ファウスト ゲーテ







  暗き廊下



ファウスト。メフィストフェレス。



  メフィストフェレス

なぜこんな暗い廊下へ連れて来るのですか。
あの中で面白い事が足りないのですか。
いろんな人の押し合っている御殿の中で、
洒落や目くらがしの種子がないのですか。


  ファウスト

そんな事を言ってくれるな。君は昔あんな事は
(あ)き厭きする程しているのだ。
それに今、あそこで往ったり来たりしているのは、
己の言うことに返事をすまいと云うのだ。
己はしかし厭(いや)な事でもしなくてはならない。
大府卿と主殿とで己をせつくのだ。
なんでもお上が、ヘレネとパリスとを目の前に
出して見せろ、すぐでなくてはならない、
男と女との模範をはっきり
見たいのだと仰ゃるそうだ。
すぐに掛かってくれ。己は違約は出来ないから。


  メフィストフェレス

そんな約束を軽はずみにしたのがむちゃです。


  ファウスト

それは君の術がどんな成行になると云うことを、
君が前以て考えなかったのが悪い。
お上を金持にして上げたからには、
(なぐさみ)がしたくなられるに極(き)まっている。


  メフィストフェレス

そんな事がすぐばつが合せられると、あなたは
思っていますね。クロオネンの紙の化物を
出すように、ヘレネが出されると思っていますね。
所がわたし共は今嶮しい阪の下に立っています。
非常な、縁遠い境界へ、あなたは手を出すのだ。
事に依ると、また新しい借金をしなくてはならない。
魔女や、化物や、変種(かわりだね)の一寸坊なら、
なん時でも御用を仰せ附けられますが、
棄てた物ではないとしても、悪魔の色女を
グレシアの女だと云って連れ出しては通りません。


  ファウスト

またいつものだらだら拍子のお講釈を聞くのか。
君を相手にすると、万事きっと曖昧な所へ落ちて行く。
君はあらゆる故障の親元だ。
そして一帳場毎に褒美がいる。己は知っている。
君がちょっと呪文を唱えると、出来るのだ。
背後を向いている隙に、すぐ連れて来られるのだ。


  メフィストフェレス

いいえ。あんな異端の民にはわたしは関係しない。
あいつ等は別の地獄にすんでいるのだ。
(もっと)も手段はあります。


  ファウスト

それを聞こう、すぐに。



  メフィストフェレス

実は極の深秘は言いたくないのです。寂しい所に
こうごうしく住んでいる女神達がある。
その境には空間もなければ時間もない。
その事を話すのは一体不可能なのだ。
それは「母」達だ。


  ファウスト(驚く。)



母達か。



  メフィストフェレス

身の毛が弥立ちますか。



  ファウスト

母達、母達。なんと云う異様な名だろう。


  メフィストフェレス

実際異様な連中ですよ。無常の人間に知られずに
隠れていて、わたし共も名を言いたくない神です。
その家へ往くには、あなたよほど深く摩(ず)り込むのです。
そんな物に用が出来たのは、あなたのせいだ。


  ファウスト

そこへ往く道は。


  メフィストフェレス

道はありません。歩いたもののない、

歩かれぬ道です。頼まれたことのない、頼みようのない所へ
往く道です。思い切って往きますか。
貫木(かんのき)や錠前を開けるのではない。
あなたは寂しさに附き纏(まと)われます。
一体寂しいと云うことが分かっていますか。


  ファウスト

まあ、そんな言草は倹約したが好(い)いかと思う。
ずっと前に出合った、
あの魔女の台所の匂(におい)がするようだ。
これまでも己は世間に附き合って、空虚な事を
習いもし、教えもしたではないか。
たまに己の目に映じたままを言うと、
人は却っていつもの倍やかましく反対したものだ。
己は厭な目に逢うのを避(よ)けて、
寂しい山の中へ逃げさえした。
それから丸で棄てられて、一人でいたくなさに、
悪魔に体を任せたじゃないか。


  メフィストフェレス

しかし大洋に泳ぎ出して、その沖で
際限のない処を御覧になるとした所で、
溺れて死ぬる懼(おそれ)を抱きながらも、
波の立居(たちい)は見られますね。兎に角何か
見られますね。凪いだ海の緑を穿(うが)
鯨のようなデルフィインも見えましょう。
雲のたたずまい、月日や星の光も見えましょう。
それと違って、とわに空虚な遠い境には
なんにも見えません。自分の跫音(あしおと)も聞えません。
体を靠(もた)せて休むだけの固い物もありません。


  ファウスト

昔から新参を騙し騙しした、魔法の師の中の
一番の先生のような話振をするね。
ただあべこべだ。伎倆や力量を進めさせに、
君は己を空虚の中へ遣る。
火の中に埋めてある栗を取りに遣られた、
あの猫のように、君は己を扱うのだ。
宜しい。一つその奥を窮めて見よう。
君の謂う空虚の中に、己は万有を見出す積(つもり)だ。


  メフィストフェレス

いや。お別(わかれ)をする前に褒めて上げます。
兎に角あなたは悪魔の腹を知っていますね。
さあこの鍵をお持(もち)なさい。


  ファウスト

こんな小さな物をか。



  メフィストフェレス

まあ、馬鹿にしないで、手にお取(とり)なさい。


  ファウスト

や。手に取れば大きくなる。光って来る。


  メフィストフェレス

どんな貴重品が手に入ったか、分かりますかい。
その鍵が道を嗅ぎ附けて、あなたを連れて
母達の所へ行くのです。


  ファウスト(戦慄す。)

母達の所へ。ああ、聞く度に身に応える。
こんなに厭に聞えるのは、どうした詞(ことば)だろう。


  メフィストフェレス

聞き慣れない詞を嫌う程、料簡が狭いのですか。
聞いた事のある詞ばかり聞いていたいのですか。
あなた位疾(と)うから不思議に慣れていなさる以上、
これからどんな詞が聞えたって、平気でなくっては。


  ファウスト

いや。己だって凝り固まっている所に福を
求めはしない。戦慄は人生の最上の徳だ。
世間がどんなにあの感じをおっくうにしても、
人間はあれで非常な事を深く感ずるのだ。


  メフィストフェレス

そんなら降(お)りておいでなさい。升(のぼ)っておいでなさいと
云っても好(い)い。同じ事だ。既に生じているものに
(せ)を向けて、解き放されたものの世へおいでなさい。
もう疾っくに無くなっているものを見て
お楽(たのしみ)なさい。雲の往来(ゆきき)のように入り乱れた
事にお逢(あい)でしょう。そしたら鍵を揮ってお避(よけ)なさい。


  ファウスト(感奮す。)

宜しい。こう鍵を握ると、力が増して、
胸が拡がるように感じる。どりゃ、為事(しごと)に掛かろうか。


  メフィストフェレス

一番深い、深い底に届いたと云うことは、
焼けている五徳を御覧になると分かります。
その火の光で母達が見えるでしょう。その折々で
据わっているのも、立ったり、歩いたりして
いるのもありましょう。所有(あらゆ)る造られた物の象(かた)
周囲(まわり)に漂っている、創造、改造の神達で、
永遠なる意義を永遠に語っておられるのです。
神達には象(かた)しか見えないから、あなたは見えない。
随分あぶない事ですが、腹を据えてずっと
五徳の所へ往って、その鍵で五徳に障って
御覧なさい。

(ファウスト鍵を持ちて厳かに命ずる如き科(しぐさ)をなす。メフィストフェレスそれを見て。)



それで好いのです。そうすると、

五徳があなたの従者のように附いて来ます。
そして平気でお升(のぼり)なさると、機運が助けて、
神達の心附かぬ間に、五徳を持って帰られます。
旨く持ってお帰(かえり)なさると、そんな為事を
大胆に始てなさったあなたの手で、例の
男と女とを夜の国からお呼になる事が出来ます。
出来た為事はあなたの功です。
それからは五徳から立つ烟が、魔法の業(わざ)
扱えば、神々に化けるのです。


  ファウスト

そこで先ずどうするのか。


  メフィストフェレス

下へ降(お)りようとなさい。

力足を踏んで、段々降りて行くのです。

(ファウスト足踏して降り行く。)

鍵が旨く先生の用に立ってくれれば好(い)いが。
この世へ戻って来られるか知らんて。







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