ゲーテ詩集 生田春月訳





ミニヨンに


谷や河流(ながれ)の上をわたつて
日の車はしづかにめぐつて行く
ああ、太陽はいつも動いてやすまない
そのやうにおまへの、わたしの苦しみも
胸の底から
いつも朝になるとまたあらはれる
夜が来たとてもうわたしには何でもない
いまは夢さへ悲しい姿をして
わたしの眠りに来るものを
さうしてわたしは覚える、この苦みの
音なく胸に
だんだん積つて行くそのはげしさを

わたしはもう随分ふるい昔から
この下を舟の行くのを見る
みなそれぞれ目的(めあて)の土地に着く
けれどああ、この昔ながらの苦しみだけは
胸の底にゐて
河と一緒に流れて行きはせぬ

わたしはきれいな晴着を着なければならぬ
着物は戸棚から出してある
ちやうど今日は祭の日と言へば
誰も悟らない、このくるしみに
わたしの胸の
はげしく掻きむしられてゐることを

いつもこつそりわたしは泣いてゐる
でも外観(おもて)は陽気に見せてゐる
しかも丈夫さうに血色もよく
若しこの苦しみが致命のものであつたなら
この胸に
ああ、疾くの昔にわたしは死んでゐた筈だ





山上の城


むかうの山の頂きに
古いお城がたつてゐる
門や扉のうしろには
騎士(ナイト)や馬がむかしはをつた

その門や扉は焼けてしまひ
あたりはただもうひつそりとしてゐる
古いくづれた城壁を
わたしは好き放題に攀ぢまはる

むかうの隅には穴蔵があつて
高価な酒が一ぱい入つてゐた
今ではもはや徳利をさげて
気軽に下りて行く侍女(こしもと)もない

彼女はもはや広間の客に
杯をついで廻りもしない
彼女は聖餐のとき坊様の
瓶を充たしに行きもしない

彼女はだらしのない家来どもに
廊下で酒をふるまひもしない
そしてそのせはしないふるまひのため
せはしないお礼を受けもしない

もうずつとの昔に梁(うつばり)
天上ものこらず焼けてしまひ
階段も廊下も礼拝堂も
鳥有に帰してしまつたのだもの

だが琴と瓶とを手にもつて
この高くけはしい岩の上へ
よく晴れた日にあの人の
登つて行くのを見た時に
荒涼とした沈黙の間(あひだ)から
楽しさ嬉しさがまた湧いて出た
ちやうど昔の愉快な時が
も一度かへつて来たやうに

まるで尊いお客様のために
広場に用意が出来てゐるやうに
まるであのさかんな時代から
一組の恋人同志が出て来たやうに

まるであの礼拝堂に
気高い坊さんが立つてゐて
『おまへさん方は結婚する気か?』と問うと
我々は笑つて『はい!』と答へるやうに

さうして胸の底から湧きあがる
深い感動のこもつた歌声は
群集の口からではなくて
木精(こだま)の口から繰返される

さうしてだんだん夕方になつて
すべてが静かになつたとき
燃える日影はそば立つた
山の頂きに眼を投げる

さうしてこの家来とこの侍女(こしもと)
まるで主人のやうに振舞つてゐる
彼女が酒をついでやると
彼はお礼を言つてゐる






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