ビクトル・ユーゴー レ・ミゼラブル 第三部 マリユス


   第六編 両星の会交

     一 綽名(あだな)――家名の由来

 当時のマリユスは、中背の美しい青年で、まっ黒な濃い髪、高い利発らしい額、うち開いた熱情的な小鼻、まじめな落ち着いた様子、そしてその顔には、矜(ほこ)らかで思索的で潔白な言い知れぬ趣が漂っていた。その横顔は線に丸みがあるとともにまた厳乎(げんこ)たるところがあって、アルザスおよびローレーヌを通じてフランス人の容貌(ようぼう)のうちにはいってきたゼルマン式の優しみがあり、ロマン種族中にあって古ゼルマン族の特長となり獅子族(ししぞく)と鷲族(わしぞく)とを区別せしむるあの稜角(りょうかく)の皆無さをそなえていた。頭を使う人の精神がほとんど等分に深さと無邪気さとを有する頃の年輩に、彼もちょうど属していた。大事の場合に際しては、あたかも愚鈍なるかのように思わるることもあり、また一転して崇高なる趣にもなった。その態度は、内気で、冷ややかで、丁寧で、控え目であった。脣(くちびる)はきわめて赤く歯はきわめて白く、いかにも魅力ある口だったので、そのほほえみは容貌の有する厳格さを償って余りあった。その清澄な額とその快楽的な微笑とは、ある時には不思議な対照をなした。目は小さかったが、目つきは大きかった。

 最も窮乏していた頃、若い娘らがよく自分の後ろをふり返って見るのに彼は気づいた。そして心のうちに冷やりとして、逃げ出すか身を隠すかした。きっと自分の古い服を見て笑っているのだと彼は思った。しかし事実は、彼の様子のいいのを彼女らは見てあこがれてるのであった。

 彼と通りがかりのきれいな娘らとの間のそういう暗黙の誤解から、彼は妙に頑(かたく)なになった。あらゆる女の前から逃げ出したので、結局彼はいずれの女かを選んでそれに近寄ろうとすることをしなかった。かくて彼はこれと定まりのない、クールフェーラックの言葉に従えば開けない、生活をしていたのである。

 クールフェーラックはまた彼に言った。「そう聖人ぶろうとするなよ。(彼らはへだてのない言葉を使っていた。へだてのない言葉を使うのは青年の友情の特質である。)まあ僕の忠告でも聞けよ。そんなに書物ばかり読まないで、少しは女でも見てみろ。娘っ児も何かのためにはなるぜ、マリユス。逃げ出したり顔を赤くしたりしていると、ばかになっちまうぜ。」

 またある時、クールフェーラックはマリユスに出会って言った。

「やあ今日は、牧師さん。」

 クールフェーラックにそういうたぐいのことを言われると、その一週間ほどの間マリユスは、老若を問わず、いっさい女というものを前よりもいっそう避け、おまけにクールフェーラックをも避けた。

 しかしながら広大な天地の間には、マリユスが逃げもしなければ恐れもしないふたりの女がいた。実を言うと、それでも女だと言われたら彼は非常に驚いたかも知れない。ひとりは彼の室(へや)を掃除(そうじ)してくれる髯(ひげ)のはえた婆さんだった。クールフェーラックをして、「女中が髯をはやしてるのを見てマリユスは自分の髯をはやさないんだ」と言わしめた、その婆さんだった。もひとりはある小娘で、彼はそれにしばしば出会ったがよく目を留めても見なかった。

 もう一年以上も前からマリユスは、リュクサンブールの園のある寂しい道で、苗木栽培地(ペピニエール)の胸壁に沿った道で、ひとりの男とごく若い娘とを見かけた。ふたりはウエスト街の方に寄った最も寂しい道の片端に、いつも同じベンチの上に並んで腰掛けていた。自分の心のうちに目を向けて散歩している人によくあるように、別に何の気もなくほとんど毎日のように、マリユスはその道に歩み込んだ、そしてはいつもそこにふたりを見いだした。男は六十歳くらいかとも思われ、悲しそうなまじめな顔つきをしていて、退職の軍人かとも見える頑丈(がんじょう)なしかも疲れ切った様子をしていた。もし勲章でもかけていたら、「もとは将校だな」とマリユスに思わしたかも知れない。親切そうではあるがどこか近寄り難いところがあって、決して人に視線を合わせることをしなかった。青いズボンと青いフロックとをつけ、いつも新しく見える広い縁の帽子をかぶり、黒い襟飾(えりかざ)りをし、まっ白ではあるが粗末な麻のちょうどクエカー宗徒のようなシャツを着ていた。ある日ひとりの浮わ気女工がそのそばを通って、「身ぎれいな鰥夫(ひとりもの)だこと」と言った。頭髪はまっ白だった。

 彼に連れられてきて、二人で自分のものときめたようなそのベンチに初めて腰掛けた時、娘の方はまだ十三、四歳であって、醜いまでにやせており、ぎごちなく、別に取りどころもなかったが、目だけはやがてかなり美しくなりそうな様子だった。けれどもただ、不快に思われるほどの厚かましさでいつもその目を上げていた。修道院の寄宿生に見るような同時に年寄りらしいまた子供らしい服装をして、黒いメリノラシャのまずい仕立て方の長衣をつけていた。ふたりは親子らしい様子だった。

 まだそう老人とも言えぬその年取った男と、まだ一人前になっていないその小娘とに、マリユスは二、三日気を留めたが、それからもう何らの注意も払わなかった。彼らの方でも、マリユスに気づいているふうはなかった。いつも穏やかな平和な様子で互いに何か話していた。娘の方は絶えず快活に口をきいていた。老人の方は口数が少なく、時々何とも言えぬ親愛さを目の中にたたえて娘を見やっていた。

 マリユスはいつしか機械的に、その道に歩みこむ癖になっていた。そしていつもそこで彼らに出会った。

 そのありさまは次のようである。

 マリユスはその道を通りかかる時、いつも好んで彼らのベンチがある方とは反対の端からやっていった。そしてずっと道をたどってゆき、ふたりの前を通り、それから後返って、やって来た方の端まで戻り、それからまた新たに同じことを初めるのだった。彼は散歩のうちにその往復を五、六回も続け、また一週間のうちにそういう散歩を五、六回はしたが、それでも彼らとはあいさつもかわさなかった。ところがその男と娘とは、人の目を避けてるらしかったけれども、いや反対に、人の目を避けてたがために、学校の帰りや撞球(たまつき)の帰りなどに時々苗木栽培地(ペピニエール)のまわりを散歩する五、六人の学生から、自然に注意されるようになった。撞球の方の仲間であったクールフェーラックも、時々ふたりの姿を認めたが、娘がきれいでないのを見て、すぐにわざとそれを避けるようにした。そして彼はパルト人のように、逃げながらふたりに綽名(あだな)の槍(やり)をなげつけてしまった。娘の長衣と老人の頭髪とが特に目についたので、娘をラノアール(黒)嬢と呼び、父をルブラン(白)氏と呼んだ。もとよりふたりの身の上を知ってる者はなく名がわからなかったので、右の綽名(あだな)が一般に通用することになった。学生らは言った、「ああルブラン氏がベンチにきてる!」そしてマリユスも他の者らと同じく、便宜上その知らない人をルブラン氏と呼んでいた。

 われわれもまた学生らと同じように、たやすく話を進めるために彼をルブラン氏と呼ぶことにしよう。

 かくて最初の一年間マリユスは、ほとんど毎日きまった時間に彼らの姿を見た。彼にとっては、老人の方は多少好ましかったが、娘の方は一向おもしろくもなかった。

     二 光ありき

 物語がようやくここまで進んできた時、すなわちこの二年目に、マリユスのリュクサンブール逍遙(しょうよう)はちょっと中絶した。それは彼自身にもなぜだかよくわからなかったが、とにかく六カ月近くもその道に足を踏み入れなかった。ところがついにまたある日、彼はそこに戻っていった。さわやかな夏の朝のことで、晴れた日にはだれもそうであるがマリユスもごく愉快な気持ちになっていた。耳に聞こえる小鳥の歌や、木の葉の間からちらと見える青空などが、心の中にはいって来るかと思われた。

 彼はまっすぐに「自分の道」へ行った。そしてその一端に達すると、あの見なれたふたりがやはりいつものベンチに腰掛けてるのを認めた。ところが近寄ってゆくと、老人の方は同じ人だったが、娘の方は人が変わってるように思えた。今彼の目の前にあるのは、背の高い美しい女で、大きくなりながらまだ幼時の最も無邪気な優美さをそなえてる時期であり、ただ十五歳という短い語によってのみ伝え得るとらえ難い純潔な時期であって、ちょうどその年頃の女の最も魅力ある姿をすべてそなえていた。金色の線でぼかされたみごとな栗色(くりいろ)の髪、大理石でできてるような額、薔薇(ばら)の花弁でできてるような頬(ほお)、青白い赤味、目ざめるような白さ、閃光(せんこう)のように微笑がもれ音楽のように言葉がほとばしり出る美妙な口、ラファエロが聖母マリアに与えたろうと思われるような頭と、その下にはジャン・グージョンがヴィーナスに与えたろうと思われるような首筋。そしてその愛くるしい顔立ちをなお完全ならしむるためには、鼻がまた美しいというよりもかわいいものだった。まっすぐでもなく、曲がってるでもなく、イタリー式でもギリシャ式でもなく、パリー式の鼻だった。言い換えれば何となく怜悧(れいり)そうで繊細で不規則で純潔であって、画家を困らせ詩人を喜ばせる類の鼻だった。

 彼女のそばを通った時、彼はその目を見ることができなかった。その目はいつも下に向けられていた。影と貞純とのあふれてる長い栗色の睫毛(まつげ)だけが、彼の目にはいった。

 それでもなおこの麗わしい娘は、自分に話しかける白髪の男に耳を傾けながらほほえんでいた。目を伏せながら浮かべるあざやかなその微笑ほど、愛くるしいものは世になかった。

 初めのうちマリユスは彼女のことを、その男の別の娘で、前の娘の姉ででもあろうと思った。しかし、いつもの逍遙(しょうよう)の癖から二度目にベンチに近寄った時、注意深く彼女をながめた時、彼はそれがやはり同じ人であることを認めた。六カ月のうちに小娘は若い娘となった、ただそれだけのことだった。そういうことは最も普通に起こる現象である。またたくまにほころんでたちまちに薔薇の花となってしまうような時期が、女の子にはある。昨日までは子供として気にも留めないが、今日はもはや気がかりなしには見られないようになる。

 さてその娘は、ただに大きくなったばかりではなく、理想的になっていた。四月にはいれば世の中は三日見ぬ間に桜となるように、六カ月で彼女には美を着飾るに足りたのである。彼女の四月がきたのであった。

 貧乏で憔悴(しょうすい)していた人が、目ざむるようににわかに窮迫から富裕となり、あらゆる金使いをして、たちまちにぜいたくにみごとにまばゆきまでになるのは、世に時として見らるることである。それは金が舞い込んできたからである、期限の金を昨日受け取ったからである。その若い娘もその定期金を受け取っていたのである。

 そしてまた彼女は、フラシ天の帽子やメリノの長衣や学校靴(がっこうぐつ)や赤い手などをしていなくて、もう寄宿生らしいところはなかった。美とともに趣味も生じたのである。別に取り繕った様子もないが、さっぱりした豊かな優美さをそなえた服装(みなり)をしていた。黒い緞子(どんす)の長衣と同じ布の肩衣と白い縮紗(クレープ)の帽子をつけていた。支那象牙(ぞうげ)の日がさの柄をいじってる手は、白い手袋を通していかにも繊細なことが察せられ、絹の半靴はその足の小さいことを示していた。近くを通ると、その全身の粧(よそお)いからは若々しいしみ通るようなかおりが発していた。

 老人の方は前と何の変わりもなかった。

 二度目にマリユスが近寄った時、娘は眼瞼(まぶた)を上げた。その目は深い青空の色をしていた。しかしその露(あら)わでない青みのうちには、まだ子供の目つき以外に何物もなかった。彼女は無関心にマリユスをながめた。あたかもシコモルの木の下を走る小猿(こざる)をでも見るがようで、またはベンチの上に影を投げてる大理石の水盤をでも見るがようだった。そしてマリユスの方でも、もう他の事を考えながら逍遙(しょうよう)を続けた。

 彼は娘がいるベンチのそばをなお四、五度は通ったが、その方へ目も向けなかった。

 それからまた毎日のように、彼は例によってリュクサンブールにき、例のとおり「父と娘」とをそこに見い出した。しかしもうそれを気に留めなかった。その娘が美しくなった今も、醜くかった以前と同じく、彼は別に何とも考えなかった。彼はやはり、彼女が腰掛けてるベンチのすぐそばを通っていた。それが彼の習慣となっていた。

     三 春の力

 空気の温暖なある日、リュクサンブールの園は影と光とにあふれ、空はその朝天使らによって洗われたかのように清らかであり、マロニエの木立ちの中では雀(すずめ)が小さな声を立てていた。マリユスはその自然に対して心をうち開き、何事も考えず、ただ生きて呼吸を続けてるのみで、あのベンチのそばを通った。その時あの若い娘は彼の方へ目を上げ、ふたりの視線が出会った。

 こんどは若い娘の視線の中に何があったか? マリユスもそれを言うことはできなかったであろう。そこには何物もなかった、またすべてがあった。それは不思議な閃光(せんこう)であった。

 彼女は目を伏せ、彼は逍遙を続けた。

 今彼が見たところのものは、子供の率直単純な目ではなかった。半ば開いてまたにわかに閉じた神秘な淵(ふち)であった。

 ごく若い娘もそういう一瞥(いちべつ)をする時がある。そこに居合わした人こそ災いである。

 まだ自分で知らない一つの魂のそういう最初の一瞥(いちべつ)は、空における曙(あけぼの)のようなものである。ある不可知な輝き渡る何物かの目ざめである。尊むべき闇(やみ)をにわかに漠然(ばくぜん)と照らし、現在のあらゆる無心と将来のあらゆる熱情とから成っている、その意外なる光耀(こうよう)の危険な魅力は、何物をもってしても写し出すことはできないであろう。偶然におのれを示し、また他を待っている、一種の定かならぬ愛情である。無心のうちに知らず知らずに張られ、自ら欲せずにまた知らずに人の心をとらえる、一種の罠(わな)である。一個の婦人のようにながむる乙女(おとめ)である。

 その一瞥の落ちる所から深い夢が生まれないことは、きわめてまれである。あらゆる純潔とあらゆる熱情とは、その聖(きよ)き致命的な輝きのうちに集まっており、婀娜(あだ)な女の十分に仕組んだ秋波よりもなお強い魔力を有していて、かおりと毒とに満ちたほの暗いいわゆる恋と呼ばるる花を、人の心の奥ににわかに開かせる。

 その夕方屋根裏の室(へや)に帰りついて、マリユスは自分の服装をながめ、初めて自分のきたなさと不作法と「平素(ふだん)の」服装でリュクサンブールに散歩に行く非常な愚かさとを気づいた。その平素の服装というのは、リボンの所まで押しつぶされた帽子と、馬方のような粗末な靴(くつ)と、膝(ひざ)の所が白けてる黒いズボンと、肱(ひじ)の所がはげかかってる黒い上衣とであった。

     四 大病のはじまり

 翌日例の時刻に、マリユスは戸棚から新しい上衣とズボンと帽子と靴を取り出した。そしてその完全な武具に身を固め、手袋をはめ、きわめてめかし込んで、リュクサンブールに出かけた。

 途中彼はクールフェーラックに出会ったが、そ知らぬ風をして通りすぎた。クールフェーラックは帰ってから友人らに言った。「今僕はマリユスの新しい帽子と上衣に出会ったよ。奴(やっこ)さんは中にくるまっていた。きっと試験でも受けに行くんだろう。ひどくぼんやりしていた。」

 リュクサンブールに着くと、マリユスは池を一周し、白鳥をながめ、それからまた、苔(こけ)のために頭が黒くなり臀(しり)が片一方なくなってるある像の前に長くたたずんで、それをながめた。池のそばには、腹の便々たる四十かっこうの市民がいて、五歳ばかりの男の児の手を引いていたが、それにこんなことを言っていた。「何でも度を過ごしてはいけない。専制主義と無政府主義とからは、同じくらいに遠く離れていなければいけない。」マリユスはその市民の言に耳を傾けた。それから彼はも一度池を一周した。そしてついに「自分の道」の方へ進んで行ったが、それも徐々に、またあたかもいやいやながら行くがようだった。ちょうど無理に引っ張られてるようでもあれば、また同時に行くのを引き止められてるようでもあった。しかし彼は自らそれらのことに少しも気づかず、いつものとおりであると思っていた。

 道に出てみると、向こうの端にルブラン氏と若い娘とが「彼らのベンチ」にきているのがわかった。彼はずっと上まで上衣のボタンをかけ、しわができないようにと上衣をよく引っ張り、一種の満足な心地でズボンの輝いた艶(つや)を見回し、そしてベンチに向かって進んでいった。その進み方のうちには進撃の趣があり、また確かに征服の下心もあったに違いない。それでここに、「ハンニバルはローマへ向かって進んだ」と言うように、「彼はベンチへ向かって進んだ」と言おう。

 とは言え彼の態度はまったく機械的であって、いっものとおりの頭と仕事との専心は少しも中断されていなかった。得業士提要はばかな書物で、人間精神の傑作としてラシーヌの三つの悲劇を梗概(こうがい)しモリエールの喜劇はただ一つしか梗概してないのを見ると、よほどの愚人が書いたものに違いない、と彼はその時考えていた。けれど耳には鋭い音が鳴り渡っていた。ベンチの方へ近寄りながら、彼は上衣のしわを伸ばし、目を若い娘の上に据えていた。道の向こうの端は、彼女のために漠然(ばくぜん)とした青い輝きで満たされてるかのように思えた。

 近づくに従って彼の歩みはますますゆるやかになってきた。ある距離までベンチに近づくと、道の先端まではまだだいぶあったが、そこで立ち止まり、自分でもどうした訳か知らないで足を返した。向こうの端まで行かなかったことをさえ自ら知らなかった。娘が彼の姿を遠くから認め、その新しい服装をしたりっぱな様子を見たかどうか、それさえわからなかった。けれども彼は、だれかに後ろから見らるる場合に自分の姿をよく見せようとして、まっすぐに背を伸ばして歩いた。

 彼は道の反対の端まで行き、それからまた戻ってきて、こんどは前よりもずっとベンチに近づいて来た。そして木立ち三本をへだてるだけの所までやってきたが、そこでもうどうしても先へ進めないような気がして、ちょっと躊躇(ちゅうちょ)した。娘の顔が自分の方へ差し向けられてるのを見るように思った。それでも彼は男らしい激しい努力をして、ためらう心を押さえつけ、前の方へ進んでいった。やがて彼はまっすぐに身を固くして、耳の先までまっかになり、右にも左にもあえて目もくれず、政治家のように手を上衣の中にさし込んで、ベンチの前を通りすぎた。そしてそこを、その要塞(ようさい)の大砲の下を、通ってゆく時、恐ろしく胸が動悸(どうき)するのを感じた。彼女は前日のとおり、緞子(どんす)の長衣と縮紗(クレープ)の帽子とをつけていた。「彼女の声」に違いない言い難い声を彼は聞いた。彼女は静かに話をしていた。きわめてきれいだった。それだけのことを、彼は彼女を見ようともしなかったけれども心に感じた。彼は考えた。「フランソア・ド・ヌーシャトー氏が自筆だとしてジル・ブラスの刊行本の初めにつけたマルコ・オブルゴン・ド・ラ・ロンダに関する論説は、実は私が書いたのだと知ったら、彼女もきっと私に敬意と尊敬とを持つに違いないんだが。」

 彼はベンチの所を通りすぎ、すぐ先の道の端まで行き、それからまた戻ってきて、も一度美しい娘の前を通った。がこんどはまっさおになっていた。強い不安しか感じなかった。彼はベンチと娘とから遠ざかっていった。そして彼女の方に背を向けながら、後ろから彼女に見られてるような気がして、思わずよろめいた。

 それから彼はもうベンチに近寄らなかった。道の中ほどに立ち止まって、今までかつてしなかったことであるが、横目をしながらそこのベンチに腰をおろしてしまい、漠然(ばくぜん)たる心の底で考えた。要するに、自分が嘆賞してるその白い帽子と黒い上衣とのあの人たちも、自分のみがき立てたズボンと新しい上衣とに対して、全然無感覚であることはできないだろうと。

 十五分ばかりそうしていた後、円光にとりまかれてるベンチの方へまた歩き出そうとするかのように、彼は立ち上がった。けれどもそこに立ったままで身動きもしなかった。あすこに娘とともに毎日腰掛けている老紳士の方でも、きっと自分に気がつき、自分の態度をおそらく不思議に思ったであろうと、十五カ月以来初めて彼は考えた。

 そしてまた初めて彼は、心のうちでとは言え、ルブラン(白)氏などという綽名(あだな)でその知らない紳士を呼んでいたことに、ある不敬さを感じた。

 そして彼は頭をたれ、手にしてるステッキの先で砂の上に物の形を描きながら、数分間じっとしていた。

 それから突然向きを変え、ベンチとルブラン氏とその娘とを後ろにして、自分の家へ帰っていった。

 その日彼は夕食を食いにゆくことを忘れた。晩の八時ごろそれに気づいたが、もうサン・ジャック街までやって行くにはあまり遅かったので、なあにと言って、一片のパンだけをかじった。

 彼は上衣にブラシをかけ、丁寧にそれを畳んでから、ようやく寝床にはいった。

     五 ブーゴン婆さんのたびたびの驚き

 ブーゴン婆さん――と言うのは、ゴルボー屋敷の借家主で門番で兼世帯女である婆さんで、実際は前に言ったとおりブュルゴンという名だったが、何物をも尊敬したことのないひどいクールフェーラックの奴(やつ)が、そう名づけてしまったのである(訳者注 ブーゴン婆とはぐずり婆の意)。――ブーゴン婆さんは、その翌日、マリユスがまた新しい上衣を着て出かけるのを見て、あきれてしまった。

 マリユスはまたリュクサンブールの園に行ったが、道の中ほどにあるベンチより先へは行かなかった。前のように彼はそこに腰掛け、遠くからながめて、白い帽子と黒い長衣とまたことに青い輝きをはっきり見た。彼はそこを動きもせず、リュクサンブールの門がしまる時にようやく帰っていった。ルブラン氏とその娘とが帰ってゆく姿は見えなかった。それで彼は、ふたりはウエスト街の門から出て行ったのだろうと推定した。その後、数週間後のことであったが、その時のことを考えてみた時、彼はその晩どこで夕食をしたかどうしても思い出せなかった。

 その翌日、もう三日目であったが、ブーゴン婆さんはまた驚かされた。マリユスは新しい上衣を着て出かけたのである。

「まあ三日続けて!」と彼女は叫んだ。

 彼女はあとをつけてみようとした。しかしマリユスは早く大またに歩いていた。あたかも河馬が羚羊(かもしか)を追っかけるようなものだった。二、三分とたたないうちに、彼女はマリユスの姿を見失い、息を切らして戻ってきた。喘息(ぜんそく)のためにほとんど息をつまらして、ひどく怒っていた。彼女はつぶやいた。「毎日いい方の服をつけて、おまけに人をこんなに駆けさしてさ、それでいいつもりかしら!」

 マリユスはまたリュクサンブールにおもむいた。

 若い娘はルブラン氏とともにそこにきていた。マリユスは本を読んでるようなふうをして、できるだけ近づいていったが、それでもまだよほど遠くに立ち止まった。それから自分のベンチの方へ戻って腰を掛け、小道のうちを無遠慮な雀(すずめ)が飛び回るのをながめ、自分が嘲(あざけ)られてるような気がしながら、四時間もじっとしていた。

 そういうふうにして二週間ばかり過ぎた。マリユスはもう散歩をするためにリュクサンブールに行くのではなく、いつも同じ場所になぜだか自分でも知らないでただすわりに行った。一度そこへつくと、もう一歩も動かなかった。彼は人目につかないようにと朝から新しい上衣を着た、そしてまた来る日も来る日も同じようにした。

 彼女はまさしく驚嘆すべきほど美しかった。しいて批評がましい一つの難点をあぐれば、その悲しそうな目つきとうれしそうな微笑との間の矛盾で、それが彼女の顔に何か心迷ったような趣を与え、ためにある瞬間には、そのやさしい顔は愛くるしいままで異様になるのだった。

     六 囚われ

 二週間目の終わりのある日、マリユスは例のとおり自分のベンチにすわって、手に書物を開いていたが、もう二時間にもなるのに一ページも読んでいなかった。と突然彼は身を震わした。道の向こうの端で一大事が起こったのである。ルブラン氏と娘とはベンチを離れ、娘は父親の腕を取り、ふたりはマリユスがおる道の中ほどへ向かってやってきたのである。マリユスは書物を閉じ、それからまた開き、次にそれを読もうとつとめた。彼は震えていた。円光はまっすぐに彼の方へやってきつつあった。「ああ、姿勢をなおす暇もない、」と彼は考えた。そのうちにも白髪の男とその若い娘とは進んできた。彼にはその間が、一世紀ほど長いように思われ、また一瞬間にすぎないようにも思われた。「何しにこちらへ来るんだろう?」と彼は自ら尋ねた。「ああ、彼女がここを通ってゆく! その足は、自分から二歩と離れないこの道の砂を踏んでゆく!」彼は気が顛倒していた[#「顛倒していた」は底本では「転倒していた」]。ごく美しい男ともなりたかった。勲章でも持っていたかった。ふたりの歩み寄ってくる調子をとった静かな音が聞こえた。ルブラン氏が怒った目つきを自分に向けはすまいかとも想像した。「何か自分に話しかけるだろうか、」とも考えた。彼は頭をたれた。そしてまた頭を上げた時、ふたりはすぐそばにきていた。若い娘は通っていった。通りすがりに彼をながめた。考え込んだようなやさしさで彼をじっとながめた。マリユスは頭から足の爪先までぞっとした。もう長い間一度も彼女の方へ行かなかったことを難じられたような気がし、私の方から参りましたと言われたような気がした。その輝いた深い瞳(ひとみ)の前に、マリユスは眩惑(げんわく)されてしまった。

 彼は頭の中が燃えるように感じた。彼女の方から自分の所へきてくれた、何という幸いだろう。そしてまた彼女は、いかにじっと自分を見てくれたろう! 彼女は今まで見たよりも一段と美しく彼には思えた。女性の美と天使の美とをいっしょにした美しさである。ペトラルカをして歌わしめダンテをしてひざまずかしめる美しさである。彼はあたかも青空の中央に漂ってるような思いをした。同時に彼は、自分の靴(くつ)にほこりがついていたので非常に心苦しかった。

 彼女はまたこの靴をも見たに違いない、と彼は思った。

 彼女の姿が見えなくなるまで、彼はその後ろを見送った。それから気が狂ったようにリュクサンブールの園の中を歩き初めた。時とするとひとりで笑ったり声高に語ったりしがちだった。まったく夢を見ているようで、子もりの女どもまで彼が近づいて来ると、めいめい自分が恋せられてるんだと思ったほどである。

 彼は街路でまた彼女に会いはすまいかと思って、リュクサンブールを出た。

 彼はオデオンの回廊の下でクールフェーラックに行き会った。「いっしょに食事をしにこいよ、」と彼はクールフェーラックに言った。彼らはルーソーの家に行き、六フラン使い果たした。マリユスは鬼のようによく食べた。給仕にも六スー与えた。食後のお茶の時に、彼はクールフェーラックに言った。「君は新聞を読んだか。オードリ・ド・プュイラヴォーの演説は実にりっぱじゃないか。」

 彼はすっかり恋に取っつかれていた。

 食事をすますと、彼はクールフェーラックに言った。

「芝居をおごろう。」彼らはポルト・サン・マルタン座へ行って、アドレーの旅籠屋(はたごや)でフレデリックの演技を見た。マリユスはすてきにおもしろがった。

 同時に彼はまたひどく気が立っていた。芝居から出て、ひとりの小間物屋の女が溝(どぶ)をまたいでその靴下留めが見えたのを、頑固(がんこ)にふり返りもしなかった。「僕はああいう女をも喜んで採集するんだがな、」と言ったクールフェーラックの言葉に、彼はほとんど嫌悪(けんお)の念をいだいた。

 クールフェーラックは翌日、彼をヴォルテール珈琲(コーヒー)店に招いた。マリユスはそこに行って、前日よりもなおいっそうむさぼり食った。彼はすっかり考え込んでおり、またごく快活だった。機会あるごとにすぐに高笑いをしたがってるかのようだった。ひとりの田舎者(いなかもの)に紹介されるとそれを親しく抱擁した。学生の一団がテーブルのまわりに陣取っていた。国家がわざわざ金を出してソルボンヌ大学で切り売りさしてるばかげた講義のことを論じていたが、次にその談話は、多くの辞書やキシュラの韻律法などにある誤謬(ごびゅう)や欠陥のことに落ちていった。マリユスはその議論をさえぎって叫んだ。「それでも十字勲章をもらうのは悪くないぞ!」

「これはおかしい!」とクールフェーラックはジャン・プルーヴェールに低くささやいた。

「いや、」とジャン・プルーヴェールは答えた、「奴(やつ)はまじめなんだ。」

 実際それはまじめだった。マリユスは大なる情熱が起こってこようとする楽しいまた激烈な最初の時期に際会していた。

 ただ一度の目つきが、すべてそういう変化をもたらしたのである。

 火坑には既に火薬がつめられている時、火災の準備が既にでき上がっている時、それより簡単なことはない。一つの瞥見(べっけん)はすなわち口火である。

 事は既に終わった。マリユスはひとりの女に恋した。彼の運命は未知の世界にふみ込まんとしていた。

 婦人の一瞥(いちべつ)は、表面穏やかであるが実は恐るべきある種の歯車にも似ている。人は毎日平和に事もなくそのそばを通り過ぎ、何らの懸念も起こさない。ある時は、それが自分のそばにあることさえも忘れてしまっている。行き、きたり、夢想し、語り、笑っている。が突然とらえられたことを感ずる。その時はもはや万事終わりである。歯車は人を巻き込み、瞥見は人を捕える。どこからということなく、またいかにしてということなく、思いめぐらしてる思想の一端からでも、うっかりしてるすき間からでも、人を捕えてしまう。それは身の破滅である。全身引き込まれなければやまない。不可思議な力から鷲(わし)づかみにされる。身をもがいてもむだである。人間の力ではいかんともすることはできない。精神も幸福も未来も魂もすべてが、車の歯から歯へ、苦悶(くもん)から苦悶へ、懊悩(おうのう)から懊悩へと、陥ってゆく。そしてあるいは悪い女の力に支配されるか、あるいは気高い心の婦人に支配されるかに従って、人がその恐るべき機械から出て来る時には、あるいは汚辱によって面目を失っているか、あるいは情熱によって面目を一新しているかだけである。

     七 推察のままに任せらるるU文字の事件

 孤立、すべてからの分離、矜持(きょうじ)、独立、自然に対する趣味、日々の物質的活動の欠除、自分のうちに引きこもった生活、貞節な心のひそかな争闘、万物に対するやさしい恍惚(こうこつ)、などはついにマリユスをして情熱と呼ばるるところのものにとらえらるる素地をこしらえていた。父に対する崇拝の念はしだいに一つの信仰となり、あらゆる信仰と同じくそれも心の奥に引っ込んでしまっていた。そして今第一の正面に何物かが必要となっていた。そこに恋がきたのである。

 まる一月はかくて過ぎた。その間マリユスは毎日リュクサンブールの園に行った。その時間が来れば何物も彼を引き止めることはできなかった。「あいつは勤務中だ、」とクールフェーラックは言った。マリユスは歓喜のうちに日を過ごしていた。若い娘も彼の方に目をつけてることは確かだった。

 彼はついに大胆になって、あのベンチに近寄っていった。けれどももうその前を通ることをしなかった。一つは臆病(おくびょう)な本能からと、また一つには恋する者の注意深い本能からだった。「父親の注意」をひかない方がいい、と彼は思っていた。彼は深いマキアヴェリ式の権謀を用いて、彫像の台石や樹木の後ろに自分の地位を選び、そしてできるだけよく娘の方から見えるようにし、できるだけ老紳士の方からは見えないようにした。時とすると半時間も、レオニダスかスパルタクスか何かの像の陰にじっとたたずんで、手に書物を持ち、その書物から静かに目を上げて、美しい娘の方を見ようとすることもあった。すると彼女の方でもぼんやりした微笑を浮かべて、彼の方へかわいい横顔を向けた。白髪の老人とごく自然にまた静かに話をしながら、彼女はその処女らしいまた熱情のあふれた夢見るような目を、マリユスの上に据えるのだった。世界の最初の日からイヴが知っていた、また人生の最初からすべての女が知っている、古い太古からのやり方である。彼女の口はひとりの方へ返事をし、彼女の目つきはもひとりの方へ返事をしていた。

 けれども、ルブラン氏の方でもついに何事かに気づいたことは想像される。なぜなら、マリユスがやってゆくと、しばしば彼は立ち上がって歩き出した。彼はよくいつもの場所を離れ、道の他の端にあるグラディアトゥールの像のそばのベンチに腰掛け、あたかもそこまでマリユスがついて来るかを見ようとするがようだった。マリユスはその訳を了解せず、その失策をやってしまった。「父親」はしだいに不正確になり、もう毎日は「自分の娘」を連れてこなかった。時とするとひとりでやってきた。するとマリユスはそこに止まっていなかった。それがまたも一つの失策だった。

 マリユスはそういう徴候には少しも気を留めなかった。臆病な状態から、避くるを得ない自然の順序として、盲目の状態に陥っていった。彼の恋は募ってきた。毎夜その夢を見た。その上意外な幸福がやってきた。それは火に油を注ぐようなもので、また彼の目をいっそう盲目ならしむるものだった。ある日の午後、たそがれ頃に、「ルブラン氏とその娘」とが立ち去ったベンチの上に、彼は一つのハンカチを見いだした。刺繍(ししゅう)もないごくあっさりしたハンカチだったが、しかしまっ白で清らかで、言うべからざるかおりが発してるように思えた。彼は狂喜してそれを拾い取った。ハンカチにはU・Fという二字がついていた。マリユスはその美しい娘については何にも知るところがなかった、その家がらも名前も住所も知らなかった。そしてその二字は彼女についてつかみ得た最初のものだった。大事な頭文字で、彼はすぐその上に楼閣を築きはじめた。Uというのはきっと呼び名に違いなかった。彼は考えた、「ユルスュールかな、何といういい名だろう!」彼はそのハンカチに脣(くちびる)をつけ、それをかぎ、昼は胸の肌(はだ)につけ、夜は脣にあてて眠った。

「彼女の魂をこの中に感ずる!」と彼は叫んだ。

 しかるにそのハンカチは実は老紳士ので、たまたまポケットから落としたのだった。

 その拾い物の後はいつも、マリユスはそれに脣をつけ、それを胸に押しあてながら、リュクサンブールに姿を現わした。美しい娘はその訳がわからず、ひそかな身振りでそのことを彼に伝えた。

「何という貞節さだろう!」とマリエスは言った。

     八 老廃兵といえども幸福たり得る

 われわれは貞節という語を発したことであるし、また何事をも隠さないつもりであるから、「彼のユルスュール」は恍惚(こうこつ)のうちにあるマリユスにきわめてまじめな苦しみを与えたことが一度あるのを、ここに述べなければならない。それは彼女が、ルブラン氏を促してベンチを去り道を逍遙(しょうよう)した幾日かのうちの、ある日のことだった。晩春の強い風が吹いて篠懸(すずかけ)の木の梢(こずえ)を揺すっていた。父と娘とは互いに腕を組み合わして、マリユスのベンチの前を通り過ぎた。マリユスはそのあとに立ち上がり、その後ろ姿を見送った。彼の心は狂わんばかりで、自然にそういう態度をしたらしかった。

 何物よりも最も快活で、おそらく春の悪戯(いたずら)を役目としているらしい一陣の風が、突然吹いてきて、苗木栽培地(ペピニエール)から巻き上がり、道の上に吹きおろして、ヴィルギリウスの歌う泉の神やテオクリトスの歌う野の神にもふさわしいみごとな渦巻きの中に娘を包み込み、イシスの神の長衣よりいっそう神聖な彼女の長衣を巻き上げ、ほとんど靴下留(くつしたど)めの所までまくってしまった。何とも言えない美妙なかっこうの片脛(かたはぎ)が見えた。マリユスもそれを見た。彼は憤慨し立腹した。

 娘はひどく当惑した様子で急いで長衣を引き下げた。それでも彼の憤りは止まなかった。――その道には彼のほかだれもいなかったのは事実である。しかしいつもだれもいないとは限らない。もしだれかいたら! あんなことが考えられようか。彼女が今したようなことは思ってもいやなことである。――ああしかし、それも彼女の知ったことではない。罪あるのはただ一つ、風ばかりだ。けれども、シェリュバンの中にあるバルトロ的気質が(訳者注 フィガロの結婚中の人物で、前者は女に初心な謹厳な少年、後者は嫉妬深い後見人)ぼんやり動きかけていたマリユスは、どうしても不満ならざるを得ないで、彼女の影に対してまで嫉妬(しっと)を起こしていた。肉体に関する激しい異様な嫉妬の念が人の心のうちに目ざめ、不法にもひどく働きかけてくるのは、皆そういうふうにして初まるのである。その上、この嫉妬の念を外にしても、そのかわいらしい脛(はぎ)を見ることは、彼にとっては少しも快いことではなかった。偶然出会う何でもない婦人の白い靴下(くつした)を見せられる方が、彼にとってはまだしもいやでなかったろう。

「彼のユルスュール」は、道の向こうの端まで行き、ルブラン氏とともに引き返してきて、マリユスが再び腰をおろしていたベンチの前を通った。その時マリユスは気むずかしい荒い一瞥(いちべつ)を彼女に与えた。若い娘はちょっと身を後ろにそらせるようにし、それとともに眼瞼(まぶた)を上の方に上げた。「まあどうなすったのだろう!」という意味だった。

 それは彼らの「最初の争い」だった。

 マリユスが目の叱責(しっせき)を彼女に与え終わるか終わらないうちに、一人の男がその道に現われた。それは腰の曲がったしわだらけな白髪の老廃兵で、ルイ十五世式の軍服をつけ、兵士のサン・ルイ会員章たる、組み合わした剣のついてる小さな楕円形(だえんけい)の赤ラシャを胴につけ、その上、上衣の片袖(かたそで)には中に腕がなく、頤(あご)には銀髯(ぎんぜん)がはえ、一方の足は義足だった。マリユスはその男の非常に満足げな様子がそれと見て取らるるような気がした。またその皮肉な老人が自分のそばをびっこひいて通りながら、ごく親しい愉快そうな目配せをしたように思えた。あたかも偶然にふたりは心を通じ合って、いっしょに何かうまいことを味わったとでも、自分に伝えてるらしく彼には思えた。その剣の端くれの老耄(おいぼれ)めが、いったい何でそう満足げにしてるのか。奴(やつ)の義足と娘の脛(はぎ)との間に何の関係があるか。マリユスは嫉妬の発作に襲われた。「彼奴(あいつ)もいたんだろう。あれを見たに違いない!」と彼は自ら言った。そして彼はその老廃兵をなきものにしたいとまで思った。

 時がたつに従っていかなる尖端(きっさき)も鈍ってくる。「ユルスュール」に対するマリユスの憤りも、たとい正しいまた至当なものであったとしても、やがて過ぎ去ってしまった。彼はついにそれを許した。しかしそれには多大の努力を要し、三日の間というものは不平のうちに過ごした。

 とは言うものの、そんなことのあったにもかかわらず、またそんなことがあったために、彼の情熱はますます高まって狂わんばかりになった。

     九 日食

 彼女はユルスュールという名であることを、マリユスがいかにして発見したか、否発見したと思ったか、それは読者の既に見てきたところである。

 欲望は愛するにつれて起こってくる。彼女がユルスュールという名であることを知ったのは、既に大したことである、しかもまたきわめて些事(さじ)である。マリユスは三、四週間のうちにその幸福を食い尽してしまった。彼は新たに他の幸福を欲した。彼は彼女がどこに住んでるかが知りたくなった。

 彼はグラディアトゥールのベンチの策略に陥って、第一の失策を演じた。ルブラン氏がひとりで来る時にはリュクサンブールの園に止まることをしないで、第二の失策を演じた。それからまた第三の失策をやった。それは非常な失策だった。彼は「ユルスュール」のあとをつけたのである。

 彼女はウエスト街の最も人通りの少ない場所に住んでいた。見たところ質素な、四階建ての新しい家だった。

 それ以来マリユスは、リュクサンブールで彼女に会うという幸福に加えて、彼女のあとにその家までついてゆくという幸福を得た。

 彼の渇望は増していった。彼女の名前を、少なくともその幼名、かわいい名、本当の女らしい名を、彼は知っていた。彼女の住居をも知った。そしてこんどは、どういう身分であるかを知りたくなった。

 ある日の夕方、その家までふたりのあとについて行った時、ふたりの姿が正門から見えなくなった時、彼は続いてはいって行き、勇敢にも門番に尋ねた。

「今帰っていった人は、二階におらるる方ですか。」

「いいえ、」門番は答えた、「四階にいる人です。」

 それでまた一歩進んだわけである。そしてその成功はマリユスを大胆ならしめた。

「表に向いてる室(へや)ですか。」と彼は尋ねた。

「えー!」と門番は言った、「人の家というものは皆往来に向けて建ててあるものですよ。」

「そしてあの人はどういう身分の人ですか。」とマリユスはまた尋ねた。

「年金があるんです。ずいぶん親切な人で、大した金持ちというのではないが、困る者にはよく世話をして下さるんです。」

「名前は何というんですか。」とマリユスはまたきいた。

 門番は頭を上げて、そして言った。

「あなたは探偵(たんてい)ですか?」

 マリユスはかなり当惑したがしかし非常に喜んで立ち去った。だいぶ歩を進めたわけである。

「しめた、」と彼は考えた、「ユルスュールという名前であることもわかったし、年金を持ってる者の娘であることもわかったし、あのウエスト街の四階に住んでいることもわかった。」

 その翌日、ルブラン氏と娘とは、わずかな間しかリュクサンブールに止まっていなかった。まだ日の高いうちに立ち去ってしまった。マリユスはいつものとおりウエスト街まで彼らのあとについて行った。正門の所へ行くと、ルブラン氏は娘を先に中へ入れて、その門をくぐる前に立ち止まり、ふり返ってマリユスをじっとながめた。

 次の日、彼らはリュクサンブールにこなかった。マリユスは一日待ちぼけをくった。

 晩になって、彼はウエスト街に行き、四階の窓に燈火(あかり)がさしてるのを見た。彼はその燈火が消えるまで窓の下をうろついた。

 その次の日、リュクサンブールへはふたりともこなかった。マリユスは終日待っていて、それからまた窓の下の夜の立ち番をした。それが十時までかかった。夕食は時と場合に任した。熱は病人を養い、恋は恋人を養う。

 彼はそういうふうにして一週間を過ごした。ルブラン氏と娘とはもうリュクサンブールに姿を見せなくなった。マリユスは種々悲しい推察をした。昼間正門の所で待ち伏せすることはなしかねた。晩に出かけて行って、窓ガラスにさしてる赤い光をながめることだけで満足した。時とするとその窓に人影がさして、それを見る彼の胸は激しく動悸(どうき)した。

 八日目、彼が窓の下にやって行った時、そこには光が見えなかった。彼は言った。「おや、まだランプがついていない。でももう夜だ。どこへか出かけたのかしら。」彼は待ってみた。十時まで、十二時まで、ついに夜中の一時になった。四階の窓には何の光もささず、また家の中にだれもはいってゆく者もなかった。彼はひどく沈みきって立ち去った。

 翌日――彼はただ、明日は明日はと暮らしていて、言わば、彼にとっては今日というものはなかったのである――翌日、彼はまたリュクサンブールで彼らのいずれをも見かけなかった。恐れていたとおりだった。薄暗くなってからその家の前へ行った。窓には何の光もなかった。鎧戸(よろいど)がしめてあった。四階はまっ暗だった。

 マリユスは正門をたたき、はいって行って、門番に言った。

「四階の人は?」

「引っ越しました。」と門番は答えた。

 マリユスはよろめいた。そして弱々しく言った。

「いったいいつですか。」

「昨日です。」

「今どこに住んでいられますか。」

「一向知りません。」

「ではこんどの住所を知らして行かれなかったんですか。」

「そうです。」

 そして門番は頭を上げて、マリユスに気づいた。

「やああなたですか。」と彼は言った。「それじゃあなたはやはり警察の方ですね。」

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