ビクトル・ユーゴー レ・ミゼラブル 第三部 マリユス


   第七編 パトロン・ミネット

     一 鉱坑と坑夫

 人間のあらゆる社会は皆、劇場でいわゆる奈落なるものを有している。社会の地面は至る所発掘されている。あるいは善を掘り出さんがために、あるいは悪を掘り出さんがために。そしてそれらの仕事は互いに積み重なっている。そこには上方の鉱坑もあれば、下方の鉱坑もある。そういう薄暗い地下坑は、時として文明の下に影を没し、また無関心で不注意なるわれわれによって足下に蹂躙(じゅうりん)さるることもあるが、それ自身に上部と下部とをそなえている。十八世紀におけるフランスの百科辞典は、やはりその一つの坑であって、ほとんど地上に現われてるものであった。初代キリスト教をひそかにはぐくんでいたあの暗黒は、やがてローマ皇帝の下に爆発して光明をもって人類を満たさんがためには、ただ一つの機会を要するのみだった。聖なる暗黒のうちには、実に潜在せる光明があったのである。火山が蔵する影のうちには、やがて炎々と輝き出すべき可能性がある。熔岩(ようがん)もすべてその初めは暗黒である。最初の弥撒(ミサ)が唱えられた瑩窟(えいくつ)は、単にローマの一洞窟(どうくつ)だったのである。

 社会の組織の下には、驚くべく複雑な廃墟(はいきょ)が、あらゆる種類の発掘が存している。宗教の坑があり、哲学の坑があり、政治の坑があり、経済の坑があり、革命の坑がある。あるいは思想の鶴嘴(つるはし)、あるいは数字の鶴嘴、あるいは憤怒の鶴嘴。一つの瑩窟(えいくつ)から他の瑩窟へと、人々は呼びかわし答え合う。あらゆる理想郷は、それらの坑によって地下をへめぐる。四方に枝を伸ばしてゆく。あるいは互いに出会って親交を結ぶ。ジャン・ジャック・ルーソーはおのれの鶴嘴をディオゲネスに貸し、ディオゲネスは彼におのれの提灯(ちょうちん)を貸す。あるいはまた互いに争闘する。カルヴィンはソチニの頭髪をつかむ。しかしながら、それらの力が一つの目的に向かって進むのを、何物も止め妨ぐることはできない。暗黒の中を往来し上下して、おもむろに上層と下層とを置き換え外部と内部とを交代せしむる、その広汎(こうはん)なる一斉の活動を、何物も止め妨ぐることはできない。それは隠れたる広大なる蠢動(しゅんどう)である。しかし社会は、表面をそのままにして内臓を変化せしめつつあるその発掘に、ほとんど気づかないでいる。そして地下の層が数多いだけに、その仕事も雑多であり、その採掘も種々である。けれどそれらの深い開鑿(かいさく)からいったい何が出て来るのか。曰(いわ)く、未来が。

 地下深く下れば下るほど、その労働者は不可思議なものとなる。社会哲学者らが見て取り得る第一層までは、仕事は善良なものである。しかしその一層を越せば、仕事も曖昧雑駁(あいまいざっぱく)なものとなり、更に下に下れば恐るべきものとなる。ある深さに及べば、もはや文明の精神をもってしては入り得ない坑となる。そこはもはや、人間の呼吸し得べき範囲を越えた所で、それより先に怪物の棲居(すまい)となるべきものである。

 下に導く段階はまた不思議なものである。その各段は、哲学の立脚し得る各段であって、そこには、あるいは聖なるあるいは畸形(きけい)なる種々の労働者がひとりずつおる。ヨハン・フスの下にルーテルがおり、ルーテルの下にデカルトがおり、デカルトの下にヴォルテールがおり、ヴォルテールの下にコンドルセーがおり、コンドルセーの下にロベスピエールがおり、ロベスピエールの下にマラーがおり、マラーの下にバブーフがおる。そういうふうにして続いてゆく。更に下の方に、目に見えるものと見えないものとの境界の所には、他のほの暗い人影がおぼろに認められる。それはおそらく、いまだこの世に存しない人々であろう。昨日の人は今は幽鬼であるが、明日の人は今はまだ浮遊のものである。精神の目のみがそれらを漠然(ばくぜん)と認め得るのである。まだ生まれざる未来の仕事は、哲学者の幻像の一つである。

 胎児の状態にある陰府(よみ)の中の世界、何という異常な幻であるか!

 サン・シモン、オーエン、フーリエなどもまたその側面坑の中におる。

 それら地下の開鑿者(かいさくしゃ)らは皆、自ら知らずしてある目に見えない聖なる鎖に結ばれていて、各自孤立していはしないが、多くは常に自ら孤独であると考えている。そして実際、彼らの仕事は種々であり、ある者の光明とある者の炎とが互いに矛盾することもある。ある者は楽しく、ある者は悲壮である。けれども、その相違のいかんにかかわらず、それらの労働者らは皆、最高のものから最低のものに至るまで、最賢のものから最愚のものに至るまで、一つの類似点を持っている。すなわち無私ということを。マラーもイエスと同じくおのれを忘れている。彼らは皆おのれを捨て、おのれを脱却し、おのれのことを考えていない。彼らは自己以外のものを見ている。彼らは一の目を有している。その目はすなわち絶対なるものをさがし求めている。最高の者は一眸(いちぼう)のうちに天をすべて収めている。最下の者も、いかにいまだ空漠たろうとも、なおその眉目(びもく)の下に無窮なるもののかすかな輝きを持っている。そのなすところが何であろうとも、かかる標(しるし)を、星の瞳(ひとみ)を、有している者ならば、すべて皆尊むべきではないか。

 影の瞳はまた他の標である。

 そういう瞳より悪が始まる。目に光なき者こそは、注意すべき恐るべき者である。社会のうちには、暗黒なる坑夫もいる。

 発掘はやがて埋没となり、光明もやがて消えうせるような地点が、世にはあるものである。

 以上述べきたった鉱坑の下に、それらの坑道の下に、進歩と理想郷とのその広大なる地下の血脈系の下に、はるか地下深くに、マラーより下、バブーフより下、更に下、はるか遠く下に、上方の段階とは何らの関係もない所に、最後の坑道がある。恐るべき場所である。われわれが奈落(ならく)と呼んだのはすなわちそれである。それは暗黒の墓穴であり、盲目の洞穴である。どん底である。

 そこは地獄と通じている。

     二 どん底

 このどん底においては無私は消滅する。悪魔は漠然(ばくぜん)と姿を現わし、人は自己のことのみを考えている。盲目の自我が、咆(ほ)え、漁(あさ)り、模索し、かみつく。社会のウゴリノがこの深淵(しんえん)のうちにおる(訳者注 ウゴリノとは飢の塔のうちに幽閉されて餓死せる子供らの頭を咬める人――ダンテの神曲)

 その墓穴の中にさまよってる荒々しい人影は、ほとんど獣類ともまたは幽鬼とも称すべきものであって、世の進歩なるものを念頭にかけず、思想をも文字をも知らず、ただおのれ一個の欲望の満足をしか計っていない。彼らはほとんど何らの自覚も持たず、心の中には一種の恐るべき虚無を蔵している。ふたりの母を持っているが、いずれも残忍なる継母であって、すなわち無知と困窮とである。また嚮導者(きょうどうしゃ)としては欠乏を持っている。そしてそのあらゆる満足はただ欲情を満たすことである。彼らは恐ろしく貪慾(どんよく)である。換言すれば獰猛(どうもう)である、しかも暴君のごとくにではなく、猛虎(もうこ)のごとくに。それらの悪鬼は、難渋より罪悪に陥ってゆく。しかもそれは必然の経過であり、恐るべき変化であり、暗黒の論理的帰結である。社会の奈落(ならく)にはい回ってるものは、もはや絶対なるものに対する痛切な要求の声ではなく、物質に対する反抗の念である。そこにおいて人は竜(ドラゴン)となる。飢渇がその出発点であり、サタンとなることがその到達点である。そういう洞穴(どうけつ)から凶賊ラスネールが現われて来る。

 われわれは前に第四編において、上層の鉱区の一つ、すなわち政治的革命的哲学的の大坑道の一つを見てきた。既に述べたとおりそこにおいては、すべてが気高く、純潔で、品位あり、正直である。そこにおいても確かに、人は誤謬(ごびゅう)に陥ることがあり、また実際陥ってもいる。しかし壮烈さを含む間はその誤謬も尊むべきである。そこでなさるる仕事の全体は、進歩という一つの名前を持っている。

 今や他の深淵(しんえん)、恐るべき深淵を、のぞくべき時となった。

 われわれはあえて力説するが、社会の下には罪悪の大洞窟(だいどうくつ)が存している。そして無知が消滅する日まではそれはなお存するであろう。

 この洞窟は、すべてのものの下にあり、すべてのものの敵である。いっさいに対する憎悪である。この洞窟はかつて哲学者を知らず、その剣はかつてペンに鋳つぶされたことがない。その黒色はインキ壺(つぼ)の崇高なる黒色と何らかの関係を有したことがない。その息づまるばかりの天井の下に痙攣(けいれん)する暗黒の指は、かつて書物をひもとき新聞をひらいたことがない。バブーフも強賊カルトゥーシュに比すればひとりの探検家であり、マラーも凶漢シンデルハンネスに比すればひとりの貴族である。この洞窟(どうくつ)はいっさいのものの転覆を目的としている。

 しかりいっさいのものの。そのうちには、彼がのろう上層の坑道も含まれる。彼はその厭悪(えんお)すべき蠢動(しゅんどう)のうちに、啻(ただ)に現在の社会制度を掘り返すのみでなく、なお哲学をも、科学をも、法律をも、人類の思想をも、文明をも、革命をも、進歩をも、すべてを掘り返す。その名は単に窃盗、売笑、殺戮(さつりく)、刺殺である。彼は暗黒であり、混沌(こんとん)を欲する。彼をおおう屋根は無知で作られてある。

 他のすべてのもの、上層のすべての洞窟は、ただ一つの目的をしか有しない、すなわちこの洞窟を除去することである。哲学や進歩が、同時にその全器官をそろえて、現実の改善ならびに絶対なるものの静観によって、到達せんと目ざす所は実にこの一事にある。無知の洞窟を破壊するは、やがて罪悪の巣窟を破壊することである。

 以上述べきたったところの一部を数言につづめてみよう。曰く、社会の唯一の危険は暗黒にある。

 人類はただ一つである。人はすべて同じ土でできている。少なくともこの世にあっては、天より定められた運命のうちには何らの相違もない。過去には同じやみ、現世には同じ肉、未来には同じ塵(ちり)。しかしながら、人を作る捏粉(ねりこ)に無知が交じればそれを黒くする。その不治の黒色は、人の内心にしみ込み、そこにおいて悪となる。

     三 バベ、グールメル、クラクズー、およびモンパルナス

 クラクズーにグールメルにバベにモンパルナスという四人組みの悪漢が、一八三〇年から一八三五年まで、パリーの奈落(ならく)を支配していた。

 グールメルは、あたかも失脚したヘラクレス神のような男だった。その巣をアルシュ・マリオンの下水道に構えていた。身長六尺、大理石のような胸郭、青銅のような腕、洞穴(どうけつ)から出るような呼吸、巨人のような胴体、小鳥のような頭蓋(ずがい)。あたかもファルネーゼのヘラクレス神の像が、小倉のズボンと綿ビロードの上衣をつけた形である。そういう彫刻的な体躯(たいく)をそなえたグールメルは、怪物をも取りひしぎ得たであろうが、自ら怪物となることはなお容易であった。低い前額、広い顳(こめかみ)、年齢四十足らずで目尻(めじり)には皺(しわ)が寄り、荒く短い頭髪、毛むくじゃらの頬(ほお)、猪(いのしし)のような髯(ひげ)、それだけでもおよそその人物が想像さるるだろう。彼の筋肉は労働を求めていたが、彼の暗愚はそれをきらっていた。まったく怠惰な強力にすぎなかった。うかとした機会でも人を殺すことができた。植民地生まれの男だと一般に思われていた。一八一五年にアヴィニョンで運搬夫となっていたことがあるので、ブリューヌ元帥(訳者注 一八一五年アヴィニョンにて暗殺され河中に投ぜられし人)にもいくらか手をつけたことがあるに違いない。その後運搬夫をやめて悪漢となったのである。

 バベの小柄なのは、グールメルの粗大と対照をなしていた。バベはやせており、また物知りだった。身体は薄いが、心は中々見透かし難かった。その骨を通して日の光は見られたが、その瞳(ひとみ)を通しては何物も見られなかった。彼は自ら化学者だと言っていた。ボベーシュの仲間にはいって道化役者となり、またボビノの仲間にはいって滑稽家(こっけいか)となっていたこともある。サン・ミイエルでは喜劇を演じたこともある。気取りやで、話し上手で、大げさにほほえみ、大げさに身振りをした。「国の首領」の石膏像(せっこうぞう)や肖像を往来で売るのを商売にしていた。それからまた歯抜きもやった。市場(いちば)で種々な手品を使ってみせた。一つの屋台店を持っていたが、それにラッパと次の掲示とをつけていた。――諸アカデミー会員歯科医バベ、金属および類金属に関し物理的実験を試み、歯を抜き、同業者の手の及ばざる歯根の治療をなす。価、歯一本一フラン五十サンチーム、二本二フラン、三本三フラン五十サンチーム、好機を利用せよ。――(この「好機を利用せよ」というのは、「でき得る限り歯を抜くべし」という意味であった。)彼は妻帯して子供を持っていた。しかし妻も子供らもその後どうなったか自ら知らなかった。ハンケチでも捨てるように彼らを捨ててしまったのである。新聞を読むことができたが、それはその暗黒な社会での一異彩だった。ある日、まだその屋台店のうちに家族をいっしょに引き連れていた頃、メッサジェー紙上で、ある女が牛のような顔をした子を生んだが子供も丈夫にしているということを読んで、彼は叫んだ。「これは金儲(もう)けになる! だが俺(おれ)の女房はそんな子供を設けてくれるだけの知恵もねえんだからな。」

 それから後、彼はすべてをよして「パリーに手をつけ」初めた。これは彼自身の言葉である。

 クラクズーとは何であったか。暗夜そのものであった。彼は空が黒く塗られるのを待って姿を現わした。夜になると穴から出てきたが、夜が明けないうちにまたそこへ引っ込んでいった。その穴はどこにあるか、だれも知ってる者はなかった。まっくらな中ででも、仲間の者にまで背中を向けて口をきいた。そしてクラクズーというのも彼の実際の名前ではなかった。彼は言っていた、「俺(おれ)はパ・デュ・トゥー(皆無)というんだ。」もし蝋燭(ろうそく)の光でもさそうものなら、すぐに仮面をかぶった。彼はこわいろ使いだった。バベはよく言った、「クラクズーは二色の声を持ってる夜の鳥だ。」彼は朦朧(もうろう)とした恐ろしい、ぶらつき回ってる男だった。クラクズーというのは綽名(あだな)であって、果たして何か名前を持ってるかさえもわからなかった。口よりも腹から声を出すことが多いので、果たして声というものを持ってるかさえもわからなかった。だれもその仮面をしか見たことがないので、果たして顔を持ってるかさえもわからなかった。幻のように彼は忽然(こつぜん)と姿を消した。出て来る時も、まるで地面から飛び出してくるかと思われるほどだった。

 痛ましい者と言えばおそらくモンパルナスであったろう。まだ少年で、二十歳にも満たず、きれいな顔、桜桃(さくらんぼう)にも似た脣(くちびる)、みごとなまっ黒い頭髪、目に宿ってる春のような輝き、しかもあらゆる悪徳にしみ、あらゆる罪悪を望んでいた。悪を消化しつくしたので、更にひどい悪を渇望していた。浮浪少年から無頼漢となり、無頼漢から強盗と変じたのである。やさしく、女らしく、品があり、頑健(がんけん)で、しなやかで、かつ獰猛(どうもう)だった。一八二九年のスタイルどおりに、帽子の左の縁を上げて髪の毛を少し見せていた。強盗をして生活していた。そのフロック型の上衣は上等の仕立てではあったが、まったくすり切れていた。彼は困窮のうちに沈み殺害をも犯しつつしかもめかしやであった。この青年のあらゆる罪悪の原因は、美服をまといたいという欲望だった。「お前さんはきれいね、」と彼に言ったある一人の浮わ気女工は、彼の心のうちに一点の暗黒を投じ、そのアベルをしてカインたらしめたのである。自分のきれいであることを知って、彼は更に優美ならんことを欲した。しかるに第一の優美は怠惰である。そして貧しい者の怠惰はすなわち罪悪である。いかなる浮浪の徒も、モンパルナスくらいに人に恐れられていた者はあまりない。十八歳にして彼は既に後に数多の死屍(しかばね)を残していた。この悪漢のために、両腕をひろげ顔を血にまみらしてたおれた通行人も、一、二に止まらない。縮らした頭髪、ぬりつけた香油、きちっとした上衣、女のような腰つき、プロシャの将校のような上半身、周囲に起こる町娘らの賛美のささやき、気取った結び方をした襟飾(えりかざ)り、ポケットの中にしのばした棍棒(こんぼう)、ボタンの穴にさした一輪の花、そういうのがこの人殺しの洒落者(しゃれもの)の姿であった。

     四 仲間の組織

 それら四人組みの悪党は、プロテウスの神のように自由に姿を変え、警察の網の目をぬけてはい回り、「樹木や炎や泉など種々の姿となって」名探偵(めいたんてい)ヴィドックの容赦なき目をものがれんとつとめ、互いに名前や詐術を貸し合い、自身の暗黒のうちに潜み、秘密な穴にのがれ、互いに隠し合い、仮装舞踏会でつけ鼻を取り去るようにすぐにありさまを変え、あるいは四人がひとりであるかのように見せかけ、あるいは名警官ココ・ラクールでさえも四人を一群の者であると誤るほど巧みに大勢に見せかけた。

 それら四人の者は、実は四人ではなかったのである。パリーで大仕掛けに仕事をしてる四つの頭を持った一個の不可思議な盗賊であった。社会の窖(あなぐら)に住む恐るべき悪の水※(すいし)[#「虫+息」、607-14]であった。

 その分岐とその網目のような下層の脈絡とによって、バベとグールメルとクラクズーとモンパルナスとの四人は、広くセーヌ県内の闇撃(やみうち)を一手に引き受けていた。彼らは通行人に対して、下層からのクーデターを行なった。この種の仕事を考えついた者、夜の仕事を思いついた者は、皆その実行を彼らにはかった。四人の悪漢は草案を供給さるればそれをうまく舞台に上せた。彼らはその筋書きに従って仕事をした。彼らはいつも、何か肩を貸す必要がありまた相当に利益のある悪事には、それに相応した適当な人員を貸してやることもできた。力ずくの仕事には共犯人を呼び集めることもできた。一群の暗闇(くらやみ)の役者を持っていて、社会の底のあらゆる悲劇に自由に使っていた。

 通常夕方に彼らは起き上がって、サルペートリエール救済院の近くの野原で会合した。そしてそこで種々相談をこらした。それから十二時間の夜の間は彼らのもので、それをいかに使うべきかを定めた。

 パトロン・ミネット、というのがどん底の社会でこの四人組みの仲間に与えられてる名前だった。日々に消えうせつつある古い不思議な俗語では、パトロン・ミネット(子猫親方)というのは朝の意味であって、犬と狼との間というのが夕の意味であるのと同じである。このパトロン・ミネットという呼び名は、おそらく彼らの仕事が終わる時刻からきたものであろう。夜明けは幽霊は消えうせ盗賊が分散する時なのである。四人の者はそういう異名で知られていた。重要裁判長がかつて、ラスネールをその獄屋に見舞って、彼が否認してる罪悪を尋問したことがある。「ではだれがそれをしたのだ。」と裁判長は尋ねた。するとラスネールは、司法官にとっては謎(なぞ)にすぎないが警察にとっては明らかにわかる次の答えをした。「たぶんパトロン・ミネットでしょう。」

 ある場合には、登場人物の名前だけを見てその芝居のいかなるものであるかが察せられる。それと同じく、賊徒の名前だけを見てその一群がいかなるものであるか推察されることがある。でパトロン・ミネットの重なる手下がいかなる呼び名を持っていたかを次にあげてみよう。それらの名前はみんな特殊の記録の中に出ているものである。

パンショー、別名プランタニエ、別名ビグルナイユ。

ブリュジョン(ブルジョンの一系統があった。これについてはあとで一言する。)

ブーラトリュエル、前にちょっと述べたことのある道路工夫。

ラヴーヴ。

フィニステール。

オメール・オギュ、黒人。

マルディソアール。

デペーシュ。

フォーントルロア、別名ブークティエール。

グロリユー、放免囚徒。

バールカロス、別名デュポン氏。

レスプラナード・デュ・スュド。

プーサグリーヴ。

カルマニョレ。

クリュイドニエ、別名ビザロ。

マンジュダンテル。

レ・ピエ・ザン・レール。

ドゥミ・リアール、別名ドゥー・ミルアール。

その他

 他は略すとしよう。それらは最悪の者ではないから。そして上に述べたような名前は皆それぞれ特殊な相貌(そうぼう)を持っている。そしてそれも単に個人を現わすのみではなく、その種類を代表しているものである。それらの名前は各、文明の下層に生ずる醜い菌の各種類に相当するものである。

 これらの者は、めったに顔を明るみにさらすことをしないので、往来で普通行き会うような人のうちにはいなかった。昼になると、夜の荒々しい仕事に疲れて眠りに行った。あるいは石灰窯(せきたんがま)[#ルビの「せきたんがま」はママ]の中に、あるいはモンマルトルやモンルージュのすたれた石坑の中に、時としては下水道の中に。彼らは地の中にもぐり込んでいた。

 その後そういう者らはどうなったか? 彼らはやはり存在している。彼らは常に存在していたのである。ホラチウスもその事を語っている、「娼婦、薬売、乞食、道化役者。」そして社会が現状のままである間は、彼らもやはり現状のままでいるだろう。その窖(あなぐら)の薄暗い天井の下に、彼らは絶えず社会の下漏(したもれ)から生まれ出て来る。常に同じような妖怪となって現われて来る。ただ彼らの名前と外皮とのみが異なるばかりである。

 個人は消滅するが、その種族は存続する。

 彼らは常に同じ能力を持っている。乞食(こじき)から浮浪人に至るまで、種族はその純一性を保っている。彼らはポケットの中の金入れを察知し、内隠しの中の時計をかぎつける。金や銀は彼らに一種のにおいを放つ。また盗まれたそうな様子をしている人のいい市民もいる。そういう市民を彼らは根気よくつけ回す。外国人や田舎者(いなかもの)が通るのを見れば、彼らは蜘蛛(くも)のように身を震わす。

 ま夜中の頃、人なき街路で、彼らに出会いまたはその影を見る時、人は慄然(りつぜん)とする。彼らは人間とは思われない。生ある靄(もや)でできてるかのような姿をしている。あたかも彼らは常に闇(やみ)と一体をなしており、やみと見分けがつかず、影以外に何らの魂をも持たないかのようである。そして彼らが夜陰から脱け出してくるのはただ一瞬時の間のみであって、しばし恐るべき生命に生きんがためのみであるかのように思われる。

 そういう悪鬼を消散させんには、何が必要であるか。光明である。漲溢(ちょういつ)せる光明である。曙(あけぼの)の光に対抗し得る蝙蝠(こうもり)は一つもない。どん底から社会を照らすべきである。

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