ビクトル・ユーゴー レ・ミゼラブル 第一部 ファンティーヌ


           (訳者注 リーヴルはフランの同称)

 ミリエル氏はディーニュの司教だった間、この処置にほとんど少しの変更もなさなかった。覚え書きに見らるるとおり彼はそれをわが家の支出規定と呼んでいた。

 バティスティーヌ嬢もこの処置に絶対に服従していた。この聖(きよ)き嬢にとっては、ディーニュ司教は同時に自分の兄であり自分の司教であった、自然からいえば親しい友で、教会からいえば教長だった。彼女はただ単純に彼を愛し彼を崇敬していた。彼が口をきく時にはそれに承服し、彼が行動する時にはそれに力を合わせていた。ただ召し使いのマグロアールのみが少し不平をもらした。前述のとおり司教は千リーヴルきり取って置かないので、バティスティーヌ嬢の年金と加えて年に千五百フランになるきりだった。それだけの金で二人の老婦と一人の老人とが生活したのである。

 それでも、マグロアールのきりつめた節倹と、バティスティーヌ嬢の巧みな家政とのおかげで、村の司祭などがディーニュにやって来る時には、司教はなおそれをもてなすことができるのだった。

 ある日――もうディーニュにきてから三月ばかりたったころ――司教は言った。

「これだけのものではなかなか苦しい!」

「そうでございましょうとも。」とマグロアールは叫んだ。「旦那(だんな)様は、町でのられます馬車代と教区をお回りになる費用とを、県に当然御請求をなさらないからでございます。以前の司教様方はいつもそうなさいましたのですよ。」

「なるほど!」と司教は言った、「マグロアール、お前の言うことはもっともだ。」

 彼はその請求をした。

 しばらくたって、県会ではこの請求を評議して、次のような名目で彼に年三千フランを与えることに定めた。四輪馬車代、駅馬車代、及び教区巡回の費用として、司教へ支給。

 その一事は市民の物議を醸(かも)した。そして革命第二月十八日に味方した五百人会の一人であって、現に帝国の上院議員でありディーニュの近くにりっぱな世襲財産を持っていた一人は、そのとき宗務大臣ビゴー・ド・プレアムヌー氏に宛(あて)て、不平満々たる内密な寸簡をしたためた。今ここにそのうちの信ずべき数行を引用してみよう。

 「――四輪馬車代とや。人口四千をいでざる小都市において何ぞそを用いんや。駅馬車および巡回の費用とや。まず、かかる巡回の用いずこにある。次にかかる山間の地において、いかんぞ駅馬車を用ゆることを得(う)べき。道路と称すべきものなく、人はただ馬によりて行くのみ。シャトー・アルヌーへ至るデューランス河(がわ)の橋さえもほとんど牛車を支(ささ)うること能(あた)わじ。彼ら牧師輩は皆かくのごとく、貪慾(どんよく)飽くなきの徒なり。この司教も就任の初めにおいては善良なる使徒らしく振舞いたれども、今や他と異なる所なし。今や彼には四輪馬車を要し駅馬車を要す。以前の司教らの如く豪奢(ごうしゃ)を要す。おおこれらすべての司祭輩よ! 陛下がこれら緇衣(しい)の手より我らを解放せらるる時に非(あら)ずんば、伯爵よ、事みなそのよろしきを得じ。法王を仆(たお)せ!(そのころ万事が皆ローマと乖離(かいり)していたのである。)余はただ皇帝のためにのみ尽さんとするなり。云々(うんぬん)」

 その代わりにこのことはマグロアールをひじょうに喜ばせた。彼女はバティスティーヌ嬢に言った。「けっこうなことでございます。閣下は他人のことからお初めなさいました。けれどやはりおしまいには御自身のことをなさらなければならなかったのです。慈善の方はすっかりもう定めてございます。それでこの三千リーヴルは私どものものでございますよ。」

 その晩に司教は、次のような覚え書きをしたためてそれを妹に渡した。

  馬車と巡回との費用

施療院の患者に肉汁を与えるため……………千五百リーヴル

エークスの母の慈善会のため………………二百五十リーヴル

ドラギィニャンの母の慈善会のため………二百五十リーヴル

捨児のため…………………………………………五百リーヴル

孤児のため…………………………………………五百リーヴル

 合計………………………………………………三千リーヴル

 これがミリエル氏の予算表であった。

 司教区の臨時の収入、すなわち結婚公示免除、結婚免許、灌水(かんすい)式、説教、会堂や礼拝堂の祝祷(しゅくとう)、結婚式、などの収入について、司教はできるだけ多く富者から徴収し、それだけまた貧しい人々に与えた。

 しばらくの後、金銭の寄進が流れ込んできた。金のある者もない者もミリエル氏の門をたたいた。後者は前者が置いていった施与を求めるためである。一年たたないうちに司教は、あらゆる慈善の会計係となり、あらゆる困窮の金庫係となった。莫大(ばくだい)な金額が彼の手を経るようになった。しかしなお彼の生活法は少しも変わるところなく、彼の必要に対して何かが加えられることもなかった。

 いや、それどころではなかったのである。上の者に情けがあるよりも下の者に困窮がある方がいつも多いものであるから、言わばすべてが受けらるる前にまず与えられたのであった。乾(かわ)ききった土地の上の水のようなものだった。いかに彼は金を受け取っても、手には一文もなかった。そういう時、彼は身の衣をもはいだ。

 司教たるものは、すべて宗教上の命令や教書の初めに自分の洗礼名を書く習慣になっていたので、この地方の貧しい人たちは、一種の本能的な愛情よりして、司教の種々な姓名のうちから意味のあるようなのを選んで、彼をビヤンヴニュ(訳者注 歓待の意)閣下としか呼ばなかった。われわれもこれから彼らの例にならって、場合によっては彼をそう呼ぶことにしよう。その上、この呼び名は彼の気にいっていた。彼は言った、「私はその名がすきだ。ビヤンヴニュという言葉は閣下という言葉を償ってくれる。」

 われわれは、ここに描かれてる彼の面影が真実らしいものであるとは主張しない、ただ本物に似よったものであると言うに止めておく。




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