ビクトル・ユーゴー レ・ミゼラブル 第一部 ファンティーヌ


     二 楽しきファンティーヌ

 ファンティーヌはびっくりした身振りも喜びの身振りもしなかった。彼女は喜びそのものであった。「あの、コゼットは?」というその簡単な問いは、深い信念と確信とをもって、不安も疑念もまったくなしに発せられたので、マドレーヌ氏はそれに答うべき言葉が見つからなかった。ファンティーヌは続けて言った。

「私はあなたがそこにいらっしゃるのを知っていました。私は眠っておりましたが、あなたを見ていました。もう長い間見ていました。夜通し私は目であなたの後(あと)をつけていました。あなたは栄光に包まれて、あなたのまわりにはあらゆる天の人たちがいました。」

 彼は十字架像の方に目を上げた。

「ですが、」と彼女は言った、「どこにコゼットはいるのか教えて下さい。私が目をさます時のために、なぜ私の寝床の上に連れてきて下さらなかったのでしょう。」

 彼は何か機械的に答えた。しかし何と答えたのか、自分でも後でどうしても思い出せなかった。ちょうど仕合わせにも、医者が知らせを受けてやってきた。彼はマドレーヌ氏を助けた。

「まあ静かになさい。」と医者は言った。「子供はあちらにきています。」

 ファンティーヌの目は輝き渡り、顔一面に光を投げた。すべて祈願の含み得る最も激しいまた優しいものをこめた表情をして、彼女は両手を握り合わした。

「ああどうか、」と彼女は叫んだ、「私の所へ抱いてきて下さい。」

 ああいかに人の心を動かす母の幻想であるかよ! コゼットは彼女にとっては常に、抱きかかえ得る小さな子供であった。

「まだいけません。」と医者は言った。「今すぐはいけません。まだあなたには熱があります。子供を見たら、興奮して身体にさわるでしょう。まずすっかりなおらなければいけません。」

 彼女は苛(い)ら立ってその言葉をさえぎった。

「私はなおっていますわ! なおっていますっていうのに! この先生は何てわからずやでしょう。ああ、私は子供に会いたいんです。私は!」

「それごらんなさい、」と医者は言った、「あなたはそんなに興奮するでしょう。そんなふうでいる間は、子供に会うことに私は反対します。子供に会うだけでは何にもなりません、子供のために生きなければいけません。あなたがしっかりしてきたら、私が自分で子供は連れてきてあげます。」

 あわれな母は頭を下げた。

「先生、お許し下さい。ほんとうに許して下さいませ。昔は今のような口のきき方をしたことはありませんでしたが、あんまりいろいろな不仕合わせが続きましたので、どうかすると自分で自分の言ってる事がわからなくなるのです。私はよくわかっております、あまり心を動かすことを御心配なすっていらっしゃるんですわね。私は先生のおっしゃるまで待っていますわ。ですけれど、娘に会っても身体にさわるようなことは決してありませんわ。私は娘を見ています。昨晩から目を離さないでいます。今娘が抱かれて私の所へきても、私はごく静かに口をききます。それだけのことですわ。モンフェルメイュからわざわざ連れてきて下すった子供に会いたがるのは、当たりまえのことではありませんか。私は苛(い)ら立ってはいません。私はこれから仕合わせになるのをよく知っています。夜通し私は、何か白いものを、そして私に笑いかけてる人たちを見ました。先生のおよろしい時に、私のコゼットを抱いてきて下さいませ。私はもう熱はありません、なおってるんですもの。もう何ともないような気がしますわ。けれど、病人のようなふうをして、ここの御婦人方の気に入るように動かないでおりましょう。私が静かにしてるのを御覧なすったら、子供に会わしてやるがいいとおっしゃって下さいますでしょう。」

 マドレーヌ氏は寝台のそばにある椅子(いす)にすわっていた。ファンティーヌは彼の方に顔を向けた。彼女はまるで子供のような病衰のうちに、自分でも言ったとおり、静かにそして「おとなしく」しているのを見せようと明らかに努力をしていた。そして自分が穏やかにしているのを見たらだれもコゼットを連れて来るのに反対しないだろうと、思っているらしかった。けれども、自らそうおさえながらも、彼女はマドレーヌ氏にいろいろなことを尋ねてやまなかった。

「市長様、旅はおもしろうございましたか。ほんとに、私のために子供を引き取りに行って下さいまして、何という御親切でしょう。ただちょっと子供の様子をきかして下さいませ。旅にも弱りませんでしたでしょうか。ああ、娘は私を覚えていませんでしょう! あの時から私をもう忘れてるでしょう、かわいそうに! 子供には記憶というものがないんですもの。小鳥のようなものですわ。今日はこれを見てるかと思うと、明日はあれを見ています、そしてもう何にも思い出しません。娘は白いシャツくらいは着ていましたでしょうか。テナルディエの人たちは娘をきれいにしてくれていましたでしょうか。どんな物を食べていましたでしょう。ほんとうに、私は困っていました頃、そんなことを考えてはどんなに苦しい思いをしましたでしょう。でも今ではみんな済んでしまいました。私はほんとにうれしいのです。ああ私はどんなに娘に会いたいでしょう! 市長様、娘はかわいうございましたか。娘はきれいでございましょうね。あなたは駅馬車の中でお寒くていらっしゃいましたでしょうね。ほんのちょっとの間でも娘をつれてきていただけませんでしょうか。一目見たらまたすぐ向こうに連れてゆかれてもよろしいんですが。ねえ、あなたは御主人ですから、あなたさえお許しになりますれば!」

 彼は彼女の手を取った。「コゼットはきれいです。」と彼は言った。「コゼットは丈夫です。じきに会えます。がまあ落ち着かなくてはいけません。あなたはあまりひどく口をきくし、それに寝床から腕を出しています。それで咳(せき)が出るんです。」

 実際、激しい咳はほとんど一語一語彼女の言葉を妨げていた。

 ファンティーヌはもう不平を言わなかった。あまり激しく訴えすぎて、皆に安心させようとしていたのがむだになりはしないかと恐れた。そして関係のない他のことを言い出した。

「モンフェルメイュは相当よい所ではございませんか。夏になるとよく人が遊びに行きます。テナルディエの家は繁盛しておりますか。あの辺は旅の客が多くありません。であの宿屋もまあ料理屋みたようなものですわね。」

 マドレーヌ氏はやはり彼女の手を取ったままで、心配して彼女の顔を見ていた。明らかに彼女に何事かを言うためにきたのであったが、いまや彼の頭はそれに躊躇(ちゅうちょ)していた。医者は診察をすまして出て行った。ただサンプリス修道女だけが彼らの傍に残った。

 そのうち、その沈黙の最中に、ファンティーヌは叫んだ。

「娘の声がする。あ、娘の声が聞こえる!」

 彼女は周囲の人たちに黙っているように腕を伸ばし、息を凝らして、喜ばしげに耳を澄まし初めた。

 ちょうど中庭に一人の子供が遊んでいた。門番の女の児か、またはだれか女工の児であろう。それこそ実に、痛ましいできごとの神秘な舞台面の一部をなすらしいあのよくある偶然事の一つである。それは一人の小さな女の児で、身を暖めるために行ったりきたり走ったりして、高い声で笑い歌っていた。ああ、子供の戯れまですべてのことに立ち交じるものである! ファンティーヌが聞いたのはその小さい娘の歌う声であった。

「おお!」とファンティーヌは言った、「あれは私のコゼットだわ! 私はあの声を覚えている。」

 子供はきた時のようにまたふいに去って行った。声は聞こえなくなった。ファンティーヌはなおしばらく耳を傾けていたが、次にその顔は暗くなった。そしてマドレーヌ氏は、彼女が低い声で言うのを聞いた。「私を娘に会わしてくれないとは、あのお医者は何という意地悪だろう! ほんとにいやな顔をしているわ、あの人は。」

 しかし彼女の頭の底の楽しい考えはまた浮き出してきた。彼女は頭を枕につけながら、自ら自分に語り続けた。「私たちは何と仕合わせになることだろう! まず一番に小さな庭が持てる。マドレーヌ様がそうおっしゃっていらした。娘はその庭で遊ぶだろう。それにもう字も覚えなければならない。綴(つづ)り方を教えてやろう。草の中に蝶々(ちょうちょう)を追っかけることだろう。私はその姿を見てやるわ。それからまた、初めての聖体拝受(コンムユニオン)もさしてやろう。ああ、いつそれをするようになるかしら?」

 彼女は指を折って数え初めた。

「……一(ひい)、二(ふう)、三(みい)、四(よう)、もう七歳(ななつ)になる。もう五年したら。白いヴェールを被(かぶ)らせ、透き編みの靴下をはかせよう。一人前の娘さんのようになるだろう。ああ童貞さん、ほんとに私はばかですわね、娘の最初の聖体拝受(コンムユニオン)なんかを考えたりして。」

 そして彼女は笑い出した。

 マドレーヌ氏はファンティーヌの手を離していた。彼は下に目を伏せ底知れぬ考えのうちに沈んで、あたかも風の吹く音を聞くかのようにそれらの言葉に耳を貸していた。と突然、彼女は口をつぐんだ。彼はそれで機械的に頭を上げた。ファンティーヌは恐ろしい様子になっていた。

 彼女はもう口をきこうとしなかった、息さえも潜めていた。彼女はそこに半ば身を起こし、やせた肩はシャツから現われ、一瞬間前まで輝いていた顔はまっさおになり、そして、自分の前に室の向こうの端に、何か恐ろしいものを見つめてるようだった。その目は恐怖のために大きく見開かれていた。

「おう!」と彼は叫んだ、「どうした? ファンティーヌ。」

 彼女は答えなかった。その見つめたある物から目を離さなかった。彼女は片手で彼の腕をとらえ、片手で後ろを見るように合い図をした。

 彼はふり返って見た。そこにはジャヴェルが立っていた。




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