フランツ・カフカ Franz Kafka 原田義人訳 審判 DER PROZESS


第十章 終末


 Kの三十一歳の誕生日の前夜――夜の九時頃で、街の静かになるときだった――二人の紳士が彼の住居にやってきた。フロックコート姿で、蒼白(あおじろ)く、身体(からだ)は肥って、びくともしないようなシルクハットをかぶっていた。初めての来訪なので家の玄関でちょっと儀礼じみたことをやった後、Kの部屋の前では、同じ儀礼じみた動作をもっと大仕掛けに繰返した。来訪は告げられていなかったが、Kは同じように黒の服装で、扉(とびら)の近くの椅子にすわり、指にぴったりと合う新しい手袋をゆっくりとはめていたが、まるで客を待っているような態度だった。すぐ立ち上がって、紳士たちを物珍しげに見つめた。
「私のところに来るようにきまっていたのはあなた方でしたか?」と、彼はきいた。
 紳士たちはうなずき、一人は手にしたシルクハットでもう一人のほうを示した。Kは、自分は別な訪問客を待っていたのだ、と思った。窓ぎわへ行き、もう一度暗い通りをながめた。通りの向う側の窓々もほとんど全部もう暗くなっていて、多くの窓にはカーテンがおろされていた。二階の明りのついたひとつの窓では、格子(こうし)の後ろで小さな子供たちが遊んでいたが、まだ自分の場所から動くことができないで、小さな手で互いにさわり合っていた。
「老いぼれた、下(した)っ端(ぱ)の役者をおれのところへよこしやがった」と、Kはつぶやき、もう一度そのことを確かめるために、振向いた。「手軽なやりかたで、おれのことを片づけようとしているんだ」
 Kは突然、彼らのほうを向き、きいた。
「どこの劇場でやっておられるんですか?」
「劇場?」と、一人は口もとをぴくぴくさせながら、もう一人のほうに意見を求めた。もう一人のほうは、全然手の下しようのない生物体と闘っている唖(おし)のような身振りであった。
「質問される心構えができていないようだ」と、Kはつぶやき、帽子を取りにいった。
 階段の上で早速、二人はKの腕を取ろうとしたが、Kは言った。
「通りに出てからにしてください。私は病気じゃないんだから」
 ところが門の前に来るとすぐ、Kがこれまで人と歩いたことのないようなやりかたで、Kの腕を取った。二人は肩を彼の肩のすぐ後ろにくっつけ、腕を曲げないで、むしろそれを利用してまっすぐのままKの腕にからませ、下のほうでは、訓練の行き届いた、慣れた、反抗できぬようなつかみかたで、Kの両手をとらえた。Kは身体をこわばらせて二人のあいだにはさまれて歩いていったが、今では三人が統一を形づくっているので、一人が倒されれば、全部がめちゃめちゃにされてしまうほどだった。ほとんどただ無生物だけが形づくりうるような統一だった。
 街燈の下で、Kはしばしば、こんなにくっついているのでやるのはむずかしかったが、自分の部屋の薄暗がりではできなかったほどはっきりと、二人の連れを観察しようとした。
「きっとテノール歌手なんだろう」と、Kは二人の重々しい二重顎(あご)をながめて思った。彼らの顔の清潔さが、Kをむかつかせた。眼尻(めじり)をなで、上唇(うわくちびる)をこすり、顎の皺(しわ)をかくきれいな手も、はっきりと見えた。
 Kがそれに気づいて立ち止ると、そのためにほかの二人も立ち止った。広々とした、人けのない、さまざまな施設で飾られた広場にいた。
「どうしてあんた方みたいな人をよこしたんだろう!」と、きくというよりも叫んだ。
 二人はどう返事をしていいかわからぬらしく、病人が休もうとするときの看護人のように、腕を垂(た)れ、遊ばせたまま、待っていた。
「もう歩かない」と、Kはためしに言ってみた。二人はそんなことに返答する必要はなく、つかみかたをゆるめず、Kをその場から連れ去ろうとすれば十分だったが、Kは抵抗した。
「もう大いに力を振うというどころでなく、根限りの力をつかってみよう」と、彼は考えた。脚を引っ張られながら、蠅取紙(はえとりがみ)から逃げようともがく蠅たちのことが思い出された。
「この連中もたいへんな仕事をやらずばなるまい」
 そのとき彼らの眼前に、低くなっている小路から小さな階段を伝わってビュルストナー嬢が広場へと登ってきた。その女がそうだということはまったく確かではなかったが、もちろん似ていることは大いに似ていた。だが、それが確かにビュルストナー嬢であるかどうかはKにもたいした問題ではなく、ただ自分の抵抗の無意味さがすぐ彼の意識にのぼってくるのだった。抵抗し、今二人を大いにてこずらせ、拒みながらも生の最後の輝きを味わおうと試みても、それはなんら英雄的なことではなかった。彼は歩きだし、それによって二人をよろこばせたことが、いくらか自分自身に報いられる結果になった。Kが道をどの方角にとっても二人は黙っているので、彼は女が彼らの前で歩いてゆく道についてゆくことにきめた。何か女に追いつこうとか、できるだけ長く女を見ていたいとかいうためではなく、ただ女が彼にとって意味する警告を忘れないためだった。
「おれが今なしうる唯一のことは」と、彼はつぶやいたが、自分の歩みと二人の歩みとがぴったり合っていることが彼の考えを裏づけるように思われた。「おれが今なしうる唯一のことは、冷静に処理してゆく理性を最後まで保つことだ。おれはいつも二十本もの手を持って世の中にとびこもうとしたのだったが、そのうえあまり適当でない目的のためにだったのだ。それは間違っていた。一年間の訴訟がおれに全然教えるところがなかったということを、おれは見せるべきだろうか? 物わかりの鈍い人間として退場すべきだろうか? 訴訟の初めにはそれを終えようと願ったのに、その大詰になった今ではまた始めたいと思っているなどと陰口を言われてよいものだろうか? そんなことを言われたくない。この道中、おれに対してこんな半分唖(おし)のような、物のわからぬ連中を付き添わせてくれたこと、そして勝手気儘(きまま)に必要なことをつぶやくままにさせておいてくれたこと、これはありがたいことだ」
 そうしているうち、女は横町に曲ってしまったが、Kはもう女には用はなく、同伴者たちにまかせきりになっていた。今や三人全部が完全にわかり合って月光の中のある橋を渡った。Kが示すどんな小さな身動きにも、男たちは今はよろこんで従い、Kが少し欄干のほうに向うと、彼らもすっかりそちらを向いた。月光の中に輝き震えている水は、ひとつの小さな島で分れ、その島の上には、一まとめにされたように樹や灌木(かんぼく)の葉簇(はむら)が盛り上がっていた。それらの葉簇の下には今は見えないが、快適なベンチのある砂利道(じゃりみち)が通っていて、それらのベンチにKは幾夏も身体を伸ばしたりしたものだった。
「立ち止るつもりは全然なかったんです」と、Kは同伴者たちに言い、彼らがいかにも自分の意のままにしてくれるのを恥ずかしく思った。一人はもう一方の男に、Kの背後で、間違って立ち止ったことについて軽くとがめているようだった。それから彼らはまた歩いていった。
 登り坂の小さな道をいくつか行ったが、そこにはあちらこちらに警官たちが立ち止ったり、歩いたりしていた。あるいは遠くのほうに、あるいはすぐ近くにいるのだった。もじゃもじゃの鬚(ひげ)を生やした一人の警官が、サーベルの柄に手をかけ、何かいわくありげに、まったくうさんくさくないとは言いきれぬこの一行に近づいてきた。二人の男は立ち止り、警官が今にも口を開きそうに見えたとき、Kはぐいと二人を前へ引っ張っていった。警官がついてきはしないか、と彼は幾度も振返ってみた。ところが彼らと警官とのあいだに少し距離が開いたとき、Kが走り始めたので、二人の男たちも息をはずませながらいっしょに走らなければならなかった。
 こうして彼らは大急ぎで町から出た。町はこの方角では、ほとんど変り目というものがなく、すぐ野原に続いていた。まだまったく町らしい趣をとどめている一軒の家のそばに、小さな石切場が、見捨てられ、荒涼として、横たわっていた。この場所が初めから彼らの目的地だったのか、あるいはあまり疲れてもうこれ以上走れなくなったからか、ここで二人は立ち止った。そして、黙ったまま待ちかまえているKを手放し、シルクハットを脱ぎ、石切場を見まわしながら、額の汗をハンカチでぬぐった。あたり一面に、ほかの光にはないような自然らしさと落着きとをもって、月光がふり注いでいた。
 さて次の仕事はどちらがやらねばならぬのかという点についていくらか慇懃(いんぎん)な応酬を交(か)わして後――二人は分担をきめることなく任務を受けてきたらしかった――一人がKに歩み寄り、彼から上着、チョッキ、さてはシャツまでもはぎ取った。Kは思わず知らず身震いすると、その男は軽く、なだめるようにKの背中をたたいた。それからそれらの着物を、今すぐではないが要(い)ることもあるという品物のように、丁寧に取りまとめた。Kがじっとしていて冷たい夜気にさらされ放しにならないように、男はKの腕を取り、あちこちと少しばかり歩いたが、もう一人の男は石切場でどこか適当な場所を捜していた。それを見つけると合図をし、もう一人がKをそこへ連れていった。採掘石壁の近くで、そこには切られた石があった。二人はKを地上に置き、その石にもたれさせ、頭を上向きに寝かせた。彼らがいろいろ努力したにもかかわらず、またKが彼らの意にかなうことをいろいろとやってみせたにもかかわらず、Kの姿勢はきわめて窮屈で、信じられないようなものだった。そこで一方の男は、Kを寝かすことをしばらく自分だけにまかせるようにと頼んだが、そうやってみてもよくはならなかった。とうとうKをひとつの姿勢に置いたのだったが、けっしていちばん具合のよい準備完了の姿勢ではなかった。次に一方の男がフロックコートを開き、チョッキのまわりに締めた帯にかかっている鞘(さや)から、長くて薄い両刃の肉切庖丁(ぼうちょう)を取出し、高くかざして、月の光で刃を調べた。また例の不愉快な慇懃さが始まり、一方がKの頭越しに小刀をもう一人に渡し、その男はまたそれをKの頭越しにもどした。Kは今やはっきりと、小刀が手から手へと自分の頭上で行き来しているとき、自らそれをつかみ、自分の身体をえぐるのが義務だろうということを、知ったのだった。しかし、彼はそうはしないで、まだ自由な頸(くび)を動かして、あたりを見まわした。完全に身のあかしをたてることはできず、役所からあらゆる仕事を取除くこともできなかったが、この最後の失策に対する責任は、それに必要な力の残りをおれから拒んだやつが負うのだ。彼の眼差(まなざし)は石切場に接した家のいちばん上の階に注がれた。明りがつくと、ひとつの窓の扉が開き、はるかに高いところにいるので弱々しく、痩(や)せて見える一人の男が、ぐっと前に身体を乗り出し、腕をいっそう広くひろげた。いったい誰だ? 友人か? いい人間か? 関係している人間か? 助けてくれようとする者か? 一人だけなのだろうか? たくさんの人間がいるのだろうか? まだ助かる見込みはあるのか? 忘れられていた異議があるのか? きっとそんな異議があるはずだ。論理は揺るがしがたいが、生きようと欲する人間には、その論理も対抗することはできない。おれが見なかった裁判官はどこにいるんだ? おれがそこまでは行きつけなかった上級裁判所はどこにあるのだ? 彼は両手を上げ、指をことごとくひろげた。
 しかし、Kの喉(のど)には一人の男の両手が置かれ、もう一方の男のほうは小刀を彼の心臓深く突き刺し、二度そこをえぐった。見えなくなってゆく眼で、Kはなおも、二人の男が頬(ほお)と頬とを寄せ合って自分の顔の前で決着をながめている有様を見た。
「まるで犬だ!」と、彼は言ったが、恥辱が生き残ってゆくように思われた。
[#改丁]
 ≪付録≫


断章六編



エルザのもとで


 ある日、Kが出かけようとしていた直前、電話で呼び出され、すぐ裁判所事務局に来るよう求められた。これに従わぬことのないように念をおされた。彼が述べた前代未聞(みもん)の言葉、すなわち尋問は無益であって、なんの効果もないし、またなんの効果もあげることはできないということ、もうけっして出頭はしないということ、電話や文書で召喚されてもそんなものは問題にしないし、使いの者は扉(とびら)から放り出してやるということ、そういうことはすべて記録としてとってあるし、すでにKにとってきわめて不利なものになった。なぜ命令に服したくないのか? 時間と金とを惜しまずに、裁判所は君のこみいった事件を解決しようと努力してきたのでなかったか? 君はそれに気儘(きまま)勝手に水をさし、裁判所がこれまで君に対して猶予してきた強制処置をとらせようとするのか? 今日の召喚は最後の試みである。君はどうであろうと好きなようにしてよろしいが、高級裁判所は嘲弄(ちょうろう)されて黙ってはいないということをよく胸に畳んでおくべきだ、というのだった。
 ところでKは、その晩、エルザを訪問するように言ってあったので、この理由からだけでも裁判所には行けなかった。それによって裁判所に出頭しないことを理由づけることができることを彼はよろこんだが、もちろんこんな理由を使う気は全然なかったし、この晩にほかの前約が全然なかったとしても裁判所には行かないということはきわめてありうることだった。ともかく、自分にはりっぱな権利があると思いながら、もし行かなかったらどうなるか、と電話できいてみた。
「君をかならず見つけ出せるだろう」というのが返事だった。
「で、進んでゆかなかったというので、罰せられることはあるんですか?」と、Kはきき、きっと言うにちがいないと思われる言葉を予想しながら微笑した。
「そんなことはない」という返事だった。
「それは結構です」と、Kは言った。「ですがそれなら、今日の召喚に従わなければならないどんな理由があるというんです?」
「わざわざ裁判所に強制手段をとらせるようなことはしないものだ」と、だんだん弱くなって最後に消えてゆく声が言った。
「そんなことをしたら、非常に軽率というものだ」と、Kは出てゆきながら考えた。「しかし強制手段というのはどういうものか、一度お目にかかる必要がある」
 ためらうことなく、エルザのところへ出かけた。くつろいで車の隅(すみ)によりかかり、両手を外套(がいとう)のポケットに突っこみ、――すでに寒くなりはじめていた――彼は往来の頻繁(ひんぱん)な通りをながめた。もし裁判所がほんとうに活動しているなら、少なからぬ面倒を裁判所に与えてやったはずだ、と彼はある種の満足をもって考えた。裁判所に行くとも、行かぬとも、はっきりと言ってはやらなかった。したがって裁判官は待っているだろうし、おそらくは相当の人数の連中さえも待っていることだろうが、自分だけは現われずに、傍聴席をことに失望させることだろう。裁判所に迷わされずに、自分の好きなところへ行くのだ。ところで、ふざけて御者に裁判所の番地を言わなかっただろうか、とちょっと不安になったので、大声でエルザの番地を叫んでやった。御者はうなずいたが、さっきも別にそれとちがう番地を言ったわけではなかった。そのときからKは次第に裁判所のことを忘れ、銀行についてのさまざまな考えが、以前と同じようにまた彼の心を満たしはじめた。


母のもとへの旅行


 昼食のとき、突然、母をたずねようと思いついた。今はもう新年もほとんど終りかけているから、母にこの前会ってから足かけ三年になる。母はあのとき、お前の誕生日には来るようにと頼んだので、彼もいろいろ支障はあったがその頼みに応じ、誕生日のたびごとに母のもとで過すよう約束さえしたのだったが、この約束は確かにもう二度も破ったのだ。しかしそのかわりに今度は、誕生日はもう二週間ばかり後のことだが、それまでは待たずにすぐ行こうと思った。ちょうど今行かねばならぬ特別な理由は何もない、と自分に言い聞かせはした。それどころか、故郷の小さな町に一軒の商店を持っており、Kが母に送る金を管理してくれている一人の従兄(いとこ)から、一月おきにきちんきちんと受けている知らせは、これまでのいつよりも安堵(あんど)できるものだった。母の視力は消えようとしているが、そのことは医者たちの言うところからすでに何年も前から予期していた。その反面、ほかの点での健康状態はいっそうよくなり、老齢のさまざまな不快は強まるどころか少なくなり、少なくともこぼすようなことはいっそう少なくなった。従兄の意見によると、それはおそらく、ここ数年来――Kは、この前訪れたときすでにそれの軽い徴候を認めてほとんど不快を覚えたのだったが――桁(けた)はずれに信心深くなったことと関係がある、ということだった。以前にはやっとの思いで身体(からだ)を引きずっていったこの老婆が、今では、日曜日に教会へ連れてゆくときには、自分の腕にすがって実にしっかりと歩いてゆく、と従兄はある手紙でまるで手にとるように書いてよこした。そしてKは従兄の言うことが十分信じられた。なぜならば、心配性の従兄はいつもは報告中によいことよりもむしろわるいことを誇張するのがつねだったからである。
 しかし、そんなことはどうあろうとも、Kは今は行くことに心をきめた。彼は最近では別な不快さのために一種の愚痴っぽさを身につけてしまった。自分のしたいと思うことになんにでも敗(ま)けてしまうという、ほとんど定見というもののない傾向である。――さて、今の場合にはこの悪徳は少なくともひとつのよい目的に役だつわけだった。
 考えを少しまとめるために窓ぎわに行ったが、すぐに食事を片づけさせ、小使をグルゥバッハ夫人のところへやって、旅行に出る旨を知らせ、必要と思うものを夫人につめてもらって手提鞄(てさげかばん)を持ってくるように命じた。次に、キューネ氏に対して自分が不在のあいだの二、三の商売上の用件を頼んだが、すでにならわしとなった不躾(ぶしつけ)な態度でキューネ氏が、自分はしなければならぬことはよくわきまえている、こんな命令はただ儀礼上聞いてやっているのだ、というようにそっぽを向きながら聞いていることにも、今度だけはほとんど腹がたたなかった。そして最後に支店長のところへ行った。母のところへ行かねばならぬので二日ほど休暇をいただきたい、と支店長に頼むと、もちろん支店長は、あなたのお母さんは病気がわるいのか、ときいた。
「いいえ」と、Kは言ったが、それ以上の説明はしなかった。
 両手を背後に組み、部屋の真ん中に突っ立っていた。眉(まゆ)をひそめて考えこんだ。どうも出発の準備を急ぎすぎたのではなかったか? ここにこのままいたほうがよかったのではないか? 故郷に帰ってどうしようというのだ? 感傷などから行こうと思うのだろうか? そして感傷から、おそらくここで何か重大なこと、たとえば訴訟に手をかけるチャンスを逸してしまうのではなかろうか? そういうチャンスは、訴訟がこれでもう何週間も落着いてしまったように見え、ほとんど何ひとつはっきりした知らせがやってこなくなって以来、いつなんどきやってくるかわからなかった。そしてそのうえ、老いた母を驚かすことにならないか? もちろんそんなつもりはないのだが、今では自分の意志に反してさまざまなことが持ち上がる始末なのだから、意に反してそうなることはきわめてありそうなことだった。それに母は、自分に来いとは全然言ってきてはいなかった。以前には、従兄の手紙には母の切なる招きがきまって繰返されていたのに、今はもうかなりのあいだ、そういうことがなかった。それゆえ母のために行くのではないことは、明瞭(めいりょう)だった。しかし、もし自分のなんらかの期待から行くのだとしたら、自分は完全に馬鹿者だし、きっと故郷では、窮極の絶望のうちに、自分のばかさ加減の報いを受けることになるだろう。だが、こうした疑惑のすべては自分のものではなく、他人たちが自分にもたらそうとしているものだ、とでもいうように、はっきりとした自覚を持ちながら、Kは行くという決心を変えなかった。こんなことを考えているあいだ、支店長は、偶然なのか、それともこのほうがほんとうらしいが、Kに対する格別な思いやりからか、新聞の上にかがみこんでいたが、やがて眼を上げ、立ち上がりながらKに手を差出し、それ以上は何もきかずに、元気で旅行されるように、と言った。
 Kはそれからしばらく、事務室の中をあちこち歩きながら小使を待っていたが、Kが旅行に出る理由を聞こうとして何回もやってくる支店長代理には、ほとんど口もきかずに肘鉄砲(ひじでっぽう)を食わせ、ついに手提鞄が着くと、すでに前もって命じておいた車へと急いで降りていった。彼が階段に行くやいなや、最後の瞬間に上のほうに行員のクリヒが現われ、書きかけの手紙を手にしていたが、明らかにKからそれについての指示を仰ごうとするものらしかった。Kは相手に手で断わりの合図をしたのだったが、このブロンドの大頭の男は物わかりがわるいので、その合図を間違って取り、便箋(びんせん)を振りながら危なかしいほどのとびかたでKの後(あと)を追ってきた。Kはそれに非常に怒ったので、クリヒが表階段で彼に追いつくと、その手紙を彼の手から奪い、引裂いた。次にKが車の中で振返ると、自分の失策がまだわからないらしいクリヒは同じ場所に立って、走り去って行く車を見送っていたが、彼に並んで門番が、改まって帽子を目深(まぶか)にかぶり直していた。それではおれはまだ銀行の高級職員の一人なのだ。いくらおれがそれを否定しようとしても、門番がきっと反駁(はんばく)したことであろう。そして母は、いくらそうでないと説き聞かせても、おれのことを銀行の支店長だと思っており、しかもそれが数年来のことなのだ。そのほかのことでいくらおれの声望が傷つけられても、母の考えではおれの価値が下落することはないだろう。ちょうど出発の前に、裁判所とつながりさえある行員の手から手紙を奪い取り、挨拶(あいさつ)もなしに破っても、自分の両手が焼けもしないというくらいの力をまだ依然として持っているのだ、と確信したことは、おそらくいいしるしにちがいなかった。


(編者注 以下は抹消されている)

 ……もちろん、彼がいちばんやりたかったことはやれなかった。つまり、クリヒの蒼白(あおじろ)い、丸い頬(ほお)を二つばかり大きな音をたててなぐりつけることだ。一面から言うと、それはもちろん、大いによいことなのだ。なぜなら、Kはクリヒをきらい、クリヒばかりではなく、ラーベンシュタイナーとカミナーとをもきらっているからである。Kは、ずっと前から彼らをきらっていた、と思っている。ビュルストナー嬢の部屋に彼らが現われたことは、彼をして初めてこの男たちに注意をはらわせたのだったが、彼の嫌悪(けんお)はもっと前からのものである。そして最近では、Kはほとんどこの嫌悪に苦しめられている。この嫌悪を晴らすことができないからである。いずれも、まったく取るに足りないいちばん下っ端の行員なので、彼らに近づくことはきわめてむずかしい。年功の力以外によっては彼らは昇進できないだろうし、この点でさえほかの誰よりも手間取っているので、彼らの出世の邪魔をすることはほとんど不可能に近い。他人の手によって加えられるどんな妨害も、クリヒの愚かさとラーベンシュタイナーの怠惰とカミナーのいやらしいはいつくばるような卑屈さとほどには、大きいはずがない。彼らに対して企てうる唯一のことは、彼らを免職するように手をまわすことだろうし、それはきわめて容易に実現できることでさえあって、支店長に対してKがほんの二言三言言えば事は足りるのだが、Kはそうすることをはばかっている。公然もしくは秘密にKのきらうことならなんでもやろうとする支店長代理が三人の味方になるならば、Kはおそらくそうするだろうが、奇妙なことに今度は支店長代理が例外的な態度を示し、Kの欲することを同じように望んでいるのである。


検事


 長年の銀行勤めで、Kは人を見る眼や世故に長(た)けてはいたが、自分と同じ常連仲間は非常に尊敬すべきものに思われたし、このような仲間の一員であるのは自分にとって大きな名誉だということを、自分自身に対してけっして否定したことはなかった。ほとんどもっぱら裁判官、検事、弁護士から成る仲間で、二、三人のきわめて若い役人や弁護士見習も仲間入りを認められていたが、これらの若者たちはまったく末席にすわっていて、特別な質問が向けられたときにだけ論争に加わることが許されるのだった。しかし、こうした質問はたいてい、ただ仲間を興がらすだけの目的を持つものであり、いつもKの隣にすわるハステラー検事が特に、こうしたやりかたで若い人々を赤面させることが好きであった。彼が大きな、毛のもじゃもじゃ生(は)えている手を机の真ん中でひろげ、末席のほうを向くと、もうみなが聞き耳をたてるのだった。そして、それから末席で誰かが質問を受けたものの、それをどうも解けないとか、あるいはじっと考えこんでビールを見つめるとか、あるいは口をきくかわりにただ顎(あご)でぱくつくとか、あるいは――これがいちばんみじめだが――止めどもない熱弁をふるって間違った意見か確認されない意見かをもらすとかすると、年配の紳士たちは微笑しながら自分たちの席に向き直り、やっと快適になったという様子を見せるのだった。ほんとうにまじめな、専門的な話というのは、ただ彼らだけの仲間に取っておきであった。
 Kは、銀行の法律顧問であるある弁護士によってこの仲間に連れこまれた。ひところKはこの弁護士と銀行で夜遅くまで長い打合せをやらねばならぬときがあって、そこでおのずと弁護士といっしょにその常連席で夕食をとり、仲間づきあいを大いに楽しむ、ということになったのだった。ここで見られるのは、ただ学問のある、声望の高い、ある意味では権力のある紳士たちばかりであって、彼らの気晴らしというのは、むずかしい、人生とは関連の薄い問題を解こうと努め、この点で疲れるほどやるということにあった。K自身はもちろん、介入できることはほとんどなかったが、遅かれ早かれ銀行でも役にたつようなたくさんのことを聞く機会を手に入れた。そしてそのうえ、いつでも役にたつような個人的な関係を裁判所と結ぶことができた。だがその仲間の人々も、彼のことをよろこんで迎えるように見えた。間もなく実業の専門家として認められ、こういう事柄についての彼の意見は――その場合に事が全然皮肉などなしに運ぶということはなかったが――何か反駁(はんばく)できないものとして通っていた。商法上の法律問題においてちがった判断を持っている二人の人物が、そういう事実についてのKの意見を求め、次にKの名前があらゆる話のやりとりにしょっちゅう現われ、ついにはもうとっくにKにはついてゆけないようなきわめて抽象的な検討に引っ張りこまれることもまれではなかった。もちろん彼には多くのことがわかってきた。ことに、ハステラー検事がそばについていてよい忠告者となってくれたからである。そしてこの人物はまたKと親しい近づきとなったのだった。しばしば夜分に家までついてくることさえあった。しかし、自分のことを釣鐘マントの中に全然目だたぬように隠してしまうことのできるような大男のそばを手に手をとって歩いてゆくことには、長いあいだなじめぬことだった。
 ところが時のたつにつれ、二人は非常にうまが合うようになったので、教養や職業や年齢のちがいがすべて消えてしまうほどだった。彼らは互いに交際したが、ずっと以前から互いに釣り合った相手同士のようであり、その関係においてときどきは外見上一方がすぐれているように見えるときがあると、それはハステラーではなくてKのほうだった。なぜならば、Kの実際的経験は裁判所の机の上ではけっしてありえぬほど直接的に手に入れられたものなので、たいていはそれが物を言ったからである。
 この友情はもちろん、その常連たちのあいだに間もなく広く知れ渡り、誰がKを仲間に連れこんだのかということは半分忘れられてしまい、Kと合うのはともかくハステラーだということになった。Kがこの仲間にはいっている権利があるかどうかということが疑わしくなると、彼は十分の権利をもってハステラーのことを引合いに出すことができるのだった。しかし、Kはそれによってひとつの格別有利な立場を獲得した。なぜなら、ハステラーは声望も高かったが、恐れられてもいたからである。彼の法律的な頭の力や巧みさというものはきわめて驚嘆すべきものではあったが、この点では多くの人々が少なくとも彼と同等であった。だがしかし、彼が自説を守る荒々しさにはなにびとも匹敵できなかった。ハステラーは相手を説き伏せることができないと、少なくとも相手を恐怖におとしいれるのだ、という印象をKは受けたが、彼が人差指を立てるだけで多くの人々は尻込(しりご)みするのだった。相手の人は、自分が善良な知人や同僚たちの仲間に加わっているのだということ、ただ理論的な問題だけに関することであり、実際にはけっして何事も起るものではない、ということを忘れてしまうようであって、――まったく口をつぐみ、頭を振って否定の気配を見せるだけでもすでに勇気の要(い)ることだった。相手が遠く離れてすわっているので、こんな距離では意見の一致はできるものでない、とハステラーが考え、食事の皿か何かを押しやって立ち上がり、相手その人のところへ出かけてゆくのは、実にすさまじい光景であった。近くにいる人々は頭をそらせて、検事の顔を見ようとした。もちろん、そういうことは比較的まれにしか起らない偶然的な事件であって、何よりもまず彼を興奮におとしいれるのはただ法律的問題、しかも主として、彼自身が前にやったか、あるいは現在やっているかする訴訟に関する問題、についてだけであった。事がこんな問題でなければ、彼はうちとけ、落着いており、彼の高笑いは愛想があり、彼の情熱はもっぱら飲み食いに向けられていた。一同の会話には全然加わらず、Kのほうに向きっきりになり、Kの椅子の背に腕をかけ、小声で彼に銀行のことをきき、自分でも自身の仕事のことをしゃべったり、裁判と同じくらい悩まされる女出入りのことも語ったりすることさえあった。仲間のほかの誰とも彼がそんなふうに話しているのは見られなかったし、事実またしばしば、ハステラーに折り入って頼みたいことがあると、人々はまずKのところへ行き、彼に仲介を頼むし、彼のほうもいつもよろこんで気軽にやってやるのだった。Kは、この点について自分とハステラーとの関係をうまく利用するというようなことではなく、およそすべての人々に対してきわめて慇懃(いんぎん)で謙遜(けんそん)であり、謙遜とか慇懃とかよりはいっそう大切なものだが、紳士たちの身分のちがいを正しく区別し、各人をその身分に応じて扱うということを心得ていた。もちろん、この点ではハステラーはしょっちゅうKに教えてくれた。これこそ、ハステラーがいくら興奮して論争しているときでも侵すことのない唯一の規則だった。そこで彼は、まだほとんどまったく身分などは持っていない末席の若い人々に対しても、いつもただ一般的な話を持ちかけるのだったが、相手は個々の人々ではなく、単に寄せ集められた群衆ででもあるかのような態度であった。ところがこの若い人々こそが、彼に対して最高の尊敬を示すのだった。そして十一時ごろ彼が帰宅しようと立ち上がると、すぐ一人は彼がどっしりした外套(がいとう)を着るのを助け、もう一人は大きく敬礼をして彼のために扉をあけ、ハステラーの後からKが部屋を出てゆくと、もちろんそれまで扉を押えているのだった。
 初めのうちはKがハステラーに、あるいはまた検事のほうがKに、帰路を途中まで同伴してゆくのだったが、後にはこんな夜々はきまって、ハステラーがKに、自分といっしょに家まで来てしばらく自分のところにいてくれるようにと誘うことで終った。そうすると二人はなお一時間も、ブランデーを飲んだり、葉巻をふかしたりして過すのだった。こうした晩はハステラーにとっては非常に楽しいものだったので、二、三週間ヘレーネという名の一人の婦人を彼のもとに住まわせていたときにも、こうしてKと過す夜々を捨てようとはしなかった。肥った、かなりな年配の婦人で、黄ばんだ膚をし、額のあたりに巻いている真っ黒な巻毛を持っていた。Kが初め彼女を見たときは、きまってベッドにはいっており、いつもそこにまったく恥ずかしげもなく横になり、分冊の小説本を読むのをつねとしていて、検事とKとの談話などは気にもかけなかった。夜も遅くなると、やっと身体を伸ばし、あくびをし、また、別なやりかたで注意を自分に向けることができないときには、読んでいる小説の一冊をハステラーに向って投げた。すると検事はにやにやしながら立ち上がり、Kに別れを告げるのだった。もちろん後には、ハステラーがヘレーネに飽き始めると、女は男二人が会うことを手きびしく邪魔した。そうなると彼女はいつも、完全に服装を整えて二人を待つのだったが、しかもそれがきまってあるひとつの服であって、それを女はきわめて高価な、似合うものと考えているらしかったが、実は古ぼけた、けばけばしい舞踏服で、飾りに垂(た)らしている二、三列の長い総(ふさ)によって特に不快な印象を強く与えるものだった。Kはこの着物を見ることをいわば拒んで、何時間でも眼を伏せてすわっていたので、この着物の詳しい格好は知らなかった。ところが女は、身体をゆすりながら部屋を通って歩いたり、Kの身近にすわったり、後に彼女の立場がいよいよ危なかしくなると、苦しまぎれにKの寵愛(ちょうあい)を得てハステラーに嫉妬(しっと)させようと試みる始末だった。丸みを帯びた肥った背中をむきだしにして机によりかかり、顔をKに近づけ、そうやってKに無理に眼を上げさせようとするのは、悪気ではなくて、ただ苦しまぎれのことだった。女がこんなことをやって手に入れたことと言えばただ、Kがその後ハステラーのところへ行くことを拒んだということだけであり、彼がしばらくしてまたそこへ行ったときには、ヘレーネはついに追い出されていた。Kはそのことを当然なこととして受取った。彼ら二人はその晩はことに長時間同席し、ハステラーの発議で友愛を祝し、Kは帰路煙草と酒とで少し気が遠くなってしまっていたくらいだった。
 ちょうど次の朝、銀行で支店長は商売上の話のついでに、昨晩Kを見かけたように思う、と言った。もし私の錯覚でなければ、あなたはハステラー検事と腕を取合って歩いていた、ということだった。支店長はこのことを非常に奇妙に感じているらしく、――もちろんこれはまたいつもの彼の几帳面(きちょうめん)さにふさわしいことだったが――教会の名をあげ、その泉の近くで二人に出会った、というのである。自分は蜃気楼(しんきろう)のことを話そうとしているのかもしれないが、自分の言うことに間違いはないのだ、と言った。そこでKは支店長に、検事は自分の友人であり、実際、昨晩自分たち二人は教会のそばを通った、ということを説明した。支店長は驚いたように微笑し、Kにすわるように求めた。それは、そのために、Kが支店長に非常な愛情を覚えた瞬間、この弱々しい、病身の、喘息(ぜんそく)持ちの、きわめて責任ある仕事をいっぱい負わされた人物から、Kの幸福と未来についてのある憂慮が、はっきりと現われてきた瞬間、そういった瞬間のひとつであった。そういう憂慮というのは、支店長において同じようなことを体験したほかの行員たちの言い草ならば、もちろん冷たく外面的なものだとも言いうるだろうし、二分間ばかりを犠牲にして有能な行員を多年自分にひきつけておくいい手段以外の何ものでもないはずだが――それはどうあろうとも、Kはこうした瞬間には支店長に冑(かぶと)を脱ぐのだった。おそらく支店長も、ほかの人たちとは少し別なようにKと話すようだった。すなわち、こんなふうにしてKと対等に話すために、自分の地位が上にあるということを忘れるようなことはなかったが――そういうことはむしろきまって普通の仕事の上の交渉でやるのだった――今の場合はまったくKの地位を忘れてしまったらしく、まるで子供とでも話すように、あるいはまた、初めてある地位を志願してなんらかのわからない理由から支店長の好意を呼び起した経験に乏しい若い人間とでも話すように、Kと話をするのだった。もしこのような支店長のしてくれる心配がKには真実味のこもったものと思われなかったならば、あるいは少なくとも、このような瞬間に現われるこういう心配のもっともである点に完全に魅了されてしまったのでなければ、ほかの誰かのにせよ支店長その人のにせよ、こんな話しかたはKにはきっと我慢がならなかったことであろう。Kは自分の弱点をはっきりと知った。おそらく彼の弱点の根本というのは、こういう点については彼には何か子供じみたところがある、ということにあるのだった。父がきわめて若くして死んでしまって、自分の父親から心配されるということを経験したことがないし、やがて家をとび出し、母、半分盲(めし)いてまだあの変化のない小さな町に生き、彼もおよそ二年前に訪ねたきりの母の愛情というものを、いつも呼び起そうとするよりはむしろしりぞけてきたからである。
「そういうお付合いをしているとは私は全然知らなかった」と、支店長は言ったが、弱々しい、親しげな微笑だけがこの言葉のきびしい調子を和らげているのだった。


(編者注 この断章は本文第七章に直接つながるものだったのであろう。これの冒頭は、第七章の最後の章句の写しを収めているのと同じ紙片に書かれている)





その家


 初めは特別の意図をいだいてやったわけではなかったが、Kはさまざまな機会に、彼の事件の最初の告発を行なった役所の所在地を聞きこもうと努めた。彼は苦もなくそれを聞いた。ティトレリもヴォールファールトも、初めてきかれたときにすぐに、その家の詳しい番地を言った。その後(あと)でティトレリは、よく検討するように求められはしなかった秘密の計画に対して待ちかまえているような薄笑いを浮べながら、番地を教えたことに補って、そんな役所なんかは少しも意味を持つものではなく、ただ託された事柄を代弁しているにすぎず、大検事局そのものの末端の機関であり、その大検事局なるものはもちろん訴訟当事者の近づきえぬところである、と主張した。それゆえ、検事局に何かを求める場合には、――もちろんいつでも願望はたくさんあろうが、それを口に出して言うのは賢明だとはかぎらない――もとより今言った下級の役所を相手にしなければならないのだが、そうしたからといって自らほんとうの検事局にはいりこむこともできないし、自分の願望をけっしてそこまで達することはできないだろう、と言うのだった。
 Kはすでに画家の本性をよく知っていたので、別に反対もせず、それ以上たずねることはしないで、ただうなずいて言われたことを知識としてただ受取った。最近すでにしばしばそうであったように今度もまた、わずらわしさにかけてはティトレリが弁護士のかわりを十分するように思われた。ちがいというのはただ、Kはティトレリのことを弁護士のように捨てはしなかったこと、もししたいと思いさえするなら、造作なく振捨てることができるだろうということ、さらにティトレリはひどく腹蔵のないこと、そればかりでなく、今は以前ほどではないがおしゃべりなこと、そして最後にKのほうでもティトレリを大いに苦しめることができるということ、それぐらいであった。
 そしてこの件についてもKは同じように相手を悩ませたが、ティトレリにその家のことを話すときにはしばしば、お前にはあることを隠しているのだ、自分はあの役所とはいろいろな関係を結んだ、しかしその関係はまだそうたいして進んではいないので人に知られると危険がある、というような調子で言うのだった。ところがティトレリが彼にもっと詳しく言わせようとすると、Kは突然話をそらし、長いあいだ二度とその話をしないのだった。彼はこういうちょっとした成功を楽しんだ。今では裁判所をめぐるこうした連中のことは前よりもずっとよく知っているし、今ではもうこの連中と戯れることもできるし、ほとんど自分でも彼らの中にはいりこんでいて、彼らが身を置いている裁判所の第一段階というものがある程度可能としている相当な見通しを少なくともしばらくは手に入れているのだ、と思いこんだ。自分の地位をこんな下(した)っ端(ぱ)のあいだでついに失わねばならぬとしたら、いったいどうなるだろうか? そうなってもまだそこには救いの機会はあるのであって、ただこの連中の列の中にはいりこみさえすればよく、そうすれば、この連中の身分が低いとかあるいはほかの理由によって、自分の訴訟で援助してくれることはできないとしても、自分を迎え入れ、かくまうことはできるし、そればかりではなく、自分が万事を十分考えて秘密にやってゆくなら、彼らはこういうふうにして自分の役にたつことを拒めはしないはずだ、ことにティトレリは、今では自分は彼の身近の知人でパトロンとなったのだから、拒めはしないはずだ。
 こんなふうな希望をKは毎日のように心にいだいて暮していたわけではなく、一般にはきっぱりと見境をつけ、なんらかの困難を見逃(みのが)したり、あるいは飛び越えたりしないように注意をしていた。しかしときどきは――それはたいてい仕事の後の夜分の完全な疲労状態でであったが――きわめてささやかな、そのうえきわめて漠然(ばくぜん)としたその日のさまざまな出来事から気休めの種を引出すのだった。そういうときはいつも事務室の長椅子の上に横になり――一時間ばかり長椅子で休んで元気を回復しなくては事務室を去れなかった――頭の中で見たことと見たこととを結び合せてみるのだった。裁判所と関係のある人々に厳密に限られるわけではなく、ここで半睡(うたたね)の状態でいると、あらゆる人々がこんがらかり、裁判所の大きな仕事を忘れてしまい、自分だけが唯一の被告であり、ほかの人々はみな裁判所の建物の廊下を歩く役人や法律家のように歩いており、最も愚鈍な連中でも顎(あご)を胸に埋め、唇(くちびる)をそり返し、責任ある考えに沈みながらじっと眼を凝らしているように思われるのだった。次にはしょっちゅう、グルゥバッハ夫人の間借人たちが自分たちだけのグループをつくって現われ、まるで苦情の合唱隊のように口をあけて頭と頭とを寄せ合せて立っていた。その中には多くの知らぬ人々がいた。なぜなら、Kはすでにずっと以前から下宿のことは全然気に留めていなかったからである。知らぬ人々が多いため、そのグループといっそう緊密にかかりあうことは彼には不快だったが、その中にビュルストナー嬢を捜し出そうとすると、ときどきはかかりあわなければならなかった。たとえばそのグループを飛び越してゆくと、突然、二つの全然見なれない眼が彼のほうに向ってき、彼を引留める。そこでビュルストナー嬢を見つけ出せないのだが、次にどんなあやまちをもすまいとしてもう一度捜してみると、彼女はちょうどグループの真ん中におり、両側に立っている二人の男に両腕を託していた。それでもそれは、ほとんどなんらの印象をも彼に与えなかった。ことに、この情景がなんら目新しいものではなく、彼が一度ビュルストナー嬢の部屋で見た海水浴場での写真の思い出が消えないで残っていたのにほかならなかったからである。ともかくこの光景はKをそのグループから離れさせ、Kはなお何回かそちらを振返りはしたが、大股(おおまた)で裁判所の建物を横切って急いだ。あらゆる部屋のどれにでも都合よく通じていて、まだ見ることのできなかった迷路の廊下は、ずっと前から自分の住居であるかのように親しげに見え、細かなことが逐一ひどくはっきりと彼の頭にはいるのだった。たとえば、一人の外国人が玄関のホールをぶらぶら歩いており、闘牛士のようないでたちで、腰のあたりはまるで小刀で切られたように刻まれ、非常に短かな、ぴったり身体(からだ)についている小さな上着は、黄色の粗糸(あらいと)のレースからできていて、この男は、そのそぞろ歩きを一瞬たりとも休まずに、絶えずKに驚きの眼を見張らせるのだった。身体をかがめKはその男に忍び寄り、眼を大きく見張りながらじっと見つめた。レースのあらゆる模様、へんてこな総(ふさ)、上着のあらゆる曲線を彼はよく知ってはいたが、見飽きることがなかった。あるいはむしろ、もうとっくに見飽きているのか、あるいはもっと正確に言えば、けっしてそれを見たくはなかったのかもしれないが、それができなかった。外国というのはなんという仮装舞踏会をやるんだろう、そう彼は考え、両眼をもっとはっきり見開いた。そして、長椅子の上で向きを変えて顔を革に押しつけるまで、この男の面影を追い続けた。


(編者注 以下は抹消されている)

 そうやってかなり長いあいだ横になっていたが、とうとうほんとうに休んでしまった。今でもいろいろ考えてはいるが、暗闇(くらやみ)の中で邪魔もなかった。ティトレリのことを考えるのがいちばんよかった。ティトレリは椅子に腰をかけ、Kは彼の前にひざまずき、その両腕をなでて、いろいろなことをして機嫌(きげん)をとった。ティトレリは、Kが何を求めているのか、よく知っていたが、何くわぬ様子で、そんな素振りによってKを少し苦しめるのだった。だがKのほうでも、万事は結局うまく切り抜けるだろう、ということを知っていた。なぜなら、ティトレリは軽率な、きびしい義務感のない、容易に手に入れられる人間であるからだ。それにしても、裁判所がこんな男とかかりあっていることが理解できなかった。Kははっきり知った、もしどこかがあるとすれば、ここでこそ、突破が可能だ、と。ティトレリが頭をもたげて虚空に向けている恥知らずな薄笑いに惑わされてはいないで、懇願をあくまでも続け、ついには両手でティトレリの両頬をなでるにまでいたった。たいして懸命になっているわけではなく、ほとんど投げやりな態度だったが、戯れる気持からそんな動作を長引かせ、成功を確信していた。裁判所の策略なんてなんと簡単なんだろう! まるで自然の法則に服従するかのように、ティトレリはついに彼のほうに身体をかがめ、いかにもうちとけたようにゆっくりと眼を閉じて、その願いをかなえてやるつもりがある、ということを見せ、Kに手を渡してしっかと握った。Kは立ち上がり、もちろん彼は少し荘重な気持がしていたが、ティトレリはもう荘重さなどは我慢がならず、Kを抱きかかえ、駆け足で彼を引っ張っていった。間もなく裁判所の建物まで来て、急いで階段に出たが、ただ登るだけではなく、登ったり降りたりして、水の上の軽やかなボートのように身軽に、少しも労力の消耗がなかった。そして、Kが自分の足をながめ、この身のこなしの美しいかたちは自分のこれまでの卑しい生活とはもはや縁がないという結論に達したちょうどそのとき、彼のうなだれた頭の上に、変化が起ったのだった。これまで背後から投げかけてきていた光は、向きが変って、突如前からまばゆいばかりにさしてきた。Kが眼が上げると、ティトレリは彼にうなずいてみせ、向きを変えた。Kはまた裁判所の建物の廊下にいたが、すべては前よりも静かで、単純に見えた。これといって目だつ点はなく、Kは一瞥(いちべつ)ですべてを見渡したが、ティトレリから離れ、自分の道を行った。Kは今日は、新しい、長い、黒っぽい着物を着ていたが、その着物は気持よく温(あたた)かく、どっしりとしていた。自分がどうなったのか、彼はよくわかっていたが、それに大いに幸福を感じていたので、彼はそれを認めたくはなかった。廊下の一方の壁には大きな窓がいくつも開いていたが、その片隅に束になって以前の服があるのを見つけた。黒の上着、はっきりした縞(しま)のズボン、その上にはすり切れかかった袖(そで)のシャツがひろがっていた。


支店長代理との闘い


 ある朝、Kはいつもよりずっと気分がさわやかで、闘志にあふれていた。裁判所のことはほとんど考えなかった。裁判所を思い出しても、このまったく全貌(ぜんぼう)をつかみがたい大きな組織は、なんらかの、もちろん秘密の、暗闇(くらやみ)で初めて手がけることのできる手段で容易にとらえられ、つぶされ、粉砕されるもののように思われた。Kの異常な状態は彼の心を駆って、支店長代理に誘いをかけ、その事務室に行き、すでにかなり前から迫っている事務上の用件についていっしょに相談させさえしたのだった。こんな場合にはいつも支店長代理は、彼のKに対する関係が最近数カ月に少しも変っていないように振舞った。絶えずKと競っては、以前と同じように落着いてやってきて、落着いてKの詳しい説明を聞き、ちょっとした親しげな、否、同僚らしくさえある言葉で関心を示すのだった。Kを面くらわすことといえばただ、もちろんこの点になんら特別の下心を見るべきではなかったが、何事によっても事務上の主要問題からはそらされることがなく、明らかに本心の真底までこの問題を受入れる心構えでいることだけだった。一方Kの思いは、このような義務遂行の模範を前にして、すぐ激しく四方八方に働きはじめ、問題そのものはほとんどなんらの抵抗なしに支店長代理にまかせざるをえなくさせた。一度はそれがあまりひどかったので、Kはついにただ、支店長代理が突然立ち上がり、黙って事務室にもどってゆくのを見ただけだった。Kはどういうことが起ったのか、わからなかった。協議が本式にきまったのかもしれなかったが、Kがそれと知らぬうちに支店長代理の気をわるくしたか、あるいはKがばかげたことをしゃべったか、あるいはまた、Kが聞いていないこと、ほかのことばかり考えていることが明白になったので、支店長代理が協議を中断したのかもしれなかった。だが、Kが滑稽(こっけい)な決定を行なったのか、あるいは支店長代理がKを誘ってそういう決定をさせ、こうなればKの損害を実現してやろうとして急いで出ていったのか、そういうことさえありうることだった。ところで、この件はもう蒸し返されないで、Kはそれを思い出したくはなかったし、支店長代理は部屋にはいりきりになっていた。もちろんしばらくのあいだは、その後もなんら眼に見えるような結果を生じなかった。しかしいずれにせよ、Kはその出来事で驚かされはしなかった。適当なチャンスが生じさえするなら、そしてKに少し勇気がありさえするなら、支店長代理の部屋の扉の前に立ち、彼のほうに行くか、あるいは彼を自分のほうに誘うかするだけだった。前にしていたように、支店長代理に対して隠れているときでは、もはやなかった。自分を一挙にあらゆる心配から解放してくれ、おのずから支店長代理に対する昔の関係を調整してくれるような、すみやかで決定的な成果などというものは、Kはもう期待していなかった。やめることは許されない、とKは見てとった。おそらくはさまざまな事実から言って必要なのかもしれないが、もしそのように後(あと)に退(ひ)いたならば、たぶん、もうけっして昇進できない、という危険が生れるのだった。支店長代理に、おれのことはもう片づいたのだ、などと思われてたまるものか。そんなふうに思いこんであいつの事務室にのうのうとすわっておられてたまるか。あいつは不安を覚えさせられなくてはならないのだ。あいつはできるだけしょっちゅう、このおれが生きているのだ、今のところは全然危険がないように見えるかもしれないが、あらゆる生きている人間と同じように、いつか新しい能力をもって驚かすことがあるかもしれないのだ、ということを思い知らなくてはいけない。ときどきKは、自分がこうした方法によってほかならぬ自分の名誉だけのために闘っているのだ、と自分に言い聞かせはした。なぜなら、こんな自分の弱点を持ったままでいくら支店長代理に対抗しようとも、ほんとうは何の役にたつわけのものでもなく、相手の権力感を強めるだけであり、よく観察をし、刻々の情勢に的確に従って処置をとるチャンスを相手に与えるだけだったからである。そうはわかっているものの、Kは自分の態度を全然変えることができないように思い、自己欺瞞(ぎまん)に陥り、ときどきはっきりと、自分は今こそなんら心配することなく支店長代理と争ってよいのだ、と信じるのだった。いくら不幸な経験にあっても、彼は利口にはならなかった。十回の試みでうまくゆかぬことは、万事はいつもまったくおきまりに自分の不都合なようになってゆくにもかかわらず、十一回目にはやりとげることができるものと思いこんだ。こんな出会いの後、疲れきって、汗を流しながら、からっぽの頭で残っていると、自分を支店長代理に手向わせたのは希望だったのか、それとも絶望だったのか、彼にはわからなかったが、次のときにはまた、支店長代理の扉のほうに急いでゆくとき彼がいだいているものは、まったく明らかだが、ただ希望だけであった。


(編者注 以下三三三ページ十六行まで抹消されている)

 この朝は、こうした希望がことに正しいもののように思えた。支店長代理はゆっくりと部屋にはいってきて、手を額に当て、頭痛がすると訴えた。Kはまずこの言葉に返答しようと思ったが、じっと考え、支店長代理の頭痛にはなんら容赦しないで、すぐ事務上の詳しい説明に取りかかった。ところがそうすると、この頭痛がたいしてひどいものでなかったためか、あるいは問題に対する関心が痛みをしばらく追いやったのか、ともかくも支店長代理は話しているうちに手を額から取って、いつもと同じく、まるで解答を携えて質問に向ってゆく模範生のように、即座に、ほとんど熟考もせずに、答えるのだった。Kは今度こそ相手に立ち向い、相手を何回でもはね返すことができるはずだったのだが、支店長代理の頭痛という考えが、あたかもそれが支店長代理の不利ではなくて、利点ででもあるかのように、絶えずKの邪魔をした。相手がこんな痛みを耐え、克服しているのは、なんと驚嘆すべきことだろうか! ときどき相手は、自分の言うことに基づいてというわけではないが微笑し、自分が頭痛を持っているのに、考えることにかけてはそのために少しも妨げられてはいない、ということを得意がっているように見受けられた。全然別なことが語られていたのだが、同時に無言の対話が行われ、その中で支店長代理は、自分の頭痛の激しさを口に出して言いこそしないにせよ、しょっちゅう、自分のはただ危なくはない苦痛であって、したがってKがいつも苦しんでいるようなのとは全然ちがうものだ、ということをほのめかしもした。そしてKがいくら対抗しても、支店長代理が苦痛を片づけてしまうやりかたは、彼に反駁(はんばく)するのだった。しかしそれは同時に、彼にひとつの実例を示した。おれも、おれの職業には関係のないあらゆる心配をふさぐことができるはずだ。これまで以上に仕事に専念して、銀行で新しい制度をやりとげ、それの保持のために引続いて従事し、事務の世界に対する自分の少しゆるんだ関係を訪問や出張旅行によって固め、もっと頻繁(ひんぱん)に支店長に報告をし、支店長から特別な命令を受けるように努めることが、まったく必要だった。
 今日もまたそんな具合だった。支店長代理はすぐはいってきて、扉の近くに立ち止り、新たに始めた習慣に従って鼻眼鏡を磨(みが)き、まずKを見て、次にはあまり目だつようにKにばかり気を取られている素振りを見せまいと、部屋全体のほうもいっそうよくながめていた。自分の眼の視力をためす機会を利用しているような様子だった。Kはその視線に抗し、少し微笑さえして、支店長代理にすわるようにすすめた。自分自身は肘掛椅子(ひじかけいす)に身を投げ、椅子をできるだけ近く支店長代理のほうに寄せ、すぐ必要な書類を机から取って、報告を始めた。支店長代理は、初めはほとんど聞いてはいないようだった。Kの机の表面は、背の低い、彫刻を施してある手すりに取巻かれていた。その机全体がすぐれた細工で、手すりも木製でしっかりしていた。ところが支店長代理は、ちょうど今そこにゆるんだ個所を認めたような素振りで、人差指で手すりを押すことによって具合のわるい点を取除こうとした。Kはそのために報告を中断しようとしたが、支店長代理は、すべてをよく聞いているし、みなよく理解している、と言って、そうさせなかった。ところが、Kがしばらく何も具体的な言葉を代理から聞き出すことができないでいるうちに、手すりには特別の処置が必要らしく、支店長代理は今度はナイフを取出し、梃子(てこ)としてKの定規(じょうぎ)を取り、手すりを持ち上げようとしたが、おそらくはそうすればもっと容易にそれだけ深く手すりを押しこめることができるからだった。Kは報告の中にまったく新しい類(たぐ)いの提案をはさんだが、これはきっと支店長代理に特別な効果があるものと思った。そして、今やこの提案に達したとき、非常に自分の仕事に夢中になっていたので、あるいはむしろ、このごろではこういう意識はいよいよまれになってゆくばかりなのだが、自分がこの銀行にあってまだなんらかの意味を持ち、自分の考えは自分を正当化する力を持っているのだ、という意識に非常なよろこびを感じたので、もうやめることができなかった。おそらくはそのうえ、自己を守るこうしたやりかたは、ただ銀行においてばかりではなく訴訟においても最良のものであって、自分がすでに試みるか計画するかしたあらゆる防御よりもずっとよいものであるにちがいなかった。話を急いでいたので、支店長代理をはっきりと手すりの仕事から引戻す余裕は、Kには全然なかった。ただ二、三度、書類を読み上げながら、空(あ)いたほうの手でなだめるように手すりの上をなでたが、そうすることによって、自分ではほとんどはっきりと意識しなかったけれども、手すりには何も具合のわるいところはないし、たとい一個所ぐらいあったとしても、今のところは自分の言うことを聞いているほうがもっと大切だし、またどんな修繕を加えるよりも真剣なことだ、ということを支店長代理に示すためであった。ところが支店長代理は、活溌(かっぱつ)な、ただ精神上活動的な人間にしばしばあることだが、この手工じみた仕事に夢中になってしまい、ついに手すりの一部は実際引上げられ、今度はその小さな柱をまた適当な穴にはめこむことが問題であった。それはこれまでのどの仕事よりもむずかしかった。支店長代理は立ち上がり、両手で手すりを机の表面に押しつけようとせねばならなかった。ところが、いくら力を使ってみても、うまくゆきそうもなかった。Kは読みあげているあいだに――もっとも勝手な話をたくさん混じえたのだったが――ただ漠然と、支店長代理が立ち上がるのを認めただけだった。支店長代理のその内職ぶりをほとんど一度でもすっかり眼から離したことはなかったけれども、支店長代理の動きは自分の演説にもなんらかの関係があるように考えたので、彼も立ち上がり、数字のひとつの下を指で押えながら、支店長代理に一枚の書類を差出した。ところが支店長代理はそのあいだに、両手の圧力ではまだ十分でないと見てとって、たちまち意を決して体重全体を手すりにかけた。もちろん、今度はうまくゆき、柱はめりめりと穴にはいりこんだが、柱のひとつが急いだあまり曲ってしまい、どこかでそのやわな上部の桟が、真っ二つに割れた。
「わるい木だ」と、腹だたしげに支店長代理は言った。


断片


 彼らが劇場から出たとき、雨が少し降っていた。Kはすでに、その脚本とひどい上演とにうんざりしていたが、叔父(おじ)を自分のところへ泊めなければならぬという考えが、彼をすっかり打ちのめしていた。ちょうど今日は、どうしてもF・B・(ビュルストナー嬢)と話そうと思っており、おそらく彼女と出会うチャンスが見つかったことであろう。ところが叔父の接待がそれをまったくだめにしてしまった。もちろんまだ、叔父が乗ってゆける夜行は出るのだが、叔父はKの訴訟にひどく心をつかっているので、今晩のうちに出発するような気にさせるということは、まったく見込みがないように思われた。それでもKは、たいして期待もせずに、ためしてみた。
「叔父さん、どうも」と、彼は言った。「近々あなたのご援助をほんとうに必要とすることと思いますが。どういう方面でかはまだはっきりわかってはいませんけれど、ともかくも必要になるでしょう」
「お前はわしをあてにしていいさ」と、叔父は言った。「わしは実際、どうしたらお前を助けられるかということばかり考えているんだ」
「叔父さんは相変らずですね」と、Kは言った。「ただ私は、叔父さんにまたこの町に来ていただくようにお願いしなければならなくなると、叔母さんが気をわるくなさるんじゃないかと、それが心配です」
「お前の事件のほうがそんなふうな不愉快なことよりよっぽど大切なんだ」
「おっしゃることには同意できませんが」と、Kは言った。「しかしそれはどうあろうと、必要もないのに叔父さんを叔母さんからお預かりしていたくはありません。ごく最近に叔父さんに来ていただかなくてはならぬことは前もってわかっているのですから、しばらくはお帰りになりませんか?」
「あしたかい?」
「そうです、明日にでも」と、Kは言った。「あるいは今これから夜行ででも、そうしたらいちばんいいと思うんですが」








底本:「審判」新潮文庫、新潮社
   1971(昭和46)年7月30日第1刷発行
   1990(平成2)年9月5日第37刷発行
※底本の二重山括弧は、ルビ記号と重複するため、学術記号の「≪」(非常に小さい、2-67)と「≫」(非常に大きい、2-68)に代えて入力しました。
※編集注にある「以下三三三ページ十六行まで」は、「この朝は、こうした希望が……まったく必要だった。」の段落をさします。
入力:kompass
校正:米田
2010年11月28日作成
青空文庫作成ファイル:
このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。







●表記について
[#…]は、入力者による注を表す記号です。









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