フランツ・カフカ Franz Kafka 原田義人訳 審判 DER PROZESS


第三章 人けのない法廷で・
    学生・裁判所事務局




 Kは次の週のあいだ、改めて和解してくるのを毎日待っていた。尋問を拒絶すると言ったことを言葉どおりに取られたとは、信じられなかった。ところが期待した和解の申し出が、実際、土曜日まで来なかったので、何も言ってはこないが暗黙のうちにあの同じ家に同じ時間に来いというのだろう、と考えた。それで日曜日にまた出かけていったが、今度はまっすぐ階段と廊下とを通り抜けた。彼のことを覚えていた何人かの人々は戸口で彼に挨拶(あいさつ)したが、もう誰にもきく必要はなく、間もなく目ざす扉(とびら)に来た。ノックの音で扉が開かれ、扉のところに立ち止っている例の顔見知りの女にはもう眼もくれずに、そのまま隣室にはいろうとした。
「今日は法廷は開かれません」と、女が言った。
「なぜ開かれないんです?」と、彼は言い、信じようとはしなかった。ところが、女が隣室の扉をあけたので、彼も納得がいった。部屋はほんとうにからっぽで、からっぽなだけにこの前の日曜日よりもいっそうけちくさく見えた。相変らず演壇の上に立っている机には、二、三冊の書物がのっていた。
「あの本を見てもいいですか?」と、Kはたずねたが、特に興味があってのことではなく、この部屋にやってきてまったくむなしい結果に終りたくないためだった。
「いけません」と、女は言って、また扉をしめた。「それは許されていません。あれは予審判事さんの本です」
「ああ、そうですか」と、Kは言い、うなずいた。「きっと法律書だが、罪がないだけでなく何も知らぬうちに判決を下されてしまうというのが、この裁判所のやりかたなんだ」
「そうかもしれませんわ」と女は言ったが、彼の言うことがよくはわかっていないらしかった。
「それじゃあ、もう行こう」と、Kは言った。
「何か予審判事さんにお伝えすることがありますか?」と、女が言った。
「あの人をご存じですか?」と、Kはたずねた。
「もちろんですとも」と、女は言った。「主人が廷丁ですから」
 そう言われてはじめてKは、この前来たときは洗濯桶(せんたくおけ)だけがあったこの部屋が、今ではすっかり整った居間になっていることに、気づいた。女は彼が驚くのを認めて、言った。
「この部屋をただで借りているんですけれど、開廷日には部屋をあけなければなりません。主人の身分ではいろいろと不便もありますわ」
「部屋のことではたいして驚いてもいませんが」と、Kは言い、渋い顔で女を見つめた。「むしろご主人がおありだというのに驚いているんです」
「私があなたのお話を邪魔してしまったこのあいだの裁判のことをあてこすっていらっしゃるんですか?」と、女がきいた。
「もちろんですよ」と、Kは言った。「今日ではもう過ぎたことだし、ほとんど忘れてしまったが、あのときはほんとうに腹がたちました。それがどうです、ご主人があると自分で言われるんですからね」
「お話が折られたことは、あなたのためにわるいことではなかったのよ。みなさんはあとで、あなたについてずいぶんわるい判断を下していました」
「そうでしょうが」と、Kは話をそらしながら言った。「でもそれでは言い訳にはなりませんよ」
「私を知っていてくれる人なら、誰でも私を許してくれますわ」と、女は言った。「あのとき私に抱きついた人は、ずっと前から私を追っかけていたんです。私、普通は男の人をひきつけなんかしないんでしょうが、あの人にはそうなんです。このことは隠れもないことで、主人ももうのみこんでいるんですわ。でも主人は地位を維持しようと思うなら、我慢しなきゃならないんです。あの人は学生さんで、これから偉くなるんですもの。あの人はいつも私をつけまわして、あなたがいらっしゃるほんの少し前に帰っていったところですわ」
「ほかの連中もみんなそんなものですよ」と、Kは言った。「別に驚きませんよ」
「あなたはきっと、ここで何かを改善しようと思っているのね?」と、女はゆっくりと、探るように言ったが、自分にもKにも危ないことを何か言っているような様子だった。
「それはあなたのお話からわかっていましたわ。お話は私にはたいへん気に入りましたの。もちろんほんの一部分だけを伺ったのですけれど。初めのところは聞けませんでしたし、終りのところではあの学生といっしょに床の上にころがっていましたから。――ここはまったくいやですわ」と、しばらく間(ま)をおいて女は言い、Kの手を握った。「改善することができるとあなたは思っていらっしゃるの?」
 Kは微笑し、手を女の柔らかな両手の中で少し動かした。
「もともと」と、彼は言った。「あなたの言うようにここを改善するなんていうことは、僕にできる立場じゃないし、たとえばあなたがそんなことを予審判事に言おうものなら、きっと笑われるか、罰せられるかしますよ。事実僕は、自ら好んでこんなことに首を突っこむはずじゃなかったし、ここの裁判組織を改善する必要があっても、何も僕の眠りを妨げられるはずはないのです。ところが、僕が表向き逮捕されたということによって、――つまり僕は逮捕されたのです――ここに首を突っこまざるをえなくなったのですが、それも僕自身のためにですよ。それでもあなたに何かのお役にたつならば、もちろん大いによろこんでやりはします。ただ隣人愛からといったようなことじゃなくて、あなたのほうも僕を助けてくださることができるということがあるためです」
「いったいどうすればお助けできますの?」と、女がきいた。
「たとえばあの机の上の本を見せてくれればですよ」
「お安いご用ですわ」と、女は叫び、彼を急いで引っ張っていった。どれも古びた、すり切れた本で、厚表紙は真ん中でほとんどちぎれ、ただ紐(ひも)だけでやっとくっついていた。
「ここのものはなんでもなんてよごれているんだろう」と、Kは頭を振りながら言い、女は、Kが本を手にする前に、エプロンで少なくとも表面だけは塵(ちり)をぬぐいさった。
 Kはいちばん上の本を開いたが、いかがわしい絵が出てきた。一組の男女が裸でソファにすわっており、画家の卑俗な意図がはっきりうかがえたが、そのまずさ加減があまりにひどいので、結局は男と女とだけしか眼にははいらず、それがあまりに立体的に絵から浮び出て、ひどく固くなってすわっており、遠近法が間違っているため、やっとこさ互いに向い合っていることがわかる始末だった。Kはそれ以上めくるのをやめ、ただ二冊目の本の扉をあけると、『グレーテが夫のハンスよりこうむらねばならなかった苦しみ』という題名の小説だった。
「これが、ここで研究されている法律書か」と、Kは言った。「こんな人間たちに裁(さば)かれるなんて」
「あなたの援助をしますわ」と、女は言った。「よくって?」
「ほんとうにできるんですか、あなた自身、危なくならないで? あなたのご主人はなんでも上役の言うとおりだ、とさっきあなたはおっしゃったが」
「それでも私はあなたをお助けしますわ」と、女は言った。「こちらにいらっしゃい。私たちは相談しなければなりません。私の危険のことなんかもうおっしゃらないで。危険なんて、自分で恐(こわ)がろうとするときにだけ恐いんですわ。さあ、こちらにいらっしゃい」
 女は演壇を指さし、彼女といっしょに階段に腰かけるようにすすめた。
「きれいな黒い眼をしているのね」と、二人がすわると、女は言って、下からKの顔を見上げた。
「私もきれいな眼をしているって言われますわ。でもあなたのほうがずっときれいよ。あなたが初めてここにはいっていらっしゃったときすぐに、気がつきました。それだからこそまた、後(あと)からこの集会部屋にはいってきたんだわ。いつもはそんなことはしないし、いわば禁じられてもいるんですけれど」
 ははあ、こういうわけなんだな、とKは思った、彼女は身体(からだ)をおれに差出している、この女もここのまわりにあるあらゆるものと同様堕落しているんだ、まったく当然のことだが裁判所の役人には飽きてしまい、それだものだから気に入る他人に、眼がきれいだ、などとお世辞を言うのだ。Kは黙って立ち上がったが、自分の思っていることをはっきりと言ってやり、それによって女に自分の態度を明らかにしてやろう、という気構えだった。
「あなたが僕を助けられるとは思いませんね」と、彼は言った。「僕をほんとうに助けてくれるためには、偉い役人たちとの関係が必要だ。ところがあなたはただ、ここで大勢うようよしている下(した)っ端(ぱ)の連中だけを知っているんだ。こんな連中のことはきっとよくご存じだろうし、連中に頼んでまたさまざまなことをやってもらえましょう。それは、僕も疑いませんが、あの連中に頼んでやってもらうことなんかはどんなに大きくたって、訴訟の最後の結末にはまったくたいしたことではないでしょう。ところがあなたは、そのために二、三人の友達を取逃がすかもしれない。そうなることを僕は望みませんね。まああなたは、連中に対するこれまでの関係をお続けになることですね。つまり、それはあなたには欠かせぬことだ、と僕には思われるんですよ。こんなことを言うのは残念でないこともないのです。あなたのお世辞に何かお返しするとして、あなたも僕に気に入ったんですからね。特に、あなたが今のようにそうやって、別に理由もないのに僕のことを悲しそうに見つめているときにはね。あなたは、僕が戦わなければならない仲間の人だ。ところがあなたはそれにすっかり安住して、学生なんかを愛している。愛してはいないとしても、少なくともご主人よりは好きなのだ。そのことはあなたの話からすぐわかりますよ」
「いいえ」と、女は叫び、すわったままでKの手をとらえようとしたが、彼はその手を十分素早く引っこめることができなかった。
「今すぐ行かないで。私に間違った判断を下しておいて行ってはいけません! ほんとうにもうお帰りになるつもり? ほんの少しここにいてくださるご親切をお持ちになれないくらい私ってつまらぬ女ですの?」
「あなたは誤解しているんですよ」と、Kは言って腰をおろした。「僕がここにいることがほんとうにあなたに望ましいのなら、よろこんでいますよ。暇はあるんだが、今日は審理が行われると思って来たのでした。これまで言ったことで僕は、僕の訴訟について何も僕のためにやっていただきたくはない、ということをお願いしたのです。けれども、訴訟の結果なんか僕にはどうでもよいのだし、有罪の判決だってただ笑ってやるつもりでいるのだ、ということをあなたがお考えになるなら、援助をお断わりしたこともあなたの気をわるくすることはないはずです。これも、およそ裁判がほんとうに終るものと仮定してのことで、どうなるものかはなはだあやしいと思います。むしろ僕は、役人たちが怠慢なためか、忘れっぽいためか、あるいは怖気(おじけ)を振ったためかで、手続きはもう中止になったか、次のときには中止になるかするものと考えます。もちろんまた、何か相当な賄賂(わいろ)でも期待して訴訟を見かけだけ続行するということも、ありうることはありうるが、今から言っておきますが、まったくむだですね。僕は誰にも賄賂なんかやらないんだから。あなたが予審判事か、あるいは重要なニュースを好んで言いふらして歩く誰かかに、僕という人間には、どんなことがあっても、またあの連中がいろいろ知っているどんな術策によっても、賄賂なんか出させることはできないだろう、と言ってくださるならば、ともかくそれは、あなたが僕にやってくだされるご好意というものです。それはまったく見込みがないだろうということを、あなたはあの連中にはっきり言ってくだすって結構です。そうでなくとも連中もおそらく自分ですでにこのことに気づいているでしょうし、気づいてはいなくても、今すぐ知ってもらう必要なんかたいして僕にはないのです。そりゃあ知っていてもらえば、あの連中はむだな仕事をしないですむし、もちろん僕も不愉快な思いをいくらかしないですみますが、それだって、もしそれが同時に他の連中に打撃を与えるとわかったなら、よろこんで引受けますよ。そして、そうなることを、わざとやってみようと思うくらいです。ほんとうに予審判事をご存じなんですか?」
「もちろんですとも」と、女は言った。「あなたをお助けしようと言ったとき、まず第一にあの人のことを考えさえしたのですもの。あの人がただの身分の低い役人かどうかは知りませんでしたが、あなたがそうおっしゃるんですから、おそらくそうなのでしょう。それでも、あの人が上へ提出する報告はいつもいくらか有力なものだ、と信じています。そしてずいぶん報告を書きますわ。役人たちは怠け者だ、とあなたはおっしゃいましたが、きっとみんなそうではないし、あの予審判事さんは特にそんなことありませんわ。あの人はたくさん書きますのよ。たとえばこの前の日曜日には、裁判が夕方ごろまで続きました。みなさんが帰ってしまっても、予審判事さんは広間に残って、私はランプを持ってゆかねばなりませんでしたわ。家には小さな台所ランプしかなかったのですが、それで満足してすぐ書き物を始めました。そうしているうち、あの日曜日にちょうど休暇を取っていた主人も帰ってき、二人で家具を運びこみ、部屋を整え直しましたが、次にまた隣の人たちが来て、蝋燭(ろうそく)一本で話をしました。で結局、予審判事さんのことは忘れて、寝てしまいましたの。突然夜中に、もう夜ふけだったにちがいないんですが、私が眼をさますと、ベッドのそばに予審判事さんが立っていて、主人に光がこぼれぬように、ランプを手でさえぎっていました。それは要(い)らぬ心配でしたわ、主人はいつも、光がさしても起されぬくらい眠りこけているんですから。私はとても驚いたものですから、ほとんど声をあげようとしましたが、予審判事さんはたいへんやさしくて、私に気をつけるように戒め、今まで書き物をしていました、今あなたのところのランプをお返しに来たのです、あなたが寝ているところを見た有様はけっして忘れないでしょう、とささやきましたの。こんなことをお知らせしたのも、ただあなたに、予審判事さんはほんとうにたくさんの報告を書きますし、特にあなたについては書いているってことを言いたかったんですわ。なぜって、あなたの尋問が確かにあの日曜日の裁判のおもな仕事のひとつでしたもの。ところでこんな長い報告書がまったく意味のないものであるはずがありませんわ。でもそのほかに、この出来事からあなたは、予審判事さんが私に想いをかけていること、あの人はおよそ今初めて私のことを気にしだしたにちがいありませんが、この今という最初のときにこそ、私はあの人に大きな力を及ぼすことができるのだということ、をおわかりになれますわね。あの人がたいへん私のことを気にかけているということには、今ではほかの証拠もありますの。あの人は昨日(きのう)私に、あの人がたいへん信頼して協力者にしている例の学生を通じて、絹の靴下を贈り物にしてくれました。私が法廷を掃除してくれるという名目なんですけれど、それはただ口実にすぎませんわ。だってこの仕事は私の義務にすぎませんし、そのために主人は俸給をもらっているのですもの。きれいな靴下ですわ、ごらんなさい」――彼女は脚を伸ばして、スカートを膝(ひざ)まで引っ張り上げ、自分でも靴下をじっと見ていた、――「きれいな靴下ですわ、でもほんとうにあまりりっぱすぎて私には向かないわ」
 突然女は話を折って、Kを落着かせようとでもするように、彼の手の上に自分の手を置き、ささやいた。
「静かに、ベルトルトが私たちのほうを見ていますわ」
 Kはゆっくりと眼を上げた。法廷の扉のところに一人の若い男が立っていたが、小柄で、脚が少し曲っており、短く、薄い、赤みがかった髯(ひげ)で威厳をつけようとしているのだが、その髯の中に指を突っこんで絶えずひねくりまわしていた。Kは物珍しげにその男をながめたが、これは実に、彼がいわば実物でお目にかかった最初の、法律学という得体の知れぬものを学んでいる学生であり、おそらくはいつか高い官職につくだろうと思われる男だった。ところが学生のほうは、見たところまったくKなどは問題にしていないようであり、一瞬髯から抜いた指で女に合図だけしておいて、窓のところへ行ったが、女はKのほうに身体を曲げて、言った。
「気をわるくしないでちょうだい。いいえ、むしろ、私のことをわるい女だとは思わないようにお願いしますわ。あの人のところに行かなければなりませんの。いやな男ですわ、ちょっとあの曲った脚を見てちょうだい。でもすぐ戻ってくるわ、そしたら、もしあなたが連れていってくださるなら、あなたと行くわね、どこへでもあなたのお望みのところへ行きますわ、私を好きなようにしてちょうだい、私はここからできるだけ長く離れられたら、幸福でしょうし、もちろん、永久に離れられるのなら、いちばんいいわ」
 女はなおもKの手をさすっていたが、とび上がって、窓べに駆けていった。思わず知らずKは女の手を求めて空(くう)をつかんだ。女はほんとうに彼の心をそそった。自分がなぜ女の誘惑にまいってはいけないのかいろいろ考えてみたけれども、はっきりとした理由は見あたらなかった。女は裁判所のためにおれのことをとらえているのだ、という浅薄な理由を、彼は苦もなく払いのけた。どうして女はおれをとらえることなどできようか? おれはまだ依然として、少なくとも自分に関するかぎりは、裁判所のいっさいをぶちこわしてしまえるだけ自由ではないか? それに、援助しようという彼女の申し出も、誠実な響きがあったし、おそらくは価値のないものではなかった。そしておそらく、この女をやつらから奪い取って自分のものにしてしまうことよりもよい、予審判事とその一味とに対する復讐(ふくしゅう)はなかった。そうなれば、予審判事がKに関する嘘(うそ)っぱちの報告を苦心惨憺(さんたん)してでっちあげた末、深夜に来てみると女のベッドが空(から)であるというような場面も、いつか起りうるわけである。そして女のベッドが空なのは、女がおれのものであり、窓ぎわのあの女、粗(あら)くて重い布地の黒ずんだ着物を着た、あの豊満でしなやかで温(あたた)かい肉体が、まったくただおれのものであるからなのだ。
 こうやって女に対するさまざまな思いに打勝ってから、窓ぎわでの低声の会話が彼には長すぎるように思われ、演壇を指の関節で、次には拳(こぶし)でさえたたいた。学生はちょっと女の肩越しにKのほうを見たが、いっこうおかまいなしで、女にぐいと身体を押しつけさえして、女を抱いた。女は、彼の言うことを熱心に聞いているかのように深く頭を垂(た)れ、学生は、女がかがむと、話のほうは中断もせずに首筋へ音をたてながら接吻(せっぷん)した。Kはこのような有様をながめて、女が訴えたところによると学生が女に及ぼしているという横暴ぶりが裏づけられているのを見てとり、立ち上がって、部屋をあちこちと歩いた。学生の様子を盗み見しながら、どうやったらいちばん早く追い払うことができるかを考えていたが、それだけに、すでにときどきどしんどしんと大きな音をたてていた彼のぶらぶら歩きに明らかに邪魔された学生が、次のように言ったとき、Kにはまんざら歓迎すべきことでないわけでもなかった。
「我慢ができなかったら、帰ったらいいだろう。ずっと前に帰っていたってよかったんだ、君がいなくたって誰も気にはかけないからね。いや、それどころか帰らなきゃいけなかったんだ、つまり僕がはいってきたときにさ、そしてできるだけ早くね」
 こう言ううちにはすべての怒りが爆発しているのだったろうが、同時にその言葉のうちには、気に入らない被告に話しかける未来の法官の傲慢(ごうまん)さが含まれていた。Kは学生のすぐ近くに立ったままで、薄笑いを浮べながら言った。
「我慢ができないというのはほんとうだが、このいらいらした気持は、君がわれわれを置いて帰ってくだされば、いちばん簡単に片づくんだ。だがもし君が法律の研究のためにここへ来ているとでもいうのなら――君が学生だっていうことは聞いたよ――よろこんで場所を明け渡し、その女の人と出てゆこう。ともかく君は、裁判官になる前にはもっともっと勉強しなくちゃなるまいからね。君の研究している司法制度のことはまだよくは知らないが、確かにもう臆面(おくめん)もなくりっぱにやってのけることを心得ていなさるような乱暴な演説とは、関係がないものと考えていますよ」
「こんな男を自由にうろつかせておくべきじゃなかったんだ」と、Kの侮辱的な言葉に対する釈明を女に対してやりたいらしく、学生は言った。「それは手落ちだった。予審判事には言ったんだが、尋問中は少なくとも部屋にとどめておくべきだった。予審判事はときどき合点(がてん)のゆかぬことをやるからな」
「くだらぬおしゃべりですよ」と、Kは言い、手を女のほうに伸ばした。「こっちへいらっしゃい」
「おいでなすったね」と、学生が言った。「いや、いや、この人は君には渡さないよ」
 そして、思いがけない力で女を片腕で抱き上げ、女をいとしそうにながめながら、背中を曲げて扉のほうに走っていった。そのあいだもKに対する恐れは見逃(みのが)すことができなかったが、それにもかかわらず、あいた手で女をさすったり押えたりして、さらにKの気持を高ぶらせようとするのだった。Kは、つかみかかろう、事の次第では首を絞めてやろうという気構えで、学生と並んで二、三歩走ったが、女は言った。
「むだだからおよしなさいな。予審判事が私を呼びによこしたの。私、あなたといっしょに行けないわ。このちっぽけないやらしい人が」と、言いながら、手で学生の顔をなでまわしながら、「このちっぽけないやらしい人が私を放さないのよ」
「で君は、放されたくないんだろう!」と、Kは叫び、片手を学生の肩にかけたが、学生は歯でぱくりと食いつこうとした。
「いけないわ!」と、女はわめき、Kの両手を払いのけた。「いけない、いけないわ、そんなことしないで、なんということなさるの! そんなことしたら私の身の破滅よ。放してあげて、ねえ、放してあげて。この人はほんとうにただ予審判事さんの命令どおりやっているんで、私を判事さんのところへ連れてゆくのよ」
「それじゃあ行ってもいいよ、そして君にはもう二度と会いたくないね」と、Kは幻滅を感じさせられ憤激しながら言い、学生の背中に一撃を与えたので、学生はすこしよろめいたが、すぐに倒れてしまわなかったことをよろこんで、女をかかえていっそう高くとびはねた。Kはゆっくり彼らの後(あと)からついていったが、これがこの連中からこうむった最初の文句なしの敗北だ、ということを見て取ったのだった。それだからといって、恐れる理由はもちろんなかった。戦うことを求めたればこそ敗北も喫したのだ。家にとどまっていて、あたりまえの生活をやっていれば、こんな連中の誰にでも優越し、一蹴(け)りで自分の進路から放り出してしまえるのだ。そこで彼はきわめてばかげた光景を思い浮べてみるのだが、それはたとえば、この憐(あわ)れむべき学生、この空(から)威張りの坊や、脚の曲った髯の男が、エルザのベッドの前にひざまずき、手を合わせて許しを乞(こ)うている情景だった。この想像はKの気に入ったので、そうする機会がもしありさえしたら、学生を一度エルザのところへ連れていってやろう、と決心した。
 好奇心からKはさらに扉のところまで急いで行った。女がどこへ連れてゆかれるかを見ようとしたのだったが、学生がまさかたとえば女を腕にかかえて街路を行くはずはなかろう、と思った。道は思ったよりはるかに近いということがわかった。この居間のすぐ真向いに、狭い木造りの階段がおそらく屋根裏まで通じているらしく、それは曲っているので、終りまでは見えなかった。この階段を登って学生は女を運んでいったが、これまで走ったために弱ってしまい、すでにきわめてゆっくりと、あえぎながら登っていた。女は手で下のKに合図をし、肩を上げ下げして、自分はこの誘拐(ゆうかい)に何も罪がないのだ、ということを示そうとするのだが、この身振りにはたいして残念そうな気持も含まれてはいなかった。Kは女を、赤の他人のように無表情にながめていたが、自分が幻滅を感じたことも、幻滅をたやすく克服できるということをも、表面に出したくはなかったのだった。
 二人はすでに消えたが、Kはまだ戸口に立ち続けていた。女が自分を裏切ったばかりでなく、予審判事のところへ連れてゆかれるなどと言いたてて、自分をだましてもいるのだ、ということを認めざるをえなかった。予審判事が屋根裏にすわって待っている、などということはありえようはずがないではないか。木の階段をいつまでながめていても、何もわかりはしなかった。そのときKは登り口に小さな札を見つけたので、近寄ってゆくと、子供じみた、下手(へた)な文字で、「裁判所事務局昇降口」と書いてあった。それではこのアパートの屋根裏に裁判所事務局があったのか? それは多くの尊敬をかちうる施設とはいえないが、それ自体初めから最も貧しい人々に属するこのアパートの住人たちがその不用ながらくたを投げこむような場所に事務局を持っているとするなら、この裁判所もさだめし金が思うようにはならないのだろう、と考えてみることは、被告にとっては気の軽くなることであった。もちろん、金はたっぷりあるのだが、裁判上の目的に使う前に役人連が着服してしまうのだ、ということもありえぬことではなかった。それはこれまでのKの経験に徴しても非常にありそうなことでさえあって、そうだとすれば裁判所のこうした堕落は被告にとっては品位を傷つけられることではあったが、結局のところは、裁判所が貧乏である場合よりも気楽ではあった。そこでまた、最初の尋問のときに被告を屋根裏に召喚することを恥じ、被告の住居を襲って悩ますことのほうを選んだのだ、ということはKにも理解できた。Kは裁判官に対してなんという位置にいることだろう! 裁判官は屋根裏にすわっているが、K自身は銀行で控えの間付きの大きな部屋を持ち、大きな窓ガラスを通して往来のはげしい町の広場を見下ろすことができるのだ。もちろん彼には、賄賂や横領による副収入はなく、小使に女を抱かせて事務室まで運ばせることはできなかった。しかしKは、少なくとも現在の生活にあっては、そんなことはよろこんであきらめきりたい気持だった。
 Kがまだ貼札(はりふだ)の前に立っていると、一人の男が階段を登ってきて、開いた扉から居間をのぞきこんだが、そこからは法廷も見えるのだった。男は最後にKに、少し前にここで女を見かけなかったか、とたずねた。
「君は廷丁さんですね、そうでしょう?」と、Kはたずねた。
「そうです」と、男は言った。「ああそう、あなたは被告のKさんですね、やっと気がつきました、ようこそおいでで」
 そして男はKに手を差出したが、Kはまったく予期しなかったことで驚いた。
「でも今日は法廷はお休みなんです」と、Kが黙っているのに、廷丁は言った。
「わかっています」と、Kは言い、廷丁の私服をながめたが、役目の唯一のしるしとして、普通のボタン二、三個のほかに、将校の古外套(ふるがいとう)から取ったらしい二個の金ボタンを見せていた。
「ほんの少し前に君の細君と話していたんだが、もういませんよ。学生が予審判事のところへ連れていったんです」
「ごらんのように」と、廷丁は言った。「家内はいつでも連れてゆかれます。今日は日曜日なんで、私は仕事をしなくてもいいんですが、私をここから追い払うために、どう見たって不用な用事で外にやられました。しかもあまり遠くまでやられたわけじゃないんで、大急ぎで行きさえすれば、まだ遅れないでもどれる見込みがあったんです。だからできるだけ速く走って、使いに出されたお役人に、伝言を扉の隙間(すきま)から相手には何を言っているのかわからぬくらい息もつかずにどなって、また走ってもどってきたんですが、学生のほうが私よりもっと急いでやってきたっていうわけです。もちろんあいつは道がずっと近くて、ただ屋根裏の階段を降りてきさえすればいいんですからねえ。私がもっと自由でさえあったら、あの学生のやつをここの壁のところへ押えつけ、ぶっつぶしてやりますよ。ここの貼札のところへね。しょっちゅうそのことを夢で見るんです。ここんところへ、少し床から持ち上げられてしっかと押えつけられ、腕を伸ばし、指をひろげ、曲った脚を丸くひねって、まわりには血しぶきがいっぱい。でもこれまでそれはただの夢なんです」
「ほかのやりかたがありませんか?」と、Kは微笑しながらきいた。
「どうもありませんや」と、廷丁は言った。「今ではもっといやなことになってきているんです。これまではただあいつが家内を自分のところへ引っ張っていっただけですが、今ではもう、どうせそうなるものとずっと前から思ってはいたんですが、予審判事のところへまで連れてゆくんです」
「ところで君の細君のほうには罪はないのかね?」と、Kは言ったが、こうたずねないではいられなくなったのであり、それほど彼も嫉妬(しっと)を覚えていたのであった。
「どういたしまして」と、廷丁は言った。「あれにいちばん罪があるくらいでさあ。家内はあいつに惚(ほ)れてるんです。あの男と言えば、女と見れば誰でも追いかけます。この家でだけでももう、あいつが忍びこんだ五軒からおっぽり出されたんです。家内はもちろんこの家じゅうでいちばんの別嬪(べっぴん)というわけですから、まさに私はどう防ぎようもないんです」
「そういうこととなると、もちろんどうしようもないね」と、Kは言った。
「どうしてどうしようもないんです?」と、廷丁はきいた。「あの学生は臆病者なんですから、家内にさわろうとしたら、一度、もう二度とはそんなことをやろうとはしなくなるようにぶちのめしてやらなきゃなりません。でも私にはできないことですし。ほかの人も私のためにやってはくれません、誰でもあの男の権勢を恐れているんでね。ただあなたのような人だけができるんですよ」
「いったいどうして僕が?」と、Kは驚いて言った。
「でもあなたは告訴されていましたね」と、廷丁は言った。
「そうなんだ」と、Kは言った。「それに、あの男はおそらく訴訟の結末を左右する力は持たないとしても、予審にはそいつができそうなだけに、心配しなくちゃいけないんです」
「そうですねえ」と、Kの意見はまったく自分自身のと同じように正しいものといわんばかりに、廷丁は言った。「でもここでは原則として、見込みのない訴訟はやられないことになっているんですが」
「僕の意見はあなたのとはちがいますね」と、Kは言った。「でもそれは別として、時にあの学生のやつを料理してやる必要はあると思いますね」
「あなたには大いに感謝しますよ」と、廷丁はいくらか儀礼的に言ったが、ほんとうは彼の最高の望みが実現できないものと信じこんでいるらしかった。
「おそらくまた」と、Kは言葉を続けた。「君の上役のほかの連中も、一人残らず同じように料理してやるに値しますね」
「そうですとも」と、何か自明のことだというかのように廷丁は言った。それから、これまでは非常に親しげにしてはいたが見せなかった、信じきったような眼差(まなざし)をして、Kを見て、言葉を付け加えた。
「あいつらはしょっちゅう陰謀をやっているんです」
 しかし、こういう話が彼には少し不快になったらしかった。話を折って、こう言ったからである。
「さて事務局に行かなくちゃなりません。いっしょにいらっしゃいませんか?」
「何も用事はないんだけれどね」と、Kは言った。
「事務局をごらんになれますよ。誰もあなたのことを気にはかけますまい」
「見る値打ちがありますかね?」と、Kは躊躇(ちゅうちょ)しながらきいたが、いっしょに行ってみたいという欲望を大いに感じていた。
「そりゃあ」と、廷丁は言った。「きっとおもしろいですよ」
「よし」と、Kはついに言った。「いっしょに行きましょう」
 そして、彼は廷丁よりも足早に階段を駆け登った。
 そこに踏み入ると、すんでのことで倒れそうになった。扉の後ろにもうひとつ階段があったからである。
「公衆のためには気をつかっていないようですね」と、彼は言った。
「およそ少しでも気なんかつかっていませんよ」と、廷丁は言った。「ごらんなさい、ここが待合室です」
 それは長い廊下で、そこから、立てつけのわるい扉をいくつか通って、屋根裏のそれぞれの小部屋に通じているのだった。
 直接光のはいる口がなかったけれども、真っ暗ではなかった。多くの小部屋は廊下に面して、一面の板仕切りのかわりに、むきだしだがともかく天井まで届いている木格子(きごうし)があり、それを通して光がさしこみ、またそれから、机にすわって書き物をしたり、ちょうど格子のところに立って隙間越しに廊下の人々をながめている幾人かの役人が見えるのだった。おそらくは日曜日であるため、廊下にはほんの少ししか人影がなかった。彼らはきわめて慎み深いという印象を与えた。ほとんど規則正しい距離をおいて、廊下の両側に置かれた二列の長い木製ベンチに腰をおろしていた。みなかまわぬ身なりであったが、たいていの人々は、顔の表情、物腰、髯のつくり、そのほか多くのほとんどはっきりとは言えない細かい点から言って、豊かな階級に属する人々であった。洋服掛けがないので、誰かしらの例にならっているらしく、彼らは帽子をベンチの下に置いていた。扉のすぐ近くにすわっていた人々がKと廷丁との姿を見ると、挨拶(あいさつ)のため立ち上がるのだったが、そうすると次の人々もそれを見て、自分たちもやはり挨拶しなければいけないと思い、そこですべての人々が、二人の通ってゆくとき立ち上がった。誰も完全にまっすぐ立ち上がる者はなく、背中は曲っており、膝もかがんで、往来の乞食(こじき)のような有様で立っていた。Kは自分よりも少し遅れて歩いている廷丁を待って、言った。
「あの人たちはどんなにか卑下しているんですね」
「そうです」と、廷丁は言った。「あれは被告です、ここでごらんになるのはみな被告なんです」
「そうですか!」と、Kは言った。「それじゃあ僕の仲間っていうわけですね」
 そして彼は、次の大柄で痩形(やせがた)な、すでにほとんど白毛(しらが)まじりになった頭髪をした男に向って言った。
「ここで何をお待ちですか?」と、Kは慇懃(いんぎん)にたずねた。
 ところがこんなふうに思いがけなく話しかけられて、その男はすっかり取乱してしまったが、それが明らかに、ほかのところでなら確かに自分も制御できるし、多くの人々に対してかちえた優越感を容易には捨てさってはいないような、世故に長(た)けた人であるだけに、その狼狽(ろうばい)ぶりは非常に痛ましく見えるのだった。ところでこの場所では、こんな単純な質問にも答えることができず、ほかの人々のほうを見て、自分を助けてくれる義務があるし、そうやって助けてくれなければ誰も自分に返答を要求することはできない、というような有様だった。すると廷丁は歩み寄って、その男を落着かせ、元気づけるために、言った。
「この方はまったくただ、何をお待ちですか、とおたずねになっただけなんですよ。どうぞお答えになってください」
 男は廷丁の声を聞きなれているらしく、そのためKがきくよりも効果があった。
「私が待っていますのは――」と、彼はしゃべりはじめたが、すぐつかえてしまった。明らかに彼は、質問にできるだけ詳しく答えるためにこう切り出すことを選んだのだったが、その先が続かなくなった。待っている人たちの何人かが近づいてきて、この三人のグループを取巻いたので、廷丁は彼らに言った。
「どいた、どいた、通路はあけなくちゃいけない」
 人々は少し退(の)いたが、元いた場所へはもどらなかった、そのうちに問われた男は気を落着かせ、ちょっと微笑(ほほえ)みさえもらしながら、答えた。
「一カ月前に、私の事件の証拠申請をしましてね、片づくのを待っているんです」
「まったくたいへんなお骨折りのようにお見受けできますね」と、Kが言った。
「ええ」と、男は言った。「なにせ自分のことですからね」
「誰もがあなたのように考えるとはきまっていませんよ」と、Kは言った。「たとえば私も告訴されているんですが、ほんとうに心からうまくゆくようにと願ってはいますものの、証拠申請だとか、あるいはそのほかの何かそういった類(たぐ)いのことを企てたことがありません。いったいあなたはそういうことを必要だとお考えですか?」
「私には詳しいことはわかりませんが」と、男はまたすっかりあやふやな態度になって言った。すなわち彼は明らかに、Kが自分をからかっているのだ、と思ったのであり、そのため、何かまた失敗をやるのではないかという心配から、前の答えをそのまま繰返すのがいちばんよいと考えたらしかったが、Kのいらいらしたような眼差を前にしてただこう言うのだった。
「私としては、証拠申請をしたのです」
「私が告訴されているとは、きっと思ってはいらっしゃらないのですね」と、Kはきいた。
「どういたしまして、そう思っております」と、男は言い、少しわきへ退いたが、返答の中には信頼ではなくて不安だけが現われていた。
「それじゃ、あなたは私の言うことを信じないんですね?」と、Kは言い、その男の屈従的態度に思わず知らず刺激され、どうしても信じさせてやろうというように男の腕をとらえた。しかし何も苦痛を与えてやろうとしたわけではないので、ほんの軽くとらえただけだったが、それでも男は、Kに二本の指ではなく、真っ赤な火ばさみでつかまれたように、悲鳴をあげた。このばかばかしい悲鳴でKは男に厭気(いやき)がさした。自分が告訴されていることを信じないのなら、ますます結構だ。おそらく自分のことを裁判官だとさえ思っているのだろう。そこで今度は別れの挨拶に本気で手をしっかと握り、ベンチに突きもどして、歩みを進めた。
「たいていの被告はああいうように神経質になっているんです」と、廷丁が言った。
 彼らの背後では、もう悲鳴をあげることをやめた例の男のまわりに、ほとんどすべての待ち合せている人たちが集まり、この思わぬ出来事について詳しくききただしているらしかった。そこへ、Kに向って監視人がやってきたが、おもにそのサーベルでそれとわかったのだけれども、少なくとも色から見るのに鞘(さや)はアルミニウムでできているらしかった。Kはそれに驚いて、手を出して握ってさえみた。悲鳴を聞きつけてやってきた監視人は、何が起ったのか、とたずねた。廷丁は二言三言言って彼を納得させようとしたが、監視人は、どうしても自分で調べる必要がある、と言いきって、会釈をし、非常に早くはあるがきわめて小刻みな、痛風(つうふう)のために堅苦しくなっているらしい足取りで、出向いて行った。
 Kは監視人や廊下の仲間のことを長くは気にかけていなかったが、およそ廊下の中ほどまで来ると、扉がなくてあいた場所になっており、右手に曲れそうになっているのに気づいたので、彼らのことをもうすっかり忘れてしまった。こちらに行っていいのか、と廷丁にきいてみると、廷丁はうなずいたので、Kはそこでほんとうに右手へ曲った。しょっちゅう一、二歩廷丁の先を歩かねばならぬことがわずらわしく、少なくともこの場所では、まるで自分が逮捕されて引きたてられてゆくような格好に見えることもありえた。それでしばしば廷丁の追いつくのを待ったが、廷丁はすぐにまたおくれてしまうのだった。ついにKは、自分の不快さにけりをつけるため、言った。
「ここがどんなところか見てしまったから、もう帰ろうと思います」
「まだ全部ごらんじゃありませんよ」と、廷丁は少しも動じないで言うのだった。
「全部が全部見たくもありませんね」と、ほんとうに疲れを感じてさえいるKは言った。「もう帰りますよ、出口はどっちですか?」
「もうわからなくなっちまったんですか?」と、廷丁は驚いて言った。「この端まで行って、廊下を右へいらっしゃればまっすぐ戸口に出ます」
「いっしょに来てください」と、Kは言った。「道を教えてくれませんか、どうも間違いそうだ、ここにはたくさん道があるんでね」
「ひとつきりの道ですよ」と、もうとがめるような口調になって廷丁は言った。「あなたとまたもどってゆくわけにはいきませんね、報告しにゆかねばなりませんし、そうでなくともあなたのためにだいぶ時間をつぶしましたからね」
「いっしょに来なさい!」と、Kはとうとう廷丁の不実さを突きとめたというように、鋭い口調で繰返した。
「そんなにどならないでください」と、廷丁はささやいた。「ここはどこも事務室ですから。ひとりでお帰りになりたくないなら、もう少し私といっしょに行くか、あるいは、報告をすませてくるまでここで待ってくださいませんか。そうすればよろこんでごいっしょに帰りますよ」
「だめだ、だめだ」と、Kは言った。「待てはしないし、今いっしょに来たまえ」
 Kはまだ、自分がいる場所をよく見まわしていなかったが、その辺にぐるりとあるたくさんの木の扉のひとつが開いたときになって初めて、眼をそちらに向けた。Kの大声を聞きつけたらしい一人の娘が現われて、たずねた。
「何かご用ですか?」
 その背後に遠く、薄暗がりの中をさらに一人の男が近づいてくるのが見えた。Kは廷丁の顔をじっと見た。この男は、誰もあなたのことなど気にはかけない、と言ったのではなかったか。ところがもうすでに二人がやってきて、ほんの小人数でもたくさんだというわけだが、役人連が彼のことに注意を払うようになったし、なぜここに来たのか、という釈明をきこうとするだろう。唯一の筋の通った、認められうる釈明というのは、自分は被告であり、次の尋問の予定日をきこうと思ったのだ、というのであるが、彼としてはまさにこんな釈明こそしたくはない。特にこれは真実でもないからであるが、偽りだというわけは、彼はただ好奇心で来たのであり、あるいは、釈明としてはやはり通りにくいのだが、この裁判制度の内部もその外部と同じようにいやなものだ、ということを確かめようとする要求からやってきたのだからである。そしてまったく、自分のこういう臆測(おくそく)は正しいと思われたので、これ以上はいりこむつもりはなく、これまで見たことですっかり胸苦しくなっており、今この瞬間には、どの扉からもひょっこり現われてくるかもしれない高い地位の役人に対応するだけの心構えになってもいないので、廷丁といっしょか、あるいはやむをえなければひとりででも帰りたかった。
 ところが、彼が黙って立っていることが奇妙に思われたらしく、実際、娘も廷丁も、次の瞬間にはなんらかの大きな変化が彼に起るにちがいないし、それを見ないでおきたくはない、とでもいうようにKを見つめるのだった。そして戸口には、Kがさっき遠くから認めた男が立って、丈(たけ)の低い鴨居(かもい)にしっかりと身をささえて、気短かげな観客のように、爪立(つまだ)ちながら少し身体を揺すっていた。しかし娘はまず、Kのこんな態度は少し気分がわるいことに原因があるのだと気づき、椅子を持ってきて、きいた。
「おかけになりません?」
 Kはすぐすわり、もっとよい姿勢をとろうとして、肘(ひじ)を椅子の背にささえた。
「少しめまいがなさるんでしょう?」と、女は彼にきいた。娘の顔が彼のすぐ眼の前にあったが、多くの女がその女盛りに持っているような強烈な表情を浮べていた。
「心配なさらないほうがいいですわ」と、娘は言った。「ここでは珍しいことではありません。初めてここへ来ると、ほとんど誰でもこんな発作を起すのよ。ここは初めてですの? そうね、それなら珍しいことじゃないわ。太陽がここの屋根板を照りつけますし、熱くなった木が空気をうっとうしく、重苦しくするんです。ですからこの場所は事務室にはあまり向かないんです、もちろんそのほかの点ではいろいろ大きな利益があるにはあるんですけれど。でも空気の点では、訴訟当事者が大勢行き来する日には、そしてそういうのはほとんど毎日ですけれど、ほとんど息もつけないくらいなんです。それから、ここにはまたいろいろ洗濯物が干しにかけられるということをお考えになれば、――それを下宿人に全部が全部断わるわけにもいきませんものね――少しぐらい気分がおわるくなられても不思議でないとお思いでしょう。でも、しまいにはこの空気にすっかり慣れます。二度目か――あるいは三度目にいらっしゃるときには、ここでもう胸を押しつけるようなものをもうお感じにならなくなることでしょう。もうおよろしくはありません?」
 Kは答えなかった。こうして突然身体の具合がわるくなってここの連中の手のうちにはいったようになっていることがあまりにもつらいことだったし、そのうえ、今自分の不調の原因を聞いたばっかりに、よくはならないで、むしろ少しわるくなったのであった。娘はそれにすぐ気づいて、Kの元気を回復させるために、壁に立てかけてあった鉤(かぎ)付きの竿(さお)をとり、ちょうどKの頭上に備えつけられた、戸外に通じる小さな通風窓をつついてあけた。だが煤(すす)がひどくたくさん落ちてきたので、娘はその通風窓をすぐまた引っ張ってしめ、ハンカチでKの両手の煤をはらわなければならなかった。Kはあまりに疲れていて、それを自分で始末できなかったからである。歩いてゆけるのに十分なだけ元気を回復するまでここにゆっくりとすわっていたかったが、人々が彼のことなど気にかけることも少なければ少ないほど、なるたけ早く行かなければならなかった。ところがそのうえ、娘が言った。
「ここにはいらっしゃれませんわ、通行の邪魔になりますもの――」Kは、どんな通行の邪魔になるのか、と視線できいた――「よろしかったら、病室へお連れしましょう。あなた、手を貸してちょうだい」と、娘は戸口の男に言ったが、男もすぐ近寄ってきた。
 しかし、Kは病室へは行きたくなく、これ以上引きまわされることはまっぴらだったし、行けば行くほど腹がたつにちがいなかった。そこで、
「もう歩けます」と、言い、立ち上がったが、気持よくすわっていだだけに耐えられず、身体が震えるのだった。ところが身体をまっすぐに立てることもできなかった。
「どうもだめです」と、頭を振りながら言い、溜息(ためいき)をもらしながらまた腰をおろした。廷丁のことを思い出し、あの男ならそれでも簡単に連れ出してくれるだろうと思ったが、とっくにいなくなってしまったらしく、自分の前に立っている娘と男とのあいだを透かし見するのだが、廷丁は見あたらなかった。
「私が思うのに」と、男が言ったが、ところで男は身だしなみがよく、特にその、二つの長いとがった端に終っている灰白のチョッキで、目だった。「この人が気持わるくなったのはここの空気のせいだよ。だから、まず病室に連れてゆきなどしないで事務局から出てもらうのが、いちばんいいし、この人にもいちばん気持がいいんじゃないかな」
「そうですよ」と、Kは叫び、無性によろこんでほとんど男の話の中に割ってはいった、「きっとすぐよくなるでしょうし、そんなに弱っているわけじゃなく、ただ少し腋(わき)の下をささえてもらえばいいんです。たいしてお骨折りはかけませんし、道もそう遠くはありません。扉のところまで連れていっていただけば、少し階段の上で休んで、すぐなおります。つまりこんな発作を起すことなんかないことで、自分でも驚いているんです。私も勤め人ですし、事務室の空気には慣れているんですが、ここは、あなたのおっしゃるように、少し空気がわるすぎるようですね。ですから、少し連れていってはいただけませんか。どうもめまいがして、ひとりで立ち上がると、気持がわるくなるのです」
 そして、二人が彼の腕の下をとらえやすくするため、肩を上げた。
 ところが男は求めに応じないで、両手を知らん顔でポケットに突っこんだまま、大声をあげて笑った。
「ごらん」と、男は娘に言った。「やっぱり私の言ったとおりじゃないか。この人はどこででも気分がわるくなるんじゃなくて、この部屋に限ってわるくなるんだ」
 娘も微笑んだが、男があえてKをあまりひどく弄(なぶ)っているとでもいうように、男の腕を軽く指先でたたいた。
「だって君、どうだっていうんだ」と、男はなおも笑いながら言った。「そりゃあ、この人を連れてはゆくさ」
「それならいいわ」と、格好のいい頭をしばらくかしげながら、娘は言った。
「この人が笑っていることをあまり気にされなくていいんですのよ」と、娘はKに言ったが、Kはまた憂鬱(ゆううつ)になっていて、ぼんやり前を見つめ、釈明などいらない、というふうだった。「この人は――ご紹介してもいいでしょう? (男は手振りで許しを与えた)――この人は案内係なんです。待っている訴訟当事者に求められる案内をなんでもするんですが、この裁判所のことは人々のあいだであまり知られていませんから、いろいろ案内が求められます。この人はどんな質問にも応じられますから、もし気がお進みでしたら、それをためしてごらんなさいな。でもそれはこの人のただひとつの特色ではなくて、第二の特色はあのスマートな身なりなんです。私たち、つまり役人は、しょっちゅう、しかも第一番目に訴訟当事者たちと接触する案内係は、第一印象をよくするために、身なりもスマートでなければならない、と同じように思っています。私たちほかの者は、私をごらんになればすぐおわかりと思いますが、残念ながらたいへん粗末で古風な身なりをしています。着物にお金をかけることなんか、たいして意味もありませんわ、だって私たちはほとんどいつも事務局にいて、ここに寝泊りまでするんですもの。でも、申上げたとおり、案内係はりっぱな着物がいる、と私たちは等しく思っています。ところがその着物は、この点でいくらか変なんですが、お役所からは支給されませんので、私たちはお金を集め――訴訟当事者にも寄付していただき――この人にこんなきれいな着物やまたほかのやを買ったんですわ。今では万事が整って、よい印象を与えることもできるのに、この人ったら笑ってはまた台なしにしてしまい、人を驚かすんですのよ」
「そりゃあそうだが」と、男はあざけるように言った。「君、なぜこの人にわれわれの内幕を洗いざらいしゃべるのか、あるいは全然聞きたくもないのに無理に聞かせるのか、私にはわからないね。いいかい、この人は明らかに自分の用件があってここに来ているんだからね」
 Kは抗弁する気が全然なかった。娘の意図は親切なものらしいし、おそらくKの気をまぎらせ、あるいは気分をまとめる機会を彼に与えるためのものだったのだが、手段が間違っていたのだった。
「この人にあなたの笑ったわけを説明してあげなければいけなかったんだわ」と、娘は言った。「ほんとに人を侮辱するものだったわ」
「最後に連れていってあげれば、もっとわるい侮辱だってこの人は許しなさる、と私は思うね」
 Kは何も言わず、一度も顔を上げないで、二人が自分についてまるで事件についてのように論じ合っているのを、我慢していた。それが彼にはいちばん好ましかった。ところが突然、一方の腕に案内係の手、他方のに娘の手を感じた。
「じゃあ立ちなさい、お弱いお方」と、案内係は言った。
「お二人とも、ほんとうにすみません」と、よろこび驚きながらKは言い、ゆっくり立ち上がり、ささえをいちばん必要とする場所に自分のほうから他人の手を持っていった。
「私にはこう思われるんですけど」と、彼らが廊下に近づいたとき、娘は小声でKの耳にささやいた。「この案内係さんのことをよく思っていただくようにすることが、とりわけ、私の責任なんじゃないかしら。信じていただいて結構なんですけれど、私はほんとうのことを言おうと思います。あの人は冷たい人じゃないのよ。病気の訴訟当事者を連れ出すなんて、あの人の役目じゃありませんのに、ごらんのように、あの人はしますのよ。きっと私たちの誰もが冷たくなんかないし、きっとみなよろこんで人を助けたいんですわ。それでも裁判所の役人なものですから、私たちは冷たいし、誰も助けようなどとは思っていない、っていうように見えがちなんです。ほんとうにつらいわ」
「ここでちょっと休みませんか」と、案内係が言ったが、もう廊下に出て、Kがさっき話しかけた被告のちょうど前に来た。Kは、ほとんど自分を恥じていた。さっきはこの男の前にちゃんと立っていたのだが、今は二人がささえねばならず、帽子は案内係がひろげた指の上にのせており、髪形は乱れ、髪毛(かみのけ)は汗ばんだ額の上に垂れていた。ところが被告はそんなことには気づかぬ模様で、自分を越えてあらぬ方をながめている案内人の前にうやうやしげに立ち、ただ自分がここにいることを弁解しようとするのだった。
「今日はまだ」と、彼は言った。「私の申請が片づきはしない、ということをよく存じています。けれど、ここで待たしていただけるだろう、今日は日曜日だし、時間があるし、ここでお邪魔にはならない、と思ってまいりました」
「そんなに言い訳をおっしゃらなくたってよろしいですよ」と、案内係は言った。「そんなに気をつかっていただくのはまったく恐縮です。あなたはここで余計な場所ふさぎをしておられるが、私の面倒にならないかぎりは、あなたの事件の進行を逐一たどられるのを妨げはしませんよ。自分の義務をおろそかにしている人たちばかり見ていると、あなたのような人たちのことは我慢するようになります。どうぞおかけください」
「訴訟当事者を相手にすることをなんて心得ていることでしょう」と、娘は言い、Kもうなずいたが、すぐ、案内人が彼にまたきいたので、とび上がった。
「ここで腰かけませんか?」
「いや」と、Kは言った。「休みたくはありません」
 できるだけきっぱりとそう言ったのだが、実際は、腰かけることが彼には気持よかったにちがいなかった。まるで船酔いのようだった。難航中の船に乗っているように思われた。水が板壁の上に落ちかかり、廊下の奥からはかぶさる水のような轟々(ごうごう)という音が聞え、廊下は横ざまに振れ、両側に待っている訴訟当事者たちは下がったり、上がったりしているように思われるのだった。それだけに、自分を連れてゆく娘と男との落着きはらった様子がわからなかった。自分は彼らに引渡されたのであり、彼らが自分を手放すなら、木片のように倒れるにちがいなかった。二人の小さな眼からは、鋭い視線があちこちと走り、彼らの規則正しい足取りをKは感じるのだったが、ほとんど一歩一歩彼らに運ばれている有様なので、それに合わせることはできなかった。ふと、二人が自分に何か言っていることに気づいたが、何を言っているのかはわからず、ただ騒音だけが聞えてきた。その騒音はあたりにいっぱいで、それを貫いて海の魔女(サイレン)のような変化のない高い調子が響くのが聞えた。
「もっと大きな声で」と彼は頭を垂れたままささやいてから、恥じた。自分には聞き取れないけれど十分大きな声で言われたのだ、ということを知っていたからである。そのときとうとう、眼の前の壁に穴があいたように、さわやかな風が吹きつけてきた。そしてそばで言う言葉を聞いた。
「初めは行きたがるが、ここが出口だ、と何回でも言ってやればいい。そうすれば動かなくなるよ」
 Kは、娘があけた出口の扉の前に立っていることに気づいた。身体じゅうの力が一時に戻ってきたような気がし、自由の身の前味を味わうのだった。すぐに階段に一段足をかけ、そこから、自分のほうに身体をかがめている二人の道づれに別れを告げた。
「どうもありがとう」と、彼はまた言い、繰返し二人の手を握ったが、二人が事務局の空気に慣れていて、階段からやってくる比較的さわやかな空気にも耐えがたそうなのを見てとって、初めて立ち去った。二人はほとんど返事もせず、もしKがきわめて素早く扉をしめてやらなかったならば、娘はおそらく倒れたであろう。Kはしばらくじっと立ち止っていたが、懐中鏡で髪を直し、次の踊り場にころがっている帽子を拾い上げ、――案内係がきっとそれを投げ出したのだった――階段を降りていったが、気持があまりにさっぱりし、あまりに大股(おおまた)で歩けたので、この変りかたにほとんど不安を覚えたくらいだった。こんな驚きは、これまでのまったくしっかりした健康状態のときにもまだ感じたことはなかった。肉体が革命を起そうとし、彼がこれまで古い肉体の働きに耐えてきたので、新しい働きを用意しようとしているのだろうか? できるだけ早い機会に医者のところへ行こうという考えをしりぞけはしなかったが、いずれにせよ彼は、――そのことを彼は決心できたが――これからの日曜日の午前はいつでも今日よりはよく使おう、と思うのだった。





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