ビクトル・ユーゴー レ・ミゼラブル 第一部 ファンティーヌ


     十 否認の様式

 弁論を終結すべき時はきた。裁判長は被告を起立さして、例のごとく尋ねた。「被告はなお何か申し開きをすることはないか。」

 男は立ったまま手に持っているきたない帽子をひねくっていた。裁判長の言葉も聞こえぬらしかった。

 裁判長は再び同じ問いをかけた。

 こんどは男にも聞こえた。彼はその意味を了解したらしく、目がさめたというような身振りをし、周囲を見回し、公衆や憲兵や自分の弁護士や陪審員や法官らをながめ、腰掛けの前の木柵(さく)の縁にその大きな拳(こぶし)を置き、なお見回して、突然検事の上に目を据えて語り初めた。それはあたかも爆発のごときものだった。その言葉は、支離滅裂で、急激で、互いに衝突し混乱して、口からほとばしりいで、一時に先を争って出て来るかのようだった。彼は言った。

「私の言うのはこうだ。私はパリーで車大工をしていた。バルー親方の家だ。それはえらい仕事だ。車大工というものは、いつも戸外(そと)で、中庭で、仕事をしなくちゃならない。親切な親方の家じゃ仕事場でするんだが、決してしめ切った所じゃない。広い場所がいるからだ。冬なんかひどく寒いから、自分で腕を打って暖まるくらいだ。だが親方はそれを喜ばない。時間がつぶれるというんだ。舗石(しきいし)の間には氷がはりつめていようという寒い時に鉄を扱うのは、つらいもんだ。すぐに弱ってしまう。そんなことをしていると、まだ若いうちに年をとってしまう。四十になる頃にはもうおしまいだ。私は五十三だった、非常につらかった。それに職人というものは意地が悪いんだ! 年が若くなくなると、もう人並みの扱いはしないで老耄奴(おいぼれめ)がと言いやがる。私は一日に三十スーよりもらわなかった。給金をできるだけ安くしようというのだ。親方は私が年をとってるのをいいことにしたんだ。それに私は、娘が一人あった。川の洗たく女をしていたが、その方でも少ししか取れなかった。でも二人で、どうにかやってはゆけた。娘の方もつらい仕事だった。雨が降ろうが、雪が降ろうが、身を切るような風に吹かれて、腰まである桶(おけ)の中で一日働くんだ。氷が張っても同じだ。洗たくはしなけりゃならない。シャツをよけいに持っていない人がいるんだ。後を待っている。すぐに洗わなけりゃ流行(はや)らなくなってしまう。屋根板がよく合わさっていないので、どこからでも雨がもる。上着や下着は皆びしょぬれだ。身体にまでしみ通ってくる。娘はまた、アンファン・ルージュの洗たく場でも働いたことがある。そこでは水が鉄管から来るので、桶の中にはいらないですむ。前の鉄管で洗って、後ろの盥(たらい)でゆすぐんだ。戸がしめてあるんだからそんなに寒くはない。だが恐ろしく熱い蒸気が吹き出すから、目を悪くしてしまう。娘は夕方七時に帰ってきて、すぐに寝てしまう。そんなに疲れるんだ。亭主はそれをなぐる。そのうち娘は死んでしまった。私どもは非常に不仕合わせだった。娘は夜遊びをしたこともなく、おとなしいいい子だった。一度カルナヴァルのしまいの日に、八時に帰ってきて寝たことがあったばかりだ。そのとおりだ。私は本当のことを言ってる。調べたらすぐわかることだ。ああそうだ、調べるといったところで、パリーは海のようなもんだ。だれがシャンマティユーじいなんかを知ってよう。だがバルーさんなら知ってる。バルーさんの家に聞いてみなさい。その上で私をどうしようと言いなさるのかね。」

 男はそれで口をつぐんで、なお立っていた。彼はそれだけのことを、高い早い嗄(しわが)れたきつい息切れの声で、いら立った粗野な率直さで言ってのけた。ただ一度、群集の中のだれかにあいさつするため言葉を途切らしただけだった。やたらにつかんでは投げ出したようなその断定の事がらは、吃逆(しゃっくり)のように彼の口から出た。そして彼はその一つ一つに、木を割ってる樵夫(きこり)のような手つきをつけ加えた。彼が言い終わった時、傍聴人は失笑(ふきだ)した。彼はその公衆の方をながめた。そして皆が笑ってるのを見て、訳もわからないで、自分でも笑い出した。

 それは彼にとって非常な不利であった。

 注意深いまた親切な裁判長は、口を開いた。

 彼は「陪審員諸君」に、「被告が働いていたという以前の車大工親方バルーという者を召喚したが出頭しなかった、破産をして行方(ゆくえ)がわからないのである、」ということを告げた。それから彼は被告の方に向いて、自分がこれから言うことをよく聞くようにと注意し、そして言った。「その方はよく考えてみなければならない場合にあるのだぞ。きわめて重大な推定がその方の上にかかったのだ、そして最悪な結果をきたすかも知れないのだ。被告、その方のために本官は最後に今一度言ってやる。次の二つの点を明瞭(めいりょう)に説明してみよ。第一に、その方はピエロンの果樹園の壁を乗り越え枝を折り林檎(りんご)を盗んだか、否か。言い換えれば、侵入窃盗(せっとう)の罪を犯したか、否か。第二に、その方は放免囚ジャン・ヴァルジャンであるか、否か。」

 被告はそれをよく理解しかつ答うべきことを知ってるかのように、悠然(ゆうぜん)と頭を振った。彼は口を開き、裁判長の方を向き、そして言った。

「まず……。」

 それから彼は自分の帽子を見、天井をながめ、それきり黙ってしまった。

「被告、」と検事は鋭い声で言った、「注意せい。その方は審問には何も答えない。その方の当惑を見ても罪は十分明らかだ。みな明瞭にわかっているのだぞ。その方はシャンマティユーという者ではない。徒刑囚ジャン・ヴァルジャンである。初め母方の姓を取ってジャン・マティユーという名の下に隠れていたのだ。その方はオーヴェルニュに行ったことがある。その方はファヴロールの生まれで、そこで枝切り職をやっていた。それからまた、その方がピエロン果樹園に侵入して熟した林檎(りんご)を盗んだことも明白である。陪審員諸君も十分認められることと思う。」

 被告は再び席についていた。しかし検事が言い終わると急に立ち上がって叫んだ。

「旦那(だんな)はわるい人だ、旦那は! 私は初めから言いたかったのだが、どう言っていいかわからなかったのだ。私は何も盗みはしなかった。私のようなものは、毎日食べなくてもいいのだ。私はその時アイイーからやってきた。その田舎(いなか)を歩いていた。夕立の後で田圃(たんぼ)は黄色くなっていた。池の水はいっぱいになっていた。路傍(みちばた)には小さな草が砂から頭を出してるきりだった。私は林檎のなってる枝が折れて地に落ちてるのを見つけた。私はその枝を拾った。それがこんな面倒なことになろうとは知らなかったのだ。私はもう三月(みつき)も牢にはいっている。方々引き回された。それから、私は何と言っていいかわからないが、旦那方は私を悪くいって、返事をしろ! と言いなさる。憲兵さんは親切に、私を肱(ひじ)でつっついて、返事をするがいいと小声で言いなさる。が私は何と説き明かしていいかわからない。私は学問もしなかった。つまらない男だ。それがわからないと言うのは旦那方の方がまちがってるんだ。私は盗みはしなかった。落ちてるものを地から拾い上げたまでだ。旦那方はジャン・ヴァルジャン、ジャン・マティユーと言いなさる。私はそんな人たちは知らない。それは村の人かも知れない。私はロピタル大通りのバルーさんの家で働いていたんだ。私はシャンマティユーという者だ。よくも旦那方は私の生まれた所まで言ってきかしなさる。だが自分ではどこで生まれたか知らないんだ。生まれるに家のない者もいる。その方が便利かもわからないんだ。私の親父(おやじ)と母親(おふくろ)とは大道を歩き回ってる者だったに違いない。だがそれも私はよく知らない。子供の時私は小僧と言われていた、そして今では爺さんと人が言ってくれる。それが私の洗礼名だ。どう考えようとそれは旦那方(だんながた)の勝手だ。私はオーヴェルニュにもいたし、ファヴロールにもいた。だが、オーヴェルニュやファヴロールにいた者は皆牢にいた者だというのかね。私は泥坊なんかしなかったというんだ。私はシャンマティユー爺というものだ。私はバルーさんのうちにいた。ちゃんと住居(すまい)があったんだ。旦那方は訳もわからないことを言って私をいじめなさる。なぜそう一生懸命になって私を皆でつけ回しなさるのかね!」

 検事はその間立ったままでいたが、裁判長へ向かって言った。

「裁判長殿、被告は曖昧(あいまい)なしかも至って巧妙な否認を試み、白痴として通らんとしている。しかしそうはゆかぬ。吾人(ごじん)はその手には乗らない。裁判長並びに法廷の諸君、吾人は被告の否認に対して、ふたたび囚徒ブルヴェー、コシュパイユ、シュニルディユー、および警視ジャヴェルを、この場に召喚することを請求したい。しかして最後に今一度、被告とジャン・ヴァルジャンとが同一人なるや否やを彼らに尋問したいのである。」

「検事に注意するが、」と裁判長は言った、「警視ジャヴェルは公用によって隣郡の町に帰るため、供述を終えて直ちに法廷を去り、この町をも去っている。検事および被告弁護士の同意を得てそれを彼に許可したのである。」

「裁判長殿、まさにそのとおりです。」と検事は言った。「しかしてジャヴェル君の不在により、私は彼が二、三時間前この席において供述したところのことを、陪審員諸君の前に再び持ち出したい。ジャヴェルはりっぱな人物であり、下役ではあるが、しかし至って重要なるその役目を厳粛なる正直(せいちょく)さをもって果たす男である。そして彼は実にかくのごとく陳述したのである。『私は被告の否認を打ち消すべき心理的推定並びに具体的証拠をさえも必要としませぬ。私はこの男を十分見識(し)っています。この男はシャンマティユーという者ではありませぬ。この男は極悪なる恐るべき徒刑囚ジャン・ヴァルジャンであります。刑期過ぎてこの男を放免するのもすこぶる遺憾なほどでありました。彼は加重情状付窃盗(せっとう)のために十九年間の徒刑を受けたのです。その間に五、六回の脱獄を企てたのであります。プティー・ジェルヴェーに関する窃盗並びにピエロンに関する窃盗のほかに、私はなお、故ディーニュの司教閣下の家においてもある窃盗を働いたことを睨(にら)んでいるのであります。私はツーロンの徒刑場において副看守をしていました時に、彼をしばしば見たことがあります。私はこの男を十分識(し)っていることをここにくり返して申したいのであります。』」

 そのきわめて簡明なる申し立ては、公衆および陪審員に強い印象を与えたらしかった。検事はジャヴェルを除いた三人の証人、ブルヴェー、シュニルディユー、コシュパイユを再び呼び寄せて厳重に尋問すべきを主張して席に着いた。

 裁判長は一人の守衛に命令を伝えた。直ちに証人の室の扉(とびら)は開かれた。守衛は万一の場合手助けとなる憲兵を一人伴って、囚徒ブルヴェーを導いてきた。傍聴人らは不安に息を凝らし、彼らのすべての胸はただ一つの心を持ってるかのように皆一時におどった。

 前囚徒ブルヴェーは、中央監獄の暗灰色の上衣を着ていた。六十歳ばかりの男で、事務家らしい顔つきと悪者らしい様子とをそなえていた。事務家の人相と悪者の様子とは互いに相応することがあるものである。彼はある新しい悪事で再び監獄にはいったのであるが、いくらか取り立てられて牢番になっていた。「奴(やつ)何かの役にたちたいと思ってるらしい、」と上役どもから言われていた。教誨師(きょうかいし)らも彼の宗教上の平素については善(よ)く言っていた。もちろんそれは王政復古後のことであるのはいうまでもないことである。

「ブルヴェー、」と裁判長は言った、「その方は賤(いや)しい刑を受けたる身であるから、宣誓をすることはできないが……。」

 ブルヴェーは目を伏せた。

「しかしながら、」と裁判長は続けた、「法律によって体面を汚された者のうちにも、神の慈悲によって、なお名誉と公正の感情はとどまり得る。今この大切なる時に当たって本官はその感情に訴えたい。なおその方のうちに、本官の希望するごとく、その感情があるならば、本官に答える前によく考えてみよ。一方には、その方の一言によって身の破滅をきたすかも知れない男があり、他方には、その方の一言によって公明になるかも知れない正義があるのだ。重大な場合である。誤解だと信ずるならばその方はいつでも前言を取り消してよろしい。――被告、起立せい。――ブルヴェー、よく被告を見、記憶をたどって、被告はその方の徒刑場の昔の仲間ジャン・ヴァルジャンであるとなお認むるかどうか、その方の魂と良心とをもって申し立ててみよ。」

 ブルヴェーは被告をながめた。それから法官の方へ向き直った。

「そうです、裁判長殿。最初に彼を認めたのは私です。私は説を変えませぬ。この男はジャン・ヴァルジャンです。一七九六年にツーロンにはいり、一八一五年にそこを出たのです。私はそれから一年後に出ました。今ばかな様子をしていますが、それは老耄(おいぼれ)たからでしょう。徒刑場では狡猾(こうかつ)な奴でした。私は確かにこの男を覚えています。」

「席につけ。」と裁判長は言った。「被告は立っておれ。」

 シュニルディユーが導かれてきた。その赤い獄衣と緑の帽子とが示すように無期徒刑囚であった。彼はツーロンの徒刑場で服役していたが、その事件のために呼び出されたのである。いらいらした、顔にしわのよった、弱々しい身体の、色の黄いろい、鉄面皮な、落ち着きのない、五十歳ばかりの背の低い男で、手足や身体には病身者らしいところがあり、目つきには非常な鋭さがあった。徒刑場の仲間らは彼をジュ・ニ・ディユーと綽名(あだな)していた。(訳者注 吾神を否定するという意味であってシュニルディユーをもじったものである)

 裁判長はブルヴェーに言ったのとほとんど同じような言葉を彼に言った。裁判長が彼に、その汚辱のために宣誓する権利がないことを注意した時、彼は頭を上げて、正面の群集を見つめた。裁判長は彼によく考えるように言って、それからブルヴェーに尋ねたとおり、彼がなお被告を知っていると主張するかどうかを尋ねた。

 シュニルディユーは放笑(ふきだ)した。

「なあに、知ってるかって! 私どもは五年も同じ鎖につながれていたんだ。おい爺さん、何をそう口をとがらしているんだ。」

「席につけ。」と裁判長は言った。

 守衛はコシュパイユを連れてきた。シュニルディユーと同じく徒刑場から呼び出された、赤い獄衣を着てる無期徒刑囚だった。ルールドの田舎者(いなかもの)で、ピレネー山の山男だった。彼は山中で羊の番をしていたのであるが、羊飼いから盗賊に堕したのである。被告同様の野人で、かつなおいっそう愚鈍らしかった。自然から野獣に作られ社会から囚人に仕上げられた不幸なる人々の一人だった。

 裁判長は感慨ぶかい荘重な言葉で、彼の心を動かそうとした、そして前の二人にしたように、前に立っている男を何らの躊躇(ちゅうちょ)も惑いもなく認定しつづけるかどうかを尋ねた。

「こいつはジャン・ヴァルジャンだ。」とコシュパイユは言った。「起重機のジャンとも言われていた。そんなに力が強かったんだ。」

 明らかにまじめに誠実になされたその三人の断定をきくたびごとに、傍聴人の間には被告の不利を予示するささやきが起こった。新しい証言が前の証言に加わってゆくごとに、そのささやきはますます大きくなり長くなった。被告の方は、それらの証言を例のびっくりしたような顔つきで聞いていた。反対者から言わすれば、それは彼の自己防衛の重なる手段であった。第一の証言に、両側にいた二人の憲兵は彼が口のうちでつぶやくのを聞いた。「なるほど彼奴(あいつ)がその一人だな!」第二の証言の後、彼はほとんど満足らしい様子ですこし高い声で言った、「結構だ!」三番目には彼は叫んだ、「素敵だ!」

 裁判長は彼に言葉をかけた。

「被告、ただいま聞いたとおりだ。何か言うことがあるか。」

 彼は答えた。

「私は、素敵だ! と言うのだ。」

 喧騒(どよめき)が公衆のうちに起こって、ほとんど陪審員にまでおよんだ。その男がもはや脱(のが)れられないのは明白であった。

「守衛たち、」と裁判長は言った、「場内を取り静めよ。本官はこれより弁論の終結を宣告する。」

 その時、裁判長のすぐ傍に何か動くものがあった。人々は一つの叫ぶ声をきいた。

「ブルヴェー、シュニルディユー、コシュパイユ! こちらを見ろ。」

 その声を聞いた者は皆凍りつくような感じがした。それほど悲しいまた恐ろしい声であった。人々の目はその声のした一点に向けられた。法官席の後ろにすわっている特別傍聴人のうちの一人の男が、立ち上がって、判事席と法廷とをへだてる半戸を押し開き、広間の中央につっ立っていた。裁判長も検事もバマタボア氏も、その他多くの人が、その男を認めた、そして同時に叫んだ。

「マドレーヌ氏!」




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