ファウスト ゲーテ






  悲壮劇の第一部






  夜



狭き、ゴチック式の室の、高き円天井の下に、ファウストは不安なる態度にて、卓を前にし、椅子に坐してゐる。



  ファウスト

はてさて、己は哲学も
法学も医学も
あらずもがなの神学も
熱心に勉強して、底の底まで研究した。
そうしてここにこうしている。気の毒な、馬鹿な己だな。
そのくせなんにもしなかった昔より、ちっともえらくはなっていない。
マギステルでござるの、ドクトルでござるのと学位倒れで、
もう彼此十年が間、
弔り上げたり、引き卸したり、竪横十文字に、
学生どもの鼻柱を撮(つ)まんで引き廻している。
そして己達に何も知れるものでないと、己は見ているのだ。
それを思えば、ほとんどこの胸が焦げそうだ。
勿論世間でドクトルだ、マギステルだ、学者だ、牧師だと云う、
一切の馬鹿者どもに較べれば、己の方が気は利いている。
己は疑惑に悩まされるようなことはない。
地獄も悪魔もこわくはない。
その代り己には一切の歓喜がなくなった。
一廉(ひとかど)の事を知っていると云う自惚(うぬぼれ)もなく、
人間を改良するように、済度するように、
教えることが出来ようと云う自惚もない。
それに己は金も品物も持っていず、
世間の栄華や名聞も持っていない。
この上こうしていろと云ったら、狗(いぬ)もかぶりを振るだろう。
それで霊(れい)の威力や啓示で、
いくらか秘密が己に分かろうかと思って、
己は魔法に這入った。
その秘密が分かったら、辛酸の汗を流して、
うぬが知らぬ事を人に言わいでも済もうと思ったのだ。
一体この世界を奥の奥で統(す)べているのは何か。
それが知りたい。そこで働いている一切の力、一切の種子(しゅし)は何か。
それが見たい。それを知って、それを見たら、
無用の舌を弄せないでも済もうと思ったのだ。

ああ。空(そら)に照っている、満ちた月。
この机の傍で、己が眠らずに
真夜中を過したのは幾度だろう。
この己の苦(くるしみ)をお前の照すのが、今宵を終(おわり)であれば好いに。
悲しげな友よ。そう云う晩にお前は
色々の書物や紙の上に照っていた。
ああ。お前のその可哀らしい光の下に、
高い山の背(せ)を歩くことは出来まいか。
(れい)どもと山の洞穴のあたりを飛行(ひぎょう)することは出来まいか。
野の上のお前の微かな影のうちに住むことは出来まいか。
あらゆる知識の塵の中から蝉脱(せんだつ)して、
お前の露を浴びて体を直すことは出来まいか。

ああ、せつない。己はまだこの牢屋に蟄(ちっ)しているのか。
ここは咀(のろ)われた、鬱陶しい石壁の穴だ。
可哀らしい空(そら)の光も、ここへは濁って、
窓の硝子画を透って通うのだ。
この穴はこの積み上げた書物で狭められている。
蠧魚(しみ)に食われ、塵埃に掩(おお)われて、
円天井近くまで積み上げてある。
それに煤けた見出しの紙札が挿(はさ)んである。
この穴には瓶や缶が隅々に並べてある。
色々の器械が所(ところ)(せ)きまで詰め込んである。
お負けに先祖伝来の家具までが入れてある。
やれやれ。これが貴様の世界だ。これが世界と云われようか。

貴様はこんな処にいて、貴様の胸の中で心の臓が
窮屈げに艱(なや)んでいるのを、まだ不審がる気か。
あらゆる生(せい)の発動を、なぜか分からぬ苦(くるしみ)
障礙(しょうがい)するのを、まだ不審がる気か。
神は人間を生きた自然の中へ
造り込んで置いてくれたのに、
お前は烟と腐敗した物との中で、
人や鳥獣(とりけだもの)の骸骨に取り巻かれているのだ。

さあ、逃げんか。広い世界へ出て行かぬか。
ここにノストラダムスが自筆で書いて、
深秘(しんぴ)を伝えた本がある。
貴様の旅立つ案内には、これがあれば足りるではないか。
そして自然の教を受けたなら、
星の歩(あゆみ)がお前に知れて、
(れい)が霊に語るが如くに、
貴様の霊妙な力が醒めよう。
いや。こうして思慮を費して、
この神聖な符を味っていたって駄目だ。
こりゃ。お前達、霊(れい)ども。お前達は己の傍にさまよっていよう。
己の詞(ことば)が聞えるなら、返事をせい。

(書を開き、大天地の符を観る。)

や。これを見ると、己のあらゆる官能に
(たちま)ちなんとも言えぬ歓喜が漲(みなぎ)る。
青春の、神聖なる生の幸福が新に燃えるように
己の脈絡や神経の中を流れるのが分かる。
この符を書いたのは神ではあるまいか。
己の内生活の騒擾(そうじょう)を鎮めて、
歓喜を己の不便(ふびん)な胸のうちに充たし、
己の身を取り巻いている自然の、一切の力を、
微妙に促して暴露させて見せるのはこの符だ。
己が神ではあるまいか。不思議に心が澄んで来る。
この符の清浄な画(かく)を見ているうちに、
活動している自然が、己の霊(れい)のために現前する。
今やっと思い当るのは、古(いにしえ)の賢人の詞だ。
「霊(れい)の世界は鎖されたるにあらず。
汝が耳目壅(ふさが)れり。汝が心胸死せり。
起て、学徒。誓ひて退転せず、
塵界の胸を暁天の光に浴せしめよ。」

(符を観る。)

一々の物が全体に気息を通じて、
物と物とが相互にそれぞれ交感し合っている。
黄金(こがね)の釣瓶(つるべ)を卸してはまた汲む如く、天上の
(もろもろ)の力が降(くだ)ってはまた昇る。
その総てが、祝福の香を送る翼を振って、
天から下界へ通(とお)って来て、
諧調をなして万有のうちに鳴り渡る。

なんと云う壮観だろう。だが、惜むらくは見物(みもの)たるに過ぎぬ。
ああ、無辺際なる自然よ。己はどこを攫(つか)まえよう。
一切の物の乳房等よ。己はどれを手に取ろう。
天地の命根の通っている、一切の生(せい)の泉等よ。
枯れ衰えた己の胸のあこがれ迫る泉等よ。汝達は湧いている。
汝達は人に飲ませている。それに己は徒(いたずら)に渇せねばならぬか。

(憤慨せる様にて書を飜し、地の精(せい)の符を観る。)

はて、この符の己に感じる工合はよほど違う。
こりゃ、地の精。お前は大ぶ己に近い。
もう己の力が加わって来るらしい。
もう新しい酒に酔(よ)ったような気がする。
危険を冒して世の中に出て、
下界の苦痛をも、下界の幸福をも受け、
暴風に逆(さから)って奮闘し、沈まんとする舟のきしめきにも
逡巡(しゅんじゅん)しない勇気を身に覚える。
はあ。己の頭の上に雲が涌いて来た。
月の光が隠れてしまった。
燈火も見えなくなった。
湯気のようなものが立つ。己の頭の周囲(まわり)
稲妻のように赤い炎(ほのお)が閃く。円天井から
陰森の気が吹き卸して来て、
己の身を襲う。
己は感じる。お前、身(み)の辺(ほとり)に漂っているな。招き寄せた霊奴(れいめ)
形を顕せ。
はあ。己の胸の底へ引き弔(つ)るようにひびく。
新しい感じに
あらゆる己の官能が掻き乱される。
己の心を全くお前に委ねたように感じる。
形を顕せ。形を顕せ。己の命を取られても好い。

(本を手に取り、地の精の呪文を深秘なる調子にて唱ふ。赤き炎燃え立ちて、精霊炎の中に現る。)



  霊

己を呼ぶのは誰だ。


  ファウスト(顔を背向(そむ)く。)

気味の悪い姿だな。


  霊

お前は長い間己の境界に、吸引の力を逞(たくまし)ゅうして、
強く己を引き寄せたな。
そしてどうする。


  ファウスト

ああ、せつない。己はもう堪えられぬ。


  霊

お前はと息を衝きながら己に目(ま)のあたり逢って、
己の声を聞き、己の顔を見ようと願う。
お前の霊(れい)の願(ねがい)が己を引き寄せている。
さあ、ここに来ている。なんと云うけちな恐怖が
超人を以て居(お)るお前を襲っているのだ。霊の叫(さけび)はどこにある。
自分だけの世界を造って、それを負うて、
(つちこ)うた胸、己達霊どもと同じ高さの位置に立とうと、
歓喜の震(ふるい)を以て張った胸はどこにある。
己に声を聞せたファウスト
力一ぱい己に薄(せま)って来たファウストはどこにいる。
その男がお前か。己の息に触れたばかりで、
性命の底から震い上がって、
臆病にも縮んでいる虫がその男か。


  ファウスト

ああ。炎の姿のそちを見て、なんの己がたじろくものか。
己だ。ファウストだ。お前達の仲間だ。


  霊

(せい)の流(ながれ)に、事業の暴風(あらし)
身を委ねて降りては昇る。
かなたこなたへ往いては返る。
(さん)の褥(しとね)、死の冢穴(つかあな)
常世(とこよ)の海原。
経緯(たてぬき)の糸の交(まじり)
燃ゆる命。
かくて「時」のさわ立つ機を己は織る。
神の生ける衣(きぬ)を織る。


  ファウスト

広い世界を飛びめぐる忙しい霊(れい)よ。
己はお前をどれ程か親しく思っているぞ。


  霊

いや。お前に分かる霊にこそお前は似ている。
己には似ておらん。(消ゆ。)


  ファウスト(挫け倒る。)

お前には似ておらんと云うか。
そんなら誰に似ている。
神の姿をそのままに写された己だ。
それがお前にさえ似ないと云うのか。

(戸を敲(たた)く音す。)

ああ、死だ。分かっている。あれは内の学僕だ。
己の最上の幸福が駄目になる。
これ程の顕現(あらわれ)の満ち満ちている刹那を、
あの抜足をして歩くような乾燥無味な男が妨げるのか。

(ワグネル寝衣を著、寝る時被る帽を被り、手に燈を取て登場。ファウスト不機嫌らしく顔を背向(そむ)く。)



  ワグネル

御免下さいまし。あなたの御朗読をなさるのが聞えましたので、
おお方グレシアの悲壮劇をお読みになるのだろうと存じました。
わたくしも少し覚えて得(とく)をいたしたいと存じます。
なんでも当節はそう云うことは受(うけ)が好いのでございます。
誰やらが申すのを承りましたが、
俳優は牧師の師匠になっても宜しいと申すことで。


  ファウスト

それは牧師が俳優であったらそうであろう。
追々そんな風になるまいものでもない。


  ワグネル

わたくしのように研究室の中に縛られていて、
世間を見るのは、やっと休日に
遠い処から遠目金で見るような事では、
どうして言論で世間を説き動すことが出来ましょう。


  ファウスト

それは君が自分で感じていて、それが肺腑から流れ出て、
聞いているみんなの心を
根強い興味で引き附けなくては、
世間を擒(とりこ)にすることは出来ない。
そんなにして据わっていて、膠(にかわ)で接(つ)ぎ合せて、
人の馳走の余物で骨董羹(ごっちゃに)を拵えて、
君の火消壺の中から
けちな火を吹き起しても、
それでは子供や猿どもでなくては感心はしない。
それが望ならそれまでの事だ。
どうせ君の肺腑から出た事でなくては、
人の肺腑に徹するものではない。


  ワグネル

先生のお詞ですが、演説家は雄弁法で成功します。
どうもその研究が足りないのが、わたくしには分かっています。


  ファウスト

いや。成功しようと云うには、正直に遣らなくてはいかん。
鐘大鼓で叩き立てる馬鹿者になってはいかん。
智慧があって、切実な議論をするのなら、
技巧を弄せないでも演説は独りでに出来る。
何か真面目に言おうと思う事があるのなら、
なんの詞なんぞを飾るに及ぶものか。
どうかすると君方の演説は人世の紙屑で
上手な細工がしてあって、光彩陸離としていても、
それは秋になって枯葉を吹きまくる
湿った風のように気持の悪いものだ。


  ワグネル

はいはい。「学芸はとこしえにして、
我等の生(せい)は短し」でございます。
御承知の通り、批評的研究を努めていますと、
折々頭や胸がどうかなりはすまいかと気遣われます。
なんでも淵源まで溯って行く
舟筏を得るのは、容易な事ではございません。
半途まで漕ぎ著けたところで、
まあ、我々不便(ふびん)な奴は死ぬるのでございますね。


  ファウスト

古文書がなんで一口飲んだだけで
永く渇を止める、神聖な泉のものか。
なんでも泉が自分の霊(れい)から涌いて出(で)んでは
心身を爽かにすることは出来ない。


  ワグネル

はい。先生はそう仰ゃるが、その時代々々の心になって、
我々より前に聖賢がこう考えられたと云うことを
見わたして、今日までの大きい進歩を思う程、
愉快な事はございません。


  ファウスト

そうさ。天の星までも届く進歩だろうよ。
君に言うがな、過去の時代々々は我等のためには
七つの鎖鑰(さやく)を施した巻物だ。
君方が時代々々の精神だと云うのも、
それは原来その時代々々が先生等の霊の上に
投写した影を認めるに過ぎない。
そんなわけだから、随分みじめな事がある。
君方を一目見て人は逃げ出してしまう。
五味溜か、がらくたを打ち込んで置く蔵か。
高が大為掛(おおじかけ)の歴史劇に、
傀儡(でく)の台詞(せりふ)に相応した
結構な処世訓が添えてある位なものだ。


  ワグネル

しかし、先生はそう仰ゃいますが、世界ですね、人の性情ですね、
それを誰でも文献の中から少しなりと知り得たいと存じますので。


  ファウスト

いや。その知るだの、認識するだのと云う詞の意味だて。
本当に知ってもその本当の事があからさまに言われようか。
それは稀には幾らかの事を知って、
おろかにもそれを胸にしまって置かずに、
自分の観た所、感じた所を世俗に明かした人達もあるが、
そう云う人達は磔(はりつけ)にせられたり、焼き殺されたりした。
いや。彼此云ううちに、もう夜が更けた。
今宵は話はこれまでにしよう。


  ワグネル

はい。わたくしはいつまでも起きていて
こんな風にあなたと高尚なお話がいたしたいのでございますが、
さようなら已(や)めましょう。明日(みょうにち)は復活祭の初の日でございます。
それを機としてまた二つ三つお話を伺うことにいたしましょう。
わたくしはこれまで随分研究には努力いたしました。
学問は大分ある積でございますが、一切の事が知りたいと存じまして。

(退場。)



  ファウスト(一人。)

いやはや。いつまでも一縷の望を繋いでいて
心は無用の事物に牽(ひ)かれ、
宝を掘ろうと貪る手で、
蚯蚓(みみず)に掘り当てて喜んでいるとは、気の毒な事だ。

精霊の気が己を囲繞(いにょう)していたこの室で、
あんな人間の声が響いて好いものか。
しかし下界にありとある人の中の人屑にも、
こん度は己が感謝せずばなるまい。
なぜと云うに、己の見聞覚知(けんもんかくち)を破壊しようとした
絶望の境から、あいつが己を救い出したのだ。
いや。あの顕現(あらわれ)が余り偉大なので、
全く自分が侏儒であるように、己は感じた。

神の姿をそのままに写された己は、
永遠なる真理の鏡に逼(せま)り近づいた積(つもり)で、
下界の子から蝉脱して
享楽の自己を天の光明のうちに置いていたのに、
己は光の天使にも増して、無礙(むげ)自在の力が
既に宇宙の脈のうちを流れ、
創造しつつ神の生(せい)を享けようと、
(ひそ)かに企てていたのに、なんと云う罰せられようだ。
雷鳴(かみなり)のような一言が己をはね飛ばした。

お前に似ようと思うのが、そんなに僭越だろうか。
己はお前を引き寄せるだけの力は持っていたが、
お前を留めて置く力がなかったのだ。
想えばあの嬉しかった刹那に、
己は自己をどんなにか偉大に、またどんなにか小さく思っただろう。
お前は残酷にも己を不慥(ふたし)かな
人間の運命の圏内に衝き戻したな。
誰に己は教を受けよう。何を去り何に就こう。
あの内の促(うながし)のまにまに動いて好かろうか。
我等の生(せい)の道のゆくてを遮り塞ぐものは、
ああ、我等の受ける苦だけではない。我等のする事業も邪魔だ。

我等の霊(れい)の受けた、最も美しきものの周囲にも、
約束したように無用の夾雑物が来て引っ著く。
この世界の善なるものに到達してから前途を見れば、
一層善なるものが、憾(うら)むらくは虚無の幻影になって見える。
(せい)の我等に与えた美しき感じが
下界のとよみの中で凝り固まってしまう。

不断は空想が大胆なこう翔(こうしょう)を擅(ほしいまま)にして、
希望に富んだ勢を以て、永遠の境まで拡がっても、
「時」の渦巻に巻き込まれて、狙った幸福が一つ一つ毀れると、
さすがの空想も萎靡(いび)して、狭い空間にせぐくまる。
その時直ぐに心の底に、「憂」と云うものが巣を食って、
ひそやかな痛(いたみ)の種子を蒔(ま)き、
自分も不安らしく身をもがいて、人の安穏と歓喜とを破る。
この憂は種々の仮面(めん)を取り換えて被る。
家になり、地所になり、女房になり、子供になる。
火になり、水になり、匕首(あいくち)になり、毒になる。
貴様は常にその中(あた)らぬもののために戦慄して、
その離れ去らぬもののために泣かなくてはならぬ。
いや。己は切に感ずる。己は神々には似ておらぬ。
塵芥の中に蠢(うごめ)く蛆(うじ)に己は似ているのだ。
その塵芥に身を肥やして、生を偸(ぬす)んでいるうちに、
道行く人の足に踏まれて、殺されて埋められるのだ。

高い壁に沿うて、分類して百にも為切(しき)ってある棚の物が
己の周囲を隘(せば)めているのも、これも塵ではないか。
この紙魚(しみ)の世界で、己を窮屈がらせている
器具、千差万別の無用の骨董も塵ではないか。
己の求めているものが、この中で見附けられようか。
いつの世、どこの国でも人間が自ら苦んで、
その間に罕(まれ)に一人位幸福な奴があったと云うことを、
己に万巻の書の中で読めと云うのか。
空洞(うつろ)な髑髏奴。なぜ己を睨(にら)んでいる。
お前の脳髄も己のと同じように、昔迷いつつ軽らかな
快い日を求め、重くろしい薄明(うすあかり)の中で、興味を以て
真理を追うて、みじめに失敗したと云う外はあるまい。
それからお前達器械だがな、車の輪や櫛の歯のような物、
熨斗(のし)の取手のような物やロラアから出来ている器械だがな、
お前達も己を馬鹿にしているに違ない。己が扉の前に
立っていた時、お前達は鍵になってくれるはずであった。
しかし鎖鬚(はじき)よりもちぢくれた鬚が生えていても、
鎖鑰(じょう)を開(あ)けてはくれなかった。自然はなかなか秘密がっていて、
青天白日にウェエルを脱いで見せてはくれない。
あいつが己の霊(れい)に見せてくれない物を、
槓杆(てこ)や螺牡(ねじ)で開(あ)けて見ることは出来ない。
己に用のない古道具奴。お前達は父の手沢(しゅたく)のお蔭でここにいる。
火皿を弔る滑車奴。お前はこの机に濁った燈火がいぶっている限(かぎり)
夜な夜な煤けて行くばかりだ。
この少しばかりの物を、疾(と)っくに売り飛ばせば好かったに、
己は重荷のようにそれを背負って汗を掻いている。
貴様の先祖から譲り渡された物を、
貴様が占有するには、更にそれを贏(か)ち得んではならん。
利用せずに置く物は重荷だ。
刹那が造ったものでなくては、刹那が使うことは出来ない。

はてな。なぜ己の目はあそこに食っ附いて離れないだろう。
あの瓶が己の目を引く磁石なのか。
なぜ己の心持が、夜の森を歩く時月が差して来たように、
(たちま)ちめでたく明るくなって来たのだ。
この取り残された一つの瓶奴。お前を恭しく取り卸しながら、
己はお前に会釈をするぞよ。
人智と技術とをお前に対して敬するぞよ。
(めぐみ)ある眠薬(ねむりぐすり)の精(せい)奴。
あらゆる隠微な人を殺す諸力を選り抜いた霊液奴。
今この主人(あるじ)をお前の恵(めぐみ)に逢わせてくれい。
お前を見たばかりで、苦痛が軽くなるようだ。
お前の瓶を手に取れば、意欲が薄らいで来るようだ。
己の霊(れい)の潮流が次第々々に引いて行く。
高く湛えた海の上へ、己はさそい出されて、
我足の下には万象の影をうつす水鏡が耀(かがや)く。
新なる日が新なる岸へ己を呼ぶ。

軽らかに廻る火焔(かえん)の車が己を迎える。
こう気を穿(うが)って新しい道を進んで、
浄い事業の新しい境界へとこころざす
心の支度が出来たように己は感ずる。
こんな高遠な生活、こんな神々の歓喜のような歓喜。
まだ蛆でいる貴様になんの功があってこれを受けるのだ。
好い。優しい下界の日の光に、
貴様は決然として背を向けるが好い。
誰も畏れて避けて通る門の戸を、
押し開けて入る勇気があるなら行け。
空想が自己を苦痛の地獄に堕す
あの暗い洞窟の前におののかず、
狭い入口に地獄の総ての火が燃え立つ
あの狭隘の道を目ざして、
よしや誤って虚無の中に滅し去る虞(おそれ)があろうとも、
晴やかな気分でこの一歩を敢てして、
神々の位を怖れぬ男児の威厳を、
事実の上に証して見せるなら、今がその時だ。

さあ、水晶の浄らな盃、ここへ降りて来い。
長い年月の間お前の事は忘れていたが、
今その箱の中から出てもらおう。
己の先祖が祝賀の宴を張った時には、
お前は光り耀いていて、一人(ひとり)が一人(ひとり)へ差す毎に、
(しか)んだ客の顔色も晴やかになったものだ。
己も若かった昔の夜のうたげを覚えている。
お前の上に美しく鏤(ちりば)めてある、種々の絵摸様を、
飲む人の務(つとめ)として、詩の句で説き明かして
さて一口に中の酒を飲み干したものだ。
己はお前を今日に限って隣の客にも廻さず、
お前の絵模様に拙い才を試みようともせぬ。
ここにあるのは早く人を酔わせる酒だ。
己がかつて選んでかつて醸した
この褐色の液(えき)がお前の中(なか)に注(つ)がれるのだ。
さあ、この最後の杯を挙げて、己は心から
はればれしく寿をこの「暁」に上(たてまつ)るのだ。

(ファウスト杯を口に当つ。)

鐘の響、合唱の歌。



  歌う天使の群

クリストはよみがへりたまひぬ。
身をも心をも損(そこな)ふべき、
緩やかに利く、親譲(おやゆずり)
害毒(がいどく)のまつはれたる、
死ぬべきもの等(ら)に喜(よろこび)あれ。


  ファウスト

や。己の口から杯を強いて放させたあの声は
なんと云う深いそよめき、高い音色であろう。
それにあの鈍い鐘の音は、
もう復活祭の始まる時刻を知らせるのか。
さてはあの諸声は、昔冢穴の闇の夜に
天使の唇から響いて、新しき教の群に
固き基を与えた、慰藉(なぐさめ)多き詞であったか。


  歌う女の群

われ等、主(しゅ)にまつろへる女子(おみなご)
香料を
み体(からだ)に塗りまつり、
臥させまつりぬ。
(きれ)をもて、紐をもて
清らに裹(つつ)みまつりぬ。
さるを、あなや、主(しゅ)
こゝにいまさぬ。


  歌う天使の群

クリストはよみがへりたまひぬ。
いたましき、
浄からしめ、鍛ひ錬る
業を修(しゅ)し卒へたまへる、
物を愛します主よ。聖にいませ。


  ファウスト

お前達、天の声等はなぜ力強く、しかも優しく
己をこの塵の中に覓(もと)めるのだ。
情の脆い人等の住むあたりに響き渡れば好いに。
なるほど使命の詞は聞える。しかし己には信仰がない。
奇蹟は信仰の愛子(まなご)だ。
あの恵ある便(たより)を伝える声のする、
あの境界へは己は敢て這入ろうとは努めぬ。
しかし小さい時からあの声を聞き慣れていたので、
あの声が今己を生(せい)に呼び戻したのだ。
昔は沈んだ安息日の静けさの中に、
ゆくりなく天の愛の接吻が己にせられた。
その時意味ありげに、ゆたかな鐘の音が聞えて、
己の祷(いのり)は熱した受用(じゅよう)であった。
その時恵(めぐみ)ある不可思議な係恋(あこがれ)
己を駆って、森の中、野のほとりへ行かせた。
そして千行の熱涙の下(くだ)ると共に、
己のために新しい世界が涌出すように思った。
面白い遊、春の祭の自由な幸福を、
あの歌が青春に寄与したものだ。
そう云う追憶が子供のような感情で、
今己の最後の仮初(かりそめ)ならぬ一歩を引き留めたのだ。
お前達、優しい天(てん)の歌よ、好いから響き渡ってくれい。
ああ。涙が涌く。下界は己を取り戻した。


  歌う徒弟の群

埋められたまひぬる、
生きて気高くまします主(しゅ)は、
早く厳(おごそ)かに
み空(そら)高く升(のぼ)らせ給ひしか。
なり出づるを楽む心もて
物造る喜(よろこび)を今し享けんとやし給ふ。
あはれ、悲しくも我等は
(つち)の胸に縋(すが)りて、かくぞ世にある。
我等教子の友を、主(しゅ)
歎きつゝこゝに残りをらしめ給ひぬ。
あはれ、師の君よ。
おん身の幸に我等は泣く。


  歌う天使の群

物を朽ち壊(くず)れしむる地(つち)の膝を
立ち離れつゝ、主(しゅ)はよみがへりましぬ。
汝達(なんたち)は喜びて
(きずな)を断て。
(おこない)もて主(しゅ)を称へまつり、
(しゅ)に愛を捧げまつる、
同胞(はらから)めき斎(とき)に就き、
み教を弘めつゝ旅寐し、
(こ)ん世の喜(よろこび)を知らする汝達よ。
師の君は汝達に近くおはす。
師の君は汝達のためにいます。






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