彼は、ボナパルトに関する一八一四年の当事者らの意見に浸されていた。およそ復古政府のあらゆる偏見や、利己的な考えや、本能などは、ナポレオンを変形しがちだった。復古政府はロベスピエールよりもなおいっそうナポレオンの方をきらっていた。そしてかなり巧みに国民の疲労や母親らの恨みを利用した。ボナパルトはついにほとんど伝説的な怪物と化し去った。前に述べてきたとおり子供の想像に似た民衆の想像裏に、彼を浮かび出させるについて、一八一四年の当事者らはあらゆる恐るべき仮面を次々に持ち出し、壮大となるほど恐ろしいものから、奇怪となるほど恐ろしいものに至るまで、チベリウスからクロクミテーヌに至るまで(訳者注 前者は残忍なるローマ皇帝後者は残酷なる怪物)すべて持ち出した。かくてボナパルトのことを話す時、心底に憎悪の念がありさえすれば、すすり泣こうと笑い出そうと勝手だった。マリユスもいわゆる「あの男」について、頭の中にそれ以外の考えをかつて持たなかった。またそういう考えは、彼の性質のうちにある執拗(しつよう)さにからみついていた。彼のうちにはナポレオンを憎む頑固(がんこ)な小僧がいた。

 歴史を読みながら、ことに種々の記録や材料のうちに歴史を調べながら、マリユスの目からナポレオンを隠していた被(おお)いはしだいに取れてきた。彼は何かある広大なるものを瞥見(べっけん)した、そして他の事におけると同じようにナポレオンについても、今まで思い違いをしていたのではないかと疑った。日がたつにつれてますますはっきり見えてきた。そして初めはほとんど不本意ながら、後にはあたかも不可抗な幻にひかされたがように夢中になって、徐々に一歩一歩と、最初は暗い階段を、次にはおぼろに照らされた階段を、最後には光に満ちた燦然(さんぜん)たる心酔の階段を、彼はよじのぼり初めた。

 ある夜、彼はひとりで屋根裏にある自分の小さな室(へや)にいた。蝋燭(ろうそく)がともっていた。彼はテーブルに肱(ひじ)をついて開いた窓のそばで本を読んでいた。各種の夢想が空間から浮かんできて、彼の考えに混入した。何という大なる光景で夜はあるか! どこから来るとも知れぬほのかな響きが聞こえる。地球より二百倍も大きい火星が炬火(たいまつ)のようにまっかに輝いているのが見える。大空は黒く、星辰はひらめいている。驚くべき光景である。

 マリユスは大陸軍の報告書を、戦場において書かれたホメロス的な文句をその時読んでいた。間をおいては父の名前が出てき、絶えず皇帝の名前が出てきた。大帝国の全局が現われてきた。彼は自分のうちに、潮のようなものがふくれ上がりわき上がってくるのを感じた。時とすると、息吹(いぶき)のように父が自分のそばを通って、耳に何かささやくかと思われた。彼はしだいに異常な気持ちになっていった。太鼓の音、大砲のとどろき、ラッパの響き、歩兵隊の歩調を取った足音、騎兵の茫漠(ぼうばく)たる遠い疾駆の音、などが聞こえてくるかと思われた。時々彼は目を天の方へ上げて、きわまりなき深みのうちに巨大な星座の輝くのをながめ、それからまた書物の上に目を落として、そこにまた他の巨大なるものが雑然と動くのを見た。彼の胸はしめつけられた。彼は感きわまり、身を震わし、息をあえいだ。とにわかに、心のうちに何がありまた何に動かされてるのかを自ら知らないで、彼は立ち上がり、両腕を窓の外に差し伸ばし、陰影を、静寂を、暗黒なる無窮を、永劫(えいごう)の広漠(こうばく)を、じっとながめ、そして「皇帝万歳!」を叫んだ。

 その瞬間以来、いっさいが決定した。コルシカの食人鬼――簒奪者(さんだつしゃ)――暴君――自分の姉妹に愛着した怪物――ルマタ(訳者注 ナポレオンがひいきにした俳優)の教えを受けた道化役者――聖地ジャファの攪乱者(かくらんしゃ)――猛虎――ブオナパルテ――すべてそれらは消散してしまい、そのあとには彼の頭の中に漠然たるしかも光り輝く光明が現われて、そこには届き難い高みに、シーザーの大理石像の青白い幻が光っていた。皇帝は彼の父にとっては、人々の賛嘆し献身する親愛なる将帥にすぎなかった。しかしマリユスにとっては、それ以上の何かであった。世界統一の業をローマ人の一団より継承するフランス人の一団を建設すべく、使命を帯びたる者であった。破壊の驚くべき建造者であり、シャールマーニュ、ルイ十一世、アンリ四世、リシュリユー、ルイ十四世、公安委員会、などの後継者であった。またもとより、汚点や欠点や罪悪をも有したであろう。換言すれば人間であったであろう。しかしその欠点のうちにもおごそかであり、その汚点のうちにも光り輝き、その罪悪のうちにも強力であった。あらゆる国民をしてフランスを「大国民」なりと言わしめるため、天より定められた人であった。否なおそれ以上であった。手に保つ剣によってヨーロッパを征服し、放射する光によって世界を征服したる、フランス自身の権化であった。マリユスは常に辺境に突っ立って未来をまもる赫々(かくかく)たる映像を、ボナパルトのうちに認めた。専制君主ではあるがしかし執政官であり、共和より生まれて革命の結末をつける専制君主であった。イエスが神人であるごとく、彼にとってはナポレオンは民衆人であった。

 新たに一宗教にはいった者のように、明らかにその帰依は彼を酔わしてしまった。彼はそこに飛び込んで執着し、あまりに深入りしすぎた。それは彼の性質上、やむを得なかった。一度坂道にさしかかると、途中でふみ止まることがほとんどできなかった。そして剣に対する熱狂は彼をとらえ、その思想に対する心酔と頭の中でからみ合った。彼は自ら気づかずして、天才とともにそして天才と一体になって、力を賛美した。言い換えれば、彼は自ら知らずして、偶像崇拝の二つの室(へや)の中に身を置いた、一方は神性なるもの、一方は獣性なるもの。多くの点について、彼はなお誤った方向をたどっていた。彼はすべてを承認した。人は真理の方へ進みながら途中誤謬(ごびゅう)に出会うことがある。彼は一種の熱烈な誠意を持っていて、すべてを一塊(ひとかたまり)にしてのみ込んだ。新たにはいった道理において、あたかもナポレオンの光栄を測るがように旧制の誤謬を判別しながら、酌量すべき事情をすべて閑却して顧みなかった。

 それにしても、驚くべき一歩はふみ出されたのである。昔王政の墜落を見たところに、今はフランスの高揚を見た。彼の方向は変わっていた。昔、西であったものは、今は東になっていた。彼は向きを変えていた。

 すべてそれらの革新は、家の人々が気づかぬ間に彼のうちに成し遂げられた。

 そのひそかな仕事のうちに、ブールボン派であり過激王党派だった古い外皮をまったく捨ててしまった時、貴族派、一性論派、王党派、の衣を脱した時、革命派となり、深き民主派となり、ほとんど共和派となった時、その時彼はオルフェーヴル川岸のある印刷屋に行って、男爵マリユス・ポンメルシーという名前の名刺を百枚注文した。

 それは彼のうちに起こった変化の、父を中心としてすべてが引き寄せられるに至った変化の、きわめて当然な結果の一つにすぎなかった。ただ彼はひとりも知己を持たず、どの門番の家へもその名刺をふりまくことができなかったので、それをポケットの中に蔵(しま)い込んだ。

 またも一つの自然な結果として、彼は父に近づくに従って、父の記憶に近づくに従って、大佐が二十五年間奮闘してきた事物に近づくに従って、祖父から遠ざかるに至った。前に言ったとおり、ジルノルマン氏のむら気は既に長い前から彼の好むところでなかった。既に彼らの間には、軽佻(けいちょう)なる老人に対する沈重なる青年のあらゆる不調和が存していた。ジェロントの快活はウェルテルの憂鬱(ゆううつ)を憤らせいら立たせるものである。同じ政治的意見と同じ思想とがふたりに共通である間は、それを橋としてマリユスはジルノルマン氏と顔を合わしていた。しかし一度その橋が落つるや、ふたりの間には深淵(しんえん)が生じた。それからまた特に、愚かな動機によって彼を無慈悲にも大佐から引き離し、かくて父から子供を奪い子供から父を奪ったのは、実にジルノルマン氏であったことを思うと、マリユスは言うべからざる反撥(はんぱつ)の情を覚えた。

 父に対する愛慕のために、マリユスはほとんど祖父を嫌悪(けんお)するに至った。

 けれどもそれらのことは、前に言ったとおり、外部には少しも現われなかった。ただ彼はますます冷淡になって、食事も簡単にすまし、家にいることも少なくなった。伯母(おば)がそれについて小言(こごと)を言った時、彼はごくおとなしくしていて、その口実に、勉強だの学校の講義だの試験だの講演会だの種々なことを持ち出した。祖父の方はその一徹な見立てを少しも変えなかった。「女のことだ。よくわかってる。」

 マリユスは時々家をあけた。

「あんなにしてどこへ行くのでしょう。」と伯母は尋ねた。

 その不在はいつもごくわずかな時日だったが、そのうちに彼はある時、父が残したいいつけを守らんために、モンフェルメイュに行って、昔のワーテルローの軍曹(ぐんそう)である旅亭主テナルディエをさがした。しかしテナルディエは破産して、宿屋は閉ざされ、どうなったか知ってる者はいなかった。その探索のために、マリユスは四日間家をあけた。

「確かにこれは調子が狂ってきたんだな。」と祖父は言った。

 彼がシャツの下に何かを黒いリボンで首から胸にかけてるのを、ふたりは見たようにも思った。

     七 ある艶種(つやだね)

 ひとりの槍騎兵(そうきへい)のことを前にちょっと述べておいた。

 それはジルノルマン氏の父方(ちちかた)の系統で、甥(おい)の子に当たり、一族の外にあって、いずれの家庭からも遠く離れ、兵営の生活を送っていた。そのテオデュール・ジルノルマン中尉は、いわゆるきれいな将校たるすべての条件をそなえていた。「女のような身体つき」をし、揚々たる態度でサーベルを引きずり、髭(ひげ)を上に巻き上げていた。時にパリーに来ることがあったが、それもごくまれで、マリユスはかつて会ったことがないくらいだった。ふたりの従兄弟(いとこ)は互いに名前だけしか知ってはいなかった。前に言ったと思うが、テオデュールはジルノルマン伯母(おば)の気に入りだった。そしてそれも、常に顔を合わしていないからに過ぎなかった。常に会っていないといろいろよく思われるものである。

 ある日の朝姉のジルノルマン嬢は、その平静さのうちにもさすがに興奮して、自分の室(へや)に戻ってきた。マリユスがまた祖父に向かって、ちょっと旅をしたいと申し出たのである。しかもすぐその晩にたちたいと言った。「行っておいで、」と祖父は答えた。そしてジルノルマン氏は額の上まで両の眉(まゆ)を上げながら、ひとりして言った、「また家をあけるんだな。」それでジルノルマン嬢は非常に心痛して自分の室に上ってゆきながら階段の所で、「あまりひどい!」と憤慨の言葉をもらし、「だがいったいどこへ行くんだろう?」と疑問の言葉をもらした。何か道ならぬ艶事(つやごと)、ある影の中の女、ある媾曳(あいびき)、ある秘密、そういうことに違いないと彼女は思い、少しばかり探ってみるのも当然だと考えた。秘密を探って味わうことは、悪事を最初にかぎ出すのと同じ趣味で、聖(きよ)い心の者もそれに不快を覚えないものである。熱心な信仰の人の心のうちにも、汚れたる行ないに対する好奇心があるものである。

 それで彼女は、事情を知りたいという漠然(ばくぜん)とした欲望にとらわれた。

 平素の落ち着きにもかかわらず、多少不安なその好奇心をまぎらすために、彼女は自分の技芸のうちに逃げ込んで刺繍(ししゅう)を初めた。それは車の輪がたくさんにある帝政および復古時代の刺繍の一つで、綿布の上に綿糸でなすのだった。退屈な仕事に頑固(がんこ)な女工という形である。そうして彼女は幾時間もの間椅子(いす)にすわりきりでいた。すると扉(とびら)が開いた。ジルノルマン嬢は顔を上げた。中尉のテオデュールが前に立っていて、軍隊式の礼をしていた。彼女は喜びの声を上げた。お婆さんであり、似而非貞女(えせていじょ)であり、信者であり、伯母(おば)であっても、自分の室(へや)に一人の槍騎兵(そうきへい)がはいって来るのを見ては、うれしからざるを得ないわけである。

「まあ、テオデュール!」と彼女は叫んだ。

「ちょっと通りかかりましたので。」

「まあ初めに……。」

「ええ今!」とテオデュールは言った。

 そして彼は伯母を抱擁した。ジルノルマン伯母は机の所へ行って、その抽出(ひきだ)しをあけた。

「少なくも一週間くらいは泊まってゆくんでしょうね。」

「いえ、今晩帰ります。」

「そんなことがお前!」

「でもそうなんです。」

「でもテオデュールや、泊まっていっておくれ、お願いだから。」

「私の心ははいと言いますが、命令がいえと言います。ごく簡単な事情です。私どもの兵営が変わって、今までムロンだったのが、ガイヨンになったんです。で元の営所からこんどの営所へ行くには、パリーを通らなければなりません。それで私は、ちょっと伯母(おば)さんに会って来ると言ってやってきました。」

「そしてこれはその骨折りのためにね。」

 彼女はルイ金貨を十個彼の手に握らした。

「いえお目にかかる私の喜びのためにと言って下さい、伯母さん。」

 テオデュールは彼女をまた抱擁した。その時、軍服の金モールのために首筋がちょっとすりむけたのを、彼女はかえってうれしく感じた。

「でお前は連隊について馬で行くんですか。」

「いいえ伯母さん。あなたにお目にかかりたかったんです。それで特別の許可を受けてきました。従卒が馬をひいていってくれますから、私は駅馬車で行きます。それについて、少しお尋ねしたいことがありますが。」

「何ですか。」

「従弟(いとこ)のマリユス・ポンメルシーも旅行するんですか。」

「どうしてそれを知っています?」と伯母はにわかに強い好奇心にそそられて言った。

「こちらへ着いてから、前部の席を約束しておこうと思って馬車屋へ行きました。」

「すると?」

「するとひとりの客が上部の席を約束していました。私はその名札を見ました。」

「何という名でした。」

「マリユス・ポンメルシーというんです。」

「まあ何ということでしょう。」と伯母(おば)は叫んだ。「お前の従弟(いとこ)はお前のようにちゃんとした子ではないんですよ。駅馬車の中で夜を明かそうなんて。」

「私と同じようにですね。」

「いえお前の方は義務ですからね。あれのは無茶なんです。」

「おやおや!」とテオデュールは言った。

 そこで姉のジルノルマン嬢に一事件が起こった。ある考案が浮かんだのである。もし男だったら額をたたくところだった。彼女はテオデュールに尋ねはじめた。

「お前の従弟はお前を知ってるでしょうか。」

「いいえ。私の方は従弟を見たことがあります、けれど向こうでは一度も私に目を向けたことはありません。」

「でお前さんたちはちょうどいっしょに旅するわけですね。」

「ええ、彼は上部の席で、私は前部の席で。」

「その駅馬車はどこへ行くんです。」

「アンドリーへです。」

「ではマリユスはそこへ行くんでしょうね。」

「ええ、私のように途中で降りさえしなければ。私はガイヨンの方へ乗り換えるためにヴェルノンで降ります。私はマリユスがどの方へ行くつもりかは少しも知りません。」

「マリユスって、まあ何て賤(いや)しい名でしょうね。どうしてマリユスなんていう名をつけたんでしょう。だけどお前の方はまあ、テオデュールというんですからね。」

「でもアルフレッドという方が私は好きです。」と将校は言った。

「まあ聞いておくれよ、テオデュール。」

「聞いていますよ、伯母(おば)さん。」

「気をつけてですよ。」

「気をつけていますよ。」

「いいですかね。」

「はい。」

「ところで、マリユスはよく家をあけるんですよ。」

「へえー。」

「旅をするんですよ。」

「ははあ。」

「泊まってくるんですよ。」

「ほほう。」

「どうしたわけか知りたいんですがね。」

 テオデュールは青銅で固めた人のように落ち着き払って答えた。

「何か艶種(つやだね)でしょう。」

 そしてまちがいないというような薄ら笑いをして、彼は言い添えた。

「女ですよ。」

「そうに違いない。」と伯母(おば)は叫んだ。彼女はジルノルマン氏の言葉を聞いたような気がし、大伯父(おおおじ)と甥(おい)の子とからほとんど同じように力をこめて言われた女という言葉によって、自分の思っていたところも確かなものとなったように感じた。彼女は言った。

「私たちの頼みをきいておくれよ。マリユスのあとを少しつけておくれよ。向こうではお前を知らないから、わけはないでしょう。女がいるとすれば、それも見届けるようにね。そして始終のことを知らしておくれ。お祖父(じい)さんも喜ばれるでしょうから。」

 テオデュールはそんな探索の役目にあまり趣味を持たなかった。しかし彼はルイ金貨十個にひどく心を打たれていたし、も一度もらえるかも知れないと思った。でその仕事を引き受けて言った、「承知しました、伯母さん。」そして彼は一人でつけ加えた、「監督になったわけだな。」

 ジルノルマン嬢は彼を抱擁した。

「テオデュールや、お前はそんな悪戯(いたずら)はしないでしょうね。お前はただ規律に従い、命令を守り、義務を果たす謹直な人で、家をすてて女に会いに行くなどということはないでしょうね。」

 槍騎兵(そうきへい)は凶賊カルトゥーシュが誠直だと言ってほめられたような満足の渋面をした。

 そういう対話が行なわれた日の夕方、マリユスは監視されてることに気もつかずに、駅馬車に乗った。監視人の方では、第一にまず眠ってしまった。それは他意ない眠りだった。アルゴス(訳者注 百の目をそなえ五十の目ずつ交代に眠るという怪物)は終夜鼾(いびき)をかいて眠ってしまったのである。

 夜明けに御者は叫んだ。「ヴェルノン、ヴェルノン宿(しゅく)、ヴェルノンで降りる方!」そして中尉のテオデュールは目をさました。

「そうだ、」と彼はまだ半ば夢の中にあってつぶやいた、「ここで降りるんだった。」

 それから、目がさめるにつれて記憶がしだいに明らかになってゆき、伯母(おば)のこと、ルイ金貨十個のこと、マリユスの挙動を知らせると約束したことなどを、彼は思い出した。そしてひとりで笑い出した。

「もう馬車にいはすまい。」と彼はふだんの軍服の上衣のボタンをかけながら考えた。「ポアシーに止まったかも知れない。トリエルに止まったかも知れない。それとも、ムーランで降りなかったらマントかな。あるいはロルボアーズで降りたかな。またはパッシーまできたかな。そして左へ曲がってエヴルーの方へ行ったか、右へ曲がってラローシュ・ギーヨンの方へ行ったかな。追っかけようたってだめだし、お人よしの伯母へは、さて何と書いてやったものだろう。」

 その時上部の室から降りる黒いズボンが、前部の室(へや)のガラス戸から見えた。

「マリユスかしら?」と中尉は言った。

 それはマリユスだった。

 馬車の下には、馬や御者などの間に交じって、小さな田舎娘(いなかむすめ)が旅客に花を売っていた。「おみやげの花はいかが、」と彼女は呼んでいた。

 マリユスはそれに近寄って、平籠(ひらかご)の中の一番美しい花を買った。

「なるほど、」と前の部屋(へや)から飛び降りながらテオデュールは言った、「これはおもしろくなってきた。どんな女にあの花を持ってってやるのかな。あんなきれいな花を持ってゆくくらいだから、よほどの別嬪(べっぴん)に違いない。ひとつ見てやろう。」

 そしてもう今度は、言いつかったためではなく、自分の好奇心からして、あたかも自ら好きで狩りをする犬のように、彼はマリユスのあとをつけはじめた。

 マリユスはテオデュールに何らの注意も払わなかった。りっぱな女たちが駅馬車から降りてきたが、彼はその方にも目を注がなかった。彼は周囲のこと何一つ目にはいらないようだった。

「よほど夢中になってるな。」とテオデュールは考えた。

 マリユスは教会堂の方へ向かって行った。

「すてきだ。」とテオデュールは自ら言った。「会堂だな。弥撒(ミサ)でちょっと味をつけた媾曳(あいびき)はいいからな。神様の頭越しに横目とはしゃれてるからな。」

 教会堂まで行くと、マリユスはその中にはいらないで、裏手の方へ回っていった。そして奥殿の控壁の角(かど)に見えなくなった。

「外で会うんだな。」とテオデュールは言った。「ひとつ女を見てやるかな。」

 そして彼は靴(くつ)の爪先(つまさき)で立って、マリユスが曲がった角の方へ進んで行った。

 そこまで行くと、彼は呆然(ぼうぜん)と立ち止まった。

 マリユスは額を両手の中に伏せて、一つの墓の叢(くさむら)の中にひざまずいていた。花はそこに手向(たむ)けられていた。墓の一端に、その頭部のしるしたる小高い所に、黒い木の十字架が立っていて、白い文字がしるしてあった、「陸軍大佐男爵ポンメルシー。」マリユスのむせび泣く声が聞こえた。

 女とは一基の墓だったのである。

     八 花崗岩と大理石

 マリユスが初めてパリーを去って旅したのは、そこへであった。ジルノルマン氏が「家をあけるんだな。」と言ったたびごとに彼が立ち戻ったのは、そこへであった。

 中尉テオデュールは、意外にも墳墓に出くわしてまったく唖然(あぜん)とした。墳墓に対する敬意と大佐に対する敬意との交じった、自ら解き得ない一種の不思議な不安な感情を覚えた。そしてマリユスをひとり墓地に残して退いた。その退却には規律があった。死者は大きな肩章をつけて彼に現われ、彼はそれに対して挙手の礼をしようとまでした。伯母(おば)に何と書いてやっていいかわからないので、結局何にも書いてやらないことにした。そしてそのままでは、マリユスの恋愛事件についてテオデュールがなした発見からは、おそらく何らの結果も起こらなかったであろうが、しかし偶然のうちにしばしばある不思議な天の配剤によって、ヴェルノンのそのできごとの後間もなく、パリーで一つの事件がもち上がった。

 マリユスは三日目の朝早くヴェルノンから帰ってきて、祖父の家に着いた。そして駅馬車の中で二晩過ごしたためにすっかり疲れていて、水泳場に一時間ばかり行って不眠を補いたくなったので、急いで自分の室(へや)に上がって行き、旅行用のフロックと首にかけていた黒い紐(ひも)とを脱ぐが早いか、すぐに水泳場へ出かけて行った。

 ジルノルマン氏は健康な老人の例にもれず朝早くから起きていて、マリユスが帰ってきた音をきいた。それで老年の足の及ぶ限り大急ぎで、マリユスの室(へや)がある上の階段を上がっていった。そしてマリユスを抱擁し、抱擁のうちに種々尋ねてみて、どこから帰ってきたかを少し知ろうと思った。

 しかし八十以上の老人が上がって来るのよりも、青年が下りてゆく方が早かった。ジルノルマン老人が屋根部屋(やねべや)にはいってきた時には、マリユスはもうそこにいなかった。

 寝床はそのままになっており、その上には何の気もなしに、フロックと黒い紐(ひも)とが散らかしてあった。

「この方がよい。」とジルノルマン氏は言った。

 そして間もなく彼は客間にはいってきた。そこには既に姉のジルノルマン嬢が席についていて、例の車の輪を刺繍(ししゅう)していた。

 ジルノルマン氏は得意げにはいってきたのである。

 彼は片手にフロックを持ち、片手に首のリボンを持っていた。そして叫んだ。

「うまくいった。これで秘密が探れる。底の底までわかる。悪戯者(いたずらもの)の放蕩(ほうとう)に手をつけることができる。種本を手に入れたようなものだ。写真もある。」

 実際、メダルに似寄った黒い粒革(つぶかわ)の小箱がリボンに下がっていた。

 老人はその小箱を手に取って、しばらく開きもしないでじっとながめた。あたかも食に飢えた乞食(こじき)が自分のでないりっぱなごちそうが鼻の先にぶら下がってるのをながめるような、欲望と喜悦と憤怒との交じってる様子だった。

「これは確かに写真だ。こんなことを私(わし)はよく知っている。胸にやさしくつけてるものだ。実にばかげた者どもだ。見るもぞっとするような恐ろしい下等な女に違いない。近ごろの若い者はまったく趣味が堕落してるからね。」

「まあ見ようではありませんか、お父さん。」と老嬢は言った。

 ばねを押すと小箱は開いた。中にはただ、ていねいに畳んだ一片の紙があるのみだった。

「同じことは一つことだ。」と言ってジルノルマン氏は笑い出した。「これもわかってる。艶文(いろぶみ)というやつだ。」

「さあ読んでみましょう。」と伯母(おば)は言った。

 そして彼女は眼鏡(めがね)をかけた。ふたりはその紙を開いて、次のようなことを読んだ。

予が子のために――皇帝はワーテルローの戦場にて予を男爵に叙しぬ。復古政府は血をもって購(あがな)いたるこの爵位を予に否認すれども、予が子はこれを取りこれを用うべし。もとより予が子はそれに価するなるべし。

 父と娘とが受けた感情は、とうてい言葉には尽し難い。彼らは死人の頭から立ち上る息吹(いぶき)で凍らされでもしたように感じた。互いに一言もかわさなかった。ただジルノルマン氏は自分自身に話しかけるように低い声で言った。

「あのサーベル奴(め)の字だ。」

 伯母はその紙を調べ、種々ひっくり返してみ、それから小箱の中にしまった。

 同時に、青い紙にくるんだ小さな長方形の包みが、フロックのポケットから落ちた。ジルノルマン嬢はそれを拾い上げて、青い紙を開いてみた。それはマリユスの百枚の名刺だった。彼女はその一枚をジルノルマン氏に差し出した。彼は読んだ、「男爵マリユス・ポンメルシー。」

 老人は呼び鈴を鳴らした。ニコレットがやってきた。ジルノルマン氏はリボンと小箱とフロックとを取り、それらを室(へや)のまんなかに、床(ゆか)にたたきつけた。そして言った。

「そのぼろ屑(くず)を持ってゆけ。」

 一時間ばかりの間はまったく深い沈黙のうちに過ごされた。老人と老嬢とは互いに背中合わせにすわり込み、各自に、そしてたぶんは同じことを、思いめぐらしていた。終わりにジルノルマン伯母(おば)は言った。

「よいざまだ!」

 やがてマリユスが現われた。戻ってきたのである。そして室の閾(しきい)をまたがないうちに、祖父が自分の名刺を一枚手に持ってるのを見た。祖父は彼の姿を見るや、何かしらてきびしい市民的な冷笑的な高圧さで叫んだ。

「これ、これ、これ、これ、お前は今は男爵だな。お祝いを言ってあげよう。いったい何という訳だ?」

 マリユスは少し顔を赤らめて答えた。

「私は父の子だという訳です。」

 ジルノルマン氏は冷笑をやめて、きびしく言った。

「お前の父というのは、私だ。」

「私の父は、」とマリユスは目を伏せ厳格な様子をして言った、「謙遜なそして勇壮な人でした。共和とフランスとにりっぱに仕えました。人間がかつて作った最も偉大な歴史の中の偉人でした。二十五年余りの間露営のうちに暮らしました、昼は砲弾と銃火の下に、夜は雪の中に、泥にまみれ、雨に打たれて暮らしました。軍旗を二つ奪いました。二十余の傷を受けました。そして忘れられ捨てられて死にました。しかもその誤ちと言ってはただ、自分の国と私と、ふたりの忘恩者をあまりに愛しすぎたということばかりでした。」

 それはジルノルマン氏の聞くにたえないことだった。共和という言葉で彼は立ち上がった、否なおよく言えばつっ立った。そしてマリユスの発する一語一語に、鉄工場の(ふいご)の息を炭火の上に吹きかけるようなさまが、その王党の老人の顔に現われた。彼の顔色は薄墨色から赤となり、赤から真紅となり、真紅から炎の色と変じた。

「マリユス!」と彼は叫んだ、「言語道断な奴だ! お前の親父(おやじ)がどんな男だったか、そんなことは私(わし)は知らん。知ろうとも思わん。いっさい知らん、顔も知らん。ただ私が知ってるのは、奴らが皆悪党だったことだけだ。人非人、人殺し、赤帽子、盗人、だけだったことだ。皆そうだ。皆そうだ。私はだれも知らん。皆いっしょにして言うんだ。わかったか、マリユス! お前が男爵だって! ロベスピエールに仕えた奴らは皆山賊だ。ブ…オ…ナ…パルテに仕えた奴らは皆無頼漢だ。正当な国王に背(そむ)き、背き、背いた奴らは皆謀反人(むほんにん)だ。ワーテルローでプロシア人とイギリス人との前から逃げ出した奴らは皆卑怯者(ひきょうもの)だ。私が知ってるのはそれだけのことだ。お前の親父さんもその中にいたかどうか、私は知らん。はなはだ気の毒の至りだ。」

 こんどはマリユスが炭火で、ジルノルマン氏がとなった。マリユスは手足を震わし、どうなるかを知らず、頭は燃えるようだった。彼は聖餐(せいさん)が風に投げ散らされるのを見る牧師のようであり、偶像の上に通行人が唾(つば)してゆくのを見る道士のようだった。そういうことが自分の前で臆面(おくめん)もなく言われるのは許すべからざることのように思われた。しかしどうしたらいいか。父は自分の面前で足下に踏みつけられ踏みにじられた。しかもだれによってであるか。祖父によってではないか。一方を凌辱(りょうじょく)することなくして一方を復讐(ふくしゅう)することがどうしてできよう。祖父を辱(はずか)しむることはできない、また、父の讐(あだ)を報じないで捨ておくことも同じくできない。一方には神聖なる墳墓があり、他方には白髪がある。しばらく彼は酔ったようによろめきながら、頭の中には旋風が渦巻いた。やがて彼は目を上げ、祖父をじっと見つめ、そして雷のような声で叫んだ。

「ブールボン家なんかぶっ倒れるがいい、ルイ十八世の大豚めも!」

 ルイ十八世はもう四年前に死んでいた。しかしそんなことは彼にはどうでもよかった。

 老人はまっかになっていたが、突然髪の毛よりもなお白くなった。彼は暖炉の上にあったベリー公の胸像の方を向いて、変に荘重な態度で深く礼をした。それから黙ったままおもむろに暖炉から窓へ、窓から暖炉へと、二度室(へや)の中を横ぎり、石の像が歩いてるように床(ゆか)をぎしぎしさした。二度目の時彼は、年取った羊のように惘然(もうぜん)としてその衝突をながめていた娘の方へ身をかがめて、ほとんど冷静な微笑をたたえて言った。

「この人のような男爵と、私(わし)のような市民とは、とうてい同じ屋根の下にいることはできない。」

 そして急に身を起こし、まっさおになり、うち震い、恐ろしい様子になり、恐るべき憤怒の輝きに額を一段と大きくして、マリユスの方に腕を差し伸ばして叫んだ。

「出て行け。」

 マリユスは家を去った。

 翌日、ジルノルマン氏は娘に言った。

「あの吸血児の所へ六カ月ごとに六十ピストル(訳者注 ピストルは金貨にして十フランに当たる)だけ送って、もう決してあいつのことを私の前で口にしてはいけません。」

 まだ吐き出すべき激怒がたくさん残っており、しかもそのやり場に困って、彼はそれから三カ月以上も続けて、自分の娘に他人がましい冷ややかな口をきいていた。

 マリユスの方でもまた、憤って家を飛び出した。そして彼の激昂(げっこう)を強めた一事があったことをちょっと言っておかなければならない。家庭の紛紜(ふんうん)を複雑にするそれらのこまかな不祥事が常にあるもので、たとい根本においてはそのために不正が増大するものではないとしても、損失はそのために大きくなるものである。ニコレットは祖父の命令によって、大急ぎでマリユスの「ぼろ屑(くず)」をその室(へや)に持ってゆきながら、自分でも気づかずに、たぶん薄暗い上の階段にでもあろうが、大佐の書いた紙片がはいっている黒い粒革(つぶかわ)の箱を落とした。そしてその紙も箱も見つからなかった。きっと「ジルノルマン氏」が――その日以来もうマリユスは祖父のことをそういうふうにしか決して呼ばなかった――「父の遺言」を火中に投じたものと、マリユスは思い込んだ。彼は大佐が書いたその数行を暗記していたので、結局何らの損害をも受けはしなかった。しかしその紙、その筆蹟、その神聖な形見、それは実に彼の心だったのである。それがどうされたのであるか?

 マリユスはどこへ行くとも言わず、またどこへ行くつもりか自分でも知らず、三十フランの金と、自分の時計と、旅行鞄(りょこうかばん)に入れた二、三枚の衣服とを持って、家を出て行った。そして辻馬車(つじばしゃ)に飛び乗り、時間借りにして、ラタン街区の方へあてもなく進ました。

 マリユスはどうなりゆくであろうか?

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