ビクトル・ユーゴー レ・ミゼラブル 第三部 マリユス


   第八編 邪悪なる貧民

     一 マリユスひとりの娘をさがしつつある男に会う

 夏は過ぎ、秋も過ぎて、冬となった。ルブラン氏も若い娘もリュクサンブールの園に姿を見せなかった。マリユスはただ、あのやさしい美しい顔をも一度見たいとのみ念じていた。彼は絶えずさがしていた。至る所をさがし回った。しかしその影をも見い出すことはできなかった。マリユスはもはや心酔せる夢想家でもなく、決然たる熱烈な確乎(かっこ)たる男でもなく、大胆に運命を切り開かんとする者でもなく、未来の上に未来をつみ重ねて夢みる頭脳でもなく、方案や計画や矜持(きょうじ)や思想や意志に満てる若き精神でもなかった。彼は実に迷える犬であった。彼は暗い悲しみに陥った。もはや万事終わったのである。仕事もいやになり、散歩にも疲れ、孤独にもあきはてた。広漠(こうばく)たる自然も昔は、種々の姿や光や声や忠言や遠景や地平や教訓に満ち満ちていたが、今はもう彼の前にむなしく横たわってるのみだった。すべてが消えうせたように彼には思えた。

 彼は常に思索を事としていた。なぜなら他に仕方もなかったからである。しかし彼はもはや自分の思想にも心楽しまなかった。思想が絶えず声低く提議してくることに対してひそかにこう答えた、「それが何の役に立つか。」

 彼は幾度となくおのれを責めた。なぜ自分は彼女の跡をつけたか。彼女を見るだけで既に幸福ではなかったか。彼女も自分の方を見ていた。それだけでも既に至上のことではなかったか。彼女も自分を愛しているらしかった。それでもう十分ではなかったか。自分はいったい何を得ようと欲したのか。それだけでたくさんではなかったか。自分は道にはずれていた。自分は誤っていた……。その他いろいろ自ら責めた。マリユスの性質としてそれらのことは少しもうち明けなかったが、クールフェーラックはやはりその性質上すべてをだいたいさとった。そして初めは、マリユスが恋に陥ったのを意外に感じながらも、それを祝していた。それからマリユスが憂鬱(ゆううつ)に沈み込んだのを見て、ついにこう彼に言った。「君はまったくまずかったんだ。まあちとショーミエールにでも遊びにこいよ。」

 一度、九月の晴れた日にそそのかされて、マリユスはクールフェーラックとボシュエとグランテールとが誘うままに、ソーの舞踏を見に行った。まことに夢のような話ではあるが、そこであるいは彼女に会うかも知れないと思ったのである。がもとよりさがしてる女は見当たらなかった。「だがいったい、見失った女は大概ここで見つかるものだがな、」とグランテールは横を向いてつぶやいた。マリユスは仲間をそこに残して、ひとりで歩いて帰って行った。彼はすべてが懶(ものう)く、熱に浮かされ、乱れた悲しい目つきを暗夜のうちに据え、宴楽の帰りのにぎやかな連中を乗せてそばを通りすぎてゆく楽しい馬車の響きとほこりとに脅かされ、意気消沈して、頭をはっきりさせるために途上の胡桃(くるみ)の木立ちのかおりを胸深く吸い込みながら、家に帰っていった。

 彼はしだいに深く孤独の生活にはいってゆき、心乱れ気力を失い、内心の苦悶に身を投げ出し、罠(わな)にかかった狼(おおかみ)のように苦しみの中をもがき回り、姿を消した彼女を至る所にさがし求め、まったく恋のためにぼけてしまった。

 一度ある時、妙な人に出会って、彼は不思議な感に打たれた。アンヴァリード大通りのそばの小さな裏通りで、一人の男と行き会ったのである。その男は労働者のような服装をして、長い庇(ひさし)のついた無縁帽(ふちなしぼう)をかぶっていたが、その下からまっ白い髪の毛が少し見えていた。マリユスはその白髪の美しさに心ひかれて、その男をじっとながめてみた。男はゆっくり歩いていて、何か苦しい瞑想(めいそう)にふけってるようだった。そして妙なことには、マリユスはまったくルブラン氏を見るような気がした。同じ頭髪、帽子の下から見えてる限りでは同じ横顔、同じ歩きかた、そしてただ少し寂しすぎる点が違ってるだけだった。しかしルブラン氏が、どうして労働者の服をつけてるのだろう、どういう訳だろう、その仮装は何の意味だろう? マリユスは少なからず驚いた。それから彼はようやく我に返って、第一にその男の跡をつけてみようとした。あるいはさがしてる糸口をついに見いだしたのかも知れない。いずれにしても、も一度その男を近くからながめ、謎(なぞ)を解かなければならない。そう彼は考えついたが、もう時がおくれていた。男はもはやそこにいなかった。ある狭い横町に曲がったのであろう。マリユスはもうその姿を見いだすことができなかった。そしてこの遭遇は、数日間彼の頭を占めていたが、そのうちに消えうせてしまった。彼は自ら言った、「結局、他人の空似(そらに)に過ぎなかったのだろう。」

     二 拾い物

 マリユスはなお続けてゴルボー屋敷に住んでいた。そしてそこのだれにも気をつけていなかった。

 実際その頃、ゴルボー屋敷には彼とジョンドレットの一家だけしか住んでいなかった。彼はジョンドレットの負債を一度払ってやったことがあるが、その父にも母にも娘らにもかつて口をきいたことはなかった。他の借家人らは、引っ越したか、死んだか、または金を払わないので追い出されるかしてしまっていた。

 その冬のある日、太陽は午後になって少し現われたが、それも二月の二日、すなわち古い聖燭節の日であった。このちょっと姿を現わした太陽は、やがて六週間の大寒を示すものであって、あのマティユー・レンスベルグが次の古典的な二行の句を得たのもそれからである。

日をして輝き閃(ひらめ)かしめよ、

さあれ熊(くま)は洞穴(どうけつ)に帰るなり。

 マリユスは外に出かけた。夜のやみが落ちようとしていた。ちょうど夕食の時間だった。いかに美しい愛に心奪われていても、悲しいかな食事はしなければならない。

 彼は家の戸口をまたいで外へ出た。ちょうどその時、ブーゴン婆さんは戸口を掃除(そうじ)しながら、次のおもしろい独語をもらしていた。

「この節は安い物と言って何があろう? みんな高い。安い物はただ世間の難渋だけだ。難渋だけは金を出さないでもやって来る。」

 マリユスはサン・ジャック街へ行こうと思って、市門の方へ大通りをゆるゆる歩いて行った。頭をたれて物思いに沈みながら歩いていた。

 突然彼は、薄暗がりの中にだれかから押しのけられるのを感じた。ふり返ると、ぼろを着たふたりの若い娘だった。ひとりは背が高くてやせており、ひとりはそれより少し背が低かったが、ふたりとも物におびえ息を切らして、逃げるように大急ぎで通っていった。ふたりはマリユスに気づかず、出会頭(であいがしら)に彼につき当たったのだった。薄ら明りにすかして見ると、ふたりは色青ざめ、髪をふり乱し、きたない帽子をかぶり、裳(も)は破れ裂け、足には何もはいてなかった。駆けながら互いに口をきいていた。大きい方がごく低い声で言った。

「いぬがきたのよ。もちっとであげられるところだった。」

 もひとりのが答えた。「私ははっきり見たわ。でただもう一目散よ。」

 マリユスはその変な言葉でおおよそさとった。憲兵か巡査かがそのふたりの娘を捕えそこなったものらしい、そしてふたりはうまく逃げのびてきたものらしい。

 ふたりは彼の後ろの並み木の下にはいり込み、暗闇(くらやみ)の中にしばらくはほの白く見えていたが、やがて消え失せてしまった。

 マリユスはしばらくたたずんでいた。

 それから歩みを続けようとすると、自分の足元の地面に鼠色(ねずみいろ)の小さな包みが落ちてるのに気づいた。彼は身をかがめてそれを拾ってみた。封筒らしいもので、中には紙でもはいっていそうだった。

「そうだ、」と彼は言った、「あのあわれな女どもが落としていったんだろう。」

 彼は足を返し、声を揚げて呼んでみたが、はやふたりの姿は見えなかった。それでもう遠くへ行ったことと思い、その包みをポケットの中に入れ、そして食事をしに出かけて行った。

 途中、ムーフタール街の路地で、彼は子供の柩(ひつぎ)を見た。黒ラシャでおおわれ、三つの台の上に置かれて、一本の蝋燭(ろうそく)の火に照らされていた。暗がりのふたりの娘のことが思い出された。

「あわれな母たち!」と彼は考えた。「自分の子供が死ぬるのを見るよりなおいっそう悲しいことがある。それは自分の子供が悪い生活をしてるのを見ることだ。」

 そのうちに、彼の悲しみの色を変えさえしたそれらの影は頭から消え去ってしまって、彼はまたいつもの思いに沈み込んだ。リュクサンブールの美しい木の下で、さわやかな空気と光との中で過ごした、愛と幸福との六カ月間のことをまたしのびはじめた。

「私の生活は何と陰鬱(いんうつ)になったことだろう!」と彼は自ら言った。「若い娘らはやはり私の目の前に現われて来る。ただ、昔はそれがみな天使に見えたが、今は食屍鬼(ししくいおに)のような気がする。」

     三 一体四面

 その晩、マリユスは床につこうとして着物をぬいでいた時、上衣のポケットの中に、夕方大通りで拾った包みに手を触れた。彼はそれを忘れていたのである。そこで彼は考えた、包みを開いてみたらどうにかなるだろう、もし実際彼女らのものだったら、中にはたぶんその住所があるだろう、そしてとにかく、落とし主へ返せるような手掛かりがあるかも知れない。

 彼は包み紙を開いた。

 包み紙には封がしてなかった。そして中には、同じく封がしてない四つの手紙がはいっていた。

 それぞれあて名がついていた。

 四つともひどい煙草(たばこ)のにおいがしていた。

 第一の手紙のあて名はこうだった。「下院前の広場……番地、グリュシュレー侯爵夫人閣下。」

 中にはおそらく何か所要の手掛かりがあるかも知れない、その上手紙は開いているので読んでも一向さしつかえないだろう、とマリユスは考えた。

 手紙の文句は次のとおりだった。

侯爵夫人閣下
 寛容と憐愍(れんびん)との徳は社会をいっそう密接に結び合わせしむるものに御座候(そうろう)。公正のために身をささげ正法の聖なる主旨に愛着して身をささげ、その主旨を擁護せんがために、血潮を流し財産その他いっさいを犠牲に供し、しかも今や落魄(らくはく)の極にあるこの不幸なるスペイン人の上に、願わくは閣下のキリスト教徒たる感情を向けたまい、慈悲の一瞥(いちべつ)を投ぜられんことを。全身負傷を被り居る教育あり名誉あるこの軍人をして、なおそのあわれなる生を続けしめんがために、閣下は必ずや助力を惜しまれざるべしと存じ候。閣下の高唱せらるる人道の上に、また不幸なる一国民に対して閣下が有せらるる同情の上に、あらかじめ期待を掛け申し候(そうろう)。彼らの祈願は閣下の入れたもう所となり、彼らの感謝の念は長く閣下の御名を忘れざるべしと信じ申候。

 ここにつつしんで敬意を表し候。
フランスに亡命し今国へ帰らんとして旅費に窮せるスペイン王党の騎兵大尉
ドン・アルヴァレス

 署名には何らの住所もついていなかった。マリユスは第二の手紙にその住所がありはすまいかと思った。そのあて名はこうだった。「カセット街九番地、モンヴェルネー伯爵夫人閣下。」

 マリユスはその中に次の文句を読んだ。

伯爵夫人閣下
 私事は六人の子供を持てるあわれなる母にて、末の児はわずかに八カ月になり候。この児の出産以来私は病気にかかり、五カ月以前からは夫にすてられ、今は何の収入の途もなく、ただ貧苦の底に悩みおり候。

 伯爵夫人閣下の御慈悲を望んで、深き敬意を表し申候。
バリザールの家内

 マリユスは第三の手紙を開いたが、それもやはり哀願のもので、次のように書かれていた。

サン・ドゥニ街にてフェール街の角、小間物貿易商、選挙人パブールジォー殿
 ここにあえて一書を呈して、フランス座へ戯曲一篇を送りたる一文人へ、貴下の御あわれみと御同情とを賜わらんことを懇願仕まつり候(そうろう)。その戯曲は、題材を歴史に取り、場面を帝国時代のオーヴェルニュにいたしたるものに候。文体は自然にして簡潔、多少の価値はあるものと自信仕まつり候。歌詞も四カ所これ有り候。滑稽(こっけい)とまじめと奇想とは、種々の人物と相交わり、全篇に漂えるロマンチシズムの軽き色合に交錯し、筋は不思議なる発展をなし、感動すべき多くの変転を経て、光彩陸離たる種々の場面のうちにからみゆくものに御座候。

 主として小生の目ざせる点は、現代人の刻々に要求する所を満足させんことに候。換言すれば、ほとんどあらゆる新奇なるふうにその方向を変ずる、かの定見なき笑うべき風見とも言うべき流行を満足させんことに候。

 かかる特長あるにもかかわらず、座付きの作者らの嫉妬(しっと)と利己心とは、小生を排斥せんとするやも知れずと懸念いたし候。新参の者が常に受くる冷遇を、小生とてもよく存じおり候えば。

 貴下には常に文人を保護したまわる由を承り候まま、あえて娘をつかわして、この冬季にあっても食も火もなき困窮の状を具申いたさせ候。何とぞ今度の戯曲並びに今後の作を貴下にささげんとの微意を御受け下されたく候。かくて小生は、貴下の保護を受くるの光栄に浴し、貴下の名をもって小生の著述を飾るの光栄に浴せんことを、いかほど希望いたしおるやを申し上げたくと存候。もし貴下にしていくらかなりと御補助を賜わらば、小生は直ちに一篇の詩を作りて、感謝の意を表すべく候(そうろう)。小生は力の及ぶ限りその詩を完全なるものたらしめ、なおまた、戯曲の初めに入(そうにゅう)して舞台に上する前、あらかじめ貴下のもとへ御送り申すべく候。

 パブールジォー殿並びに夫人へ、小生の深き敬意を表し候。
文士ジャンフロー
追白、四十スーほどにてもよろしく候。
娘をつかわして小生自身参上いたさざるを御許し下されたく、実は悲惨にも服装の都合上外出いたしかね候次第に御座候。

 マリユスはついに四番目の手紙を開いた。あて名はこうだった。「サン・ジャック・デュ・オー・パ会堂の慈悲深き紳士殿。」中には次の文句がしたためてあった。

慈愛深き紳士殿
 もし拙者の娘と御同行下され候わば、一家困窮のきわみなる状態にあることを御認め下さるべく、また身元証明書は御覧に供すべく候。

 かかる手記を御覧候わば、恵み深き貴下は必ずや惻隠(そくいん)の情を起こし下さるべしと存候。真の哲学者は常に強き情緒を感ずるものに候えば。

 同情の念深き紳士殿、最も残酷なる窮乏に一家の者苦しみおり候。しかして何かの救助を得んために政府よりその証明を得るなどとは、いかに悲痛なることに候ぞや。他人より救助せらるるを待ちながら、しかも飢餓に苦しみ飢餓に死するの自由さえもなきもののごとくに候。運命はある者にはあまりに冷酷に、またある人にはあまりに寛大にあまりに親切にこれ有り候。貴下の御来臨を待ち申し候。あるいはおぼし召しあらば御施与を待申候。しかして拙者の敬意を御受け下されたく願上げ候。
大人閣下のきわめて卑しき従順なる僕(しもべ)
俳優 ファバントゥー

 それら四通の手紙を読み終わったが、マリユスは前と同じく何らの手掛かりも得なかった。第一に、どの手紙にも住所がついていなかった。

 次に手紙は、ドン・アルヴァレスとバリザールの家内と詩人ジャンフローと俳優ファバントゥーと、四人の違った人からのものらしかったが、不思議にも四つとも同じ筆蹟だった。

 四つとも同一人からのものでないとするならば、それをいかに解釈したらいいか?

 その上、ことにそう考えさせることには、四通とも同じ粗末な黄色い紙であり、同じ煙草(たばこ)のにおいがしていた。そして明らかに文体を変えてはあるが、同じような文字使いが絶えず平気に現われてきて、文士ジャンフローもスペインの大尉も何ら異なるところがなかった。

 この小秘密を解かんとつとめることは、まったくむだな骨折りだった。もしそれが拾い物でなかったら、単に人をからかうものとしか思われなかったろう。その上マリユスは悲しみのうちに沈んでいたので、偶然の悪戯(いたずら)を取り上げるだけの余裕もなく、街路の舗石(しきいし)が彼に試みたようなその遊びに心を向けるだけの余裕もなかった。あたかも四通の手紙の間の目隠し鬼になってからかわれてるような気がした。

 またその手紙はマリユスが大通りで出会った二人の娘のものだということを示すものも、何もなかった。要するに何らの価値もない反故(ほぐ)にすぎないことは明らかだった。

 マリユスは四つの手紙をまた包み紙に入れて、室(へや)の片すみになげすて、そして床についた。

 翌朝七時ごろ、彼は起き上がって朝食をし、それから仕事にかかろうとした。その時静かに扉(とびら)をたたく者があった。

 いったい彼は所持品と言っては何もなかったので、かつて、扉に錠をおろさなかった。ただ時として急ぎの仕事をしてる時は錠をおろすこともあったが、それもごくまれにしかなかった。また外出する時でさえ、鍵(かぎ)を錠前に差し込んだままにしておいた。「泥坊がはいりますよ、」とブーゴン婆さんはよく言った。「盗まれるものは何もありません、」とマリユスは答えていた。けれども実際、ある日古靴(ふるぐつ)を一足盗まれたことがあって、ブーゴン婆さんの言ったとおりになった。

 扉は再び初めのようにごく軽くたたかれた。

「おはいりなさい。」とマリユスは言った。

 扉は開いた。

「何か用ですか、ブーゴン婆さん。」とマリユスはテーブルの上の書物と書き物とから目を離さないで言った。

 するとブーゴン婆さんのでない別の声が答えた。

「ごめんなさい。あの……。」

 その声は鈍く乱れしわがれ濁っていて、火酒(ウォッカ)や焼酎(しょうちゅう)で喉(のど)をつぶした老人のような声だった。

 マリユスは急にふり返った。そこにはひとりの若い娘がいた。

     四 困窮の中に咲ける薔薇(ばら)

 まだうら若い娘がひとり、半ば開いた扉(とびら)の所に立っていた。光のさしこむ屋根裏の軒窓がちょうど扉と向き合ったところにあって、彼女の顔を青白い光で照らしていた。色の悪いやせ衰えた骨立った女で、冷え震えている裸体の上には、ただシャツと裳衣とをつけてるだけだった。帯の代わりに麻糸をしめ、頭のリボンの代わりに麻糸を結わえ、とがった両肩はシャツから現われ、褐色の憂鬱(ゆううつ)な顔には血の気がなく、鎖骨のあたりは土色をし、赤い手、半ば開いてる色あせた口、抜け落ちた歯、ほの暗い大胆な賤(いや)しい目、未熟な娘のかっこうで腐敗した老婆の目つきだった。五十歳と十五歳とがいっしょになった形だった。全体が弱々しくまた同時に恐ろしい生物で、人をして震え上がらしむるかまたは泣かしむる生物だった。

 マリユスは立ち上がって、夢の中に現われて来る影のようなその女を、惘然(ぼうぜん)として見守った。

 ことに痛ましいのは、彼女は生まれつき醜いものでなかったことである。ごく小さい時には美しかったに違いない。年頃の容色はなお、汚行と貧困とから来る恐ろしい早老のさまと戦っていた。一抹(いちまつ)の美しさがその十六歳の顔の上に漂っていて、冬の日の明け方恐ろしい雲の下に消えてゆく青白い太陽のように見えていた。

 その顔にマリユスは全然見覚えがないでもなかった。どこかでかつて見たことがあるような気がした。

「何か御用ですか。」と彼は尋ねた。

 若い娘は酒に酔った囚徒のような声で答えた。

「マリユスさん、手紙を持ってきたのよ。」

 彼女はマリユスと名を呼んだ。彼女がやはり彼に用があってきたことは疑いなかった。しかし彼女はいったい何者なのか、どうしてマリユスという名を知ったのか?

 彼がこちらへと言うのも待たないで、娘ははいってきた。彼女はつかつかとはいってきて、驚くばかりの平気さで、室(へや)の方々を見回し、取り乱した寝床をながめた。足には何もはいていなかった。裳衣の大きな裂け目からは、長い脛(はぎ)とやせた膝(ひざ)とが見えていた。彼女は震えていた。

 彼女は実際手に一通の手紙を持っていて、それをマリユスに渡した。

 マリユスは手紙を開きながら、その大きな封糊がまだ湿っているのに気づいた。使いの者は遠くからきたのではないに違いなかった。彼は手紙を読み下した。

隣の親切なる青年よ!
 小生は貴下が六カ月以前小生の家賃を御払い下され候好意を聞き及び候(そうろう)。小生は貴下の幸福を祈り候。小生らは一家四人にて、この一週間一片のパンすらもなく、しかも家内は病気にかかりおり候こと、万事は長女より御聞き取り下されたく候。もし小生の思い違いに候わずば、寛大なる貴下はこの陳述に動かされ、小生に些少(さしょう)の好意を寄せ恵みをたれんとの念を起こしたまわることを、期待して誤りなきかと信じ申候。

 人類の恩恵者に対して負うべき至大の敬意を表し候。
ジョンドレット
追白――小生の長女は、マリユス殿、貴下の御さし図を待ち申すべく候。

 その手紙は、前日の晩からマリユスの頭を占めていた不思議な事件のさなかにきたので、あたかも窖(あなぐら)の中に蝋燭(ろうそく)をともしたようなものだった。すべてが突然明らかになった。

 その手紙は他の四通の手紙と同じ所からきたものだった。同じ筆蹟、同じ文体、同じ文字使い、同じ紙、同じ煙草(たばこ)のにおい。

 五つの手紙、五つの話、五つの名前、五つの署名、そしてただ一人の筆者。スペインの大尉ドン・アルヴァレス、不幸なる女バリザール、劇詩人ジャンフロー、老俳優ファバントゥー、それらは四人のジョンドレットにすぎなかった。ただしそれもジョンドレット自身が果たしてジョンドレットという名前であるとすればである。

 マリユスはもうかなり長くその屋敷に住んでいたが、前に言ったとおり、その賤(いや)しい隣人については、会う機会はめったになく、一瞥(いちべつ)を与えることさえもまれであった。彼は他に心を向けていた。心の向かうところに目も向くものである。実は廊下や階段でジョンドレット一家の者に行き会うことは、一度ならずあったはずであるが、彼にとって彼らは皆単に影絵にすぎなかった。彼は少しも注意を払っていなかった。それで前日の晩、大通りでジョンドレットの娘らにつき当たりながらも――それは明らかに彼女らに相違なかった――だれであるか一向わからなかったほどで、自分の室(へや)にはいってきた娘に対しても、嫌悪(けんお)と憐愍(れんびん)との感を通して、どこかほかで会ったことがあるというぼんやりした覚えがあるに過ぎなかった。

 しかるに今やすべてが明らかにわかってきた。彼は事情を了解した。隣にいるジョンドレットは、困窮の揚げ句、慈善家の慈悲をこうのを仕事としていること。種々の人の住所を調べていること。金持ちで慈悲深そうな人々へ仮りの名前で手紙を書き、娘なんかどうなろうとかまわないほどのひどい状態にあるので、娘らに危険を冒して手紙を持って行かしてること。運命と賭事(かけごと)をし、娘らをその賭物としてること。また前日娘らが逃げ出しながら息を切らしおびえていた所を見、耳にしたあの変な言葉から察すると、おそらくふたりは何かよからぬことをしていたに違いないこと。そしてそれらのことから結論すると、この人間社会のまんなかにおいて、子供とも娘とも婦人ともつかないふたりの悲惨な者が、不潔なしかも罪のない怪物の一種が、困窮のために作り出されたこと。それをマリユスは了解した。

 悲しむべき者ら、彼らには名前もなく、年齢もなく、雌雄(しゆう)の性もなく、彼らにとってはもはや善も悪も空名であって、幼年時代を過ぎるや既に世に一物をも所有せず、自由をも徳義をも責任をも有しない。昨日開いて今日ははや色あせたその魂は、往来に投げ捨てられ泥にしぼんでただ車輪にひかれるのを待つばかりの花のようなものである。

 さはあれ、驚いた痛ましい目でマリユスが見守っているうちにも、若い娘は幽霊のように臆面(おくめん)もなく室(へや)の中を歩き回っていた。自分の肉体が露わであることなどは少しも気にしないで、室の中を騒ぎ回った。時とすると、破れ裂け取り乱したシャツはほとんど腰の所までたれ下がった。それでも彼女は、椅子(いす)を動かしたり、戸棚(とだな)の上にある化粧道具をかき回したり、マリユスの服にさわってみたりして、すみずみまで漁(あさ)り初めた。

「あら、」と彼女は言った、「鏡があるのね。」

 そしてあたかも自分ひとりであるかのように、切れぎれの流行歌やばかな反唱句などを口ずさんだが、しわがれた喉音(こうおん)のためにそれも悲しげに響いた。しかしそういう厚顔の下にも、言い知れぬ気兼ねと不安と卑下とが見えていた。不作法は一つの恥である。

 そういうふうに彼女が室(へや)の中を飛び回り、言わば日の光に驚きあるいは翼を折った小鳥のように飛んでるのを見るくらい、およそ世に痛ましいものはなかった。異なった教育と運命との下にあったならば、その若い娘の快活で自由な態度にも、おそらくある優しみと魅力とがあったであろう。動物のうちにあっては、鳩(はと)に生まれたものが鶚(みさご)と変わることは決してない。そういう変化はただ人間のうちにのみ見られる。

 マリユスは思いに沈んで、彼女を勝手にさしておいた。

 彼女はテーブルに近づいた。

「ああ、本が!」と彼女は言った。

 彼女の曇った目はある光に輝いた。そしていかなる人の感情のうちにもある喜ばしい自慢の念をこめた調子で、彼女は言った。

「あたし読むことができるのよ。」

 彼女はテーブルの上に開いてあった一冊の書物を元気よく取り上げて、かなりすらすらと読み下した。

……ボーデュアン将軍は、旅団の五大隊をもってウーゴモンの城を奪取すべしとの命令を受けぬ、城はワーテルロー平原……の

 彼女は読むのを止めた。

「ああ、ワーテルロー、あたしそれを知ってるわ。昔の戦争ね。うちのお父(とう)さんも行ったのよ。お父さんは軍人だったのよ。うちの者はみなりっぱなボナパルト党だわ。ワーテルローって、イギリスと戦(いくさ)した所ね。」

 彼女は書物を置いて、ペンを取り、そして叫んだ。

「それからまたあたし、書くこともできてよ。」

 彼女はペンをインキの中に浸して、マリユスの方へ向いた。

「見たいの? ほら今字を書いて見せるわ。」

 そしてマリユスが何か答える間もなく、彼女はテーブルのまん中にあった一枚の白紙へ書いた。

「いぬがいる。」

 それからペンを捨てた。

「字は違ってないでしょう。見て下さいよ。あたしたちは学問をしたのよ、妹もあたしも。前からこんなじゃなかったのよ。あたしたちだって……。」

 そこで彼女は急に口をつぐんで、どんよりした瞳(ひとみ)をじっとマリユスの上に据え、そして笑い出しながら、あらゆる苦しみをあらゆる皮肉で押さえつけたような調子で言った。

「ふーん!」

 そして快活な調子で次の文句を小声で歌い出した。

お腹(なか)がすいたわ、お父さん。

食う物がないよ。

身体(からだ)が寒いわ、お母さん。

着る物がないよ。
震えよ、

ロロット!

泣けよ。

ジャッコー!

 そういう俗歌を歌い終わるが早いか彼女は叫んだ。

「マリユスさん、あなた時々芝居へ行って? あたし行くのよ。あたしには小さい弟があって、役者たちと友だちなので、時々切符をくれるの。でも向こう桟敷(さじき)はきらいよ。窮屈できたなくて、どうかすると乱暴な人や臭い人がいっぱいいるんだもの。」

 それから彼女はつくづくとマリユスをながめ、妙な様子をして言った。

「マリユスさん、あなたは自分が大変いい男なのを知ってるの?」

 そして同時に同じ考えがふたりに起こった。それで娘は微笑したが、マリユスは顔を赤くした。

 彼女は彼に近寄って、片手をその肩の上に置いた。

「あなたはあたしを気にも留めてないが、あたしはマリユスさん、あなたを知っててよ。ここでもよく階段の所で会ったわ。それから、オーステルリッツ橋の近くに住んでるマブーフという爺(じい)さんの家へあなたが行くのを、何度も見たわ、あの近所を歩いてる時に。あなた、そう髪の毛を散らしてる所がよく似合ってよ。」

 彼女はやさしい声をしようとしていたが、そのためにただ声が低くなるばかりだった。あたかも鍵(キー)のなくなってる鍵盤(けんばん)の上では音が出ないように、彼女の言葉の一部は喉頭(こうとう)から脣(くちびる)へ来る途中で消えてしまった。

 マリユスは静かに身を引いていた。

「お嬢さん、」と彼は冷ややかな厳格さで言った、「たぶんあなたのらしい包みがそこにあります。あなたにお返ししましょう。」

 そして彼は四つの手紙がはいってる包みを取って彼女に差し出した。

 彼女は手を打って叫んだ。

「まあ方々さがしたのよ。」

 それから急に包みを引ったくって、その包み紙を開きながら言った。

「ほんとに妹とふたりでどのくらいさがしたか知れやしない! あなたが拾ってくれたのね。大通りででしょう。大通りに違いないわ。駆けた時に落としたのよ。そんなばかなことをしたのは妹なのよ。家へ帰ってみるとないんだもの。打たれたくないもんだから、打たれたって何の役にもたたないから、ほんとに何の役にもたたないから、全くよ、だからわたしたちはこう言ったの、手紙はちゃんと持って行ったがどこでも断わられてしまったって。それが手紙はみんなここにあったのね。どうしてあなたそれがあたしのだとわかって? ああそう、筆蹟(て)でね。では昨晩(ゆうべ)あたしたちが道でつき当たったのは、あなただったのね。ちっとも見えなかったんだもの。あたしは妹に言ったの、男だろうかって。すると妹は、そうらしいと言ったわ。」

 そう言ってるうちに彼女は、「サン・ジャック・デュ・オー・パ会堂の慈悲深き紳士殿」というあて名の手紙を開いてしまった。

「そう、」と彼女は言った、「これは弥撒(ミサ)へゆくお爺(じい)さんへやる手紙よ。ちょうど時間だわ。あたし持ってってこよう。朝御飯が食べられるだけのものをもらえるかも知れない。」

 それから彼女は笑い出してつけ加えた。

「今日の朝御飯はあたしたちにとっては何だかあなたにわかって? 一昨日(おととい)の朝御飯と、一昨日の晩御飯と、昨日(きのう)の朝御飯と昨日の晩御飯と、それだけをみんないっしょに今朝(けさ)食べることになるのよ。かまやしない、お腹(なか)がはち切れるほど食べてやるわ。」

 それでマリユスは、その不幸な娘が自分の所へ求めにきたものが何であったかを思い出した。

 彼はチョッキの中を探ったが、何もなかった。

 娘はしゃべり続けた。あたかもマリユスがそこにいるのも忘れてしまったがようだった。

「あたしはよく晩に出かけていくの。何度も帰ってこないこともあるわ。ここに来る前、去年の冬は、橋の下に住んでたのよ。冷え切ってしまわないように皆重なり合ってたわ。妹なんか泣いててよ。水ってほんとに悲しいものね。身を投げようかと思ったが、でもあまり寒そうだからといつも思い返したの。出かけたい時はすぐにひとりで出かけてよ。溝(みぞ)の中に寝ることもよくあるわ。夜中に街路(まち)を歩いてると、木が首切り台のように見えたり、大きい黒い家がノートル・ダームの塔のように見えたり、また白い壁が川のように見えるので、おや向こうに水があるって思うこともあるのよ。星がイリュミネーションの燈(あかり)のように見えて、ちょうど煙が出たり、風に吹き消されたりしてるようで、また耳の中に馬が息を吹き込んでるような気がしてびっくりするのよ。夜中なのに、バルバリーのオルガンの音だの、製糸工場の機械の音だの、何だかわからない種々なものが聞こえてよ。だれかが石をぶっつけるようなの、夢中に逃げ出すの、あたりがぐるぐる回り出すの、何もかも回り出すのよ。何にも食べないでいると、ほんとに変なものよ。」

 そして彼女は我を忘れたようにマリユスをながめた。

 マリユスは方々のポケットを探り回したあげく、ついに五フランと十六スーを集め得た。それが現在彼の持ってる全部だった。「まあこれで今日の夕食は食えるし、明日(あす)のことはどうにかなるだろう、」と彼は考えた。そして十六スーを取って置き、五フランを娘に与えた。

 娘はその貨幣をつかんだ。

「まあ有り難い、」と彼女は言った、「太陽(おひさま)が照ってる!」

 そしてあたかもその太陽が、彼女の頭の中の怪しい言葉の雪崩(なだれ)を解かす力でも持ってたかのように、彼女は言い続けた。

「五フラン! 光ってるわ、王様だわ、このでこの中にね。しめだわ。あなたは親切なねんこだわ。あたしあなたにぞっこんでよ。いいこと、どんたくだわ。二日の間は、灘(なだ)と肉とシチュー、たっぷりやって、それに気楽なごろだわ。」

 そんな訳のわからぬことを言って、シャツを肩に引き上げ、マリユスにていねいにおじぎをし、それから手で親しげな合い図をし、そして扉(とびら)の方へ行きながら言った。

「さようなら。でもとにかく、あのお爺(じい)さんをさがしに行ってみよう。」

 出がけに彼女は、ひからびたパンの外皮が戸棚の上の塵(ちり)の中にかびかかっているのを見つけて、それに飛びかかり、すぐにかじりつきながらつぶやいた。

「うまい、堅い、歯が欠けそうだ。」

 それから彼女は出て行った。

     五 運命ののぞき穴

 マリユスはもう五年の間、貧困、欠乏、窮迫のうちに生きていた。しかし彼はまだ本当の悲惨を知らなかったことに気づいた。彼は本当の悲惨を今しがた見たのであった。彼の目の前を通って行ったあの悪鬼こそそれだったのだ。実際、男の悲惨のみを見たとて、まだ本当のものを見たとは言えない、女の悲惨を見なければいけない。女の悲惨のみを見たとてまだ本当のものを見たとは言えない、子供のそれを見なければいけない。

 最後の困窮に達する時、男はまた同時に最後の手段に到着する。ただ彼の周囲の弱き者こそ災いである! 仕事、賃金、パン、火気、勇気、好意、すべてを男は同時に失う。外部に日の光が消えたようになる時、内部には精神の光が消える。その暗黒のうちにおいて彼は、弱い女や子供と顔を合わせる。そして彼らをしいて汚辱のうちにはいらせる。

 その時こそ戦慄(せんりつ)すべきあらゆることが可能になる。絶望をかこむ囲壁はもろく、どこからでも直ちに悪徳や罪悪に通い得る。

 健康、青春、名誉、うら若き肉身の初心なる聖(きよ)き羞恥(しゅうち)、情操、処女性、貞節など、すべて魂の表皮は、手段を講ずる模索によって、汚賤(おせん)に出会いそれになれゆく模索によって、悲惨なる加工を受くる。父、母、子供、兄弟、姉妹、男、女、娘、すべての者は、性と血縁と年齢と醜悪と潔白との差別なく暗澹(あんたん)たる混乱のうちにからみ合い、あたかも鉱石が作らるるように一つに凝結する。互いに寄り合って運命の破屋の中にうずくまる。互いに悲しげに見合わせる。おお不運なる者らよ! いかに青ざめてることか。いかに冷えきってることか。われわれよりもはるかに太陽から遠い星の中にいるかのようである。

 あの若い娘はマリユスにとって、暗黒の世界からつかわされたもののようであった。

 彼女はマリユスに、暗夜の恐ろしい一面を開いて見せた。

 マリユスは、今まで空想と情熱とに心奪われて、隣の者らには一瞥(いちべつ)をも与えなかったことを、自ら難じた。彼らの家賃を払ってやったことは、ただ機械的の行為で、人の皆なすところであろう。しかし彼マリユスは、なおよりよきことをなすべきではなかったろうか。人の住む境域を越えた暗夜のうちに手探りで生きてるそれらの捨てられたる人々は、ただ一重の壁でへだたっていたのみではなかったか。彼は彼らと肱(ひじ)をすれ合わしていた。彼こそはある意味において、彼らが触れ得る人類の最後の鎖の環(わ)であった。自分のそばに彼らが生きてる物音が、否むしろ瀕死(ひんし)のあえぎをしてるのが、聞こえていたのである。しかも彼はそれに少しも注意をしなかった。日々に、刻々に、壁を通して、彼らが歩き行き来たり語るのが聞こえていた。しかも彼は耳を貸そうともしなかった。そして彼らの言葉のうちにはうめきの声が交じっていたが、彼はそれに耳を傾けようともしなかった。彼の頭は他にあって、夢想に、不可能の光輝に、空漠(くうばく)たる愛に、熱狂に向いていた。しかるに一方では、同じ人間が、イエス・キリストを通じての同胞が、民衆としての同胞が、彼のそばに苦しんでいた。甲斐(かい)なき苦しみをしていた。その上彼は、彼らの不幸の一部を助成し、彼らの不幸をいっそう重くしていた。なぜなれば、彼らがもし他の隣人を持っていたならば、彼よりもいっそう非空想的で注意深い隣人を持っていたならば、普通の恵み深い人を持っていたならば、必ずや彼らの困窮はその人の認むるところとなり、彼らの窮迫のありさまはその人の気づくところとなって、既に久しい前から彼らは収容せられ救われていたかも知れない。もとより彼らの様子は、きわめて退廃し、腐敗し、汚れ、嫌悪(けんお)すべきものとはなっていたけれど、しかし零落したる者は多く堕落するが常である。その上、不運なる者と汚れたる者という二つが混合し融合して、一つの宿命的な言葉、惨(みじ)めなる者という一語を成すがような一点が、世にはある。そしてそれもだれの誤ちであるか? そしてまた、その堕落が底深ければ深いほどいっそう大なる慈悲を与うべきではないか。

 そうマリユスは自ら訓戒した。時として彼は、真に正直な人に見らるるように、自ら自分の教訓師となり、過度に自分を叱責(しっせき)することがあった。で今やそうしながら、ジョンドレットの一家をへだてる壁をじっと見守った。あたかも彼は、憐愍(れんびん)の情に満ちてる目でその壁を貫き、その不幸な人々をあたためんとしてるかのようだった。壁は割り板と角材とでささえた薄い漆喰(しっくい)で、前に言ったとおり、言葉と声音とをはっきり通さしていた。今までそれに気づかなかったとは、マリユスもよほどの夢想家だったに違いない。ジョンドレットの方にもまたマリユスの方にも、何らの壁紙もはってなかった。粗末な構造が露わに見えていた。マリユスはほとんど自ら知らないで、その壁を調べてみた。時としては夢想も思想がなすように物を調べ観察し精査する。マリユスは突然飛び上がった。高く天井に近い所に、三枚の割り板がよく合わないでできてる三角形の穴が一つあるのを、気づいたのである。そのすき間をふさいでいたはずの漆喰はなくなっていた。戸棚の上に上れば、そこからジョンドレットのきたない室の中は見られる。哀憐(あいれん)の情にも、好奇心があり、またあるべきはずである。そのすき間は一種ののぞき穴になっていた。不運を救わんがためには、それをひそかにながめることも許される。「彼らはどういう者であるか、またどんな状態でいるか、少し見てやろう、」とマリユスは考えた。

 彼は戸棚の上にはい上がり、瞳(ひとみ)を穴にあてがい、そしてながめた。

     六 巣窟(そうくつ)中の蛮人

 都市にも森林と同じく、その最も猛悪なる者が身を隠してる洞窟(どうくつ)がある。ただ都市にあっては、かく身を隠す者は、獰猛(どうもう)で不潔で卑小で、一言にして言えば醜い。森林にあっては、身を隠す者は、獰猛で粗野で偉大で、一言にして言えば美しい。両者の巣窟を比ぶれば、野獣の方が人間よりもまさっている。洞窟は陋屋(ろうおく)よりも上である。

 マリユスが見たところのものは一つの陋屋であった。

 マリユスは貧乏でその室(へや)はみすぼらしかった。それでも彼の貧乏は気高く、彼の室は清潔だった。ところが彼が今のぞき込んだ部屋は、賤(いや)しく、きたなく、臭く、不健康で、薄暗く、嫌悪(けんお)すべきものだった。家具としてはただ、一脚の藁椅子(わらいす)、こわれかかった一個のテーブル、数個の欠けた古壜(ふるびん)、それから両すみにある名状すべからざる二つの寝床。明りとしてはただ、蜘蛛(くも)の巣の張りつめた四枚ガラスの屋根裏の窓。その軒窓からは、人の顔を幽霊の顔くらいに見せるわずかな光が差し込んでいた。壁は癩病(らいびょう)やみのようなありさまを呈し、種々の傷跡がいっぱいあって、あたかも恐ろしい病のために相好をくずされたかのようだった。じめじめした気がそこからにじみ出していた。木炭で書きなぐった卑猥(ひわい)な絵が見えていた。

 マリユスが借りてる室(へや)には、とにかくどうにか煉瓦(れんが)が敷いてあった。ところがその室には、石も敷いてなければ板も張ってなかった。人々は黒く踏みよごされた古い漆喰(しっくい)の上をじかに歩いていた。そのでこぼこの床の上には、ほこりがこびりついて、かつて箒(ほうき)をあてられたこともなく、古い上靴(うわぐつ)や靴やきたないぼろなどがあちこちに取り散らされていた。でも室には暖炉が一つあって、そのために借料が年に四十フランだったのである。暖炉の中には種々なものがはいっていた、火鉢(ひばち)、鍋(なべ)、こわれた板、釘(くぎ)にかかってるぼろ、鳥籠(とりかご)、灰、それから少しの火まで。二本の燃えさしの薪(まき)が、寂しげにくすぶっていた。

 室の惨状を一段と加えるものは、それが広いことだった。つき出た所や、角になってる所や、暗い穴になってる所があり、高低の屋根裏や湾や岬(みさき)があった。そのために底の知れぬ恐ろしいすみずみができて、拳(こぶし)のように大きな蜘蛛(くも)や、足のような大きな草鞋虫(わらじむし)や、あるいはまた何か怪物のような人間までが、そこにうずくまっていそうだった。

 寝床の一つは扉(とびら)の近くにあり、一つは窓の近くにあった。二つともその片端は暖炉に接していて、マリユスの正面になっていた。

 マリユスがのぞいてる穴の隣のすみには、黒い木の枠(わく)にはいった色刷りの版画が壁にかかっていた。その下の端には「夢」と大字で書かれていた。それは眠ってる女と子供とを描いたもので、子供は女の膝(ひざ)の上に眠っていて、一羽の鷲(わし)が嘴(くちばし)に王冠をくわえて雲の中を舞っており、女はなお眠ったまま子供の頭にその王冠のかぶさらないようにと払いのけていた。遠景には、栄光に包まれたナポレオンが、黄色い柱頭のついてる青い大きな円柱によりかかっていたが、その円柱には次の文字が刻まれていた、「マレンゴー、アウステルリッツ、イエナ、ワグラム、エロット。」

 その額縁の下の方には、長めの一種の鏡板が下に置かれて、斜めに壁に立てかけてあった。裏返された画面、おそらく向こう側に書きなぐってある額面か、あるいは壁から取りはずされてそのままはめ込むのが忘られた姿鏡のようでもあった。

 テーブルの上にはマリユスはペンとインキと紙とを認めたが、その前には、六十歳ばかりの男がすわっていた。男は背が低く、やせて、色を失い、荒々しく、狡猾(こうかつ)で残忍で落ち着かない様子であって、一言にして言えば嫌悪(けんお)すべき賤奴(せんど)だった。

 もしラヴァーテル(訳者注 人相学の開祖)がその面相を見たならば、禿鷹(はげたか)と代言人との混同した相をそこに見いだしたであろう。肉食の鳥と訴訟の男とは、互いに醜くし合い互いに補い合って、訴訟の男は肉食の鳥を野卑にし、肉食の鳥は訴訟の男を恐ろしくなしていた。

 その男は長い半白の髯(ひげ)をはやしていた。女のシャツを着ていたが、そのために毛むくじゃらの胸と灰色の毛が逆立ってる裸の腕とが見えていた。そのシャツの下には、泥まみれのズボンが見え、また足指のはみ出た長靴(ながぐつ)も見えていた。

 彼は口にパイプをくわえ、それをくゆらしていた。部屋の中にはもう一片のパンもなかったが、それでも煙草(たばこ)だけはあった。

 彼は何か書いていたが、おそらくマリユスが先刻読んだような手紙であろう。

 テーブルの片端には、赤っぽい古い端本(はほん)が一冊見えていた。書籍縦覧所の古い十二折型の体裁から見ると、それは小説の本らしかった。表紙には太い大文字で次の書名が刷ってあった。「神、王、名誉、および婦人。デュクレー・デュミニル著。一八一四年。」

 物を書きながら男は大声に口をきいていた。マリユスはその言葉を聞き取った。

「死んだからって平等ということはねえんだ! ペール・ラシェーズの墓地を見てみろ。身分のある奴(やつ)らのは、金のある奴らのは、上手(かみて)の石の舗(し)いてあるアカシヤの並み木道にある。そこまで馬車で行けるんだ。身分の低い者、貧乏な者、不幸な者、なんかのはどうだ。みな下手(しもて)にある。泥が膝(ひざ)までこようって所だ、穴の中だ、じめじめしてる所だ。早く腐るようにそんな所へ入れられるんだ。墓まいりをするったって、地の中へめいり込むようにしなけりゃ行かれやしねえ。」

 そこで彼はちょっと言葉を切って、拳(こぶし)でテーブルの上をたたき、歯ぎしりしながら付け加えた。

「ええ、世界中を食ってもやりてえ!」

 四十歳くらいともまた百歳くらいとも見える太い女が、跣足(はだし)で暖炉のほとりにかがんでいた。

 女もただ、シャツ一枚と、古ラシャのつぎのあたったメリヤスの裳衣一枚をつけてるだけだった。粗布の前掛けが裳衣の半ばを隠していた。彼女は腰を折ってかがんではいたが、背はごく高そうに見えた。亭主と比ぶれば大女だった。白髪交じりの赤茶けたきたない金髪を持っていたが、爪の平たい艶(つや)のある大きな手でそれを時々かき上げていた。

 女のそばには、一冊の書物が開いたまま下に置いてあった。テーブルの上のと同じ体裁で、おそらく同じ小説の続きででもあろう。

 一方の寝床の上には、身体の細長い色の青い小娘が腰掛けてるのが見えていた。半裸体のままで、足をぶら下げ、何も聞きも見もせずまた生きてもいないような様子だった。

 確かに、マリユスの所へやってきた娘の妹に違いない。

 年齢は十一か十二くらいに見えた。しかしよく注意して見ると、十五歳にはなってるらしかった。前後大通りで「ただもう一目散よ」と言ったのは、その娘だった。

 彼女は長く小さいままでいてそれから急ににわかに伸びてゆく虚弱なたちの子供だった。赤貧がそういう哀れな人間を作り出すのである。彼らには幼年時代も少女時代もない。十五歳でまだ十二歳くらいに見え、十六歳では既に二十歳くらいにも見える。今日は小娘で、明日ははや一人前の女である。あたかも一生を早く終えんがために年をまたぐかのようである。

 今のところまだその娘は、子供の様子をしていた。

 それからまた、その住居のうちには何ら仕事をしてるさまも見えなかった。何かの機械もなく、糸取り車もなく、何らの道具もなかった。ただ片すみに、怪しい鉄片が少しばかりあった。そういう陰鬱(いんうつ)な怠慢こそ、絶望の後にきたり、死の苦しみの前に来るものである。

 マリユスはしばしその惨憺(さんたん)たる室の内部をながめていた。それは墓の内部よりもいっそう恐ろしいものだった。そこでは、人の魂がうごめき人の生命があえいでるのが感じられるのだった。

 屋根裏の部屋、窖(あなぐら)、社会の最下層をはいまわるある貧人らがいる賤(いや)しい溝、それはまったくの墓場ではなく、むしろ墓場の控え室である。しかしながら、富者らがその邸宅の入り口に最も華美をつくすがように、貧者らのすぐそばにある死も、その玄関に最大の悲惨をこらすがように思われる。

 男は黙ってしまい、女は口もきかず、若い娘は息さえもしていないようだった。ただ紙の上をきしるペンの音ばかりが聞こえていた。

 やがて男は書く手を休めずつぶやいた。

「愚だ、愚だ、すべて愚だ!」

 ソロモンの警語(訳者注 空なるかな空なるかなすべて空なり!)をそのまま言いかえたその言葉に、女はため息をもらした。

「お前さん、いらいらしなさんなよ。」と彼女は言った。「身体でも悪くしちゃつまらないよ、あんた。あんな人たちにだれかまわず手紙を書くなんて、うちの人もあまり気がよすぎるというものよ。」

 悲惨のうちにあると、寒気のうちにいるように、人は互いに身体を近寄らせるが、心は互いに遠ざかるものである。この女はうち見たところ、心のうちにある愛情の限りをつくして亭主を愛していたらしいが、一家の上に押っかぶさった恐ろしい赤貧から来る互いの日々の口論のうちに、その愛も消えうせてしまったのであろう。亭主に対してはもはや愛情の灰のみしか、彼女のうちには残っていなかった。けれども、よく世にあるとおり、やさしい呼び方だけは消えずに残っていた。彼女はいつも亭主に言った。あんた、お前さん、うちの人、などと。それも心は黙っているのにただ口の先だけで。

 男はまた書き初めていた。

     七 戦略と戦術

 マリユスは胸をしめつけられるような思いがして、間に合わせのその一種の観測台からおりようとした。その時ある物音が聞こえたので、彼は気をひかれてそこに止まっていた。

 部屋の扉(とびら)が突然開かれたのだった。

 姉娘が閾(しきい)の所に現われた。

 足には太い男の靴(くつ)をはき、靴から赤い踝(くるぶし)の所まで泥をはね上げ、身にはぼろぼろの古いマントを着ていた。一時間前マリユスが見た時はそのマントを着ていなかったが、それはおそらく彼の同情をひかんがために扉(とびら)の所に置いてきて、出しなにまた着て行ったものであろう。彼女ははいってき、後ろに扉を押し閉ざし、息を切らしてるのでちょっと立ち止まって休み、それから勝ちほこった喜悦の表情をして叫んだ。

「来るよ!」

 父は目をその方に向け、女房は顔をその方に向けたが、妹は身動きもしなかった。

「だれが?」と父は尋ねた。

「旦那(だんな)がよ。」

「あの慈善家か。」

「そうよ。」

「サン・ジャック会堂の?」

「そうよ。」

「あの爺(じい)さんか?」

「そうよ。」

「それが来るのか。」

「今あたしのあとから来るのよ。」

「確か。」

「確かよ。」

「では本当にあれが来るのか。」

「辻馬車(つじばしゃ)で来るわ。」

「辻馬車で。ロスチャイルドみたいだな。」

 父は立ち上がった。

「どうして確かだってことがわかるんだ。辻馬車で来るんなら、どうしてお前の方が先にこられたんだ。少なくもうちの所だけは言っておいたろうね。廊下の一番奥の右手の戸だとよく言ったのか。まちがわなけりゃいいがな。でお前は教会堂で会ったんだね。手紙は読んでくれたのか。お前に何と言った。」

「まあまあお父さん!」と娘は言った。「何でそうせき立てるのよ。こうなんだよ。あたしが教会堂にはいると、向こうはいつもの所にいた。あたしはおじぎをしてね、手紙を渡してやったのさ。向こうはそれを読んでくれてね、私にきくのよ、『お前さんはどこに住んでいますか、』って。『旦那様(だんなさま)、私が御案内しましょう、』と答えると、こういったのよ。『いや所を知らしておくれ。娘が買い物をしなければならないから、私はあとから馬車に乗って、お前さんと同じくらいに着くようにする。』それであたしは所を知らしてやったわ。家を知らせると、向こうはびっくりして、ちょっともじもじしてるようだったが、それからこう言ったの。『とにかく、私が行くから。』弥撒(ミサ)がすんでからあたしは、あの人が娘といっしょに教会堂から出るのを見たわ、それから辻馬車に乗る所も。あたしちゃんと、廊下の一番奥の右手の戸だって言っておいたよ。」

「それでもどうしてきっと来ることがわかるんだ。」

「馬車がプティー・バンキエ街へ来るのを見たのよ。だから駆けてきたんだわ。」

「どうしてその馬車だってことがわかる?」

「ちゃんと馬車の番号を見といたんだよ。」

「何番だ。」

「四百四十番よ。」

「よしお前は悧巧(りこう)な娘(こ)だ。」

 娘はまじまじと父を見つめ、そして足にはいてる靴(くつ)を見せながら言った。

「悧巧(りこう)な娘かも知れないわ。だがあたしはもうこんな靴はごめんよ、もうどうしたっていやよ。第一身体(からだ)に悪いし、その上みっともないわ。底がじめじめして、しょっちゅうぎいぎい言うのくらい、いやなものったらありはしない。跣足(はだし)の方がよっぽどましだわ。」

「もっともだ。」と父は答えた。そのやさしい調子は娘の荒々しい言い方と妙な対照をなしていた。「だが教会堂へは靴をはかなくちゃはいれねえからな。貧乏な者だって靴をはかなきゃならねえ。神様の家へは跣足では行かれねえよ。」と彼は苦々(にがにが)しくつけ加えた。それからまた頭を占めてる問題に返って言った。「ではきっと来るんだな?」

「すぐあたしのあとにやって来るよ。」と娘は言った。

 男は身を起こした。顔には一種の輝きがあった。

「おいお前、」と彼は叫んだ、「聞いたか。今慈善家が来るんだ。火を消しておけよ。」

 女房はあきれ返って身動きもしなかった。

 父親は軽業師(かるわざし)のようにすばやく、暖炉の上にあった口の欠けた壺(つぼ)を取り、燃えさしの薪の上に水をぶちまけた。

 それから姉娘の方へ向いて言った。

「お前は椅子(いす)の藁(わら)を抜くんだ。」

 娘はそれが何のことだかわからなかった。

 父は椅子をつかみ、踵(かかと)で一蹴(ひとけ)りして、腰掛け台の藁を抜いてしまった。彼の足はそこをつきぬけた。足を引きぬきながら、彼は娘に尋ねた。

「今日は寒いか。」

「大変寒いわ。雪が降ってるよ。」

 父は窓の近くの寝床にすわってた妹娘の方を向いて、雷のような声で怒鳴った。

「おい、寝床からおりろ、なまけ者が。いつもつくねんとしてばかりいやがる。窓ガラスでもこわせ。」

 娘は震えながら寝床から飛びおりた。

「窓ガラスをこわせったら!」と父はまた言った。

 娘は呆気(あっけ)に取られて立っていた。

「わからねえのか。」と父はくり返した。「窓ガラスを一枚こわせと言うんだ。」

 娘はただ恐ろしさのあまり父の言葉に従って、爪先で背伸びをし、拳(こぶし)をかためて窓ガラスを打った。ガラスはこわれて、大きな音をして下に落ちた。

「よし。」と父は言った。

 彼は着実でまた性急だった。部屋のすみずみまで急いで見回した。

 彼の様子はちょうど、戦争が初まろうとする時に当たって、早くも最後の準備をする将軍のようだった。

 それまで一言も口をきかなかった母親は、ようやく立ち上がって、ゆっくりした重々しい声で尋ねた。その言葉は凍って出て来るかのようだった。

「あんた、何をするつもりだね?」

「お前は寝床に寝ていろ。」と男は答えた。

 その調子は考慮の余地を人に与えなかった。女房はそれに従って、寝床の上に重々しく身を横たえた。

 そのうちに、片すみですすり泣く声がした。

「何だ?」と父親は叫んだ。

 妹娘はなおすみっこにうずくまったまま、血にまみれた拳(こぶし)を出して見せた。窓ガラスをこわす時けがしたのである。彼女は母親の寝床のそばに行って、黙って泣いている。

 こんどは母親が身を起こして叫んだ。

「まあごらんよ。何てばかなことをさせたもんだね。ガラスなんかこわさしたから手を切ったんじゃないか。」

「その方がいい。」と男は言った。「初めからそのつもりだ。」

「なんだって、その方がいいって?」と女は言った。

「静かにしろ!」と男は答え返した。「俺は言論の自由を禁ずるんだ。」

 それから彼は自分が着ていた女のシャツを引き裂いて、細い布片をこしらえ、それで娘の血にまみれた拳(こぶし)を急いで結わえた。

 それがすむと、彼は満足げな目つきで自分の裂けたシャツを見おろした。

「おまけにシャツもだ。」と彼は言った。「なかなかいい具合に見える。」

 凍るような風が窓ガラスに音を立てて、室(へや)の中に吹き込んできた。外の靄(もや)も室にはいってきて、目に見えない指でぼーっとほごされるほの白い綿のようにひろがっていった。ガラスのこわれた窓からは、雪の降るのが見られた。前日聖燭節の太陽で察せられた寒気が、果たしてやってきたのである。

 父親はぐるりとあたりを見回して、何か忘れたものはないかと調べてるようだった。それから、古い十能を取上げて湿った薪(たきぎ)の上に灰をかぶせ、すっかりそれを埋めてしまった。

 それから立ち上がって、暖炉に寄りかかって言った。

「さあこれで慈善家を迎えることができる。」

     八 陋屋(ろうおく)の中の光

 姉娘は父親の所へ寄ってきて、彼の手の上に自分の手を置いた。

「触(さわ)ってごらん、こんなに冷いわ。」と彼女は言った。

「なあんだ、」と父は答えた、「俺(おれ)の方がもっと冷い。」

 母親は性急に叫んだ。

「お前さんはいつでもだれよりも上だよ、苦しいことでもね。」

「黙ってろ。」と男は言った。女は一種のにらみ方をされて黙ってしまった。

 陋屋(ろうおく)の中は一時静まり返った。姉娘は平気な顔をしてマントの裾(すそ)の泥を落としていた。妹の方はなお泣き続けていた。母親は両手に娘の頭を抱えてやたらに脣(くちびる)をつけながら、低くささやいていた。

「いい児だからね、泣くんじゃないよ、何でもないからね。泣くとまたお父さんに怒られるよ。」

「いやそうじゃねえ。」と父は叫んだ。「泣け、泣け。泣く方がいいんだ。」

 それから彼は姉娘の方へ向いて言った。

「どうしたんだ、こないじゃねえか。こなかったらどうする。火は消す、椅子(いす)はこわす、シャツは裂く、窓ガラスはこわす、そして一文にもならねえんだ。」

「おまけに娘にはけがをさしてさ!」と母親はつぶやいた。

「おい、」と父親は言った、「この屋根はべらぼうに寒いじゃねえか。もしこなかったらどうするんだ。これはまた何て待たせやがるんだ。こうも思ってるんだろう、『なあに待たしておけ、それがあたりまえだ!』本当にいまいましい奴らだ。締め殺してでもやったら、どんなにいい気持ちでおもしろくて溜飲(りゅういん)が下がるかわからねえ。あの金持ちの奴らをよ、みんな残らずさ。どいつもこいつも慈悲深そうな顔をしやがって、体裁ばかりつくりやがって、弥撒(ミサ)には行くし、坊主には物を送ったり阿諛(おべっか)を使ったりしやがる。そのくせ俺(おれ)たちより上の者だと思い込んで、恥をかかせにやってきやがる。着物を施すなんて言いながら、四スーも出せばつりがこようっていうぼろを持ってくるし、それにまたパンとくるんだ。そんなもの俺は欲しくもねえ。皆わからずやばかりだ。俺(おれ)が欲しいなあ金だ。ところが金ときては一文も出しやがらねえ。金をくれても飲んでしまうと言ってやがる。俺たちは酒飲みでなまけ者だと言ってやがる。そして御当人は! 奴らはいったい何だい。若(わけ)え時には何をしてきたんだい。泥坊じゃねえか。そうででもなけりゃあ金持ちになれるわけはねえ。ええ、世間は四すみから持ち上げて、すぽっと投げ出しちまうがいい。みんなつぶれっちまうかも知れねえ。つぶれなくっても、皆無一文になるわけだ。それだけ儲(もう)けものだ。――だがあの慈善家のばか野郎、いったい何をしてるんだ。本当に来るのか。ことによると番地を忘れたかな。あの爺(じじい)の畜生め……。」

 その時軽く扉(とびら)をたたく音がした。男は飛んでいって扉を開き、うやうやしくおじぎをし、景慕のほほえみを浮かべて、叫んだ。

「おはいり下さい。御親切な旦那(だんな)、また美しいお嬢様も、どうかおはいり下さい。」

 年取ったひとりの男と若いひとりの娘とが、その屋根部屋の入り口に現われた。

 マリユスはまだのぞき穴の所を去っていなかった。そして今彼が受けた感じは、とうてい人間の言葉をもっては現わせない。

 現われたのは実に彼女だった。

 およそ恋をしたことのある者は「彼女」という語の二字のうちに含まれる光り輝く意味を知っているであろう。

 まさしく彼女であった。マリユスは突然眼前にひろがった光耀(こうよう)たる霧を通して、ほとんど彼女の姿を見分けることができないくらいだった。がそれはまさしく、姿を隠したあのやさしい娘だった、六カ月の間彼に輝いていたあの星だった、あの瞳(ひとみ)、あの額、あの口、消え去りながら彼を暗夜のうちに残したあの美しい顔だった。その面影は一度見えなくなったが、今また現われたのである。

 その面影は再び、この影の中に、この屋根部屋(やねべや)の中に、この醜い陋屋(ろうおく)の中に、この恐ろしい醜悪の中に、現われきたったのである。

 マリユスは我を忘れておののいた。ああまさしく彼女である! 彼は胸の動悸(どうき)のために目もくらむほどだった。まさに涙を流さんばかりになった。ああ、あれほど長くさがしあぐんだ後ついにめぐり会おうとは! 彼はあたかも、自分の魂を失っていたのをまた再び見いだしたような気がした。

 彼女はやはり以前のとおりで、ただ少し色が青くなってるだけだった。その妙(たえ)なる顔は紫ビロードの帽子に縁取られ、その身体は黒繻子(くろじゅす)の外套(がいとう)の下に隠されていた。長い上衣の下からは絹の半靴(はんぐつ)にしめられた小さな足が少し見えていた。

 彼女はやはりルブラン氏といっしょだった。

 彼女は室(へや)の中に数歩進んで、テーブルの上にかなり大きな包みを置いた。

 ジョンドレットの姉娘は、扉(とびら)の後ろに退いて、そのビロードの帽子、その絹の外套、またその愛くるしい幸福な顔を、陰気な目つきでながめていた。

     九 泣かぬばかりのジョンドレット

 部屋はきわめて薄暗かったので、外からはいってくるとちょうど窖(あなぐら)へでもはいったような感じがする。それで新来のふたりは、あたりのぼんやりした物の形を見分けかねて、少しく躊躇(ちゅうちょ)しながら進んできた。しかるに家の者らは、屋根裏に住む者の常として薄暗がりになれた目で、彼らの姿をすっかり見て取ることができて、じろじろうちながめていた。

 ルブラン氏は親切そうなまた悲しげな目つきで近づいてきて、ジョンドレットに言った。

「さあこの包みの中に、新しい着物と靴足袋(くつたび)と毛布とがはいっています。」

「神様のような慈悲深いお方、いろいろありがとう存じます。」とジョンドレットは頭を床にすりつけんばかりにして言った。――それから、ふたりの客があわれな部屋(へや)の内部を見回してる間に、彼は姉娘の耳元に身をかがめて、低く口早に言った。

「へん、俺が言ったとおりじゃねえか。ぼろだけで、金は一文もくれねえ。奴(やつ)らはみんなそうだ。ところでこの老耄(おいぼれ)にやった手紙には、こちらの名前は何として置いたっけな。」

「ファバントゥーよ。」と娘は答えた。

「うむ俳優だったな、よし。」

 それを思い出したのはジョンドレットに仕合わせだった。ちょうどその時ルブラン氏は、彼の方へ向いて、名前を思い出そうとしてるような様子で彼に言った。

「なるほどお気の毒です、ええと……。」

「ファバントゥーと申します。」ジョンドレットは急いで答えた。

「ファバントゥー君と、なるほどそうでしたな、ええ覚えています。」

「俳優をしていまして、元はよく当てたこともございますので。」

 そこでジョンドレットは、この慈善家を捕うべき時がきたと思い込んだ。で彼は、市場香具師(いちばやし)のような大げさな調子と大道乞食(だいどうこじき)のような哀れな調子とをないまぜた声で叫んだ。「タルマの弟子(でし)でございます、旦那(だんな)、私はタルマの弟子でございます。昔は万事都合がよろしゅうございましたが、只今では誠に不運な身の上になりました。旦那ごらん下さいまし、パンもなければ火もございません。ただ一つの椅子(いす)は藁(わら)がぬけ落ちています。こんな天気に窓ガラスはこわれています。それに家内まで寝ついていまして、病気なのでございます。」

「御気の毒に。」とルブラン氏は言った。

「子供までけがをしています。」とジョンドレットは言い添えた。

 小娘は知らない人がきたのに紛らされて、「お嬢様」をながめながら泣きやんでいた。

「泣けったら、大声に泣けよ。」とジョンドレットは彼女に低くささやいた。

 と同時に彼はそのけがした手をつねった。彼はそれらのことを手品師のような早業(はやわざ)でやってのけた。

 娘は大声を立てた。

 マリユスが心のうちで「わがユルスュール」と呼んでいた美しい若い娘は、すぐにその方へやっていった。

「まあかわいそうなお子さん!」と彼女は言った。

「お嬢様、」とジョンドレットは言い進んだ、「この血の出ている手首をごらん下さいまし。日に六スーずつもらって機械で仕事をしていますうちに、こんなことになりました。あるいは腕を切り落とさなければならないかも知れませんのです。」

「そうですか。」と老人は驚いて言った。

 小さな娘はその言葉を本気に取って、いかにもうまく泣き出した。

「全くのことでございまして、実にどうも!」と父親は答えた。

 しばらく前からジョンドレットは、その慈善家を変な様子でじろじろながめていた。口をききながらも、何か記憶を呼び起こそうとでもするように、注意して彼の様子を探ってるらしかった。そして新来のふたりが小娘にその負傷した手のことを同情して尋ねてる間に乗じて、彼は突然、ぼんやりした元気のない様子で寝床に横たわってる女房のそばへ行き、低い声で言った。

「あの男をよく見ておけ!」

 それからルブラン氏の方を向き、哀れな状態を口説き続けた。

「旦那(だんな)、ごらんのとおり私は、着る物とては家内のシャツ一枚きりでございまして、それもこの冬の最中にすっかり破れ裂けています。着物がないので外に出られないような始末でございます。着物一枚でもありましたら、私はマルス嬢(訳者注 当時名高い女優)の所へでも行くのでございますが。嬢は私を知っていましてごく贔屓(ひいき)にしてくれます。まだトゥール・デ・ダーム街に住んでるのでございましょうか。旦那も御存じですかどうか、私は嬢といっしょに田舎(いなか)で芝居を打ったことがあります。私もいっしょに大成功でございました。で只今でもセリメーヌ(訳者注 モリエールの喜劇中の人物で機才ある美人――マルス嬢をさす)は、きっと私を救ってくれますでしょう。エルミールはベリゼールに物を恵んでくれますでしょう(訳者注 前者はモリエールの喜劇中の人物で正直なる婦人、後者は伝説中の人物で零落せる将軍。――マルス嬢とジョンドレット自身とを指す)。ですがこの姿ではどうにもできません。その上一文の持ち合わせもありません。まったく家内が病気なのに無一文なのでございます。娘がひどいけがをしているのに無一文なのでございます。家内は時々息がつまります。年齢(とし)のせいでもございましょうが、また神経も手伝っています。どうにかいたさなくてはなりません。また娘の方も同様で。と申して、医者も薬も、どうして払いましょう、一文もありません。ですからまあわずかなお金でも跪(ひざまず)いて押しいただくような始末でございます。芸術なんていうものもこうなってはみじめなものでございます。美しいお嬢様、それから御親切な旦那様(だんなさま)、さようではございませんか。あなた方は徳と親切とを旨(むね)とされて、いつも教会堂へおいででございますが、私のかわいそうな娘もまた教会堂へお祈りに参っていますので、毎日お姿をお見かけいたしております。私は娘どもを宗教のうちに育てたいのでございます。芝居へなんぞはやりたくないと思いましたので。賤(いや)しい者の娘はえてつまずきやすいものでございます。私はつまらないことは決して聞かせません。いつも名誉だの道徳だの徳操だのを説いてきかせています。娘どもに尋ねてもみて下さいませ。まっすぐの道を歩かなければなりません。娘どもは父として私をいただいています。ちゃんとした家庭を持たぬのがはじまりで、しまいには賤しい稼(かせ)ぎに身を落とすような不幸な者どもではございません。家なしの娘からだれかまわずの夫人となるのが常であります。ですが、ファバントゥーの一家にはそんな者はひとりもありません。私は娘どもをりっぱに教育したいのでありまして、ただ正直になるように、温順になるように、尊い神様を信ずるようにと願っております。――それから旦那、りっぱな旦那様、私どもが明日どんなことになるかは御承知でもございますまい。明日は二月四日で、いよいよの日でございます。家主に待ってもらった最後の日でございます。もし今晩払いをしませんと、明日は、姉娘と、私と、熱のある家内と、けがをしている子供と、私ども四人はここから外に、往来に、追い出されてしまいまして、宿もなく、雨の中を、雪の中を、路頭に迷わなければなりません。かようなわけでございます、旦那様。四期分の、一年分の、借りがあるのでございまして、六十フランになっております。」

 ジョンドレットは嘘(うそ)を言った。家賃は四期で四十フランにしかならないはずであるし、またマリユスが二期分を払ってやってから六カ月しかたっていないので、四期分の借りができてるわけもなかった。

 ルブラン氏はポケットから五フランを取り出して、それをテーブルの上に置いた。

 ジョンドレットはそのわずかな暇に姉娘の耳にささやいた。

「ばかにしてる、五フランばかりでどうしろっていうのか。椅子(いす)とガラスの代にもならねえ。せめて入費(いりめ)ぐらいは置いてくがあたりまえだ。」

 その間にルブラン氏は、青いフロックの上に着ていた大きな褐色(かっしょく)の外套(がいとう)をぬいで、それを椅子の背に投げかけた。

「ファバントゥー君、」と彼は言った、「私は今五フランきり持ち合わせがないが、一応娘を連れて家に帰り、今晩またやってきましょう。払わなければならないというのは今晩のことですね……。」

 ジョンドレットの顔は不思議な色に輝いた。彼は元気よく答えた。

「さようでございます、尊い旦那様(だんなさま)。八時には家主の所へ持って参らなければなりません。」

「では六時にやってきます、そして六十フラン持ってきましょう。」

「ほんとに御親切な旦那様!」とジョンドレットは夢中になって叫んだ。

 そしてすぐに彼は低く女房にささやいた。

「おい、あいつをよく見ておけよ。」

 ルブラン氏は若い美しい娘の腕を取って、扉(とびら)の方へ向いた。

「では今晩また、皆さん。」と彼はいった。

「六時でございますか。」とジョンドレットはきいた。

「正六時に。」

 その時、椅子(いす)の上にあった外套(がいとう)がジョンドレットの姉娘の目に止まった。

「旦那(だんな)、」と彼女は言った、「外套をお忘れになっています。」

 ジョンドレットは恐ろしく肩をそばだて、燃えるような目つきで娘をじろりとにらめた。

 ルブラン氏はふり返って、ほほえみながら答えた。

「忘れたのではありません。それは置いてゆくのです。」

「おお私の恩人様、」とジョンドレットは言った、「実に情け深い旦那様、私は涙がこぼれます。せめて馬車までお供さして下さいませ。」

「外に出るなら、」とルブラン氏は言った、「その外套をお着なさい。ひどく寒いですよ。」

 ジョンドレットは二言と待たなかった。彼はすぐにその褐色(かっしょく)の外套を引っかけた。

 そしてジョンドレットが先に立って、三人は室(へや)を出て行った。

     十 官営馬車賃――一時間二フラン

 マリユスはその光景をすっかりながめた。しかし実際は何もはっきり見て取ることはできなかった。彼の目は若い娘の上に据えられており、彼の心は、彼女がその室に一歩ふみ込むや否や、言わば彼女をつかみ取り彼女をすっかり包み込んでしまっていた。彼女がそこにいる間、彼はまったく恍惚(こうこつ)たる状態にあって、あらゆる物質的の知覚を失い、全心をただ一点に集注していた。彼がながめていたものはその娘ではなくて、繻子(しゅす)の外套(がいとう)とビロードの帽子とをつけた光明そのものだった。シリウス星が室(へや)の中にはいってきたとしても、彼はそれほど眩惑(げんわく)されはしなかったであろう。

 若い娘が包みを開き、着物と毛布とをそこにひろげ、病気の母親に親切な言葉をかけ、けがした娘にあわれみの言葉をかけてる間、彼はその一挙一動を見守り、その言葉を聞き取ろうとした。その目、その額、その美貌(びぼう)、その姿、その歩き方を彼は皆知っていたが、その声の音色はまだ知らなかった。かつてリュクサンブールの園でその数語を耳にしたように思ったこともあったが、それも確かにそうだとはわからなかった。そしてもし彼女の声をきくならば、その音楽の響きを少しでも自分の心のうちにしまい込むことができるならば、十年ほど自分の生命を縮めても惜しくないとまで思った。けれどもジョンドレットの哀願の声やラッパのような嘆声に、彼女の声はすっかり消されてしまった。マリユスは狂喜とともに憤怒の情をさえ覚えた。彼は目の中に彼女の姿を包み込んでいた。その恐ろしい陋屋(ろうおく)のうちの怪物どもの間に、神聖なる彼女を見いだそうとは、夢にも思いがけないことだった。彼は蟇(がま)の間に蜂雀(ほうじゃく)を見るような気がした。

 彼女が出て行った時、彼はただ一つのこときり考えなかった、すなわち、そのあとに従い、その跡をつけ、住所を知るまでは決して離れず、少なくともかく不思議にもめぐり会った以上はもはや決して見失うまいということ。で彼は戸棚(とだな)から飛びおり、帽子を取った。そして扉(とびら)のとっ手に手をかけまさに外に出ようとした時、ふと足を止めて考えた。廊下は長く、階段は急であり、その上ジョンドレットは饒舌(おしゃべり)だから、ルブラン氏はまだおそらく馬車に乗ってはいないだろう。もしルブラン氏が、廊下でか階段でかまたは門口の所でふり返って、この家の中に自分がいることに気づきでもしようものなら、きっと警戒して再び自分からのがれようとするだろう。そしてそれでまた万事おしまいである。何としたらいいものか。少し待つとしようか。しかし待ってる間に、馬車は走り去ってしまうかも知れない。マリユスはまったく困惑した。がついに彼は危険をおかして室(へや)を出た。

 もう廊下にはだれもいなかった。彼は階段の所へ走っていった。階段にもだれもいなかった。大急ぎで階段をおり、大通りに出ると、ちょうど馬車がプティー・バンキエ街の角(かど)を曲がって市中へ帰ってゆくのが見えた。

 マリユスはその方へ駆けていった。大通りの角までゆくと、ムーフタール街を走り去る馬車がまた見えた。しかしもうよほど遠くなので、とうてい追っつけそうもなかった。後を追って駆け出す、そんなこともできない。その上、足にまかして追っかける者があれば馬車の中からよく見えるので、老人はすぐに自分だということに気づくに違いない。しかしちょうどその時、思いがけなくもふとマリユスは、官営馬車が空(から)のままで大通りを過ぎるのを認めた。今はもう、その馬車に乗って先の馬車の跡をつけるよりほかに方法はなかった。そうすれば安心で確実でまた危険の恐れもない。

 マリユスは手を挙げて御者を呼びとめ、そして叫んだ。「時間ぎめで!」

 マリユスはえり飾りもつけていず、ボタンの取れた古い仕事服を着、シャツは胸の所の一つの襞(ひだ)が裂けていた。

 御者は馬を止め、目をまばたき、マリユスの方へ左の手を差し出しながら、人差し指と親指との先を静かにこすってみせた。

「何だ?」とマリユスは言った。

「先にお金をどうか。」と御者は言った。

 マリユスは十六スーきり持ち合わせがないことを思い出した。

「いくらだ?」と彼は尋ねた。

「四十スー。」(訳者注 四十スーは二フランに当たる)

「帰ってきてから払おう。」

 御者は何の答えもせず、ただラ・パリス(訳者注 素朴な小唄)の節(ふし)を口笛で吹いて、馬に鞭(むち)を当てて行ってしまった。

 マリユスは茫然(ぼうぜん)として馬車が行ってしまうのをながめた。持ち合わせが二十四スー足りなかったために、喜悦と幸福と愛とを失ってしまい、再び暗夜のうちに陥ってしまった。せっかく目が見えてきたのにまた見えなくなってしまった。彼は苦々(にがにが)しく、そして実際深い遺憾の念をもって、その朝あのみじめな娘に与えた五フランのことを思った。その五フランさえ持っていたら、救われ、よみがえり、地獄と暗黒とから脱し、孤独や憂愁やひとり身から脱していたであろう。自分の運命の黒い糸をあの黄金色(こがねいろ)の美しい糸に結び合わせることができたであろう。しかるにその美しい糸口は、彼の目の前にちょっと浮かび出たばかりで、また再び断ち切れてしまったのである。彼は絶望して家に帰った。

 ルブラン氏は晩に再びやって来ると約束した、そしてその時こそはうまく跡をつけてやろう、そう彼は考え得たはずである。しかし先刻夢中になってのぞいている時、彼はその約束の言葉をもほとんど聞き取り得なかったのである。

 家の階段を上ってゆこうとした時彼は、大通りの向こう側、バリエール・デ・ゴブラン街の寂しい壁の所に、「慈善家」の外套(がいとう)にくるまったジョンドレットの姿を認めた。ジョンドレットは他のひとりの男に口をきいていた。その男は場末の浮浪人とも言い得るような人相の悪い奴(やつ)らのひとりだった。そういう奴らは、曖昧(あいまい)な顔つきをし、怪しい独語を発し、悪いことをたくらんでいそうな風付きであって、普通は昼間眠っているもので、それから推すと夜分に仕事をしてるものらしい。

 ふたりは立ちながら身動きもしないで、渦巻(うずま)き降る雪の中で話をしていた。その互いに身を寄せ合ってるさまは、確かに警官の目をひくべきものだったが、マリユスはあまり注意を払わなかった。

 けれども、彼はいかに心が悲しみに満たされていたとは言え、ジョンドレットが話しかけてるその場末の浮浪人にどこか見覚えがあるような気がしてならなかった。何だかパンショーという男に似てるようだった。パンショーと言えば、クールフェーラックがかつて教えてくれた男で、またその付近ではかなり危険な夜盗だとして知られてる男で、別名をプランタニエもしくはビグルナイユと言っていた。その名前は前編で読者の既に見たところである。このパンショー一名プランタニエ一名ビグルナイユは、後に多くの刑事裁判のうちに現われてきて、ついに有名な悪党となった者であるが、当時はただ名が通ってるというだけの悪者にすぎなかった。そして今日では既に、盗賊強盗らの間にひとりの伝説的人物となっている。彼は王政の終わり頃にはもう一方の首領となっていた。夕方、まさに夜にならんとする頃、囚人らが集まって低くささやき合う時には、彼はフォルス監獄の獅子(しし)の窖(あなぐら)(訳者注 ある中庭)での噂(うわさ)の種となった。その監獄に行くと、一八四三年に三十人の囚徒が白昼未曾有の脱獄をはかった時に使った排尿道が路地の下を通ってる所、ちょうど便所の舗石(しきいし)の上の方の囲壁の上に、パンショーという彼の名前を読むことができた。それは彼が脱獄を企てたある時に、自ら大胆にもそこに彫りつけたものである。一八三二年にも、警察は既に彼に目をつけていたが、その頃彼はまだ本当に舞台に立ってはいなかったのである。

     十一 惨(みじ)めなる者悲しめる者に力を貸す

 マリユスはゆるい足取りで家の階段を上って行った。そして自分の室(へや)にはいろうとする時、自分のあとについてくるジョンドレットの姉娘の姿を廊下に認めた。彼女は彼にとっては見るも不快の種だった。彼の五フランを持ってるのは彼女だった。今更それを返せと言ったところで仕方がない。官営馬車はもうそこにいず、またあの辻馬車(つじばしゃ)は遠くに行っていた。その上彼女は金を返しもすまい。また先刻きたあの人たちの住所を彼女に尋ねても、たぶんむだだろう。彼女はとうていそれを知ってるわけはない。なぜなら、ファバントゥーと署名されていた手紙のあて名は、サン・ジャック・デュ・オー・パ会堂の慈悲深き紳士殿としてあったばかりだから。

 マリユスは室にはいって、後ろに扉(とびら)を押ししめた。

 しかし扉はしまらなかった。ふり返って見ると、半ば開いた扉を一つの手がささえていた。

「何だ? だれだ?」と彼は尋ねた。

 それはジョンドレットの姉娘だった。

「あああなたですか、」とマリユスはほとんど冷酷に言った、「またきたんですか。何か用ですか。」

 娘は何か考えてるらしく、返事もしなかった。朝のような臆面(おくめん)なさはもうなかった。はいってもこないで、廊下の陰の所に立っていた。マリユスはただ半開きの扉(とびら)からその姿を見るだけだった。

「さあどうしたんです。」とマリユスは言った。「何か用があるんですか。」

 娘は陰鬱(いんうつ)な目を上げて彼を見た。その目には一種の光がぼんやりひらめいていた。彼女は彼に言った。

「マリユスさん、あなたはふさいでるわね。どうかしたの?」

「私が!」とマリユスは言った。

「ええ、あなたがよ。」

「私はどうもしません。」

「いいえ。」

「本当です。」

「いいえきっとそうだわ。」

「かまわないで下さい。」

 マリユスはまた扉を押しやったが、娘はなおそれをささえていた。

「ねえ、あなたはまちがってるわ。」と彼女は言った。「あなたはお金持ちでもないのに、今朝(けさ)大変親切にしてくれたでしょう。だから今もそうして下さいな。今朝あたしに食べるものをくれたでしょう、だからこんどは心にあることを言って下さいな。何かあなたは心配してるわ、よく見えてよ。あたしあなたに心配させたくないのよ。どうしたらいいの。あたしでは役に立たなくて? あたしを使って下さいな。何もあなたの秘密を聞こうっていうんじゃないわ、そんなこと言わなくてもいいわよ。でもあたしだって役に立つこともあってよ。あなたの手伝いぐらいあたしにもできるわ、あたしは父さんの用を助けてるんだもの。手紙を持っていくとか、人の家へいくとか、方々尋ね回るとか、居所をさがすとか、人の跡をつけるとか、そんなことならあたしにもできてよ。ねえ、何のことだかあたしに言って下さいな。どんな人の所へだって行って話してきてあげるわ。ちょっとだれかが口をききさえすれば、それでよくわかってうまくいくこともあるものよ。ねえあたしを使って下さいな。」

 ある考えがマリユスの頭に浮かんだ。人はおぼれかかる時には一筋の藁(わら)にもあえてすがろうとする。

 彼は娘のそばに寄った。

「聞いておくれ……。」と彼は娘に言った。

 彼女は喜びの色に目を輝かしてそれをさえぎった。

「ええあたしにそう親しい言葉を使って下さいな! あたしその方がほんとにうれしいわ。」

「ではね、」と彼は言った、「お前はここに、あの……娘といっしょにお爺(じい)さんを連れてきたんだね。」

「ええ。」

「お前はあの人たちの住所を知ってるのかい。」

「いいえ。」

「それを僕のためにさがし出してくれよ。」

 娘の陰鬱(いんうつ)な目つきはうれしそうになっていたが、そこで急に曇ってきた。

「あなたが思っていたことはそんなことなの。」と彼女は尋ねた。

「ああ。」

「あの人たちを知ってるの。」

「いいや。」

「では、」と彼女は早口に言った、「あの娘さんを知っていないのね、そしてこれから知り合いになりたいと言うのね。」

 あの人たちというのがあの娘さんと変わったことのうちには、何かしら意味ありげなまた苦々(にがにが)しいものがあった。

「とにかくお前にできるかね。」とマリユスは言った。

「あの美しいお嬢さんの居所を聞き出してくることね?」

 あの美しいお嬢さんというその言葉のうちには、なお一種の影があって、それがマリユスをいらいらさした。彼は言った。

「まあ何でもいいから、あの親と娘との住所だ。なにふたりの住所だけだよ。」

 娘はじっと彼を見つめた。

「それであたしに何をくれるの。」

「何でも望みどおりのものを。」

「あたしの望みどおりのものを?」

「ああ。」

「ではきっとさがし出してくるわ。」

 彼女は頭を下げ、そして突然ぐいと扉(とびら)を引いた。扉はしまった。

 マリユスはひとりになった。

 彼は椅子(いす)の上に身を落とし、頭と両腕とを寝台の上に投げ出し、とらえ所のない考えのうちに沈み、あたかも眩暈(げんうん)でもしてるかのようだった。朝以来起こってきたあらゆること、天使(エンゼル)の出現、その消失、あの娘の今の言葉、絶望の淵(ふち)のうちに漂ってきた希望の光、それらが入り乱れて彼の頭にいっぱいになっていた。

 突然彼はその夢想から激しく呼びさまされた。

 彼はジョンドレットの高いきびしい声を耳にしたのである。その言葉は彼の異常な注意をひくものだった。

「確かにそうだ、俺(おれ)はそうと見て取ったんだ。」

 ジョンドレットが言ってるのはだれのことだろう? だれをいったい見て取ったのか。それはルブラン氏のことなのか。「わがユルスュール」の父親のことなのか。でもジョンドレットはいったい彼を知ってるのか。自分の生涯を暗闇(くらやみ)から救ってくれるあらゆる手掛かりは、かくも突然にまた意外に得られようとするのか。自分の愛する者はだれであるか、あの若い娘はいかなる人であるか、その父親はいかなる人であるか、遂にそれがわかろうとするのか。ふたりをおおっていた濃い闇もまさに晴れようとするのか。ヴェールはまさに引き裂かれんとするのか。ああ天よ!

 彼は戸棚の上にのぼった、というよりもむしろ飛び上がった。そして例の壁の小穴の近くに位置を占めた。

 彼は再びジョンドレットの陋屋(ろうおく)の内部を見た。

     十二 ルブラン氏の与えし五フランの用途

 一家の様子には前と変わった所はなく、ただ女房と娘たちとが包みの中のものを取り出して、毛の靴下(くつした)やシャツをつけていたばかりだった。新しい二枚の毛布は二つの寝台の上にひろげられていた。

 ジョンドレットは今帰ってきたばかりらしかった。まだ外からはいってきたばかりの荒い息使いをしていた。ふたりの娘は暖炉のそばに床(ゆか)の上にすわって、姉の方は妹の手を結わえてやっていた。女房は暖炉のそばの寝床の上に身を投げ出して驚いたような顔つきをしていた。ジョンドレットは室(へや)の中を大またにあちこち歩き回っていた。彼は異様な目つきをしていた。

 女房は亭主の前におずおずして呆気(あっけ)に取られてるようだったが、やがてこう言った。

「でも本当かね、確かかね。」

「確かだ。もう八年になるんだが、俺(おれ)は見て取ったんだ。奴(やつ)だと見て取った。一目でわかった。だが、お前にはわからなかったのか。」

「ええ。」

「でも俺(おれ)が言ったじゃねえか、注意しろって。全く同じかっこうで、同じ顔つきで、年も大して取ってはいねえ。世間にはどうしたわけのものか少しも老(ふ)けねえ奴(やつ)がいる。それから声までそっくりだ。ただいい服装(なり)をしてるだけのことだ。全く不思議な畜生だが、とうとうとらえてやったというもんだ。」

 彼は立ち止まって、娘らの方へ言った。

「お前たちは出て行くんだ。――ばかだな、あれに気がつかなかったって。」

 娘らは父の言うとおりに出てゆこうとして立ち上がった。

 母親はつぶやいた。

「手にけがをしてるのに……。」

「外の風に当たればなおる。」とジョンドレットは言った。「出て行け。」

 明らかに彼にはだれも口答えができないらしい。ふたりの娘は出て行った。

 ふたりが扉(とびら)から出ようとした時、亭主は姉娘の腕をとらえ、一種特別な調子で言った。

「お前たちはちょうど五時にここへ帰って来るんだぞ、ふたりいっしょに。用があるんだから。」

 マリユスは更に注意して耳を澄ました。

 女房とふたりきりになると、ジョンドレットはまた歩き出し、黙って室(へや)の中を二、三度回った。それからしばらくの間、着ていた女シャツの裾(すそ)をズボンの帯の中に押し込んでいた。

 突然彼は女房の方を向き、腕を組み、そして叫んだ。

「も一つおもしろいことを聞かしてやろうか。あの娘はな……。」

「え、なに?」と女房は言った、「あの娘が?」

 マリユスはもう疑えなかった。まさしくそれは「彼女」のことに違いなかった。彼は非常な懸念で耳を傾けた。彼の全生命は耳の中に集中していた。

 しかしジョンドレットは身をかがめ、女房に低い声でささやいた。それから身を起こして、声高に言い添えた。

「彼女(あれ)だ!」

「さっきのが?」と女は言った。

「そうだ。」と亭主は言った。

 およそいかなる言葉をもってしても、女房の言ったさっきのが? という語のうちにこもってたものを伝えることはできないだろう。驚駭(きょうがい)と憤慨と憎悪(ぞうお)と憤怒とがこんがらがって一つの恐ろしい高調子になって現われたのである。亭主から耳にささやかれた数語、それはおそらくある名前だったろうが、それを聞いたばかりでこの大女は、ぼんやりしていたのがにわかに飛び上がって、いとうべき様子から急に恐るべき様子に変わったのである。

「そんなことがあるもんかね!」と彼女は叫んだ。「家の娘どもでさえ跣足(はだし)のままで長衣もない始末じゃないかね。それに、繻子(しゅす)の外套(がいとう)、ビロードの帽子、半靴(はんぐつ)、それからいろいろなもの、身につけてるものばかりでも二百フランの上になるよ。まるでお姫様だね。いいえお前さんの見違いだよ。それに第一、彼女(あれ)は醜い顔だったが、今のはそんなに悪くもないじゃないか。全く悪い方じゃない。彼女(あれ)のはずはないよ。」

「いや大丈夫彼女(あれ)だ。今にわかる。」

 その疑念の余地のない断定を聞いて、女房は大きな赤ら顔を上げて、変な表情で天井を見上げた。その時マリユスには、亭主よりも彼女の方がはるかに恐ろしく思えた。それは牝虎(めとら)の目つきをした牝豚のようだった。

「ええッ!」と彼女は言った、「うちの娘どもを気の毒そうな目で見やがったあのきれいな嬢さんの畜生が、乞食娘(こじきむすめ)だって。ええあのどてっ腹を蹴破(けやぶ)ってでもやりたい!」

 彼女は寝台から飛びおり、髪の毛を乱し、小鼻をふくらまし、口を半ば開け、手を後ろに伸ばして拳(こぶし)を握りしめ、しばらくじっと立っていた。それから、そのまま寝床の上に身を投げ出した。亭主の方は女房に気も留めずに、室(へや)の中を歩き回っていた。

 しばらく沈黙の後、彼は女房の方へ近寄って、その前に立ち止まり、前の時のように両腕を組んだ。

「も一ついいことを聞かしてやろうか。」

「何だね。」と彼女は尋ねた。

 彼は低い短い声で答えた。

「金蔵(かねぐら)ができたんだ。」

 女房は「気が違ったんじゃないかしら」というような目つきで、じっと彼をながめた。

 彼は続けて言った。

「畜生! 今まで長い間というもの、火がありゃ腹がへるしパンがありゃ凍えるってわけだった。もう貧乏は飽き飽きだ。俺(おれ)もみんなも首が回らなかったんだ。笑い事じゃねえ、冗談じゃねえ、くそおもしろくもねえや、狂言もおやめだ。へった腹にかき込んで、かわいた喉(のど)につぎ込むんだ。食い散らして眠って何にもしねえ。そろそろこちらの番になってきたんだ。くたばる前に一度は金持ちにもならなけりゃあね!」

 彼は室(へや)をぐるりと一回りしてつけ加えた。

「ほかの奴(やつ)らのようにね。」

「いったい何のことだよ?」と女房は尋ねた。

 彼は頭を振り、目をまばたき、何か述べ立てようとする大道香具師(だいどうやし)のように声を高めた。

「何のことかというのか、まあ聞けよ。」

「しッ!」と女房は言った。「大きな声をしなさんな。人に聞かれて悪いことだったら。」

「なあに、だれが聞くもんか。お隣か。奴(やっこ)さんさっき出て行ったよ。いたってあのおばかさんが聞きなんかするもんか。だがさっき出かけるのを見たんだ。」

 それでも一種の本能からジョンドレットは声を低めた。しかしマリユスに聞こえないほど低くはならなかった。幸いにも雪が降っていて大通りの馬車の音を低くしていたので、マリユスはその会話をすっかり聞き取ることができた。

 マリユスが聞いたのは次のような言葉だった。

「よく聞け。黄金の神様がつかまったんだ。つかまったも同じことだ。もう大丈夫だ。手はずはでき上がってる。仲間にも会ってきた。あいつは今晩六時に来る。六十フランを持ってきやがる。どうだ、俺(おれ)の口上はうめえだろう、六十フラン、家主、二月四日。実は一期分も借りはねえんだからな、ばか野郎だ。がとにかく六時にあいつはやって来る。ちょうど隣の先生も飯を食いに行く時分だ。ビュルゴン婆さんも町に皿洗いに行ってる時分だ。家の中にはだれもいやしねえ。お隣は十一時までは帰らねえ。娘どもには番をさしておく。お前は手伝わなくちゃいけねえ。野郎降参するにきまってる。」

「もし降参しなかったら?」と女房は尋ねた。

 ジョンドレットはすごい身振りをして言った。

「やっつけてしまうばかりさ。」

 そして彼は笑い出した。

 彼が笑うのを見るのは、マリユスにとっては初めてだった。その笑いは冷ややかで静かで、人を慄然(りつぜん)たらしむるものがあった。

 ジョンドレットは暖炉のそばの戸棚を開き、古い帽子を取り出し、袖でその塵を払って頭にかぶった。

「ちょっと出かけるぜ。」と彼は言った。「まだ会って置かなくちゃならねえ者もいる。みないい奴(やつ)ばかりだ。まあ仕上げを御覧(ごろう)じろだ。なるべく早く帰ってくる。うめえ仕事だ。家に気をつけておけよ。」

 そして両手をズボンの隠しにつっ込み、ちょっと考えていたが、それから叫んだ。

「あいつが俺に気づかなかったのは、もっけの仕合わせというものだ。向こうでも気がついたらもうきやしねえ。危うく取りもらす所だった。この髯(ひげ)のおかげで助かったんだ。このおかしな頤髯(あごひげ)でな、このかわいいちょっとおもしろい頤髯でな。」

 そして彼はまた笑い出した。

 彼は窓の所へ行った。雪はなお降り続いていて灰色の空を隠していた。

「何てひどい天気だ!」と彼は言った。

 それから外套(がいとう)の襟(えり)を合わした。

「こいつあ少し大きすぎる。」そしてつけ加えた。「だがまあいいや。あいつが置いてゆきやがったんで大きに助からあ。これがなかったら外へも出られねえし、何もかも手違いになる所だった。世の中の事ってどうかこうかうまくゆくもんだ。」

 そして帽子を眼深(まぶか)に引き下げながら、彼は出て行った。

 戸口から彼が五、六歩したかどうかと思われるくらいの時、扉(とびら)は再び開いて、その間から彼の荒々しいそしてずるそうな顔が現われた。

「忘れていた。」と彼は言った。「火鉢(ひばち)に炭をおこしておくんだぜ。」

 そして彼は女房の前掛けの中に、「慈善家」がくれた五フラン貨幣を投げ込んだ。

「火鉢に炭を?」女房は尋ねた。

「そうだ。」

「幾桝(いくます)ばかり?」

「二桝もありゃあいい。」

「それだけなら三十スーばかりですむ。残りでごちそうでも買おうよ。」

「そんなことをしちゃいけねえ。」

「なぜさ?」

「大事な五フランをむだにしちゃいけねえ。」

「なぜだよ?」

「俺(おれ)の方でまだ買うものがあるんだ。」

「何を?」

「ちょっとしたものだ。」

「どれくらいかかるんだよ。」

「どこか近くに金物屋があったね。」

「ムーフタール街にあるよ。」

「そうだ、町角(まちかど)の所に、わかってる。」

「でもその買い物にいくらかかるんだよ。」

「五十スーか……まあ三フランだ。」

「ではごちそうの代はあまり残らないね。」

「今日は食物(くいもの)どころじゃねえ。もっと大事なことがあるんだ。」

「そう、それでいいよ、お前さん。」

 女房のその言葉を聞いて、ジョンドレットは扉(とびら)をしめた。そしてこんどは、彼の足音が廊下をだんだん遠ざかっていって急いで階段をおりてゆくのを、マリユスは聞いた。

 その時、サン・メダール会堂で一時の鐘が鳴った。

     十三 ひそかに語り合う者は悪人の類ならん

 マリユスは夢想家ではあったが、既に言ったとおり、また生来堅固な勇敢な男であった。孤独な瞑想(めいそう)の習慣は、彼のうちに同情と哀憐(あいれん)との念を深めながら、おそらく激昂(げっこう)する力を減じたであろうが、憤慨の力は少しもそこなわれずにいた。彼はバラモン教徒のような慈悲心と法官のような峻厳(しゅんげん)さとを持っていた。蛙(かえる)をあわれむとともに蛇(へび)を踏みつぶすだけの心を持っていた。しかるに彼が今のぞき込んだ所は、蝮(まむし)の穴であった。彼が見た所のものは、怪物の巣であった。

「かかる悪人どもは踏みつぶさなければいけない。」と彼は自ら言った。

 解決されるかと思っていた謎(なぞ)は一つも解かれなかった。否かえってすべてはますます不可解になった。リュクサンブールの美しい娘についてもまたルブラン氏と呼んでいる男についても、ジョンドレットが彼らを知っているということのほかには何らの得る所もなかった。そして耳にした怪しい言葉を通してようやく彼にはっきりわかったことは、ただ一事にすぎなかった。すなわち、ある待ち伏せが、ひそかなしかも恐ろしい待ち伏せが、今計画されているということ。ふたりとも、父親の方は確かに、娘の方もたぶん、大なる危険に遭遇せんとしていること。自分はふたりを救わなければならないこと。ジョンドレットの者らの忌むべき策略の裏をかき、その蜘蛛(くも)の巣を破ってしまわなければならないこと。

 彼はちょっとジョンドレットの女房に目を注いだ。彼女は片すみから古い鉄の火鉢(ひばち)を引き出し、また鉄屑(てつくず)の中に何かさがしていた。

 彼は音を立てないように注意してできるだけ静かに戸棚からおりた。

 今なされつつある事柄に対して恐怖の念をいだきながらも、またジョンドレット一家の者らに対して嫌悪(けんお)の感をいだきながらも、彼は自分の愛する人のために力を尽くすようになったと考えて、一種の喜びを感じた。

 しかしどうしたらいいものか? ねらわれてるふたりに知らせると言ったところで、ふたりをどこに見いだすことができよう。マリユスはその住所を知らなかった。ふたりはちょっと彼の目の前に現われて、それから再びパリーの深い大きな淵(ふち)の中に沈んでしまったのである。あるいは晩の六時に、ルブラン氏がやって来る時に、扉(とびら)の所に待っていて、罠(わな)のあることを知らせるとしようか。しかしジョンドレットとその仲間の者らは、自分が待ち受けてるのを見つけるに違いない。あたりには人もいないし、向こうの方が強いので、彼らは何とでもして自分を捕えてしまうか、または自分を遠ざけてしまうだろう。そうすれば自分が助けようと思ってる人もそれで破滅だ。ちょうど一時が鳴ったばかりである。待ち伏せは六時にすっかりでき上がるはずだ。それまでには五時間の余裕がある。

 なすべき道はただ一つきりなかった。

 彼はいい方の服をつけ、絹の襟巻(えりま)きを結び、帽子を取り、ちょうど苔(こけ)の上を跣足(はだし)で歩くように少しも音を立てないで出て行った。

 その上幸いにも、ジョンドレットの女房はなお続けて鉄屑(てつくず)の中をかき回していた。

 外に出ると彼は、すぐにプティー・バンキエ街の方へ行った。

 その街路の中ほどに、ある所はまたげそうな低い壁があって、向こうは荒れ地になっていた。そこを通る時分には、彼はすっかり考え込んでゆっくり足を運んでいた。そして雪のために足音もしなかった。その時突然彼は、すぐ近くに人の話し声を聞いた。ふり返ってみると、街路はひっそりして、人影もなく、まっ昼間であった。しかもはっきり人声が聞こえていた。

 彼はふと思いついてそばの壁の上から向こうをのぞいてみた。

 果たしてそこには、ふたりの男が壁に背を向け、雪の上にかがんで、低く語り合っていた。

 ふたりとも彼の見知らぬ顔だった。ひとりはだぶだぶの上衣をつけた髯(ひげ)のある男で、もひとりはぼろをまとった髪の長い男だった。髯のある方は丸いギリシャ帽をかぶっていたが、もひとりは何もかぶらず、髪の上に雪が積っていた。

 ふたりの上に頭をつき出して、マリユスはその言葉をよく聞き取ることができた。

 長髪の男は相手を肱(ひじ)でつっ突いて言った。

「パトロン・ミネットの力を借りれば、しくじることはねえ。」

「そうかな。」と髯の男は言った。

 長髪の方は続けた。

「ひとりに五百弾でいいだろう。もしどじっても、五年か六年、まあ長くて十年だ。」

 相手はやや躊躇(ちゅうちょ)して、ギリシャ帽の下を指でかきながら答えた。

「そっちは実際だからな。そんな目にあっちゃあ。」

「大丈夫しくじりっこはねえ。」と長髪の方は言った。「爺(と)っつぁんの小馬車に馬をつけとくんだから。」

 それから彼らはゲイテ座で前日見た芝居のことを話し初めた。

 マリユスは歩き出した。

 不思議にも壁の後ろに隠れ雪の中にうずくまってるそれらふたりの男の曖昧(あいまい)な話は、何だかジョンドレットの恐ろしい計画に関係があるらしく、マリユスには思われてならなかった。どうしてもあのことらしかった。

 彼はサン・マルソー郭外の方へ行って、見当たり次第の店で、警察部長の居所を尋ねた。

 ポントアーズ街十四番地というのを教えられた。

 マリユスはその方へ行った。

 パン屋の前を通った時、晩の食事はできないかも知れないと思って、二スーのパンを買い、それを食べた。

 道すがら彼は天に感謝した。彼は考えた。今朝ジョンドレットの娘に五フランやっていなかったら、自分はルブラン氏の馬車について行って、その結果何にも知らなかったに違いない、そしてジョンドレット一家の者の待ち伏せを妨ぐるものもなく、ルブラン氏はそれで破滅になり、またおそらく娘もともに破滅の淵(ふち)に陥ってしまったであろう。

     十四 警官二個の拳骨(げんこつ)を弁護士に与う

 ポントアーズ街十四番地にきて、マリユスはその二階に上がり、警察部長を尋ねた。

「部長さんはお留守です。」とひとりの小僧が言った。「ですが代理の警視はおられます。お会いになりますか。急ぎの用ですか。」

「そうです。」とマリユスは言った。

 小僧は彼を部長室に案内した。中格子(なかごうし)の後ろに、ストーブに身を寄せ、三重まわしの大きなマントの袖(そで)を両手で上げている、背の高い男がひとりそこに立っていた。四角張った顔、脣(くちびる)の薄い引き締まった口、荒々しい半白の濃い頬鬚(ほおひげ)、ふところの中まで見通すような目つき、それは透徹する目ではなくて、探索する目と言う方が適当だった。

 その男は獰猛(どうもう)さと恐ろしさとにおいてはあえてジョンドレットに劣りはしなかった。番犬も時とすると、狼(おおかみ)に劣らず出会った者に不安を与えることがある。

「何の用かね。」と彼はぞんざいな言葉でマリユスに尋ねた。

「部長さんは?」

「不在だ。私(わし)がその代理をしている。」

「ごく秘密な事件ですが。」

「話してみたまえ。」

「そしてごく急な事件です。」

「では早く話すがいい。」

 その男は平静でまた性急であって、人をこわがらせまた同時に安心させる点を持っていた。恐怖と信頼とを与えるのだった。マリユスは彼にできごとを語った。――ただ顔を知ってるばかりの人ではあるが、その人が今夜、待ち伏せに会うことになっている。――自分はマリユス・ポンメルシーという弁護士であるが、自分のいる室(へや)の隣が悪漢の巣窟(そうくつ)で、壁越しにその計画をすっかり聞き取った。――罠(わな)を張った悪漢はジョンドレットとかいう男である。――共犯者もいるらしい。たぶん場末の浮浪人どもで、なかんずくパンショー一名プランタニエ一名ビグルナイユという男がいる。――ジョンドレットの娘どもが見張りをするだろう。――ねらわれてる人は、その名前もわからないので、前もって知らせる方法もない。――そしてそれらのことは晩の六時に、オピタル大通りの最も寂しい所、五十・五十二番地の家で、実行されることになっている。

 その番地を聞いて、警視は顔を上げ、冷ややかに言った。

「では廊下の一番奥の室(へや)だろう。」

「そうです。」とマリユスは言った、そしてつけ加えた。「その家を御存じですか。」

 警視はちょっと黙っていたが、それから靴(くつ)の踵(かかと)をストーブの火口で暖めながら答えた。

「そうかも知れないね。」

 それから、マリユスにというよりもむしろその襟飾(えりかざ)りにでも口をきいてるように目を下げて、半ば口の中で続けて言った。

「パトロン・ミネットが多少関係してるに違いない。」

 その言葉にマリユスは驚いた。

「パトロン・ミネット、」と彼は言った、「ほんとに私はそういう言葉を耳にしました。」

 そして彼は、プティー・バンキエ街の壁の後ろで、長髪の男と髯(ひげ)の男とが雪の中で話していたことを、警視に語った。

 警視はつぶやいた。

「髪の長い男はブリュジョンに違いない。髯のある方は、ドゥミ・リヤール一名ドゥー・ミリヤールに違いない。」

 彼はまた眼瞼(まぶた)を下げて、考え込んだ。

「その爺(と)っつぁんというのも、およそ見当はついてる。ああマントを焦がしてしまった。いつもストーブに火を入れすぎるんだ。五十・五十二番地と。もとのゴルボーの持ち家だな。」

 それから彼はマリユスをながめた。

「君が見たのは、その髯(ひげ)の男と髪の長い男きりかね。」

「それとパンショーです。」

「その辺をぶらついてるお洒落(しゃれ)の小男を見なかったかね。」

「見ません。」

「では植物園にいる象のような大男は?」

「見ません。」

「では昔の手品師のような様子をした悪者は?」

「見ません。」

「四番目に……いやこいつはだれの目にもはいらない、仲間も手下も使われてる奴(やつ)も、彼を見たことがないんだから、君が見つけなかったからって怪しむに足りん。」

「見ません。いったいそいつらは何者ですか。」とマリユスは尋ねた。

 警視は言った。

「その上まだ奴らの出る時ではないからな。」

 彼はまたちょっと口をつぐんだが、やがて言った。

「五十・五十二番地と。家は知ってる。中に隠れようとすれば、役者どもにきっと見つかる。そうすればただ芝居をやらずに逃げるばかりだ。どうも皆はにかみやばかりで、見物人をいやがるからな。そりゃあいかん、いかん。少し奴らに歌わしたり踊らしたりしたいんだがな。」

 そんな独語を言い終わって、彼はマリユスの方へ向き、じっとその顔を見ながら尋ねた。

「君はこわいかね。」

「何がです?」とマリユスは言った。

「その男どもが。」

「まああなたに対してと同じくらいなものです。」とマリユスはぶしつけに答えた。その警官が自分に向かってぞんざいな言葉ばかり使ってるのを、彼はようやく気づき初めていた。

 警視はなおじっとマリユスを見つめ、一種のおごそかな調子で言った。

「君はなかなか勇気のあるらしい正直者らしい口のきき方をする。勇気は罪悪を恐れず、正直は官憲を恐れずだ。」

 マリユスはその言葉をさえぎった。

「それはとにかく、どうなさるつもりです。」

 警視はただこう答えた。

「あの家に室(へや)を借りてる者は皆、夜分に帰ってゆくための合い鍵(かぎ)を持っている。君も一つ持ってるはずだね。」

「ええ。」とマリユスは言った。

「今そこに持ってるかね。」

「ええ。」

「それを私(わし)にくれ。」と警視は言った。

 マリユスはチョッキの隠しから鍵を取って、それを警視に渡し、そして言い添えた。

「ちょっと申しておきますが、人数を引き連れてこられなければいけません。」

 警視はマリユスに一瞥(いちべつ)を与えた。ヴォルテールがもし田舎出(いなかで)のアカデミー会員から音韻の注意でも受けたら、やはりそんな一瞥(いちべつ)を与えたことだろう。そして警視は、太い両手をマントの大きな両のポケットにずぶりとつっ込み、普通は拳骨(げんこつ)と言わるる鋼鉄の小さなピストルを二つ取り出した。彼はそれをマリユスに差し出しながら、口早に強く言った。

「これを持って、家に帰って、室(へや)に隠れていたまえ。不在らしく見せかけなくちゃいかん。二つとも弾(たま)がこもってる。一梃(いっちょう)に二発ずつだ。よく気をつけて見ているんだ。壁に穴があると言ったね。奴(やつ)らがやってきたら、しばらく勝手にさしておくがいい。そしてここだと思ったら、手を下す時だと思ったら、ピストルを打つんだ。早すぎてはいかん。それからは私(わし)の仕事だ。ピストルを打つのは、空へでも、天井へでも、どこでもかまわん。ただ早くしすぎないことだ。いよいよ仕事が初まるまで待つんだ。君は弁護士と言ったね、それくらいのことはわかってるだろう。」

 マリユスは二梃のピストルを取って、上衣のわきのポケットの中に入れた。

「それじゃふくらんで外から見える。」と警視は言った。「それよりズボンの両方の隠しに入れるがいい。」

 マリユスはピストルを各、ズボンの両の隠しに入れた。

「もうこれで一刻もぐずぐずしておれない。」と警視は言った。「今何時(なんじ)だ? 二時半か。それは七時だったな。」

「六時です。」とマリユスは言った。

「まだ充分時間はある、が余るほどはない。」と警視は言った。「今言ったことを少しでも忘れてはいかん。ぽーんとピストルを一つ打つんだぞ。」

「大丈夫です。」とマリユスは答えた。

 そしてマリユスが出て行こうとして扉(とびら)のとっ手に手をかけた時、警視は彼に呼びかけた。

「それから、それまでに何か私(わし)に用ができたら、ここに自分で来るか使いをよこすかしたまえ、警視のジャヴェルと言ってくればわかる。」

     十五 ジョンドレット買い物をなす

 それから少したって、三時ごろ、クールフェーラックがボシュエと連れ立って、偶然ムーフタール街を通った。雪はますます降りしきって、空間を満たしていた。ボシュエはクールフェーラックにこんなことを言っていた。

「こう綿をちぎったような雪が落ちて来るのを見ると、何だか天には白い蝶(ちょう)の疫病でも流行してるらしく思えるね。」

 と突然ボシュエは、変な様子をして市門の方へ街路を歩いて行くマリユスの姿を認めた。

「おや、」とボシュエは叫んだ、「マリユスだ。」

「僕も知ってる。」とクールフェーラックは言った。「だが言葉をかけるのはよそうや。」

「なぜだ。」

「気を取られてるんだ。」

「何に?」

「あの顔つきを見たらわかるじゃないか。」

「顔つきって?」

「だれかの跡をつけてるような様子だ。」

「なるほどそうだ。」とボシュエは言った。

「まああの目つきを見てみたまい。」とクールフェーラックはまた言った。

「だがいったいだれの跡をつけてるんだろう。」

「いずれかわいい者に違いない。夢中になってるんだ。」

「だがね、」とボシュエは注意した、「街路にはかわいいのかの字も見えないじゃないか。女なんてひとりもいやしない。」

 クールフェーラックはよくながめた、そして叫んだ。

「男の跡をつけてるんだ。」

 実際、後ろからでも灰色の髯(ひげ)がよく見えてるひとりの男が帽子をかぶって、マリユスから二十歩ばかり先に歩いていた。

 その男は大きすぎて身体によく合わないま新しい外套(がいとう)をつけ、泥にまみれてるぼろぼろになったひどいズボンをはいていた。

 ボシュエは笑い出した。

「あの男はいったい何だい。」

「あれか、」とクールフェーラックは言った、「まあ詩人だね。詩人って奴(やつ)はよく、兎(うさぎ)の皮売りみたいなズボンをはき、上院議員みたいな外套を着てるものだ。」

「マリユスがどこへ行くか見てやろうよ、」とボシュエは言った、「あの男がどこへ行くか見てやろうよ。ふたりの跡をつけてやろう、おい。」

「ボシュエ!」とクールフェーラックは叫んだ、「エーグル・ド・モー(モーの鷲(わし)、なるほど君はすてきな獣だね。男の跡をつけてる男を、また追っかけて行こうというんだからな。」

 それで彼らは道を引き返した。

 マリユスは実際、ムーフタール街をジョンドレットが通るのを見て、その様子をうかがっていたのである。

 ジョンドレットは後ろから既に目をつけられていようとは夢にも思わないで、まっすぐに歩いて行った。

 彼はムーフタール街を離れた。マリユスはグラシユーズ街の最も下等な家の一つに彼がはいるのを見た。十五分ばかりして彼はそこから出てきて、それからまたムーフタール街に戻ってきた。当時ピエール・ロンバール街の角(かど)にあった金物屋に彼は足を止めた。それからしばらくしてマリユスは、彼がその店から出て来るのを見た。彼は白木の柄のついた冷やりとするような大きな鑿(のみ)を、外套(がいとう)の下に隠し持っていた。プティー・ジャンティイー街の端まで行って彼は左に曲がり、足早にプティー・バンキエ街へはいった。日は暮れようとしていた。ちょっとやんだ雪はまた降り出していた。マリユスは同じプティー・バンキエ街の角に身を潜めた。街路にはやはり人の姿も見えなかった。マリユスはジョンドレットの跡をつけてその街路に出るのをやめた。それはマリユスにとって幸いだった。なぜなら、彼が先刻長髪の男と髯(ひげ)の男との話を聞いた低い壁の所まで行くと、ジョンドレットはふり返ってながめ、跡をつけてる者も見てる者もないのを確かめ、それから壁をまたぎ、姿を消してしまったのである。

 その壁に囲まれた荒れ地は、あまり評判のよくない古い貸し馬車屋の後庭に続いていた。その馬車屋はかつて破産したことがあったが、まだ小屋の中には四、五台の古馬車を持っていた。

 ジョンドレットの不在の間に帰ってゆく方が悧巧(りこう)だとマリユスは考えた。その上もうだいぶ遅くもなっていた。毎晩早くから、ビュルゴン婆さんは町に皿洗いに出かけて、いつも戸を閉ざすことにしていたので、家の戸はきまって暮れ方には締まりがしてあった。ところがマリユスは鍵(かぎ)を警視に渡してしまった。それで急いで帰る必要があった。

 夕方になっていた。夜は刻々に迫っていた。地平線の上にもまた広い大空のうちにも、太陽に照らされた所はただ一カ所あるきりだった、すなわち月が。

 月はサルペートリエール救済院の低い丸屋根のかなたに、赤く上りかけていた。

 マリユスは大またに歩いて五十・五十二番地へ帰ってきた。その時まだ戸は開いていた。彼は爪先だって階段を上り、廊下の壁伝いに自分の室(へや)にすべり込んだ。読者の記憶するとおり、廊下の両側は屋根部屋(やねべや)で、その頃皆あいていて貸し間になっていた。ビュルゴン婆さんはいつもそれらの扉(とびら)をあけ放しにしていた。マリユスはそれらの扉の一つの前を通る時、その空室の中にじっと動かない四つの人の顔が、軒窓から落ちる昼のなごりの明るみにぼんやりほの白く浮き出してるのを、ちらと見たような気がした。しかし彼は自分の方で人に見られたくなかったので、それを見届けようともしなかった。彼はついに、人に見られもせずまた音も立てずに自分の室にはいり込んだ。ちょうど危うい時だった。ビュルゴン婆さんが出かけて家の戸がしまる音を、それから間もなく彼は聞いた。

     十六 一八三二年流行のイギリス調の小唄(こうた)

 マリユスは寝台に腰掛けた。五時半ごろだった。事の起こるまでにはただ三十分を余すのみだった。あたかも暗闇(くらやみ)の中で時計の秒を刻む音をきくように、彼は自分の動脈の音を聞いた。そしてひそかに到来しつつある二つの事がらを思いやった、一方から歩を進めつつある罪悪と他方からきつつある法権とを。彼は恐れてはいなかった、しかしまさに起こらんとする事を考えてはある戦慄(せんりつ)を禁じ得なかった。意外のできごとに突然襲われた人がよく感ずるように彼にもその一日はまったく夢のように思われた。そして何か悪夢につかれてるのでないことを確かめるために、彼はズボンの隠しの中で鋼鉄の二梃のピストルの冷ややかさに手を触れてみなければならなかった。

 雪はもうやんでいた。月はしだいに冴(さ)えてきて靄(もや)から脱し、その光は地に積った雪の白い反映と交じって、室(へや)の中に暁のような明るみを与えた。

 ジョンドレットの室の中には明りがあった。マリユスは壁の穴が血のように赤い光に輝いてるのを見た。

 その光はどうしても蝋燭(ろうそく)のものらしくは思えなかった。そしてまたジョンドレットの室の中には、何ら動くものもなく、だれも身動きもせず口もきかず、呼吸の音さえ聞こえず、氷のような深い沈黙に満たされていて、もしその光がなかったら、墓場かとも思われるほどだった。

 マリユスは静かに靴(くつ)をぬいで、それを寝台の下に押し込んだ。

 数分過ぎ去った。マリユスは表の戸がぎーと開く音を聞いた。重い早い足音が階段を上ってき、廊下を通っていって、それから隣の室(へや)の掛け金が音高くはずされた。それはジョンドレットが帰ってきたのだった。

 すぐに多くの声が聞こえ出した。一家の者は皆室の中にいた。ちょうど狼(おおかみ)の子が親狼の不在中黙ってるように、一家の者は主人の不在中黙っていたまでである。

「俺(おれ)だ。」と主人は言った。

「お帰んなさい。」と娘らは変な声を立てた。

「どうだったね?」と母親は言った。

「この上なしだ。」とジョンドレットは答えた。「だがばかに足が冷てえ。うむ、なるほどお前はうまくおめかしをしたな。向こうに安心させなけりゃいけねえからな。」

「すっかり出かけるばかりだよ。」

「言っといた事を忘れちゃいけねえ。うまくやるんだぜ。」

「大丈夫だよ。」

「と言うのはな……。」とジョンドレットは言いかけて、皆まで言わずにしまった。

 マリユスは彼が何か重いものをテーブルの上に置く音を聞いた。たぶん買ってきた鑿(のみ)ででもあったろう。

「ところで、」とジョンドレットは言った、「みな何か食ったか。」

「ああ、」と母親は言った、「大きい馬鈴薯(じゃがいも)を三つと塩を少し。ちょうど火があるから焼いたんだよ。」

「よし、」とジョンドレットは言った、「明日(あす)はごちそうを食いに連れてってやる。家鴨(あひる)の料理とそれからいろいろなものがついてさ、まるでシャール十世の御殿の晩餐(ばんさん)のようにな。すっかりよくなるんだ。」

 それから声を低めて彼はつけ加えた。

「鼠罠(ねずみわな)の口はあいてるし、猫(ねこ)どもももうきている。」

 そしてなおいっそう声を低めてまた言った。

「それを火の中に入れて置け。」

 マリユスは火箸(ひばし)かまたは何か鉄器で炭をかき回す音を聞いた。ジョンドレットは続けて言った。

「音のしねえように扉(とびら)の肱金(ひじがね)には蝋(ろう)を引いて置いたか。」

「ああ。」と母親は答えた。

「今何時だ。」

「もうすぐに六時だろう。サン・メダールでさっき半(はん)が打ったんだから。」

「よし。」とジョンドレットは言った。「娘どもは見張りをしなくちゃいけねえ。おい、ふたりともこっちへきてよく聞きな。」

 しばらく何かささやく声がした。

 ジョンドレットはまた高い声をあげた。

「ビュルゴン婆さんは出て行ったか。」

「ああ。」と母親は言った。

「隣にもだれもいねえんだな。」

「一日留守だったよ、それに今は食事の時分じゃないか。」

「確かだね。」

「確かだよ。」

「まあとにかく、」とジョンドレットは言った、「いるかどうか見に行ったってさしつかえねえ。おい娘、蝋燭(ろうそく)を持って見てきな。」

 マリユスは四つばいになって、こっそり寝台の下にはいり込んだ。

 彼が隠れ終わるか終わらないうちに、すぐ扉(とびら)のすき間から光が見えた。

「お父さん、」という声がした、「出かけてるよ。」

 それは姉娘の声だった。

「中にはいったのか。」と父親が尋ねた。

「いいえ、」と娘は答えた、「でも鍵(かぎ)が扉についてるから、きっと出かけたんだよ。」

 父親は叫んだ。

「でもまあはいってみろ。」

 扉が開いた。マリユスはジョンドレットの姉娘が手に蝋燭を持ってはいって来るのを見た。その様子は朝と少しも変わっていなかったが、ただ蝋燭の光で見るといっそう恐ろしく見えた。

 彼女は寝台の方へまっすぐに進んできた。マリユスはその間言葉にもつくし難いほど心配した。しかし彼女がやってきたのは、寝台の側に壁に掛かってる鏡の所へであった。彼女は爪先で伸び上がって、鏡の中をのぞいた。隣の室には鉄の道具を動かす音が聞こえていた。

 娘は手の平で髪をなでつけ、鏡に向かってほほえみながら、その気味の悪いつぶれた声で歌った。

われらの恋は七日なりけり。

ああたのしみのいかに短き、

八日の愛も難かりければ!

恋は永(とこし)えなるべきに、

恋は永えなるべきに!

 その間マリユスは震えていた。そして自分の荒い息使いはきっと彼女の耳につくに違いないという気がした。

 娘は窓の方へ行って、外を見ながら、いつもの半ば気ちがいじみた様子で声高に言った。

「パリーも白いシャツをつけた所は何て醜いだろう!」

 そしてまた鏡の所へ帰ってきて、自分の顔をまっ正面から映してみたり少し横向きに映してみたりして、様子をつくっていた。

「おい、」と父親が叫んだ、「何をしてるんだ。」

「寝台の下や道具の下を見てるのよ。」と彼女はやはり髪を直しながら答えた。「だれもいやしないわ。」

「ばか!」と父親はどなった。「早く帰ってこい。ぐずぐずしてるんじゃねえ。」

「今行くよ、今すぐ。」と彼女は言った。「ほんとにちょっとの暇もありゃあしない。」

 そして小声に歌った。

誉れを求めて君去りゆかば、

何処(いずこ)までもと我追いゆかん。

 彼女は最後に鏡をじろりと見て、扉(とびら)を後ろにしめながら出て行った。

 しばらくするとマリユスは、廊下にふたりの娘の跣足(はだし)の足音を聞いた。そしてまた、彼女らに呼びかけてるジョンドレットの声を聞いた。

「よく気をつけるんだぞ。ひとりは市門の方で、ひとりはプティー・バンキエ街の角(かど)だ。ちょっとでも家の戸口から目を離してはいけねえ。何か見えたらすぐにやってこい、大急ぎで飛んでくるんだ。はいる時の鍵(かぎ)は持ってるね。」

 姉の方はつぶやいた。

「雪の中に跣足で番をさせるなんて!」

「明日はまっかな絹靴(きぬぐつ)を買ってやらあね。」と父親は言った。

 ふたりの娘は階段をおりていった。そしてすぐに下の戸のしまる響きが聞こえたのでみると、ふたりは外に出て行ったらしい。

 家の中にいるのはもう、マリユスとジョンドレット夫婦ばかりだった。それからまたあるいは、空室の扉の向こうの薄暗がりの中にマリユスがちらと見た怪しい人々ばかりだった。

     十七 マリユスが与えし五フランの用途

 マリユスは今や例の観測台の位置につくべき時だと思った。そして青年の身軽さをもってすぐに壁の穴の所へ立った。

 彼はのぞいた。

 ジョンドレットの部屋の内部は不思議な光景を呈していた。マリユスが先刻見た怪しい光の源もわかった。緑青(ろくしょう)のついた燭台(しょくだい)に一本の蝋燭(ろうそく)がともっていたが、室(へや)を実際に照らしてるのはそれではなかった。暖炉の中に置かれて炭がいっぱいおこってるかなり大きな鉄火ばちから、室の中全体が照り返されてるようだった。それはジョンドレットの女房が午前から用意しておいたものである。炭は盛んにおこって、火鉢(ひばち)はまっかになっており、青い炎が立ちのぼって、火の中に差し込まれて赤くなってる鑿(のみ)の形をはっきり浮き出さしていた。その鑿はジョンドレットがピエール・ロンバール街で買ったものである。扉(とびら)のそばの片すみには、何か特別の用に当てるためのものらしい品が二処(ふたところ)に積んであって、一つは鉄の類らしく、一つは繩(なわ)の類らしかった。すべてそういうありさまは、何が計画されてるかを知らない者には、至って気味悪くも感ぜられ、また同時に何でもないことのようにも感ぜられたろう。そして火に照らされてる室の中は、地獄の入り口というよりもむしろ鉄工場のようだった。しかしその光の中にいるジョンドレットは鍛冶屋(かじや)というよりもむしろ悪魔のような様子をしていた。

 火鉢の焼けている熱さは非常なもので、テーブルの上の蝋燭もその方面が溶けかかって、斜めに減っていきつつあった。ディオゲネスが凶賊カルトゥーシュに変じたとしたらそれにもふさわしいような、銅製の古い龕燈(がんどう)が一つ、暖炉の上に置いてあった。

 火鉢はほとんど消えた燃えさしのそばに炉の中に置いてあったので、炭火のガスは暖炉の煙筒の中に立ちのぼっていて、室(へや)には何らのにおいもひろがっていなかった。

 月は窓の四枚の板ガラスからさし込んで、炎の立ってるまっかな屋根部屋(やねべや)の中にほの白い光を送っていた。そして実行の刹那(せつな)にもなお夢想家であるマリユスの詩的な精神には、それがあたかも地上の醜い幻に交じった天の思想の一片であるかのように思われた。

 こわれた一枚の窓ガラスから空気が流れ込んできて、いっそうよく炭火のにおいを散らし、火鉢(ひばち)のあるのを隠していた。

 ジョンドレットの巣窟(そうくつ)は、ゴルボー屋敷について前に述べておいた所でわかるとおり、凶猛暗黒な行為の場所となり罪悪を隠蔽(いんぺい)する場所となるのに、いかにもふさわしかった。それはパリーのうちでの、最も寂しい大通りの、最も孤立した家の最も奥深い室であった。もし待ち伏せなどということが人の世になかったとしても、そこにおればきっとそれが発明されたろうと思われるほどだった。

 家の全奥行きと多くの空室とが、その巣窟を大通りからへだてていた。そしてそこについてる唯一の窓は、壁と柵(さく)とに囲まれた広い荒れ地の方に向いていた。

 ジョンドレットはパイプに火をつけ、藁(わら)のぬけた椅子(いす)の上にすわって、煙草(たばこ)を吹かしていた。女房は低い声で彼に何やら言っていた。

 もしマリユスがクールフェーラックであったなら、言い換えれば絶えずあらゆる機会に笑うような人であったなら、彼はジョンドレットの女房を見た時必ずふきだしていたに違いない。シャール十世の即位式に列した武官の帽子にかなり似寄った羽のついた黒い帽をかぶり、メリヤスの裳衣の上に格子縞(こうしじま)の大きな肩掛けを引っかけ、その朝娘がいやがった男の靴(くつ)をはいていた。そういう服装が先刻ジョンドレットをして感嘆せしめたのである。「うむ、[#「うむ、」は底本では「うむ、」]なるほどお前はうまくおめかしをしたな。向こうに安心させなけりゃいけねえからな。」

 ジョンドレットはルブラン氏からもらった少し大きすぎる新しい外套(がいとう)を相変わらず着ていた。そしてその外套とズボンとが妙な対照をなして、クールフェーラックに詩人だろうという考えを起こさした時と同じ様子だった。

 突然ジョンドレットは声を高めた。

「ところでちょっと思い出したが、こんな天気では馬車で来るにきまってる。龕灯(がんどう)をつけて、それを持って下に行け。下の戸の後ろに立っているんだ。馬車の止まる音を聞いたら、すぐにあけてやれ。はいってきたら、階段と廊下とで明りを見せてやるがいい。そして奴(やつ)がここにはいる間に、お前は急いでおりてゆき、御者に金を払い、馬車を返してしまえ。」

「その金は?」と女房は尋ねた。

 ジョンドレットはズボンの隠しを探って、五フラン取り出して渡した。

「これはどうしたんだよ。」と女房は叫んだ。

 ジョンドレットは堂々と答えた。

「それは今朝(けさ)隣の先生がくれたものだ。」

 そして彼はつけ加えた。

「ねえ、椅子(いす)が二ついるだろうね。」

「どうするのに?」

「すわるのにさ。」

 その時マリユスは、女房が事もなげに次のような答えをしたのを聞いて、ぞっと背中に戦慄(せんりつ)を覚えた。

「それじゃあ、隣のを持ってこよう。」

 そして彼女はすばしこく扉(とびら)をあけて廊下に出た。

 マリユスにはとうてい、戸棚(とだな)からおりて寝台の所へ行きその下に隠れるだけの時間がなかった。

「蝋燭(ろうそく)を持ってゆけ。」とジョンドレットは叫んだ。

「いいよ。」と女房は言った。「かえって邪魔だよ、椅子を二つ持たなくちゃならないからね。それに月の光が明るいよ。」

 マリユスは女房の重々しい手が暗がりに扉の鍵(かぎ)を探ってる音を聞いた。扉は開いた。彼はその場所に、恐れと驚きとのために釘付(くぎづ)けにされたように立ちすくんだ。

 ジョンドレットの女房ははいってきた。

 軒窓から一条の月の光がさして、室(へや)の中のやみを二つに分けていた。その一方のやみは、マリユスがよりかかってる壁の方をすっかりおおっていたので、彼の姿はその中に隠されていた。

 女房は目を上げたが、マリユスの姿に気づかなかった。そしてマリユスが持っていた二つきりの椅子を二つとも取って、室を出てゆき、後ろにがたりと扉をしめていった。

 彼女は部屋に戻った。

「さあ椅子(いす)を二つ持ってきたよ。」

「そこで、向こうに龕灯(がんどう)がある。」と亭主は言った。「早くおりて行け。」

 女房は急いでその言葉に従い、ジョンドレットただひとり室(へや)の中に残った。

 彼はテーブルの両方に二つの椅子を置き、炭火の中に鑿(のみ)を置きかえ、暖炉の前に古屏風(ふるびょうぶ)を立てて火鉢(ひばち)を隠し、それから繩(なわ)の積んである片すみに行き、そこに何か調べるようなふうに身をかがめた。その時マリユスは、今まで何かわからなかったその繩みたいなものは、実は木の桟と引っかけるための二つの鈎(かぎ)とがついてるきわめて巧みにできた繩梯子(なわばしご)だということがわかった。

 その繩梯子と、それから扉(とびら)の後ろに積んだ鉄屑(てつくず)の中に交じってる荒々しい道具、まったくの鉄棒なんかは、その朝ジョンドレットの室の中になかったもので、確かにその午後マリユスの不在中に持ち込まれたものに相違なかった。

「あれはみな刃物師の道具だな。」とマリユスは考えた。

 もしマリユスに今少しその方面の知識があったら、彼は刃物師の道具だと思ったもののうちに種々なものを認むることができたろう、すなわち、錠前を破ったり扉をこじあけたりする道具や、切ったり断ち割ったりする道具などで、盗賊仲間でちびおよびばさと言わるる二種の恐ろしい道具だった。

 二つの椅子をそなえたテーブルと暖炉とは、ちょうどマリユスの正面になっていた。火ばちが隠されたので、室はもう蝋燭(ろうそく)で照らされてるばかりだった。そしてテーブルの上や暖炉の上のちょっとした物でさえ、大きな影を投じていた。口の欠けた水差しは、壁のほとんど半分に影を投じていた。室の中には何とも言えぬ恐ろしいぞっとするような静けさがたたえていた。今にも何か非常なことが起こりそうだった。

 ジョンドレットはよほど何かに気を取られてると見えて、パイプの火の消えたのも知らずにいたが、それからまた立ってきて椅子(いす)に腰掛けた。蝋燭(ろうそく)の光で、顔の荒々しい狡猾(こうかつ)そうな角(かど)張った所が、いっそうよく目立った。そして眉(まゆ)をひそめたり急に右手を開いたりして、あたかもその陰惨な内心で最後にも一度ひとりで問いひとりで答えてるかのようだった。そういう自分ひとりの問答のうちに、彼は急にテーブルの引き出しを開き、中に隠してあった料理用の長いナイフを取り出し、指の爪を切ってみてその刃を試(ため)した。それがすむと、ナイフをまた引き出しにしまって、それをしめた。

 マリユスの方では、ズボンの右の隠しにあるピストルをつかみ、それを引き出して引き金を上げた。

 引き金を上げる時ピストルは、鋭いはっきりした小さな音を出した。

 ジョンドレットはぎくりとして、椅子の上に半ば身を起こした。

「だれだ?」と彼は叫んだ。

 マリユスは息をこらした。ジョンドレットはちょっと耳を澄ましたが、やがて笑い出しながら言った。

「なんだばかな。壁板の音だ。」

 マリユスはピストルを手に握りしめた。

     十八 向かい合える二個の椅子(いす)

 突然遠い単調な鐘の響きがガラスを震わした。サン・メダール会堂で六時を報じ初めたのである。

 ジョンドレットはその一響きごとに頭を動かして数えた。六つの響きを聞いた時、指先で蝋燭(ろうそく)の芯(しん)をつまんだ。

 それから彼は室(へや)の中を歩き出し、廊下の方に耳を傾け、また歩き出し、また耳を傾けた。「なにきさえすれば!」と彼はつぶやいた。それからまた椅子の所へ戻った。

 彼がそこにすわるかすわらないうちに、扉(とびら)が開いた。

 ジョンドレットの女房がそれを開いたのだった。彼女は廊下に立って、ぞっとするような愛想を顔に浮かべていた。龕灯(がんどう)の穴の一つからもれる光がその顔を下から照らしていた。

「どうぞ旦那様(だんなさま)、おはいり下さいまし。」と彼女は言った。

「おはいり下さいませ、御親切な旦那様。」とジョンドレットは急いで立ち上がって言った。

 ルブラン氏が現われた。

 彼はいかにも朗らかな様子をしていて、妙に尊く思われた。

 彼はテーブルの上にルイ金貨を四個(八十フラン)置いた。

「ファバントゥー君、」と彼は言った、「これは君の家賃と当座の入用のためのものです。その他のことは御相談するとしましょう。」

「神様があなたにむくいて下さいますように、御慈悲深い旦那様(だんなさま)。」とジョンドレットは言った。

 それから彼は急いで女房に近寄った。

「馬車を返せ。」

 亭主がルブラン氏にお世辞をあびせかけ椅子(いす)を進めてる間に、女房はそっとぬけ出した。そして間もなく戻ってきて亭主の耳にささやいた。

「すんだよ。」

 朝から降り続いていた雪は深く積っていたので、馬車のきたのも聞こえなければ、また馬車が帰ってゆくのも聞こえなかった。

 そのうちにルブラン氏は腰を掛けた。

 ジョンドレットはルブラン氏と向き合った椅子に腰をおろした。

 さてこれから起こるべき光景をよく理解せんために、読者は次のことを頭に入れておいていただきたい。凍りつくような寒い夜、雪が積って月光の下に広い経帷子(きょうかたびら)のように白く横たわって寂莫(せきばく)たるサルペートリエールの一郭、そのすごい大通りと黒い楡(にれ)の並み木の長い列とを所々赤く照らしてる街灯の光、ひとりの通行人もなさそうな周囲四半里ばかりの間、その静寂と物すごさと暗夜とのまんなかにあるゴルボー屋敷、その屋敷の中に、その寂莫たる一郭の中に、その暗黒の中にあって、ただ一本の蝋燭(ろうそく)に照らされてるジョンドレットの広い屋根部屋(やねべや)、その部屋の中に向き合ってテーブルについてるふたりの男、一人は落ち着いた静かなルブラン氏、ひとりはほほえんでる恐ろしいジョンドレット、また片すみには牝(めす)の狼(おおかみ)のようなジョンドッレットの女房、それから壁の後ろには、人に見えない所にたたずんで、一語も聞きもらさず一挙動も見落とすまいとして、目を見張りピストルを握りしめてるマリユス。

 マリユスは一種不安な胸騒ぎを覚えたが、何らの恐怖をも感じなかった。彼はピストルの柄を握りしめて心を落ち着けた。「いつでも好きな時にあの悪党を押さえつけてやろう、」と彼は考えていた。

 どこか近くに警官が潜んでいて、約束の合い図を待って今にも腕を差し伸ばそうとしてるもののように、彼は感じていた。

 その上、ジョンドレットとルブラン氏とのその恐しい会合から、自分の知りたく思ってることについて何かの手掛かりが得られはすまいかと、彼は望んでいたのである。

     十九 気にかかる暗きすみ

 ルブラン氏は腰をおろすや否や、寝床の方を見やった。だれも寝てはいなかった。

「けがをしたかわいそうな娘さんはいかがです。」と彼は尋ねた。

「よくありません。」とジョンドレットは心配そうなまた感謝してるような微笑をして答えた。「大変悪うございます。それで姉に連れられて、ブールブ施療院へ繃帯(ほうたい)してもらいに行きました。間もなくお目にかかるでございましょう、すぐに帰って参りますから。」

「御家内はだいぶおよろしいようですね。」とルブラン氏は女房の変な服装をじろりと見やって言った。彼女はその時、既に出口を扼(やく)してるかのようにルブラン氏と扉(とびら)との間に立って、威嚇(いかく)するようなまたほとんど戦わんとしてるような態度で彼を見守っていた。

「家内はもう死にかかっているのでございます。」とジョンドレットは言った。「ですが旦那様(だんなさま)、非常に元気がございましてな、女というよりはまったく牛とでも申したいくらいで。」

 女房はその賛辞に動かされて、媚(こ)びられた怪物が嬌態(しな)を作るような様子で言った。

「あなたはいつもほんとに親切でね、ジョンドレット。」

「ジョンドレットですって。」とルブラン氏は言った。「私はまたファバントゥー君というのだと思っていましたが。」

「ファバントゥー一名ジョンドレットでありまして、」と亭主は急いで言った、「俳優の雅号でございます。」

 そしてルブラン氏に気づかれぬようちょっと肩をそびやかして女房をたしなめ、力をこめた媚びるような調子で言い進んだ。

「いや、この家内と私とは、いつも仲よく暮らしていますんで、そういうことでもなかった日には、もう世に何の楽しみもございません。私どもはそれほど不仕合わせなので、旦那様。腕はあっても仕事はありませず、元気はあっても働く所がありません。いったい政府はどうしているのでしょう。私は決して旦那、過激党ではございません、騒ぎを起こす者ではございません、政府に楯(たて)をつく者ではございません。ですが私がもし大臣にでもなりましたら、断じてこんな状態にはして置きません。まあたとえば、私は娘どもに紙細工の職業でも覚えさしたかったのです。なに職業を? とおっしゃるのですか。さようです、職業で、ほんのちょっとした職業で、パンを得るだけのものでございます。何という落ちぶれかたでしょう。旦那様。昔の姿と比べては何という零落でございましょう。ほんとに、盛んな時のものは何一つ残ってはいません。ただ一つだけで何にも残ってはいません。ただ一つと申しますのは、ごく大事にしています画面ですが、それをも手離そうというのでございます。何しろ食っては行かなくちゃなりませんので、まったく食ってだけはゆかなくちゃなりませんので。」

 ジョンドレットがそういうふうに、考え深い狡猾(こうかつ)そうな顔の表情を保ちながらも表面上何ら前後の考えもなさそうなふうでしゃべっているうちに、マリユスはふと目をあげて、今まで見なかったひとりの男を室(へや)の奥に認めた。その男は、扉(とびら)の音も立てずに静かにはいってきたのである。紫色の毛編みのチョッキを着ていたが、それもすり切れよごれ裂けた古いもので、折り目の所には皆穴があいていた。それからまた、綿ビロードの大きなズボンをはき、足には木靴(きぐつ)をつっかけ、シャツも着ず、首筋を出し、刺青(いれずみ)した両腕を出し、顔はまっ黒に塗られていた。彼は黙って腕を組んだまま、近い方の寝台に腰をおろしていたが、ちょうどジョンドレットの女房の後ろになっていたので、ただぼんやりその姿が見えるきりだった。

 注意を伝える一種の磁石的な本能から、ルブラン氏はマリユスとほとんど同時にその方を顧みた。彼は驚きの様子を自らおさえることができなかった。そしてそれはジョンドレットの目をのがれなかった。

「ああなるほど、外套(がいとう)でございますか。」とジョンドレットは叫んで、機嫌(きげん)を取るようなふうでそのボタンをかけた。「私によく合います。まったくよく合います。」

「あの人はだれです。」とルブラン氏は言った。

「あれでございますか。」とジョンドレットは言った。

「隣の男でありまして、どうか決しておかまいなく。」

 その隣の男というのは、不思議な顔つきをしていた。けれども、そのサン・マルソー郭外には化学製造工場がたくさんあって、そこの職工は多くまっ黒な顔をしてることがあった。ルブラン氏の様子は、静かに大胆に安心しきってるがようだった。彼は言った。

「で、何のお話でしたかな、ファバントゥー君。」

「話と申しますのは、実は旦那様(だんなさま)。」とジョンドレットは言いながら、テーブルの上に肱(ひじ)をつき蟒蛇(うわばみ)のようなじっとすわったやさしい目でルブラン氏をながめた。「私は画面を一つ売り払いたいと申しかけた所でございましたが。」

 扉(とびら)の所で軽い音がした。第二の男がはいってきて、ジョンドレットの女房の後ろに寝台に腰掛けた。第一の男と同じように、両腕を出し、インキか煤(すす)かで顔を塗りつぶしていた。

 その男も文字どおりに室(へや)にすべり込んできたのであるが、ルブラン氏の注意をのがれることはできなかった。

「どうかお気になさいませんように。」とジョンドレットは言った。「みんなこの家にいるものでございます。ところで今の話でございますが、私に残っていますのは一枚の画面きりで、それも貴重なものでして……。まあ旦那、ごらん下さいませ。」

 彼は立ち上がって、壁の所へ行った。その下の方に、前に述べた鏡板が置いてあった。彼はそれを裏返して、やはり壁に立てかけた。それはなるほど何か画面らしいもので、わずかに蝋燭(ろうそく)の光で照らされていた。マリユスはジョンドレットが自分とその画面との間に立っているので、何が描いてあるかはっきり見て取ることができなかった。しかしちょっと見た所、粗末な書きなぐりのものらしく、その主要人物らしいのには、見世物の看板か屏風(びょうぶ)の絵かに見るようななまなましい色彩が施してあった。

「それは何ですか。」とルブラン氏は尋ねた。

 ジョンドレットは勢いよく言った。

「大家の絵でして、非常な価値(ねうち)のあるもので、旦那様(だんなさま)。私はふたりの娘と同じぐらいにこれを大事にしていまして、種々の思い出がこもっているのでございます。ですが今申しましたとおり、まったくのところ、ごく困っているものですから、これを売ってしまいたいと存じまして……。」

 偶然にか、それとも多少不安を感じ初めたのか、ルブラン氏はその画面をながめながらもちらと室(へや)のすみを見やった。そこには今や四人の男がいた。三人は寝台に腰掛け、ひとりは扉(とびら)の框(かまち)のそばに立っていた。四人とも腕をあらわにし、身動きもしないで、顔は黒く塗られていた。寝台に腰掛けてる三人のうちのひとりは、壁によりかかって目を閉じ、あたかも眠ってるかのようだった。その男はもう老人で、まっ黒な顔の上に白い髪があるありさまは何とも言えない不気味さだった。他のふたりはまだ若そうで、ひとりは髯(ひげ)をはやしており、ひとりは髪の毛を長くしていた。だれも靴(くつ)をはいていなかった。上靴をはいてない者は跣足(はだし)のままだった。

 ジョンドレットはルブラン氏の目がその男らの上にすえられてるのを認めた。

「みな親しい仲の者で、近所の者でございます。」と彼は言った。「顔を黒くしていますのは、炭の中で仕事をしているからでして、みな暖炉職工でございます。どうかお気になさらないで、旦那、まあ私のこの画面を買って下さいませ。どうか不幸をあわれんで下さいませ。高くとは申しません。がまあどれぐらいの価値(ねうち)だとおぼし召されますか。」

「だが、」とルブラン氏は言いかけて、ジョンドレットの顔をまともにじっとながめ、用心するようなふうであった、「それは何か旅籠屋(はたごや)の看板ですね。三フランぐらいはしますかな。」

 ジョンドレットは静かに答えた。

「紙入れをお持ち合わせでございましょうか。千エキュー(五千フラン)なら申し分ありませんが。」

 ルブラン氏はすっくと身を起こし、壁を背にして、急いで室(へや)の中を見回した。左手の窓の方にはジョンドレットがおり、右手の扉(とびら)の方にはその女房と四人の男とがいた。四人の男は身動きもしなければ、また彼を見てる様子さえもなかった。ジョンドレットはぼんやりした瞳(ひとみ)をして悲しそうな調子を張り上げ、泣くような声でまた話し出した。それでルブラン氏も今目の前におるこの男は貧乏のために気でも狂ったのではないかと思ったかも知れない。

「もしこの画面でもお買い下さらなければ、まったく旦那様(だんなさま)、」とジョンドレットは言った、「私はもう策の施しようもありませんで、川にでも身を投げるよりほか仕方がございません。私はふたりの娘に、合わせ紙の仕事を、お年玉用のボール箱をこしらえる仕事を習わせようと思っていますんです。それにはガラスが下に落ちないように向こうに板のついたテーブルだの、特別な炉だの、木と紙と布とに使い分けする強さの違ったそれぞれの糊(のり)を入れる三つに仕切ってある壺(つぼ)だの、それからまた、厚紙を切る截(た)ち包丁、形を取る型、鉄をうちつける金槌(かなづち)、ピンセット、その他いろんなものがいります。そしてそれでいくら取れるかと言えば、日に四スーだけでございます、それも十四時間働きづめでして。箱一つでき上がるには十三遍も細工人の手をくぐります。しかも紙はぬらさなければならないし、汚点(しみ)をつけてはいけないし、糊(のり)は熱くしておかなければならないし、まったくやりきれません。そして日に四スーです。それでまあどうして暮らしてゆけましょう。」

 そういうふうに語りながらジョンドレットは、彼を見守ってるルブラン氏の方を少しも顧みなかった。ルブラン氏の目はジョンドレットを見つめ、ジョンドレットの目は扉(とびら)を見つめていた。マリユスの熱心な注意はふたりの上に代わる代わる向けられた。ルブラン氏は自ら問うようなふうだった。「この男はばかなのかな?」ジョンドレットは冗漫と懇願とのあらゆる調子で二、三度くり返した。

「川にでも身を投げるよりほか、もう仕方がございません! 先日もそのつもりで、オーステルリッツ橋のわきを三段ほどおりてゆきました。」

 と突然、彼の鈍い瞳(ひとみ)は怪しい炎に輝き、小さな身体は伸び上がって恐ろしい様子になり、ルブラン氏の方へ一歩進み、そして雷のような声で彼は叫んだ。

「そんなことではないんだ! 貴様には俺(おれ)がわかるか?」

     二十 待ち伏せ

 ちょうどそれは、部屋(へや)の扉が突然開いて、青麻のだぶだぶの上衣を着、黒紙の仮面をつけた三人の男が見えた時だった。第一の男はやせていて、鉄のついた長い棒を持っていた。第二の男は巨人のような体躯(たいく)で、屠牛用(とぎゅうよう)の斧(おの)を頭を下にして柄のまんなかを握っていた。第三の男は肩幅が広く、第一の男ほどやせてもいなければ第二の男ほど太くもなくて、どこかの牢獄の戸から盗んででもきたようなばかに大きな鍵(かぎ)を握りしめていた。

 ジョンドレットはそれら三人の男が来るのを待っていたものらしい。そして棍棒(こんぼう)を持ったやせた男と彼との間に速い対話が初まった。

「すっかり用意はできてるか。」とジョンドレットは言った。

「できてる。」とやせた男は答えた。

「だがモンパルナスはどこにおる。」

「あの色役者は、立ち止まってお前の娘と話をしていた。」

「どっちの娘だ。」

「姉の方よ。」

「下に辻馬車(つじばしゃ)はきてるか。」

「きてる。」

「例の小馬車に馬はついてるか。」

「ついてる。」

「いいやつを二頭か。」

「すてきなやつだ。」

「言っといた所で待ってるな。」

「そうだ。」

「よし。」とジョンドレットは言った。

 ルブラン氏はひどく青ざめていた。彼は今やいかなる所へ陥ったかを了解したかのように、室(へや)の中のものをぐるりと見回した。そしてまわりを取り囲んでる人々の方へ順々に向けられる彼の頭は、注意深そうにかつ驚いたようにおもむろに首の上を動いた。しかし彼の様子のうちには、恐怖のさまは少しも見えなかった。彼はテーブルをもって即座の堡塁(ほるい)とした。そして一瞬間前まではただ親切な老人としか思われなかった彼は、今やにわかに闘士の姿に変わって、椅子(いす)の背にその頑丈(がんじょう)な拳(こぶし)を置き、驚くべき恐ろしい態度を取った。

 かかる危険を前にして確固毅然(きぜん)たるその老人は、ただ何ということもなく本来からして勇気と親切とを兼ねそなえてるもののように思われた。おのれの愛する女の父に当たる人は、おのれに対して決して他人ではない。マリユスはその名も知らぬ老人について自ら矜(ほこ)りを感じた。

 ジョンドレットが、「あれはみな暖炉職工でございます、」と言った腕のあらわな男どものうちの三人は、鉄くずの中を探って、ひとりは大きな鋏(はさみ)を取り、ひとりは重い火ばしを取り、ひとりは金槌(かなづち)を取って、一言も発せずに扉(とびら)から斜めに並んだ。年取った男はなお寝台の上に腰掛けていて、ただ目を開いたばかりだった。ジョンドレットの女房はそのそばに腰掛けていた。

 マリユスはもう数秒のうちに自分が手を出すべき時が来るだろうと考えた。彼は廊下の方へ天井を向けて右手を上げ、ピストルを打つ用意をした。

 ジョンドレットは棍棒(こんぼう)の男との対話を終えて、再びルラブン氏の方へ向き、彼独特のおさえつけたような恐ろしい低い笑いをしながら、前の問いをくり返した。

「それじゃ貴様には俺(おれ)がわからねえのか。」

 ルブラン氏は彼を正面からじっと見て答えた。

「わからない。」

 するとジョンドレットはテーブルの所までやっていった。そして蝋燭(ろうそく)の上から身をかがめ、腕を組み、その角張った獰猛(どうもう)な頤(あご)をルブラン氏の落ち着いた顔にさしつけ、ルブラン氏があとにさがらないくらいにできるだけ近く進み出て、まさにかみつかんとする野獣のようなその姿勢のまま叫んだ。

「俺(おれ)はファバントゥーというんじゃねえ、ジョンドレットというんでもねえ。俺はテナルディエという者だ。モンフェルメイュの宿屋の亭主だ。いいか、そのテナルディエなんだ。さあこれで貴様、俺がわかったろう。」

 ほとんど見えないくらいの赤みがルブラン氏の額にちらと浮かんだ。そして彼は例の平静さで、震えもしなければ高まりもしない声で答えた。

「いっこうわからない。」

 マリユスの耳にはその答えもはいらなかった。その暗闇(くらやみ)の中にそのとき彼を見た者があったならば、駭然(がいぜん)とし呆然(ぼうぜん)として打ちひしがれたような彼の様子が見られたであろう。ジョンドレットが「俺はテナルディエという者だ」と言った瞬間に、マリユスはあたかも心臓を貫かれる刃の冷たさを感じたかのように、全身を震わして壁にもたれかかった。それから合い図の射撃をしようと待ち構えていた右の腕は静かにたれ、ジョンドレットが「いいかそのテナルディエなんだ」とくり返した時には、力を失った彼の指は危うくピストルを落としかけた。本名を現わしたジョンドレットは、ルブラン氏を動かし得なかったが、マリユスを顛倒さした[#「顛倒さした」は底本では「転倒さした」]。ルブラン氏が知らないらしいそのテナルディエという名前を、マリユスはよく知っていた。そしてその名前は彼にとっていかなる意味を有するかを読者は思い出すだろう。その名前こそ、父の遺言のうちにしるされ、彼が常に心にいだいていたものである。彼はその名前を、頭の奥に、記憶の底に、また、「テナルディエという者予の生命を救いくれたり、もし予が子にして彼に出会わば、及ぶ限りの好意を彼に表すべし、」という神聖なる命令のうちに、常に納めていたのである。その名前こそ、読者の記憶するとおり、彼の心が帰依してるものの一つであった。彼はそれを父の名前といっしょにして崇拝していた。しかるに現在この男がテナルディエであろうとは! 長い間いたずらにさがしあぐんでいたモンフェルメイュの宿屋の主人であろうとは! 彼はついにその男を見いだしたが、それもいかにしてであったか。父を救った男は悪漢だったのである。マリユスが身をささげて仕えんと望んでいたその男は、怪物だったのである。このポンメルシー大佐を救ってくれた男は、今やある暴行を行なわんとしていた。マリユスにはその暴行がいかなる形式のものであるかまだ明らかにはわからなかったけれども、とにかく殺害らしく思われるものだった。しかもその暴行はだれに向かって加えられんとしているのか! ああ何たる宿命ぞ、いかに苦(にが)き運命の愚弄(ぐろう)ぞ! 父は柩(ひつぎ)の底から彼に、でき得る限りの好意をテナルディエにつくすよう命じていた、そして四年の間彼は、父に対するその負債(おいめ)を果たさんとの念しか持っていなかった。しかるに、警官をして罪悪の最中における悪漢を捕えさせんとする瞬間に当たって運命は彼に叫んだ。「その男こそテナリディエである!」ワーテルローの勇ましい戦場で弾丸の雨下する中に救われた父の生命に対して、その男に彼はついに何をむくいんとするのか、絞首台をもってむくいんとするのか。もしテナルディエを見いだすこともあったら、直ちに馳(は)せ寄ってその足下に身を投じようと、彼はかねて期していた。そして今実際彼を見いだしはしたが、しかしそれは彼を刑執行人の手に渡さんがためだったのであるか。父はマリユスに「テナルディエを救え」と言っていた、しかるにマリユスはテナルディエを打ちひしいでその敬愛せる聖(きよ)き声に答えんとするのか。その男は身の危険を冒して父を死より救い、父はその男を子たるマリユスに頼んでおいたのに、マリユスは今自らその男をサン・ジャックの広場に処刑さして、それを父の墓前にささげんとするのか。父が自らしたためた最後の意志をかくも長い間胸にいだいていながら、まさしくその正反対をなさんとは、何という運命の愚弄(ぐろう)であろう! しかしまた一方に、その待ち伏せを見ながらそれを妨げんともせず、被害者を見捨て殺害者を許さんとするのか! かかる悪漢に対して何らか感謝の念をいだき得るものであろうか。四カ年以来マリユスが持っていたあらゆる考えは、その意外の打撃によってずたずたに引き裂かれてしまった。彼は身を震わした。すべては彼の一存にかかっていた。彼の眼前に争っているそれらの人々は、おのずから彼の手中にあった。もし彼がピストルを打ったならば、ルブラン氏は救われテナルディエは捕えられるだろう。もしピストルを打たなければ、ルブラン氏は犠牲に供され、テナルディエはあるいは身を脱するだろう。一方を倒しても、また他方を見殺しにしても、いずれも悔恨の念は免れぬ。何となすべきか? いずれを選ぶべきか? 最も強き記憶、内心の深き誓い、最も神聖なる義務、最も尊き文言、それにそむくべきか。父の遺言にそむくべきか。あるいはまた罪悪の行なわるるのを見過ごすべきか。一方には父のために懇願する「わがユルスュール」の声が聞こえるように思われ、他方にはテナルディエのことを頼む大佐の声が聞こえるように思われた。そして彼は気も狂わんばかりの心地がした。膝(ひざ)も身体をささえきれなくなった。しかも眼前の光景は切迫していて、熟慮のひまさえもなかった。自分が左右し得ると思っていた旋風にかえって運び去らるるがようなものだった。彼はほとんど気を失いかけた。

 その間にテナルディエは――われわれは以後彼をこの名前で呼ぶことにしよう――われを忘れたようにまた勝利に酔うたがように、テーブルの前をあちらこちら歩いていた。

 彼は手のうちに蝋燭(ろうそく)をつかみ、蝋は壁にはねかかり火は消えかかったほどの激しさでそれを暖炉の上に置いた。

 それから彼は恐ろしい様子でルブラン氏の方をふり向き、こういう言葉を吐きかけた。

「焼けた、焦げた、煮えた、蒲焼(かばやき)だ!」

 そして彼は恐ろしい勢いでまた歩き出した。

「ああ、」と彼は叫んだ、「とうとう見つけたよ、慈善家さん、ぼろ着物の分限者さん、人形をくれた奴(やっこ)さん、老耄(おいぼれ)のジョクリスさん!(訳者注 ジョクリスとはお人よしの典型的人物)ああお前さんにはわしがわからないのかね。ちょうど八年前、一八二三年のクリスマスの晩に、モンフェルメイュのわしの宿屋へきたなあ、お前さんではなかったろうよ。ファンティーヌの娘のアルーエットというのをわしの家から連れ出したなあ、お前さんではなかったろうよ。黄色い外套(がいとう)を着ていたのはな、そして今朝(けさ)わしの所へきた時のようにぼろ着物の包みを手に下げていたのはな。おい女房、よその家へ毛糸の靴下(くつした)をつめ込んだ包みを持って行くのは、この男の癖と見えるな、この慈善顔をした老耄めのな。分限者さん、お前さんは小間物屋かね。貧乏人に店のがらくたをくれやがって、へん、笑わせやがるよ。お前さんに俺(おれ)がわからねえって? だがな、俺の方ではわかってるんだ。お前がここに鼻をつっ込みやがった時からすぐに見て取ったんだ。宿屋だからと言ってやたらに人の家へ入り込みやがって、みじめな着物をつけてさ、一文の銭をこうような貧乏な様子をしてさ、人をだまかし、大きなふうをして、米櫃(こめびつ)をまき上げやがって、森の中で人を脅かしやがって、そのくせ人が落ちぶれてると、大きすぎる外套(がいとう)だの病院にあるようなぼろ毛布を二枚持ってきて、すました顔をしてやがる。それでうまくゆくと思うと大まちがえだ、老耄(おいぼれ)の乞食(こじき)めが、誘拐者(かどわかし)めが!」

 彼はふと言いやめて、ちょっと心の中で独語してるように見えた。ちょうど彼の憤怒は、ローヌ川のように穴の中へでも落ちたかのように見えた。そしてひそかに独語したことに大声で結末をつけるかのように、テーブルを拳(こぶし)でたたいて叫んだ。

「しかもお人よしのようなふうをしやがってさ。」

 そしてルブラン氏の方へ言いかけた。

「おい、お前は以前によくも俺(おれ)をばかにしやがったな。俺の不運のもとはみんなお前だぞ。わずか千五百フランで大事な娘を取ってゆきやがったからだ。娘はな、たしか金持ちの子供だったんだ。それまでにずいぶん金も送ってきた。俺はその娘を一生の食いものにするつもりでいたんだ。あの宿屋じゃあずいぶん損をしたんだが、その娘さえいりゃあどうにかなったろうというものだ。あんなつまらねえ宿屋ったらねえや、ぜいたくなばか騒ぎばかりしてさ、俺の方じゃあ能(のう)もなくすっかり食いつぶしてしまったからな。あああの店へきやがって酒を飲んだ奴(やつ)どもにゃあ酒がみな毒とでもなったらなあ! いやそんなこたあどうでもいいや。おいお前はな、あのアルーエットを連れて行く時には、俺を愚図とでも思って笑いやがったろうな。あの森の中では大きな棒を持っていやがったな。あの時はお前の方が強かったさ、だがこんどはそうはいかねえや。切り札は俺の方にあるんだ。お気の毒だがお前の方が負けだ。ははあおかしいや、ちゃんちゃらおかしいや。うまく罠(わな)に落っこちやがった。俺は言ってやったよ、俳優でございます、私はファバントゥーと申します、マルス嬢やムューシュ嬢といっしょに芝居をしたこともございます、二月四日に家主に金を払わなくてはなりませんとさ、それに奴(やっこ)さん少しも気がつかねえんだ、期限は二月四日じゃなくて一月八日になってるってことをな。ばか野郎め! そしてつまらねえフィリップ(訳者注 ルイ・フィリップ王の肖像がある二十フラン金貨)を四つ持ってきやがった。恥知らずめ! せめて百フランでも持って来りゃあまだしもだ。だがまあうまく俺のおもしろくもねえ策に乗りやがった。ほんにおかしいや。俺(おれ)はひとりでこう言っていたんだ。『おばかさん、さあつかまえたぞ。今朝(けさ)はてめえの足をなめてやる、だが晩になってみろ、心臓までもしゃぶってやるからな。』」

 テナルディエはしゃべるのをやめた。彼は息を切らしていた。その小さな狭い胸は、鍛冶屋(かじや)(ふいご)のように[#「(ふいご)のように」は底本では「鞴(ふいご)のように」]あえいでいた。その目は賤(いや)しい幸福の色に満ちていた。恐れていた者をついにうち倒し媚(こ)びていた者をついに侮辱してやったという残忍卑怯(ひきょう)な弱者の喜びであり、巨人ゴライアスの頭を土足にかける侏儒(しゅじゅ)の喜びであり、もはや身を守り得ないほど死に瀕(ひん)してはいるがまだ苦痛を感ずるくらいの命はある病める牡牛(おうし)を、初めて引き裂きかけた豪狗(ごうく)の喜びである。

 ルブラン氏は彼の言葉を少しもさえぎらなかった。しかし彼が言いやめた時にこう言った。

「私には君の言うことがわからない。君は何か思い違いをしているようだ。私はごく貧しい者で、分限者なんかではない。私は君を知らない。だれかと人違いをしたのでしょう。」

「なんだと、白ばっくれるな。」とテナルディエはうめき出した。「冗談を言うない。ぐずぐずぬかしやがって、老耄(おいぼれ)めが。貴様、覚えていねえのか。俺がわからねえのか。」

「失礼だがわからない。」とルブラン氏は丁寧な調子で答えたが、それはかかる場合に何だか力強く妙に聞こえた。「君はどうも悪党らしいが。」

 人の知るとおり、嫌悪(けんお)すべき輩(やから)はすべていら立ちやすいものであり、怪物はすべて怒りやすいものである。悪党という言葉を聞いて、テナルディエの女房は寝台から飛びおり、テナルディエは握りつぶさんばかりに椅子(いす)をつかんだ。「じっとしてろ。てめえは!」と彼は女房に叫んだ。そしてルブラン氏の方へ向き直った。

「悪党だと! なるほどな、金のある奴(やつ)らは俺たちのことをそうぬかしやがる。なるほどそれに違えねえ。俺(おれ)は破産をし、身を隠し、食うものもねえし、金もねえし、それで悪党だ。もう三日というもの何にも口にしねえ、それで悪党だ。それに貴様らは、足を暖かくし、サコスキの上靴(うわぐつ)をはき、毛のはいった外套(がいとう)を着、大司教のような様子をし、門番のついた家の二階に住み、松露を食い、正月には四十フランもするアスパラガスを食いちらし、豌豆(えんどう)を食い、口一杯にほおばり、そして寒いかどうか知りてえ時には、シュヴァリエ技師の寒暖計がいくらさしてるか新聞で見やがる。だがな、本当の寒暖計は俺たちだ。時計台の角(かど)の河岸(かし)に出て、何度の寒さかを見にゆく必要はねえんだ。俺たちは脈の血が凍り心臓にも氷がはるのを感ずるんだ。そしては、神もねえのかって言うんだ。そういう時に貴様らは、俺たちの巣にやってきやがって、そうだ巣にやってきやがって、悪党だなんてぬかすんだ。だがな俺たちは、貴様らを食ってやるんだ。金持ちのちびども、貴様らを貪(むさぼ)り食ってやらあな。おい分限者さん、よく覚えておくがいい。俺はな、身分のある男だったんだ、免状を持っていたんだ、選挙の資格もあったんだ、りっぱな市民だったんだ、この俺がだぜ、ところが貴様にはそういうものが一つもねえんだろう、貴様にはな!」

 そこでテナルディエは扉(とびら)のそばに立ってる男どもの方へ一歩進んで身を震わしながら言った。

「人の所へきやがって、靴直(くつなお)しかなんぞにでも言うような口をききやがるんだぜ。」

 それからまた、更に怒り立ってルブラン氏の方へあびせかけた。

「そしてまたこういうことも覚えておいてもらおうぜ、慈善家さん! 俺(おれ)はな、後ろ暗え人間じゃねえんだ。名前を明しもしねえで人の家へ子供を取りに来るような者じゃねえんだ。俺はもとフランスの軍人だ、勲章でももらっていい人間だ。ワーテルローに行ってよ、何とかいう伯爵の将軍を戦争中に救ったんだ。名前をきかされたが、声が低くて聞き取れなかった。ありがとうというだけは聞こえた。そんな礼の言葉なんかより、名前を聞き取った方がよかったんだが。そうすればまた尋ね出すこともできようってわけさ。この絵はな、ブラッセルでダヴィドが描いたものなんだ。何が描いてあるかわかるか。この俺を描いたんだ。ダヴィドは俺の手柄を後の世まで残そうと思ったんだ。その将軍を背にかついで、弾丸(たま)の下をくぐって運んでゆくところだ。物語はざっとこのとおりさ。俺は何もその将軍に世話になっていたわけじゃねえ。他人も同様さ。それでも俺は生命を捨ててその人を助けた。その証明書はポケットに一杯あらあ。俺はワーテルローの名高い兵士だぞ。ところで、親切にそれだけ言ってきかしてやったからには、これでおしまいにしよう。つまり俺は金がほしいんだ。たくさんな金が、莫大(ばくだい)な金がほしいんだ。うんと言わなきゃあ、やっつけてしまうばかりだ、いいか。」

 マリユスは心の苦悩を多少おさえ得て、耳を傾けていた。そして最後の疑念もすべて消えてしまった。その男こそまったく、父の遺言にあるテナルディエだったのである。そしてテナルディエが父の忘恩を非難するのを聞き、自分は今や必然にその非難を至当のものたらしめんとしていることを思って、マリユスは身を震わした。彼の困惑はますます深くなった。その上、テナルディエの言葉、その語調、その身振り、一語ごとに炎をほとばしらすその目つき、またすべてを暴露する悪心の爆発、虚勢と卑劣と、傲慢(ごうまん)と丁重と、憤激と愚昧(ぐまい)とその混合、真実の苦情と虚偽の感情とのその混淆(こんこう)、暴戻(ぼうれい)の快感をむさぼる悪人らしいその破廉恥、醜い魂のその厚顔なる赤裸、あらゆる苦しみと憎しみとが結びついてるその火炎、すべてそれらのもののうちには、害悪のごとく嫌悪(けんお)すべきまた真理のごとく痛切なる何物かが存していた。

 大家の画面、テナルディエがルブラン氏に買ってくれと言い出したダヴィドの絵は、もう読者もほぼ察し得たであろうが、実は彼の宿屋の看板にほかならなかった。それは読者の記憶するとおり、彼が自分で描いたものであって、モンフェルメイュにおける失敗以来なお取って置いた唯一のものだった。

 ちょうどテナルディエの位置がマリユスの視線を妨げないようになったので、マリユスは今その絵らしいものをながめることができた。なるほどその塗りたくってある中に、戦争らしいありさまと、背景の煙と、ひとりの男をかついでる人間とが認められた。それがすなわちテナルディエとポンメルシーとのふたりで、救った軍曹と救われた大佐とである。マリユスは酒に酔ったがようだった。その画面は父がまだ生きてるような感を彼にいだかせた。もはやそれはモンフェルメイュの宿屋の看板ではなかった。一つの復活であり、墳墓はその口を開いて、幻影がそこに立ち現われた。マリユスは両の顳(こめかみ)に心臓の鼓動を聞いた。耳にはワーテルローの大砲の響きが聞こえ、気味悪いその板の上にぼんやり描かれてる血に染まった父の姿は、彼を脅かした。そして彼には、その怪しい幽霊が自分をじっと見つめてるように思われた。

 テナルディエは一息ついて、ルブラン氏の上に血走った瞳(ひとみ)をすえ、低いぶっきらぼうな声で言った。

「今貴様を踊らしてやる、だがその前に何か言うことがあるか。」

 ルブラン氏は黙っていた。その沈黙のうちに、しわがれ声の忌まわしい嘲(あざけ)りが廊下から響いた。

「薪(まき)でも割るなら俺(おれ)が行くぞ。」

 それはおもしろがってる斧(おの)を持った男だった。

 同時に、毛だらけの泥まみれの大きな顔が、歯というよりも牙(きば)を出してすごい笑いを浮かべながら、扉(とびら)の所からのぞき込んだ。

 斧を持ってる男の顔だった。

「どうして面を取ったんだ。」とテナルディエは怒って叫んだ。

「笑ってみてえからさ。」と男は答えた。

 ちょっと前からルブラン氏は、テナルディエの挙動に目をつけすきをうかがってるようだった。テナルディエの方は自分の憤激に目がくらみ、頭がくらんでいた。そして、扉には番がついているし、自分は武器を持ってるのに相手は無手であるし、女房をもひとりと数えれば相手はひとりにこちらは九人いるので、安心しきって室(へや)の中を歩き回っていた。斧の男に口をきく時には、ルブラン氏の方に背を向けた。

 ルブラン氏はその瞬間をとらえた。彼は椅子(いす)を蹴(け)飛し、テーブルをはねのけ、テナルディエがふり返る間もあらせず、驚くべき敏捷(びんしょう)さで一躍して窓の所へ達した。窓を開き、その縁に飛び上がり、それを乗り越すのは、一瞬間の仕事だった。彼は半ば窓の外に出た。その時六つの頑丈(がんじょう)な手が彼をつかみ、無理無体に彼を室の中に引きずり込んだ。彼の上に飛びかかったのは三人の「暖炉職工」だった。と同時に、テナルディエの女房は彼の頭髪につかみかかった。

 その騒ぎに、外の悪党どもも廊下からはいって来た。寝床の上にいた酒に酔ってるらしい老人も、寝台からおりて、手に道路工夫の金槌(かなづち)を持ってよろめきながら出て来た。

「暖炉職工」のひとりの顔は、蝋燭(ろうそく)の光に照らされていた。その塗りつぶした顔つきのうちにマリユスは、それがパンショー一名プランタニエ一名ビグルナイユであることを見てとった。その男が今や、鉄棒の両端に鉛の丸(たま)のついてる一種の玄翁(げんのう)をルブラン氏の頭めがけて振り上げた。

 マリユスはそれを見てもはや堪(こら)えることができなかった。「お父さん、許して下さい、」と彼は心に念じて、指先で、ピストルの引き金を探った。そして今や発射せんとした時、テナルディエの叫ぶ声がした。

「けがをさしてはいけねえ!」

 犠牲者の死物狂いの試みは、テナルディエを激させるどころかかえって落ち着かした。彼のうちには、獰猛(どうもう)な者と巧妙な者とふたりの人間がいた。そしてその時までは、勝利に酔い、取りひしがれて身動きもしない餌物(えもの)を前にして、獰猛な者の方が強く現われていた。しかるに犠牲者があばれ出して抵抗しかけた時に、巧妙な者の方が現われてきて優勢となった。

「けがをさしてはいけねえ!」と彼はくり返した。そして、彼自身では知らなかったが、その第一の成功として、彼はそれでピストルの発射をやめマリユスをすくました。今や危急は去って局面が一変したので、も少し待ってもさしつかえない、とマリユスは思った。ユルスュールの父を見殺しにするかあるいは大佐の救い主を滅ぼすかの板ばさみの地位から自分を助け出してくれるような、何かの機会が起こるまいものでもない、と彼は思った。

 恐ろしい争闘が初まっていた。ルブラン氏は老人の胸を一撃して室(へや)のまんなかにはね倒した。それから二度後ろを払って、他のふたりの襲撃者を打ち倒し、それをひとりずつ両膝(りょうひざ)の下に押し伏せた。ふたりの悪漢は膝に押さえつけられて、ちょうど花崗石(かこうせき)の挽臼(ひきうす)の下になったようにうめき声を出した。しかし残りの四人は、その恐ろしい老人の両腕と首筋とをとらえ、組み敷かれたふたりの「暖炉職工」の上に押さえつけた。かくて一方を押さえ他方に押さえられ、下の者らを押しつぶし上の者らから息をつめられ、自分の上に集まってる人々の力をいたずらにはねのけようとしながらルブラン氏はそれら恐るべき悪党どもの下に見えなくなって、あたかも番犬や猟犬どものほえ立った一群の下に押さえられている猪(いのしし)のようだった。

 彼らは、ようやく窓に近い寝台の上にルブラン氏を引き倒し、じっと押さえつけたきりだった。テナルディエの女房はなお髪の毛をつかんで離さなかった。

「てめえは引っ込んでろ、」とテナルディエは言った。「肩掛けが破れるじゃねえか。」

 女房は狼(おおかみ)の牝(めす)が牡(おす)に従うように、うなりながらその言葉に従った。

「さあみんなで、」とテナルディエは言った、「そいつの身体をさがせ。」

 ルブラン氏は抵抗の念を捨てたらしかった。人々は彼の身体をさがした。しかし身につけてた物はただ、六フランはいってる皮の金入れとハンカチばかりだった。

 テナルディエはそのハンカチを自分のポケットに納めた。

「なんだ、紙入れもねえのか。」と彼は尋ねた。

「それに時計もねえんだ。」と「暖炉職工」のひとりが答えた。

「そんなことはどうでもいい。」と大きな鍵(かぎ)を持ってる仮面の男が腹声でつぶやいた。「なかなかすげえ爺(じじい)だ。」

 テナルディエは扉(とびら)の片すみに行き、一束の繩(なわ)を取り、それを皆の所へ投げやった。

「寝台の足に縛りつけろ。」と彼は言った。

 そして、ルブラン氏の一撃を食って室(へや)の中に長く横たわり、身動きもしないでいる老人を見て、彼は尋ねた。

「ブーラトリュエルは死んだのか。」

「いや酔っ払ってるんだ。」とビグルナイユが答えた。

「すみの方に片づけろ。」とテナルディエは言った。

 ふたりの「暖炉職工」は、足の先でその泥酔者を鉄屑(てつくず)の積んであるそばに押しやった。

「バベ、どうしてこう大勢連れてきたんだ。」とテナルディエは棍棒(こんぼう)の男に低い声で言った。「むだじゃねえか。」

「仕方がねえ、皆きてえって言うから。」と棍棒の男は答えた。「どうもこの頃は不漁(しけ)でね、さっぱり商売がねえんだ。」

 ルブラン氏が押し倒された寝台は、施療院にあるようなもので、四角が荒削りの四本の木の足がついていた。

 ルブラン氏はされるままに身を任した。悪党どもは窓から遠くて暖炉に近い方のその一本の足に、両足を床(ゆか)につけて立たしたまま彼を縛りつけた。

 すっかり縛り終えた時、テナルディエは椅子(いす)を持ってきて、ほとんどルブラン氏の正面に腰をおろした。彼はもう様子がすっかり変わっていた。わずかな時間のうちに彼の顔つきは、奔放な狂暴さから落ち着き払った狡猾(こうかつ)な冷静さに変わっていた。マリユスは役人のようなその微笑のうちに、一瞬間前まで泡(あわ)を吹いてどなっていたほとんど獣のような口を認めかねるほどだった。彼は呆然(ぼうぜん)としてその不思議な恐るべき変容を見守った、そして猛虎(もうこ)が代言人と早変わりしたのを見るような驚きを感じた。

「旦那(だんな)……。」とテナルディエは言った。

 そしてなおルブラン氏を押さえてる悪人どもに少し離れるように手まねをした。

「少しどいてくれ、旦那にちょっと話があるんだ。」

 皆の者は扉(とびら)の方へさがった。彼は言い出した。

「旦那、窓から飛び出そうなんてよくありませんぜ。足をくじくかも知れませんからな。でまあ穏やかに話をつけようじゃありませんか。第一わしの方でも気づいたことを申さなくちゃならねえ、と言うのは旦那、これだけのことに少しも声を立てなさらねえことだ。」

 テナルディエの言うのは道理で、心乱れてるマリユスはいっこう気づかなかったが、それはまったく事実だった。ルブラン氏はわずか二、三言を発するにも少しもその声を高くしなかった、そして窓のそばで六人の悪漢と奮闘する時でさえ、きわめて深い不思議な沈黙を守っていたのである。テナルディエは言い続けた。

「どうですかね、泥坊とか何とか少しはどなったって、別にわしの方では不思議とは思わねえ。場合によっちゃあ、人殺し! とでもどなりてえところだ。そう言われたってわしの方じゃ別に気を悪くはしねえ。うさんな奴(やつ)らに取り巻かれた時にゃあ、少しは騒ぎ立てるのがあたりまえだ。お前さんが声を立てたにしろ、それでどうしようっていうんじゃねえ。猿轡(さるぐつわ)さえもはめはしねえ。なぜかって、それはこの室(へや)がごく人の耳に遠いからだ。この室は何も取り柄はねえが、それだけはりっぱなもんだ。まるで窖(あなぐら)みてえだ。かりに爆弾を破裂さしたところで一番近所の警察にも酔っ払いの鼾(いびき)ぐらいにしか聞こえねえ。大砲の音もぼーんというきりで、雷の響きもぷーっというきりだ。まったく都合のいい住所だ。だがとにかく、お前さんは少しも声を立てなかった。なるほど感心な心掛けだ。わしにもよく察しはつく。ねえ旦那(だんな)、声を立てたら、来る者は警官だ。警官のあとから来る者は裁判官だ。ところで旦那は少しも声を立てなさらねえ。なるほど旦那の方でもわしらと同様、裁判官や警官が来るのを好みなさらねえ。それは旦那に――わしも前からうすうす察してはいましたがね――何か人に知られては都合のよくねえことがありなさるからだ。わしらの方だってそれは同じでさあ。だから互いに話がわかろうっていうもんじゃありませんか。」

 そういうふうに話しながら、テナルディエはじっとルブラン氏の上に瞳(ひとみ)をすえて、両眼からつき出した視線の鋭い刃を相手の心の底まで突き通そうとしてるかのようだった。その上彼の言葉は、ずるそうな穏やかな横柄さがこもってはいたが、ごく控え目でかつりっぱだとさえ言えるほどだった。そして先刻まで一強盗にすぎなかったその悪人のうちには、なるほど「牧師になるために学問をした男」があることも感ぜられた。

 捕虜が守っている沈黙、自分の生命をも顧みないほどのその注意、まず第一に叫び声を立てるのが当然であるのをじっとおさえてるその我慢、すべてそれらのことを、テナルディエの言葉によってマリユスは初めて気づいて、あえて言うが、かなり気にかかって心苦しい驚きを感じた。

 テナルディエの道理ある観察は、クールフェーラックがルブラン氏という綽名(あだな)を与えたその荘重な不思議な人物を包む不可解の密雲を、いっそう暗くするもののようにマリユスには思えた。しかし、彼が果たして何人(なんぴと)であったにせよ、かく繩(なわ)に縛られ、殺害者らに取り巻かれ、言わばもう半ば墓穴の中につき込まれ、刻々にその墓穴は足下に深まりゆくにもかかわらず、またテナルディエのあるいは暴言の前にあるいは甘言の前にありながら、彼は常に顔色一つ動かさなかった。そしてマリユスは、そういう際におけるその崇高な幽鬱(ゆううつ)な顔貌(がんぼう)に対して、自ら驚嘆を禁じ得なかった。

 それこそまさしく、恐怖にとらわるることなき魂であり、狼狽(ろうばい)の何たるかを知らない魂であった。絶望の場合に臨んでも驚駭(きょうがい)の念をおさえ得る人であった。危機はいかにも切迫し、覆滅はいかにも避け難くはあったけれども、水中に恐ろしい目を見張る溺死者(できししゃ)のような苦悶(くもん)のさまは、少しも現われていなかった。

 テナルディエは無造作に立ち上がって、暖炉の所へ行き、そばの寝台に立てかけてあった屏風(びょうぶ)を取り払った。そして盛んな火炎に満ちた火鉢(ひばち)が現われ、中には白熱して所々まっかになってる鑿(のみ)があるのが、はっきり捕虜の目にはいった。

 テナルディエはそれからルブラン氏のそばに戻ってきて腰をおろした。

「なお先を少し言わしてもらいましょうか。」とテナルディエは言った。「お互いに話がわかろうっていうもんです。だから穏やかに事をきめましょうや。さっき腹を立てたなあわしが悪かった。どうしたのか自分でもわからねえが、あまりむちゃになって、少し乱暴な口をききすぎたようだ。たとえて言ってみりゃあ、お前さんが分限者だからと言って、金が、沢山な金が、莫大(ばくだい)な金がほしいなんて言ったなあ、わしの方がまちがっていた。そりゃあお前さんにいくら金があったところで、いろいろ入費(いりめ)もありなさるだろうし、だれだって同じことでさあ。わしだって何もお前さんの財産をつぶそうっていうんじゃねえ。とにかくお前さんの身をそぐようなこたあしませんや。有利な地位にいるからって、それに乗じて人に笑われるようなことをする人間たあ違いまさあ。よござんすか、わしの方でもまあまけておいて、いくらか譲歩するとしましょう。つまり二十万フランばかりでよろしいんですがね。」

 ルブラン氏は一言も発しなかった。テナルディエは言い続けた。

「このとおりわしは相当に事をわけて話してるつもりだ。お前さんの財産がどのくらいあるかわしは知らねえ、だがお前さんは金に目をくれはしなさらねえってことだけはわかってる。お前さんのような慈悲深え人は、不仕合わせな一家の父親に二十万フランぐらいは出してくれてもよさそうなもんだ。お前さんだって確かに物の道理はわかってるはずだ。今日のように骨を折って、今晩のように手はずをきめて、ここにきてる人たちを見てもわかるとおり万事うまく仕組みをした以上は、わずかデノアイエ料理店で十五スーの赤い奴(やつ)を飲み肉をつっつくぐらいの金じゃすまされねえってことは、お前さんにもわかるはずだ。二十万フランぐらいの価値(ねうち)はありまさあね。それだけのはした金をふところから出しさえしなさりゃあ、それですべて帳消しにして、お前さんに指一本さしゃあしません。なるほどお前さんは、だが今二十万フランなんて持ち合わせはねえって言いなさるだろう。なにわしもそう無茶なことは言いませんや。今それをくれとは言やあしません。ただ一つお頼みがあるんでさあ。わしが言うとおりに書いてもらいてえんです。」

 そこで、テナルディエは言葉を切った。それから火鉢(ひばち)の方へちょっと笑顔を向けながら、一語一語力を入れて言い添えた。

「ことわっておくが、お前さんに字が書けねえとは言わせない。」

 その時の彼の微笑には、宗教裁判所の大法官をもうらやませるほどのものがあった。

 テナルディエはルブラン氏のすぐそばにテーブルを押しやって、引き出しからインキ壺(つぼ)とペンと一枚の紙とを取り出した。彼はその引き出しを半ば開いたままにしておいたが、そこにはナイフの長い刃が光っていた。

 彼はルブラン氏の前に紙を置いた。

「書きなさい。」と彼は言った。

 捕虜はついに口を開いた。

「どうして書けというんです、このとおり縛られているのに。」

「なるほどな、」とテナルディエは言った、「ご道理(もっとも)だ。」

 そして彼はビグルナイユの方を向いた。

「旦那(だんな)の右の腕を解いてくれ。」

 パンショー一名プランタニエ一名ビグルナイユは、テナルディエの言うとおりにした。捕虜の右手が自由になった時、テナルディエはペンをインキに浸して、それを彼に差し出した。

「旦那、よく頭に入れておいてもらいましょうや。お前さんは今日わしらの手の中にありますぜ。わしらの思うままに、まったく思うままにどうにでもできますぜ。人間の力ではとうていお前さんをここから助け出すことはできねえ。だがわしらだって荒療治をしなけりゃならねえようになるのはまったくいやなんだ。わしはお前さんの名前も知らねえし、住所も知らねえ。しかしことわっておくが、お前さんがこれから書く手紙を持って行く使いの者が帰って来るまでは、縛られたままでいなさらなけりゃならねえ。そのつもりで、さあ書きなさるがいい。」

「何と?」と捕虜は尋ねた。

「わしの言うとおりに。」

 ルブラン氏はペンを取った。

 テナルディエは口授し初めた。

「――わが娘よ……――」

 捕虜は身を震わして、テナルディエの方へ目を上げた。

「――わが愛する娘よ――と書きなさい。」とテナルディエは言った。

 ルブラン氏はそのとおりに書いた。テナルディエは続けた。

「――すぐにおいで……――。」

 彼は言葉を切った。

「お前さんは彼女(あれ)にそういうふうな親しい言い方をしていなさるだろうな。」

「だれに?」とルブラン氏は尋ねた。

「わかってらあな、」とテナルディエは言った、「あの子供にさ、アルーエットにさ。」

 ルブラン氏は外見上いかにも冷静に答えた。

「何のことだか私にはわからない。」

「でもまあ書きなさい。」とテナルディエは言った。そしてまた口授を初めた。

「――すぐにおいで。是非お前にきてほしい。この手紙を持って行く人が、お前を私の所へ案内してくれることになっている。私はお前を待っている。やっておいで安心して――。」

 ルブラン氏はそれをすっかり書いた。テナルディエは言った。

「ああ安心してというのは消しなさい。それは何だか普通のことでないような気を起こさして、不安に思わせるかも知れない。」

 ルブラン氏はその四字を消した。

「さあ署名しなさい。」とテナルディエは言った。「お前さんの名は何て言うのかな。」

 捕虜はペンを置いて、そして尋ねた。

「だれにこの手紙はやるんですか。」

「お前さんにはよくわかってるはずだ。」とテナルディエは答えた。「あの子供にさ。今言ってきかしたとおりだ。」

 問題の若い娘の名を言うことをテナルディエが避けてるのは明らかだった。彼は「アルーエット」(ひばり娘)と言いまた「あの子供」と言いはしたが、その名前は口に出さなかった。それは共犯者らの前にも秘密を守る巧妙な男の用心であった。名前を言うことは「その仕事」を彼らの手に渡してしまうことだったろう、そして彼らに必要以上のことを知らせることだったろう。

 彼は言った。

「署名しなさい。お前さんの名は何というんだ。」

「ユルバン・ファーブル。」と捕虜は答えた。

 テナルディエは猫(ねこ)のようにすばしこく手をポケットにつっ込んで、ルブラン氏から取り上げたハンカチを引き出した。彼はそのしるしをさがして、蝋燭(ろうそく)の火に近づけた。

「U・F、なるほど。ユルバン・ファーブル。ではU・Fと署名しなさい。」

 捕虜は署名をした。

「手紙を畳むには両手がいるから、わしに渡しなさい、わしが畳むから。」

 それがすむと、テナルディエは言った。

「住所を書きなさい。お前さんの家のファーブル嬢と。ここからそう遠くねえ所に、サン・ジャック・デュ・オー・パの付近に、お前さんが住んでることをわしは知ってる。毎日その教会堂の弥撒(ミサ)に行きなさるのでもわかる。だがどの町だかわしは知らねえ。お前さんは今どんな場合にいるかわかっていなさるはずだと思う。だから名前に嘘(うそ)を言わなかったとおり、住所にも嘘を言わねえがいい。自分でそれを書きなさい。」

 捕虜はちょっと考え込んでいたが、やがてペンを取って書いた。

 ――サン・ドミニク・ダンフェール街十七番地、ユルバン・ファーブル氏方、ファーブル嬢殿。

 テナルディエは熱に震えるような手つきでその手紙をつかんだ。

「女房。」と彼は叫んだ。

 テナルディエの女房は急いでやって来た。

「さあ手紙だ。やることはわかってるだろう。辻馬車(つじばしゃ)が下にある。すぐに出かけて、すぐに帰ってこい。」

 それから斧(おの)を持ってる男の方へ言った。

「貴様はちょうど面を取ってるから、うちの上(かみ)さんについてってくれ。馬車の後ろに乗ってゆくがいい。例の小馬車を置いてきた所はわかってるな。」

「わかってる。」と男は言った。

 そして斧を片すみに置いて、彼はテナルディエの女房のあとについて行った。

 ふたりが出てゆくと、テナルディエは半ば開いている扉(とびら)から顔をさし出して、廊下で叫んだ。

「何より手紙を落とさないようにしろ! 二十万フラン持ってると同じだぞ。」

 テナルディエの女房のしわがれた声がそれに答えた。

「安心しておいで。内ふところにしまってるから。」

 一分間とたたないうちに、鞭(むち)の音が聞こえたが、それもすぐに弱くなって消えてしまった。

「よし、」とテナルディエはつぶやいた、「ずいぶん早えや。あの調子で駆けてゆきゃあ、家内は四、五十分で戻ってくる。」

 彼は暖炉に近く椅子(いす)を寄せ、そこに腰をおろして、両腕を組み、泥だらけの靴(くつ)を火鉢(ひばち)の方へ差し出した。

「足が冷てえ。」と彼は言った。

 テナルディエと捕虜とともにその部屋(へや)の中にいるのは、もう五人の悪漢ばかりだった。彼らは仮面をつけたりあるいは黒く塗りつぶしたりして顔を隠しながら、なるべく恐ろしく見せかけるように、炭焼き人だの黒人だの悪魔だのの姿をまねていたが、皆のろい沈鬱(ちんうつ)な様子をしていた。それを見ると、彼らは罪悪を犯すことをもちょうど仕事をするような具合に、至って平気で、何ら憤激の情も憐愍(れんびん)の念もなしに、一種の退屈らしい様子でやってるようだった。彼らは獣のようにすみにかたまって黙々としていた。テナルディエは足を暖めていた。捕虜はまた無言のうちに沈んでいた。先刻その部屋を満たしていた荒々しい騒ぎに次いで、陰惨な静けさがやってきたのである。

 芯(しん)に大きく灰のたまってる蝋燭(ろうそく)が、その広い部屋をぼんやり照らしてるばかりで、火鉢の火も弱くなっていた。そしてそこにおる怪物らの頭は、壁や天井に変な形の影を投げていた。

 聞こえるものはただ、眠ってる酔っ払いの老人の静かな息の音ばかりだった。

 マリユスは種々重なってきた心痛のうちにじっと待っていた。謎(なぞ)はますます不可解になってきた。テナルディエがアルーエットと呼んだあの「子供」はいったい何であったろうか。彼の「ユルスュール」のことであったろうか。捕虜はそのアルーエットという言葉を聞いても少しも心を動かさないらしかった、そしてごく自然に「何のことだか私にはわからない」と答えた。しかし一方に、U・Fという二字は説明された。それはユルバン・ファーブルだった。そしてユルスュールも今はユルスュールという名ではなくなった。マリユスが最もはっきり知り得たのはその一事だった。一種の恐ろしい魅惑にとらえられて彼は、全光景を観察し見おろし得るその場所に釘付(くぎづ)けにされてしまった。そこに彼は、目近にながめた厭(いと)うべきできごとから圧伏されたかのようになって、ほとんど考えることも動くこともできなかった。いかなる事にてもあれただ何か起こることを望むだけで、考えをまとめることもできず、決心を固める術(すべ)も知らずに、彼はただ待っていた。

「いずれにしても、」と彼は思った、「アルーエットというのが彼女のことであるかどうか、これからはっきりわかるだろう。テナルディエの女房がそれをここへ連れて来るだろうから。その時こそ私の心は決するのだ。もし必要であれば、私はこの生命と血潮とをささげても彼女を救ってやる。いかなることがあっても私はあとへは退かない。」

 かくて三十分ばかり過ぎ去った。テナルディエはある暗黒な瞑想(めいそう)のうちに沈み込んでるようだった。捕虜は身動きもしなかった。けれどもマリユスは、少し前から時々間を置いて、捕虜のあたりに何か鋭いかすかな音が聞こえるように思った。

 突然、テナルディエは捕虜に言いかけた。

「ファーブルさん、今すぐに言っといた方がいいようだから聞かしてあげよう。」

 その数語は、これから何か説明が初まるもののように思われた。マリユスは耳を傾けた。テナルディエは言い続けた。

「家内はすぐに帰って来る。そうせかないで待っていなさるがいい。アルーエットはまったくお前さんの娘だろうから、お前さんが家に引き取って置きてえなああたりまえだとわしも思う。だがちょっと聞いておいてもらいましょう。お前さんの手紙を持って、家内は娘さんに会いに行く。ところでさっきごらんのとおり家内へは相当な服装(なり)をさしといたから、すぐに娘さんはついて来るに違いない。そしてふたりは辻馬車(つじばしゃ)に乗るが、その後ろにはわしの仲間がひとり乗ってる。市門の外のある場所には、上等の馬が二匹ついてる小馬車がある。そこまでお前さんの娘は連れてこられるんだ。そこで娘さんは辻馬車からおりて、わしの仲間といっしょに小馬車に乗る。家内はここに帰ってきて報告する、すんだと。娘さんの方には別に悪いことはしねえ。娘さんはある所まで小馬車で連れてゆかれるが、そこにじっとしてるだけだ。そしてお前さんが二十万フランの小金(こがね)をわしにくれるとすぐに娘さんを返してあげる。もしお前さんがわしを捕縛させるようなことをすれば、わしの仲間がアルーエットに手を下すばかりだ。まあざっとこういう筋道だ。」

 捕虜は一言をも発しなかった。ちょっと休んでからテナルディエは言い続けた。

「お聞きのとおり何でもねえことなんだ。お前さんの心次第で何も悪いことは起こりゃあしねえ。うち明けてわしは話したんだ。よくのみ込んでおいてもらいてえと思ってな。」

 彼は言葉を切った。捕虜は口を開こうともしなかった。テナルディエはまた言った。

「家内が帰ってきて、アルーエットは出かけたと言いさえすりゃあ、すぐにお前さんは許してあげる。勝手に家に帰って寝てもいい。ねえ、わしらは別に悪い計画(たくらみ)を持ってやしねえ。」

 恐るべき幻がマリユスの脳裏を過(よ)ぎった。何事ぞ、彼らはその若い娘を奪ってここへは連れてこないのか。あの怪物のひとりがその娘を暗黒のうちに運び去ろうとするのか。いったいどこへ?……そしてもしその娘が果たして彼女であったならば! いや彼女であることは明らかである。マリユスは心臓の鼓動も止まるような気がした。どうしたものであろう。ピストルを打つがいいか。その悪漢どもを皆警官の手に渡してしまうがいいか。しかしそれにしても、あの恐ろしい斧(おの)の男は若い娘を連れてやはり手の届かぬ所に行ってるだろう。マリユスは恐ろしい意味が察せらるるテナルディエの数語を思った。「もしお前さんがわしを捕縛させるようなことをすれば、わしの仲間がアルーエットに手を下すばかりだ。」

 今はもう大佐の遺言のためばかりではなく、また自分の恋のために、愛する人の危険のために、差し控えていなければならないように彼は思った。

 既に一時間以上も前から続いたその恐ろしい情況は一瞬ごとに様子を変えていった。マリユスは勇を鼓して最も悲痛な推測を一々考慮してみた、そして何かの希望をさがし求めたが少しも見い出されなかった。彼の脳裏の騒乱はその巣窟(そうくつ)の気味悪い沈黙と異様な対照をなしていた。

 その沈黙のうちに、階段の所の扉(とびら)が開いてまたしまる音が聞こえた。

 捕虜は縛られながらちょっと身を動かした。

「うちのお上(かみ)だ。」とテナルディエは言った。

 その言葉の終わるか終わらないうちに、果たしてテナルディエの女房が室(へや)に飛び込んできた。まっかになって、息を切らし、あえいで、目を光らしていた。そしてその大きな両手で一度に両腿(りょうもも)をたたきながら叫んだ。

「嘘(うそ)の住所だ。」

 女房が引き連れていた悪漢が、彼女のあとからはいってきて、またその斧(おの)を取り上げた。

「嘘の住所だと!」テナルディエは鸚鵡返(おうむがえ)しに言った。

 女房は言った。

「だれもいやしない。サン・ドミニク街十七番地にユルバン・ファーブルなんて者はいやしない。だれにきいても知ってる者なんかいないよ。」

 彼女は息をつまらして言葉を切ったが、それからまた続けて言った。

「テナルディエ、お前さんはその爺(じい)さんにばかにされたんだよ。あまりお前さんも人がよすぎるじゃないか。私ならほんとにそいつの頤を四つ裂きにでもしておいてかかるんだがね。意地の悪いことをしやがったら、生きてるまま煮たててやるんだがね。そうすりゃあ、きっと本当のことを言って娘のおる所や金を隠してる所を吐き出してしまったに違いない。私だったらそういうふうにやってのけるよ。男なんて女よりはよほどばかだって言うが、まったくだ。十七番地なんかにはだれもいやしない。大きな門があるきりなんだ。サン・ドミニク街にはファーブルなんて者はいやしない。大急ぎで馬をかけさせるし、御者には祝儀をやるし、いろいろなことをしてさ。門番の男にも聞いたし、しっかり者らしいそのお上さんにも聞いたが、そんな人はてんで知らないじゃないかね。」

 マリユスはほっと息をついた。ユルスュールかあるいはアルーエットか本当の名前はわからないが、とにかく彼女は救われたのだった。

 たけり立った女房が怒鳴りちらしてる間に、テナルディエはテーブルの上に腰掛けた。彼は一言も発しないでそのままの姿勢をして、たれてる右足を振り動かしながら、残忍な夢想に沈んでるような様子で、しばらく火鉢(ひばち)の方を見やっていた。

 ついに彼は、特に獰猛(どうもう)なゆっくりした調子で捕虜に言った。

「嘘(うそ)の住所だと、いったい貴様何のつもりだ。」

「時間を延ばすためだ!」と捕虜は爆発したような声で叫んだ。

 そして同時に彼は縛られた繩(なわ)を揺すった。それは皆切れていた。捕虜はもはや、片足が寝台に結わえられてるばかりだった。

 七人の男がはっと我に返って飛びかかるすきも与えず、彼は暖炉の所に低く身をかがめ、火鉢の方に手を伸ばし、それからすっくと立ち上がった。そして今やテナルディエもその女房も悪漢どもも、驚いて室(へや)のすみに退き、呆然(ぼうぜん)と彼を見守った。彼はほとんど自由になって恐ろしい態度をし、すごい火光がしたたるばかりのまっかに焼けた鑿(たがね)を、頭の上に振りかざしていたのである。

 ゴルボー屋敷におけるこの待ち伏せの後に間もなく行なわれた裁判所の調査によれば、二つに切り割って特殊な細工を施した大きな一スー銅貨が、臨検の警官によってその屋根部屋(やねべや)の中に見い出されたのだった。その大きな銅貨は、徒刑場の気長い仕事によって暗黒な用途のために暗黒の中で作り出される驚くべき手工品の一つであり、破獄の道具にほかならない驚くべき品物の一つだった。異常な技術に成ったそれらの恐るべき微妙な作品が宝石細工に対する関係は、あたかも怪しい隠語の比喩(ひゆ)が詩に対する関係と同じである。言語のうちにヴィヨンのごとき詩人らがあると同じく、徒刑場のうちにはベンヴェヌート・チェリーニのごとき金工らがおる。自由にあこがれてる不幸な囚人は、時とすると別に道具がなくても、包丁や古ナイフなどで、二枚の薄い片に一スー銅貨を切り割り、貨幣の面には少しも疵(きず)がつかないように両片をくりぬき、その縁に螺旋条(らせんじょう)をつけて、また両片がうまく合わさるようにこしらえることがある。それは自由にねじ合わせたりねじあけたりできるもので、一つの箱となっている。箱の中には時計の撥条(ぜんまい)が隠されている。そしてその撥条をうまく加工すると、大きな鎖でも鉄の格子(こうし)でも切ることができる。その不幸な囚徒はただ一スー銅貨しか持っていないように思われるが、実は自由を所有してるのである。ところで、後に警察の方で捜索をした時、その部屋(へや)の窓に近い寝台の下で見いだされた、二つの片に開かれてる大きな一スー銅貨は、そういう種類のものであった。それからまた、その銅貨の中に隠し得るくらいの小さな青い鋼鉄の鋸(のこぎり)も見い出された。おそらく、悪漢どもが捕虜の身体をさがした時、捕虜はその大きな銅貨を持っていたが、それをうまく手の中に隠し、それから次に、右手が自由になったので、それをねじあけ、中の鋸を使って縛られてる繩(なわ)を切ったものであろう。マリユスが気づいたかすかな音とわずかな動作とは、またそれで説明がつく。

 見現わされるのを恐れて身をかがめることができなかったので、彼は左足の縛りめは切らなかったのである。

 悪漢どもは初めの驚きからようやく我に返った。

「安心しろ。」とビグルナイユはテナルディエに言った。

「まだ左の足が縛ってある。逃げることはできねえ。受け合いだ。あの足を縛ったなあ俺(おれ)だぜ。」

 そのうちに捕虜は声を揚げた。

「君らは気の毒な者どもだ。わしの生命はそう骨折って大事にするほどのものはない。ただ、わしに口をきかせようとしたり、書きたくないことを書かせようとしたり、言いたくないことを言わせようとしたりするからには……。」

 彼は左腕の袖(そで)をまくり上げてつけ加えた。

「見ろ。」

 同時に彼は腕を伸ばして、右手に木の柄をつかんで持っていた焼けてる鑿(たがね)を、そのあらわな肉の上に押し当てた。

 じゅーっと肉の焼ける音が聞こえ、拷問部屋(ごうもんべや)に似たにおいが室(へや)にひろがった。マリユスは恐ろしさに気を失ってよろめき、悪漢どもすら震え上がった。しかしその異常な老人の顔はちょっとひきつったばかりだった。そして赤熱した鉄が煙を上げてる傷口の中にはいってゆく間、彼は平気なほとんど荘厳な様子で、美しい目をじっとテナルディエの上にすえていた。その目の中には、何ら憎悪(ぞうお)の影もなく、一種朗らかな威厳のうちに苦痛の色も消えうせてしまっていた。

 偉大な高邁(こうまい)な性格の人にあっては、肉体的の苦悩にとらえられた筋肉と感覚との擾乱(じょうらん)は、その心霊を発露さして、それを額の上に現出させる。あたかも兵卒らの反逆はついに指揮官を呼び出すがようなものである。

「みじめな者ども、」と彼は言った、「わしが君らを恐れないと同じに、君らももうわしを恐れるには及ばない。」

 そして彼は傷口から鑿を引き離し、開いていた窓からそれを外に投げ捨てた。赤熱した恐ろしい道具は、回転しながら暗夜のうちに隠れ、遠く雪の中に落ちて冷えていった。

 捕虜は言った。

「どうとでも勝手にするがいい。」

 彼はもう武器は一つも持っていなかった。

「奴(やつ)を捕えろ!」とテナルディエは言った。

 悪漢のうちのふたりは彼の肩をとらえた。そして仮面をつけた腹声の男は、彼の前に立ちふさがって、少しでも動いたら大鍵(おおかぎ)を食わして頭を打ち破ってやろうと待ち構えた。

 同時にマリユスは、壁の下の方で自分のすぐ下に、低い声でかわされる次の対話を聞いた。あまり近いので、話してる者の姿は穴から見えなかった。

「こうなったらほかに仕方はねえ。」

「やっつける!」

「そうだ。」

 それは主人と女房とが相談してるのだった。

 テナルディエはゆっくりとテーブルの方へ歩み寄って、その引き出しを開き、ナイフを取り出した。

 マリユスはピストルの手を握りしめた。異常な困惑のうちに陥った。一時間前から、彼の内心のうちには二つの声があった。一つは父の遺言を尊重せよと彼に語り、一つは捕虜を救えと彼に語っていた。その二つの声は絶えず互いに争闘を続けて彼をもだえさした。彼はこの瞬間まで、その二つの義務を相融和し得る道はないかと漠然(ばくぜん)と願っていた。しかしそれをかなえるようなものは何も起こってこなかった。しかるにもはや危機は迫っており、遅滞の最後は越えられていた。捕虜から数歩の所に、テナルディエはナイフを手にして考え込んでいた。

 マリユスは昏迷(こんめい)してあたりを見回した。絶望の極の最後の機械的な手段である。

 と突然、彼はおどり上がった。

 彼の足下に、テーブルの上に、満月の強い光が一枚の紙片を照らし出して、彼にそれを示してるかのようだった。その紙片の上に彼は、テナルディエの姉娘がその朝書いた大きな文字の次の一行を読んだ。

 ――いぬがいる。

 一つの考えが、一つの光が、マリユスの脳裏をよぎった。それこそ彼がさがしている方法だった。彼を苦しめてる恐るべき問題の解決、殺害者を逃がし被害者を救う方法であった。彼は戸棚の上にひざまずき、腕を伸ばし、その紙片をつかみ取り、壁から一塊の漆喰(しっくい)を静かにはぎ取り、それを紙片に包みそのままそれを部屋(へや)のまんなかに穴から投げ込んだ。

 ちょうど危うい時であった。テナルディエは最後の危懼(きぐ)もしくは最後の用心をおさえつけて、捕虜の方へ歩を進めていた。

「何か落ちた。」とテナルディエの女房は叫んだ。

「何だ?」と亭主は言った。

 女房は駆け寄って、紙に包んだ漆喰を拾った。

 彼女はそれを亭主に渡した。

「どこからきたんだ。」とテナルディエは尋ねた。

「なにどこから来るもんかね、」と女房は言った、「窓からよりほかはないじゃないかね。」

「俺(おれ)はそれが飛んで来る所を見た。」とビグルナイユは言った。

 テナルディエは急いで紙をひらき、蝋燭(ろうそく)の火に近づけた。

「エポニーヌの手蹟(て)だ。畜生!」

 彼は女房に合い図をすると、女房はすぐにそばにきた。彼は紙に書いてある一行の文句を示して、それから鈍い声でつけ加えた。

「早く! 梯子(はしご)だ。肉は鼠罠(ねずみわな)に入れたままで、引き上げよう。」

「首をちょんぎらずにかえ。」と女房は尋ねた。

「そんな暇はねえ。」

「どこから逃げるんだ。」とビグルナイユは言った。

「窓からよ。」とテナルディエは答えた。「エポニーヌが窓から石をほうり込んだところを見ると、その方には手が回ってねえことがわかる。」

 仮面をつけた腹声の男は、大鍵(おおかぎ)を下に置き、両腕を高く上げて、黙ったままその手を三度急がしく開いたり握ったりした。それは船員らの間の戦闘準備の合い図みたいなものだった。捕虜をとらえていた悪漢はその手を離した。またたく間に、繩梯子(なわばしご)は窓の外におろされ、二つの鉄の鈎(かぎ)でしっかと窓縁に止められた。

 捕虜は周囲に起こってることには少しも注意をしなかった。彼は何か夢想しあるいは祈祷(きとう)してるがようだった。

 繩梯子(なわばしご)がつけられるや、テナルディエは叫んだ。

「こい、上(かみ)さん!」

 そして彼は窓の方へつき進んだ。

 しかし彼がそこをまたごうとした時、ビグルナイユは荒々しく彼の襟筋(えりすじ)をつかんだ。

「いけねえ、古狸(ふるだぬき)め、俺(おれ)たちが先だ。」

「俺たちが先だ!」と悪漢どもは怒鳴り立てた。

「つまらねえ野郎だな、」とテナルディエは言った、「時間をつぶすばかりだ。いぬどもがきかかってるじゃねえか。」

「じゃあ、」とひとりの悪漢が言った、「だれが一番先か籤引(くじび)きをしろ。」

 テナルディエは叫んだ。

「ばかども、気でも狂ったのか。のろまばかりそろってやがる。時間をつぶすばかりじゃねえか。籤引きをするっていうのか。じゃんけんか、藁屑(わらくず)か、名前を書いて帽子に入れてか……。」

「俺の帽子ではどうだ。」と入り口の所に声がした。

 皆の者は振り向いた。それはジャヴェルだった。

 彼は手に帽を持って、微笑しながらそれを差し出していた。

     二十一 常にまず被害者を捕うべし

 ジャヴェルは日暮れに、手下を方々に張り込ませ、大通りをはさんでゴルボー屋敷と向かい合ったバリエール・デ・ゴブラン街の木立ちの後ろに自ら身を潜めた。彼はまずいわゆる「ポケット」を開いて、屋敷の付近に見張りをしてるふたりの娘をその中にねじ込もうとした。しかし彼はアゼルマをしか「袋にする」ことはできなかった。エポニーヌの方はその場所にいなくて姿が見えなかったので、捕えることができなかった。それからジャヴェルは位置について、約束の合い図を待って耳を傾けていた。辻馬車(つじばしゃ)が出かけたり戻ってきたりするので、彼は少なからず心配になって、ついにたえきれなくなった。そして多くの悪漢どもがはいり込んだのを認めていたので、確かにそこに巣があると思い、確かにうまいことがあるに違いないと信じて、ピストルの鳴るのをも待たずにはいって行こうと心を決した。

 読者の思い起こすとおり、彼はマリユスの合(あ)い鍵(かぎ)を持っていたのである。

 彼はちょうどいい時にやってきた。

 狼狽(ろうばい)した悪漢らは、逃げ出そうとする時方々に投げ捨てた武器をまたつかみ取った。またたく間に、見るも恐ろしいそれら七人の者どもは、いっしょに集まって防御の姿勢を取った。ひとりは斧(おの)を持ち、ひとりは大鍵を持ち、ひとりは玄翁(げんのう)を持ち、その他の者は鋏(はさみ)や火箸(ひばし)や金槌(かなづち)などを持ち、テナルディエはナイフを手に握っていた。テナルディエの女房は娘たちが腰掛けにしていた窓の角(かど)にある大きな畳石をつかんだ。

 ジャヴェルは帽子をかぶって、両腕を組み、杖を小脇(こわき)にはさみ、剣を鞘(さや)に[#「鞘(さや)に」は底本では「鞘に(さや)」]納めたままで、室(へや)の中に二歩はいり込んだ。

「そこにじっとしていろ!」と彼は言った。「窓から出ちゃいかん。出るなら扉(とびら)の方から出してやる。その方が安全だ。貴様たちは七人だが、こちらは十五人だ。オーヴェルニュの田舎者(いなかもの)のようにつかみ合わなくてもいい。静かにしろ。」

 ビグルナイユは上衣の下に隠し持っていたピストルを取って、それをテナルディエの手に渡しながら、彼の耳にささやいた。

「あれはジャヴェルだ。俺(おれ)はあいつに引き金を引くなあいやだ。貴様やってみるか。」

「やるとも。」とテナルディエは答えた。

「じゃあ打ってみろ。」

 テナルディエはピストルを取って、ジャヴェルをねらった。

 三歩前の所にいたジャヴェルは、彼をじっとながめて、ただこれだけ言った。

「打つな、おい、当たりゃしない。」

 テナルディエは引き金を引いた。弾(たま)ははずれた。

「それみろ!」とジャヴェルは言った。

 ビグルナイユは玄翁(げんのう)をジャヴェルの足下に投げ出した。

「旦那(だんな)は悪魔の王様だ、降参すらあ。」

「そして貴様たちもか。」とジャヴェルは他の悪漢どもに尋ねた。

 彼らは答えた。

「へえ。」

 ジャヴェルは静かに言った。

「そうだ、それでよし。俺が言ったとおり、皆おとなしい奴(やつ)らだ。」

「ただ一つお願いがあります、」とビグルナイユは言った、「監禁中煙草(たばこ)は許していただきてえんですが。」

「許してやる。」とジャヴェルは言った。

 そして後ろをふり返って呼んだ。

「さあはいってこい。」

 剣を手にした巡査と棍棒(こんぼう)の類を持った刑事との一隊が、ジャヴェルの声に応じておどり込んできた。そして悪漢どもを縛り上げた。一本の蝋燭(ろうそく)の光がそれら一群の人々をようやく照らして、部屋(へや)の中はいっぱい影に満ちた。

「皆に指錠をはめろ。」とジャヴェルは叫んだ。

「そばにでもきてみろ!」と叫ぶ声がした。それは男の声ではなかったが、さりとて女の声とも言い得ないものだった。

 テナルディエの女房が窓の一方の角によって、その怒鳴り声を揚げたのだった。

 巡査や刑事らは後ろにさがった。

 彼女は肩掛けをぬぎすてて、帽子だけはかぶっていた。亭主はその後ろにうずくまって、ぬぎすてられた肩掛けの下に身を隠さんばかりにしていた。彼女はまたそれを自分の身体でおおいながら両手で頭の上の畳石を振りかざして、岩石を投げ飛ばさんとする巨人のように調子を取っていた。

「気をつけろ。」と彼女は叫んだ。

 人々は廊下の方へ退いた。室のまんなかには広い空地があいた。

 テナルディエの女房は指錠をはめられるままに身を任した悪漢どもの方をじろりと見やって、つぶれた喉声(のどごえ)でつぶやいた。

「卑怯者(ひきょうもの)!」

 ジャヴェルはほほえんだ。そしてテナルディエの女房がにらみつけてる空地のうちに進み出た。

「近くへ来るな、行っちまえ、」と彼女は叫んだ、「そうしないとぶっつぶすぞ。」

「すごい勢いだな。」とジャヴェルは言った。「上(かみ)さん、お前さんに男のような髯(ひげ)があるからって、わしにも女のような爪(つめ)があるからな。」

 そして彼はなお進んで行った。

 テナルディエの女房は髪をふり乱し恐ろしい様子をし、足をふみ開き、後ろに身をそらして、ジャヴェルの頭をめがけて狂わんばかりに畳石を投げつけた。ジャヴェルは身をかがめた。畳石は彼の上を飛び越え、向こうの壁につき当たって漆喰(しっくい)の大きな一片をつき落とし、それから、幸いにほとんど人のいなかった室(へや)のまんなかを、角から角とごろごろころがり戻って、ジャヴェルの足下にきて止まった。

 同時にジャヴェルはテナルディエ夫婦の所へ進んだ。彼の大きな手は、一方に女房の肩をとらえ、一方に亭主の頭を押さえた。

「指錠だ!」と彼は叫んだ。

 警官らは皆一度に戻ってきた。そして数秒のうちにジャヴェルの命令は遂行された。

 とりひしがれたテナルディエの女房は、縛り上げられた自分の手と亭主の手とを見て、床(ゆか)の上に身を投げ出して、泣き声を揚げた。

「ああ娘たちは!」

「娘どもも、もう暗い所へはいってる。」とジャヴェルは言った。

 そのうちに警官らは、扉(とびら)の後ろに眠っている酔っ払いを見つけて、揺り動かした。彼は目をさましながらつぶやいた。

「すんだか、ジョンドレット。」

「すんだよ。」とジャヴェルが答えた。

 捕縛された六人の悪漢はそこに立っていた。でも彼らはその異様な顔つきのままであって、三人は顔をまっ黒に塗っており、三人は仮面をかぶっていた。

「面はつけておけ。」とジャヴェルは言った。

 そして、ポツダム宮殿で観兵式をやるフレデリック二世のような目つきで、後は一同を見渡して、それから三人の「暖炉職工」へ向かって言った。

「どうだビグルナイユ。どうだブリュジョン。どうだドゥー・ミリヤール。」

 次に仮面をかぶってる三人の方へ向いて、彼は斧(おの)の男に言った。

「どうだな、グールメル。」

 それから棍棒(こんぼう)の男に言った。

「どうだな、バベ。」

 それから腹声の男に言った。

「おめでとう、クラクズー。」

 その時彼は、悪漢どもの捕虜を顧みた。捕虜は警官らがはいってきてからは、一言をも発せず、じっと頭をたれていた。

「その者を解いてやれ。」とジャヴェルは言った。「そしてひとりも外へ出てはならんぞ。」

 そう言って彼は、おごそかにテーブルの前にすわった。テーブルの上には蝋燭(ろうそく)とペンやインキがまだ置いてあった。彼はポケットから印のはいった紙を一枚取り出して、調書を書き初めた。

 いつも同一なきまり文句を二、三行書いた時、彼は目を上げた。

「その男どもから縛られていた者をここに連れてこい。」

 警官らはあたりを見回した。

「どうしたんだ、」とジャヴェルは尋ねた、「その者はどこにおるんだ。」

 悪漢どもの捕虜、ルブラン氏もしくはユルバン・ファーブル氏、もしくは、ユルスュールあるいはアルーエットの父親は、消えうせてしまっていた。

 扉(とびら)には番がついていたが、窓には番がいなかった。彼は縛りが解かれたのを見るや否や、ジャヴェルが調書を書いてる間に、混雑と騒ぎと人込みと薄暗さとまただれも自分に注意を向けていない瞬間とに乗じて、窓から飛び出して行ったのである。

 ひとりの警官は窓の所へ駆け寄って見回した。外にはだれも見えなかった。

 繩梯子(なわはしご)はまだ動いていた。

「畜生!」とジャヴェルは口の中で言った。「あれが一番大事な奴(やつ)だったに違いないが。」

     二十二 第二部第三編に泣きいし子供

 それらの事件がオピタル大通りの家で起こったその次の日、オーステルリッツ橋の方からきたらしいひとりの少年が、フォンテーヌブロー市門の方へ向かって右手の横丁を進んで行った。まったく夜になっていた。少年は色青くやせていて、ぼろをまとい、二月の寒空に麻のズボンをつけ、声の限りに歌を歌っていた。

 プティー・バンキエ街の角(かど)の所に、腰の曲がった婆さんが、街灯の光を頼りに掃(は)き溜(だ)めの中をかき回していた。少年は通りすがりにその婆さんにつき当たって、それからあとじさりながら大きい声で言った。

「おやあ! 俺(おれ)はまたでかいでかい犬かと思ったい。」

 彼はその二度目の「でかい」という言葉を、おどけた声を張り上げて言った、文字にすればその言葉だけ一段と活字を大きくすべき所である。

 婆さんは怒って立ち上がった。

「小僧め!」と彼女はつぶやいた。「かがんでいなかったら、蹴飛(けと)ばしてやるところだったに。」

 少年は既に向こうに行っていた。

「しッしッ。」と彼は言った。「やはり犬には違いないや。」

 婆さんは息もつまらんばかりに腹を立てて、すっかり立ち上がった。目尻の皺(しわ)と口角とがいっしょになってる角張った皺だらけの蒼白(そうはく)な顔を、街灯の赤い光が正面から照らした。身体は影の中に隠れて、頭だけしか見えなかった。暗夜のうちから一条の光で切り取られた「老耄(おいぼれ)」そのものの面かと思われた。少年はそれをじろじろながめた。

「お上(かみ)さんも美しいがね、俺の気に入るたちのものじゃあないや。」と彼は言った。

 彼はまた歩き出して、歌い初めた。

クードサボ王様(どた靴王様(ぐつおうさま)

狩りに行かれぬ、

烏の狩りに……

 そう三句歌った後、彼は口をつぐんだ。彼は五十・五十二番地の家の前にきていた。そして戸がしまってるのを見て、足で蹴(け)り初めた。その大きな激しい音は、彼の少年の足よりもむしろ、その足にはいてる大人(おとな)の靴を示していた。

 そのうちに、プティー・バンキエ街の角(かど)で出会った先刻の婆さんが、叫び声を立て大層な身振りをして、後ろから駆けつけてきた。

「どうしたんだね。どうしたんだね。まあ、戸が破れるじゃないか。家(うち)をこわしでもするのかい。」

 少年はやはり蹴り続けた。

 婆さんは喉(のど)を張り裂かんばかりに叫んだ。

「おい、人の家をそんなにしてもいいものかね。」

 と突然彼女は言葉を切った。先刻の浮浪少年であることに気づいたのである。

「おや、今の餓鬼だよ。」

「おや、お婆さんか。」と少年は言った。「こんちは、ビュルゴンミューシュ婆さん。俺(おれ)はちょっと御先祖様に会いにきたんだ。」

 婆さんは老衰と醜さとをよく利用して即座にしたたか憎しみを現わす変なしかめっ面をしたが、それは不幸にも暗やみの中なので見えなかった、そして答えた。

「もうだれもいないよ、おばかさん。」

「へえー。」と少年は言った。「じゃあ親父(おやじ)はどこにいるんだい。」

「フォルス監獄だよ。」

「おやあ! じゃあ母親(おふくろ)は?」

「サン・ラザール懲治監だよ。」

「なるほど! それから姉たちは?」

「マドロンネット拘禁所だよ。」

 少年は耳の後ろをかいて、ビュルゴン婆さんをながめた、そして言った。

「ほうー。」

 それから彼は回れ右をして立ち去った。戸口に立っていた婆さんは、それからすぐに、冬の寒風に震えてる黒い楡(にれ)の並み木の下を、歌を歌いながら遠ざかってゆく少年の朗らかな若い声を聞いた。

クードサボ王様

狩りに行かれぬ、

烏の狩りに、

お輿(こし)は竹馬。

下をくぐらば

二スー取られぬ。



底本:「レ・ミゼラブル(二)」岩波文庫、岩波書店


   1987(昭和62)年4月16日改版第1刷発行

   「レ・ミゼラブル(三)」岩波文庫、岩波書店

   1987(昭和62)年5月18日改版第1刷発行

※「ジョンドレットの女房が」の段落は、底本では天付きになっています。

※誤植の確認に「レ・ミゼラブル(四)」岩波文庫、岩波書店1959(昭和34)年6月10日第12刷を用いました。

入力:tatsuki

校正:門田裕志、小林繁雄

2007年1月16日作成

青空文庫作成ファイル:

このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。






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