ビクトル・ユーゴー レ・ミゼラブル 第一部 ファンティーヌ


     一 終日歩き通した日の夜

 一八一五年十月の初め、日没前およそ一時間ばかりの頃、徒歩で旅している一人の男が、ディーニュの小さな町にはいってきた。ちょうど人家の窓や戸口にあまり人のいない時間ではあったが、なおいくらかの人々はそこにいて、一種の不安の念を覚えながら旅人をながめた。おそらくこれ以上みすぼらしい風をした旅人はめったに見られなかった。それは中背の幅広い頑丈な元気盛りの男であった。四十六か七、八くらいであろう。皮の目庇(まびさし)のたれた帽子が、日に焼け風にさらされ汗の流れてる顔の一部を隠していた。黄色がかった粗末な布のシャツは、ただ首の所で銀の小さな止め金で止めてあるきりなので、そのすきから毛深い胸が見えていた。ネクタイは縒(よ)れてひものようになっている。青い綾織(あやお)りのズボンは傷(いた)んですり切れ、片膝(ひざ)は白くなり、片膝には穴があいている。ぼろぼろな灰色の上衣には、撚(よ)り糸で縫われた青ラシャの補綴(はぎ)が一方の肱(ひじ)の所にあたっている。背中にはいっぱい物のはいった、堅く締め金をとめた、まだ新しい背嚢(はいのう)を負い、手には節(ふし)のあるごく大きな杖(つえ)を持ち、足には靴足袋(くつたび)もはかずに鉄鋲(てつびょう)を打った短靴を穿(うが)ち、頭は短く刈り込み、ひげを長くはやしている。

 汗、暑気、徒歩の旅、ほこり、それらのものが右の荒れすさんだ全体の姿に、更に何かしらきたならしい趣を加えていた。

 頭髪は短かったが、逆立っていた。もうしばらく刈られないでいるらしく、そして少し伸びはじめていたからである。

 だれも彼を知っている者はなかった。明らかに一人の通りすがりの男にすぎなかった。どこからきたのであろうか。南方から、たぶん海辺からきたのであろう。というのは、彼がディーニュにはいってきたのは、七カ月以前にナポレオンがカーヌからパリーへ行く時に通ったのと同じ道からであった。この男は終日歩きづめだったに違いない。大変疲れているように見えていた。下手(しもて)の昔の市場のほとりの女どもが見たところによると、彼はガッサンディ大通りの並木の下に立ち止まって、そのはずれにある泉の水を飲んだ。大変喉(のど)がかわいていたにちがいない。彼の後をつけて行った子供らは、彼がそれからまた二百歩ばかり行って、市場の泉の所に立ち止まって水を飲むのを見た。

 彼はポアンシュヴェル街の角まで行って左に曲がり、市役所の方へ足を運んだ。彼は市役所にはいり、それから十五分ばかりしてまた出てきた。門のそばの石のベンチに憲兵が一人腰をかけていた。それは、ドルーオー将軍が三月四日に、驚駭(きょうがい)したディーニュ市民の群衆に向かって、ジュアン湾(訳者注 ナポレオンが一八一五年三月一日エルバ島より再びフランスに上陸したる湾)の宣言を読みきかすために上った石である。旅の男は帽子をぬいで、丁寧にその憲兵に礼をした。

 憲兵は彼に答礼もせず、彼を注意深くうちながめ、なおしばらく彼の後ろを見送ったが、それから、市役所の中にはいった。

 当時ディーニュの町にはクロア・ド・コルバという看板のりっぱな宿屋があった。その主人はジャカン・ラバールといって、昔教導兵でありグルノーブルにトロア・ドーファンの看板の宿屋を持っている他のラバールという者の親戚(しんせき)であるというので、町でかなり尊敬されていた。皇帝上陸の際には、このトロア・ドーファンの宿屋について多くの風説がその地方に伝えられたものである。ベルトラン将軍が馬車屋に仮装して一月にしばしばそこに旅をして、兵士らにクロア・ドンヌール勲章を分与し、市民らに多くの金貨を与えた、というような噂(うわさ)が立てられていた。が事実はこうである、グルノーブルにはいってきた時、皇帝は知事の邸宅に行くのを断わり、私は知り合いの男の家にゆくのだからと言って、トロア・ドーファンの宿屋に行ったのであった。そのトロア・ドーファンのラバールの光栄は、二十五里へだてたクロア・ド・コルバのラバールの上にまで反映していた。町では彼のことをグルノーブルの男の従弟だと言っていた。

 旅の男はこの地方で最上等のその宿屋の方へ歩みを向けた。そしてすぐ街路に開かれてる料理場にはいった。竈(かまど)はみな火が燃えており、炉には威勢よく炎が立っていた。主人はまた同時に料理人頭であって、竈(かまど)や鍋(なべ)を見て回り、馭者(ぎょしゃ)たちのためにこしらえる旨(うま)い食事の監督をし、ひじょうに忙しかった。馭者たちが隣の室で声高に笑い興じてるのも聞こえていた。旅をしたことのある人はだれでも知ってる通り、およそ馭者たちほどぜいたくな食事をする者はいない。肥った山鼠(モルモット)は白鷓鴣(しろやっこ)や松鶏(らいちょう)と並んで、長い鉄ぐしにささって火の前に回っており、竈の上には、ローゼ湖の二尾(ひき)の大きな鯉(こい)とアロズ湖の一尾の鱒(ます)とが焼かれていた。

 主人は、戸があいて新しくだれかはいってきた音をきいて、竈から目を離さずに言った。

「何の御用ですか。」

「食事と泊まりです。」と男は言った。

「訳ないことです。」と主人は言った。その時彼はふり向いて旅人の様子をじろりとながめたが、つけ加えて言った。「金を払って下されば……。」

 男はポケットから皮の大きい財布を取り出して答えた。

「金は持っています。」

「では承知しました。」と主人は言った。

 男は財布をポケットにしまい、背嚢をおろし、それを戸のそばに置き、手に杖を持ったままで、火のそばの低い腰掛けの所へ行って腰をおろした。ディーニュは山間の地であって、十月になれば夜はもう寒かった。

 その間主人は、あちらこちらへ行ききしながら、旅人に目をつけていた。

「すぐに食事ができますか。」と男は言った。

「ただ今。」と主人は言った。

 その新来の客がこちらに背を向けて火に当たっているうちに、しっかりした亭主のジャカン・ラバールはポケットから鉛筆をとり出して、それから窓の近くの小卓の上に散らばっていた古い新聞の片すみを引き裂いた。彼はその欄外の空所に一二行の文句を書きつけ、それを折って別に封もせずに、料理手伝いや小使いをやっているらしい子供に渡した。亭主が耳もとに一言ささやくと子供は市役所をさしてかけて行った。

 旅人はそれらのことには少しも気がつかなかった。

 彼はも一度尋ねた。「食事はすぐですか。」

「ただ今。」と主人は言った。

 子供は帰ってきた。紙片を持ち戻っていた。主人は返事を待っているかのように急いでそれを披(ひら)いた。彼は注意深くそれを読んでいるらしかったが、それから頭を振って、しばらくじっと考え込んだ。ついに彼は一歩旅人の方へ近よった。旅人は何か鬱々(うつうつ)と考えに沈んでいるらしかった。

「あなたは、」と主人は言った、「お泊めするわけにいきません。」

 男は半ば席から立ち上った。

「どうして! 私が金を払うまいと心配するんですか。前金で払ってほしいんですか。金は持っていると言ってるではないですか。」

「そのことではありません。」

「では、いったい何です。」

「あなたは金を持っている……。」

「そうです。」と男は言った。

「だが私の所に、」と主人は言った、「室がないのです。」

 男は落ち着いて口を開いた。「廐(うまや)でもいい。」

「いけません。」

「なぜ?」

「どこにも馬がはいっています。」

「それでは、」と男はまた言った、「物置きのすみでもいい。藁(わら)が一束あればいい。が、そんなことは食事の後にしましょう。」

「食事を上げることはできません。」

 その宣告は、抑(おさ)えられてはいるが、しかし断固たる調子でなされたので、男には重々しく響いたらしかった。彼は立ち上がった。

「ええッ! だが私は腹が空(す)ききってるんだ。私は日の出から歩き通した。十二里歩いたんだ。金は払う。何か食わしてくれ。」

「何もありません。」と主人は言った。

 男は笑いだした、そして炉や竈(かまど)の方へふり向いた。

「何もない! そしてあそこのは?」

「あれは約束のものです。」

「だれに?」

「馭者の方たちに。」

「幾人いるんだい。」

「十二人。」

「二十人分くらいはあるじゃないか。」

「すっかり約束なんです、そしてすっかり前金で払ってあるんです。」

 男は再び腰をおろした、そして別に声を高めるでもなく言った。

「私は宿屋にいるのだ。腹がすいている。ここを動きはしない。」

 そこで主人は彼の耳元に身をかがめて、彼を慄然(ぎょっ)とさしたほどの調子で言った。「出てゆきなさい。」

 その時旅人は前かがみになって、杖の先の金具の所で火の中に燃え残りを押しやっていたが、急にふり返った。そして彼が何か答弁しようとして口を開いた時に、主人はじっと彼を見つめて、やはり低い声でつけ加えた。「さあもう文句を言うには及ばない。君の名を言ってあげようか。君はジャン・ヴァルジャンというのだ。それから君がどんな人だか言ってあげようか。君がはいって来るのを見て、あることを感づいたんだ。私は市役所に人をやった。そしてここに役所からの返事がある。君は字が読めるだろう。」

 そう言いながら彼はその見知らぬ男へ、宿屋と市役所との間を往復した紙片をすっかりひろげて差し出した。男はその上に一瞥(べつ)を与えた。亭主はちょっと沈黙の後にまた言った。

「私はだれに向かっても丁寧にするのが習慣(ならわし)だ。出て行きなさい。」

 男は頭をたれ、下に置いてる背嚢をまた取り上げ、そして出て行った。

 彼は大通りの方へ進んで行った。はずかしめられ悲しみに沈んでいる者のように、彼は人家のすぐ傍(わき)に寄って、ただ当てもなくまっすぐに歩いて行った。一度も後ろを振り返らなかった。もし振り返ったならば彼は、クロア・ド・コルバの亭主が入り口に立っていて、宿の客人たちや通りすがりの人たちにとりかこまれて、声高に話しながら彼の方を指(さ)しているのを見たであろう。そしてまた、群集の目付の中にある軽侮や恐怖の色によって、彼がやってきたことはやがて町中の一事件となるだろうということを見て取ったであろう[#「見て取ったであろう」は底本では「見て取ったのであろう」]。

 が彼はそれらのことを何にも見なかった。絶望しきった者は自分の後ろを振り返り見ないものである。悪い運命が自分の後について来るのをあまりによく知っている。

 彼はそうしてしばらく歩いて行った。ちょうど悲しみに沈んだ時に人がなすように、知らない通りをむやみに歩きながら疲れも忘れてただ歩き続けた。と突然彼は激しく空腹を感じた。夜は迫っていた。彼は何か身を宿すべき場所はないかと思ってあたりを見回した。

 りっぱな宿屋は彼に対して閉ざされたのである。彼は粗末な居酒屋(いざかや)か貧しい下等な家をさがした。

 ちょうど通りの向こうの端に燈火(あかり)がひらめいていた。鉄の支柱につるされている一本の松の枝が薄暮のほの白い空に浮き出していた。彼はそこへ行ってみた。

 果してそれは一軒の居酒屋であった。シャフォー街にある居酒屋であった。

 旅人はちょっと立ち止まって、窓からその中をのぞいてみた。天井の低い室のうちは、テーブルの上に置かれた小さなランプと盛んな炉の火とで照らされていた。四五人の者が酒を飲んでおり、主人は火に当たっていた。自在鈎(かぎ)につるしてある鉄の鍋は火に煮立っていた。

 その居酒屋はまた同時に一種の宿屋であって、はいるには二つの戸口があった。一つは通りに開(あ)いているし、一つは廃物がいっぱい散らかってる小さな中庭に開いている。

 旅人は通りに面した入り口からはいることをはばかった。彼は中庭にはいりこみ、なおちょっと足を止め、それからおずおずと(かきがね)をあげて戸を押した。

「だれだ、そこに居るのは。」と主人は言った。

「晩飯と一泊とをお願いしたいんです。」

「よろしい。晩飯と一泊ならここでできる。」

 彼ははいってきた。酒を飲んでいた人々は皆ふり向いた。ランプがその半面を照らし炉の火が他の半面を照らしていた。彼が背嚢をおろしている間、人々はしばらく彼をじろじろながめた。

 主人は彼に言った。「火がおこっている。晩飯は鍋で煮えているから、まあこっちへきて火に当たりなさるがいい。」

 彼は炉火のそばに行って腰を掛けた。疲れきった両足を火の前に伸ばした。うまそうなにおいが鍋から立っていた。目深にかぶった帽子の下から見えている彼の顔のうちには、安堵(あんど)の様子と絶えざる苦しみから来る険しい色とがいっしょになって浮かんでいた。

 それはまたしっかりした精悍(せいかん)なそして陰気な顔つきであった。変に複雑な相貌で、一見しては謙譲に見えるが、やがて峻酷(しゅんこく)なふうに見えて来る。目はちょうどくさむらの下に燃ゆる火のように眉毛(まゆげ)の下に輝やいていた。

 ところが、テーブルにすわっていた人々のうちに一人の魚屋がいた。彼はこのシャフォー街の居酒屋にやって来る前に、自分の馬をラバールの家の廐(うまや)に預けに行ったのだった。また偶然その日の午前にも、彼はその怪しい男がブラ・ダスと……(名前は忘れたがエスクーブロンであったと思う)との間を歩いているのに出会った。男はもう大変疲れているらしく、彼に出会うと、馬の臀(しり)の方にでも乗せてくれないかと頼んだ。魚屋はそれに答えもしないで足を早めた。その魚屋は約三十分ばかり前には、ジャカン・ラバールを取巻いた群衆のうちにいた、そして彼自身、クロア・ド・コルバの客たちにその午前の気味悪い出会いを話してきかしたのだった。で今彼は自分の席からひそかに居酒屋の亭主に合い図をした。亭主は彼の所へ行った。二人は低い声で少し話しあった。あの男はまた考えに沈んでいた。

 亭主は炉の所に帰ってきて、突然男の肩に手を置いた、そして言った。

「お前さんはここから出て行ってもらおう。」

 男はふり返って、そして穏かに答えた。

「ああ、あなたも知っているんですね。」

「そうだ。」

「私はほかの一軒の宿屋からも追い出された。」

「そしてこの宿屋からも追い出されるんだ。」

「では、どこへ行けと言うんです。」

「他の所へ行くがいい。」

 男は杖と背嚢とを取って、出て行った。

 彼が出てきた時、クロア・ド・コルバからあとをつけてきて、今も彼の出て来るのを待っていたらしい数人の子供たちが、彼に石を投げた。彼は憤って引き返し、杖で子供たちをおどかした。子供たちは鳥の飛びたつように散ってしまった。

 男は監獄の前を通りかかった。門の所に、呼び鐘につけてある鉄の鎖が下がっていた。彼はその鐘を鳴らした。

 潜(くぐ)り戸(ど)が開いた。

「門番さん、」と言って彼は丁寧に帽子をぬいだ、「私を中に入れて今晩だけ泊めて下さるわけにいきませんか。」

 中から答える声がした。

「監獄は宿屋じゃない。捕縛されるがいい。そしたら入れてもらえるんだ。」

 潜り戸はまた閉じられた。

 彼は庭のたくさんある小さな通りにはいった。ただ生籬(いけがき)で囲まれたばかりの庭もあって、通りがいかにもさわやかであった。その庭や生籬のうちに、彼の目にとまった小さな一軒の二階家があって、窓には燈火(あかり)がさしていた。彼は居酒屋でしたようにその窓からのぞいてみた。それは石灰で白く塗った大きな室であって、型付き更紗(さらさ)の布が掛かっている寝台が一つと、片すみに揺籃(ゆりかご)が一つと、数脚の木製の椅子(いす)と、壁にかけてある二連発銃が一つあった。室のまん中の食卓には食事が出されていた。銅のランプが粗末な白布のテーブル掛けを照らし、錫(すず)のびんは銀のように輝いて酒がいっぱいはいっており、褐色(かっしょく)のスープ壺(つぼ)からは湯気が立っていた。食卓には快活淡泊な顔つきをした四十かっこうの男がすわっていて、膝(ひざ)の上に小さな子供が飛びはねていた。そのそばに年若い女がも一人の小児に乳をやっていた。父は笑っており、子供は笑っており、母はほほえんでいた。

 男はこの穏和なやさしい光景の前にしばらくうっとりと立っていた。その心のうちにはどんな考えが浮かんだか? それを言い得るのはただ彼のみであろう。がたぶん彼は、その楽しい家は自分を歓待してくれるかも知れないと思ったろう、そしてかくも幸福に満ちた家からはおそらく少しの憐憫(れんびん)を得らるるかも知れないと。

 彼はきわめて軽く窓ガラスを一つたたいた。

 家の人にはそれが聞こえなかった。

 彼は再びたたいた。

 彼は女がこういうのをきいた。「あなた、だれかきたようですよ。」

「そうじゃないよ。」と夫は答えた。

 彼は三度たたいた。

 夫は立ち上がって、ランプを取り、そして戸の方へ行って開いた。

 それは半ば農夫らしく半ば職人らしい背の高い男であった。左の肩まで届いている大きな皮の前掛けを掛けていて、その上に帯をしめてポケットのようになった所に、槌(つち)や赤いハンケチや火薬入れや種々なものを入れていた。頭はずっと後方に反(そ)らし、広くはだけて襟(えり)を折ったシャツは白い大きな裸の首筋を現わしていた。濃い眉毛、黒い大きな頬鬚(ほほひげ)、ぎろりとした目、下半面がつき出た顔、そしてそれらの上に言葉に現わせない落ち着いた様子が漂っていた。

「ごめんください。」と旅人は言った。「金を出しますから、どうぞ一ぱいのスープを下すって、それから、あの庭の中の小屋のすみに今晩寝かしてもらえませんか。いかがでしょう? 金は差し上げますが。」

「お前さんはどういう人だね。」と主人は尋ねた。

 男は答えた。「ビュイ・モアソンからきた者です。一日歩き通しました。十二里歩いたのです。いかがでしょうか、金は出しますが。」

「私は、」と農夫は言った、「金を出してくれる確かな人なら泊めるのを断わりはしない。だがお前さんはなぜ宿屋に行かないのだ。」

「宿屋に部屋(へや)がないんです。」

「なに、そんな事があるものか。今日は市(いち)の立つ日でもないし、売り出しの日でもない。ラバールの家に行ってみたかね。」

「行きました。」

「それで?」

 旅人は当惑そうに答えた。「なぜだか知りませんが、泊めてくれないんです。」

「それではシャフォー街のあの男の家に行ったかね。」

 男はますます当惑してきた。彼はつぶやいた。

「そこでも泊めてもらえないんです。」

 農夫の顔には疑惑の表情が浮かんだ。彼はその新来の男を頭の上から足の先までじっとながめた。と突然身を震わすようにして叫んだ。

「お前さんは例の男ではあるまいね……。」

 彼は男をじろりとながめて、後ろに三歩退(さが)って、テーブルの上にランプを置き、そして壁から銃を取りおろした。

 その間に、「お前さんは例の男ではあるまいね……」という農夫の声をきいて、女も立ち上がり、両腕に二人の子供を抱いて、急いで夫の背後に隠れ、胸を露(あら)わにびっくりした目つきをしてその見知らぬ男をこわごわながめながら、低く田舎(いなか)言葉で「どろぼう」とつぶやいた。

 それらのことは、想像にも及ばないほどわずかな間に行なわれたのだった。主人はあたかも蝮(まむし)をでも見るように例の男をしばらくじろじろ見ていたが、やがて戸の所へきて言った。

「行っちまえ。」

「どうぞ、」と男は言った、「水を一ぱい。」

「ぶっ放すぞ!」と農夫は言った。

 それから彼は荒々しく戸を閉ざした。そして大きな二つの閂(かんぬき)のさされる音が聞こえた。一瞬の後には雨戸も閉ざされ、鉄の横木のさされる音が外まで聞こえた。

 夜はしだいに落ちてきた。アルプス颪(おろし)の寒い風が吹いていた。暮れ残った昼の明るみで、見なれぬ男は、通りに接したある庭のうちに芝土でできてるように思われる小屋らしいものを認めた。彼は思い切って木柵(さく)を越えて庭の内にはいった。小屋に近よってみると、入り口といってはきわめて低い狭い開戸(ひらき)がついていて、道路工夫が道ばたにこしらえる建物に似寄ったものであった。彼はそれが実際道路工夫の住居であると思った。彼は寒さと飢えとに苦しんでいた。飢えの方はもう我慢していたが、しかしそこは少なくとも寒さを避け得る場所であった。その種の住居には普通夜はだれもいないものである。彼は腹ばいになって小屋の中にはいりこんだ。中は暖かで、かなりよい藁の寝床が一つあった。彼はしばらくその寝床の上に横たわっていた。すっかり疲れ果てて身を動かすこともできなかったのである。それから背中の背嚢が邪魔になり、またそれは、ありあわせの枕(まくら)となるので、負い皮の留金(とめがね)をはずしはじめた。その時、恐ろしいうなり声が聞えた。彼は目をあげてみた。大きな番犬の頭が、小屋の入り口のやみの中に浮き出していた。

 犬小屋だったのである。

 彼自身も力ある恐ろしい男であった。彼は杖をもって身構え、背嚢を楯(たて)となし、そしてうまく犬小屋から出ることができた。もとより、そのために衣服の破れは更に大きくなったのではあるが。

 彼はまたその庭から外へ出た。しかし犬を近よらせないためにあとずさりしながら、撃剣の方で隠ればらと呼ばるる仕方で杖を振り回さなければならなかった。

 漸(ようや)くにして木柵を越えて通りに出たが、彼はもはやただ一人で、宿るべき場所もなく、身を蔽(おお)う屋根も身を避ける所もなく、藁の寝床とあわれな犬小屋からさえも追い出されたのであった。彼はある石の上に、腰をおろすというより倒れてしまった。そこを通る人があったら、彼の叫ぶのを聞いたであろう、「俺(おれ)は犬にも及ばないのか!」

 やがて彼はまた立ち上がって歩き出した。町から出て行った。野の中に何か樹木か堆藁(つみわら)かを見出してそこに身を避けようと思ったのである。

 そして彼はうなだれながらしばらく歩いた。人の住居から遠くへきたと思った頃、目をあげてあたりを物色してみた。野の中にきていた。前には短く刈られた切株に蔽われた低い丘が一つあって、刈り入れをした後のその有り様は刈り込みをした頭のようだった。

 地平は真暗(まっくら)になっていた。それはただ夜のやみばかりのためではなかった。低くたれた雲のためでもあって、雲は丘の上に立ちこめているらしく、しだいに昇って、空をも蔽わんとしていた。けれども、月がまさに出んとする頃、そしてなお中天に暮れ残った明るみが漂っている時、雲は高く空中に一種のほの白い円屋根を形造って、そこから明るみが地上に落ちていた。

 そこで地上は空よりも明るく、妙に気味悪い光景で、貧しげな荒涼たる輪郭の丘は暗い地平の上に青白くぼんやりと浮き出していた。すべての様が醜く卑しく悲しげでまた狭苦しかった。野の中にも丘の上にも一物もなく、ただ数歩前に曲がりくねった無様(ぶざま)な樹木が一本立ってるきりだった。

 この旅の男はもとより、事物の神秘な光景を痛感するほどの知力や精神の微妙な習慣を少しも持ってはいなかった。けれども、今見るその空、その丘、その平野、その樹木、それらのうちには何か深いわびしさがこもっていたので、彼はちょっと立ち止まって思いに沈んだが、突然踵(くびす)をめぐらした。自然さえも、敵意を有するらしく思える瞬間があるものである。

 彼はまた戻って来た。ディーニュの市門はもう閉ざされていた。ディーニュ市は、宗教戦争のおり長く包囲をささえた所であって、後にこわされてしまったが、一八一五年にはなおその周囲に、方形の塔がついてる古い城壁があったのである。彼はその城壁の破れ目を通ってまた町の中にはいった。

 もうたぶん晩の八時くらいになっていたろう。彼は町の様子を知らないので、再びただむやみに歩き出した。

 そのようにして彼は県庁の所にき、それから神学校の所まできた。大会堂の広場を通る時には、彼は会堂に対して拳(こぶし)をさしつけた。

 その広場の角に印刷屋があった。エルバ島から持ちきたされ、ナポレオン自身の口授になった、皇帝の宣言及び軍隊に対する親衛の宣言が初めて印刷せられたのは、そこにおいてであった。

 全く疲れはててもはや何らの望みもなく、彼はただ、その印刷所の門口にあった石の腰掛けの上に身を横たえた。

 その時、一人の年老いた女が会堂から出てきた。彼女はやみのうちに横たわってるその男を認めた。「あなたはそこで何をしていますか、」と彼女は言った。

 彼は荒々しくそして怒って答えた。「親切なお上(かみ)さんだな、私は御覧のとおり寝ているんですよ。」

 実際親切なお上さんという名前に至当な彼女は、R某侯爵夫人であった。

「この腰掛けの上で?」と彼女は言った。

「私は十九年の間木の寝床に寝起きしたのです。」と男は言った。「今日は石の寝床の上に寝るんです。」

「あなたは軍人だったのですか。」

「そうですよ、軍人です。」

「なぜ宿屋へお出でなさらないのです。」

「金がありませんから。」

「困りましたね、」とR夫人は言った。「私は今四スーきり持ち合わせがありませんが。」

「いいからそれを下さい。」

 男は四スーを受け取った。R夫人は続けて言った。「そればかりでは宿屋には泊まれませんでしょう。ですがあなたは宿屋に尋ねてみましたか。そんなふうに一晩を過ごすことはできるものではありません。きっと寒くて、また腹もおすきでしょう。慈善に一晩泊めてくれる人もありましょうのに。」

「どの家(うち)も尋ねてみたんです。」

「それで?」

「どこからも追い出されたんです。」

 その「親切なお上(かみ)さん」は男の腕をとらえ、広場の向こう側にある司教邸と並んだ小さな低い家を指(さ)し示した。

「あなたは、」と彼女は言った、「どの家も尋ねてみられたのですか。」

「ええ。」

「あの家を尋ねましたか。」

「いいえ。」

「尋ねてごらんなさい。」




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