ビクトル・ユーゴー レ・ミゼラブル 第三部 マリユス


   第五編 傑出せる不幸

     一 窮迫のマリユス

 マリユスにとって生活は苦しくなった。自分の衣服と時計とを食うのは大したことではない。彼はいわゆる怒った牝牛(めうし)という名状すべからざるものを食ったのである(訳者注 怒ったる牝牛を食うとは困窮のどん底に達するの意)。それは実に恐るべきもので、一片のパンもない日々、睡眠のない夜々、蝋燭(ろうそく)のない夕、火のない炉、仕事のない週間、希望なき未来、肱(ひじ)のぬけた上衣(うわぎ)、若い娘らに笑われる古帽子、借料を払わないためしめ出される夕の戸、門番や飲食店の主人から受くる侮辱、近所の者の嘲(あざけ)り、屈辱、踏みにじられる威厳、選り好みのできない仕事、嫌悪(けんお)、辛苦、落胆、などあらゆるものを含んでいる。そしてマリユスは、いかにして人がそれらを貪(むさぼ)り食うか、いかにしばしば人はそれらのもののほかのみ下すべきものがないか、それを学んだのである。愛を要するがゆえに自尊をも要する青春の頃において、服装の賤(いや)しいゆえにあざけられ、貧しいゆえに冷笑されるのを、彼は感じた。いかめしい矜持(きょうじ)に胸のふくれ上がるのを覚ゆる青年時代において、彼は一度ならず穴のあいた自分の靴の上に目を落としては、困窮の不正なる恥辱と痛切なる赤面とを知った。それは驚くべき恐るべき試練であって、それを受くる時、弱き者は賤劣(せんれつ)となり強き者は崇高となる。運命があるいは賤夫をあるいは半神を得んと欲する時、人を投ずる坩堝(るつぼ)である。

 なぜなれば、かえって小さな奮闘のうちにこそ多くの偉大なる行為がなされる。窮乏と汚行との必然の侵入に対して、影のうちに一歩一歩身をまもる執拗(しつよう)な人知れぬ勇気があるものである。何人にも見られず、何らの誉れも報いられず、何らの歓呼のラッパにも迎えられぬ、気高い秘密な勝利があるものである。生活、不幸、孤立、放棄、貧困、などは皆一つの戦場であり、またその英雄がある。それは往々にして、高名なる英雄よりもなお偉大なる人知れぬ英雄である。

 堅実にして稀有(けう)なる性格がかくしてつくり出さるる。ほとんど常に残忍なる継母である困窮は時として真の母となる。窮乏は魂と精神との力を産み出す。窮迫は豪胆の乳母(うば)となる。不幸は大人物のためによき乳となる。

 苦しい生活のある場合には、マリユスは自ら階段を掃き、八百屋でブリーのチーズを一スーだけ買い、夕靄(ゆうもや)のおりるのを待ってパン屋へ行き、一片のパンをあがなって、あたかも盗みでもしたようにそれをひそかに自分の屋根部屋へ持ち帰ることもあった。時とすると、意地わるな女中らの間に肱(ひじ)で小突かれながら、片すみの肉屋にひそかにはいってゆく、ぎごちない青年の姿が見えることもあった。彼は小わきに書物を抱え、臆病(おくびょう)らしいまた気の立った様子をして、店にはいりながら汗のにじんだ額から帽子をぬぎ、あっけにとられてる肉屋の上(かみ)さんの前にうやうやしく頭を下げ、小僧の前にも一度頭を下げ、羊の肋肉(ろくにく)を一片求め、六、七スーの金を払い、肉を紙に包み、書物の間にはさんでわきに抱え、そして立ち去っていった。それはマリユスだった。彼はその肋肉を自ら煮、それで三日の飢えをしのぐのであった。

 初めの日は肉を食い、二日目はその脂(あぶら)を吸い、三日目にはその骨をねぶった。

 幾度も繰り返してジルノルマン伯母(おば)は、六十ピストルを贈ってみた。しかしマリユスはいつも必要がないと言ってそれを送り返した。

 前に述べた心の革命が彼のうちに起こった時も、彼は父に対する喪服をなおつけていた。その時以来彼はもうその黒服を脱がなかった。しかし衣服の方が彼から去っていった。ついにはもう上衣がなくなった。次にズボンもなくなりかけていた。いかんとも術(すべ)はなかった。ただ彼もいくらかクールフェーラックに力を貸してやったことがあるので、クールフェーラックは彼に古い上衣を一枚くれた。マリユスはある門番に頼んで三十スーでそれを裏返してもらった。それで新しい一枚の上衣となった。しかしその地色は緑だった。それからは日が暮れなければマリユスは外に出なかった。夜になると上衣の緑は黒となった。常に喪服をつけていたいと願って、彼は夜のやみを身にまとったのである。

 そういう境涯を通って、彼はついに弁護士の資格を得た。彼は表面上クールフェーラックの室(へや)に住んでることにした。それはかなりの室で、そこには取って置きの幾冊かの法律の古本もあり、少しばかりの小説の端本(はほん)で補われ、弁護士としての規定だけの文庫には見られた。手紙も一切クールフェーラックの所へあてさした。

 マリユスは弁護士となった時、冷ややかではあるが恭順と敬意とをこめた手紙を書いて祖父に報じた。ジルノルマン氏は身を震わしながらその手紙を取り、それを読み下し、そして四つに引き裂いて屑籠(くずかご)に投げ込んだ。それから二、三日してジルノルマン嬢は、父がただ一人室の中で何か声高に言ってるのを聞いた。そういうことは、彼がきわめて激昂(げっこう)した時いつも起こることだった。ジルノルマン嬢は耳を傾けた。老人はこう言っていた。「貴様がばかでさえなければ、同時に男爵で弁護士であるなどということができないのが、わかるべきはずだ。」

     二 貧困のマリユス

 貧窮も他の事と同じである。ついにはたえ得らるるものとなる。いつかはある形を取り、それに固まってゆく。人は貧窮にも生長する、換言すれば、微弱ではあるがしかし生きるには十分な一種の仕方で発達してゆく。マリユス・ポンメルシーの生活がいかなる具合に整えられていったかは、次のとおりである。

 彼は最も狭い峠を越した。前にひらけた峡路はいくらか広くなった。勤勉と勇気と忍耐と意思とをもって、彼はついに年に約七百フランを働き出すようになった。彼はドイツ語と英語とを学んだ。クールフェーラックから友人の本屋に関係をつけてもらって、その文学部の方につまらぬ端役を勤めることになった。広告文をつづり、新聞の翻訳をし、出版物に注を入れ、伝記を編み、その他種々のことをやった。それでともかく毎年、七百フランはきまって収入があった。それで生活を立てた。必ずしもひどい生活ではなかった。どういうふうにして? それは次に述べよう。

 マリユスは年三十フランで、ゴルボー屋敷のきたない室(へや)を一つ借り受けた。書斎とは言っていたが暖炉もなく、道具とてはただ是非とも必要なものだけしかなかった。そのわずかな道具は自分のものだった。毎月三フランずつ借家主の婆さんに与えて、室を掃除(そうじ)してもらい、毎朝少しの湯と新しい鶏卵を一つと一スーのパンとを持ってきてもらった。彼はそのパンと卵とで昼食をすました。卵の高い安いによってその昼食は二スーから四スーまでの間を高低した。晩の六時にサン・ジャック街に出ていって、マテュラン街の角(かど)にある版画商バッセの店と向き合ったルーソーという家で夕食をした。スープは取らなかった。食べるのは、六スーの肉の一皿、三スーの野菜の半皿、三スーのデザート。それからまた三スーで随意のパン。葡萄酒(ぶどうしゅ)の代わりには水を飲んだ。その頃はいつもでっぷりふとってまだ色艶(いろつや)のよかったルーソーの上(かみ)さんが、いかめしく帳場に陣取っていたが、彼はそこで金を払い、給仕に一スーを与えると、上さんは笑顔を見せてくれた。それから彼はそこを出た。十六スーで笑顔と夕食とを得るのだった。

 そのルーソーの飲食店では、酒を飲むよりも水を飲む者の方が多く、料理屋(レストーラン)というよりもむしろ休憩所と言ったほどの所だった。今日はもうなくなっている。主人はおもしろい綽名(あだな)を持っていて、水のルーソーと呼ばれていた。

 そういうふうにして、四スーで昼食をし十六スーで夕食をして、食べるのに一日二十スーだけかかった。それで一年に三百六十五フランとなった。それに室代(へやだい)が三十フラン、婆さんに三十六フラン、その他少しの雑費。合計四百五十フランで、マリユスは食事と室と雑用とをすました。それから衣服が百フラン、シャツが五十フラン、洗たくが五十フラン。全部で六百五十フランを出なかった。そして手元に五十フラン残った。彼は豊かであった。場合によっては十フランくらいは友人に貸してやった。クールフェーラックは一度六十フランも借りたことがあった。火については、暖炉がなかったのでマリユスはそれを「簡便に」しておいた。

 マリユスはいつも二そろいの衣服を持っていた。一つは古くて「平素(ふだん)のため」のであり、一つは新しくて特別の場合のためのであった。両方とも黒だった。またシャツは三つきりなかった、一つは身につけ、一つは戸棚に入れて置き、も一つは洗たく屋にいっていた。損(いた)むにつれてまた新しくこしらえた。しかし普通いつも破けていたので、頤(あご)の所まで上衣のボタンをかけていた。

 マリユスがそういう立身をするまでには、幾年かの月日を要した。それはきびしい年月で、過ぎるに困難な年であり、よじのぼるに困難な年であった。しかしマリユスは一日たりとも意気沮喪(そそう)しなかった。彼は困苦ならばすべてを受け入れ、負債を除いてはあらゆることをなした。自分は何人(なんぴと)にも一文の負債(おいめ)もないと、彼は自ら公言していた。彼に言わすれば、負債は奴隷(どれい)の初まりであった。債権者は奴隷の主人よりも悪いと彼は思っていた。なぜなれば、主人は単に人の身体を所有するのみであるが、債権者は人の威厳を所有しそれを侮辱することができるからである。金を借りるよりはむしろ食わない方を彼は望んだ。そして幾日も絶食したことさえあった。彼はあらゆる極端が相接することを思い、注意しなければ物質的の零落は精神の堕落をきたすことを思って、深く心の矜(ほこ)りに注意していた。違った境遇にあったならば恭敬とも思われたかも知れない儀礼や行為をも、今は屈辱と思われて、昂然(こうぜん)と頭を高くした。退くことを欲しないので、少しも無謀なことをやらなかった。顔にはいつもいかめしい赤みをたたえていた。彼は苛酷(かこく)なるまでに内気だった。

 あらゆる困苦のうちにあって、彼は心のうちにあるひそかな力から、励まされまた時には導かれるのを感じた。魂は身体を助ける、そしてある時には身体を支持する。籠(かご)をささえるのは中の鳥のみである。

 マリユスの心のうちには、父の名と並んでも一つの名が刻まれていた、すなわちテナルディエの名が。熱烈でまじめな性質のマリユスは、一種の円光をその男にきせていた。彼の考えでは、その男は父の生命の親であり、ワーテルローの砲弾銃火の中にあって大佐を救った勇敢な軍曹であった。マリユスは決して父の記憶とその男の記憶とを離したことがなく、尊敬のうちに両者を結合していた。それは二段の礼拝で、大きな祭壇は大佐に対するものであり、小さな祭壇はテナルディエに対するものだった。そして彼の感謝の念を倍加せしめたものは、テナルディエが陥りのみ込まれたという不運のことを考えることだった。マリユスはモンフェルメイユで、不幸な旅亭主の零落と破産とを知った。それ以来彼は異常な努力をつくして、テナルディエの行方を探り、彼が没した困窮の暗黒なる深淵(しんえん)のうちに彼を探り出さんとつとめた。マリユスはあらゆる方面をさがし回った。シェル、ボンディー、グールネー、ノジャン、ランニー、方々へ行ってみた。三年の間彼はそれに夢中になり、たくわえたわずかの金をその探索に費やしてしまった。しかしだれひとりテナルディエの消息を知ってる者はなかった。おそらく外国へでも行ったのだろうと想像された。債権者らもまた、マリユスほどの好意はないが同じような熱心をもって、彼をさがし回った。しかし彼に手をつけることはできなかった。マリユスは自分の探索の不成功を、自ら責め自ら憤った。それは大佐が彼に残した唯一の負債で、彼は名誉にかけてそれを払おうと欲した。彼は考えた。「ああ、父が死にかかって戦場に横たわっている時、彼テナルディエは砲煙弾雨の中に父を見いだし、肩に担(にな)って連れだしてくれた。しかも彼は父に何らの恩をも受けていなかったのである。そしてテナルディエにかく負うところ多いこの自分は、暗黒のうちに苦悩に呻吟(しんぎん)してる彼を見いだすこともできず、彼を死より生へと連れ戻すこともできないのか。いや是非ともさがし出さなければならない!」実際マリユスは、テナルディエを見いださんがためには片腕を失うも意とせず、彼を困窮より引き出さんがためには血潮をことごとく失うも意としなかったであろう。テナルディエに会うこと、何かの助力を彼に与えてやること、「あなたは私を御存じない、しかし私はあなたを知っています、さあここにいるから、どんなことでも命じて下さい!」と彼に言うこと、それがマリユスの最も楽しいまた最も美しい夢想であった。

     三 生長したるマリユス

 その頃マリユスは二十歳であった。祖父のもとを去ってから三年になる。両方ともやはり同じような状態で、互いに近寄ろうとも会おうともしなかった。その上、会ったとてそれが何になろう、ただ衝突するばかりである。いずれかが勝つものでもない。マリユスは青銅の甕(かめ)で、ジルノルマン老人は鉄の壺(つぼ)であった。

 マリユスは祖父の心を誤解していたことを、ここに言っておかなければならない。彼はジルノルマン氏が自分をかつて愛したことはないと思っていた。どなり叫び狂い杖(つえ)を振り回すその気短かできびしい元気な老人は、喜劇中のジェロント型の軽薄で同時にきびしい愛情をしか自分に対して持っていないと、彼は思っていた。しかしそれはマリユスの誤解だった。自分の子供を愛しない父親は世にないでもない、しかし自分の孫を大事にしない祖父は世に決してない。前に言ったとおり、本来ジルノルマン氏はマリユスを偶像のように大事にしていた。ただ彼は、叱責(しっせき)と時には打擲(ちょうちゃく)さえ交じえる自己一流の仕方で愛していた。そしてその子供がいなくなると、心のうちに暗い空虚を感じた。もう子供のことは自分に言うなと命じながら、それがあまりによく守られたのをひそかに悔やんだ。初めのうちは、そのブオナパルテ党、ジャコバン党、暴虐党(テロリスト)、虐殺党(セプタンプリズール)が、再び帰って来るだろうと希望をかけていた。しかし週は過ぎ月は過ぎ年は過ぎても、吸血児は姿を見せなかったので、ジルノルマン氏は深く絶望した。「といって、わしは彼奴(あいつ)を追い出すよりほかに仕方はなかった、」と祖父は自ら言った。そしてまた自ら尋ねた、「もしあんなことを再びするとしたら、わしはまた同じことを繰り返すだろうか?」彼の自尊心は即座に、しかりと答えた。しかしひそかに振られた彼の年取った頭は、悲しげに否と答えた。彼は落胆の時日を過ごした。マリユスが彼には欠けてしまったのである。老人というものは、太陽を要するように愛情を要する。愛情は温度である。ジルノルマン氏はいかに頑強な性質であったとは言え、マリユスがいなくなったため心のうちにある変化が起こった。いかなることがあろうとも、その「恥知らず奴(め)」の方へ一歩も曲げようとは欲しなかったであろう。しかし彼は苦しんでいた。マリユスのことを決して尋ねはしなかったが、常に思いやっていた。彼はますますマレーで隠退の生活を送るようになった。なお昔のとおり快活で激烈ではあったが、その快活さも悲しみと怒りを含んでるかのように痙攣的(けいれんてき)の峻酷(しゅんこく)さを帯び、その激烈さも常に一種の静かな陰鬱(いんうつ)な銷沈(しょうちん)に終わった。時とすると彼は言った、「ああ、もし帰ってきたら、したたか打ってやるんだが!」

 伯母(おば)の方は、そう深く考えてもいず、そう多く愛してもいなかった。彼女にとっては、マリユスはもはやただ黒いぼんやりした映像にすぎなかった。そしてついには、おそらく彼女が飼っていたに違いない猫(ねこ)か鸚鵡(おうむ)ほどにもマリユスのことを気にとめなかった。

 ジルノルマン老人のひそかな苦しみがいっそう増した所以(ゆえん)は、彼がそれを全部胸のうちにしまい込んで少しも人に覚(さと)られないようにしたからである。彼の苦しみは新しく発明されたあの自ら煙をも燃やしつくす竈(かまど)のようなものだった。時とするとよけいな世話やきの者らがマリユスのことを持ち出して、彼に尋ねることもあった。お孫さんは何をなさいました?……あるいは、どうなられました? すると老人は、あまりに悲しい時には溜息(ためいき)をつきながら、あるいは快活なふうを見せたい時には袖(そで)を爪ではじきながら、こう答えた。「男爵ポンメルシー君はどこかのすみで三百代言をやっているそうです。」

 老人がかく愛惜している一方に、マリユスは自ら祝していた。あらゆる善良な心の人におけるがように、不幸は彼から苦々(にがにが)しさを除いてしまった。彼は今やジルノルマン氏のことを考えるにもただ穏和な情をもってするのみだった。しかし父に対して不親切であったその男からはもはや何物をも受けまいと決心していた。そしてそれは、最初の憤激が今やよほどやわらいだのを示すものだった。その上彼は、今まで苦しみ今もなお苦しんでいることを幸福に感じていた。それは父のためだったのである。生活の困難は彼を満足させ彼を喜ばせた。彼は一種の喜悦の情をもって自ら言っていた。――これは極めて些細(ささい)なことだ。この些細なことも一つの贖罪(しょくざい)だ。もしこの贖罪がなかったならば、自分の父に対して、あのような父に対して、かつて不信にも背反したことは、必ず何らかの仕方でいつかは罰せられるであろう。父はあらゆる苦しみをなめ自分は少しの苦しみも受けないということは、正しいことではあるまい。もとより自分の労働も窮乏も大佐の勇壮な一生に比べては及びもつかないものであろう。それからまた、父に近づき父に似んとする唯一の方法は、敵に対して父が勇敢であったとおり自分も赤貧に対して勇壮であるということである。そこにこそ疑いもなく、「予が子はそれに価するなるべし」という大佐の言葉の意味があるのである。――その大佐の言葉こそマリユスが絶えずいだいていたところのもので、その遺言状がなくなったので胸にはいだいていなかったが、心のうちにいだいていたのである。

 そしてまた、祖父から追い出された時は彼はまだ子供にすぎなかったが、今では既に一個の人となっていた。彼はそれを感じていた。繰り返して言うが、辛苦は彼のためになったのである。青年時代の貧困は、うまくゆくと特殊な美点を有して、人の意思をすべて努力の方へ転ぜしめ、人の心をすべて希望の方へ向かわしむる。貧困は直ちに物質的生活を赤裸々にして、それを嫌悪(けんお)すべきものたらしめ、従って人を精神的生活の方へ飛躍せしむる。富裕なる青年は、多くのはなやかな野卑な楽しみを持っている。競馬、狩猟、畜犬、煙草(たばこ)、カルタ、美食、その他。すべて魂の高尚美妙な方面を犠牲に供する、下等な方面の仕事である。貧しい青年は骨折ってパンを得、それを食し、食し終わった後にはもはや夢想のほか何もない。彼は神より与えらるる無料の劇場に赴(おもむ)く、彼は見る、天、空間、星辰、花、小児、その中にあって彼自ら苦しんでいる人類、その中にあって彼自ら光り輝いている創造。彼はつくづく人類をながめてそこに魂を認め、つくづく創造をながめてそこに神を認める。彼は夢想して自ら偉大なることを感じ、なお夢想して自ら温和なることを感ずる。悶々(もんもん)たる人間の利己主義を脱して、瞑思(めいし)する人間の同情心に達する。彼のうちには賛美すべき感情が花を開く、自己の忘却と万人に対する憐憫(れんびん)とが。自然が閉じたる魂には拒み、開いたる魂にはささげ与え惜しまない、あの無数の怡悦(いえつ)を考えつつ、英知の上の長者たる彼は、金銭の上の長者たる人々をあわれむようになる。精神のうちに光明がはいって来るに従って、あらゆる憎しみは心から去ってゆく。それに元来彼は不幸であるか? 否。青年の悲惨は決して悲惨なものではない。普通のいずれの青年を取ってみても、いかに貧しかろうとも、その健康、力、活発な歩調、輝ける目、熱く流るる血潮、黒き髪、あざやかな頬(ほお)、赤き脣(くちびる)、白き歯、清き息、などをもってして、彼は常に老いたる帝王のうらやむところとなるであろう。それから毎朝彼は再びパンを得ることに従事する。そして彼の手がパンを得つつある間に、彼の背骨は矜持(きょうじ)を得、彼の頭脳は思想を得る。仕事が終える時には、言うべからざる喜悦に、静観と歓喜とに戻ってゆく。辛苦の中、障害の中、舗石(しきいし)の上、荊棘(いばら)の中、時には泥濘(でいねい)の中に、足をふみ入れながら、頭は光明に包まれて、彼は生きる。彼は堅実で、清朗で、温和で、平和で、注意深く、まじめで、僅少(きんしょう)に満足し、親切である。そして彼は、多くの富者に欠けてる二つの財宝を恵まれたことを神に謝する、すなわち、自分を自由ならしむる仕事と自分を価値あらしむる思念とを。

 マリユスのうちに起こったことは、以上のようなものであった。すべてを言えば、彼は静観の方面に傾きすぎるほどだった。ほとんど確実に食を得らるるに至った日から、彼はその状態に止めて、貧乏はいいことだとさとり、思索にふけるために仕事を節した。そして時によると、幾日も終日瞑想のうちに過ごし、幻を見る人のように、恍惚(こうこつ)と内心の光燿(こうよう)との無言の逸楽のうちに沈湎(ちんめん)していた。彼は生活の方式をこう定めた。無形の仕事にでき得る限り多く働かんがために有形の仕事にでき得る限り少なく働くこと。言葉を換えて言えば、現実の生活に幾時間かを与え、残余の時間を無窮のうちに投げ込むこと。彼は何らの欠乏をも感じなかったので、そういうふうに取り入れられた静観はついに怠惰の一形式に終わるということに、気づかなかった。生活の最初の必要に打ち勝ったのみで満足したことに、そしてあまりに早く休息したことに、気づかなかった。

 明らかにわかるとおり、このように元気な殊勝な性質にとっては、それは一時の過渡期の状態にすぎなかった。そして宿命の避くべからざる葛藤(かっとう)に触るるや直ちに、マリユスは覚醒(かくせい)するであろう。

 ところで、彼は弁護士になってはいたけれども、またジルノルマン老人がそれをどう思ったとしても、彼は実際弁論もせず、三百代言をこね回しもしなかった。夢想は彼を転じて弁論から遠ざけた。代言人の家に出入りし、裁判のあとをつけ、事件を探る、それは彼のたえ得ないところだった。何ゆえにそういうことをする必要があるか。彼は生活の道を変える理由を少しも認めなかった。あの商売的なつまらない本屋の仕事は、ついに彼には確実な仕事となっていた。あまり骨の折れないことではあったが、前に説明してきたとおり、それだけで彼には十分だった。

 彼が仕事をさしてもらってる種々な本屋のうちのひとりは、マジメル氏だったと思うが、彼を雇い込み、りっぱに住まわせ、一定の仕事を与え、年に千五百フラン払おうと、申し出てきた。りっぱに住まう、千五百フラン、なるほど結構ではある。しかし自由を捨てる、給料で働く、一種の抱え文士となる! マリユスの考えでは、それを承諾したら自分の地位はよくなると同時にまた悪くもなるのであった。楽な暮らしは得られるが、威厳は堕(お)ちるのだった。完全な美しい不幸を醜い賤(いや)しい窮屈に変えることだった。盲人が片目の男になるようなものだった。マリユスはその申し出を断わった。

 マリユスは孤立の生活をしていた。すべてのことの局外にいたいという趣味から、またあまりに脅かされたために、アンジョーラの主宰する群れにもすっかりはいり込みはしなかった。やはり仲のいい間がらではあり何か起こった場合にはできるだけの方法で助け合うことにはなっていたが、しかしそれ以上には深入りしなかった。マリユスは友人をふたり持っていた。ひとりは青年のクールフェーラックで、ひとりは老人のマブーフ氏だった。どちらかと言えば彼はその老人の方に傾いていた。第一に、そのおかげで心の革命が起こったし、またそのおかげで父を知り父を愛したのであった。「彼は私の内障眼(そこひ)をなおしてくれた」とマリユスは言っていた。

 確かにその会堂理事は決定的な働きをした。

 けれども、その場合マブーフ氏は、天意に代わって静かに虚心平気に仕事をなしたのである。彼は偶然にそして自ら識(し)らずしてマリユスを照らしたのであって、あたかも人からそこに持ちきたされる蝋燭(ろうそく)のごときものだった。彼はその蝋燭であって、その人ではなかった。

 マリユスの内部に起こった政見的革命については、マブーフ氏は全く、それを了解し希望し指導することはできなかったのである。

 今後再びマブーフ氏はこの物語の中に出て来るので、ここに彼について一言費やすのもむだではあるまい。

     四 マブーフ氏

 マブーフ氏がマリユスに向かって、「なるほど政治上の意見も結構です」と言った時、それは彼の精神の真の状態を言い現わしたものだった。あらゆる政治上の意見に、彼はまったく無関心で、そんなことはどうでもかまわないのだった。そして自分を平和にして置いてさえくれるものだったら、何でもかまわず是認した。あたかもギリシャ人らが、地獄の三女神フューリーのことを、「美の女神、善良の女神、魅惑の女神」あるいはウーメニード(親切な女神)、などと呼んだようなものである。マブーフ氏の政見といえば、植物およびことに書物の熱心なる愛好ということだった。当時はだれも党という終わりにくっつく一語なしには生きられなかったので、彼も同じくその終わりの党という語を持っていたが、しかし王党でもなく、ボナパルト党でもなく、憲法党でもなく、オルレアン党でもなく、無政府党でもなく、実に書物党であった。

 世界にはながむるに足るべきあらゆる種類の苔(こけ)や草や灌木(かんぼく)があり、ひもとくに足るべき多くの二折形や三十二折形の書物があるのに、憲法だの民主だの正権だの王政だの共和だのという児戯に類することについて、人々が互いに憎み合うということを、彼は理解することができなかった。彼は有用ならんことを心掛けていて、書物をたくわえはするが読書をもし、植物学者ではあるが園丁でもあった。彼がポンメルシー大佐を知った時、大佐が花について試みてることを彼は果実について試みてるという同感が、ふたりの間にはあった。マブーフ氏はついに、サン・ジェルマンの梨(なし)にも劣らぬ味を有する苗木の梨の果(み)を作り出すに至った。また夏の黄梅にも劣らぬ香味のある今日有名な十月の黄梅の果が生まれ出たのも、たぶん彼の工夫の一つからだったらしい。よく弥撒(ミサ)に行ったのも、信仰からというよりむしろ穏和を好むからだった。そしてまた人の顔は好きだがその声はきらいなところから、人が大勢集まって黙ってるのは会堂でしか見られないからだった。国家のために少しは尽さなければならないと思って、会堂理事の職を選んだのだった。その上、女のことといったらチューリップの球根ほどにも思っていず、男のことといったらオランダのエルゼヴィール版の書物ほどにも思っていなかった。もう六十の坂をとくに越していたが、ある日だれかが彼に尋ねた、「あなたは結婚したことがおありですか。」「忘れてしまいました、」と彼は答えた。時とすると、だれにもそれは起きることであるが、こう口にすることもあった、「ああ私に金があったら!」しかしそれは、ジルノルマン老人のようにきれいな娘を横目で見ながら言うのではなく、古書をながめながら言うのだった。彼はひとりで、年寄りの女中といっしょに住んでいた。少し手部痛風にかかっていた。そしてリューマチから来る関節不随の指を休ませようとする時には、布を折ってそれでゆわえた。彼はコートレー付近の特産植物誌という彩色版入りの書物をこしらえて出版したが、かなりの評判で、その銅版を持っていて自ら売った。そのためメジュール街の彼の門をたたく者が日に二、三度はあった。彼はそのため年に二千フランばかりを得ていた。それがほとんど彼の財産全部だった。そして貧しくはあったが、忍耐と倹約と長い間のおかげで、あらゆる種類の高価な珍本を集めることができた。外出する時はいつも書物を一冊小わきに抱えていたが、帰って来る時にはしばしば二冊となっていた。小さな庭と一階の四つの室(へや)とが彼の住居だったが、その唯一の装飾としては枠(わく)に入れた植物標本と古い名家の版画だけだった。サーベルや銃を見ると身体が凍える思いをした。生涯の間一度も大砲に近寄ったこともなく廃兵院(アンヴァリード)に行ったこともなかった。かなりの胃袋を持っており、司教をしてるひとりの兄があり、頭髪はまっ白で、口にも心にも歯がなくなり、身体中震え、言葉はピカルディーなまりで、子供のような笑い方をし、すぐに物におそれ、年取った羊のような様子をしていた。その上、ポルト・サン・ジャックの本屋の主人でロアイヨルという老人のほか、生きた者のうちには友人も知己もなかった。その夢想は、藍(あい)をフランスの土地に育ててみたいということだった。

 女中の方もまた、質朴な性質だった。そのあわれな人のいい婆さんは、かつて結婚したことがなかった。ローマのシクスティーヌ礼拝堂でアレグリ作の聖歌でも歌いそうなスュルタンという牡猫(おねこ)が、彼女の心を占領して、彼女のうちに残ってる愛情にとっては十分だった。彼女の夢想は少しも人間までは及ばなかった。決して彼女は自分の猫より先まで出ようとはしなかった。猫と同じように口髭(くちひげ)がはえていた。その自慢はいつもまっ白な帽子だった。日曜日に弥撒(ミサ)から帰って来ると、行李(こうり)の中の下着を数えたり、買ったばかりで決して仕立てない反物を寝床の上にひろげてみたりして、時間を過ごした。読むことはできた。マブーフ氏は彼女にプリュタルク婆さんという綽名(あだな)をつけていた。

 マブーフ氏はマリユスが好きであった。なぜなら、マリユスは若くて穏和だったので、彼の内気を脅かすことなく彼の老年をあたためてくれたからである。穏和な青年は、老人にとっては風のない太陽のようなものである。マリユスは武勲や火薬や入り乱れた進軍など、父が幾多の剣撃を与えまた受けたあの驚くべき戦闘で、まったく心を満たされてしまったとき、マブーフ氏を訪ねて行った。するとマブーフ氏は、花栽培の方面からその英雄のことを語ってきかした。

 一八三〇年ごろ、兄の司祭は死んだ。そしてほとんどすぐに、マブーフ氏の眼界は夜がきたように暗くなった。破産――公証人の――は、兄と自分との名義で所有していた全部である一万フランを、彼から奪ってしまった。七月革命は書籍業に危機をきたした。騒乱の時代にまっ先に売れなくなるものは特産植物誌などというものである。コートレー付近の特産植物誌はぱったりその売れ行きが止まった。幾週間たってもひとりの買い手もなかった。時とするとマブーフ氏は呼鈴(ベル)のなるのに喜んで飛び立った。「旦那様、水屋でございますよ、」とプリュタルク婆さんは悲しげに言った。ついにマブーフ氏はメジエール街を去り、会堂理事の職をやめ、サン・スュルピス会堂を見捨て、書物は売らなかったが版画の一部を売り――それは大して大事にしているものではなかった――そしてモンパルナス大通りに行って小さな家に居を定めた。しかしそこには三カ月しか住まなかった。それには二つの理由があった。第一は、一階と庭とで三百フランもかかるのに、二百フランしか借料にあてたくなかったからである。第二は、ファトゥー射的場の隣だったので、終日拳銃(ピストル)の音がして、それにたえ得なかったからである。

 彼はその特産植物誌と銅版と植物標本と紙ばさみと書物とを持って、サルペートリエール救済院の近くに、オーステルリッツ村の茅屋(ぼうおく)に居を定めた。そこで彼は年に五十エキュー(二百五十フラン)で、三つの室(へや)と、籬(まがき)で囲まれ井戸のついてる一つの庭を得たのである。彼はその移転を機会として、ほとんどすべての家具を売り払ってしまった。そして新しい住居にはいってきた日、きわめて愉快そうで、版画や植物標本をかける釘(くぎ)を自分で打ち、残りの時間は庭を掘り返すことに使い、晩になって、プリュタルク婆さんが陰気な様子をして考え込んでるのを見ると、その肩をたたいてほほえみながら言った、「おい、藍(あい)ができるよ。」

 ただふたりの訪問客、ポルト・サン・ジャックの本屋とマリユスとだけが、そのオーステルリッツの茅屋で彼に会うことを許されていた。なお落ちなく言えば、戦争にちなんだこの殺伐な地名は、彼にはかなり不愉快でもあった。

 なおまた、前に指摘してきたとおり、一つの知恵か、一つの熱狂か、あるいはまた往々あるとおりその両方に、まったくとらえられてしまってる頭脳は、実生活の事物に通ずることがきわめて遅いものである。自分自身の運命が彼らには遠いものである。そういう頭脳の集中からは一種の受動性が生ずるもので、それが理知的になると哲学に似寄ってくる。衰微し、零落し、流れ歩き、倒れまでしても自分ではそれにあまり気がつかない。実際ついには目をさますに至るけれど、それもずっと後のことである。それまでは、幸と不幸との賭事(かけごと)の中で局外者のように平気でいる。彼らはその間に置かれた賭金でありながら、不関焉(かんせずえん)として両方をぼんやりながめている。

 そういうふうにして、自分のまわりに希望が相次いで消えてゆきしだいに薄暗くなるにもかかわらず、マブーフ氏はどこか子供らしくしかもきわめて深く落ち着き払っていた。彼の精神の癖は振り子の動揺にも似ていた。一度幻でねじが巻かれると長く動いていて、その幻が消えてもなお止まらなかった。時計は鍵(かぎ)がなくなった時に急に止まるものではない。

 マブーフ氏は他愛ない楽しみを持っていた。その楽しみは金もかからずまた思いも寄らぬものだった。ちょっとした偶然の機会から彼はそれを得た。ある日プリュタルク婆さんは室(へや)の片すみで小説を読んでいた。その方がよくわかるからと言って声高に読んでいた。声高に読むことは読んでるのだと自分自身にのみこませることである。至って声高に物を読んで、自分は今読書をしてると自分自身に納得させるような様子をしてる者が、世にはずいぶんある。

 プリュタルク婆さんはそういう元気で、手に持ってる小説を読んでいた。マブーフ氏は聞くともなしにそれを聞いていた。

 そのうちにプリュタルク婆さんは次のような文句の所にきた。それはひとりの竜騎兵の将校と美人との話だった。

『……美人ブーダ(口をとがらした)、と竜騎兵(ドラゴン)は……。』

 そこで婆さんは眼鏡(めがね)をふくためにちょっと言葉を切った。

「仏陀(ブーダ)と竜(ドラゴン)……。」とマブーフ氏は口の中でくり返した。「なるほどそのとおりだ。昔一匹の竜がいて、その洞穴の奥で口から炎を吐き出して天を焦がした。既に多くの星はその怪物から焼かれたことがあり、その上奴(やつ)は虎のような爪を持っていた。でその時仏陀は洞穴の中にはいってゆき、首尾よく竜を改心さしたのだ。プリュタルク婆さん、お前がそこで読んでるのはいい書物だ。それ以上に美しい物語は世間にない。」

 そしてマブーフ氏は楽しい空想にふけった。

     五 悲惨の隣の親切なる貧困

 マリユスはその廉直な老人を好んだ。老人は徐々に窮乏のうちに陥ってゆくのに気づき、しだいに驚いてはいたが、まだ少しも悲しみはしなかった。マリユスはクールフェーラックにも出会い、またマブーフ氏をも訪れた。だがそれもごくまれで、月に多くて一、二回にすぎなかった。

 マリユスの楽しみは、郊外の並み木通りや、練兵場や、リュクサンブールの園の最も人の少ない道などを、ひとりで長く散歩することだった。時には、園芸家の庭や、サラド畑や、小屋の鶏や、水揚げ機械の車を動かす馬などをながめて、半日も過ごすことがあった。通りがかりの者は驚いて彼をうちながめ、ある者はその服装を怪しみその顔つきをすごく思った。しかしそれは、あてもなく夢想にふけってる貧しい青年にすぎなかった。

 彼がゴルボー屋敷を見いだしたのは、そういう散歩の折りであった。そしてその寂しいさまと代が安いのとにひかされて、そこに住むことにした。そこで彼はただマリユス氏という名前だけで知られていた。

 父の昔の将軍や昔の同僚らのうちには、彼の身の上を知るとその邸(やしき)に招いてくれる者もあった。マリユスは断わらなかった。それは父のことを話す機会だった。そういうふうにして彼は時々、パジョル伯爵やベラヴェーヌ将軍やフリリオン将軍などの邸を訪れ、また廃兵院にも行った。音楽や舞踏などがあった。そういう晩マリユスは新しい上衣をつけて行った。けれども寒い凍りついた日でなければ、決してそれらの夜会や舞踏会に行かなかった。なぜなら、馬車を雇ってゆくことができなかったし、少しでもよごれた靴(くつ)をはいて向こうに着くことを欲しなかったから。

 彼は時々こう言った、しかしそれは別に皮肉のつもりではなかった。「客間では、靴を除いては全身泥だらけでもかまわないものだ。よく迎えられんがためには、非の打ちどころのないただ一つのものさえあれば十分だ。それは良心であるか、否、靴である。」

 あらゆる情熱は、愛のそれを除いては、夢想のうちに消散してしまうものである。マリユスの政治上の熱も、夢想のうちに消え失せてしまった。一八三〇年の革命は、彼を満足させ彼をしずめさして、それを助けた。しかし憤激を除いては、後はやはり元と同じだった。彼の意見はただ和らげられたというのみで、少しも変わりはなかった。更によく言えば、彼はもう意見などというものを持たず、ただ同感をのみ持っていた。いかなる党派かといえば、彼は人類派だった。そして人類のうちではフランスを選び、国民のうちでは民衆を選び、民衆のうちでは婦人を選んだ。彼の憐憫(れんびん)が特に向けられたのはその点へであった。今や彼は事実よりも思想を好み、英雄よりも詩人を好み、マレンゴーのような事件よりもヨブ記のような書物をいっそう賛美した。それからまた、一日の瞑想の後、夕方並み木通りを帰って来る時、そして樹木の枝の間から、底なき空間を、言い難き光輝を、深淵(しんえん)を、影を、神秘をながむる時、単に人類にのみかかわることはすべてきわめて微小であるように彼には思えた。

 人生の真に、そして人類の哲理の真に、ついに到達したと彼は思っていた。おそらく実際到達していたであろう。そして今やもうほとんど天をしかながめなくなった。実に天こそは、真理がその井戸の底からながめ得る唯一のものである。

 それでもなお彼は、未来に対する計画考案組立仕組をふやしてゆくことはやめなかった。そういう夢想の状態にあるマリユスの内部をながむるならば、その魂の純潔さにいかなる目も眩惑(げんわく)されるであろう。実際、他人の内心をのぞくことが肉眼に許されるならば、人はその思想するところのものによってよりも、その夢想するところのものによっていっそう確実に判断さるるであろう。思想のうちには意志がある。しかし夢想のうちにはそれがない。まったく自発的である夢想は、巨大と理想とのうちにあっても、人の精神の形を取りそれを保全する。燦然(さんぜん)たる運命の方へ向けらるる無考慮で無限度な憧憬(どうけい)ほど、人の魂の底から直接にまた誠実に出てくるものはない。こしらえ上げ推理し組み合わした理想の中よりも、それらの憧憬の中にこそ、各人の真の性格は見いだされる。幻想こそ最もよくその人に似る。各人はその性格に従って不可知のものと不可能のものとを夢想する。

 一八三一年の中ごろ、マリユスの用を達していた婆さんは、マリユスの隣に住んでるジョンドレットというあわれな一家が、まさに追い払われようとしてることを話してきかした。ほとんど毎日外にばかり出ていたマリユスは、隣の室(へや)に人が住んでるかさえもよく知らなかった。

「どうして追い払われるんです。」と彼は言った。

「室代を払わないからですよ。二期分もたまっています。」

「いかほどになるんです。」

「二十フランですよ。」と婆さんは言った。

 マリユスは引き出しの中に三十フランたくわえていた。

「さあ、」と彼は婆さんに言った、「ここに二十五フランあります。そのかわいそうな人たちのために払ってやり、余った五フランはその人たちにやって下さい。だが私がしたんだと言ってはいけませんよ。」

     六 後継者

 偶然にも、中尉テオデュールの属していた連隊がパリーに駐屯(ちゅうとん)することとなった。その好機はジルノルマン伯母(おば)に第二の考案を与えた。最初彼女はテオデュールにマリユスを監視させようとしたのであったが、こんどはテオデュールにマリユスのあとを継がせようと謀(はか)った。

 とにかく、家の中に青年の面影がほしいと祖父が漠然(ばくぜん)と感じているに違いない場合なので――青年という曙(あけぼの)は廃残の老人にとっては往々快いものである――別のマリユスを見いだすのに好都合だった。伯母は考えた。「なに、書物の中で見当たる誤植のようなものさ。マリユスというのをテオデュールと読めばよい。」

 孫に当たる甥(おい)は直接の孫と大差はない。弁護士がいないので槍騎兵(そうきへい)を入れるわけである。

 ある日の朝、ジルノルマン氏がコティディエンヌ紙か何かを読んでいた時、娘ははいってきて、一番やさしい声で彼に言った。自分が目をかけてやってる者に関することだったから。

「お父さん、今朝(けさ)テオデュールがごあいさつに参ることになっています。」

「だれだ、テオデュールとは?」

「あなたの甥の子ですよ。」

「あー。」と祖父は言った。

 それから彼はまた読み初めて、テオデュールとか何とかいうその甥(おい)のことはもう頭にしていなかった。そして物を読む時にはほとんどいつものことだったが、その時もやがて興奮し出した。彼が手にしていた「新聞か何か」は、もとより王党のものだったことはわかりきっているが、それが少しも筆を和らげないで、当時のパリーに毎日のように起こっていたある小事件の一つが、翌日起こることを報じていた。――法律学校と医学校との学生が、正午にパンテオンの広場に集まることになっている、評議するために。――それは一つの時事問題に関することだった。すなわち国民軍の砲兵に関することで、ルーヴル宮殿の中庭に据えられた大砲について陸軍大臣と「市民軍」の間に起こった争論に関してだった。学生らはそのことを「評議する」ことになっていた。それだけで既にジルノルマン氏の胸をいっぱいふくれさすには十分だった。

 彼はマリユスのことを考えた。マリユスも学生であって、たぶん他の者と同じく、「正午にパンテオンの広場に評議しに」行くであろう。

 彼がそういうつらい考えにふけっている時、中尉のテオデュールは平服を着て――平服を着たのは上手なやり方だった――ジルノルマン嬢に用心深く導かれて、そこにはいってきた。槍騎兵(そうきへい)はこんなふうに考えていた。「この頑固親爺(がんこおやじ)も財産をそっくり終身年金に入れたわけでもあるまい。金になるなら時々は人民服を着るのもいい。」

 ジルノルマン嬢は高い声で父に言った。

「甥の子のテオデュールです。」

 そして低い声で中尉に言った。

「何でも賛成するんですよ。」

 そして彼女は室(へや)を出て行った。

 中尉はそんなきちょうめんな会見にはあまりなれていなかったので、多分おずおずとつぶやいた。「伯父様(おじさま)、こんにちは。」そして、軍隊式敬礼の無意識的な機械的な型を普通の敬礼の型にくずした中間のおじぎをした。

「あーお前か。よくきた。まあすわるがいい。」と祖父は言った。

 しかしそう言ったばかりで、彼はすっかり槍騎兵(そうきへい)のことを忘れてしまった。

 テオデュールはすわったが、ジルノルマン氏は立ち上がった。

 ジルノルマン氏は両手をポケットにつっ込んで、室(へや)をあちらこちら歩き出し、二つの内隠しの中に入れていた二つの時計を、年老いた震える指先でいじりながら、声高にしゃべり出した。

「鼻ったらしどもが! パンテオンの広場に集まる。ばかな! 昨日(きのう)まで乳母(うば)がついていた小僧のくせに。鼻をすったら乳が出ようという奴(やっこ)どもが。それで明日(あす)正午に評議する! こんなありさまでどうなるんだ。どうなるんだ。世はまっ暗やみになるのはわかりきってる。シャツなしども(革命共和党)のおかげでこんなことになるんだ。市の砲兵! 市の砲兵のことを評議する! 国民軍の大砲の音について、はばかりもなく外に出てきてがやがやしやがるとは。しかもどんな奴らが集まろうというのか。ジャコバン主義(過激民主主義)がどんなところに落ち着くか見るがいい。私(わし)は何でも賭(か)ける。百万円でも賭ける、そして断言するんだ、そんな所へ行く奴(やつ)は罪人か前科者ばかりだ。共和党に囚人、いい取り組みだ。カルノーは言った、『わしにどうしろと言うのか、反逆人めが』フーシェは答えた。『勝手にしろばか者!』そういうのが共和党の常だ。」

「ごもっともです。」とテオデュールは言った。

 ジルノルマン氏は少し頭を振り向けてテオデュールを見、そしてまた言い続けた。

「この恥知らず奴(め)が、秘密結社のうちにはいったのは思ってもしゃくにさわる! なぜ貴様は家を出て行ったんだ、共和党になるためか。ばか! 第一人民は共和なんか望んでいない。望んでいないんだ。人民は良識を持っている。常に国王があったこと、常に国王があるべきことを知ってる。人民は要するに人民にすぎないことを知ってる。共和なんかはばかにしてるんだ。わかったか、ぐずめが! そんなむら気はのろうべきだ。デュシェーヌ紙(訳者注 革命時代の過激なる新聞)に惚(ほ)れ込み、断頭台に色目を使い、一七九三年の舞台裏で小唄(こうた)を歌いギターをひくとは、唾(つば)を吐きかけても足りん。それほど今の若者らはばかだ。皆そうだ。ひとりとしていい奴(やつ)はいない。街路(まち)に流れてる空気を吸えば、それでもう気が狂ってしまう。十九世紀は毒だ。どのいたずらっ児も、少しばかり山羊(やぎ)のような髯(ひげ)がはえ出すと、ひとかど物がわかった気になって、古い身内の者を捨ててしまう。何かと言えば共和だのロマンティックだのという。いったいロマンティックとは何だ。説明してもらいたいもんだ。ばかげきったことばかりじゃないか。エルナニがあったのは一年前だ(訳者注 本書の作者ユーゴーの戯曲で、一八三〇年その第一回公演はロマンティック運動のエポックメーキングのものとせらる)。ところでそのエルナニとはどういうものか少し聞きたいもんだ。対偶法(アンチテーズ)だけだ、胸くそが悪くなるようなものだけだ、フランス語とさえもいえないものだ。それからまたルーヴルの中庭に大砲を据えるなどということをする。そういうことばかりが今の時代の無頼漢どもの仕業(しわざ)じゃないか。」

「伯父様(おじさま)の説はもっともです。」とテオデュールは言った。

 ジルノルマン氏は続けた。

「ムューゼオムの中庭に大砲を据える! それはいったい何のためだ。大砲をどうするつもりか。ベルヴェデールのアポロンに霰弾(さんだん)を浴びせるつもりか。弾薬嚢(だんやくのう)とメディチのヴィーナスと何の関係がある。今時の青年は皆手がつけられない奴(やつ)らばかりだ。バンジャマン・コンスタン(訳者注 自由派の首領)なんか何と下らない奴だ。皆悪党でなければばかだ。わざわざ醜いふうをし、きたない服をつけ、女と見ればこわがり、娘っ児のまわりに乞食(こじき)のような様子をして下女どもから笑われる。恋愛にまでびくびくしてるあわれな奴らだ。醜い上に愚かだ。ティエルスランやポティエ式の地口をくり返し、袋のような上衣、馬丁のようなチョッキ、粗末な麻のシャツ、粗末なラシャのズボン、粗末な皮の靴、そして吹けば飛ぶようなことをしゃべりちらしてる。そういう片言で破(やぶ)れ靴(ぐつ)の底でも繕うがいい。しかもそのばかな小僧っ児どもが政治上の意見を持ってるというのか。奴らが政治に口を出すことは厳重に禁じなければいかん。異説を立て、社会を改造し、王政をくつがえし、あらゆる法律をうち倒し、窖(あなぐら)と屋根部屋とをあべこべにし、門番と国王とを置きかえ、ヨーロッパ中をかき回し、世界を建て直し、そして洗たく女どもが車に乗る時横目でその足をのぞいて喜んでいやがる。ああマリユス! けしからん奴だ。大道でどなり立て、議論し、討論し、手段を講ずる! 奴らはそれを手段という。ああ、同じ紊乱(びんらん)でも今は小さくなって雛児(ひよっこ)になってしまってる。私は昔は混沌界(こんとんかい)を見たが、今はただ泥の泡(あぶく)だけだ。学校の生徒が国民軍のことを評議するなどとは、オジブワやカドダーシュなんかの化け物のうちにも見られないことだ。羽子(はね)つきの羽子のようなものを頭にかぶり手に棍棒(こんぼう)を持ってまっ裸で歩く蛮人も、この得業士どもほどひどくはない。取るに足らぬ小猿のくせに、尊大で傲慢(ごうまん)で、評議したり理屈をこね回したりする。もう世は末だ。この水陸のみじめな地球も確かにもう終わりだ。最後の吃逆(しゃくり)がいるんなら、フランスは今それをしてるところだ。評議するならしろ、やくざ者め! オデオンの拱廊(きょうろう)で新聞なんか読むからそういうことになるんだ。一スーの金を出して、それでもう、やれ識見だの知力だの心だの魂だの精神だのができ上がる。そして出て来ると、家の中でいばり散らす。新聞というものは疫病神(やくびょうがみ)だ。どれもそうだ。ドラポー・ブラン紙にしたって、記者のマルタンヴィルはジャコバン党だった。ああ、貴様は、祖父を絶望さして得意になってるんだろう。貴様は?」

「そのとおりです。」とテオデュールは言った。

 そしてジルノルマン氏が息をついてる間に乗じて、槍騎兵(そうきへい)はおごそかに言い添えた。

「新聞は機関新聞だけにし、書物は軍事年報だけにするがよろしいんです。」

 ジルノルマン氏は言い続けた。

「シエイエスのようなものだ。国王を殺しながら上院議員になる。奴(やつ)らの終わりはいつもそうだ。ぞんざいないやしい言葉を使いながらついには伯爵殿と言われるようになろうというわけだ。腕のように図太い伯爵殿だ、九月(一八九二年)の虐殺者どもだ。哲人シエイエスだ。幸いに私(わし)は、そういう哲人どもを、ティヴォリの道化見世物ほどにも尊敬しない。上院議員らが蜜蜂(みつばち)のついた紫ビロードのマントを着アンリ四世式の帽子をかぶってマラケー河岸を通るのを、ある日私は見たことがある。胸くそが悪くなるような様子をしていた。ちょうど虎(とら)に従う猿(さる)のようだ。市民諸君、私は断言する、君らのいう進歩は狂乱である、君らの人類は幻である、君らの革命は罪悪である、君らの共和は怪物である、君らのいう純潔なる若きフランスは遊女屋から出て来るものだ。私はそれを主張する。よし君らが何であろうとも、新聞記者であり、経済学者であり、法律家であろうとも、また君らが断頭台の刃よりもよく自由平等博愛を知っていようとも! 私は断じてそう言うのだ、わが敬愛なる諸君!」

「しかり、」と中尉は叫んだ、「まったくそのとおりです。」

 ジルノルマン氏はやりかけた手まねをやめて、ぐるりと振り向き、槍騎兵(そうきへい)テオデュールの顔をじっと見つめ、そして言った。

「お前はばかだ。」

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