須川邦彦 無人島に生きる十六人







みんな、はだかになれ


 その島にあがると、緑したたる草が、いちめんにしげっている。しかし、木は一本も生えていない。高いところは、水面から四メートルぐらい。平均の高さ、二メートルぐらいの、珊瑚礁(さんごしょう)の小島である。海鳥の群が、上陸してきたわれわれのすがたにおどろいて、ぎゃあぎゃあ、頭の上を、みだれ飛んでいる。
「いい島だなあ」
「どうだい、このやわらかい、青い草。りっぱなじゅうたんだなあ」
「ほんとだ、ぜいたくな住まいだ」
「島は、動かないや。はははは」
 みんなひさしぶりの上陸にうれしくて、かってなことをいっている。しかし、仕事は山ほどある。時間がおしい。
「総員集合」
 集まった十五人の前に、私は立った。
「この島に、住むことにきめた。ただいまから、総員作業をはじめる。
 榊原(さかきばら)運転士は、櫓(ろ)の達者な者四人をつれて、ごくろうだが、伝馬船(てんません)で、岩まで引き返して、三角筏(いかだ)に荷物をつみ、ここへひいてきてくれ。
 井上水夫長は、うでっぷしの強い四人と、井戸ほりにかかってくれ。
 鈴木漁業長は、四人をつれて、大いそぎで、島を一めぐりして、なんでも役にたつものを見てきてくれ。それがすんだら、蒸溜水(じょうりゅうすい)の製造にかかってくれ。
 総員は、作業につくまえ、今すぐに、はだかになれ。ここでは、はだかでくらすことにする。着物は、いま着ているもののほかに、なに一つ着がえはない。何年かかるかわからない島の生活には、着物はたいせつだ。冬のことも、考えなければならない。はだかでくらせる間は、はだかでいよう。みんな、ぬいだものは、仕事にかかるまえに、ひろげて、ほしておけ。たいせつにしまっておこう」
 全員は、すぐに、服をぬいではだかになった。
「服は、もう半分かわいている」
「ああ、さっぱりした」
 手足を、さかんに動かしている者もある。はだかになって胴じめをとったら、急に、おなかがすいた感じが、ぐっとくる。そのはずだ、朝飯をたべていない。昼飯は、くだもののかんづめの、一なめであった。だが、飯の支度のしようもない。道具も、米も、水もない。だいいち、時間がおしい。一同は、すき腹のまま、いきおいよく仕事にかかった。
 伝馬船組は、櫓櫂(ろかい)をそろえて、元気よく出発した。
「行ってくるよ。所帯道具と食糧は、みんな持ってくる。井戸をたのむぞ」
 井戸ほり組は、それに答えて、
「じゃあ、たのむよ。いい井戸をほって、つめたい水を、どくどく、飲ましてやるぞ」


命の水


 島のいちばん高いところに近く、きれいな砂地に、よいしょ、といきおいよく、最初のつるはしをうちこんだ。シャベルで、砂をすくいあげた。しかし、井戸ほりは、まったくの大仕事である。珊瑚質(さんごしつ)のかたい地面を、ごつん、ごつん、とほりさげ、シャベルで砂をすくって、ほうりあげるのだが、大男は、はだかの全身、水をあびたような汗。のどがかわいて、口のなかが、からからになって、声も出ない。水だ、水だと、水をほしがるのである。その水を出そうとして、いまほっているのだ。井戸ほりが、いちばん先に、まいってしまいそうだ。
「元気を出せ。十六人の命の水だ。今じきに、蒸溜水を飲ませるから」
 こんな場合、百千のことばではげますよりも、一さじの蒸溜水の方が、どんなにききめがあるか、よくわかっている。早く蒸潜水を、ごくごく飲ませてやりたい。しかし、蒸溜水は、そう、たやすくはできない。

 島を、大いそぎで一まわりしてきた、漁業長と小笠原(おがさわら)ら、斥候(せっこう)の報告は、
「島の面積は、四千坪(約百三十二アール)ぐらいです。北の方に、一町(約百十メートル)も砂浜つづきの、小さな出島があります。出島は、三百坪(約十アール)もありましょうか。そこには、ヘヤシール(小型のアザラシ)が、三十頭ぐらい、ごろごろしていました。おどろかさないように、そばへは行きませんでした。
 流木が、二本あります。二十年ぐらいも前に難破した船の、マストらしい、アメリカ松で、縦に、たくさん干割(ひわれ)があります。正覚坊の大きいのが四頭、これは、あおむけにしてきました。ほかに、何もありません」
「ごくろう。大いそぎで、蒸溜水つくりにかかってくれ、飲む水がないと、井戸がほれない」
 蒸溜水製造は、小笠原が受け持った。

 まず、そのへんの珊瑚のかたまりと砂で、かまどをこしらえた。
 このかまどで、海水をにたてて、塩けのない真水をとるのだが、蒸溜水製造器は、石油缶(かん)を三つかさねたものだ。
 いちばん下の缶には海水をいれ、缶の上の方を切りひらいてある。
 中の缶はからで、そこにあながあけてある。
いちばん上の缶には、海水をいっぱい入れてある。
 これをかまどにかけて、下から火をたくと、いちばん下の石油缶の海水がにえたって、二階の空缶に水蒸気がたまる。その水蒸気は、三階の、海水いりの缶でひやされて、水になり、ぽたぽた落ちて、二階の缶にたまる。
 二階の缶は少しかたむけてあるので、たまった水は、水蒸気の通るあなから下の缶には落ちないで、ほうきのえでつくった、くだから外へ流れだす。それを、おわんで受けるのであった。

 蒸溜水は、たきぎがなければできない。伝馬船(てんません)で持ってきた木ぎれも、そんなにたくさんはない。そこで、斥候が見つけておいた、二本の太い流木をかついできて、たきぎにこしらえることにした。
 流木をわるにしても、斧(おの)がないので、ジャック・ナイフで板をけずって、何本も楔(くさび)をこしらえて、それを流木の干割(ひわり)にうちこんだ。すると、正目のよく通ったアメリカ松は、気もちよくわれた。
 こうして、たきぎができて、蒸溜水は、よいあんばいに、ぽたりぽたり、おわんに落ちるが、半分もたまるのを待っていられない。井戸ほりが待ちかねて、ほんのわずかのうちに、すってしまう。なかなか、ほかの者が飲むことはできない。
 しかし、井戸ほりは、この水で勇気がでて、ほりつづけ、探さ四メートルちかくの井戸をほった。
 ところが、出た水は、牛乳のようにまっ白で、塩からくて、とても飲めない。
「だめだ」
 だめだといっても、たきぎは、流木二本きりだ。蒸溜水をつくるには、たくさんのたきぎがいる。そのうえ、たきぎは、蒸溜水つくりばかりには、使えないのだ。飯もたかなければならず、おかずの煮焼(にや)きもしなければならない。小さな板きれでも、貴重品だ。
 この島に、何年住むかわからないのだ。なんでもかんでも、井戸をほらねばならぬ。
 飲める水が出るまでは、島中、蜂(はち)の巣のようにあなをあけても、井戸をほろう。しんけんである。十六人の、命にかかわる井戸だ。
「がんばろう」
 ひじょうな決心で、第二の井戸をほりはじめた。ぽたりぽたり、おわんに落ちる蒸溜水を、なめながら。
 こんどは、深さ二メートルあまりの井戸ができた。だが、この水も飲めない。まっ白くて、塩からい。井戸ほり組は、へとへとになってしまった。
 そこへ、三角筏(いかだ)を引っばって、伝馬船が、ぶじに帰ってきた。
「ごくろうだった。つかれているだろうが、さっそく、井戸ほり組と交代してくれ」
 伝馬船からあがった人たちは、すぐ、井戸をほりはじめた。日がくれるまでに、また、二メートルちかくの井戸がほれた。前の二つよりは、塩けの少ない水が出た。だが、いくらがまんしても飲み水ではない。

 一方、今夜ねる家は、見るまにできあがった。三角筏をほぐした、小さな木材を柱とし、大きな帆を屋根にはり、また、風よけにした。りっぱな天幕(テント)ができた。倉庫の天幕には、伝馬船と、筏から陸あげした食糧、その他の荷物をいれた。
 暗くなってから、一同は、天幕にあつまった。料理当番が、島にいた正覚坊の、潮煮と焼肉を出した。水がなくて、飯はたけないのだ。朝、昼、なにもたべずに、働きどおしの空腹には、「うまい」といっているひまもなく、平げてしまった。おわんに三分の一ぐらいずつ蒸溜水を飲んだあとは、急に眠くなってきた。
「あかりもないし、みんなつかれているから、今夜はゆっくりねて、あすの朝、いろいろ相談しょう。おやすみ」
「おやすみ」
「おやすみ」
 一同を、天幕のなかにねかした。はだかでくらすのを、島の規則としたのだ。ねるのに、ねまきを着たり、毛布にくるまるようなことはしない。砂の上に、ごろり横になったら、もう、いびきをかいているのだ。去年の暮に日本を出てから、はじめて、動かぬ大地にねるのだ。しかも、太平洋のまんなかの、けし粒のような、無人島の砂にねようと、だれが思ったであろう。
 天幕のそとの、暗やみのなかで、私は、榊原運転士、鈴木漁業長、井上水夫長の三人と、小声で、井戸の相談をした。
「この島では、よい清水(せいすい)は出まい。しかし、どうにかして、飲めるくらいの水がほしい。榊原君の意見はどうか」
 私がいうと、運転士は、しばらく考えていたが、
「井戸が深いと、よい水の出ないことは、三つの井戸で、わかりました。つまり、海面とすれすれになるから、塩水が出るのでしょう。浅い方が、いいのではありませんか」
 すると、漁業長が思いだしたように、
「私は、ずっと前に、水にこまって島にあがったとき、木の根のちかくをほったら、水が出たことがありました。草の根にちかいところに、わりあいいい水があるのではないでしょうか。井戸ほり組の水夫長、君はどう思う」
 水夫長も、なるほどという顔で、
「今日の三つの井戸は、だめで、めんぼくありません。あしたは、浅い井戸をいくつかほってみたら、いい水が出ると思います。水は、はじめ白いが、ほっておくと、きれいにすみます」
 そこで、私はいった。
「そうだ。井戸の深さと草のしげりかたは、たしかに、水と関係がある。草の根は、真水をすいあげているのだから、草の根にちかい、浅い井戸がいいのだろう。また、雨が降って、雨水が流れてあつまるようなところも、いいにちがいない。それから、ここは珊瑚礁だから、石灰分(せっかいぶん)が多くて、はじめは白い水だが、しまいにはすむのだ。水夫長は、あした、また井戸をほってくれ。こう話がきまったら安心した。さあねよう」
「おやすみ」
「おやすみ」
 はだかの十六人は、絶海(ぜっかい)の孤島(ことう)に、最初の夜を、ぐっすりねこんだ。


四つのきまり


 島でむかえる最初の朝、五月二十一日となった。
 起きると、からだは砂だらけ。夜具をかたづけるかわりに、せなかやおなかの、砂をはらい落すのである。顔を洗うかわりに、海に飛びこんで、からだを洗った。もちろん、手拭(てぬぐい)は使わない。
 一同は、西から少し北の方、日本をはるかにのぞみ、そして、神様のおまもりによって、ぶじに十六人が、無人島の朝をむかえたことの、お礼を申しあげた。
 それから、今日の当番をきめた。井戸ほり、蒸溜水(じょうりゅうすい)つくり、まきわり、炊事、荷物のせいとん、などである。
 井戸ほり組は、ここぞと思うところを、あさくほって、石油缶(かん)のそこにあなをあけたものをうずめ、砂をもりあげて、くずれないようにかためた。井戸の水は、石油缶のそこのあなからわきあがって、缶にたまった。その水は、考えたとおり、すこししおからいが、どうにか飲める。まあよかった。これでしのぎはつく。この水に、蒸溜水を半分まぜて、飲むことにした。
 朝飯は、正覚坊の焼肉と、潮煮。飯がすんでから、私は、一同にいった。
「島生活は、きょうからはじまるのだ。はじめがいちばんたいせつだから、しっかり約束しておきたい。
 一つ、島で手にはいるもので、くらして行く。
 二つ、できない相談をいわないこと。
 三つ、規律正しい生活をすること。
 四つ、愉快な生活を心がけること。
 さしあたって、この四つを、かたくまもろう」
 一同は、こころよくうなずいた。榊原(さかきばら)運転士が、一同を代表して、
「みんなは、きっと、この四つの約束をまもります」
 といった。それから運転士が一同にむかって、ことばをつづけた。かれは食糧がかりであった。
「三度の食事のことだが、米の飯は、常食にできない。みんなも知ってのとおり、米は、二俵しかない。できるだけ長く、食いのばすことにしなければならないから、一日に、おわんにぬれ米二はいを十六人でたべることにしたい。こうすると、来年の二月、三月ごろまでは、どうやら、米があるみこみがたつ。おかゆにもできないから、重湯をたくさんこしらえて、一日に三度飲むことにして、あとは、かめや魚で、腹をこしらえることにしたい。どうだろう。それとも、ほかに、いいちえがあるか。あったら、えんりょなくいってくれ」
 まっ先に水夫長がいった。
「運転士に、おまかせします」
 一同は、うなずいた。
「それでは、漁業長、魚とかめをたのみます」
 運転士がいうと、小笠原(おがさわら)は、漁業長の顔を見て、にっこり笑って、例のくせで腕をたたいた。
「この老人が、みんなのおなかは、すかせないよ」
 たのもしいことばだ。
 荷物のせいとん当番は、荷物の整理、衣服、毛布、索(つな)、帆布(ほぬの)などを日にほし、筏(いかだ)にした円材や板をかたづけたり、伝馬船(てんません)をよく洗って、浜にひきあげるなど、それぞれに、みんな一日中、いそがしく働いた。


心の土台


 きれいな砂の上に、みんなは、よく眠っていた。五月二十二日、無人島生活二日めの、朝早くであった。
 私は、しずかに起きあがった。そして、運転士と漁業長と、水夫長の三人を、そっと起した。四人は足音をしのばせて、天幕(テント)の外に出た。
 あかつきの空には、星がきらめき、島も海も、まだ暗い。私は、すぐに海にはいって、海水をあびて、身をきよめた。つれだった三人も、無言で、私のするとおりに海水をあびた。
 水浴がすむと、四人は深呼吸をして、西からすこし北の日本の方を向いて、神様をおがんだ。それから、島の中央に行って、四人は、草の上にあぐらをかいてすわった。
 私は、じぶんの決心をうちあけていった。
「いままでに、無人島に流れついた船の人たちに、いろいろ不幸なことが起って、そのまま島の鬼となって、死んで行ったりしたのは、たいがい、じぶんはもう、生まれ故郷には帰れない、と絶望してしまったのが、原因であった。私は、このことを心配している。いまこの島にいる人たちは、それこそ、一つぶよりの、ほんとうの海の勇士であるけれども、ひょっとして、一人でも、気がよわくなってはこまる。一人一人が、ばらばらの気もちではいけない。きょうからは、げんかくな規律のもとに、十六人が、一つのかたまりとなって、いつでも強い心で、しかも愉快に、ほんとうに男らしく、毎日毎日をはずかしくなく、くらしていかなければならない。そして、りっぱな塾か、道場にいるような気もちで、生活しなければならない。この島にいるあいだも、私は、青年たちを、しっかりとみちびいていきたいと思う。君たち三人はどう思っているかききたいので、こんなに早く起したのだ」
 運転士は、いった。
「よくわかりました。じつは私も、そう思っていたのです。これから私は、塾の監督になったつもりで、しっかりやります。島でかめや魚をたべて、ただ生きていたというだけでは、アザラシと、たいしたちがいはありません。島にいるあいだ、おたがいに、日本人として、りっぱに生きて、他日お国のためになるように、うんと勉強しましょう」
 漁業長は、
「私も、船長とおなじことを思っていました。私はこれまでに、三度もえらいめにあって、九死に一生をえています。大しけで、帆柱が折れて漂流したり、乗っていた船が衝突して、沈没したり、千島では、船が、暗礁(あんしょう)に乗りあげたりしました。そのたびに、ひどいくろうをしましたが、また、いろいろ教えられて、いい学問をしてきました。これから先、何年ここにいるか知れませんが、わかい人たちのためになるよう、一生けんめいにやりましょう」
 いちばんおしまいに水夫長は、ていねいに、一つおじぎをしてから、いった。
「私は、学問の方は、なにも知りません。しかし、いくどか、命がけのあぶないめにあって、それを、どうやらぶじに通りぬけてきました。りくつはわかりませんが、じっさいのことなら、たいがいのことはやりぬきます。生きていれば、いつかきっと、この無人島から助けられるのだと、わかい人たちが気を落さないように、どんなつらい、苦しいことがあっても、将来を楽しみに、毎日気もちよくくらすように、私が先にたって、うでとからだのつづくかぎり、やるつもりです」
 かれのいうことは、真実である。かれのふだんのおこないをよく知っている私は、まったく心を動かされた。
 私は、いまさらながら、三人のたのもしい強いことばに、心から感謝した。
 こうして、無人島生活の心の土台がきずかれて、進むべき道がきまったのだ。四人が立ちあがった時には、東の水平線が明かるくなって、海鳥が鳴きかわしつつ、島の上を飛びはじめていた。
 私は、このときから、どんなことがあっても、おこらないこと、そして、しかったり、こごとをいったりしないことにきめた。みんなが、いつでも気もちよくしているためには、こごとは、じゃまになると思ったからである。


火をつくる


 この日の午後から、蒸溜水(じょうりゅうすい)の製造をやめた。それは、蒸溜水製造には、びっくりするほどたくさんにたきぎがいるからである。前にもいったように、たきぎは、二本の流木があるだけで、それをたいせつに使わなければならないからだ。
 もう蒸溜水には、心残りのないように、かまどを、きれいさっぱり、くずしてしまった。これで一同は、しおけのある井戸水ばかりを飲むことになった。
 雨の降ったとき、雨水をためて飲むことは、もちろん工夫した。天幕(テント)の下の方を折りまげて、屋根に降った雨水が、石油の空缶(あきかん)に、流れこむようにした。そして、それから後、たびたび雨が降って、雨水をためることができた。
 雨水をためる工夫をする一方、天幕のなかへ、雨水が流れこまないように、天幕のなかいちめんに、砂をもりあげたり、まわりに水を流す溝をほったりして、すまいの天幕も、倉庫の天幕も、一日かかって、雨水よけの工事ができた。
 たきぎは、一日三度の炊事に、なくてはならないものだが、よほど節約しないと、なくなってしまう。
 そこで、たべあとの魚の骨や、かめの甲をあつめて、たきぎのかわりにもやした。大きな正覚坊の甲、一頭分は、一日の炊事に、じゅうぶんまにあった。よくかわかしてわると、油がしみていて、たいそうよくもえた。

 火をつくるマッチは、ほんの少ししかない。五年も十年も、これを使わなければならないから、まず使わずにしまっておくことにした。そして、天気のよい日は、双眼鏡のレンズで、太陽の光線をあつめて、火種をつくった。しかしこれは、くもりの日や、夜はできないから、そんな時には、なにかべつな方法を考えなければならない。
 そこで、流木で、長さ三十センチほどの、へらのようなものをつくり、その一方をとがらせた。そのとがったへらで、一メートルぐらいの長さの太い松材の中央に、十五、六センチぐらいの、くぼんだところをつくって、そこをへらで、力をいれていきおいよく、気ながに、ごしごしこすると、こまかい木の粉がでて、松材はへこんで、こげくさくなる。もっとこすると、すこし煙が出る。そのとき、いっそう強くこすってから、へらの先を、こすれて出た木の粉につきつけると、火がつく。その火を、用意しておいたかれ草の葉、または、索(つな)を毛のようにほぐしたものなどにうつして、いっそう大きな火種をつくった。
「この火種が、いつでも手ぢかにあれば、どんなに、べんりだろう」
 こう考えた漁業長と小笠原(おがさわら)老人は、いいものをこしらえた。それは灯明(とうみょう)だ。
 缶づめの空缶の上の方を、きれいに取って、砂を半分ほど入れ、正覚坊の油をつぎこむと、油は砂にしみこみ、よぶんの油は、砂の上に三センチほどたまる。その砂に、帆布をほぐした糸で作った、灯心をさしこみ、火をつけると、りっぱな灯明になった。灯明の火が、風に消されないように缶づめの入れてあった木箱で、わくをつくって、帆布の幕をさげると、行灯(あんどん)ができた。
 行灯の火を、昼も夜も消えないようにまもって、万年灯とした。そして万年灯は、ひっくりかえしたり、けとばしたりしないように、天幕のなかに、太い丸太を地面にななめにいけこんで、その先を、地面から一メートルぐらいの高さにして、ここへつるしておいた。炊事のときは、これから火種がとれるし、夜は、天幕のなかを明かるくして、みんなを喜ばせ、ほんとうに役にたった。
 つぎに、毎日三度のたべものは、はじめは、島にいた四頭の正覚坊であった。それは、三日でたべてしまった。
 それからは、魚をつった。つり針は、石油缶のとっ手になっている、太い針金をとって、先をとがらせて、まげたもの、また、缶づめの木箱の釘(くぎ)をぬいて、うまくまげてつくった。
 魚つりなら、十六人のなかには、名人がいくらもいる。ヒラガツオ、シイラ、カメアジをはじめいろいろの魚が、いくらでもつれた。
 魚の料理は、さしみが、いちばん手数がかからなくてよい。焼魚、潮煮、かめの油でいためたのもたべたが、これには、たいせつなたきぎを、使わなければならないから、たびたびはできない。
 これは、すこしあとの話になるが、魚をつりはじめてから、米をたべることは、いっそう節約をした。重湯は、一日おきにし、また二日おきにした。しまいには、魚ばかりたべてくらした。
 米を節約したのは、わけがある。それは、故国日本の人たちが、
 ――龍睡丸(りゅうすいまる)は、いつまでたっても帰ってこない。どうしたのだろう。漂流しているのか、沈没してしまったのか、行方不明になってしまった――
 こういううわさをして――それが東京の新聞にでるのは、秋の末か、冬になってからであろう。
 それから、捜索船を出してくれると考えると、来年の五、六月頃でないと、捜索船は、この島の付近にはやってこない。しかもこれは、私たちじぶんかっての考えで、故国の人たちは、われわれが無人島でくらしているとは、思わないかも知れない。
 龍睡丸は沈没して、乗っていた者は、みんな死んでしまったのだと思って、助け船など、出してはくれないかも知れないのだ。
 だから、米は、最後の食糧として、だいじにとっておかなければならない。それに、病人がでたとき、病人にたべさせるためにも、米は、できるだけ残しておきたかったからだ。


砂山つくり


 島の生活にも、やっとすこしなれた、四日め。五月二十四日の朝から、一同は、大仕事をはじめた。料理当番のほか、総員、砂運び作業にかかったのだ。これには、つぎのような、大きな目的があった。
 いったいこの島から、われわれが日本へ帰るのには、どうしたらいいだろう。
 ――われらの宝物である伝馬船(てんません)で、ホノルルの港まで行こうか――こんな小さな伝馬船で、太平洋のまんなかを、ホノルルまで、島づたいとはいいながら、千カイリもある航海は、とてもできるものではない。
 ――では、われわれで、もっと大きな、がんじょうな船をつくろうか――それには船をつくる材料も、道具もないではないか。この計画はゆめのような話だ。
 ――それでは、日本から来る助け船を、待っていようか――いや、それこそ、まったくあてにならないことだ。
 ――それなら、この近くを通りかかる船を見つけて、助けてもらったらどうだろう――これならば、運がよければ、できることだ。
 この島は、軍艦や商船が通る航路には、あたっていない。しかし、いつ、どんな船が、こないともかぎらない。その通る船を、見のがしてしまったらたいへんだ。それこそ、いつまでもいつまでも、この無人島にとじこめられてはならない。そこで、通る船を見つけるために、見はり番が立つ砂山をつくることにした。
 砂山などをつくらずに、高いやぐらを組みたてればいいことは、わかっている。しかしそれには、長い太い木材が、少くも三本はほしい。だが、その木材がないのだ。
 島は、いちばん高いところでも、海面上、四メートルぐらいである。あとは二メートルぐらいで、うっかりすると、波をかぶりそうなくらいひくい島であるから、遠くが見えない。それで、島じゅうで、いちばん高い、西の海岸の草地へ砂を運んで、砂山をつくり、見はらしがきくようにするのである。これは、われら十六人が、島からぬけ出して、日本に帰ることが、できるか、できないかの大問題であるから、全員は、熱心に砂山つくりの大工事にかかった。
 砂山つくりは、石油缶(かん)、木のバケツ、かんづめの木箱、帆布(ほぬの)と索(つな)とでつくったもっこ、これらに、シャベルで砂をいれては、高いところへ運んだのだ。
 ところがこれは、たいへんなことであった。というのは、蒸溜水(じょういりゅうすい)をやめて、しおからい、石灰分の多い井戸水ばかりを飲み出してから、十六人とも、おなかのぐあいがわるくなっていたのだ。ひどい下痢をおこして、まるで、赤痢にかかったようになってしまった。薬はなんにもないのだ。どうなることかと、たいそう心配したが、とにかく、砂山は早くつくらなければならない。みんな、元気をだして、作業にとりかかった。
 ひどい下痢にかかっているので、気ははっているが、力が出ない。一、二度運んでは、しばらく休まないと動けない。そして汗がでて、のどがかわいて、水が飲みたい。水は、やっと飲めるくらいの井戸水しかない。その井戸水で、おなかをわるくしたのだ。
 飲み水の不自由は帆船には、つきものであった。昔から船の人は、大海のまんなかで、ずいぶん水にこまって、いろいろのことをした。のどがかわいても水のないときは、着物をぬらして、皮膚から水分をすいこませたり、また小石を口にふくんだり、鉛をなめたり、とうがらしを少しずつかむと、一時は、のどのかわきがとまるといい伝えている。
 それで、われら十六人も、漁業長が、つり糸につけるおもりにしようと持ってきた、うすい鉛の板をなめては、砂を運んだ。
 仕事は、ちっともはかどらない。工事をはじめてから、二日めになった。
「ちりもつもれば山だ。いまに高い砂山ができるぞ」
「重いと、よけいにつかれるから、少しずつ運ぼう」
「車があるといいなあ」
「できない相談は、いわない約束だよ」
「しかし、引っぱると仕事はらくだな。そうだ、いいことがある」
 練習生の浅野が、正覚坊の甲をあおむけにして、索をつけ、これに砂を山もりにして、三人で引く、代用車を考えだした。
 こんなことをして、三日、四日と、こんきよく働いた。みんな、気もちのわるいおなかをさすって、うんうんうなりながらも、
「人間さまだよ、蟻(あり)にまけるな」
 と、たがいにはげまし合った。
 小笠原(おがさわら)老人は、おなかの痛さに、とうとうへたばってしまった。しかし、口だけは、あいかわらずたっしゃだ。砂にどっかり腰をおろして、手まねをしながら、しゃべっている。
「さあ、さあ、わかい連中は、砂を運んだ、運んだ。お山ができたら、そのてっぺんに、おいらが立つね。そうしていちばん先に、帆を見つけるのだ。いい声でどなる。
 帆だよう。船だあ。
 するとおまえたちが、飛び出してくる。まっ白い帆をかけた、まっ白い船が、島へちかよって、ボートをおろすね。ぐんぐん漕(こ)いでくる。おなかがへっているだろうといって、ミルクとバターとお砂糖の、うんとはいったビスケットを持ってくるね。まあ、こんなもんだ。みんな、砂運びにせいをだせよ」
 一同は、思わず笑顔になる。一人が、
「おやじさん、へたばったのか」
 というと、
「なによ、わかい連中に、まけるものか、うんとこしょ」
 小笠原は、砂を入れた石油缶をかかえたが、持ちあがらない。しりもちをついて、赤いもじゃもじゃひげは、砂だらけ。みんな、おなかをかかえて大笑いをする。笑うと、つかれがぬける。こうして、苦しい砂運びを、愉快につづけるのであった。
 私は、先にたって、砂を運びつづけた。五日めには、腹ぐあいが、とてもわるくて、はげしく痛みだした。すこし休んだらよくなるかと、作業場をはなれて、天幕(テント)にはいったが、みんな苦しい思いをして働いているのに、じぶん一人、ごろり横にもなれない。しかたなく、万年灯(まんねんとう)をつりさげてある丸太に、腰をかけた。
 ここから、砂運びをする人たちの、働くすがたを見ていると、みんな病人で、ゆるやかに動いている。しかし、それは、大洋の波が、ゆるやかではあるが一つの方向に、はてしもない強い力でどこまでも進んで行く、あの偉大なすがたとおなじような感じが、せまってくる。それは「力」だ。なんでもやりとげるまでは、おし進む、あたってくだくか、くだけるか、そこしれぬ力だ。砂運びをする人たちは、砂山つくりの目的に、身も心もうちこんで、全員一かたまりとなって、下痢や腹痛に苦しみながら、たださかんな精神力だけで、動作はゆっくりだが、たゆまずに進んでいるのだ。これが、日本の海の勇士の、すがたなのだ。なんというりっぱなすがただ。しぜんに頭がさがる。
 だが、日ざかりの強い日光は、はだかの全身をじりじりとてりつけて、病人からあぶら汗をしぼりださせ、白い珊瑚(さんご)の砂に反射する日光は、きらきらと目をいるのだ。日かげの天幕のなかでさえ、この大自然の熱い熱い息が、ふうっと、砂からふきあがって、私をつつむような気がする。いや、ほんとうに熱い。熱い息が、私の下腹にふきかかってくる。
 私は、ふと下を見た。そして、おや、と思った。熱い息をだしているのは、腰の下の丸太にぶらさがっている、万年灯であった。
 小さな灯明(とうみょう)ではあるが、熱がある。その熱に、四日も五日も、少しずつあたためつづけられて、行灯(あんどん)の上の方と丸太が、あつくなっているのだ。下腹が、だんだんあたたまって、気もちがいいこと。そう思っているうちに、いつのまにか、腹痛が、消えるようになくなっていたではないか。これは大発見である。私は、すっかりうれしくなって、立ちあがって、作業場へ行った。
「腹のひどくいたい者は、万年灯のつるしぼうに、腰かけてみろ」
 そういう私のことばの意味を、ときかねて、へんな顔をしている者もあった。
 しかし、それからは、腹の痛い者は、じゅんじゅんに、万年灯をつるした丸太に、腰をかけたり、またがったりして、腹をあたためて療治した。この万年灯病院にかかってからは、みんなの下痢もとまり、もとどおりがんじょうなからだになった。しおからい井戸水と、魚とかめの常食にも、なれたのであろうけれども。


見はり番


 砂運びは、朝から晩まで、八日間つづけた。骨折りがいがあって、五月三十一日の夕暮には、海抜四メートルの砂地の上に、さらに、四メートルの砂山ができた。
 この、海抜八メートルとなった砂山をながめて、一同まんぞくだった。病人が、全力をつくして、きずいた山である。
 夕食のとき、砂山ができたとくべつ慰労のために、天幕(テント)の糧食庫から、果物のかんづめ二個を出してあけた。みんなは、おしいただいて、あまい果物を一口ずつたべた。
 私は、練習生と会員に、質問した。
「みんなの骨折りで、海面上、二十五フィートの砂山ができた。この上に立つ人の目の高さを、地面から五フィートとして、ぜんたいで、三十フィート(九・一メートル)の高さとなるが、水平線は、何カイリまで見えるか」
 このことは、だいぶ前に、学科で教えてあったのだ。
「答は、砂に、指で書いておけ」
 みんな、それぞれ、砂の上に計算をはじめた。
「秋田練習生、何カイリか」
「約六カイリであります。海面からの目の高さまでをフィートではかり、これを平方に開いて出た数が、おおよその見える距離のカイリ数をあらわします。これに、一・一五をかけると、いっそう正確な数となります」
「よろしい。それでは、会員の川口。海面から、高さ四十フィート(一二・二メートル)の船の帆は、この砂山から、どのくらい遠くで見えるか」
「はい。四十フィートですと、約七カイリの距離まで見えますから、これに約六カイリを加えて、十三カイリの距離から見えます」
「よろしい。みんなも、今きいているとおり、この砂山に立つと、六カイリの水平線が見えるのだ。船のマストや帆は高いから、もっと遠い、水平線の向こうにあるのも見えるのだ。じゅうぶんに注意して、見はってくれ。夜は、船の灯火(とうか)を見はるのだ。しっかりたのむぞ」
 私がいいおわったとたんに、
「船長。見はりは、今晩からはじまると思いますが、最初の見はり番は、この老人が立ちます。おい、みんな、初の見はりはおいらだよ」
 と、小笠原(おがさわら)が、万年灯の光に、ぼんやりとてらされている一座のまんなかから、いきおいよく名のりをあげて、立ちあがった。
「いや、ぼくが立ちます」
「ぼくです」
 二人の練習生がいうと、わかい連中も、だまっていない。
「老人は、つかれているからむりだ。わしが立つ」
「夜は、目のいいわかい者の方がいい。見はりは、水夫が引き受けた」
 十六人のなかで、いちばんせいが高くて、声の大きい名物男、姓は川口、名は雷蔵(らいぞう)という会員が、
「せいの高い私が、いちばんいい。いちばん遠くが見えるりくつだ。これできまった。私が見はり番だ」
 その名のとおりの、雷声(かみなりごえ)でどなった。
 すると小笠原は、しずかに、
「年よりのいうことをきくものだ。今夜は、おいらがいいのだ。そのわけは、船長が知ってござる。とうぶんは、おいらが夜の見はり番だ。わかい者は、昼間、力仕事がある。夜はよく眠ることだ」
 みんなを、さとすようにいうのであった。
 小笠原のいうとおりだ。夜の見はりは、よほど考えなければならない。たった一人で、あてもない暗い夜の海を見はっているのだ。つい、いろいろのことを考えだして、気がよわくなってしまう心配がある。とうぶんのあいだは、老巧な小笠原と、水夫長と、たびたび難船している、漁夫の小川と杉田がいい。この四人を、夜の当番にきめよう。私は、腹をきめた。
「夜の見はり番は、年のじゅんにきめる。今夜は、小笠原と水夫長に、交代で立ってもらうことにする。それでは小笠原、このめがねを」
 と、私は、天幕の柱にかけてあった、双眼鏡を取って手わたした。双眼鏡を受け取って、首にかけた小笠原は、大まんぞくのように、にこにこして、天幕を出かけたが、みんなの方をふり向いて、
「みんな、安心しておやすみ」
 といって、右手をあげてあいさつして、砂山の方へ、出かけていった。そのすがたは、まるで、昔のギリシャの彫刻の、海の神の像のように、どうどうと、たくましいものであった。
「今夜は、つかれているから、みんなもう、おやすみ」
 私の一言に、全員は立ちあがった。
 炊事のあとしまつも、天幕のせいとんもすんで、一同は横になると、一日の労働のつかれで、なにを考えるまもなく、すぐ、ぐっすり眠ってしまうのであった。

 私は、倉庫の天幕から、一枚の帆布と、一本の細い索(つな)を持ってきた。そして、運転士と漁業長とをつれて、天幕のまわりと、伝馬船(てんません)を見まわってから、砂山にのぼった。
 細い金のかまのような月がでて、海もなぎさも、ものかなしげに光っている。小笠原は、もじゃもじゃひげを風にふかせながら、のしのしと、しっかりした足どりで、砂山の上を、あっちこっち歩いて見はりをしていた。かわいそうに、かれはまだ、おなかのぐあいがよくないのだ。私は、
「小笠原、今夜はありがとう。よくいってくれた。よく見はりに立ってくれた。わかい者たちのためを思ってくれたことは、私には、よくわかっている。これからも、たのむよ」
 こういって、かれの肩をたたいた。
「経験のある者だけに、わかることです。船長に、そんなにいっていただいて、うれしいです」
 かれは、右手をあげて、空を指さしつつ、
「あの細い月がわかい者にはどくです。あの月を見ているうちに、急に心細くなって、懐郷病(国のことを思って、たまらなくなる病気)にとりつかれますから」
「そのとおりだ。それよりも、おまえには、夜の風がどくだ。まだ腹もよくないようだね。夜の見はり当番ちゅうだけ、これを腹にまいておくといい」
 私は、帆布と細い索を、さし出した。
「この老人を、それほどまでに……ありがたいことです」
 かれの目には、細い月の光をうけて、星のように、ちらっとつゆが光った。


見はりやぐら


 翌朝(よくちょう)、しらしらあけであった。夜中から、小笠原(おがさわら)と交代して、見はり当番をしていた水夫長が、天幕(テント)に飛びこんできた。
「船長。たいへんな流木(りゅうぼく)です」
 浜に、たくさんの材木が、流れついたというのだ。
「みんなを起せ」
 私がいうと、水夫長は、大声でどなった。
「総員、流木をひろえ」
「それ」
 一同は、飛び起きて、浜べに走った。なるほど、いちめんの流木だ。大小の丸太、角材、板、空樽(あきだる)などが、夜のまに流れついていた。これは、われらの龍睡丸(りゅうすいまる)が、くだけて、ばらばらになって、乗りあげた暗礁(あんしょう)から、流されてきたのだ。みんな、かなしい、なつかしい気もちになって、小さな板きれまで、すっかりひろいあつめた。
 なかに、太い円材が、二本あった。龍睡丸の帆桁(ほげた)である。これはいいものが流れついたと、一同はよろこんだ。これと、三角筏(いかだ)の一骨にした円材と、三本の長い円材を、すぐ砂山に運んで、砂山のうえに、見はりやぐらを立てる作業をはじめた。
 大きな円材など、重たい長いものを、船では、ふだん取りあつかっているが、それには大きな滑車や、太いながい索(つな)や、いろいろの道具を使って動かすのである。いまわれわれは、そんな道具を何ももっていない。しかし、運転士と水夫長とは、この方面にかけては、それこそ、日本一のうでまえがあるのだ。いろいろと工夫して、三日がかりで、りっぱな三本足のやぐらを、砂山の頂上に立てた。
 まず、砂の上に、三本の円材を立て、そのてっぺんを三本いっしょに、しっかりと、じょうぶな索でしばった。そして、その少し下に、横木をしばりつけ、この横木に、板と丸太を渡して、見はり番の立つところをつくった。のぼりおりの階段には、横木をしばりつけた。
 やぐらの高さ、四メートル半、砂山の高さと合わせて、海面上からは、十二メートル半である。この頂上に、昼夜、見はり番が立って、通る船は見のがすものかと、ぐるりと島を取りまく、半径七カイリ半の水平線を、一心こめて見はるのであった。

 さて、やぐらから、通りかかった船を見つけても、船の方では、無人島に、十六人が住まっているとは思うまい。そのまま行ってしまうにちがいない。そこで、船を見つけたら、信号をしなければならない。
 こういう場合に、
 ――ここに人がいる。助けてくれ――
 という信号は、煙をあげ、火を見せることで、この信号は、世界中、どこの国の船員にもわかるのである。
 やぐらができると、さっそく、かがり火をたく支度をした。やぐらの下の砂山の上に、魚の骨、かめの甲、かれ草、板きれなどを、三ヵ所につみあげ、雨にぬれないように、帆布をかけた。そしてかめの油を入れた石油缶(かん)を手ぢかにおいて、いざという時、万年灯から火種をとって、大かがり火をたき油をかけて、どんどん、煙と火をあげようと、待ちかまえた。
 こうして、見はりをおこたらなかったが、その間には、雲のかけら、海鳥の飛ぶすがたも、船かと思ったり、また、夜ともなれば、
「あ、船のあかり」
 と、星の光に、胸をおどらせたことも、たびたびであった。
 島を中心とした、まんまるな水平線に、ただ目をこらして、通りかかる船を、一日千秋の思いで待った。だが、船はいつ通ることか。一ヵ月後か、一年後か、あるいは…… しかし、いつかは、きっと通るにちがいない。


魚の網


 毎日のたべものをこしらえる料理当番も、なかなかの大仕事であった。たきぎを節約して、魚をつって、十六人分の三度の食事の支度をするのである。
 六月のはじめから、魚がつれなくなった。みんな、すき腹をかかえる日もあった。
「網がほしい」
 と、漁業長がいいだした。そこで、さっそく、網を設計した。大きさは、長さ三十六メートル、高さ二メートル。
「網をすく糸は、帆布をほぐしてとった糸に、よりをかけよう。網につけるうきは、木をけずって焼いたもの。おもりは、流木についていた、大きな釘(くぎ)や金物を使い、たりないところは、タカセ貝をつけよう」
 というのである。すぐにはじめることになって、手わけをして、作業にかかった。
 せっせと帆布をほぐす者。ほぐした糸に、よりをかける者。板をけずって、網すき針をつくる者。ずんずん支度ができた。四人の会員は、網をすいた経験があるので、網すき専門にかかって、朝から晩まで、毎日手を動かして、十四日間で、とうとうりっぱな網ができあがった。
 さあ、まちかねた網だ。さっそく、伝馬船(てんません)に網をつんで、海上で働く者、なぎさで働く者、と、持場をきめて、総がかりで、網をたてた。すると、どうだ。とれたとれた、網いっぱいの魚で、どうにもならない。みんなは、長いぼうで、網から魚を追い出すのに、大骨折りをした。われわれは、これから先、いつまでも魚をたべて、生きて行かなければならない。それで、必要なだけの魚をとって、あとはにがした。
 これで、網さえあれば、とうぶん、食糧はじゅうぶんである。しかし、みんなは、いくら魚がとれても、腹いっぱいたべるくせをつけないように、腹八分にたべることを、申し合わせた。それは、冬になって、しけがつづいたり、魚がいなくなる季節がきて、網でも魚がとれなくなるかも知れない。その時の、食糧節約になれるよう、腹をならしておくためであった。
 料理当番は、食器の心配もしなければならなかった。お皿には、クロチョウ貝を、おわんにはタカセ貝、お鍋(なべ)には、シャコ貝を使った。


海鳥の季節


 島には、一日一日と、海鳥が多くなった。
 海鳥があつまる季節が、やってきたのだ。ついに、島いちめんの鳥になって、それが卵を生みはじめた。
 あひるくらいの大きさの、オサ鳥をはじめ、軍艦鳥(ぐんかんちょう)、アジサシ、頭の白いウミガラス、それから、アホウドリなどが、二メートル四方に、六、七十も卵を生むので、まるで島は、卵を敷石のかわりにしいたようになった。
 鳥は、せまい島の草原や、白い砂の上に、同種類ずつ集まって、けっして、入りまじってはいないのだ。鳥で色わけができていて、それは、国別に色をつけた、地図のようであった。
 卵は、むろん食糧にした。ゆで卵にしたり、また、シャベルにかめの油をたらして、火にかけ、シャベルをフライパンの代用にして、魚肉入りのオムレツをつくるなど、料理当番は、かわるがわるうでをふるって、毎日、卵ばかりごちそうした。

 この鳥の群を見ていると、おもしろい。
 軍艦鳥は、じぶんでえさの魚をとらずに、オサ鳥が海上を飛びまわって、さんざん働いて、うんと魚をのんだころを見さだめて、ふいに飛びかかって攻撃し、ひどくいじめて、のんだ魚をはき出させて、横取りしてしまうのだ。
 軍艦鳥は、鳥の追いはぎだ。
 しかし、われわれもときどき、軍艦島のまねをした。腹いっぱい魚をのんで、海岸にぼんやりしているオサ鳥を、ふいに、大声でどなったり、ぼうで地面をたたいておどかして、四、五ひきの魚をはき出させ、それをひろって、つりのえさにしたこともあった。
 アホウドリは、とても大食いな鳥だ。胃も食道もいっぱいになっても、まだ魚をのんで、大きな魚を半分、口からだらりとぶらさげて、胃のなかの魚の消化するのを待っていることがある。こんなときは、おなかがいっぱいで、よく飛べないらしい。ぼんやり、海にうかんでいるすがたは、まったくのアホウドリだ。
 ゆだんのできないのは、ウミガラスで、じつによく、ふんをする鳥だ。白い頭、目のまわりも、めがねをかけたように白。尾は黒く、全身は、鉄ねずみ色である。それがむらがって飛んでいるので、飛んでいる下は、ふんの雨が降ってくる。天幕(テント)のそとに出ると、われわれのまっ黒に日にやけた全身は、ウミガラスに、ふんの白がすりをつけられてしまう。

 鳥の卵は、じつにおびただしい数で、いくら注意して歩いても、きっと、いくつかの卵をふみつぶすくらいだ。それが、何万というひなどりになったときの、さわぎと、やかましさ。夜が明けるやいなや、日のくれるまで、たえまもなく、親鳥が、かあかあ、げえげえ、ひなどりがぴいぴい、まったく、たいへんなやかましさである。だが、毎日卵をたべさせてくれる鳥だ。われわれは、鳥をいじめはしなかった。
 アジサシのひなは、まだ、羽が生えそろわないのに、よちよち歩いて、ぴいぴい鳴きながら、波うちぎわに、たくさんむらがって、親鳥が、海から魚をくわえて帰ってくるのを、待ちわびている。沖から飛んで帰った親鳥は、まちがいなく、わが子をさがし出して、えさをやっている。まっ黒なはだかの、たくましい男たちが、うで組みをして、じっとこの親子の鳥を見ていた。
 漁業長は、
「おい、親のありがたいことが、わかったろう。これからは、いっそうからだをだいじにして、国に帰ったら、うんと親孝行をしろよ」
 といった。

 鳥が人を攻撃する。といっては、少し大げさだが、夕方、一日の作業を終って、さて一風呂(ふろ)と、太平洋という、大きな自然の風呂にひたっていると、海鳥が、頭をつっつきに来て、あぶない。とがったくちばしで、ずぶり、やられてはたいへんだ。この大風呂にはいっている間、足の方はふかの用心、頭は海鳥の用心をしなければならなかった。
 海鳥は、海面にういているものは、なんでも、たべられると思うらしい。航海中、海に落ちた水夫が、たちまち、アホウドリの襲撃をうけて、ボートが助けに行くまでに、あの大きなとがったくちばしで、頭にあなをあけられたり、殺されたりした話もある。
 海鳥の肉は、たべなかった。ぜいたくをいうようだが、正覚坊のおいしい肉をたべつけていては、海鳥の肉は、まずくてたべられないのだ。
 海鳥のひなは、卵から出ると、おしりに卵の穀をつけたまま、すぐに歩く練習をはじめ、少し歩けるようになると、ろくに羽ものびないのに、もう飛ぶ練習をはじめ、なぎさでおよぐけいこする。こうしてずんずん大きくなって、やがて親鳥といっしょに、島から飛びさって行くのだ。
 こうして、島の鳥は、毎日だんだん少なくなって、いつのまにか、またもとのように、数百羽の鳥だけが島にすむようになった。


海がめの牧場


 鳥の大群が、島から飛びさったら、まもなく、海がめが、卵を生みに島にやってきた。
 七月になると、海がめが、ぼつぼつ、島へあがってくるようになった。つかまえたかめを、すぐに食べてしまうのは、もったいない。そこで、漁業長に、
「今から、冬の食糧の支度に、正覚坊を飼うことを研究してくれ」
 と、いっておいた。
 そこで、島へあがってきた、五頭の正覚坊をとらえて、大きな井戸に入れて、飼うことにした。この井戸は、われわれが島へあがった第一日めに、一生けんめいほったもので、まだそのまま、ほりっぱなしにしてあったのだ。
 結果がよかったら、かめを飼うための、大池をほるつもりでいたが、翌日見たら、五頭とも死んでいた。きっと、石灰質のたまり水に、中毒したのであろう。これで、かめの生洲(いけす)は、だめなことがわかった。
「それでは、正覚坊の牧場をこしらえよう」
 ということになった。
 海岸に棒杭(ぼうぐい)をうちこんで、じょうぶな長い索(つな)で、正覚坊の足をしっかりしばって、その索を棒杭に結びつけておいた。
 かめは、索の長さだけ、自由におよぎまわって、かってにえさをたべ、時には砂浜にはいあがって、甲羅をほしている。毎日見まわっては、索のすれをしらべ、索がすり切れて、にげて行かないようにした。また前足と、後足としばるところも、ときどきとりかえてしばった。
 そして、前につかまえたかめから、じゅんじゅんにならべて、棒杭につないだが、
 ついに、三十何頭かになって、すばらしいかめの大牧場が、二ヵ所もできた。そして、「かめの当番」をきめた。これは、毎日かめの牧場を見まわり、かめの世話をする、かめの監督さんだ。かめをとらえてから日数の多くなったもの、すなわち、古いものから、たべることにした。

 海がめの産卵がはじまってから、練習生と会員は、漁業長の指導で、これについての研究をはじめた。
 かめは産卵のため、夜、島にはいあがる。そして、砂地を後足で、ていねいにほって、そこに、正覚坊は、一頭が、九十から百七十個ぐらいの卵を生み落し、その上によく砂をかけて、海へ帰って行く。タイマイは、一頭で、百三十から二百五十個ぐらいの卵を生むことが、わかった。
 かめは卵を生みつけてから、ていねいに砂をかけておくけれども、足あとを砂の上にはっきり残しておくので、卵のある場所は、われわれには、たやすく見つかった。
 さて、かめが卵を生みつけた砂の表面は、日中はよく陽(ひ)があたって、砂の中は、ほどよい温度度をたもっているので、卵があたためられて、かえるのである。こうして、三十五日すると、しぜんに孵化(ふか)した、さかずきぐらいの大きさの赤ん坊がめが、くもの子を散らすように、ぞろぞろ砂からはいだして海へ海へとはって行くのだ。
 正覚坊の卵は、うまい。鶏卵より小さくて、丸く、灰白色の殻はやわらかで、中にはきみとしろみがある。そして、いくらゆでても、しろみがかたまらない。
 タイマイの卵も、うまい。しかし、その肉はにおいがあって、食用にならない。そしてこのかめは正覚坊よりは元気があって、よくかみついた。
 正覚坊のことを、一名アオウミガメというのは、暗緑色で、暗黄色の斑点(はんてん)があるからで、大きさも、形もよくにた海がめにアカウミガメというのがある。これは、からだが、うすい代赭色(たいしゃいろ)で、甲は褐色であるからだ。アカウミガメの肉は、においがあって、食用にならない。肉ににおいのあるかめは肉食をして、魚をたべているかめで、正覚坊は海藻(かいそう)をたべているから、においがないのだ。

 われわれは、魚とかめが常食で、卵がごちそうであるが、残念ながら野菜がない。
「青いものがたべたい」
 と、だれもが思った。
 そこで、島に生えている草を、よくしらべてみると、四種類あることがわかった。
 その中の一つは、葉をかんでみたら、ぴりっと辛かった。根をほってかむと、まるでワサビのようであった。
「これは、いいものを見つけた」
 と、それからは、この島ワサビをほって、さしみにそえて、たくさん使った。気のせいか、島ワサビをたべはじめてから、おなかのぐあいもいいようだった。
 おなかのぐあいといえば、鳥の卵と、かめの卵ばかりを、毎日たべつづけたとき、十六人とも、大便がとまってしまった。これには、まったくこまった。下剤がほしいが、そんなことをいったって、薬があるはずがない。しかしどうにもしかたがなくなったとき、目の前に無尽蔵(むじんぞう)にある海水を、おわんに半分ぐらい飲んだ。ずいぶんらんぼうなことだが、そうするとおなかがぐうっと鳴りだして、すぐおつうじがある。まったくの荒療治で、これでは、からだがよわるばかりで、くりかえしては、健康のためによくない。そこで、卵ばかりたべずに、かめや魚をとりまぜた献立を、料理当番に命令した。


アザラシ


 島には、小さな半島があって、そこに、ヘヤシールという、小型のアザラシのいたことは、前に話したが、それについて私は、
「アザラシのところへは、だれも行くな。アザラシに、人間をこわがらせてはいけない。大病人のでたとき、アザラシの胆(きも)を取って、薬にすることもあろう。また、冬になって、アザラシの毛皮をわれわれの着物にすることもあろう。いよいよ食物にこまったら、その肉をたべよう。それには、いざという時、すぐにつかまえなくてはなんの役にもたたない。われわれは、小銃ひとつないのだ。手どりにしなければならないから、かれらに人間をこわがらせないように、だれもアザラシの近くに行くな」
 と、みんなに、かたくいいわたしておいた。
 ところが、十六人の中に、とても動物ずきな漁夫がいた。それは、国後(くなしり)である。かれは少年時代から、犬ねこはもとより、野の小鳥までもならした。口ぶえでよぶと、野の小鳥が、かれの肩にとまったというのだ。かれが漁夫見習となって、漁船に乗って、カムチャッカに行ったとき、アザラシの子をつかまえて、よくならしたことがあった。この島でも、アジサシのひなが、かれにはよくなついた。
 半島に、二、三十頭、いつでもごろごろしているアザラシを目の前に見て、動物ずきのかれは、じっとしていられなかった。船長の命令は、やぶることができない。しかし、いく日も、がまんにがまんしたあげく、かれは三日月の夜、つった魚をおみやげに持って、一人こっそり、天幕(テント)をぬけ出して、アザラシに近よって行った。まだ人間を知らない、毛皮の着物をきた動物は、はだかの人間と、すぐになかよしになった。
 それからは、夜中や、朝早く、少しの時間、かれとアザラシはいっしょにいた。かれが、この海の友だちの、のどやおなかをなでてやると、アザラシはあまえて、はなをならして、気もちよさそうに眠るくらいになった。
 ところが、帰化人の範多(はんた)も、前にラッコ船に乗っていたとき、アザラシの子を飼ったことがあって、かれも、こっそり、アザラシと親友になっていた。
 ある晩、アザラシ半島で、思いがけなくも、国後と範多とは、ばったり出あった。
「びっくりしたよ。なんだ、国後か」
「わしもおどろいたよ。範多か」
 こうして、アザラシならしの名人二人は、アザラシと友だちになった喜びを、ひみつにしておけなかった。二人は、人間の友だちを、一人つれ、二人つれて行っては、アザラシに紹介した。このことを運転士が知ったときは、水夫や漁夫たちは、たいていアザラシの友だちであった。
「アザラシに近よるな」
 これは、船長の命令である。結果はよかったにしても、アザラシに近づいたのは、たしかに、命令にそむいたのだ。
「規律をまもれ」
 これは、島の精神だ。
「アザラシとなかよしになったことが、とうとう、運転士さんに知れたらしい」
「どうしよう――こまったなあ……」
 アザラシの親友の、国後と範多は、ひたいをよせて、ささやきあった。
「あやまろう。それよりはかにしかたがない――」
 アザラシならしの代表国後は、おそるおそる運転士の前にでた。かれは、かしこまって、うつむいて、ぼそぼそとつかえながらいった。
「船長の命令にそむいて、アザラシのところへ、いちばんはじめに行ったのは、私です。すまないことをしました――ごめんなさい」
 運転士は、国後が、すっかりしおれているすがたに、まっ正直な心が、あふれているのを見た。
「こまったことをしたな。規律はよくまもるんだぞ。こんどのことは、私から船長へ、よくお話ししておこう」
「へい……すみません。お願い申します」
「これからは、気をつけるのだぞ。だが、せっかく友だちになったのだ。アザラシとは、いつまでもなかよくしろよ」
「へえ、ありがとうございます」
 国後につづいて、範多も運転士の前にでて、あやまった。
 こうして、ひや汗を流してあやまったあと、国後と範多は、はればれした顔色で、毛皮の友だちのいる、アザラシ半島をながめた。


宝島探検


 炊事用のたきぎのたくわえが、日ごとに少なくなるのが目立って、たいそう心細くなってきた。使いつくしたらどうしよう。魚の骨や、かめの甲の代用では、とてもまにあわない。
 島から西の方に、べつの島のあることを、私は前に海図を見て、おぼえていた。それでみんなにそのことを話して、
「その島を、探検しょう」
 といった。探検ときくと、一同、われもわれもと、行きたい者ばかりだ。
 そこで、運転士と水夫長とにるすをたのんで、私と漁業長とは、櫓(ろ)を漕(こ)ぐことの達者な者四人をえらんで、探検に行くことにした。用意は、いちばんたいせつな飲料水として、雨水を石油缶(かん)に一缶。井戸ほり道具、宝物のようなマッチの小箱一個、まんいちの食糧として、缶づめ数個、つり道具。これを伝馬船(てんません)につみこんで、六月二十日の朝、天気のよいのを見きわめて、いよいよ出発した。見送る者も出かける者も、真心をこめたあいさつがかわされた。
 小さな伝馬船で、海図も羅針儀も持たずに、おおよその見当をつけて、なんの目標もない、太平洋のまんなかへ乗りだして行くのだ。こういう場合、羅針儀はなくても、正確な時刻と、太陽の位置がわかれば、おおよその方角はわかる。しかし今は、時計もないのだから、おおよその時刻と、太陽の位置によって、方角をきめ、頭の中にえがく海図とてらしあわせて進むのだ。
 めざす島は、ひくい小さな砂の島だ。三キロメートルもはなれたら、見えはしない。少し方角がそれたら、島はもう見つかるまい。広い広い水の世界から、細い針でついたほどの小さな島を、さがし出そうとするのだ。らんぼうだと思えるだろう。じっさい、こういう航海は、ただ考える力と胆力にたよる、いちばんむずかしい航海術なのだ。しかし、海の上で経験をつんだ、きもったまの太い日本海員は、こういう探検に出かけるとき、どんなことがあっても、きっと島をさがし出す、という強い信念をもって出発するのだ。
 われらは、西だと思う方へ、海流にさからって櫓を漕いだ。二時間も漕いだ。龍睡丸(りゅうすいまる)が難破した岩のところを通りこして、ずんずん進んだ。それから先ははてもない、ただ水と空。伝馬船は、強いむかい潮を正面から受けて、およぐように進んで行った。だが、島はさっばり見えない。
 龍睡丸が難破した岩から、三時間ぐらいも漕いだ。太陽は頭の上にある。正午だ。それからまた二時間。午後二時ごろだ、しかし、まだ島は見えない。
 みんな前の方の水平線を見つめている。からだじゅうの神経が、目ばかりに集まったように、いっしんに見ている。
「もう見えそうなものだ」
 などと、めめしいことはだれもいわない。きっと島が見つかるような顔をして、みんなへいきでいる。なんというたのもしい人たちだろう。私は、みんなをなぐさめるつもりでいった。
「おそくなったら、今夜は見つけた島へとまって、明日(あした)帰ろう」
 すると漁業長が、
「まだ、島は見えないのですから、夜通し漕がなければならないかも知れません」
 水夫の一人が、
「明日の朝までには、島は見えるでしょう」
 この男たちは、今夜一晩中、西へ漕ぐつもりらしい。まったくの海の男だ。しかし、この大洋のまんなかで、日がくれてしまったらたいへんだ。新しい島を見つけるどころか、われらの島へ帰ることもできなくなるだろう。
 だが、日がくれれば星が出る。北極星(ほっきょくせい)は、真北にあるのだから、北極星を見て、方向をたしかめることができるけれども。
 私は、立ちあがって、ぐるりと見まわした。やはり、まるい水平線ばかりで、島らしいものの、かげもない。
 なおも漕ぎつづけて、とうとう午後三時頃になった。
「見えましたっ」
 とてつもない大声で、会員の川口がどなった。
 なるほど、指さす水平線に、ちょんぼり、針の先でついたほどの黒点が見える。まさしく島にちがいない。しめた。これさえつかまえたら、島はもうわれらのものだ。川口はいちばん背が高いので、だれよりも早く、島を発見することができたのだ。
 島に近よると、大きさは、われわれの住んでいる島の、二倍はあろうか。ひくい島で、草やつる草はしげっているが、木は一本もない。海鳥がたくさんいる。
 島にあがってみておどろいた。たいへんな流木だ。島のまわりいちめんにうちあがっていて、その間に正覚坊が、ごろごろしているではないか。
「これはいい島だ」
「宝の島ですよ」
「よし、宝島と名をつけよう」
 私は、宝島と名をつけた。宝島は、できてから、まだ新しいのだろう。表面に砂や土が少ない。
 さっそく、井戸をほりはじめたが、かたい珊瑚質(さんごしつ)の地面で、飲料水の出る見こみはない。そのうえ、島を横切って、川のように海水が流れ通っているのだ。井戸ほりをやめて、流木とかめとを伝馬船につみこんだ。
 漁業長は、魚がたくさんいるといって喜んだ。たちまち大きな魚を六、七ひきつりあげて、流木のたき火で焼いた。夕食の支度だ。
 流木は、よほど古い時代の、日本船のこわれた杉材や、西洋帆船の太い帆柱をはじめ、たくさんの船材で、これからさき、二ヵ年ぐらいのたきものはある。まるで、たきぎと海がめの、倉庫のような島だ。
 流木をしらべていると、その中に、うすい鋼板をはりつけた、船底板があった。これはいいものを見つけた。すぐ、伝馬船につませた。
 日がしずまないうちにと、大いそぎで島を一とおりしらべてから、魚の焼いたので、夕食をすませた。時間はまだ日ぐれまでには、一時間ぐらいはあった。すぐに出発すれば、夜中までには、われらの島へ帰れる見こみはある。私は立ちあがった。
「さあ、いそいで帰って、みんなを喜ばせよう」
「それ。出船だ。つれ潮だぞ」
 つれ潮というのは、潮が船の進む方向に流れることで、つれ潮に乗ると、船は潮に送られて、速力が出るのだ。
「がんばって漕ごう」
 大きな正覚坊六頭と、たきぎを船いっぱいに積んで船足の重い伝馬船は、東へむかって、帰りの航海についた。くたびれてはいるが、宝島の発見で、元気が出て、櫓拍子も勇ましく漕ぎ進んだ。
 夕ぐれとなって、太陽が水平線にしずむと、西の空にうかぶ雲は、レモン色の美しさ、それが煉瓦色(れんがいろ)になり、やがて紅色に、だんだんと鉄色の夕やみになってしまった。西の空も水平線も黒くなると、星が青く赤く、鏡の海にかげをうつしはじめた。水平線に近く、ひくいところに光る北極星をめあてに東に方角をきめて、漕ぎつづけた。この星をたよりに、われらの小さな島を、夜の海に、さがさなくてはならないのだ。

 そのころ、島に居残っていた人たちは、心配しはじめた。日がくれても、探検船は帰って来ない。探検船には、海図も羅針儀もない。だいじょうぶ、たしかに帰ってくるとは思うが、ちょっとでも方角がそれたら、この島を通りこしてしまうかもしれない。そうしたらたいへんだ。それにしても、西の島は見つかったろうか。ある者は、見はりの砂山にのぼり、やぐらにのぼり、また海岸に立って、星空の下の、まっ暗な水平線を、瞳(ひとみ)をこらして心配そうに、何か見えはしないかと、見つめていた。
 しかし、探検船は、帰ってくるけはいもない。時は、ずんずんたっていく。
「火をたけ」
 運転士の号令だ。一同は、さっと緊張した。ばらばらっと、砂山にかけあがり、たちまち、大かがり火をたきはじめた。
 二時間も三時間も、たきつづけた。たきぎがありったけもやそう。かめの甲、魚の骨、かれ草、油、これもありったけもやしつづけよう。見はりやぐらにのぼった者も、海岸に立った者も、やみをすかして、黒い海を見つめるのであった。今にも船が帰って来るかと、いや、どうぞ帰って来ますようにと、心に念じ、全身を目にして……

 一方、われらの伝馬船では、ゆくてのやみの水平線に、かすかな火(ほ)さきを見つけた。
「島で、火を見せている」
「みんな、待っているぞ」
「みやげものに、たまげるぞ」
 たいせつなたきものを使って、火をあげているのを見ては、櫓を漕ぐのにも、しぜんと力がはいる。それに追潮だ。船足ははやい。伝馬船のへさきは、火の方に向いていたから、そのままうんと漕いだ。
 島のみんなの心配のうちに、とうとう午後十時すぎごろになった。
「おお、伝馬船が」
 浜に立っていた漁夫の一人が、大声にさけんで、飛びあがった。
「おうい」
 島に居残った一同は、声をあわせてさけんだ。
 と、海から、
「おうい」
 と、かすかな返事が聞えてきた。つづいて、
「よんさ、ほうさ、ほらええ……」
 櫓拍子にあわせる掛声が、遠くから、だんだんはっきり聞えてくるではないか。
 船が帰ってきたというので、かがり火は、海岸にうつされた、そのかがり火の、あかるい光の中へ、伝馬船は、おみやげを山とつんで、ぶじに帰りついたのだ。
「お帰りなさい。どうでした」
「宝の島が見つかったよ」
「これこのとおり、かめが六つだ」
「流木が満船だ」
「こりゃ、たまげた」
 るす居した者たちは、かめや流木を、やんさ、やんさ、と浜へおろし、伝馬船を砂浜へ引きあげた。さっきまでの心配は、どこへやら、大喜び。それから、かがり火のそばで、円陣をつくって、宝島の話にむちゅうできき入った。
「や、もう夜中だ。ごくろうだった。みんなおやすみ」
 探検もぶじにすんだのだ。全員はそろって元気だ。私は、きらめく満天の星をあおいで、立ちあがった。

 探検の翌日、六月二十一日、朝食後、きのうの探検で発見した島に、「宝島」と名をつけることにきめ、今われわれの住んでいる島を、「本部島」とよぶことにきめた。
 それから、宝島から、たきぎとかめとを運ぶことについて、そうだんをした。
 伝馬船で、宝島と本部島の間を航海するには、天気をじゅうぶんに見きわめて、海のおだやかな時でなければできない。十月になると、海は荒くなって、交通はできない。それまでに、できるだけたくさんの流木(りゅうぼく)とかめとを、本部島に運んで、冬の支度をしなければならない。
 そこで、さしあたって、六人が伝馬船に乗って、宝島に渡ることにする。そして、流木とかめとをつんだ伝馬船は、三人で漕いで帰り、あとの三人は島へ残って、流木を集め、かめをとらえて牧場をつくって、つぎの船を待つ。つぎの船で、本部島から三人が出かけて行き、島の三人と交代して、宝島に残る。宝島には、いつでも三人ずつ残ることにする。
 本部島からは、飲料水を石油缶につめて送るが、宝島でも、天幕の屋根から雨水をあつめて、ためておくくふうをすること。宝島での食物は、魚をつってたべることにして、かめは、まんいち魚のとれない時の用意に、いつでも十頭ぐらいは、食用として残しておき、あとのかめは、本部島へ送ること。
 また、島をよくしらべて、なんでもめずらしいと思ったもの、発見したものは、どんな小さいことでも、かならず本部島へ報告すること。
 伝馬船は、朝早く、まだ暗いうちに出発して、日中の航海をして、夜の航海はしない。けっしてむりをしてはいけない。たとえ出発しても、天気がわるくなったら、すぐとちゅうからひき返して、気長に天気のよくなるのを待つようにすること。
 宝島で、いちばんだいじなことは、通る船の見はりである。宝島には、流木がたくさんあるから島に着いたらすぐに、高いやぐらをつくって、そこから、一人はきっと、四方の海を見はること。信号の「たき火」は、宝島にはたきぎがたくさんあるから、すぐできる。あとは、いつでも火種のとれる、万年灯(まんねんとう)をつくればいい。
 これらのことを、しっかりときめた。
 それから、いよいよ宝島へ行く、水夫長以下をきめた。飲料水を石油缶につめたり、天幕にする帆布、索(つな)、万年灯の油、つり道具、まんいちの用意として、かんづめ十個、マッチの小箱一個をかんづめの空缶に入れ、雨着の布でげんじゅうに包んだものなどをとりそろえて、あすでも天気がよければ、出発できるようにした。


無人島教室


 きょうの作業は、きのう宝島から持ってきた、流木のなかの、船底板にはってある、銅板をはがす仕事であった。
 うすい銅板を、ていねいに釘(くぎ)をぬいてはぎとり、はがき二枚ぐらいの大きさの銅板を、六枚こしらえた。流木の中の、あつい板きれをより出して、これに銅板を釘でうちつけ、鉄釘の先をとがらせたものを、ペンのかわりにして、この銅板に、「パール・エンド・ハーミーズ礁、龍睡丸(りゅうすいまう)難破、全員十六名生存、救助を乞(こ)う。明治三十二年六月二十一日」
 と、私が日本文で書き、また、おなじ意味を、帰化人の小笠原(おがさわら)に、英文で書かせた。この銅板の手紙(流し文(ぶみ)を、海に流そうというのだ。
 みんなで、伝馬船(てんません)を沖に漕(こ)ぎ出して、それを流した。
「銅の手紙よ、はやく、どこかへついてくれ。だれかにひろわれてくれ。たのむぞ――おまえには、十六人の、心をこめた願いがかけられているのだ……」
 一枚、一枚、海に流すたびに、伝馬船の上から見送りながら、みんな祈った。
 しかし、この流し文を配達してくれるのは、海流の郵便屋さんだ。いつ、どこへ配達してくれることか。流したところは、太平洋のまんなかで、横浜へも、アメリカのサンフランシスコへも、おおよそ五千キロメートルはある。しかし、海水のつづくかぎり、いつかどこかへ、流れつくにちがいない。風も手つだって、ふき送ってくれるだろう。流し文に、みんなは、切なる希望をつないだ。

 銅板の手紙は、おひるごろに流した。午後の学科の時間に、私は、「なぜ船底に、銅板をはるか」という話をした。
 陸の人の、ちょっと気のつかない船の底――船の海水につかっている部分――には、海藻類や貝類がくっつく。それがだんだんに成長して、船底いちめんになって、船底板が見えなくなってしまう。ちょうど、地面に雑草や苔(こけ)がいちめんに生えて、地はだが見えなくなるのとおなじだ。こうなるとすべすべした船の底板が、ひどくざらざらになって、すべらなくなるから、船の速力が出なくなる。帆船もこまるが、汽船では、よほどたくさん石炭をたかなければ、船底がすべすべしている時のように、走れなくなる。
 木船だと、またこの上に、船食虫(ふなくいむし)という虫が、船底の木板を食って小さなあなをあけ、その中に住むようになる。そして、船底いちめんにあなをあけて、蜂(はち)のすか、海綿のようにしてしまう。これは、おそろしいことで、船の中へ海水がはいってくるばかりか、あらしのとき、荒波とたたかっていた船が、虫食のために船底がこわれて、沈没したこともある。むかし西洋で、軍艦が木船であった時代には、
「敵の大砲の弾丸よりも、船食虫の方がおそろしい」
 とさえ、いわれたのだ。
 それで、この船食虫をふせぐのには、どうしたらいいか、これには、大昔からずいぶん長い間木船に乗る人たちは苦心したものだ。西洋では、二千年の昔、木船の底を、うすい鉛の板でつつんだ。こうすれば、虫はあなをあけないが、海藻や貝のつくのはふせげない。のちに英国海軍では、軍艦の底を、鉛の板でつつむことをやめてしまった。それは、鉛の板でつつむと鉄の釘や、舵(かじ)の金物が、くさったようにひどくぼろぼろになってしまうからだ。
 そして、今から百八十年ほど前、英国で、一隻(せき)の木造軍艦の底を、銅の板でつつんで試験をしたところ、月日がたっても、速力が少しもへらない。これはすてきだと大喜び。それから木の船は、みんな、銅のうすい板で底をつつむことになったのだ。今日では、銅のほかに、黄銅でもつつんでいる。
 銅の板には、虫があなをあけない。そして、やはり海藻や貝は、くっついて成長する。けれども銅と海水が化合して、銅の板の表面に、硫酸銅や、炭酸銅という、かさぶたのようなものができる。さてこのかさぶたが、だんだん大きくなると、船が走るとき、水が船底にぶつかるいきおいで、かさぶたを、ぽろりとはがしてしまうのだ。
 そして、かさぶたの表面に成長した、海藻や貝が、かさぶたといっしょに落ちて、新しい、すべすべした銅の表面があらわれるので、船の速力がおそくならないのだ。いまでは、各国とも、木船の底は、銅か黄銅の板でつつまなければいけない、という規則ができている。
「船食虫のことは、漁業長から、話があるから、よく聞くように。何か質問があるか」
 浅野練習生は、立って質問した。
「鉄の板で、木船の船底をつつんでは、いけませんか」
「それもいい。だが、船が重くなる。船食虫はふせげるが、海藻や貝は、たくさんつく。そして、銅のように、しぜんにはげて落ちない。だから、鉄や鋼(はがね)の船も、これにはこまっている。ときどき造船所のドックに船を入れて、船底についたものを、きれいにかき落して、鉄のさびないペンキと、海藻や貝をふせぐ、とくべつのペンキをぬるのだ。鉄船や鋼船の底が赤いのは、このペンキがぬってあるからだ」
 秋田練習生も、質問した。
「木船の底にぬって、虫や海藻などをふせぐことのできるペンキは、ないのですか」
「鉄船、鋼船の底にぬるペンキでも、かんぜんに、海藻や貝を、ふせぐことはできない。まして木にぬったり、しみこませたりして、かんぜんに虫や海藻などをふせぐペンキや薬は、まだ世界に発明されていない。どうだ、勉強して発明してみないか」
「はあ――やります」
 会員の川口は、
「ほかに、木船の底をつつむものはありませんか」
「木の板でつつむこともある。つまり、二重張りの板底にするのだ。こうすると、外がわの板は虫が食うが、内がわの板までは食わない。しかし、ときどき、外がわの板をはりかえなければならない」

 つぎには、漁業長が、船食虫の話をした。
「船食虫と一口にいうが、種類は多い。だいたい三つにわけて話をしよう。
 まず、海のなかの木材や、木の船底を、やたらに食ってあなをあける。キクイムシ。これは、長さ三、四ミりぐらいで、ワラジムシのような形をしている。
 つぎにもう一つ、おなじような形で、少し大きい、キクイモドキは、長さ六ミりぐらい。二つともそれぞれ種類が多く、寒い海、暑い海、世界中の海にいて、木や板にむらがって、あなをあけて住みこみ、かたい木を、まるで海綿のようにしてしまう。海中の白蟻(しろあり)のような、害虫だ。
 三番めのは、フナクイムシ。これは、ミミズのような長い虫で、はじめは小さい虫で、木や板の表面にとりつき、あなをあけて住みこむ。だんだん大きく長くなるにつれて、あなを深く大きくして、しまいには、三十センチぐらいにもなり、もっと長くなるのもある。
 いまでは、木船の船底に、銅のうすい板をはって、これらの虫をふせぐことができるからいいが、銅板をはらない木船の底へ、出口のないトンネルのような深いあなを、れんこんの切り口のように、船底いちめんにあけられては、どんな船でもたまらない。まったく、木船にとっては、おそろしい虫だ。
 また、船底につく海藻は、アオサ、ノリの類(たぐい)が多い。貝では、カキ、カメノテ、エボシ貝、フジツボなどで、フジツボが、ふつういちばんたくさんにつく。フジツボは、富士山のような形をした貝で、直径五センチ、高さ五センチぐらいの大きなものもある。これが、船底いちめんにつくのだ。このフジツボは、主人である虫が死んでも、殻だけは船底についている。この空家になった殻のなかに、魚やカニなどの小さな子どもがはいりこんで、船に運ばれて、遠くへ旅行することがある。それで、大西洋の魚が、太平洋へきたりするのだ。
 大昔、西洋人は、
『フジツボは、船の進行をとめるまものだ』
 といった。それは、船長もいわれたように、この貝がたくさん船底につくと、船の速力が出なくなるからだ」
 天幕の中で、流木の丸太に腰かけて、ねっしんに話をきくはだかの生徒。空箱の椅子(いす)に腰をおろして教えるはだかの先生。机も、黒板も、紙も鉛筆も、なんにもない無人島教室に、こうした学科が進んでいった。


塩をつくる


 食物に味をつけたり、魚をたくわえたりするのに、塩がほしかった。料理当番も、たべる方も、
「魚の塩焼ができたらなあ――」
 と思うのであった。
 これは、できないことではない。
「塩をこしらえよう」
「では、どうしてつくるか」
 みんなのちえをあつめてみた。
 まず、天日製塩法(てんぴせいえんほう)がある。これは、太陽のてりつける砂浜に、海水をまき、水分を蒸発させて、塩をとるのであるが、島の砂は、白珊瑚(さんご)のくだけたものであるから、まっ白である。これに反射(はんしゃ)する日光は、目をぐらつかせるほどであるが、日中、はだしで砂の上を歩いても、足のうらが熱くない。白い色は、熱をすいとらないからだ。この砂の上に海水をまいて、天日でかわかしても、とても塩はとれまい。そこで、
「こんど見つけた宝島の、たきぎを使って、海水を煮つめて塩をとろう」
 ということになった。
 いろいろくふうして、傾斜した長い大きなかまどを、珊瑚のかたまりできずいた。
 細長いかまどはおくの方を高くして、その先に煙突をつけた。その長いかまどの上に海水を入れた石油缶(かん)を、一列にならべ、かまどの口もとで火をたくと、おくの方までじゅうぶんに火がまわった。
 宝島から運んできたたきぎを、山とつんで、まる一日たきつづけた。ところが、たいせつなたきぎをうんとたく割合に、できる塩がすくない。
「これではしかたがない。――どうしよう」
 ひたいをあつめてそうだんした。漁業長が、いいことを考えだした。
「海綿の大きなのを集めて、海水をかけ、天日にかわかしては、また海水をかける。これを、いくどもくりかえして、しまいに海綿が、塩分のたいへんにこい汁をふくむようになったとき、その海綿からしぼり出した汁を煮つめたら、いいと思う」
 というのだ。
「これは、すばらしい考えだ」
「新発明だ」
「では、きょうの作業は、海綿あつめだ」

 海には、どす黒い、生きた大きな海綿がいる。それをたくさんとってきて、浜の砂をほってうずめておいた。こうしておくと、海綿の虫が死ぬのだ。
 一方、炊事場のかまどの灰をかきあつめて桶(おけ)に入れ、井戸水をいれて、黄色のあくをこしらえた。海綿は、二日間砂にうずめておいてからほり出して、日光にさらし、それからあくでよく洗ったら、オレンジ色のりっぱな海綿ができた。
 このたくさんの、きれいな海綿を、砂の上にならべて海水をかけ、半がわきになると、また海水をかけ、何度もくりかえすと、しまいにこい塩分をふくむようになる。
 それを、石油缶にいれた海水の中で、よくもみ出して、しぼり出し、その水を煮つめたら、少しのたきぎで、かなりの塩ができた。まだなれないので、色はねずみ色で、ごみが多かったが、りっぱに役にたつ。
 料理当番は、さっそくこの塩を使って、ぴんぴんした魚の塩焼をつくった。一同は、
「どうだい、このおいしいこと」
 大よろこびである。
「魚の塩づけもできるぞ」
「まずこれで、塩もできた。もっと何か考え出してくれ」
 と、私はいった。

 塩製造当番が、また一つふえた、そして、だんだんやっているうちに、白い大きな結晶(けっしょう)した塩ができるようになった。
 その後、たきぎの関係から、塩の製造所は、宝島にうつされた。


天幕(テント)を草ぶき小屋に


 ある日、漁業長がいい出した。
「網を作ったので、帆布(ほぬの)を、かなりたくさん使ってしまった。これからも、網を作る材料は、帆布よりほかにない。それに帆布は、大病人や、けが人のできたとき、つり床にも必要だ。冬になれば、見張当番のがいとうになる。そのほか、いくらでも役にたつ貴重品だ。その帆布を、天幕にはっておくのはおしい。このまま天幕にはっておけば、一年もたてばあながあくだろう。二年もすれば、ぼろぼろになってしまう。さいわい、宝島の流木の中には、木材や、長い板、船室の出入口の扉などがある。また、本部島と宝島の両方の島には、草がたくさん生えている。天幕をやめて、草ぶきの小屋にしては、どうだろう――」
 一同は、これはいい思いつきだ、と、大さんせいであった。十六人の多くは、漁村、農村の草ぶき屋根の家で生まれ、そだった人たちだ、なつかしい草ぶきだ。宝島で木材をよりあつめ、葉の長い草をかって、本部島と宝島の小屋は、草ぶきになった。
 水夫長の工夫で、柱と屋根を、丈夫な木の骨組にして、屋根には厚く草をふいた。夜ねるときには、四方に帆布をさげて風よけにし、日中は、その帆布をまきあげておく。雨降りのときは、風よけの帆布を、そとの方へ四方に引っぱって、屋根から落ちる雨水を受けて、石油缶(かん)にためるようにした。そして、たいせつな雨水が、なるたけたくさんたまるようにと、草ぶき屋根のまんなかへ、「水」という字を、草の根で、大きく紋のようにつけた。
 ときどき雨が降るので、たまった雨水を、井戸水にまぜて飲んだ。
 草は、われわれには、たいせつなものである。草の根は、できるだけ保護して、草がよくしげるようにした。

 屋根を草でふいたことから思いついたのであるが、両方の島の葉のながい草を、ジャック・ナイフでかりとっては、日にほして、馬のたべるような乾草(ほしくさ)を作った。これは、冬の支度である。

 乾草をあんで、ござ、むしろのようなものを作って、小屋の中にもしき、また、夜具、腰みの、小屋の風よけなどにしようというのであった。
 いったい、帆船の水夫は、工作が上手だ。
 船にいるときには、古い索(つな)をほぐして、長い毛のようにし、それを糸にとって、その糸をあんで、靴ぬぐい、ござなどを作る。それから、帆や太い索の、こすれるところへあてる、いろいろの形のすれどめを、上手にあむのだ。
 島でもみんな、休み時間に話をしながら、乾草をずんずんあんで、乾草のしき物や、手さげかごなどがりっぱにできた。
 たきぎをたばねる縄も、みんな草縄にした。
 それから、冬になったら、綿の代りに鳥の羽を利用することも、私は考えていた。


龍宮城(りゅうぐうじょう)の花園


 島から少し沖へ出ると、海はとても深い。いったい、海の深さと山の高さとをくらべると、海の深さの方がまさっている。もし世界一の高い山を、世界一深い海へしずめたとすれば、山はすっかりしずんでしまうだろう。
 世界一の高い山を、ふもとから見あげたけしきは、大きく美しいが、はんたいに、この山を高い空から、軽気球(けいききゅう)に乗って見おろしたら、また、別の美しさ、雄大さを感じるだろう。
 この、われわれの住む空気の世界の高い山を、空の上から見おろしたのとおなじように、私たちは魚の住む水の世界の山を、高いところから見おろすことができた。
 それは、天気のいい、波のごく静かな日に、伝馬船(てんません)を漕(こ)ぎ出して、島から少しはなれた、沖の海をのぞいてみるのだ。すると、海面は、水の世界の高い空で、島は、空の上につきでた高い山の頂上にたとえられる。この山の頂上から急傾斜の深い深い谷が、まっ暗で見えない海底までつづいている。それで伝馬船は、水の世界の空にうかんだ軽気球ということになる。
 日中は、太陽の光がすきとおって、かなりの深さまで見える。島から、深い海の谷底へ下る斜面には、海藻の林がある。この林の間を魚の群がおよいでいる。山の頂上に近いところ、すなわち浅いところには、お花畑がある。ここがいちばん美しくておもしろい。美しい海藻と珊瑚が、いっぱい生いしげっていて、どちらを見ても、青、緑、褐色、黄、むらさき、赤など、目もあざやかな色どりだ。また、その海藻や珊瑚の形は、枝を組み合わせたようなもの、葉ばかりのもの、果実や、キャベツが、いくつもかたまって生えたようなものなどで、陸に生えている、大小あらゆる種類のシャボテンを、うんと大きくしたようなものが、びっしりかさなっていると思えば、だいたい形だけのそうぞうはつく。
 だが、その色の美しいこと、種類の多いことは、とても説明ができない。たとえば、夜明けに、幾千のあさがおが、かさなって咲いているようである。陸上の、どんな美しい花園でも、とてもかなわない。大きなイソギンチャクは、美しいきくの大輪が咲いたのとおなじだ。ウミイチゴは、まっ赤な大きないちごそっくりで、まったく、おとぎ話の龍宮城の、乙姫(おとひめ)さまの花園といったらいいだろうか。
 そして、この美しい、珊瑚石、きくめ石、なまこ石、シャボテン石、海まつ、海筍(うみたけ)、海綿、ウミシダ、ウミエラなど、極彩(ごくさい)色の絵もようの間を、出たりはいったりして、ゆらりゆらりおよぎまわっている、いっそう美しい色どりの魚群がいる。
 これらの魚の色の美しさ、形のめずらしさは、珊瑚や海藻いじょうである。陸上でいちばん美しい動物は、蝶(ちょう)と鳥だといわれているが、この珊瑚礁(しょう)に住む魚の、チョウチョウウオ、スズメダイ、ベラなどの美しさは、私には説明ができない。珊瑚や海藻よりも、いっそう強い色をもっていて、赤、もも色、紅(くれない)、黄、橙(だいだい)、褐色、青、緑、紺、藍(あい)、空色、黒など、まるで、ぬりたてのペンキのように光っている。また、その色のとりまぜがおもしろい。だんだらぞめ、荒い縦縞(たてじま)、横縞をはじめ、まったくそうぞうもつかない色どりをもったのがいる。そして、その形もまためずらしいのが多い。長い尾や、ふしぎな形のひれを動かして、まるで、陸上の蝶や、美しい鳥の群が、咲きほこった花の間を飛んでいるように、およいでいるのだ。
 あまりの美しさに、見とれていると、この美しい魚の色が、急にぱっとかわったりする。何かにおどろくと、色をかえるのだ。すると、大きな魚が、すうっとおよいでくる。この大魚の一群が、またあわてて、矢のように早くおよいですがたを消すと、魚形水雷のような、巨大なふかの一群が、大いばりでやってくる。おもしろいかっこうの頭をしたシュモクザメが、通って行く。このふかの一群には、ゆだんはできない。
 伝馬船のような小船には、おそいかかってくることがある。
 こんな海中のありさまは、天気のいい時は、四十メートルぐらいの深さまで、すきとおって見える。海水がすみきって、きれいなので、二十メートルぐらいの深さも、せいぜい五メートルぐらいにしか見えない。
 太陽が、ずっと西にまわって、夕日が、島にまっ赤なカーテンをおろすと、海もまっ赤になる。やがて、空も島も海も、夕やみにつつまれて、星かげが海にうつりはじめると、今までたくさんおよいでいた魚は、みな、どこかへ行ってしまう。龍宮城の花園も、トルコ玉の青いうろこをじまんした小魚のすがたも見えなくなって、海藻の林の中に生えている、ウミエラ、ウミシャボテンが光ってくると、海の中に、何千、何万という、蛍(ほたる)のような光が、上下左右に動きだす。空の星がうつっているのか。いや、そうではない、夜光虫の群である。
 この光の間を、光る魚が、ぴかぴかした着物をじまんするようにおよぎまわる。これもまた、どんなに美しいながめであるか、口ではいいようもない。しかもこの、うつむいてのぞいて見る、光りかがやく海中の夜光虫は、あおいで見あげる、空気の世界の、星よりも数が多いのだ。
 われわれは、魚つり当番のとき、伝馬船を漕ぎ出しては、この水の世界をのぞいた。そして、龍宮城の花園の美しさや、魚類の美しい色、おもしろい習性に、かぎりない喜びをおぼえた。見れば見るほど、考えれば考えるはど、ふしぎに思われるものが多い。このふしぎに思うことを、少しずつ研究していくうちに、いうにいわれぬ、おもしろさがわいてくるのであった。
 そして、漁業長の説明によって、実物教育と、研究の指導を受けて、たいへんな勉強になった。漁業長と、その助手の小笠原(おがさわら)老人は、この美しい珊瑚礁の海いったいを、われらの標本室(ひょうほんしつ)といっていた。この二人は、太平洋を、じぶんのものと思っているらしい。少なくとも、本部島や宝島付近は、じぶんのものときめていた。
 ここでつった魚は、イソマグロ、カツオ、カマス、シイラ、赤まつ鯛(だい)、白鯛、ヒラカツオ、カメアジなど、多くの種類で、ときどきは、長さ二メートル、太さ人間の足ほどもある海蛇や、尾のなかほどに毒針のある、アカエイも、つり針にかかった。ふかもたくさんいたが、ふかはつらなかった。
 浜べには、貝が砂利(じゃり)のようにうちあげられていた。名も知らぬ幾百種類の貝は、大博物館の標本室いじょうである。そして貝類も食用にした。ウニ、タカセ貝、チョウ貝などをよくたべた。
 島の波うちぎわには、白い珊瑚がくだけてできた、雪のような砂が、ぎらぎらとてりつける日光に、白銀のようにかがやいていた。
 そこには、いろいろの色どりの、大小のカニがいた。珊瑚のかたまりのかげには、緑色のカニで、鯨が潮をふくように、水をふきだすのもいた。静かな夜に、ぐぐぐぐ、と、鳴くカニもいた。いちばん大きなのは、暗くなって、鳥の目が見えなくなったとき、海鳥のアジサシのひなを、大きな釘(くぎ)ぬきのようなはさみでつまんで、せっせとじぶんのあなに運んでいく、匪賊(ひぞく)のようなカニもいた。
 われわれが、この無人島にいた間、さびしかったろう、たいくつしたろう、と思う人もあるだろう。どうして、どうして、そんなことはなかった。
 空にうかぶ雲でさえ、手をかえ品をかえて、われらをなぐさめてくれた。雲は、朝夕、日にはえて、美しい色を、つぎつぎに見せてくれた。とりわけ、入道雲はおもしろく、見あきることがなかった。
 雲の峯(みね)は、いろいろにすがたをかえた。妙義山となり、金剛山となった。それがたちまち、だるまさんとなり、大仏さんとなった。ある時は、まっ黒いぼたんの花のかたまりのような雲が、みるみる横にひろがって、それが、兵隊さんがかけ足をするように、島の方に進んでくると、沖の方にはもう雨を降らし、うす墨の幕がたれさがっている。その雨の幕が、風といっしょに島におしよせて、いい飲み水を落してくれるのだ。
 みんなは、このように、大自然と親しみ、じぶんたちのまわりのものを、なんでも友だちとしていた。
 ものごとは、まったく考えかた一つだ。はてしもない海と、高い空にとりかこまれた、けし粒のような小島の生活も、心のもちかたで、愉快にもなり、また心細くもなるのだ。
 いつくるか、あてにならぬ助け船を、あてにして待っている十六人。何年に一度通るかも知れない船のすがたを、気長に見つけようとしている十六人である。この中に、もし一人でも、気のよわい人があったら、どうなるだろう。
 気のよわい人は、夜ねられない病気になるのだ。夜中に、人のねしずまったとき、空をあおいで、銀河のにぶい光の流れを見つめていると、星が一つ二つ、すっと長い尾を引いて流れとぶ。
「あっ。あの星は、日本の方へ飛んだ――あっちが日本だ……」
 と考える。そうすると、足もとに、ざあっ、ざあっ、とよせてくる波の音も、心さびしくなる。しのびよる涼風(すずかぜ)が、草ぶき小屋の風よけ帆布をゆすぶると、なんだかかなしくなってしまう。月を見ても、ふるさとを思いだす。つくづく考えてみると、待ちわびる帆かげ船も、いつまでたってもすがたを見せない。すっかり気を落して考えこんで、しまいには病気になってしまう。はてしもない高い空の大きさと、海の青さを、心からのろったという、漂流した人の話さえ、つたえられている。
 ぽかんと手をあけて、ぶらぶら遊んでいるのが、いちばんいけないのだ。それでわれらの毎日の作業は、だれでも順番に、まわりもちにきめた。見はりやぐらの当番をはじめ、炊事、たきぎあつめ、まきわり、魚とり、かめの牧場当番、塩製造、宿舎掃除せいとん、万年灯、雑業、こんな仕事のほかに、臨時の作業も多かった。宝島を発見してからは、宝島がよいの伝馬船漕ぎ、宝島でのいろいろの当番もできた。
 これらの作業ほ、どれもこれも、じぶんたちが生きるために、ぜひやらなければならない仕事であった。だれもかれも、ねっしんにじぶんの仕事にはげんだ。
 私が感激したことは、私の部下はみんな、
「一人のすることが、十六人に関係しているのだ。十六人は一人であり、一人は十六人である」
 ということを、はっきりこころえていて、いつも、心をみがくことをおこたらなかったことだ。



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