フランツ・カフカ Franz Kafka 原田義人訳 審判 DER PROZESS


第六章 叔父(おじ)・レーニ


 ある日の午後――ちょうど郵便締切日の前なのでKは非常に忙しかったが、書類を持ってはいってくる二人の小使のあいだを押し分けて、田舎(いなか)の小地主であるKの叔父のカールが部屋にはいってきた。彼が叔父の姿を見かけてもたいして驚かなかったのは、それよりかなり前に、叔父がやってくるという知らせを受けてすっかり驚いていたからだった。叔父がやってくるということは、すでに約一カ月も前からKにはわかっていたことだった。すでにそのとき、叔父が少し前かがみになり、左手にぺしゃんこになったパナマ帽を持ち、右手を遠くのほうから自分に差出し、邪魔になるあらゆるものにぶつかりながら、あたりかまわぬ急ぎかたで机越しに手を握る有様が、Kには眼に見えるようだった。叔父は絶えずせかせかしていたが、いつもただ一日しか滞京しないのに、そのあいだに計画してきたことをみんな片づけなければならない、そのうえ、たまたま生じた面会や用談や楽しみなども何ひとつ逃すまい、という面倒な気持に追い立てられているからだった。そういう場合にKは、昔自分の後見人になってもらったこともあり恩があるので、あらゆる事柄で世話もせねばならず、そのうえ、自分のところに泊めなくてはならなかった。「田舎から来る幽霊」と、Kは日ごろ叔父のことを呼んでいた。
 挨拶(あいさつ)をすませるとすぐ、――肘掛椅子(ひじかけいす)にすわるようKはすすめたが、叔父はその余裕すらなかった――二人だけで少し話したいことがある、とKに頼んだ。
「どうしても人払いが必要なんだ」と、叔父は苦しげに唾(つば)をのみこみながら言った。「わしの安心のためには必要なんだ」
 Kはすぐさま、誰も部屋に入れてはいけないと命じて、小使たちを部屋から出した。
「いったいなんということをやったのだ、ヨーゼフ?」と、二人きりになったとき叔父は叫び、机の上にすわり、すわり心地をよくするためさまざまな書類を見境もなく尻(しり)の下に詰めこんだ。Kは黙っていた。なんの話かわかってはいたが、夢中になっていた仕事の緊張を突然解かれたので、まず心地よい疲労に身をまかせ、窓越しに向う側の通りをながめていた。彼の席からは、ただ小さな三角形の部分、二つの陳列窓のあいだの何もない壁の部分が見えるだけだった。
「窓の外なんか見ている!」と、叔父は腕をあげて叫んだ。「後生だから答えてくれ、ヨーゼフ! ほんとうなのか、いったいあんなことがほんとうにありうることかね?」
「叔父さん」と、Kは言って、ぼんやりしていた気持を振切った、「なんのことやらさっぱりわかりませんが」
「ヨーゼフ」と、叔父はたしなめるように言った。「わしの知るかぎり、お前はいつもほんとうのことを言ってきた。ところがお前の今の言葉を聞くと、どうもそれをわるいしるしととらなきゃならんようだね?」
「ああ、叔父さんの用件がわかりましたよ」と、Kは素直に言った、「きっと私の訴訟のことをお聞きになったんですね」
「そうだよ」と、ゆっくりうなずきながら、叔父は答えた。「お前の訴訟のことを聞いたんだ」
「いったい誰からですか?」と、Kはきいた。
「エルナが手紙で言ってよこしたんだ」と、叔父は言った。「あれはお前とは全然交渉がないし、残念ながらお前はたいしてあれのことを気にかけていない。それでもあれはそのことを聞いたんだぞ。今日あれの手紙をもらって、もちろんすぐここへやってきたんだ。別にほかの理由はなかったが、これだけでも十分理由になるように思われるな。お前に関する手紙の個所を読んでやるぞ」
 彼は紙入れから手紙を取出した。
「ここにある。こう書いてあるぞ。『ヨーゼフにはもうずっと会っておりません。先週一度銀行へまいりましたが、ヨーゼフはたいへん忙しく面会してもらえませんでした。ほとんど一時間ほども待ちましたが、ピアノのお稽古(けいこ)がありますので、家へ帰りました。あの人とお話ししたく思っておりますが、近く機会があることと思います。私の名付日にはあの人から大箱のチョコレートを贈ってもらいました。とてもかわいらしく、人目につきました。そのときお知らせすることを忘れておりましたが、お尋ねがあったので今やっと、思い出しました。チョコレートは、寄宿舎ではすぐなくなってしまいますのよ。チョコレートを贈ってもらったんだということを思い出すか出さないうちに、もうどこかへ行っていますわ。でもヨーゼフのことでは、もう少しお知らせしておきます。今書きましたとおり、銀行では、ちょうどどなたかとお話ししているというので、面会できませんでした。しばらくじっと待ってから、お話はまだ続きましょうか、と小使さんにきいてみましたの。そうしたら、きっとそうなるだろう、主任さんに対して起されている訴訟のことらしいから、という話でした。どんな訴訟なんですか、お間違いではないんですか、って私はききました。すると、いや間違いじゃない、訴訟だし、しかも重要な訴訟だ、けれどこれ以上のことは自分にはわからない、ということでした。自分も主任さんをよろこんでお助けしたい、あの人はいい、正しい人だから、でもどうやって始めたらいいのかわからない、ただ有力な人たちがあの人のことを取上げてくれるのを祈っているだけだ。きっとそうなるだろうし、結局はうまい決着がつくだろうけれど、主任さんの機嫌(きげん)から察するのに、さしあたりはどうもあまりうまくはいっていないらしい、ということでした。この話はもちろんたいして重要なものではないと思いましたし、単純そうな小使さんを慰めようと思って、ほかの人々に向ってそのことをしゃべらぬように言いましたが、みんなおしゃべりにすぎないと考えております。でも、お父様、今度こちらにおいでの節に、よくお調べになるなら、きっとためになることでしょうし、詳しいことをきき、またほんとうに必要ならば、お父様の大勢の有力なお知合いの方々の手を借りて事件に口をきくことは、お父様にはやさしいことでしょう。でも、そういうことが必要でないとしても、――そして必要でない場合がほんとうにいちばんありそうなことだと思われるのですけれど――少なくともあなたの娘にお父様を抱く機会を与えてくださるでしょうし、そうしたらうれしいと思います』――いい子だ」と、叔父は朗読をやめると、言って、二、三滴の涙を眼からぬぐうのだった。
 Kはうなずいたが、最近のさまざまなごたごたのためすっかりエルナのことを忘れ、彼女の誕生日のことも忘れていたので、チョコレートの話は明らかにただ、自分のことを叔父と叔母とに対してよく思わせてくれようとする心づかいから考えだしたものだった。それは非常にいじらしく、これからはきちんきちんと送ってやろうと思った芝居の切符ではきっと十分に償いきれないものだったけれども、寄宿舎を訪(たず)ね、ちっぽけな十八歳の女学生と話をするなどという気には今はなれなかった。
「で、どうだね?」と、叔父はきいたが、手紙ですっかり、急いでいたこと、興奮していたこと、を忘れてしまい、もう一度手紙を読んでいるらしかった。
「ええ、叔父さん」と、Kは言った。「ほんとうにそうなんです」
「ほんとうだって?」と、叔父は叫んだ。「ほんとうってどういうことなんだ? そんなことがほんとうだなんて、ありうることかい? どんな訴訟なんだ? でも刑事訴訟じゃあるまいな?」
「刑事訴訟なんです」と、Kは答えた。
「で、お前はここに落着きはらってすわっていながら、刑事訴訟を背負いこんでいるのか?」と、叔父は叫んだが、声がいよいよ大きくなっていった。
「落着いていればいるほど、結果はいいんです」と、Kは疲れたように言った。「心配しないでください」
「そんなことじゃ、わしのほうは安心できん!」と、叔父は叫んだ。「ヨーゼフ、なあヨーゼフ、自分のこと、親戚(しんせき)のこと、わしたちの家名のことを考えてごらん! お前はこれまで一門の名誉だったし、これからも一門の恥となってはいけないぞ。お前の態度は」と、彼は頭を斜めにかしげてKをじっと見つめた。「わしの気に入らん。まだ元気いっぱいでいる潔白な被告の態度じゃないぞ。さあ早く言いなさい、何に関したことなんだ、わしはお前を助けてやるから。もちろん、銀行に関したことなんだろう?」
「ちがいますよ」と、Kは言い、立ち上がった。「叔父さんの声は大きすぎますよ。きっと小使が扉のところに立って、聞いています。それは不愉快ですからね。むしろ外に行きませんか。外に出たら、何なりと叔父さんの質問にお答えしますよ。身内の人たちにも弁明しなけりゃならないとは、重々わかっていますからね」
「そうだ!」と、叔父は叫んだ。「まったく言うとおりだ、さあ急ぐんだ、ヨーゼフ、急ぐんだ!」
「まだ少し言いつけておかねばならないことがありますから」と、Kは言い、電話で代理を呼んだが、代理はすぐやってきた。興奮している叔父は、わざわざやらなくたってきまりきったことなのに、あなたを呼んだのはこの男だ、と代理に手でKのことをさしたりするのだった。Kは机の前に立ち、低い声でいろいろな書類を取上げながら、自分がいないあいだ今日のうちに片づけねばならないことをその若い男に説明したが、相手は冷やかな、しかし注意深い態度で聞いていた。叔父は、もちろん話を聞いているわけではないが、まず眼を丸くし、神経質そうに唇(くちびる)を噛(か)みながらそばに立って邪魔になっていたが、この様子だけでもすでに十分邪魔になるのだった。しかし次に、部屋のなかをあちこちと歩きまわり、窓の前とか絵の前とかに立ち止っては、しょっちゅう、「わしにはまったくわからん」とか、「いったいこれからどういうことになるのか言ってみなさい」とかいうように、いろいろ叫び声をあげるのだった。若い男はそれが全然気にならぬようで、Kの頼むことを終りまで落着いて聞き、いくらかメモをとって、Kと叔父とに一礼してから、出ていったが、叔父はちょうど男に背を向け、窓から外をながめ、両手を伸ばしてカーテンを皺(しわ)くちゃにしていた。扉がしまるかしまらぬうちに、叔父は叫んだ。
「とうとう操(あやつ)り人形が出ていった。今度はわしらが出てゆく番だ。さあ、これで出てゆける!」
 ホールには二、三人の行員や小使があちこちに立っており、またちょうど支店長代理が横切ってゆくところだったが、都合がわるいことに、訴訟についての質問をやめさせる手段がなかった。
「で、ヨーゼフ」と、叔父はそのあたりに立っている人々の挨拶に軽い会釈で答えながら、言い始めた。「もうはっきりと言ってくれ、どんな訴訟なんだ」
 Kは何か口ごもりながら、少し笑いもし、階段のところへ来てからやっと、人がいるところではおおっぴらに話したくないのです、と叔父に説明した。
「ほんとうにそうだ」と、叔父は言った。「だがもう話してもいいだろう」
 頭をかしげて、葉巻を短く、せわしげにぷかぷかふかしながら、叔父は一心に聞いていた。
「叔父さん、まずお断わりしておきますが」と、Kは言った。「普通裁判所の訴訟じゃないんです」
「それはいかん」と、叔父は言った。
「どうしてですか」と、Kは言い、叔父をじっと見つめた。
「それはいかん、って言うのだ」と、叔父は繰返した。
 二人は通りに通じる表階段の上にいた。門衛が聞き耳をたてているようなので、Kは叔父を引っ張りおろした。街路のにぎやかな往来が二人を迎えた。Kの腕にすがった叔父は、もうあまりせきこんで訴訟のことをきかなくなり、しばらくは黙りさえして歩みを進めた。
「だがどういうことが起ったのだ?」と、ついに叔父がきいたが、突然立ち止ってしまったので、その後ろを歩いていた人々は驚いて避けた。
「こんなことは突然起るものじゃなし、ずっと前からじっくり起ってくるのだから、その徴候もあったにちがいないのに、なぜ手紙でそれを言ってよこさなかったんだ? お前も知っているとおり、わしはお前のためになんでもやってきているし、今でもいわば後見人と言えるくらいで、わしは今日までそれを誇りにしてきた。もちろん今でもお前を助けてやるつもりだが、訴訟がもう始まっているとすると、どうもむずかしいぞ。ともかく、ここで少し休暇を取り、田舎のわしらのところへ来るのがいちばんいいだろう。それにお前は少し痩(や)せたぞ、どうもそう見える。田舎でお前は元気になるだろうし、そうなればよいことだ。なにしろこれから先も、きっといろいろと骨が折れようからな。それに、田舎へ行けば裁判所からもある程度逃げられる。ここではいろいろな権力手段があって、それをかならず自動的にお前にも適用するだろう。ところが田舎では、まずいろいろな機関を派遣するとか、ただ手紙や電報や電話でお前に働きかけようとするくらいのものだ。それならもちろん、効果が減るし、お前を解放はしないにしても、息がつけるだろう」
「ここを離れることは禁じるかもしれませんよ」と、叔父の話に少し釣りこまれたKは言った。
「そんなことをするとは、わしは思わん」と、叔父は考えこんだように言った。「お前が旅行に出たために役所の権力が減る面は、そんなに大きくはあるまい」
「叔父さんは」と、Kは言い、叔父を立ち止らせておかないように腕を取った、「私ほどこの事件に重きをおかないものと思っていましたが、ご自身でどうもむずかしく考えておられるようですね」
「ヨーゼフ」と、叔父は大声をあげ、立ち止ることができるようにKから逃れようとしたが、Kがそうはさせなかった。「お前は変ったな。お前はいつも非常に考える力がしっかりしていたのに、今はどうもどこかへ置き忘れたようだぞ? 訴訟に敗(ま)けてもいいのか? そうなったらどうなるのか、知っているか? そうなったら、お前は簡単に抹殺(まっさつ)されちゃうんだぞ。親戚全体が巻きこまれるか、少なくとも徹底的に辱(はずか)しめられるんだぞ。ヨーゼフ、しっかりしておくれ。お前のどうでもいいというような態度は、わしから正気を奪ってしまうほどだ。お前の様子を見ていると、『こんな訴訟があるからは、もう敗けたも同然だ』っていう諺(ことわざ)をほとんど信じたくなるくらいだ」
「叔父さん」と、Kは言った。「興奮は無用です。興奮しているのは叔父さんのほうだし、また私のほうもそうかもしれません。興奮したんでは訴訟に勝てませんからね。叔父さんのご経験は少々私を驚かせますが、いつも、そして今でも大いに尊敬しているんですから、私の実地の経験も少しは認めてください。身内の者まで訴訟によってわずらわされるって叔父さんがおっしゃられるんですから、――このことは私としてはまったく理解できませんが、まあそれは別なことだからやめましょう――よろこんでなんでもおっしゃることに従うつもりです。ただ田舎に滞在するということだけは、叔父さんのお考えの意味ででも利益になるとは思われませんね。そんなことをすりゃあ、逃げたことになるし、罪を自覚していることになりますからね。それに、ここにいるといよいよ追いまわされはするものの、また自分でもっと事を動かすこともできるんです」
「もっともだよ」と、叔父は、今はやっと互いに歩み寄りができた、というような調子で言った。「わしがそういうことを言いだしたのはただ、お前がここにいると、事がお前の無関心な態度で危なくなるように思えたし、わしがお前のかわりに事をやればいっそうよいと考えたからだ。だがもしお前が全力をあげて自分でやろうというのなら、もちろんはるかによいことだ」
「それじゃこの点で私たちは一致したわけです」と、Kは言った。「そこで、私がまずやらなきゃあならないことについて、何かお考えがありますか?」
「もちろん事柄をもっと考えてみなくちゃならん」と、叔父は言った。「お前もわかってくれるだろうが、わしはもうこれで二十年もほとんど田舎に居きりなので、こういう方面の勘が鈍ってしまったよ。こっちにいておそらく事情に明るい人たちとの、さまざまな肝心なつながりも、自然とゆるんでしまった。お前もよく知っているとおり、わしは田舎で少し見捨てられていたんだ。ほんとうにこんな事件にぶつかってみて初めて、自分でもそれがわかる。奇妙なことにエルナの手紙を読んだだけでそういうことがいくらかわかったし、今日もお前の顔を見ただけで、ほとんどはっきりわかったんだが、お前のこの事件は少々意外だったな。だがそんなことはどうでもよろしい、今いちばん大切なのは、時を失わないということだ」
 こう話しているうちにもう、爪立(つまだ)ちながら一台の自動車に合図して、運転手に行先をどなってやりながら、Kを後ろ手で自動車に引っ張りこんだ。
「これからフルト弁護士のところへ行こう」と、彼は言った。「あの男はわしの同窓生だった。お前も名前は知っているだろう? 知らないか? だが変だね。貧乏人の保護者で弁護士として、たいへん名声の高い人だ。だがわしは、人間としてのあの男に大いに信頼をおいている」
「叔父さんのやられることは、なんでも私には結構ですよ」と、叔父が用件を取扱ういかにもせっかちな、押しつけがましいやりかたに不快を覚えさせられたが、Kは言った。被告として貧民相手の弁護士のところへ行くことは、あまり愉快なことではなかった。
「こんな事件にも弁護士を頼めるものとは知りませんでした」と、彼は言った。
「もちろんだよ」と、叔父は言った。「わかりきったことじゃないか。どうして頼めないなんていうことがある? ところで、事件を詳しく知っておくため、わしにこれまで起ったことを話してくれないか」
 Kはすぐ話し始めたが、何も隠しだてはしなかった。完全にぶちまけるということが、訴訟は大きな恥辱だ、という叔父の意見に対してあえてやれる唯一の抗議だった。ビュルストナー嬢の名前はただ一度だけ、ほんのついでに口に出しただけだったが、それは何も公明正大になんでも言うという態度を傷つけるものではなかった。ビュルストナー嬢は訴訟とは何も関係がなかったからである。話しながら窓越しにながめ、自分たちがちょうど裁判所事務局のあった例の郊外に近づいているのを見てとり、叔父にそのことを注意したが、叔父はその偶然の一致をさして驚くべきこととは思わなかった。車は一軒の暗い家の前に止った。叔父は、すぐ一階のとっつきの部屋の扉のベルを鳴らした。待ちながら、にやにやして大きな歯をむきだし、ささやいた。
「八時だ。訴訟のことで行くのには尋常じゃない時間だな。しかしフルトはわしのことをわるくは思うまい」
 扉ののぞき窓に、二つの大きな黒い眼が現われ、しばらく二人の客をじっと見つめて、消えた。ところが扉はあかなかった。叔父とKとは互いに、二つの眼を見たという事実を確かめ合った。
「新しい女中で、見知らぬ人間を恐がっているんだろう」と、叔父は言い、もう一度ノックした。また眼が現われ、今度はほとんど悲しげに見えるのだったが、おそらくはただ、二人の頭のすぐ上で強くじいじい音をたてて燃えてはいるがほとんど光を出してはいない裸ガス燈の生みだした錯覚だったかもしれなかった。
「あけてくれ」と、叔父は叫んで、拳(こぶし)で扉をたたいた。「弁護士さんの友達なんだ!」
「弁護士さんは病気ですよ」と、彼らの後ろでささやく声がした。小さな廊下の向うの隅(すみ)の扉に寝巻姿の紳士が立ち、きわめて低い声でこう知らせたのだった。すでに長く待たされて腹のたっていた叔父は、ぐいと振向いて、叫んだ。
「病気? あの男が病気だっておっしゃるんですね?」そして、その紳士が病気そのものででもあるかのように、ほとんど挑(いど)みかかるような様子で男のほうに近づいていった。
「扉をもうあけましたよ」と、その紳士は言い、弁護士の扉を指さし、寝巻をかき合せて、消えた。扉はほんとうに開かれており、一人の若い娘が――黒い、少し飛び出た、あの眼をKはふたたび認めた――長い白エプロン姿で控えの間に立ち、蝋燭(ろうそく)を一本手にしていた。
「この次はもっと早くあけてください!」と、叔父は挨拶(あいさつ)するかわりに言ったが、娘のほうは少し膝(ひざ)をかがめて挨拶をした。
「おいで、ヨーゼフ」と、ゆっくりと娘のそばを通り過ぎるKに叔父は言った。
「弁護士さんはご病気です」と、叔父は止っていないでどんどん扉のほうに行くので、娘は言った。
 Kはまだぽかんと娘をながめていたが、娘のほうはすでに向き直って、入口の扉をまたしめにいった。人形のような格好の丸い顔で、蒼(あお)ざめた頬(ほお)と顎(あご)とが丸みを帯びているばかりでなく、こめかみも額ぎわも丸みを帯びていた。
「ヨーゼフ!」と、叔父はまた叫び、娘にきいた。
「心臓病かね?」
「きっとそうだと思います」と、娘は言い、蝋燭を携えて先に立ち、部屋の扉をあける暇をとらえた。蝋燭の光がまだ届かない部屋の隅のベッドで、長い髯(ひげ)の顔が身を起した。
「レーニ、誰が来たんだ?」と、蝋燭に眼がくらんで客の見分けがつかない弁護士がきいた。
「アルバート、君の旧友だよ」と、叔父は言った。
「ああ、アルバートか」と、弁護士は言い、この訪問客には何も取繕うことは要(い)らないというように、布団の上にぐったりと倒れた。
「ほんとうにそんなにわるいのかい?」と、叔父は言い、ベッドの縁に腰をおろした。「わしはそうは思わんぞ。いつもの心臓病の発作だよ。いつもと同じようにすぐ直るよ」
「そうかもしれないが」と、弁護士は低い声で言った。「でも今度はこれまでよりもわるいんだ。呼吸が苦しく、全然眠れないし、日ましに弱ってゆくんだ」
「そうか」と、叔父は言い、大きな手でパナマ帽をしっかと膝に押しつけた。
「そいつはわるい知らせだな。ところでちゃんと養生しているのか? それにここはどうも陰気で、暗いな。この前ここに来てからもうだいぶになるが、あのときはもっと親しみがあるように思えたぞ。ここにいるお前の小娘もあまり陽気じゃなさそうだし、どうもとりすましているな」
 娘はまだ蝋燭を手にして、扉の近くに立っていた。どうもはっきりしない彼女の眼差(まなざし)から推しはかるのに、叔父が今自分のことを話しているのだからそのほうを見たらよさそうなものなのに、叔父よりもむしろKを見ていた。Kは、娘の近くまでずらしていった椅子にもたれていた。
「おれのように病気だと」と、弁護士は言った。「安静にしなければならん。おれには別に陰気じゃないよ」そして少し間を置いてから、言葉を足した。「それにレーニはよくおれを看病してくれるよ。いい娘だ」
 しかし、その言葉に叔父は承服できず、明らかに看護婦に偏見をいだいているらしく、病人には何も言わなかったが、看護婦がベッドのところへ行き、蝋燭を夜間用の小さな机の上に置き、病人の上に身をかがめて、布団を整えながら病人と小声で話すのを、きびしい眼つきで追っていた。ほとんど病人への心づかいなどは忘れてしまい、立ち上がって看護婦の後(あと)にあちこちとついてまわり、たとい叔父が娘の首筋をとらえてベッドから引離したとしても、Kには不思議ではないように思われるのだった。K自身は万事を冷静にながめていたし、弁護士の病気はまったくあつらえむきでないわけでもなかった。叔父が自分の事件のためにやってくれている熱心さには逆らうこともできなかったので、別段自分が手を加えもしないでその熱心さがこういうふうにそらされることを、Kはよろこんで迎えたのだった。そのとき叔父が言ったが、おそらくただ看護婦を傷つけてやろうというつもりだけの言葉だった。
「看護婦さん、しばらく二人だけにしてくれないかね。友達と個人的な用件で話さねばならぬことがあるんだ」
 まだ病人の上にずっと身体(からだ)をかがめて、ちょうど壁ぎわの掛布団を伸ばしていた看護婦は、頭だけを向けて非常に落着いて言ったが、それは、怒りのためにつまってしまうかと思うとまた流れ出る叔父の話と、著しい対照をなしていた。
「ごらんのとおりたいへん病気が重いのですから、どんな用件もお話しはできません」
 看護婦は叔父の言葉をおそらくはただ億劫(おっくう)がって繰返したにすぎなかったのであろうが、ともかくそれは第三者から見てさえ嘲笑(ちょうしょう)しているもののようにとられ、叔父はもちろん、ちくりとやられた者のように飛び上がった。
「こん畜生」と、興奮のため喉(のど)を鳴らしはじめながら、まだ明瞭(めいりょう)に聞き取れはしない調子で言ったが、どうせそんなことになるだろうと予期していたKも仰天し、両手で口を押えてやろうというはっきりとした意図をもって叔父のところへ走り寄っていった。しかし好都合なことに、娘の後ろで病人が身体をもたげ、叔父は、何かいやなものをのみこんだような苦い顔をしたが、次に少し落着いて言った。
「もちろん、お互いに理性を失ってしまったわけじゃない。わしの要求することができない相談なら、わしも無理には要求すまい。だがもう出ていってくれないか!」
 看護婦はベッドのそばにしっかと立ち、完全に叔父のほうを向き、Kにはそれが見られたように思えたのだが、片手で弁護士の手をさすっていた。
「レーニの前ならなんでも言えるよ」と、疑いもなく切に願うような調子で、病人は言った。
「わしのことじゃないんだ」と、叔父は言った。「わしの秘密じゃないんだ」
 そして彼は向き直ってしまい、もう言い合いをやっているつもりはないが、まあちょっと考える余裕を与えてやろう、という様子だった。
「いったい誰のことなんだ?」と、消え入るような声で弁護士はきき、また身体を横にした。
「わしの甥(おい)なんだよ」と、叔父は言った。「いっしょに連れてきたよ」そして、紹介した。「業務主任ヨーゼフ・K」
「おお」と、病人はずっと元気になって言い、Kに手を差伸べた。「ごめんなさい、あなたには全然気がつきませんでした。レーニ、あっちへ行きなさい」と、看護婦に言ったが、娘のほうも全然逆らわず、病人はまるで長い別れででもあるかのように彼女に手を差伸べた。
「それじゃ君は」と、病人はついに叔父に言ったが、叔父も気持が解け、彼のほうに近寄った。
「見舞いに来てくれたんじゃなくて、用事で来たんだね」
 病気見舞いという考えがこれまで弁護士をうんざりさせていたかのようで、そこで今は元気づいたように見え、かなり骨の折れることであるのにちがいないのに、絶えず一方の肘で身体をささえたままの姿勢をとり、髯の真ん中あたりの一束をしょっちゅう引っ張っていた。
「あの阿魔(あま)が出ていってから」と、叔父は言った。「君はすっかり元気になったようだぞ」
 ここで言葉を切り、ささやいた。
「請け合うが、あの女め立ち聞きしている!」
 そして扉に飛びついて行った。しかし、扉の背後には誰もいなかったので、叔父はもどってきたが、彼女が立ち聞きしていないことは叔父にはいっそう陰険なことに思われたので、少しも失望してはいなかったけれども、確かに気をわるくしてはいた。
「君はあれを誤解しているよ」と、弁護士は言ったが、それ以上看護婦のことをかばおうとはしなかった。おそらくそれで、あの娘はかばう必要がないのだ、ということを言い表わそうとしたのであろう。しかし、ずっと熱心な調子で彼は言葉を続けた。
「君の甥御さんのことだが、もしこのきわめてむずかしい問題にぶつかれる元気がわしにあるなら、もちろんわしもたいへん幸(しあわ)せだと思っている。ただそれだけの元気があるかどうか大いに心配なんだが、ともかくなんであろうとやってみないで投げたくはないからね。もしわしで十分ではないなら、誰かほかの人を頼むこともできる。正直に言って、この事件にはたいへん興味があるんで、思いきってそれを手がけることをあきらめる気にはとうていなれない。もしわしの心臓がそれに耐えられないというのなら、少なくともここで、弁護士商売なんか完全に思いきる絶好の機会が見つかるというものだ」
 Kは、この話がさっぱりわからぬように思えて、説明を求めようとして叔父の顔を見つめたが、叔父のほうは蝋燭を手にして夜間用の机のそばにすわり、早速机から薬瓶(くすりびん)を絨毯(じゅうたん)の上にころがし落してみせ、弁護士の言うことのなんにでもうなずき、なんにでも同意しては、ときどきKにも同じような同意を促して彼の顔をうかがうのだった。おそらく叔父はすでに前もって弁護士に訴訟のことを言っておいたのだろうか? しかし、そんなことはありうるはずがなく、これまでここで起ったことはすべて、そんなことがないということを物語っているのだった。それゆえ、彼は言った。
「私にはおっしゃることがわかりませんが――」
「ほう、あなたのことを誤解しているとでも言われるんですかな?」と、弁護士のほうもKと同じように驚き、かつ当惑してたずねた。
「おそらく先走りしすぎたんでしょう。いったいなんのことで私と相談なさろうと言われるんですか? あなたの訴訟のことだとばかり思っていました」
「もちろんだよ」と、叔父は言い、次にKにたずねた。「いったい、どうしようっていうんだ?」
「そうなんですが、いったい私のことや訴訟のことをどこからお聞きになったんです?」と、Kはきいた。
「ああ、そのことですか」と、弁護士は微笑しながら言った。「わしは弁護士ですからね。裁判所の人たちと付合いもあるし、いろいろな訴訟、目だつ訴訟について話も出るわけだし、ことに友人の甥御さんのことともなれば、覚えてもいますよ。それに不思議はないわけです」
「いったいどうしようっていうんだ?」と、叔父はもう一度きいた。「お前はどうも落着きがないよ」
「あなたは裁判所の人たちと付き合っているんですね?」と、Kがきいた。
「そうですよ」と、弁護士が言った。
「お前は子供のようなことをきくね?」と、叔父は言った。
「自分の専門の人たちと付き合うんじゃなければ、いったい誰と付き合うんでしょう?」と、弁護士が言い足した。
 その言葉の響きは抗しがたいものがあったので、Kは全然返事をしなかった。
「でもあなたは大審院なんかの裁判で仕事をするんで、屋根裏なんかでするんじゃないでしょう」と、彼は言おうと思ったが、でも思いきってそれを実際言いだすことはできなかった。
「あなたもよくわかっていてもらいたいが」と、何かわかりきったことをついでにくどくど説明するような調子で、弁護士は言葉を続けた。「あなたもよくわかっていてもらいたいが、こういう付合いから弁護依頼人にとってのさまざまな大きな利益を引出せるんでね。しかもいろいろな点でだ。もっともそのことは伏せておいてくださらぬと困るがね。もちろんわしは今、病気のために少し思うようにゆかぬ点があるが、それでも裁判所のいい友達に見舞いに来てもらい、少しは耳に入れているんです。おそらく、ぴんぴんして一日じゅう裁判所で暮している多くの人たちよりもよけいに聞いていますよ。たとえばちょうど今もありがたい訪問客に来てもらっているんですよ」そうして暗い部屋の隅を指さした。
「いったいどこに?」と、驚いてしまったKは荒々しくきいた。彼はおろおろとあたりを見まわした。小さな蝋燭の光は向う側の壁まではとうてい届かなかった。ところがほんとうにその片隅に、何かが動きはじめた。そのとき叔父が高々と上げた蝋燭の光を浴びて、そこの小さな机のそばに一人の中年の紳士がすわっていた。その人物はきっと全然呼吸をしなかったので、そんなに長いあいだ気づかれなかったのだったろう。自分に注意が向けられたことに明らかに不満らしく、その人物は大仰に立ち上がった。短い翼のように両手を動かして、紹介や挨拶はいっさいお断わりと言おうとするかのようであり、どんなことがあっても自分が居合すことによって他人の邪魔をしたくはない、どうかまた暗がりに置いて自分がいることなど忘れてもらいたい、と願っているようであった。しかしこうなってはもうそんなわけにもゆかなかった。
「あなたには驚かされましたよ」と、弁護士は説明じみた調子で言い、同時にその紳士には促すようにこっちにいらっしゃいと合図をしたが、この人物はゆっくりと、ためらうようにあたりを見まわしながら、しかし一種の品位をもって近づいてきた。
「事務局長さん、――ああ、そうだ、ごめんください、ご紹介しませんでしたな、――こちらは友人のアルバート・K、こちらは甥御さんの業務主任ヨーゼフ・K、そしてこちらは事務局長さん。――で、事務局長さんはご親切にもおいでくださったのだ。こんなご訪問の価値というものは、ほんとうはただ、事務局長さんがどんなに仕事でお忙しいかという消息に通じているものだけがわかるんだよ。さて、それにもかかわらずこの方はおいでくださったので、もちろん、弱っているわしに許されるかぎり、いろいろお話ししていたんだ。訪問客があったらお断わりしろ、とレーニには命じてはなかったが、わしらだけで話そうという考えだったのだ。ところが君が扉を拳(こぶし)でたたいたわけだ、アルバート、そこで事務局長さんは椅子と机とを持って隅に引っこまれた。だがこうなると、できるだけ、つまりもしそうしようとする希望があるのなら、共通の用件について相談し合わなければならないし、うまく歩み寄りもできるということは、わかりきったことだ。――では事務局長さん」と、弁護士は頭をかしげ、卑屈な薄笑いを浮べて言い、ベッドの近くの安楽椅子を示した。
「残念ながらもうほんの少ししかお邪魔しておられません」と、事務局長は親しげに言い、ゆったりと安楽椅子にすわり、時計を見るのだった。「用事に追われていてね。だがいずれにせよ、私の友人のお友達とお知合いになる機会は取逃がしたくはありませんからね」
 彼は頭を軽く叔父のほうに曲げたが、叔父はこの新しい近づきに大いに満足しているように見えるものの、いつもの癖で敬意の心持を表現することができず、事務局長の言葉に対して、当惑したような、しかし大きな笑い声で調子を合わせるのだった。なんとも見苦しい光景だった! Kは落着いて皆を観察できた。誰も彼をかまう者はなかったからである。事務局長は、どうもこれは彼のならわしらしかったが、一度引っ張り出された以上、座談を進んで牛耳(ぎゅうじ)ったし、弁護士は弁護士で、初め身体が弱っていると言ったのはどうも新しい訪問客を追っ払うためのものだったらしく、手を耳にあてて注意深く聞いていた。叔父は蝋燭持ちの役を勤め、――彼は蝋燭のバランスを膝の上でとり、弁護士はときどき心配そうにそれをちらちら見るのだった――すぐに当惑の気持を忘れて、事務局長の話しぶりや、それに伴うしなやかな波を描くような手のこなしにすっかりよろこびきっていた。ベッドの柱によりかかっていたKは、事務局長によってどうも故意にまったく無視されてしまったらしく、ただ老紳士たちの聞き役にまわっていた。ところで、いったいなんの話なのか、ほとんどわからず、あるいは例の看護婦と彼女が叔父からこうむったひどい仕打ちとのことを考えたり、あるいは、この事務局長なる人物を一度見たことがなかったか、どうもあの最初の審理の集りのときじゃなかったかと考えたりしていた。あるいは見そこないかもしれないが、この事務局長はあの最前列の会衆、あのまばらな髯をした老人たちのあいだにりっぱに仲間入りしていたにちがいないと思われた。
 そのとき、陶器の割れるような騒音が控えの間から聞え、皆が聞き耳をたてた。
「どうしたのか、私が行ってみましょう」と、Kは言い、ほかの連中に自分を引止める機会を与えるかのように、ゆっくりと出ていった。控えの間にはいり、暗闇の中で見当をつけようとするかしないかのうちに、彼が扉にまだしっかと置いている手に、Kの手よりもずっと小さい手が置かれ、扉を静かにしめた。ここで待ちかまえていたのは、例の看護婦だった。
「なんでもなかったのよ」と、彼女はささやいた。「お皿を一枚、壁に投げただけなのよ、あなたをこっちに呼ぼうと思って」
 少しおどおどしながらKは言った。
「僕もあなただと思いましたよ」
「それじゃ、いっそういいわ」と、看護婦は言った。「こっちへいらっしゃい」
 二、三歩で曇りガラスの扉のところへ来たが、それを看護婦はKの前であけた。
「どうぞおはいりなさいな」と、女は言った。
 おそらく弁護士の仕事部屋であった。三つの大きな窓のそれぞれに面した床に小さな四角形を映してさしこんでいる月光を頼りにながめたかぎりでは、どっしりした古い家具類を並べた部屋だった。
「こっちよ」と、看護婦は言い、木彫りのもたれのついた、黒ずんだ長持を示した。腰をおろしながらKは部屋を見まわしたが、天井の高い大きな部屋で、貧民相手のこの弁護士の依頼人たちは、この部屋に入れられては面くらってしまうにちがいなかった。客が堂々たる机の前に進み出てゆく小刻みの歩みが、Kには眼に見えるような気がした。だがもうこんなことも忘れてしまい、ぴったりと彼に寄り添って彼をほとんど長持の横のもたれに押しつけている看護婦だけに、眼を奪われていた。
「あたしは思っていたのよ」と、女は言った。「あたしが呼ばなくたって、あなたのほうから自分で来るだろうって。でも変だったわ。部屋にはいるなりずっとあたしを見つめて、それからあたしを待たせたりなんかして。あたしのことレーニって呼んでね」と、早口でずばりと付け足したが、一瞬たりともこの会話をむなしくしてはならないとでもいうようだった。
「いいですよ」と、Kは言った。「だが、僕が変だったということだが、レーニ、それはたやすく説明のつくことですよ。第一には、お年寄りたちのおしゃべりを聞かねばならなかったんで、理由もなしに出てはこられなかったし、二番目には、僕は厚かましくはなく、むしろ臆病(おくびょう)なほうだし、君だって、レーニ、一思いにこっちのものになってくれそうにはほんとうに見えなかったからね」
「そうじゃないわ」と、レーニは言い、腕を長持のもたれにかけ、Kを見つめた。「あたしなんかあなたのお気に召さなかったんだし、今でもきっとお気に召してはいないのよ」
「お気に召すって、そりゃあたいしたことはないけれどね」と、Kは逃げを打ちながら言った。
「まあ!」と、女は微笑(ほほえ)みながら言い、Kの言葉とこの小さな叫び声とである種の優越をかちえたのだった。それゆえ、Kはしばらく黙っていた。部屋の暗さにもすでに慣れたので、調度のさまざまな細かい点も見分けがつくようになった。特に、扉の右側にかかっている一枚の大きな絵が彼の眼をひいたので、それをよく見るため、かがんだ。それは法服姿の一人の男を描いていた。丈(たけ)の高いいかめしい椅子にすわっているが、その椅子の金色が、いろいろな点でその絵から浮び上がっていた。変っているのは、この裁判官が落着きと威厳とをもってそこにすわっているのではなく、左腕をしっかと椅子の背と横のもたれとに押しつけ、右腕のほうはまったく自由にして、ただ手先で横のもたれを握っており、次の瞬間には、激しい、おそらくは憤りの身振りで飛び上がり、何か決定的なことを言うか、あるいは判決さえも下そうとしているかに見える、という点だった。被告はきっと階段の下のところにいるものと思われたが、階段のいちばん上の、黄色の絨毯(じゅうたん)を敷いた一段目までは絵の上に出ていた。
「きっとこれは僕の裁判官だね」と、Kは言い、指でその絵をさした。
「その人は知ってますわ」と、レーニは言い、やはり絵を見上げた。「しょっちゅう、ここへ来るのよ。この絵は若いときのだっていうんだけれど、あの人はこの絵に似ていたはずがないわ。だってあの人はほとんどちんちくりんなんですもの。それでも、ここのみんなと同じように、ひとりでいい気になって見栄坊(みえぼう)なもんですから、絵では寸法を引延ばして描(か)かせたのだわ。でもあたしも見栄坊だから、あなたのお気に召さないっていうんで、とても不満なのよ」
 女のこの言葉に返事をするかわり、Kはただレーニを抱き、ぐいと引寄せたが、女はじっと頭をKの肩にもたせかけていた。しかし、彼は付け加えて言った。
「どんな身分の人なの?」
「予審判事よ」と、女は言い、自分を抱いているKの手をつかみ、指をもてあそんだ。
「また予審判事なのか」と、Kは失望して言った。「身分の高い役人たちは隠れているんだ。でも、この人はいかめしい椅子にすわっているじゃないの」
「みんな作りごとよ」と、顔をKの手の上にかがめて、レーニは言った。
「ほんとうは、台所椅子の上に古い馬の鞍覆(くらおお)いをかけて、その上にすわっているのよ。でも、あなたはしょっちゅう訴訟のことばかり考えていなきゃならないの?」と、女はゆっくり言い足した。
「ちがうよ、けっしてそんなことはないんだ」と、Kは言った。「どうもあんまり考えなさすぎるくらいなんだ」
「そのことがあなたのやってる誤りじゃないのよ」と、レーニは言った。「あなたはあんまり強情すぎるっていう話だけれど」
「誰が言ったの?」と、Kはきいたが、女の身体を胸に感じ、その豊かな、黒い、しっかと巻いた髪毛を見下ろしていた。
「それを言ったら、おしゃべりしすぎるわ」と、レーニは言った。「名前はきかないでちょうだい。でも、あなたの間違っていることは捨てて、もうあんまり強情にしないことよ。この裁判所には逆らうことはできなくて、結局白状しなければならないのよ。どうかこの次のときには白状してちょうだい。そうしたら初めて、逃げる見込みができるのよ、そうしてから後のことよ。けれどそれだって人の助けなしではできないけれど、この助力のことで心配しちゃだめ、あたしが自分でしてあげるわ」
「君はこの裁判所のことと、そこで必要な嘘(うそ)のこととを、よく知っているね」と、Kは言い、あまりに激しく迫ってくる女を膝の上に抱き上げた。
「これでいいわ」と、女は言い、スカートの皺(しわ)を伸ばし、ブラウスを取繕いながら、膝の上で居ずまいを直した。それから両手で彼の頸(くび)にぶら下がり、身体をのけぞらせて、長いあいだ彼を見つめた。
「で、もし僕が白状しなければ、君は僕を助けられないの?」と、Kはためすようにきいた。どうもおれには女の助力者が集まるな、と彼はほとんど不思議にさえ感じながら思った。まずビュルストナー嬢、次は廷丁の細君で、最後はこの小さな看護婦だが、この女はおれに得体の知れない欲望をいだいているようだ。おれの膝の上にのっているこの様子はどうだ、まるでここがこの女の唯一の所を得た場所とでもいうみたいだ!
「だめよ」と、レーニは答え、ゆっくりと頭を振った、「そしたらあたしはあなたを助けられないわ。でも、あなたはあたしの援助なんてほしくはないし、どうでもいいんでしょう、あなたは身勝手で、人の言うことなんか聞かないんだから」
「好きな人がいるのね?」と、しばらくして女が言った。
「とんでもないよ」と、Kは言った。
「おっしゃいよ」と、女が言った。
「そうだね、まあ」と、Kは言った。「いいかい、もう切れてしまったんだ。けれど写真まで肌身につけているってわけさ」
 女にせがまれてエルザの写真を見せると、女は膝の上で丸くなって、写真をしげしげと見た。それはスナップ写真で、エルザがいつも酒場でよく踊る円舞のあとで、彼女を撮(と)ったものだった。スカートはまだ旋回中の襞取(ひだと)りのままひろがっており、しまった腰に両手をあて、頸をぐっと起し、笑いながら横を向いていた。誰に笑いかけているのかは、この写真ではわからなかった。
「コルセットの紐(ひも)をきつく締めているのね」と、レーニは言い、彼女の考えによるとそう見える個所を示した。
「こんな女、きらいだわ。不器用で荒っぽいわ。でも、あなたには優しくて親切でしょう、それは写真で見てわかるわ。こんなに大柄でがっしりした女って、優しくて親切な以外に取柄のないものよ。でも、あなたのために身を投げ出すことできるかしら?」
「できないね」と、Kは言った。「優しくて親切でもないし、僕のために身を投げ出すこともできないだろう。僕もまたこれまで、そのどっちだって求めたことはなかったさ。だが、僕は君ほどこの写真をよく見たことはなかったよ」
「じゃ、この人のことたいして問題にしてはいないのね」と、レーニは言った。「じゃ、あなたの恋人じゃないわけだわ」
「でも」と、Kは言った。「僕の言ったことを撤回はしないね」
「それじゃ、あなたの恋人でもいいわ。でも、この人を失ったり、誰かほかの人、たとえばあたしと取替えても、たいして恋しがりはしないわけね」
「確かに」と、Kは微笑しながら言った。「そういうことも考えられるが、この人は君に比べて大きな長所があるんだ。僕の訴訟のことを何も知らないってことさ。そして、たとい知っていても、そんなことを考えはしないだろうね。僕に折れて出るようになんてすすめはしないだろうよ」
「そんなこと長所じゃないわよ」と、レーニは言った。「ほかの長所がないんなら、あたしは勇気をなくさないわよ。何か身体に片輪のところあるの?」
「片輪のところ?」と、Kはきいた。
「そうよ」と、レーニは言った。「あたしにはこんなちょっとした片輪のところがあるのよ、見てごらんなさい」
 女は右手の中指と薬指とをひろげると、そのあいだには皮膜が、短い指のほとんど一番上の関節にまで達していた。Kは暗がりの中で、女の見せようとするものがすぐにはわからなかったが、そのため女は、Kがさわるように、彼の手を持っていった。
「なんという自然の戯れだ」と、Kは言い、手全体をすっかり見てしまってから、言葉を足した。「なんというかわいらしい距(けづめ)だ!」
 レーニは一種の誇らしさをもって、Kが讃嘆(さんたん)しながら自分の二本の指を何度も何度もあけたりすぼめたりする様子をながめていたが、最後にKはその指にさっと接吻(せっぷん)して、放した。
「まあ!」と、女はすぐに叫んだ。「あなたはあたしに接吻したのね!」
 口をあいたまま、素早く、女は膝頭(ひざがしら)で彼の膝の上ににじり登った。Kはほとんど呆然(ぼうぜん)として女の顔を見上げていたが、女がこうまで身近に来ると、胡椒(こしょう)のような、苦い、刺激的な香(かお)りが女から発散するのだった。女は彼の頭をかかえ頭越しに身をかがめて、彼の頸を噛(か)み、接吻し、髪毛(かみのけ)の中まで噛んだ。
「あんたはあたしに取替えたんだわ!」と、女はときどき叫んだ。「ごらんなさい、もうあたしに取替えたんだわ!」
 そのとき女の膝がすべり、短い叫び声をあげてほとんど絨毯の上に倒れかかった。Kは女をささえようとして抱いたが、女に引下ろされた。
「もうあんたはあたしのものよ」と、女が言った。

「これ家の鍵(かぎ)よ、いつでも好きなときに来てちょうだい」というのが、女の最後の言葉だった。そして、帰りかけている彼の背中に、なんとはなしの接吻がされた。玄関から出ると、雨がぱらぱら落ちてきた。たぶんレーニをまだ窓ぎわに見ることができようと、街路の真ん中へ行こうとしたとき、Kはぼんやりして全然気がつかなかったが、家の前に止っていた一台の自動車から、叔父が飛び出し、彼の腕をつかんで、玄関の扉へ彼を押しつけ、まるでそこへ釘(くぎ)づけにしようとでもいうかのような剣幕だった。
「こら」と、彼は叫んだ。「なんだってあんなことをやるんだ! せっかくうまくゆきそうだったお前の用件をめちゃめちゃにしちゃったじゃないか。ちっぽけなきたならしい女と、どろんをきめこんだりなんかして。そのうえ、あいつは明らかに弁護士の情婦じゃないか。そして一時間ぐらいも帰ってこないとは。言い訳をするでもなし、隠そうとするでもなし、公然と女のところへ走り、女にくっついているんだ。そうやっているあいだ、お前のために骨折っているこの叔父、お前のために味方にしておかねばならない弁護士、それにまず、今のところならお前の事件をまったく牛耳れるあのりっぱな事務局長、こうしてわしらは集まったんだ。どうやったらお前を助けられるか相談しようとし、わしは弁護士を慎重に扱わなければならん、弁護士は弁護士で事務局長をというわけだ。そこでお前には、少なくともわしを応援してくれる十分な理由があったんだぞ。ところがそうもしないで、お前は消えていなくなっているという始末だ。とうとう隠しきれなかったが、あの人たちは慇懃(いんぎん)な世なれた人たちだもんだから、そのことはしゃべらず、わしをかばってくれた。ところがとうとうあの人たちももう我慢ができなくなり、事件のことが話せないもんだから、黙りこくってしまった。わしらは何分か黙ってすわって、お前がもう帰ってこないかと、聞き耳をたてていたんだ。万事むだだった。とうとう初めの予定よりもずっと長く居残っていた事務局長が立ち上がり、別れの挨拶をし、わしを助けることができないで残念だ、とはっきり言われ、なんとも言えないご親切さでなおしばらく扉のところで待たれたうえ、帰ってゆかれた。あの人が帰っていったんで、わしはもちろんほっとした。わしはもう息がつまりそうだったからな。病人の弁護士には万事がもっとひどくこたえた。わしが別れを告げたときは、あのいいやつはもう全然口がきけなくなっていた。お前は確かにあの男の完全な破滅に手を貸し、お前が頼るよりほかない人間の死期を早めたんだぞ。そして、叔父のこのわしをこうやって雨の中に――さわってごらん、ずぶぬれだ――何時間も待たせておき、心配で苦しみ抜かせているんだ」





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