フランツ・カフカ Franz Kafka 原田義人訳 審判 DER PROZESS


第七章 弁護士・工場主・画家


 冬のある午前のこと――戸外では陰鬱(いんうつ)な光の中に雪が落ちていた――まだ時間も早いのだがすでに疲れきってしまったKは、事務室にすわっていた。少なくとも下役の連中を寄せつけないように、大事な仕事をやっているのだから誰も入れてはならない、と小使に命じた。だが、仕事をするかわりに、椅子にすわったままぐるりと向きを変え、ゆっくりと机の上の二、三の物をどかしてしまうと、思わず知らず腕を伸ばして机の上に置き、頭を垂れてじっとすわり続けていた。
 訴訟のことが彼の頭を離れなかった。弁護文書を作成して裁判所に提出することがよくはないかと、すでに何度となく考えたのだった。その中で短い経歴を書き、比較的重要な事件のひとつひとつについて、どういう理由で自分はそういう行動をとったのか、そのような行動のしかたは現在判断してみるのに非難すべきか、是認すべきか、そして正しくなかった、あるいは正しかったとしてどんな理由をあげることができるのか、説明しようとした。どうも文句がないわけではないあの弁護士なんかの単なる弁護に比べて、このような弁護文書の利点は疑いもなかった。Kはまったくのところ、あの弁護士が何を企てているのか、全然知らなかった。いずれにせよたいしたことではなさそうだった。もう一カ月も自分を呼んでくれたことはないし、それより前に話したときにも、この男は自分のために多くのことをやってくれる能力があるのだ、という印象を受けたことは一度もなかった。何よりもまず、ほとんどまったくKに問い合せをしたことがなかった。ところが今の場合には質問すべきことがたくさんあったのだ。質問こそおもな事柄であるはずだった。自分自身で今の場合に必要な質問を並べたてることができる、という感じをKは持ったくらいだった。ところが弁護士は、質問するかわりに、自分のほうでおしゃべりをするか、黙って彼に向い合ってすわるかして、きっと耳が遠いからだろうが、少し机の上に前かがみになり、髯(ひげ)の中の一握りの束をしごき、絨毯(じゅうたん)の上に眼差(まなざし)を投げていたが、どうもちょうどKがレーニといっしょにころがった場所らしかった。ときどきKに、子供に与えるような二、三の訓戒を与えるのだった。役にもたたねば退屈でもあるおしゃべりで、Kは決着のついたときの謝礼では一文も払おうと思わなかったようなものだった。弁護士は彼を十分へこたれさせたと思うと、今度はきまって少し彼を元気づけようとしはじめた。自分はこれと似た多くの訴訟に、全面的にかあるいは部分的にでも勝ってきた、と言うのだった。それらの訴訟は、ほんとうはきっとこの訴訟ほどむずかしくはなかったのだろうが、外見上ではもっと絶望的なものだった。これらの訴訟の記録はこの引出しのなかにしまってある、――こう言いながら机の引出しのどれかをたたいてみせた――残念ながら、これらの文書は職業上の秘密に関することなので、お見せできない。しかしながら、今はもちろん、これらのすべての訴訟によって自分の獲得した豊富な経験はあなたのために役だつのだ。自分はもちろんすぐに仕事を始めたし、最初の願書はすでにほとんどできあがっている。弁護側の与える第一印象はしばしば訴訟手続きの方向をすべて決定してしまうものであるから、この書類はきわめて重要なものだ。遺憾ながら、もちろんあなたは、最初の願書類が裁判所に全然読んでもらえないこともしばしばあるのだ、ということに注意してほしい。役所はそれらを単に書類のうちに加えるだけであって、まず被告を尋問し観察することのほうがあらゆる書いたものよりも重要だ、ということを教えてくれる。そして、申請人がしつっこく願うと、役所は、あらゆる資料が蒐集(しゅうしゅう)されるやいなや、決定の前に、もちろん全体との連関において、すべての書類、したがってこの最初の願書も仔細(しさい)に検討されるのだと付け加える。しかし遺憾ながら、これもたいていはほんとうでなく、最初の願書は普通は置き忘れられるか、あるいはほとんど失われてしまうかして、たとい最後まで保存されたにしても、これは弁護士がもちろんただ噂(うわさ)に聞いたことではあるが、読んではもらえない。こういうことはすべて悲しむべきことではあるが、まったく正当な理由がないわけではない。あなたはどうか、手続きは公開さるべきものではなく、裁判所が必要と考えたときにだけ公開されうるのであるが、法律は別に公開すべきことを命じているわけではない、ということを忘れないでほしい。それゆえ、裁判所側の文書、ことに起訴状は被告および弁護人にはうかがいえないものであり、したがって一般には、何をねらって最初の願書を書くべきかということは全然わからないか、あるいは少なくともはっきりとはわからないし、そのため、事件に対して重要性のあることを何か含めるということは、本来ただまぐれあたりにしかできないことだ。真に有効で論証力に富む願書というのは、後に被告の尋問をやっているうち個々の公訴事実とその理由とがはっきりと浮び上がるか、あるいは推測できるようになったときに初めて、作成できる。こういう事情の下にあって、もちろん弁護人はきわめて不利で困難な立場にある。しかし、このこともあらかじめ定められている仕組みなのだ。すなわち、弁護人は本来法律では認められておらず、ただ黙認の形なのであって、当該の法律条文から少なくとも黙認ということが解釈できるかどうか、という点に関してさえ、論争されているくらいだ。したがって、厳密に言うと、裁判所によって公認された弁護士というものはいないのであり、この法廷の前に弁護士として現われるのは、すべて実は三百代言にすぎない。このことはもちろん、全然弁護士に対してきわめて不名誉な影響を与えているのであり、あなたがこのつぎ裁判所事務局に行ったときには、一度このことを見ておくために、弁護士控室をごらんになるとよろしい。そこにとぐろを巻いている連中に、あなたはおそらく一驚されるだろう。彼らにあてがわれた狭い、天井の低い部屋からして、裁判所がこれらの人々に対していだいている軽蔑(けいべつ)の念を示している。部屋はただ小さな天窓からだけ光を入れているが、この窓たるや非常に高いところにあるので、もし外を見ようと思うと背中に乗せてくれる仲間をまず捜さなくてはならず、おまけにそこではすぐ眼の前にある煙突の煙が鼻にはいってきて、顔を真っ黒にしてしまう始末だ。この部屋の床には――もうひとつだけこういう状態の実例をあげるが――一年以上も前から穴がひとつあって、人間が落ちこむほど大きくはないが、片足をすっぽり入れてしまうには十分なほどの大きさがある。弁護士控室は屋根裏の二階にある。そこで誰かがはまりこむと、脚は屋根裏一階にぶら下がり、しかも訴訟当事者たちが待っている廊下へちょうど垂れることになる。弁護士連がこういう状態を不名誉きわまることだと言っても、言いすぎではないのだ。当局へ苦情を持ち出しても少しも効果はないし、部屋の中の何かを自費で変えることは、弁護士にはまったく厳重に禁じられている。しかし、このような弁護士に対する待遇にも理由があるのだ。弁護人をできるだけ排除しようとしているのであり、すべてが被告自身の手でやられなくてはならないのだ。根本においてはわるい考えかたではないのだけれども、このことから、この裁判所においては弁護士は被告にとって不必要だ、ということを結論することよりも間違ったことはないだろう。反対に、この裁判所におけるほどに弁護士を必要とするところはほかにはないのだ。すなわち、手続きは一般に、ただ公衆に対して秘密にされているばかりではなく、被告に対しても秘密にされている。もちろん、秘密にすることができるかぎりのことでしかないが、しかしきわめて広い範囲にわたって秘密にすることはできるのだ。すなわち、被告も裁判所の文書にはさっぱり通じておらず、尋問からそれの根拠となっている文書のことを結論的に推察することはきわめてむずかしいし、ことに、当惑しきってもいれば、気を散らされるありとあらゆる心配も持っている被告にとっては、とりわけむずかしい。そこでここに弁護のはいりこむ余地があるわけだ。普通は尋問には弁護人は立ち会えないのだから、尋問のすんだ後(あと)で、しかもできたらまだ予審室の扉のところで待ち受け、被告から尋問のことを聞き取り、しばしばすでにきわめてぼやけているこうした報告から弁護に役だつことを取出さなくてはならない。しかし、これがいちばん大切なことなのではない。なぜなら、もちろんこういうやりかたでも有能な人間はほかの人たちよりは多くのものを聞きつけはするが、普通の場合、たいして物にすることができないからである。それでも、最も大切なものは弁護士の個人的なつながりであり、この点に弁護のおもな値打ちというものがあるのだ。ところできっとあなたは自分の経験からわかったことだろうが、裁判所の最下層の組織は完璧(かんぺき)とはゆかず、義務を忘れ買収されやすい役人を生んでいるので、そのため裁判所の厳重な箝口令(かんこうれい)にも穴があくのだ。そこでこの点に大多数の弁護士がつけこみ、買収をやったり、聞き込みをやったり、また少なくとも以前には、書類を盗み出す場合さえも起った。このようにして暫時のところは被告にとって驚くほど有利な結果が獲られるということは否定できないし、これらの小弁護士たちはそれを得意になって触れまわり、新しい顧客を誘うのだが、訴訟の先々の経過には全然役にたたないか、あるいはよい結果とはならない。ところでほんとうの値打ちがあるのは、正々堂々とした個人的なつながり、しかも高位の役人たちとのつながりだけである。もちろんこれは、高位の役人の中でも比較的低い地位の人たちのことを言っているのだ。ただこのようなつながりによってのみ、訴訟の進みに、初めはただ目だたぬくらいだが、後には次第にはっきりと、影響を及ぼすことができる。もちろん、そういうことができるのはほんの少数の弁護士に限られており、この点であなたの選択はきわめて有利だったのだ。このわし、フルト博士のようなつながりを持っているのは、おそらくただ一人か二人の弁護士だけだろう。こういう弁護士になると、もちろん弁護士控室の仲間などは問題とせず、またなんらの関係もない。しかし、それだけに裁判所の役人との結びつきは固いわけだ。このわし、フルト博士は、裁判所へ行き、予審判事控室で判事が偶然現われるのを待ち、彼らの機嫌(きげん)次第でたいていはただ見せかけだけの成果をあげたり、あるいはそれすら手に入れられない、などという目にあう必要はない。そんな必要は全然ないのであって、あなた自身も見たように、役人たち、その中にはほんとうに高位にある人々もいるが、こうした役人のほうが自分でやってき、はっきりとした、あるいは少なくとも容易に真相が解けるような情報を進んで与えてくれ、訴訟の今後の運びについても話し合い、そのうえ、個々の場合について人の言うことを納得し、よろこんでこちらの意見も受入れてくれるのだ。もちろん、この後(あと)の点ではあまり信用しすぎてはならないのであって、きわめて断固として彼らの新しい、弁護にとって有利な意見を発言してはくれても、おそらくまっすぐ事務局に帰って、次の日には、まさしく昨日とは反対のことを含み、彼らがもうすっかり脱却したと主張した最初の見解よりは被告にとっておそらくずっときびしいような裁判上の決定を、発表することがある。もちろんこういうことは防ぐことはできない。なぜなら、二人だけのあいだで言ったことは結局ただ二人だけのあいだで言われたことにすぎず、弁護側がほかに努力のしかたがない場合であっても、裁判所の人々の恩恵にあずかるということは、公の結論を下す場合に許されないことである。他面また、裁判所の人々が何かただ人間愛とか友情の気持とかいったものから弁護側、もちろん事情に通暁した弁護側、と結びついているのではない、ということも真実であって、彼らはむしろある点では弁護側を頼りにしているのである。この点にまさしく、当初からすでに秘密裁判所を規定している裁判組織の欠陥が現われているのだ。役人たちには民衆とのつながりが欠けており、普通の中くらいの訴訟に対しては十分構えができていて、こういう訴訟はおのずから軌道の上をころんでゆくし、ただときおり衝撃を与えるだけでよいのであるが、まったく単純な事件に対しては、特にむずかしい事件に対するのと同様、しばしば途方にくれてしまうのであって、昼も夜も絶えず法律に拘束されきっているため、人間的なつながりというものに対する正しい感覚を持たず、こういう場合にはそのことに大いに不自由を感ずるのだ。そこで彼らは助言を求めて弁護士を訪れ、その後からは小使が一人、たいていは非常に秘密にされている書類を持ってついてくるというわけだ。そこでこの窓ぎわには、まったく思いがけなかったような多くの人々が現われたというわけで、彼らはまったく茫然(ぼうぜん)として街路を見ており、一方弁護士のほうは、それに適切な助言を与えるため、机にすがって書類を研究したのだ。そのうえ、まさにこういう機会にこそ、裁判所の人々が彼らの職務をどんなに真剣に考えているか、彼らの性格上どうしても克服できない障害についてどんなに大きな絶望に陥っているか、ということを見ることができるのだ。役人の立場もけっして楽なものではなく、彼らを不当に評価して、彼らの立場が楽なものだなどと考えてはならないのだ。裁判所の身分の順序とか昇進とかいうものは無限であって、事情に明るい者にすらすっかり見通すことはできない。ところが法廷の手続きは一般には下層の役人にとっても秘密であり、そのため自分たちの関係している事件の先々の成行きについて完全に追求することは、ほとんどいつもできないし、したがって裁判事件というものは、どこからやってくるのかわからぬうちに彼らの視野に現われ、しばしばどこへ行くのかを知らぬままで進んでゆくのだ。それゆえ、個々の訴訟の段階、最後の決定、その理由などを研究して汲(く)み取りうる教訓というものは、これらの役人の手にははいることがない。彼らはただ法律によって彼らに規定されている訴訟の各部分にだけ携わるのであり、それ以上のこと、したがって彼らの仕事の成果については、概してほとんど訴訟の最後まで被告との結びつきを持っている弁護側ほどには知っていないのが通常の例である。それゆえ、この点においても、彼らは弁護側から多くの価値あることを聞くことができるのだ。こういうことをすべて念頭に置いたうえで、しばしば訴訟当事者たちに対して――誰でもこういう経験をするものだが――侮蔑(ぶべつ)的なやりかたで示される役人たちの怒りっぽさというものを、あなたは不思議と思わなければならない。あらゆる役人は、平静らしく見えるときでさえもいらいらしているのだ。もちろん、小弁護士たちは特に、こうした怒りっぽさに大いに悩まされなければならない。たとえば次のような話があるが、大いにありうるように思われることだ。ある老役人が、善良で物静かな人物だったが、特に弁護士の願書でこんがらかった裁判事件をまる一日一晩休みもなしに研究したのだった、――こんな役人たちは実際、よそでは見られぬくらい勤勉なのだ。――さて朝になり、二十四時間の、おそらくはたいして収穫もあがらなかった仕事の後、入口の扉のところへ行って、そこに隠れ、はいろうとする弁護士たちを階段へ突き落したのだった。弁護士たちは下の踊り場に集まり、どうしたらよいか相談した。一面から言うと、入れてもらうことを要求する権利がないのだから、その役人に対して合法的に何かを企てることはほとんどできないし、すでに言ったように、役人連を敵にまわすことは気をつけなければならない。しかし他の一面、裁判所で過すのでなければその日はむだになってしまうので、そこへはいりこむことが肝心でもあった。とうとう、この老人を疲れさせてやろう、ということに話がきまった。後(あと)から後から弁護士を繰出し、階段を登ってゆき、できるだけの、もちろん消極的抵抗をやって投げ落されると、そこで仲間に受止めてもらった。これがおよそ一時間ばかり続き、まったくのところ徹夜仕事ですでに弱っていたその老人は、すっかり疲れきって、事務局へ引下がってしまった。下の連中は初めはほんとうに引下がったものとは全然信じないで、まず一人をやってみて、ほんとうに人がいないかどうかを扉の陰で偵察させた。それからやっと皆が繰りこんだが、おそらくは誰一人ぶつぶつ言おうとする者もいなかった。というのは、弁護士にとっては、――最も微々たる者でもこういう事情は少なくとも一部分はわかっているのだが――裁判所に何か改善を持ちこむなり、それをやってみようとすることなどはまったく話の外のことだからである。ところが――これはきわめて特徴のあることだが――被告は誰でも、まったく単純な連中さえ、訴訟に足を突っこむなりすぐに改善の提案などを考えはじめ、それでしばしば、ほかのことをやればもっとずっとよく使えるものを、時間と労力とを空費するのだ。唯一の正しい道は、現状に満足するということだ。個々の細かな点は改善することができる場合でも、――だがこれがばかげた迷信なのだ――せいぜい未来のために少しは役だたせることはできようが、そのためしょっちゅう復讐(ふくしゅう)を求めている役人連の特別な注意をひいてしまうことになって、測り知れぬくらい損害をこうむってしまうのだ。ただ注意をひかぬようにすることだ! いくら意にそむくようになっても、落着いた態度でいることだ。この巨大な裁判組織はいわば永遠に浮動し続けるのであり、そのうえで独自な立場で何かを変革しても、足下の地面を踏みはずして自分が墜落するだけのことであり、その大きな有機体のほうはちょっとした妨害に対しては容易にほかの場所で――いっさいが結びついているからだが――補いをつけ、たといそれが、これが実はありそうなことでさえあるのだが、いっそう固く結合し、いっそう注意深く、いっそうきびしく、いっそう悪意を持つようにならないとしても、少なくとも不変の状態を続けるのだ、ということをよく見抜こうと努めることだ。とにかく仕事は、それをかき乱したりせずに、弁護士にまかせることだ。いくらとがめだてをしたところでたいして役にたつものではなく、ことにその理由をすっかり理解することができないでいるときにはそうなのだが、それでも、あなたが事務局長に対する態度で自分の事件についてどんなに損をしているか、ということは言っておかなければならない。この有力な人物はもう、あなたのために何かやってもらおうとする人たちのリストからはほとんど抹殺(まっさつ)されなくてはならなくなってしまったのだ。この訴訟についてのほんのちょっとした話でも、彼はわざとそれを聞き逃すようにすることだろう。まったく役人というのは、多くの点でまるで子供みたいなものだ。彼らはどんな他愛(たわい)もないこと、といってもちろんKの態度は残念ながらその部類にははいらないものだったが、そういうものによってもひどく傷つけられ、親友とも話さなくなり、出会ってもそっぽを向き、ありとあらゆることにおいて邪魔をするようになるものだ。ところがやがて、格別の理由もなく不意に、万事がどうも見込み薄に思われるというだけの理由でやけっぱちでこちらが試みるちょっとした冗談で、笑いだし、すっかり機嫌(きげん)を直してしまうことがある。彼らと付き合うのは、むずかしくもあればやさしくもあり、それに対する根本方針などというのはどだいないのだ。こういう世界で相当の成功を収めながら仕事をやってゆくことを心得るぐらいのことには、何もこみいったことは要(い)らないのであって、ほんの平凡な生活で十分なのだ、ということにはしばしば驚かされるほどである。もちろん、誰にでもあるように、気のふさぐときもやってはくる。そうなると、ほんの少しでもうまくいったことはないように思いこむし、初めからよい結果を生むときまっていた訴訟がうまくいったにすぎないし、別に手をかさなくてもそうなっただろう、と思われるのだ。ところが一方ほかの訴訟はすべて、いろいろ奔走し骨を折ったにもかかわらず、そしてちょっとした見かけの成功に大よろこびしたにもかかわらず、ことごとく失敗しているという目に会ってしまう。こうなるともちろん、もう確信が持てず、その本質から言ってうまく運んでいる訴訟をまさによけいな手出しをすることで横道にそらしてしまった、ときめつけられても、少しも否定する気持にはなれないだろう。これもまったく一種の自信ではあろうが、こうなったときわずかに残された唯一の気の持ちかたというにすぎない。こういう発作は――これはもちろんただの発作にすぎないものであって、それ以上ではないのだ――特に、十分に事を進めて満足のゆくようにやってきた訴訟が突然自分の手から奪われてしまうときに、弁護士に起るものだ。これがきっと、弁護士たる者に起りうるいちばん不快な事柄だろう。およそ被告によって弁護士から訴訟が奪われるというようなことはなく、そういうことはけっして起るものではないのであって、一度一定の弁護士を選んだ被告は、何事が起ろうとその弁護士を離れてはいけない。一度助けを求めた以上、およそひとりでやってゆくことなどどうしてできるものだろうか? それゆえ、そういうことは起らないのだが、確かにときどき、訴訟がどうもまずい方向をとり、弁護士がそれについてゆけないということは起る。訴訟も被告もいっさいが、弁護士から簡単に奪われてしまう。そうなると、役人との最もいいつながりももう役にはたちえない。役人たち自身が何も知らないからなのだ。こうなると訴訟はまさしくひとつの段階にはいったのであり、そこではもういかなる助力もやれるものではなく、訴訟をやっているのは余人の近づきえない法廷であり、被告も弁護士の手には届かなくなってしまうのだ。そして、ある日、家に帰ってみると、机の上には、あらゆる努力とこの事件に対するきわめて明るい希望とをもってつくった多くの願書がすっかりのっている。それらは、訴訟の新段階には持ちこむことが許されぬという理由で、差戻されたのであり、値打ちのない反古(ほご)なのだ。それでも訴訟はまだ敗(ま)けときまったわけではない。けっしてそんなことはなく、少なくとも訴訟が敗けたと認める決定的な理由はないのであって、ただ、もう訴訟のことは全然わからないし、これからももうそれについて何もわかることはなかろう、というだけのことなのだ。ところでこういうような場合というのは幸いに例外的なことであって、たといあなたの訴訟がこういう場合のひとつであっても、今のところはこういう段階からはまだはるかに遠い。ここではまだ弁護士が腕を振うに十分な機会があるし、こちらも存分にそういう機会を利用するつもりだということは、あなたも安心してよろしい。すでに言ったように、願書はまだ提出してないが、それは急いではいけないのであって、有力な役人たちと折衝を始めることのほうがずっと重要であり、そのことはすでにすませたのだ。はっきり申上げておかねばならないが、さまざまな成果があがっている。あらかじめ逐一打明けておかぬほうがよろしかろう。それによってあなたはただよからぬ影響を受けるだろうし、あまり有頂天にされるか、あまりに不安にされるかするだろうからだ。ただ、ある人々は非常に有利だと言ってくれたし、また援助してくれる意志が大いにある旨を言ってくれたが、一方、他の人々はそれほど有利だとは言わなかったが、けっして援助は拒みはしなかった、ということだけは申上げておく。したがって、成果は全体としてはきわめて上首尾ではあるが、予備折衝というのはすべてこういうようにして始まり、後日の発展を待って初めてこの予備折衝の値打ちというものがわかるのであるから、今上首尾だということから特別の結論を引出してはいけない。ともあれ、まだけっして失敗したわけではなく、いろいろのことがあったにせよ、例の事務局長を味方に引入れることに成功するならば、――このためにすでにいろいろなことを始めているが――全体はいわゆる――外科医が言うところの――きれいな傷というやつであって、安心して来(きた)るべきものを期待できるというものである。
 こんなような話で、弁護士は尽きるところを知らなかった。訪(たず)ねると、いつでもこういう話が繰返された。いつでも進展していると言うのだが、この進展というのがどういう種類のものか教えられることはなかった。いつでも最初の願書の仕事をやっているのだが、それはできあがってはおらず、たいてい、この次いらっしゃるときにはそれは大きな利点を明らかにしていることだろう、なにぶんにもこの前のときには、どうも見通しがつかなかったのだけれども、提出するのにはなはだ都合がわるかったもので、などということであった。こういう話にすっかり疲れきってしまったKは、しばしば、いろいろ事情がむずかしいとはしても、事の運びがあまりにゆっくりしすぎている、と言うのだったが、けっしてゆっくりしているわけではない、もっとももしあなたが時機を失せず弁護士に依頼していたら、すでにずっと事は運んでいたろうが、という返事だった。ところが遺憾なことにあなたはそれを怠ったのであり、こういう怠慢はさらにさまざまな不利をもたらすだろう、それは単に時間的な不利益ばかりではない、というのである。
 こうした訪問をありがたいことに中断してくれる唯一のものは、レーニであった。彼女はいつも心得ていてくれて、Kがいるとき弁護士に茶を運んでくるのだった。そうするとKの背後に立ち、弁護士が一種のがっつきかたで茶碗(ちゃわん)に深くかがみこみ、茶を注(つ)ぎ、飲むのをながめていると見せかけて、そっと手をKに握らせた。完全な沈黙が支配していた。弁護士は飲んでいた。Kはレーニの手を握り、レーニはしばしば、Kの髪毛(かみのけ)をやさしくなでるようなことをやってのけた。
「お前まだいたのかい?」と、茶をすませると、弁護士はきいた。
「茶道具を下げようと思ったのですの」と、レーニは言い、最後にKの手をもう一度握ると、弁護士のほうは口をぬぐって、元気を新たにしてKに説教しはじめるのだった。
 弁護士が手に入れようとしているのは、慰めだったのか、絶望だったのか? Kにはそれがわからなかったが、自分の弁護がどうもあまり結構な人間の手中にあるのでないということは確かだ、と思った。弁護士ができるだけ自分を前面に立てようとしていること、彼の言い草だとKの訴訟は大きなものだということだが、こんな大きな訴訟をやったことはこれまでに一度もないということ、それは歴然としたことだったけれども、Kは、弁護士の言うことはみなほんとうだろう、と考えた。ただ、彼が絶えず揚言する役人たちに対する個人的関係というのは、いつまでもうさんくさかった。いったいそういう連中がもっぱらKの利益のために利用し尽されるはずがあろうか? ただ身分の低い役人たちのことであって、したがって訴訟のある転回がおそらく昇進に重要な意味を持っているようなきわめて従属的な地位にある役人たちなのだ、ということを弁護士はけっして言い忘れはしなかった。おそらく彼らは弁護士を利用して、こういう、被告にとってはもちろん不利にきまっている転回をねらっているのではなかろうか? おそらく彼らはこういうことをどの訴訟ででもやるのではないのであって、確かに、そうしたことはありそうもないことだ。弁護士の名声を傷つけないようにしておくことが役人たちにとっても大いに大切であるため、訴訟の進行中に弁護士の仕事のために利益を譲歩するような訴訟の場合だって確かにあるのだ。だが、ほんとうにそういう事情だとすれば、どういうふうにして彼らはKの訴訟、弁護士も言明したようにきわめてむずかしく、したがって重要な訴訟であり、始まるとすぐ裁判所に大きな注意をひいたこの訴訟に、関与するつもりだろうか? 彼らがやろうとすることは、たいして疑問の余地がありえなかった。その徴候は実に、訴訟がすでに幾月も続いているのに最初の願書がまだ受理されていない点や、弁護士の申立てによると万事がやっと始まったばかりの状態にあるという点に、すでに認められるのだった。これはもちろん、被告を眠らせて無援の状態にしておき、次に突然決定を被告に突きつけるか、あるいは少なくとも被告の不利に終った予審を上級官庁に送局するという知らせを突きつけるかするのに格好なことだった。
 Kが自分で乗り出すことが、絶対に必要だった。いっさいがそうしようというつもりもなく彼の頭のなかを過ぎてゆくこの冬の日の午後のような、ひどい疲れの状態の真(ま)っ只中(ただなか)で、こうした確信は避けられなかった。これまで訴訟に対していだいていた軽蔑(けいべつ)は、もう通用しなかった。もし自分だけがこの世にいるのであったら、訴訟などは苦もなく無視できたであろうに、と思われたが、そうなれば訴訟などはおよそ成立しなかったであろうということも、もちろん確かなことだった。だが今では、叔父が彼をすでに弁護士のところへ引っ張っていったので、身内のことを考えてやることも問題であった。彼の立場はもう訴訟の経過から完全に離れきってはおらず、彼自身軽率にも一種の説明のつかない満足をもって知人たちに訴訟のことを言ったし、他の人々は、どうしてかわからぬが、訴訟のことを聞き知っており、ビュルストナー嬢との関係も訴訟に対応して動揺しているように見えた。――要するに、彼はもはや訴訟を受入れるか拒むかという選択権を持たず、その真っ只中に立ち、身を防がねばならなかった。疲れれば、わるいにきまっていた。
 もちろん、さしあたってのところはあまりに心配しすぎる理由はなかった。銀行では比較的短時日に現在の高い地位に登り、すべての人に認められてこの地位を守ることもできたのだから、今はただ、こういうことを可能ならしめた能力を少し訴訟に利用すればよいのであって、うまくゆくことは疑いがなかった。何よりもまず、何か成功をなしとげるためには、自分に罪があるかもしれないという考えをすべて払いのける必要があった。罪などはないのだ。訴訟は大きな仕事以外のものではなく、そういうものを彼はしばしば銀行のためにやって利益をあげてきたのであるが、その内部にはきまってさまざまな危険がひそみ、まずそれを防がなければならないような仕事なのである。このためにはもちろん、何か罪があるなどという考えをもてあそんでいてはならず、自分の利益に関しての考えをできるだけしっかりと保持していなければならない。この見地からすると、弁護士をできるだけ早く、できれば今晩のうちに断わって、自分の弁護をやめてもらうことも、避けられないことだった。弁護士の話によるとそういうことは前代未聞(みもん)のことであり、おそらくは非常に侮辱的なことでもあろうが、訴訟における自分の骨折りが、どうも自分自身の弁護士に原因するらしい妨害に出会うということは、Kには我慢がならなかった。それで、弁護士を一度振切ってしまったら、願書をすぐ提出し、できれば毎日、裁判所がそれを考慮してくれるように催促せねばならないと思った。このためにはもちろん、Kがほかの被告のように廊下にすわり、帽子をベンチの下に突っこんでいるだけでは十分でなかった。K自身か女たちか、あるいは別な使いの者たちが毎日毎日役人をうるさく襲い、格子越しに廊下をながめてなどいないで自分たちの机にすわり、Kの願書を検討するようせきたてねばならなかった。こうした努力を捨ててはならないが、万事が組織化され監視されているにちがいないから、裁判所はきっと、自分の権利を守ることを心得ている被告にぶつかってくるにちがいなかった。
 だが、Kはこうしたことをすべてやりとげるだけの勇気はあったが、願書を書くことのむずかしさは圧倒的であった。前にも、つまり一週間ほども前には、こういう願書を自分でつくる必要に迫られた場合のことを、はじらいの感情をもって想像できるだけだったが、これがまたむずかしいものでもあるということは、全然考えてもみなかった。Kは思い出したが、ある午前のこと、ちょうど仕事で忙殺されていたとき、突然書類をみなわきへ押しのけて、用箋綴(ようせんつづ)りを取上げ、試みにあの願書まがいの書きかたをして、それをあの鈍重な弁護士に見せてでもやろうと思ったが、ちょうどこの瞬間に支店長室の扉があき、支店長代理が高笑いをしながらはいってきた。支店長代理はもちろん願書のことを知らぬのだから、それを笑ったのではなく、ちょうど今聞いたばかりの洒落(しゃれ)を笑ったのだったが、Kはそのとき非常に不快な思いをした。その洒落は、のみこむためには図解が必要だったので、支店長代理はKの机にすわりこみ、Kの手から取上げた鉛筆で、願書を書くことにきめていた用箋綴りの上にその絵を描きあげた。
 今日ではKはもう恥のことは忘れ、願書はどうしてもつくりあげてしまわねばならない、と思った。事務室ではそういう時間が見つからないとすれば、そしてそれはきわめてありそうなことであるが、そうなれば家で毎夜やらなければならない。夜でも十分でなければ、休暇をとらなければならない。ただ中途半端なところにとどまっていないことである。それは仕事でばかりでなく、いつでも、またどんな場合でもいちばんばかげたことだ。もとより願書というのはほとんど際限のない仕事であった。たいして心配性の人間ではなくとも、願書をいつか仕上げるというようなことはできない相談だ、というふうに思いこみやすかった。弁護士の書類完成を妨げているような怠慢とか術策とかのためではなく、現在の告訴状もそれの今後の増補もわからぬままに、きわめて細かな行動や出来事にいたるまで全生活を記憶に呼びもどし、書き表わし、あらゆる角度から検討しなければならなかったからである。そのうえ、こんな仕事はなんと憂鬱(ゆううつ)だったことだろう。それはおそらく、恩給をもらって退職した後(あと)で耄碌(もうろく)した精神を働かせ、長い毎日を暇つぶしする助けとしてやるのには格好の仕事だった。だが今は、Kは思考をすべて仕事に集中し、まだ昇進中で、すでに支店長代理にとって脅威となっており、一刻一刻がきわめてすみやかに流れてゆき、また短い夜を若い人間として享楽もしたいのに、この今こうした願書を書くことを始めなければならないのだ。彼の思いはまた嘆きに走るのだった。ほとんど無意識に、ただこうした思いを片づけるために、彼は控えの間に通じている電鈴のボタンに指でさわった。それを押しながら、時計を見上げた。十一時だった。二時間、長い、貴重な時を彼はむなしく費やし、もちろん、前よりもいっそう疲れていた。だが、値打ちのある決心をしたわけだから、時を失ったわけでもなかった。小使たちが、さまざまな郵便物のほかに二枚の名刺を持ってき、この方々はすでにかなり前からお待ちしています、と伝えてきた。それはまさしく銀行のきわめて大切な顧客で、ほんとうはどんなことがあっても待たせなどしてはならなかったのだった。なぜ彼らはこんなに都合のわるいときにやってきたのだろうか、またなぜ――客のほうもまた閉じた扉の向うでそうきいているように思われた――勤勉なKとしたことが、私用でいちばん大切な執務時間を空費したのだろうか? これまでのことに疲れ、また疲れきって来(きた)るべきものを期待しながら、第一の客を迎えるためKは立ち上がった。
 それは、小柄で元気のよい紳士で、Kがよく知っているある工場主だった。工場主は、Kの大切な仕事を邪魔したことをわび、Kのほうは、工場主をこんなに長く待たせたことをわびた。だが、このわびからして非常に機械的な調子、またはほとんど作りものの感じのする調子で言ったので、工場主がすっかり用件で夢中になっていなかったならば、それに気がついたにちがいなかった。男は気づきもしないで、急いで計算書や表をありとあらゆるポケットから引出すと、Kの前にひろげ、いろいろな項目を説明し、こうやって、ざっと見渡してさえ気がついたちょっとした計算の誤りを訂正し、一年ほども前にKと結んだ同じような仕事のことをKに思い出させ、ついでに、今度は別な銀行が莫大(ばくだい)な犠牲を払ってもこの仕事を申込んでいる、と言い、最後に黙って、Kの意見を聞こうとした。Kもまた事実、初めのうちは工場主の話をよくたどり、次に重要な仕事だという考えが彼の心をとらえもしたのだったが、ただ残念なことに長続きがせず、間もなく話に耳を傾けることから気がそれてしまい、それでもしばらくは工場主の騒々しい叫び声に頭でうなずいてみせていたが、とうとうそれもやめ、ただ、禿(は)げた、書類にかがみこんだ相手の頭をながめ、自分の話がすべて無益だと、いつ工場主が気づくだろうかと自問してみることだけにした。工場主が黙ってしまったときに、Kはまず、自分はお話を伺うことができないと白状する機会を与えてくれるために相手が黙ったのだ、とほんとうに思いこんだのだった。だが、明らかにあらゆる反対に身構えしている工場主の緊張した眼差(まなざし)を見て、用談を続けなければならないのだ、と気づいたときは、ただ残念に思われるだけだった。それで命令を受けるときのように頭を垂れ、鉛筆で書類の上をゆっくりとあちこちなでまわし、ときどき休んでは数字をじっと見つめた。工場主はKに異論があるのだと思い、おそらくは数字がまったくはっきりとはしていないためか、おそらくは決定的なものでないためか、いずれにせよ工場主は手で書類を覆(おお)い、Kにぴったり寄り添って、改めて仕事の一般的な説明を始めるのだった。
「むずかしいですね」と、Kは言い、口もとに皺(しわ)を寄せ、唯一のつかみどころである書類が覆われているので、ぐったりと椅子の肘掛(ひじかけ)に崩(くず)れかかった。すっかり元気がなくなりさえして眼を上げると、ちょうど支店長室の扉があいて、ガーゼの幕の後ろにでもいるようにぼんやりと支店長代理の姿が、そこに現われた。Kはそれ以上支店長代理が現われたことを考えてはいないで、彼が現われたために生じた、自分にとってきわめてよろこばしい直接の効果だけを追い求めるのだった。というのは、たちまち工場主は椅子からとび上がり、支店長代理のほうへ急ぎ足で飛んでいったからである。だがKは、支店長代理がまた消えてしまうのでないかと心配だったので、工場主を十倍も足早に歩かせてやりたいくらいだった。しかしそれは要(い)らぬ心配で、二人はぶつかり、互いに握手を交(か)わし、いっしょにKの机のところへやってきた。工場主は、業務主任にはどうも仕事に対する熱意が見られない、と苦情を言い、支店長代理の視線の下で改めて書類の上にかがみこんだKを、指さした。それから二人が机にもたれ、工場主は今度は支店長代理を自分の手中に収めようと懸命になると、Kには、恐ろしく大きいように思われるこの二人が頭の上で自分自身のことを相談しているような気がした。慎重に上眼をつかいながらゆっくりと、頭上で起っていることを見ようとし、書類の一枚を見もしないで机から取上げ、それを掌(てのひら)にのせて、自分自身も立ち上がりながら、その書類をそろそろと二人のほうに持ち上げた。こうしながら、格別どうしようということを考えたのではなく、自分からまったく面倒を除いてくれるあの大仕掛けな願書を仕上げたときには、きっとこういう態度をとるにちがいない、という気持で振舞っただけだった。すべての注意を注いで話に夢中だった支店長代理は、ただちらりと書類を見ると、そうやって差出されたものを全然読みもしなかった。業務主任に大切なものも、彼にはなんでもないものだったからである。そしてそれをKの手から取上げると、言った。
「ありがとう、もうみんな承知しています」
 そして、またそれを机にもどした。Kはむっとして彼を横から見つめた。だが支店長代理は全然気がつかないか、気がついたにしてもかえってそれに元気づけられるかして、しばしば高笑いし、一度ぬかりのない受けこたえで工場主を明らかに当惑させ、しかしすぐ自分自身の言ったことに異論をはさんでみせて相手を当惑から解きほぐしてやり、最後に彼の事務室に来るように誘い、そこでなら用件を終りまでやれるだろう、と言った。
「これはたいへんむずかしい用件です」と、工場主に言った。「それはすっかりわかっていますから。そして業務主任さんには」――こう言いながらもほんとうはただ工場主にだけ向って話しかけるのだった――「われわれだけで片づけるほうがお気に召すでしょう。この用件は冷静に考えることが必要ですからね。ところがこの方は今日はとても忙しいらしく、もう一時間以上も幾人かの人が控室で待っていますよ」
 Kはまだ、支店長代理から向き直り、愛想よさそうではあるがこわばった微笑を工場主に対してしてみせるだけの落着きを辛うじて持っていたが、そのほかのことには全然手を下すことができず、少し前かがみになって両手で机の上に身体をささえ、ちょうど机の後ろにいる売り子のような格好になり、二人が話を続けながら机から書類を取上げ、支店長室に消えてゆくのをながめていた。扉のところでなお工場主は振向き、これでお別れするのではなく、もちろん話の結果について業務主任さんにも報告するし、自分個人としてもまだほかにちょっとお話しすることがある、と言った。
 やっとKはひとりになった。誰か別な客を迎えようとは全然考えず、部屋の外の人々は自分がまだ工場主と折衝中だと思いこみ、このために誰も、そして小使さえも、自分のところへはいってこないのは、なんと気持のよいことだろう、という考えが、ただ漠然と彼の意識に上ってくるのだった。窓ぎわへ行き、手すりに腰をおろして、片手を把手(とって)にかけて身体(からだ)をささえ、広場を見やった。雪はまだ降っており、全然晴れあがってはいなかった。
 いったい何が自分を心配させるのかもわからぬまま、彼は長いあいだそうして腰かけていた。ただときどき少しぎくりとして肩越しに控室のほうを見たが、空耳だが物音を聞いたように思ったからであった。だが誰も来ないのでいくらか落着き、洗面台に行って冷たい水で洗うと、さわやかな頭になって窓べの場所にもどってきた。弁護を自分の手で引受けようという決心が、初めに思ったよりもいっそう重要に思えた。弁護を弁護士にまかせていたうちは、まだ根本的には訴訟にほとんど関係していなかったも同然で、ただ遠くからながめていたのであって、直接それから得(う)るところはほとんどなかったが、欲するなら自分の事件がどうなっているかを見ることができたし、また望むならば頭を向け直すこともできたのだった。それに反して、今や弁護を自分でやることになれば、――少なくともしばらくは――すっかり裁判所に身をさらさなくてはならなくなり、その結果は、後になれば自分の身を完全に、また最後的に解放することになるはずではあるが、これをうまくやるためには、どうしてもしばらくはこれまでよりも大きな危険を冒してゆかねばならなかった。この点については彼は疑わしく思っていたが、支店長代理と工場主と今日同席したことで十分確信させられたにちがいなかった。自分を弁護するというはっきりした決心をすっかりきめたのに、どうしてそこにすわっていたのか? だが、これから先どうなることだろうか? 自分の前にはどんな日々が立ちはだかっていることだろうか! 万事を切り抜けて好ましい結果に通じる道を発見するだろうか? きわめて慎重な弁護をやろうというのなら――そしてそれ以外のことはいっさい無意味なのだ――きわめて慎重な弁護をやろうというのなら、それには同時に、ほかのいっさいのことを除外してしまうことがどうしても必要ではないか? うまくやりおおせられるだろうか? そして、これをやりぬくことは銀行にありながらどうやって成功するだろうか? まったくのところ単に願書の問題ではなくて、訴訟全体に関することなので、願書ならば、たとい休暇を願い出ることは今さしあたってはたいへん思いきったことではあっても、休暇を取ればきっと十分だろうが、この訴訟となるとどれほど続くかさっぱり見通しがきかぬのだ。なんという障害が突然おれの経歴に投げこまれたことだろうか!
 そして今でも、銀行のために働かねばならぬのだろうか?――彼は机の上を見やった。――今でも客を招き入れ、彼らと折衝をせねばならぬのだろうか? 訴訟が進行し、あの屋根裏部屋では裁判所の役人たちがこの訴訟の文書をめぐって集まっているのに、銀行の仕事にかまっていなければならないのだろうか? 仕事はまるで、裁判所によって公認され、訴訟と関連してそれにつきまとっている拷問のようなものではないか? およそ銀行の中にあって、自分の仕事を評価するとともに、この特殊な状態を考慮してくれる人がいるだろうか? そんなことをしてくれる人は全然ない。誰がどれくらいそれについて知っているのかはまだまったくはっきりとはしていないが、訴訟のことは全然知られていないわけではなかった。だが支店長代理のところまでは噂はまだおそらく届いてはいないらしく、もしそうでなければ、この男がきっと同僚のよしみも人情もあったものではなくそれを利用しつくす有様を、すでにはっきりと見なければならなかったことだろう。そして支店長はどうだろう? 確かに彼はおれに好意を持っており、訴訟のことを聞けば、おそらくすぐにできるだけおれのために事を容易にしてやろうとしてくれるだろうが、きっとそういう態度を貫くことはできまい。なぜならば、おれがこれまで形成していたバランスが弱まりはじめるにつれて、支店長はいよいよ代理の影響に押されることとなり、代理はそのうえ支店長の苦しい立場を自分の勢力の増強のために利用しつくしているようなやつだからだ。それゆえ、おれは何を望むべきか? おそらくこんなふうに考えることによって抵抗力を弱めることになるだろうが、自分自身を欺かず、万事を現在としてできるだけはっきりと見ることもまた必要なことだ。
 格別の理由もなかったが、ただしばらくはまだ机に帰りたくはなかったので、窓をあけた。窓はなかなかあかず、両手で把手をまわさねばならなかった。やっとあけると、窓の幅と高さとだけ、煤(すす)の混じった霧が部屋に流れこみ、かすかな焦げる匂(にお)いで部屋をいっぱいにした。雪片もいくらか吹きこんできた。
「いやな秋ですね」と、Kの背後で工場主が言ったが、支店長代理のところからもどって、気づかれずに部屋にはいってきていたのだった。Kはうなずき、不安げに工場主の書類入れを見つめた。その中から彼は今にも書類を引っ張り出し、支店長代理との交渉の結果をKに話しそうだった。だが工場主はKの視線を追い、書類入れをたたき、それをあけないで言った。
「どういうことになったか、お聞きになりたいでしょう。書類入れの中にはもう契約書がはいっているのも同然です。支店長代理さんは魅力のある人ですね。だがまったく危険のない人じゃないですが」
 彼は笑ってKの手を握り、彼のことも笑わせようとした。ところがKには、工場主が書類を見せようとしないことがまたまたあやしく思われたので、工場主の言葉が少しもおかしくはなかった。
「きっと天気病みでいらっしゃるんですね? 今日はたいへんふさいでいらっしゃるようにお見受けしますが」
「そうです」と、Kは言い、両手でこめかみを押えた。「頭痛と家庭の心配です」
「まったくです」と、せわしげな人間で、人の言うことは落着いて聞けない工場主は、言った。「誰でも十字架を負わなければならんのです」
 工場主を送り出そうとするかのように、Kは思わず知らず扉のほうへ一歩進んだが、工場主は言った。
「業務主任さん、あなたにもう少しお話しすることがあります。こんな日に申上げてあなたをわずらわすことはたいへん恐縮ですが、最近二度もあなたのところへまいって、いつも忘れてしまっていたものですから。でもこれ以上延ばしますとおそらく完全に役にたたなくなりましょうからね。そうなると残念ですからねえ。なぜって私の話は根本においておそらく値打ちのないものではありませんからね」
 Kが答える余裕もないうちに、工場主は彼のそばに歩み寄り、指の関節で彼の胸をたたき、低い声で言った。
「あなたは訴訟にかかりあっていらっしゃるんですってね?」
 Kは後(あと)ずさりして、すぐさま叫んだ。
「支店長代理があなたにお話ししたんですね!」
「いや、そうじゃありません」と、工場主は言った。「支店長代理が知っているわけがないでしょう?」
「ではあなたは?」と、Kはずっと落着きを取戻して言った。
「あちらこちらで裁判所のことは何かと聞きますんでね」と、工場主は言った。「お話ししようと思うことも、まさにそのことなんです」
「たくさんな人が裁判所と関係を持っているんですね!」と、Kは頭を垂(た)れて言い、工場主を机のところへ連れていった。彼らは先ほどと同じようにすわったが、工場主は言った。
「お伝えすることのできることがたいして詳しくはなくて残念です。しかし、こういう事柄ではほんの少しでもおろそかにしてはなりませんからね。それに、私の尽力はささやかなものでありましょうが、あなたをなんとかしてお助けいたしたい気持に駆られておりますので。私たちはこれまで仕事の上のよい友達でしたからねえ。ところで――」
 Kは今日の相談のときの自分の態度のことでわびようとしたが、工場主は黙って話を中断させてはおらず、自分は急いでいるのだということを示すために書類入れを腋(わき)の下に高く押しこみ、言葉を続けた。
「あなたの訴訟のことは、ティトレリという男から知りました。画家でして、ティトレリというのはただその男の雅号ですが、ほんとうの名前は全然知りません。この男は、数年来ときどき私の事務所にやってきて、小さな絵を持ってくるんですが、――まるで乞食(こじき)みたいなもんですよ――私はいつでも一種の喜捨をやっています。ともかく好ましい絵でして、荒野の風景とかそういったものなんです。このやりとりが――二人とももう慣れてしまったんですが――まったくスムーズにいっていました。ところが、一度、こうやってやってくるのがあんまり頻繁(ひんぱん)に繰返されるので、私は文句を言ってやったところ、いろいろな話になり、ただ絵を描くことだけでどうやって暮してゆけるのか、私も興味を覚えたんですが、驚いたことに彼のおもな収入源が肖像画だということを聞きました。『裁判所の仕事をしています』と言うんです。『どんな裁判所だね』と、私がききました。すると裁判所のことを話してくれました。どんなにこの話で私が驚いたことか、あなたはいちばんよくわかってくださるでしょう。それ以来私は、この男が訪(たず)ねてくるたびごとに裁判所のニュースを何かと聞き、次第次第にそのことに関するある種の理解ができるようになりました。もとよりティトレリはおしゃべりでして、私はしょっちゅう追い払わなければなりませんが、それはこの男が嘘(うそ)をつくからばかりでなく、何よりも、私のような商売人は自分の仕事の心配だけでもほとんどぶっつぶれそうで、関係のない物事にはあまり気をつかっていられないためなんです。だがこれはただついでに申上げたわけです。おそらくこれで――私は思うんですが――あなたはティトレリのことが少しはおわかりのことと思いますが、この男は大勢の裁判官を知っていて、自分ではたいして力がないにしても、どうやったらさまざまな有力者に近づけるかという助言はできましょう。そして、たといこういった助言がそれ自体としては決定的なものでないにしても、私の考えるところでは、あなたがお持ちになればたいへん有益でありましょう。あなたはまったく弁護士みたいな方ですからね。私はいつも言っているんですよ。業務主任のKさんは弁護士みたいな人だってね。いや、私は何もあなたの訴訟のことで心配なんかしちゃおりません。ですが、ティトレリのところにおいでになりませんか? 私がご紹介すれば、あの男はきっと、彼にできることをなんでもやるでしょう。あなたは行くべきだと私はほんとうに思いますね。もちろん今日でなくとも結構でして、いつかおついでのときでいいんです。もちろん、――これは申上げておきたいと思いますが――私がこうおすすめしたからといって、ほんとうにティトレリのところにどうしても行かねばならぬということは少しもありません。いや、もしティトレリなんかいなくたってやってゆけるとお思いでしたら、確かに、あの男をまったく無視されることがいっそうよろしいでしょう。きっとあなたはとっくに詳しいプランをお持ちでしょうし、それならティトレリなんかはそれの邪魔をするばかりかもしれません。いや、それならもちろん、けっしていらっしゃらなくて結構なんです! それにきっと、こんな男から助言をもらうとなると我慢も要(い)りますからね。まあ、お気に召すようにしてください。これが紹介状、これが住所です」
 がっかりしてKはその手紙を受取り、それをポケットに押しこんだ。いちばんうまくいった場合でも、この紹介状のもたらす利益などは、工場主が自分の訴訟について知っており、画家がそのニュースをひろめてまわる、ということに含まれている損害に比べれば、比較にならぬくらい小さなことだった。もう扉のほうへ行きかけている工場主に一言二言礼を言うことも、ほとんどやる気にはなれなかった。
「行ってみますよ」と、扉のところで工場主と別れるとき、Kは言った。「あるいは、今は非常に忙しいので、一度私の事務室のほうへ来てもらいたいと書くかもしれません」
「あなたがいちばんいい策(て)を発見されるだろうということは、わかっていました」と、工場主は言った。「もちろん私は、訴訟について話すためにこのティトレリのような人物を銀行へ呼ぶなどということは、あなたがむしろ避けたいと思っていらっしゃるものとばかり思っていました。それに、手紙をこんな連中の手に渡すということは利益になるとばかりはかぎりませんからね。でもあなたはさだめし万事を考え抜かれたことでしょうし、どうやったらよいかは十分おわかりのことと思います」
 Kはうなずき、さらに控室を通って工場主について行った。だが、表面では平静を装っているものの、自分の言ったことに非常に驚いていた。ティトレリに手紙を書くだろうと言ったのは、もとよりただ工場主に対してなんとかして、紹介状はありがたく思っている、ティトレリと会う機会のことはすぐ考える、ということを示そうと思って言ったことにすぎないのだが、もしティトレリの味方が値打ちがあるものと見てとれば、ほんとうに手紙を書くことも躊躇(ちゅうちょ)はしなかっただろう。ところが、その結果として起るかもしれない危険のことは、工場主の言葉で初めて気がついたのだった。自分の悟性に対してほんとうにこんなにも信用できなくなったのだろうか? はっきりした手紙でうさんくさい男を銀行にまで呼び出し、支店長代理とは扉ひとつしか隔たっていない場所で自分の訴訟についての助言を求めるというようなことがありうるなら、もっとほかの危険も見逃(みのが)しているし、そんな危険のなかに飛びこむこともありうることだし、大いにありそうなことでさえなかろうか? 自分に警告してくれる人間がいつも自分のそばにいるものとばかりはかぎらない。そしてまさに今、全力を集中して歩み出なくてはならないときに、自分の用心深さに対するこれまで知らなかったようなこんな疑惑が現われるとは? 事務をやっているとき感じたあの困難が、今や訴訟においても始まったのだろうか? もちろん今ではもう、ティトレリに手紙を書き銀行に来てもらおうなどと思ったことがどうして可能だったのか、彼にはわからなかった。
 そのことを考えてまだ頭を振っていると、小使がそばにやってきて、この控室のベンチに腰かけていた三人の客に注意を向けさせた。彼らはすでに長いあいだKのところへ招かれるのを待っていた。小使がKと話すなり、立ち上がって、好機をとらえて誰よりも先にKの前に行こうとした。銀行側が無礼にもこの待合室で時間を空費させたもので、彼らのほうももう遠慮をしようとはしなかった。
「業務主任さん」と、早速一人が言った。だがKは小使に外套(がいとう)を持ってこさせ、小使の手を借りて着ながら、三人全部に向って言った。
「みなさんごめんなさい、今ちょうどお会いする時間がないんです。はなはだ恐縮ですがさし迫った外での用事を片づけなければなりませんので、すぐ出かけなければなりません。ごらんのとおり、今たいへん長く引留められておりましたので。明日でも、あるいはいつなり改めておいでねがえませんか。なんなら用件を電話でお話しすることにしませんか? または今手短かに何のご用件か伺っておいて、のちほど詳しく書面でお答えいたしましょう。もちろん、この次来ていただくのがいちばんよろしいのですけれど」
 このKの提案は、完全にむなしく待たされたことになった三人の客を非常に驚かせたので、黙って顔を見合すばかりだった。
「それじゃあ、そうきまりましたね?」と、帽子を持ってきた小使のほうを振向いたKは、たずねた。Kの部屋のあけっ放しの扉からは、戸外で雪がたいへんひどくなったのが見えた。そこでKは外套の襟(えり)を立てて、頸(くび)のすぐ下にボタンをかけた。
 ちょうどそのとき、隣室から支店長代理が出てきて、外套を着たKが客たちと言い合っているのを微笑しながらながめ、こうきいた。
「もうお帰りですか、業務主任さん?」
「そうです」と、Kは言い、身体を正した。「用件で出かけなければなりませんので」
 しかし支店長代理は、すでに客たちのほうを向いていた。
「で、この方々はどうなんです?」と、きいた。「もうかなりお待ちのように思うんですが」
「もう話がきまったんです」と、Kは言った。だが客たちはもう我慢ができなくなり、Kを取囲んで、用件が重要なものでなければ、一時間も待ちはしなかったろう、そして今すぐ、それもとっくりと個人的に、話し合ってもらいたい、と述べたてた。支店長代理は彼らの言うことをしばらく聞いていたが、帽子を手に持ち、あちこち塵(ちり)を払っているKのこともながめたうえで、言った。
「みなさん、たいへん簡単な策(て)があります。もし私でおよろしかったら、業務主任さんにかわってよろこんでお話を伺いましょう。みなさんのご用件はもちろんすぐお話ししてしまわなければなりません。私たちもみなさんのように商売人ですから、商売人の時間の大切なことはよくわかっております。こちらにいらっしゃいませんか?」
 そして、自分の事務室に通じる扉をあけた。
 Kが今やむなく放棄せねばならなかったものを、支店長代理はすべて我が物としてしまうことをなんと心得ていたことか! しかしKは、絶対的に必要である以上のものを放棄しなかったろうか? 不確かな、きわめて乏しいということを認めざるをえないような希望をいだきながら未知の画家のところへ行っているあいだに、銀行のほうでは彼の声望は取返しのつかぬような損害をこうむるのだった。外套をまた脱いで、まだ顔をそろえて待たされている二人の客だけでも取戻すほうが、ずっと賢明であったろう。彼の本立てで我が物顔に何か捜している支店長代理をそのとき見つけなかったなら、Kはおそらくそうしたかもしれない。Kが憤慨して扉に近づいたとき、支店長代理が叫んだ。
「ああ、まだ出かけなかったんですね」
 Kのほうに顔を向け、すぐまた捜し始めるのだったが、その顔の数多くの鋭い皺(しわ)は、老齢ではなくて、充実した気力を示しているように見えた。
「契約書を捜しているんですよ」と、彼は言った。「あの商会の社長さんが、君のところにあるはずだ、と言われるんだが。捜してくれませんか?」
 Kが一歩近づくと、支店長代理は言った。
「いや、ありました」
 そして、契約書だけではなく、きっとほかのものもたくさん入れているにちがいない大束の書類を持って、また自分の部屋にもどっていった。
「今のところはあいつは手には負えないが、おれの個人的な悶着(もんちゃく)が片づいたら、きっといちばん先に痛い目にあわせてやるぞ、しかもできるだけひどくだ」こう考えて少し気を落着けたKは、ずっと前から廊下に出る扉をあけて待っていた小使に、用件で外出したと折を見て支店長に伝えてくれと頼み、しばらくは自分の用事に完全に没頭できることにほとんど幸福を覚えながら、銀行を出た。
 すぐ画家のところへ行った。画家は郊外に住んでいるのだったが、裁判所事務局のある例のところとは全然反対の方面であった。もっとみすぼらしい界隈(かいわい)で、家々はもっと陰気くさく、小路は雪解けの上をゆっくりと漂っている汚物でいっぱいだった。画家の住む家では、大きな門の片方の扉だけがあいており、もう一方は下のほうの壁に穴があき、Kが近づいたとたん、気持のわるい黄色の臭(にお)う液体がこぼれてきて、それを避けようとして鼠(ねずみ)が一匹近くの溝(みぞ)へ逃げこんだ。階段の下では子供が一人地面に腹ばいになって泣いていたが、門の向う側のブリキ屋の仕事場から聞えてくる騒音がいっさいの物音を打消してしまうので、子供の泣き声はほとんど聞えぬくらいだった。仕事場の戸はあけっ放しで、何か仕事を囲んで半円形に三人の職人が立ち、ハンマーでその上をたたいていた。壁にかかった大きな一枚のブリキ板が蒼白(あおじろ)い光を投げ、それが二人の職人のあいだを透(とお)して、彼らの顔と仕事用の前掛けとを照らしていた。Kはこうしたすべてを軽く一瞥(いちべつ)しただけだった。できるだけ早く用事をすまし、ほんの少し画家から話を聞いただけですぐ銀行にもどろうと思った。もしここでほんのわずかでも成果をあげたならば、それは銀行での今日の仕事にもよい影響を及ぼすにちがいなかった。四階では歩度をゆるめなければならなかった。すっかり息切れがし、階段も各階も桁(けた)はずれに高かったが、画家はまったくてっぺんの屋根裏部屋に住んでいるということだった。空気もきわめてうっとうしく、踊り場がなく、狭い階段が両側の壁にはさまれており、その壁にはほんのところどころおそろしく上のほうに小さな窓がついていた。Kが少し立ち止ったとき、ちょうど二、三人ほどの少女がある部屋から飛び出し、笑いながら階段を駆け上がっていった。Kはその後(あと)をゆっくりとつけ、つまずいてほかの子たちに取残された一人の少女に追いつき、並んで登りながらきいてみた。
「絵描きのティトレリっていう人いる?」
 十三になるかならぬかのいくらか佝僂(せむし)のその少女は、きかれると片肘(かたひじ)でKを突き、そばから彼の顔をじっと見た。その子の幼さも不具も、この子がすでにすっかり堕落してしまっているという事実を否定できるものではなかった。少女はにこりともしないで、鋭いうかがうような眼差(まなざし)でむきになってKを見つめた。Kはその態度に気づかなかったように装って、きいた。
「絵描きのティトレリさんって知っている?」
 少女はうなずくと、今度は彼女のほうからたずねた。
「あの人になんの用事なの?」
 Kには、あらかじめ少しティトレリについて知っておくことが有益に思われた。
「おじさんのことを描いてもらおうと思うんだよ」と、彼は言った。
「描いてもらうの?」と、少女はきき、やたらに大きく口をあけ、Kが何か非常に驚くべきことかまずいことかを言ったのでもあるかのように手で軽く彼をたたき、そうでなくとも短かすぎるスカートを両手でつまみ上げると、高いところで叫び声がもう聞き取れぬくらいになっているほかの子供たちの後を追って、できるだけ早く駆け上がっていった。だが階段のその次の折り返しのところで、Kはまた少女たち全部といっしょになった。明らかに佝僂の子にKの意図を教えられて、彼を待っていたのだった。階段の両側に立ち、Kがうまく通るように壁に身体を押しつけ、手でエプロンの皺(しわ)を伸ばしていた。どの顔つきといい、またこんな人垣をつくることといい、子供らしさと堕落の味わいとの混じり合いを示していた。Kの後ろに笑いながら集まった少女たちの先頭に立ったのは、案内を引受けた例の佝僂だった。Kはすぐ正しい道筋がわかったのも、その子のおかげだった。すなわち、まっすぐ登ってゆこうとしたのだが、ティトレリのところへ行くには分れた階段を選ばなくてはならぬということを、その子は教えてくれた。画家のところへ行く階段は特に狭く、きわめて長く、曲ってはいないのですっかり見通しがきき、登りつめると直接ティトレリの扉の前で終っていた。扉の斜め上にはまった小さな天窓によってほかの階段とはちがって比較的明るく照らし出されているこの扉は、上塗りのしてない角材で組み上げられ、その上にはティトレリという名前が赤い色で肉太の筆描きをもって書かれていた。子供たちを従えたKが階段の真ん中まで来るやいなや、明らかに大勢の足音に促されたからであろうが、上の扉が少しあけられ、寝巻一枚を着ているらしい一人の男が扉の隙間(すきま)に現われた。
「おお!」と、一行がやってくるのを見て、男は叫んだ。佝僂の少女はよろこんで手をたたき、ほかの少女たちは、Kをもっと早く追いたてようとして、彼の後ろから押すのだった。
 まだ登りつめないうちに、上では画家が扉を大きく開き、深く身体をかがめて、Kにはいるようにすすめた。少女たちのほうは追い払い、子供がどんなに頼んでも、また彼の許しがなければ無理にでも押し入ろうとどんなにやってみても、一人でも入れようとはしなかった。ただ佝僂の子だけが画家の伸ばした腕の下をくぐり抜けることに成功したが、彼はその子の後を追い、スカートをつかむと自分のまわりでぐるぐると引きまわし、扉の前のほかの子たちのところへ置いた。子供たちは、画家がそうして持場を離れているあいだ、それでも敷居を越してやろうとはしなかった。Kはこういう有様をどう判断すればいいのかわからなかった。すなわち、万事がまるで仲よく馴(な)れ合いで行われているように見受けられるのだった。扉の子供たちは次々と頸(くび)を伸ばし、Kにはわからないさまざまなふざけた言葉を叫びかけ、画家もまた、彼の手中の佝僂の子がほとんど飛ぶように逃げてゆくあいだ、笑っていた。次に扉をしめ、もう一度Kに会釈(えしゃく)すると、手を差出し、名乗りながら言った。
「画家ティトレリです」
 Kは、背後で少女たちがささやいている扉を指さして言った。
「この家ではたいへん人気がおありのようですね」
「ああ、腕白(わんぱく)たちでして」と、画家は言い、寝巻の頸のボタンをかけようとするのだがだめだった。ところで画家は裸足(はだし)で、だぶだぶの黄ばんだズボンをはいているだけだが、ズボンは紐(ひも)で締められ、その長い端がぶらぶら揺れていた。
「この腕白たちにはほんとうに困っています」と、言葉を続けながら、いちばん上のボタンがちょうどちぎれてしまった寝巻から手を出し、椅子をひとつ持ってきて、Kにかけるようにすすめた。
「前に、あの連中の一人を――その子は今日はいなかったですが――描(か)いてやったことがありましたが、それからというもの、みな私の後を追いかけるんです。私がここにおりますと、いいと言うときだけはいってきますが、一度出かけようものなら、いつでも少なくとも一人ははいりこんでいます。私の部屋の鍵(かぎ)をつくらせて、互いに貸し合っているんですよ。いやわずらわしいったら、人様にはほとんど想像もつきますまい。たとえば、私が描くことになっているご婦人と帰ってきて、鍵で戸をあけると、筆で唇(くちびる)を真っ赤に塗った佝僂の子がそこの机のところに立ち、その子がお守(も)りをしなきゃならない小さな妹たちは暴(あば)れまわって、部屋の隅々(すみずみ)までよごしているというような有様なんです。また、つい昨日(きのう)起ったことですが、夜遅く帰ってきて、――どうかそのことをお考えくだすって、私のこんな格好や部屋の乱雑なことはお許しねがいます――で、夜遅く帰ってきて、ベッドにはいろうとすると、誰か私の脚をつねるやつがある。私はベッドの下をのぞいて、一人引っ張り出すっていうようなわけです。どうして私のところにこう押しかけるのか、私にはわかりませんが、私のほうから誘いをかけたのでないことは、あなたも今ちょうどごらんになったとおりです。もちろんこれには仕事の邪魔もされるというものです。このアトリエが無料で借りられるのでなければ、とっくに引っ越していたでしょう」
 そのときちょうど、扉の向うでやさしい、おどおどしたような声が叫んだ。
「ティトレリさん、もうはいってもいい?」
「いけないよ」と、画家は答えた。
「あたしだけでもいけない?」と、声がまたきいた。
「いけないね」と、画家は言い、扉のところへ行き鍵をかけた。
 Kはそのあいだに部屋を見まわした。このひどい小さな部屋がアトリエと呼ばれるかどうかは、言われなければひとりで思いつくものではなかった。奥行、間口ともにここでは、大股(おおまた)で二歩以上は、歩けそうもなかった。床、壁、天井、みな木造で、角材のあいだには細い隙間が見られた。Kの反対側の壁ぎわにベッドが置かれ、色とりどりの寝具が積み上げられていた。部屋の真ん中の画架には一枚の絵がのり、シャツがかぶせてあって、その袖(そで)が床までぶらさがっていた。Kの後ろには窓があり、窓からは霧を透して雪で覆(おお)われた隣家の屋根が見えるだけだった。
 鍵をまわしてしめる音は、Kに、すぐ帰るつもりだったことを思い出させた。そこで工場主の手紙をポケットから取出し、画家に渡して言った。
「あなたのお知合いのこの方からあなたのことを伺い、そのおすすめでまいったのです」
 画家はさっと手紙を通読し、それをベッドの上に投げた。もし工場主がきわめてきっぱりと、ティトレリは自分の知合いで、自分の喜捨に頼ってきた貧しい人間だ、と言ったのでなかったら、この有様を見ては、ティトレリが工場主のことを知らないか、あるいは少なくとも彼のことを思い出すことができないのだ、とほんとうに考えることもできたろう。そのうえ、画家はこうきくのだった。
「絵をお買いになりたいんですか、それとも肖像を描けとおっしゃるんですか?」
 Kはびっくりして画家を見つめた。いったい手紙には何が書いてあるんだろう? 自分がここに来たのはほかならない訴訟について問い合せようと思うからだ、と工場主が手紙で画家に告げているものだとばかりKは考えていた。あんまりあわてすぎ、よくも考えてみないで駆けつけたようだ! だが、こうなってはなんとか画家に答えなければならないので、画架に一瞥(いちべつ)を投げながら言った。
「ちょうど絵のお仕事ですね?」
「そうです」と、画家は言い、画架の上にかかっていたシャツを、ベッドの手紙のほうに投げた。
「肖像画です。いい仕事ですが、まだすっかりできあがってはいません」
 偶然がKに幸いし、裁判所のことを話すきっかけが、はっきりと彼に与えられたのだった。というのは、それは明らかに裁判官の肖像だったからである。ところでそれは、弁護士の事務室の絵にひどく似ていた。もちろんこれは全然別な裁判官であって、頬(ほお)の側にまで達している黒いもじゃもじゃの一面の髯(ひげ)を生(は)やした肥(ふと)った男だったし、あの絵は油絵だったが、これはパステルでさっとぼかしてあった。だがそのほかの点では似ていた。この絵でもやはり、ちょうど裁判官が肘掛けをしっかと握って、いかめしい椅子から威嚇(いかく)的な態度で立ち上がろうとしていたからである。
「裁判官ですね」と、Kはすぐ言おうとしたが、しばらくはまだ控えて、細部をよく見ようとするかのように絵に近づいた。椅子の背の真ん中にある大きな像がなんであるか彼にはわからなかったので、画家にそれをきいてみた。これはもう少し手を加えなくちゃならないんです、と画家は答え、小さな机からパステルを一本持ってくると、それで少しその像の輪郭をなすったが、そうしてもKにははっきりとはわからなかった。
「正義の女神(めがみ)なんです」と、画家は最後に言った。
「もうわかりましたよ」と、Kは言った。「ここに眼隠しの布があるし、ここに秤(はかり)がある。だが、踵(かかと)に翼が生えていて、飛んでいるんじゃありませんか?」
「そうなんです」と、画家は言った。「頼まれてこう描かなくちゃならなかったんですが、ほんとうは正義の女神と勝利の女神とをひとつにしたんです」
「どうもあまりうまい取合せじゃありませんね」と、Kは微笑しながら言った。「正義はじっとしていなくちゃいけませんね。そうでないと秤が揺れて、正しい判決ができませんからね」
「その点は依頼主の注文に従ったんです」と、画家は言った。
「きっとそうでしょうね」と、自分の言葉で誰も傷つけまいとしたKは、言った。
「この像は、ほんとうに椅子にすわっているままを描かれたんですね」
「いや」と、画家は言った。「私はその像も椅子も見ませんでした。いっさい考案ですが、描くべきものは注文をつけてもらいました」
「えっ、なんですって?」と、画家の言うことがよくわからないというようにわざと装いながら、Kは言った。「でもこれは、裁判官の椅子にすわっている裁判官でしょう?」
「そうですが」と、画家は言った。「でも高い地位の裁判官じゃなくて、こんなりっぱな椅子にすわったことなんかないんです」
「それなのにこんないかめしい物腰で描いてもらうんですか? まるで裁判所の長官のようにすわっていますね」
「そうです、この人たちは虚栄心が強いんですよ」と、画家は言った。「だが、こういうふうにして描いてもらっていいという、上のほうの許可を受けているんです。誰もが、どう描いてもらっていいのかきめられているんですよ。ただこの絵では服装や椅子の細部が見分けられませんね。パステルはこういう表現には不向きです」
「そう」と、Kは言った。「パステルで描かれているのは変ですね」
「裁判官がそう望まれたんです」と、画家は言った。「これはあるご婦人にあげることになっています」
 絵をながめていることが、彼に仕事をしようとする欲求を起させたらしく、シャツの袖をたくし上げ、二、三本パステルを手に取った。そしてKは、そのパステルの震える尖端(せんたん)の下で、裁判官の頭にしっくりとはまりながら赤みを帯びた陰影ができあがり、それが画面の縁に向って放射線状に消えてゆくのを、ながめていた。この陰影の戯れは次第に、飾りか高い名誉のしるしかでもあるように、頭を取巻いた。だが正義の女神の姿のまわりでは、ほとんど気づかれないような色調を除いて色が明るく、この明るさのうちに姿がことに浮び上がってくるように思われ、もうほとんど正義の女神も、勝利の女神をも思い出させず、今ではむしろ、すっかり狩猟の女神のように見えた。画家の仕事は、思ったよりもKをひきつけた。しかしついに、自分はもうこんなにここにいるのに、根本において自分自身のことをまだやっていなかった、と気づいて我が身をとがめるのだった。
「この裁判官はなんという人ですか?」と、彼は突然きいた。
「それは言えません」と、画家は答え、絵に深くかがみこんで、初めはあんなにも敬意をこめて迎えた客を明らかに無視するのだった。Kはそれを気まぐれと考え、それに腹をたてたが、こんなことで時間をむだにしたからであった。
「あなたはきっと裁判所とご懇意なんですね」と、彼はきいた。
 画家はすぐパステルをそばに置き、身体を起し、両手をこすって、にやにやしながらKを見つめた。
「いつも、すぐに真相を言えとばかりおっしゃるんですね」と、彼は言った、「紹介状にも書いてありますが、あなたは裁判所のことが聞きたいのに、私の気をひこうとしてまず私の絵のことを話されたのですね。だが、私はそれをわるくはとりませんが、そんなことは私の場合適当じゃないってことをご存じなかったんです。いや、結構ですよ!」と、Kが何か異議をさしはさもうとすると、画家は鋭くさえぎりながら言った。そして次にこう言葉を続けた。
「ところでおっしゃったことは完全に正しいのでして、私は裁判所に信用が厚いのです」
 Kにこの事実で満足する時間を与えようとするかのように、画家はちょっと間(ま)を置いた。また扉の向うで少女たちの声が聞えた。彼らは鍵穴のまわりにひしめいているらしく、おそらく隙間からでも部屋の中がのぞけるらしかった。Kはなんとかわびを言うのはやめにした。画家の気持をそらしたくはなかったが、画家があまりに高いところへ上ってしまい、こんなふうにしていわば人の手の及ばぬところに身を置いてしまうことを、確かに好まなかったからであった。それゆえ、彼はきいてみた。
「それは公に認められた地位なんですか?」
「いや」と、Kの言葉で先の話が腰を折られたように、画家は手短かに言った。しかしKは、相手を黙らせてしまうことを望まず、言った。
「で、そういうような認められていない地位のほうが認められているのよりも有力なことが、往々ありますね」
「それはまさしく私の場合がそうですね」と、画家は額に皺(しわ)を寄せてうなずいた。
「私は昨日工場主とあなたの事件について話しましたが、あの方が私に、あなたのことをお助けする気はあるか、とききましたので、『その方は一度私のところへ来ていただくといいんですが』と、お答えしました。で、あなたがこんなに早く来てくだすって、うれしいことです。事柄はあなたをたいへん悲しませているようですが、それについては私ももちろん不思議とは思いません。まず外套でもお脱ぎになったらどうですか?」
 Kはただほんの少しだけここにとどまるつもりだったが、画家のこのすすめは大いにありがたかった。部屋の空気が彼には次第にうっとうしくなってきたが、もうこれまでに何回か不思議に思いながら、部屋の隅(すみ)にある小さな、疑いもなく火のはいっていない鉄ストーヴを見ていたので、部屋の中のこの蒸し暑さは解(げ)しかねた。Kが外套を脱ぎ、上着のボタンもはずしていると、画家は弁解しながら言った。
「私は暖かくなけりゃいけないんです。だがここはたいへん気持がよろしいでしょう? 部屋はこの点、実に場所がいいんです」
 それに対してKは何も言わなかったが、彼を不快にしたのはほんとうは暖かさではなく、むしろこもった、息苦しくさせられるような空気のためであり、部屋はずっと前から換気されていないにちがいなかった。Kのこの気分のわるさは、画家が自分ではこの部屋で唯一の椅子にすわって画架の前に構えていながら、Kにはベッドの上にすわるようすすめたので、いよいよ強まったのだった。そればかりではなく、Kがベッドのほんの端にすわっている理由を画家は誤解したらしく、かえってKに、どうかお楽にしてくださいとすすめ、Kが躊躇(ちゅうちょ)しているので自分で出かけ、Kをベッドと布団のほうに深く押しこんだ。それからまた自分の椅子にもどり、ついに最初の具体的な質問を切り出したが、それはKにはほかのすべてのことを忘れさせたのだった。
「あなたは潔白ですか?」と、彼はきいた。
「そうです」と、Kは言った。
 この質問への返事はKを心からよろこばせた。ことにそれが、一人の私人に対して、したがってなんらの責任もなく言えたためであった。まだ誰も彼にこんなにあけすけにたずねたものはなかった。このよろこびを味わいつくすために、彼は言葉を足した。
「私はまったく潔白なのです」
「そうですか」と、画家は言い、頭を垂れて、考えこむ面持だった。突然また頭をもたげると、言った。
「もし潔白なら、事はきわめて簡単です」
 Kの眼差は曇った。この裁判所に信用が厚いと称する男は、無邪気な子供みたいなことを言う、と思った。
「私が潔白だからといって、事は簡単にはならないでしょう」と、Kは言った。それでも微笑せずにはおられず、ゆっくりと頭を振った。「裁判所が没頭しているたくさんの細かいことと関係がありますからね。ところで結局、本来は全然何もなかったはずなのに、どこからか大きな罪が出てくるのですよ」
「そう、そう、確かに」と、まるでKが自分の考えていることに要(い)らぬ邪魔をするとでもいうように、画家は言った。
「でもあなたは潔白ですね?」
「そりゃそうですよ」と、Kが言った。
「それがいちばん大切なことですからね」と、画家が言った。
 反駁(はんばく)などには影響される男でなかった。ただ、いかにも断固としてはいるものの、確信からそう言うのか、あるいはただ冷淡な気持から言うのかが、どうもはっきりとしなかった。Kはまずそのことを確かめようとし、そのため言った。
「あなたは確かに裁判所のことを私よりずっとよくご存じですし、私は、もちろんさまざまな人からですが、それについて聞いたこと以上にはほとんど知っていません。だがすべての人々の言うことは、軽率な告訴などは提起されないし、裁判所は一度告訴したとなると、被告の罪について固く確信し、この確信を取除くことは容易でない、ということではみな一致していますよ」
「容易でないですって?」と、画家はきき返し、片手を高く振った。
「いやけっして裁判所はそういう確信を取除かれませんね。この部屋で一枚のカンバスの上にすべての裁判官を並べて描き、あなたがそのカンバスの前で自分を弁護されたほうが、現実の裁判所でよりもずっと効果をあげられますよ」
「そうでしょう」と、Kはつぶやき、自分は画家をただちょっと探ってみようとしたのだったということを忘れていた。
 扉の向うでは、また一人の少女がききはじめた。
「ティトレリさん、お客さんはすぐ帰らないの?」
「みんな黙っていな!」と、画家は扉のほうに向って叫んだ。「お客さんとお話中だっていうことがわからないのか?」
 しかし、少女はこの返事では満足せず、またきいた。
「おじさん、その人のこと描(か)くの?」そして画家が答えなかったので、さらに言った。「ねえ、描かないでよ、そんないやなやつ」
 それに続いて、はっきりとはしない、賛成するような叫びが入り乱れて聞えた。画家は扉に飛んでゆき、ほんの少しだけ隙間(すきま)をあけると――嘆願するように差出された、合わさった少女たちの手が見えた――言った。
「静かにしないと、みんな階段から投げおろしてやるぞ。この階段にすわって、おとなしくしていなさい」
 おそらく子供たちはすぐには聞かなかったようで、画家は命令しなければならなかった。
「階段にすわるんだ!」
 するとやっと、静かになった。
「ごめんなさい」と、Kのところへまたもどってくると、画家は言った。
 Kは扉のほうにはほとんど向かず、相手が自分を守ろうと思っているのか、またどうやって守るつもりなのか、完全に画家にまかせていた。彼は今度もほとんど身動きせずにいたが、画家が彼のほうに身をかがめ、室外には聞かれないようにして彼の耳にささやいた。
「この女の子たちも裁判所に属しているんです」
「なんですって?」と、Kはきき、頭をわきに退(の)けて、画家をじっと見つめた。ところが画家のほうはまた椅子にすわり、半ば冗談、半ば説明のために、言った。
「まったくすべてが裁判所に属していますからねえ」
「そいつはまだ気がつきませんでした」と、Kは手短かに言った。画家の一般的な言いかたは、少女たちについてのヒントから不安な点をいっさい取除いていた。それでもKはしばらく扉のほうを見ていたが、その向うでは子供たちは今度は静かにして階段にすわっていた。ただ一人だけが、角材のあいだの裂目から一本の藁(わら)を突き出して、ゆっくりと上下に動かしていた。
「裁判所についての大要をまだご存じないようですね」と、画家は言い、両脚を大きくひろげ、爪先で床の上をぱちっと打った。「でもあなたは潔白なんだから、そんなものは必要としないでしょう。私ひとりであなたを助け出しますよ」
「どうやろうとおっしゃるんですか?」と、Kがきいた。「どんな論拠も裁判所にはむだだ、とほんの少し前ご自分で言われたばかりじゃありませんか」
「裁判所に持ち出されるような論拠だけがだめなんですよ」と、画家は言い、Kが微妙なある相違に気づいていないというように、人差指を上げた。「でも、この点について公の裁判所の背後、したがって評議室や廊下や、あるいはたとえばこのアトリエで試みることは、それとは事情が別なんです」
 画家の今言ったことは、Kにはもはやそれほど信じられぬことのようには思われず、それはむしろ、Kがほかの人々からも聞いたことと多くの一致を示していた。まったく、大いに有望でさえあった。裁判官がほんとうに、弁護士が言ったように容易に個人的な関係によって動かされるものならば、虚栄心の強い裁判官たちに対する画家の関係は特に重要であり、いずれにせよ過小に評価はできなかった。それからこの画家は、Kが次第に自分の身のまわりに集めた一群の援助者のうちでも、大いに板についていた。一度銀行で彼の組織力がほめられたことがあったが、まったくひとりになって自分だけに頼(たよ)らなければならない今では、それを極度にためしてみる絶好の機会を示すものだった。画家は、自分の説明がKに与えた効果を観察していたが、やがて少し不安らしい様子で言った。
「私がほとんど法律家のようにお話しすることを変にお思いじゃありませんか? 私がこんなに影響を受けているのは、裁判所の方々としょっちゅうお付合いをしているからなんです。もちろん、その利益もたくさんありますが、芸術的高揚は大部分消えてしまいますね」
「いったいどうやって初めて裁判官たちと結びつくようになられたのです?」と、Kは言ったが、画家をすっかり自分の仕事で使う前に、まずその信用を獲得しようと思ったのだった。
「非常に簡単なんですよ」と、画家は言った。「この結びつきは親譲りなんです。私の父がすでに裁判所の画家でした。それは、代から代へと伝えられてゆく地位なんです。このために新しい人間は使うことができません。すなわち、さまざまな役人の階級を描くためには、非常に多種多様な、そして何よりもまず秘密な規則が立てられているため、それらの規則はおよそある一定の家以外にはわかっていないのです。たとえば、あそこの引出しの中に父の手記がありますが、私は誰にも見せません。ところがそれを知っている者だけが、裁判官を描くことができるのです。けれど、私がこの手記をなくしても、私だけが自分の頭に畳んでいるたくさんの規則がありますので、誰も私の地位を私と争うことはできやしません。どんな裁判官も、昔の偉大な裁判官が描かれているように描かれたいのでして、それができるのは私だけです」
「それは羨(うらや)ましいかぎりですね」と、自分の銀行における地位を考えたKは、言った。「ではあなたの地位は微動もしないのですね?」
「そうです、微動もしません」と、画家は言い、誇らしげに肩をそびやかした。「それだからこそ、訴訟にひっかかっている哀れな男をそこここで助けてやろうという気にもなれるんですよ」
「で、どうやってそれができるんですか?」と、画家が今哀れな男と言ったのは自分ではないかのように、Kは言った。しかし画家は、話を脇道にそらさせてはいないで、言った。
「たとえばあなたの場合なら、あなたは完全に潔白なんだから、次のようなことをやってみようと思います」
 自分が潔白であることを繰返して言われることが、Kにはすっかりわずらわしくなっていた。こんなことを言って画家は訴訟がうまく片づくことを自分の援助の前提にしているが、もちろんそんなことでは援助も崩(くず)れてしまうだろうと、Kにはときどき思われるのだった。しかしこういう疑念があるにもかかわらず、Kは自分を抑(おさ)えて、画家の話すのをさえぎらなかった。画家の援助をはねつけるつもりはなく、援助してもらうことに決心していたのだったが、またこの援助のほうが弁護士のよりも危なげが少ないように思われた。このほうが悪気がなく、あけすけであるだけに、はるかに好ましかった。
 画家は椅子をベッドに近寄せて、声を低めて語り続けた。
「どんな種類の釈放を望まれるのか、まずお聞きしておくのをすっかり忘れていました。三つの可能性があって、ほんとうの無罪、外見上の無罪、それから引延ばし、となっています。もちろん、ほんとうの無罪がいちばんいいわけですが、ただ私にはこの種の解決をやれる力は少しもないのです。私の考えでは、ほんとうの無罪に持ってゆける力のある人は、およそ一人もいないと思います。この場合に決定力を持っているのはおそらく被告が潔白なことでしょう。あなたは潔白なのですから、おひとりであなたの潔白なことを頼りにすることも、実際できるわけです。それならあなたは私も要(い)らなければ、ほかのなんらの援助も要らないことになりますね」
 この整然たる言いかたは、初めはKを唖然(あぜん)とさせたが、次に彼は画家と同様声を低めて言った。
「あなたは矛盾に陥っておられる、と思いますね」
「なぜですか?」と、画家は我慢強くきき、にやにやしながら椅子にもたれかかった。この薄笑いがKに、画家の言葉の中にではなく、裁判手続きそのものの中に矛盾を見いだすことに今や取りかかっているのだ、という感情をいだかせた。それでもたじろいではおらずに、言った。
「あなたは初めには、裁判所にはどんな論拠も歯がたたないと言われ、次に、ただしこれは公開の裁判の場合だけのことで裏には裏があるのだ、と言われたが、今度は、潔白な者は裁判所に対してなんらの援助も要らない、とさえ言われるのです。この中にすでに矛盾があります。そのうえ、裁判官には個人的に働きかけることができる、と前には言われたのに、今度は前言を否定して、あなたの言われるほんとうの無罪はとうてい個人的な働きかけで手に入れることができないものだ、と言っておられる。その点に第二の矛盾があります」
「そんな矛盾はたやすく説明できますよ」と、画家が言った。「ここでは二つのちがった事柄が話に出ているので、法律に書いてあることと、私が個人的に経験したことと、それを混同しちゃいけませんよ。法律には、もっとも私は読んだことはありませんが、もちろん一面では、罪のないものは無罪とされる、と書いてあるが、他面、裁判官は手を使えば動かせる、とは書いてないでしょう。ところが私はその全然反対を経験したのでした。ほんとうの無罪宣告なんかひとつも知らないが、裁判官を動かした例はたくさん知っています。もちろん、私の知っている事件には無罪の場合がなかったのだ、ということもありえます。でもそんなことはありそうもないことじゃありませんか? あんなにたくさんの事件にただのひとつの無罪もないものでしょうか? すでに子供のときに、父親が家で訴訟のことを話すのを聞きましたし、父のアトリエにやってくる裁判官たちも、裁判のことを話したものです。私たちのサークルでは、およそほかのことなんか話さないのです。自分で裁判所に行く機会があるようになるとすぐ、私はそういう機会をいつも利用しつくし、無数の訴訟を重要な段階で傍聴し、眼で見ることのできるかぎりはそれを追っかけてきました。それなのに――私は告白しなければなりませんが――ほんとうの無罪宣告なんか出会ったためしがないのです」
「ただの一度も無罪宣告に出会ったことがないというわけですね」と、自分自身と自分の希望とに言い聞かすように、Kは言った。「ですがそのことは、裁判所について私がすでにいだいていた考えを裏書きするものです。ですから裁判所は、この面からも無用なわけですね。ただ一人の首斬(くびき)り人がいれば裁判所全体のかわりをすることでしょうよ」
「そう一般的な言いかたをしちゃいけません」と、画家は不満げに言った。「私はただ自分の経験のことを言ったんですから」
「でもそれで十分ですよ」と、Kは言った。「それとも以前に無罪宣告があったことを聞かれたことがあるんですか?」
「そういう無罪宣告は」と、画家は答えた。「もちろんあったはずです。ただ、それを確かめることがむずかしいだけです。裁判所の終局の決定は公開されませんし、それは裁判官にも近づきがたいものなので、そのため昔の判例についてはただ伝説が残っているだけなんです。こうした伝説はもちろんほんとうの無罪宣告を多数含んでさえいて、信じることはできましょうが、証明することはできないのです。それでも全然無視することはできないのでして、ある種の真実は確かに含んでいますし、またたいへん美しいので、私自身も、このような伝説を内容としているいくつかの絵を描いたようなわけです」
「単なる伝説じゃ私の意見を変えられませんね」と、Kは言った。「きっと裁判所の前に出たら、こういう伝説を引合いに出すわけにもいきますまいしね?」
 画家は笑った。
「そう、それはできませんね」と、彼は言った。
「それじゃ、そんなことについてしゃべるのも無益なわけです」と、Kは言い、画家の意見がありそうもないことだと思われ、またほかの意見と矛盾している場合でも、まずしばらくはみな受入れておこうと思った。画家が言ったことすべてを真相かどうか確かめたり、あるいは全然反駁(はんばく)し去る時間は彼にはなかったし、たとい決定的ではないにせよなんらかのしかたで自分を援助するように画家を動かしたことで、上々のことだった。そこで彼は言った。
「それじゃほんとうの無罪宣告のことは除外するとして、もう二つの別な可能性のことを話すとしましょう」
「外見上の無罪宣告と引延ばし作戦とです。それだけが問題になりますね」と、画家は言った。「だが、その話をする前に、上着をお脱ぎになりませんか? きっとお暑いでしょう」
「そうですね」と、Kは言ったが、これまでは画家の説明だけにしか気を配っていなかったのに、今は暑さを思い出さされたため、ひどい汗が額の上ににじみ出てきた。「ほとんど耐えられませんね」
 画家は、いかにもKの不快がよくわかるというようにうなずいた。
「窓をあけてはいけませんか」と、Kがきいた。
「だめです」と、画家が言った。「ただガラス板をしっかりはめてあるだけですから、あけられないのです」
 Kはそこでやっと、画家か自分が突然窓ぎわに行き、窓をあけ放つという場合のことを今までずっと期待していたのだ、ということに気がついた。実は、霧でも口いっぱいに吸いこもうと待ちかまえていたのだった。この部屋で空気から完全に遮断(しゃだん)されているという気持が、彼に眩暈(めまい)を覚えさせた。自分のそばの羽根布団の上を軽く手でたたき、弱々しそうな声で言った。
「これじゃまったく気分もわるいし、健康にもわるいでしょうね」
「いや、そんなことはありません」と、画家は自分の窓を弁護するために言った。「窓があかないため、ただのガラス一枚だけなんですが、この部屋では二重窓よりもよく暖かさが保たれます。たいして必要じゃないんですが、換気をしようと思えば、材木の隙間のどこからでも空気がはいってきますんで、扉をひとつか、あるいは両方でもあければいいんです」
 Kはこの説明で少し安心させられ、画家の言う第二の扉はどこにあるかと、あたりを見まわした。画家はその有様に気づき、言った。
「扉はあなたの後ろにありますが、ベッドでふさがなけりゃならなかったんです」
 今やっとKは壁の小さな扉を見た。
「この部屋ではすべてがアトリエにしちゃあんまり小さすぎるんです」と、Kの非難に先まわりしようとするように、画家が言った。
「できるだけうまく配置をしなけりゃならなかったんです。扉の前にベッドじゃ、もちろんたいへんまずい場所にあるわけです。たとえば、私が今描(か)いている裁判官なども、いつもベッドのそばの扉からはいってきます。そしてこの扉の鍵も渡してありますので、私が家にいなくとも、このアトリエにはいって私を待てるわけです。ところが彼は、たいてい私がまだ寝ているうちに朝早くやってくるんです。ベッドのそばの扉があけば、もちろんぐっすり寝込んでいても起されてしまいますよ。朝早く私のベッドに乗る裁判官を迎えるときの私の悪口三昧(ざんまい)をお聞きになれば、あなたは裁判官に対する畏敬(いけい)の念などなくしてしまうことでしょう。もちろん鍵を取上げることはできましょうが、そうすりゃいっそう不快な目にあうだけです。なにしろこの部屋じゃ、どんな扉もほんの少し手を下すだけでわけなく蝶番(ちょうつがい)からはずせますからね」
 この話のあいだじゅう、上着を脱ぐべきかどうか、Kは考えていたが、もしそうしなければ、この部屋にこれ以上とどまることはできない、ととうとう見てとったので、上着を脱いだが、用談が終ったらまた着ることができるように、膝(ひざ)の上にのせた。上着を脱ぐやいなや、少女たちの一人が叫んだ。
「上着を脱いじゃったわよ!」そして、この見ものを自分でも見ようとして、子供たちはみな隙間にひしめき集まった。
「子供たちはつまり」と、画家が言った。「私があなたのことを描くので、あなたが上着を脱がれたのだ、と思いこんでいるんです」
「そうですか」と、Kは言ったが、腕まくりになってすわっているものの、前よりたいして気持がよくならないので、相手の言葉をほとんどおもしろいとも思わなかった。まるでぶつぶつ言うように、彼は言った。
「ほかの二つの可能性というのはなんでしたっけね?」
 その言いかたをまたもう忘れていたのだった。
「外見上の無罪宣告と引延ばし作戦とです」と、画家は言った。「どちらを選ぶかは、あなた次第です。いずれにせよ私が援助すればできることですが、もちろん骨が折れぬわけじゃありません。この点のちがいというのは、外見上の無罪宣告のほうは一時に集中した努力が必要ですし、引延ばしのほうはずっと少ないが、長く続く努力が必要だ、というところにあります。そこでまず外見上の無罪宣告のほうです。あなたがこれをお望みと言われるなら、私は全紙一枚にあなたの潔白なるゆえんの証明書をあげます。こういう証明書の型は父から伝えられていて、全然文句をつけられないものです。ところでこの証明書を持って、私の知っている裁判官のところをまわり歩くんです。そこでたとえば、今描いている裁判官が今晩モデルになりにここへ来たときに、その証明書を見せてやる、ということから始めるんです。私は彼にその証明書を見せ、あなたが無罪だということを言明し、あなたの無罪を保証してやります。だがそいつは、単に外面的ではなくて、ほんとうの、拘束力のある保証なんですよ」
 画家の眼つきの中には、Kが自分にこんな保証をするという重荷を負わせようとしているのだ、と言わんばかりの非難めいたものが浮んでいた。
「まったく大いにありがたいことです」と、Kは言った。「で、裁判官があなたを信じても、私にはほんとうの無罪を宣告してくれないんじゃありませんか?」
「すでに申しましたように」と、画家は答えた。「もとより、どの裁判官も私を信じてくれるかどうかはまったく確実なわけでなく、たとえば多くの裁判官は、あなたご自身をお連れすることを要求するでしょう。そうしたらあなたには一度ごいっしょに行っていただかなければなりません。もちろんこうなれば事はすでに半ばはうまくいったようなものです。ことに私はもちろん、問題の裁判官のところでどう振舞わなけりゃならないかっていうようなことは、前もって詳しくお教えしておきますからね。それよりまずいのは、――これも起るかもしれないんですが――私のことを初めから受けつけてくれない裁判官たちの場合です。こういう連中は、もちろん私はいろいろやってはみますが、あきらめることで、なに、そうやっても大丈夫なんです。なにしろ個々の裁判官が事を決定するわけじゃありませんからね。さてこの証明書に十分な数の裁判官の署名をもらったら、この証明書を携えて、まさにあなたの訴訟をやっている裁判官のところへ行きます。おそらくその署名ももらえましょうが、そうなれば万事はそれまでより少しは早く運んでゆくというものです。だがこうなればもう一般にはたいして妨害もなく、被告たちにとっていちばん確信の持てる時期なんです。変ではありますがほんとうのところ、人々はこの時期のほうが無罪宣告の後(あと)よりもいっそう確信が持てるものです。今やもう特別の骨折りなんか要りません。裁判官は証明書に相当数の裁判官たちの保証を得たわけですし、心配なくあなたに無罪を宣告できますし、もちろんさまざまな形式を踏んでからのことですが、私やほかの知人たちにもありがたいことに、疑いもなく無罪宣告をすることでしょう。ところであなたは裁判所を出て、自由というわけです」
「そうなれば自由というわけですね」と、Kは躊躇(ちゅうちょ)しながら言った。
「そうです」と、画家は言った。「しかしただ外見上だけ自由、あるいはいっそううまく言えば、しばらくのあいだの自由なんです。つまり、私の知人であるいちばん下のほうの裁判官たちは、最後的に無罪を宣告する権限がなく、そういう権限はただいちばん上の、あなたにも私にも、私たちすべてにとってまったく手の届かない裁判所だけが握っているのです。そこがどういうものかは、私たちにはわかりませんし、ついでに申しておけば、知ろうとも思わないんです。そこで、告訴から解放する大きな権限は私たちの裁判官も持っていませんが、彼らは確かに、告訴からゆるめる権限は持っているんです。すなわち、あなたがこういうふうにして無罪を宣告されると、あなたは一時告訴から離れますが、告訴はその後もあなたの上に漂っていて、上からの命令があり次第、すぐに効力を発生するんです。私は裁判所と非常に深い結びつきにありますから、またあなたに申上げられますが、裁判所事務局に対する規定中には、ほんとうの無罪宣告と外見上のとの区別は、純粋に外面的に示されているだけです。ほんとうの無罪宣告の場合には、訴訟文書は完全に廃棄され、手続きからすっかり姿を消し、告訴だけでなく、訴訟も、無罪宣告も取消され、いっさいが取消されるのです。外見上の無罪宣告となるのと別です。文書について言うと、無罪の証明、無罪の宣告、そして無罪宣告の理由についていよいよ文書がふえるという以外の変化は起らないのです。ところで文書は依然として手続き中ですから、裁判所事務局間の絶え間のない交渉によって要求されるままに上級各裁判所に送りこまれ、下級裁判所に差戻しになり、大小の振れ、長短の滞りによって上下に揺れるわけです。これらの道程は予測がつきません。外側から見ると、ときどきは、いっさいがずっと前から忘れられ、文書は紛失し、無罪宣告は完全なもののように見えます。だが、事情に明るい人間ならば、そんなことは信じません。文書は紛失したわけでなく、裁判所が忘れることなどありえません、いつか――誰もそれを期待しないわけですが――裁判官の誰かが文書を注意深く手に取り、この事件においては告訴がまだ生きていることを認め、即時逮捕を手配します。ここで私は、外見上の無罪宣告と新しい逮捕とのあいだには長時間が経過するということを認めたわけでして、それはありうることで、私もそういう場合をいろいろ知ってはおりますが、無罪を宣告された者が裁判所から家に帰ってみると、彼をまた逮捕するという命令を受けた人間が家で待っている、ということも同じようにありうることなんです。こうなればもちろん、自由な生活は終りです」
「そして訴訟は改めて始まるんですか?」と、Kはほとんど信じられないできいた。
「もちろん」と、画家は言った。「訴訟は改めて始まるんですが、また前と同様に外見上の無罪宣告を受ける可能性があるわけです。また全力を集中すべきで、けっして降参してはいけません」
 最後の言葉を画家が言ったのは、おそらく、少しげっそりしてしまったKが彼に与えた印象を考慮に入れてのことであった。
「ですが」と、画家が何か暴露することに先まわりするかのように、Kはきいた。「第二の無罪宣告を受けることは、最初の場合のよりもむずかしいんじゃありませんか?」
「この点では」と、画家が答えた。「なんともはっきりしたことは言えません。あなたはきっと、裁判官たちが第二の逮捕というんで、被告のために判決でなんらかの影響を受けるのではないか、とおっしゃるんでしょう? そういうことはありません。裁判官たちはすでに最初の無罪宣告の際にこの逮捕を予見していたのです。ですからこういう状態はほとんど影響力を持つことはありません。しかし、そのほかの無数の理由から、裁判官たちの気持や事件に対する法律的判断が別になっている場合もありますし、第二の無罪宣告のための努力は、変化した情況に適合させられなければなりませんし、一般的に言って、最初の無罪宣告の前と同じように力を尽してやられなくてはなりません」
「でも、この第二の無罪宣告もまた、終りというわけじゃないんでしょうね」と、Kは言い、それを拒むかのように頭をめぐらした。
「もちろんそうじゃありません」と、画家は言った。「第二の無罪宣告には第三の逮捕が続き、第三の無罪宣告の次には第四の逮捕と続いてゆきます。そのことは外見上の無罪宣告という言葉の中に含まれているわけです」
 Kは黙っていた。
「外見上の無罪宣告は、あなたには明らかに有利でないように見えますね」と、画家が言った。「おそらくあなたには引延ばしのほうがいっそうよくあてはまるでしょう。引延ばしなるものの本質を説明してさしあげましょうか?」
 Kはうなずいた。画家はゆったりと椅子によりかかり、寝巻のシャツをはだけ、片手をその中に差しこんで、それで胸と脇腹(わきばら)とをなでていた。
「引延ばしというのは」と、画家は言い、完全に適切な説明を捜しているようにしばらく前方を見つめるのだった。「引延ばしというのは、訴訟が引続いていちばん低い訴訟段階に引留められることを言うのです。これをうまくやるには、被告と援助者、特に援助者のほうが、裁判所と絶えず個人的な接触を保つことが必要です。繰返して申上げますが、この場合には外見上の無罪宣告を受けるときのような労力は必要ではありませんが、もっとずっと注意力が必要です。訴訟を絶えず眼から離さぬようにし、担当裁判官のところへ規則的に時間を隔て、またさらに特別なことのあるときには出向き、こういうふうにして親しみを持たせるように努めなければなりません。裁判官と個人的に知り合っていなければ、知合いの裁判官を通じて圧力をかけてやるとともに、そうだからといって直接の話し合いをあきらめてしまわないことです。この点を怠らなければ、訴訟は最初の段階を超(こ)えて進むことはないということを、十分確実に認めることができます。訴訟は終るわけでありませんが、被告は自由な場合とほとんど同じように有罪判決を受ける心配がありません。外見上の無罪宣告に比べて、引延ばしには、被告の将来がずっと安定しているという長所があります。つまり突然の逮捕に驚かされるというようなことがなく、ほかの形勢がきわめて不利のような場合であっても、外見上の無罪宣告を受ける場合につきもののさまざまな努力や焦慮を引受けねばならないと心配する必要はありません。もちろん引延ばしも被告にとって過小には考えられないところのある種の短所を持っています。こう言っても、被告がけっして自由にならないということを考えているのではありません。それは外見上の無罪宣告の場合にもほんとうのところでは同じだからです。私の言うのは、別な短所なのです。少なくとも外見的な理由がなければ、訴訟は停滞することはできません。それゆえ、訴訟において外面に向って何事かが起らなくてはなりません。それでときどきさまざまな指令が発せられなくてはなりませんし、被告が尋問され、審理が行われるとか、そのほかのことがなされなければならないんです。そこで訴訟はしょっちゅう、人為的に閉じこめられた小さな範囲で引きまわされなければなりません。これはもちろん、被告にある不快を伴うものではありますが、それもまたあなたはあまり思いすごしされてはいけません。実のところ万事はただ外面的なものでして、たとえば尋問もまったく簡単なものにすぎず、出かけてゆく暇や気持がなければ、断わることもできますし、ある裁判官たちの場合には、長い時期にわたってのさまざまな指示をあらかじめ相談してきめることもでき、本質的にはただ、被告なんだからときどき裁判官のところへ出向かなければならない、というだけのことです」
 最後の言葉がまだ語られているうちに、Kは上着を腕にかけて、立ち上がった。
「立っちゃったわよ!」と、すぐさま扉の外で叫び声がした。
「もうお帰りですか?」と、自分も立ち上がった画家が言った。「きっと空気のせいで部屋にはいたたまれなくなられたんでしょう。たいへん残念なことです。まだたくさんお話しせねばならなかったのに。もっと手短かに申上げねばならないところでした。でも、おそらくおわかりになっていただけたものと思います」
「ええ、そうですとも」と、Kは言ったが、聞くために無理にしていた努力で、頭が痛かった。こう保証してやったのに、画家は、帰路のKに慰めを与えてやろうとするように、これまで言ったことをみなもう一度取りまとめるため、言うのだった。
「二つの方法には、被告の有罪判決を妨げるという共通点があります」
「しかし、ほんとうの無罪宣告というものも妨げてしまいますね」と、自分がそれに気づいたことを恥じるように、Kは低い声で言った。
「あなたは事の核心を握られました」と、画家は早口に言った。
 Kは外套(がいとう)に手をかけたが、着る決心がつきかねていた。みんな引っつかんで、新鮮な空気の中へ駆けてゆくことがいちばんしたく思われた。子供は早まって、あのおじさんが着物を着る、と互いに叫び合っていたけれども、Kに着物を着させるにはいたらなかった。Kの気持をなんとか解釈することが画家には大切だったので、言った。
「私の提案についてまだ決心されていらっしゃらないようにお見受けします。それはごもっともだと思います。私も、すぐ決心することはなさらぬようにとさえ、おすすめしたのですからね。長所と短所とが紙一重なんです。万事詳しく見積ってみなければなりません。もちろんあまり時間を失うことはできませんが」
「またすぐまいります」と、Kは言い、急に決心して上着を着、外套を肩の上にひっかけ、扉のほうに急いだが、扉の後ろでは子供たちが叫びはじめた。Kには、叫んでいる少女たちが扉を通して見えるような気がした。
「だがお約束は守っていただきます」と、Kを送ってついては来なかったが、画家は言った。「でないと、自分から伺いに銀行に行きますよ」
「どうか扉をあけてください」と、Kは言い、把手(とって)を引っ張ったが、手ごたえを感じたので、少女たちが外でしっかと押えているのがわかった。
「子供たちがうるさいですが、いいですか?」と、画家はきいた。「むしろこの出口をお使いになったらどうですか」と、ベッドの後ろの扉を示した。
 Kは合点とばかりベッドまで飛んでもどってきた。ところがそこの扉をあけもしないで、画家はベッドの下にもぐりこみ、下からきいた。
「もうちょっとお待ちください。絵をひとつ見ていただけませんか? なんならあなたにお譲りしてもいいですよ」
 Kは、無愛想にもできない、と思った。なにしろ画家は自分のことを引受けてくれ、今後も援助すると約束もしてくれたのだが、自分が忘れっぽいため援助に対する報酬のことをも全然言ってはなかったし、無下(むげ)には断われなかった。そこで、アトリエから出ようと落着かずにうずうずしてはいたが、絵を見せてもらうことにした。画家はベッドの下から一束の額縁のない絵を取出したが、ひどく埃(ほこり)が積っていて、画家がいちばん上の絵から埃を吹き払おうとすると、しばらくは埃が眼の前にもうもうと立って息もつけなかった。
「荒野の風景です」と、画家は言い、Kにその絵を手渡した。二本の弱々しげな樹が描かれていて、はるかな距離をおいて黒ずんだ草の中に立っていた。背景は多彩な日没の光景だった。
「いいですね」と、Kは言った。「いただきましょう」
 Kは考えもなしにひどく手短かに言ったが、画家がその言葉を別にわるくもとらず、二番目の絵を床から取上げたので、ほっとしたのだった。
「これはその絵とは反対傾向の作品です」と、画家が言った。反対傾向の作品のつもりだったのだろうが、最初の絵に比べて少しのちがいも認められず、ここには樹々があり、ここには草があり、そこには日没がある、というようなものだった。だがKにはそんなことはどうでもよかった。
「美しい風景ですね」と、彼は言った。「両方いただき、事務室にかけましょう」
「モチーフが気に入られたようですね」と、画家は言い、第三の絵を持ち出し、「幸いなことに、ここにも同じような絵があります」
 ところが同じようなどころでなく、むしろ完全に同じ荒野の風景だった。画家は、古い絵を売るこの機会を存分に利用したのだった。
「これもいただきましょう」と、Kは言った。「三枚でいかほどでしょう?」
「ま、その話はこの次にしましょう」と、画家は言った。「お急ぎのようですし、私たちはどうせ連絡があるわけですからね。ともかく、絵が気に入られてうれしいことです。ここの下にある絵をみな差上げましょう。みな荒野の風景ばかりですが、もうこれまでにたくさんの荒野の風景を描きました。多くの人は、陰鬱(いんうつ)なのでこんな絵はいやだ、と拒まれますが、でもほかの人々には、あなたもその一人ですが、その陰鬱なのをこそ好かれます」
 しかし、Kは乞食画家の職業体験などには全然興味がなかった。
「みんな包んでください!」と、画家の話をさえぎって、彼は叫んだ。「明日小使が来て、持っていきますから」
「いや、それにはおよびません」と、画家が言った。「おそらく、すぐあなたと行ってくれる運び手をご用だてできるでしょう」
 そしてついにベッドの上に身をかがめると、扉をあけた。
「ご遠慮なくベッドの上にお乗りください」と、画家は言った。「ここに来る人は誰でもそうするんですから」
 こうすすめられなくともKも遠慮をするつもりはなく、片足を羽根布団の真ん中に置いていたが、あいた扉を通して向うを見て、足をまた引っこめた。
「あれはなんです?」と、彼は画家にきいた。
「何を驚いておられるんです?」と、画家のほうもKの有様に驚いて、きいた。「あれは裁判所事務局ですよ。ここに裁判所事務局があることをご存じなかったんですか? 裁判所事務局はほとんどどの屋根裏にもありますから、どうしてここにだけあってはならないということがありましょう? 私のアトリエもほんとうは裁判所事務局のものなんですが、裁判所が私に用だててくれているんです」
 ここに裁判所事務局を見つけたことにKはたいして驚きはしなかったが、主として自分自身、自分の迂闊(うかつ)さに驚いたのだった。しょっちゅう心構えをしていて、けっして驚かされたりしないで、左手には裁判官が自分のすぐそばに立っているのに、ぼんやり右手をながめたりしないというのが、被告の態度の根本原則だ、と彼は思っていたが、――まさにこの根本原則にしょっちゅう抵触するのだった。彼の前には長い廊下が延びており、そこから風が吹いてくるが、それに比べるとアトリエの空気のほうがまだしもさわやかに思われた。ベンチが廊下の両側に置かれ、Kの関係している事務局の待合室とそっくりそのまま同じだった。事務局の配置には細かな規定があるように思われた。今のところここでは、訴訟当事者たちの往来はたいしてしげくはなかった。一人の男がベンチの上で半ば横になり、顔をベンチの上に置いた両腕に埋め、眠っているらしかった。もう一人の男が廊下の奥の薄暗がりの中に立っていた。Kはベッドを乗り越えたが、画家は絵を持って彼に続いた。間もなく一人の廷丁(ていてい)に出会ったが、――Kは今では、私服の普通のボタンに混じってついている金ボタンですぐどんな廷丁でもそれとわかるのだった。――画家はその男に、絵を持ってこの方にお供するように、と頼んだ。歩いてゆくと、Kは次第に頭がぐらぐらしてきて、ハンカチを口に押し当てていた。出口のすぐそばまで来たとき、少女たちが彼らに向って殺到してきたが、これで見るとこの連中にかかってはやはりKも免れることができなかったのだった。子供たちは明らかにアトリエの第二の扉があけられたのを見て、こちら側からはいりこもうとしてまわり道をしたのだった。
「もうお供できませんよ!」と、子供たちに押しつけられて笑いながら、画家が叫んだ。
「さようなら! あまり長く考えこんでいないようにしてください!」
 Kは二度と画家のほうを振向かなかった。
 小路に出て、出会った最初の馬車に乗った。廷丁を追い払うことが彼には問題だった。普通ならばおそらく誰にも目だつような男ではないが、廷丁の金ボタンが絶えず眼にはいってたまらなかった。いかにも職務大事といわんばかりに、廷丁は御者台にすわろうとした。だがKは彼を追い払っておろした。Kが銀行の前に着いたときは、正午はもうとっくに過ぎていた。絵は車の中にほっぽらかしにしたかったが、いつかの機会に画家に向って、この絵を持って帰れと言う必要に迫られることがあろうか、と思った。そこでそれを事務室に持ちこませ、少なくともここ数日は支店長代理の眼を逃れることができるように、机の一番下の引出しに鍵をかけて入れた。





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