ファウスト ゲーテ







  アイゲウス海の石湾



(月天の頂点に懸かる。)



  セイレエン等


(岸の岩の上あちこちにゐて、笛を吹き、歌ふ。)

夜の恐ろしき紛(まぎれ)に、
テッサリアの奇(く)しき女等(おみなら)
君を猥(みだり)におろしまつりしこともあれど、
今は君静かに自(みずか)ら掌(つかさど)らす夜の空より、
優しく赫(かがや)く影を流して、
(ふる)ふ波を眺めまし、
その波間に浮き出づる
群を照させ給へ。
美しきルナの神よ。いかにもして仕へまつらん。
ただ御恵を垂れ給へ。


  ネエレウス族とトリイトン等と


(海の怪物として。)

汝達(なむたち)広き海原とよもし、
今一際鋭(と)き音(ね)を高く立てよ。
深き底なる民呼び継ぐべし。
恐ろしき顎(あぎと)の風を脱(のが)ると、
我等静かなる片蔭に寄り集へり。
優しき歌われ等を誘ふ。
見給へ。われ等は喜ばしさの余(あまり)に、
黄金(こがね)の鎖を身に纏(まと)ひ、
玉を嵌(は)めたる冠(かがふり)に、腕(かいな)の輪をさへ、
帯をさへ添へて飾りぬ。
こは皆君等が賜なり。
君等、この入江の神等。
舟摧(くだ)けて沈みし宝を、われ等がために、
歌の力もて引き寄せ給ひぬ。


  セイレエン等

憂きこと知らぬ漂(ただよい)の世を、
魚は海の涼しき国に、平(たいら)けく
楽しく過すものとは、早く知れり。
さはれ。祭の場(にわ)に賑はしく集へる君等よ。
けふは君等が世の常の魚に優れるを、
われ等は見ばやと思へり。


  ネエレウス族とトリイトン等と

こゝに来るに先だちて、
われ等早く思ふよしありき。
女男(めお)のはらから達。いざ、今疾(と)く行かむ。
世の常の魚に優ると云ふ、
(もと)も力ある証(あかし)を見せむため、
けふはいさゝかの旅せば、足りなむ。

(共に退場。)



  セイレエン等

皆つと去りぬ。
追風のまにまに
サモトラケさして真直(ますぐ)に去りぬ。
尊きカベイロイの国へ行きて、
何をかせんとすらん。
測り知られず、何物にも似ぬ神々なり。
とことはにおのづから生(あ)れ出(い)でて、
常に何ぞともみづから知らずと云ふ。

恵深きルナの神よ。
高き空にさながら、優しくいませ。
夜の長く続きて、
われ等の日に逐はれざらむために。


  タレス


(岸にて小人に。)

お前をネエレウスの爺(じ)いさんに紹介するのは
造做(ぞうさ)はない。あれが住む洞穴も遠くはない。
しかし厭(いや)な、苦虫を噛み潰したような面(つら)の奴で、
強情で手におえないて。
あの不機嫌な親爺には、人間世界の
全体のする事が、いつも気に食わない。
所があいつには未来の事が分かっている。
だから誰でも遠慮して、いる所にいさせて、
敬って置いて遣るのだ。その上あいつは
いろいろな人の世話もしてくれたのだ。


  小人

(ためし)に門を敲(たた)いて遣りましょう。まさかすぐに
硝子をこわして、火を消されもしますまい。


  海の神ネエレウス

己の耳に聞えるのは人間の声か知らん。
どうもすぐに心(しん)から腹が立ってならない。
りきんで神々の境に達しようとする生物だが、
そのくせ永遠にどん栗の背競(せくらべ)をする約束に
出来ている。昔から己は神らしく休んで
いられるのに、善い物を助けたくてならない。
所で昨今の為上(しあげ)を見ると、まるで己が
智慧を貸したものとは思われないのだ。


  タレス

所が、おじさん、世間ではやはりあなたを
(たのみ)にしています。あなたは賢者だ。門前払を
食わせないで下さい。この人間らしい火を御覧。
あなたの御意見通(どおり)にする気でいるのだ。


  海の神

意見だと、昔から人間が意見を聴いた例(ためし)があるか。
気の利いた詞(ことば)はごつごつした耳には這入らない。
何度遣って見て、自分で自分に呆れても、
人間はどこまでも我(が)を通して行くのだ。
他所者の女が、あいつの色気を網でからんで
しまわぬうちに、あのパリスにだって親同様に
意見をした。グレシアの岸に大胆に立っていたあいつに
己の心の目に写った事を云って聞せた。
烟は空に満ち、赤い色が漲(みなぎ)って、
(むなぎ)(うつばり)は燃え、下には虐殺が行われている。
トロヤの復讎の日だ。千載に伝えて、
活きた画のように、人の知っている恐ろしさだ。
横著者奴、老人の詞を笑談だと思いおった。
情欲のままに振舞った。イリオスの都は落ちた。
長い艱(なやみ)の果(はて)にしゃっちこばった巨人(おおひと)の死骸だ。
ピンドスの山の鷲の待っていた馳走だ。
ウリッソスにだってそうだ。キルケの手管も、
キクロオプスの禍も、己が言って聞せたのだ。
あいつの躊躇(ためらい)、あいつの部下の軽はずみ、
何もかも言って聞せた。それが役に立ったか。
よほど遅くなってから、十分揺られた挙句に、
波の恵で待遇(もてなし)の岸へは著いたのだが。


  タレス

そう云う振舞は賢者に苦痛を与えるでしょう。
しかし善人はまた遣って見るものです。
一毫の報恩も、善人に大喜をさせて、
万斛(ばんこく)の不義理を十分填め合せるでしょう。
わたし共のお頼は容易な事ではない。
あの小僧はこれから成り出(い)でたいと云うのです。


  海の神

己の久し振の上機嫌を損ねさせてくれるな。
きょうはまるで違った用のある日だ。
己の娘達、ドオリス族の海少女が
皆来るように言って置いた。
あんな美しい立居の女は、オリムポスの山にも、
お前方(がた)の世界にも、またとあるまい。
しなやかに、竜の背からネプツウヌスの馬に
乗り換えて来る。泡の上にでも
浮き上がることが出来るように
水に親しく馴れている。
一番美しいガラテアは、彩(いろ)い赫(かがや)き、
ウェヌスの常の座、貝の車に乗って来る。
あれはキプリスが己達に叛いてから
パフォスで神に祀られているのだ。
あれがウェヌスの後継(あとつぎ)になって、祠のある土地や、
車の玉座を占めてから、もう久しくなる。

帰れ帰れ。親として己が楽む、きょうの日に、
心に怒、口に悪口は禁物だ。
形を変えるプロテウスの所へ往け。どうして
成り出でられるか、化けられるか、あの化物に聞け。

(海の方へ退場。)



  タレス

これはまるで無駄な手数(てすう)だった。プロテウスに
逢ったところで、すぐ消えてしまうだろう。
相手になってくれた所で、呆れるような事、
戸まどいをするような事しか、言っては聞せまい。
しかし兎に角意見が聞きたいと云うのだから、
(ため)しに出掛けて見るとしよう。

(退場。)



  セイレエン等


(上の方、岩の上にて。)

遠方(おちかた)より波の境を滑りて
寄り来(く)と見ゆるは何ぞ。
風のむた
白帆の進み近づくごと、
姿あざやかにも見ゆるかな。
あはれ、浄められたる海少女等よ。
いざ、諸共に岩を降(お)りなむ。
声さへ、汝達(なむたち)にも聞えずや。


  ネエレウス族とトリイトン等と

われ等の手に載せ、かしづきて来ぬるもの、
君等の心を悦ばせざらめや。
大亀(おおがめ)ヘロネの甲(こう)の鏡
(いか)めしき姿を写し出せり。
われ等が傅(かしず)きて来ぬるは神々ぞ。
君等畏(かしこ)き歌を歌へ。


  セイレエン等

御身はさゝやかなれど
御稜威(みいつ)は大いなり。
(しず)むものを救ひます神等、
昔より斎(いつ)きまつる神等はこれ。


  ネエレウス族とトリイトン等と

治まれる世の祭せむと、
カベイロイの神等を迎へ来ぬ。
この神等の畏く振舞ひ給ふ境には、
ネプツウヌスの神も平(たいら)けくまつりごち給はむ。


  セイレエン等

舟の砕けむとき、
われ等おん身等に及ばず。
逆はむよしなき御稜威(みいつ)もて、
舟人を救ひませば。


  ネエレウス族とトリイトン等と

三柱(みはしら)をば迎へまつりぬ。
四柱(よはしら)めの神辞みましぬ。
その神宣(の)らさく。皆に代りて思ひ量(はか)る、
われぞ真(まこと)の神なると。


  セイレエン等

かくては一人(ひとり)の神、あだし神を
嘲り給ふことゝなりなむ。
君等たゞ福(さいわい)を尊び、
禍を恐れてあれ。


  ネエレウス族とトリイトン等と

(まこと)は七柱の神おはせり。


  セイレエン等

さらば残れる三柱はいづくにおはする。


  ネエレウス族とトリイトン等と

われ等は知らず。
オリムポスの山にてや問はまし。
かしこにはまだ誰も思ひ掛けぬ
八柱目の神もやいまさん。
そもわれ等に憐を垂れ給ふらめど、
皆未だ全(また)くは成り出(い)でまさぬなるべし。

得られぬ物に
あくがれます饑(うえ)の神等、
(たと)へむ物なき神等は
(はて)なく成り出(い)でむとし給ふなり。


  セイレエン等

日のうち、月のうち、
いづくに神等いまさむも、
祈る習をわれ等は棄てじ。
そはその甲斐あればなり。


  ネエレウス族とトリイトン等と

この祭執り行ふわれ等の誉
いかに高く挙がるかを見よ。


  セイレエン等

いづくにて、いかに赫かむも、
誉はいにしへの
英雄(すぐれびと)のものならじ。
黄金(こがね)なす羊の毛皮は手に落ちぬれど。
君等カベイロイを迎へまつらば。


  一同


(合唱として繰り返す。)

黄金なす羊の毛皮は手に落ちぬれど。
我等、君等カベイロイを迎へまつらば。

(ネエレウス族とトリイトン等と過ぎ去る。)



  小人

あの不恰好な神様達は、
この目には悪い土器の壺のように見えます。
ところが学者達がそれに頭を
(ぶ)っ附けて破(わ)ろうとしています。


  タレス

こう云うのが人の欲しがる物だ。
(さび)が附いて貨幣の値が出るのだ。


  変形(へんぎょう)の神プロテウス


(見えざる所にて。)

己のような年寄の昔話の話手にはこんなのが気に入る。
異形なだけ難有(ありがた)い。


  タレス

プロテウスさん。どこにいるのだ。


  変形の神


(応声法にて近く遠く。)



ここだ。ここだ。



  タレス

古い洒落だが、己はおこりはしない。
しかし友達に好い加減な事を言うな。
自分のいない所から声を出しているな。


  変形の神(遠く。)

さようなら。


  タレス


(小声にて小人に。)



ついそこにいるのだ。一つ光らせて

お見せ。あいつは魚(いお)のように物見高い。
どこに身なりを拵えて、じっとしていても、
火にはきっとおびき寄せられて出て来る。


  小人

まあ、硝子をこわさないように用心して、
光を出して見ましょう。


  変形の神


(大亀の形して。)

その優しい、美しい光を出しているのはなんだ。


  タレス


(小人を蔽ひ隠す。)

宜しい。見たけりゃあ、傍へ寄って見させよう。
しかしちょっとした手数(てすう)を面倒がらないで、
人間らしい二本足になって出てくれ。
己達の隠しているものを見るのは、
己達の好意、己達の意志のお蔭だ。


  変形の神


(品好き形を現す。)

世渡(よわたり)上手の掛引をまだ覚えているな。


  タレス

まだ色々に化けることを道楽にしているな。

(小人を露呈せしむ。)



  変形の神(驚く。)

光る一寸坊だな。まだ見たことがない。


  タレス

智慧を借りて成り出(い)でようとしているのだ。
当人の話に聞いたが、
妙なわけで半分世に出て来たのだそうだ。
精神上の能力には不足はないのに、
手に攫(つか)まれるような、確(しか)とした所がない。
今までの所では、目方と云っては硝子だけだから、
先ず体を拵えて貰いたいと云う志願なのだ。


  変形の神

お前が本当の生娘(きむすめ)の倅と云うのだ。
まだ出来るはずでないのに、もう出来ている。


  タレス(小声にて。)

それからも一つ外な方面から見ても難物だ。
己の考えた所では、こいつは半男半女だ。


  変形の神

それは却て旨く行くかも知れない。
(ぶ)っ附かり放題、間(ま)に合うだろう。
だがここでは余計な思案はいらない。
先ず広い海に往って始めるのだ。
最初は小さい所から遣り出して、
極小さいものを併呑して恐悦がる。
それから段々大きくなって、
うわ手の為事(しごと)が出来るように成り上がるのだ。


  小人

ここは好い風の吹いて来る所ですね。
こう青い若木の匂(におい)がする。好い匂ですね。


  変形の神

そうだろう。可哀い小僧の云う通(とおり)だ。
もっと先ではもっと好い心持になる。
そこの狭い岬では、
匂がもっとなんとも云えなくなる。
そこの前へ行くと、今浮いて来る
行列が十分近く見える。
さあ一しょにあっちへおいで。


  タレス

己も行こう。



  小人

珍らしい化物の三人連だ。

ロドス島のテルヒイネス魚尾の馬と竜とに乗り、ネプツウヌスの三尖杖を持ちて登場。



  合唱の群

いかなる荒波をも鎮むる、ネプツウヌスの
三股(みつまた)の杖を鍛ひしはわれ等なり。
(いかずち)の神濃き雲を舒(の)ぶるとき、
その恐ろしきはためきにネプツウヌス応(こた)ふ。
(かみ)よりは尖れる稲妻射下せば、
(しも)よりは幾重の波の潮沫(しおなわ)を迸(ほとばし)り上らしむ。
かゝる時その間にありて憂へつゝ闘ふものは、
(ゆ)られ揺られて、皆遂に底深く沈めらる。
されば彼神けふ我等に指揮の杖を借し給へり。
いで、我等は晴やかに、落ち居て心安く浮びてあらむ。


  セイレエン等

日の神に身を委ねまつれる、
晴れたる日に称へられたる君等に、
(せち)にルナの神を敬ひまつるこの時、
われ等礼(いや)申す。


  金工テルヒイネス

(かみ)なる穹窿(きゅうりゅう)にいます、めでたき女神よ。
御同胞(みはらから)の日の男神(おがみ)の称へらるゝを喜び聞(きこ)しめせ。
(かしこ)きロドスの島に御耳を借し給へ。
御同胞(みはらから)を称へまつる、果(はて)なき歌の声かしこより
立ち升(のぼ)らん。彼神日の歩(あゆみ)を始め、業(わざ)
果しまして、火の如く赫く目してわれ等を見給へり。
山も、市も、岸も、波もめでたく明(あか)く、
彼神の御心(みこころ)に適(かな)へり。われ等の周囲(めぐり)
霧立ち籠むることなし。よしや忍びやかに
立つことあらむも、一照(ひとてり)(て)り、一吹(ひとふき)(ふ)かば、島は
浄めらるべし。さて彼神は己が姿を百(もも)の形に
写せるを見まさん。若者あり、巨人(おおひと)あり、暴(あら)きあり、
優しきあり。神々の御稜威を厳めしき人の
形には、われ等始て造り出だしつ。


  変形の神

勝手な歌を歌わせて、勝手な自慢をさせて
置くが好(い)い。日の神聖な、生きた光のためには
死物は笑談に過ぎない。いつまでも
(あ)きずに物を解かして、物を造っている。
あいつ等はその形を金で鋳て、
一廉(ひとかど)の物を拵えた気になっているが好い。
あの高慢な連中が詰まりどうだと云うのだ。
なるほど神々の形が仰山らしく立っていた。
ところが地震がこわしてしまった。
もう疾(と)っくにまた解かされている。
下界の為事(しごと)はどんなにしたって、
詰まりどこまでも無駄骨折だ。
生活には波の方が余計役に立つ。
お前を常世(とこよ)の水の都へ連れて行くのは
変形の神の鯨だ。

(変形す。)



そりゃ。化けた。

そこへ行くと、お前、旨く行くのだ。
己がこの背(せな)の上に載せて行って、
渡津海と縁結(えんむすび)をさせて遣る。


  タレス

造化を新規蒔直(まきなお)しにして見ようと云う
殊勝な望だから、望通(どおり)に遣って見るが好(い)い。
手ばしこく働く用意をするのだ。
永遠な法則に随って働いて、
千万の形を通り抜けて行くのだから、
人間になるまでは大ぶ暇があるぞ。

(小人変形の神の鯨に乗る。)



  変形の神

魂を据えて湿った遠い所へ一しょに来るのだぞ。
そこへ行けば、竪にも横にも生活を広げて、
勝手に活動することが出来るのだ。
ただ余り上(うえ)の仲間に這入ろうとしてもがくな。
人間になってしまうと、
もうおしまいだから。


  タレス

まあ、その時になってからの事だ。その時代の
立派な人間になるのも、随分結構だ。


  変形の神(タレスに。)

お前のような性の人間になれと云うのだな。
そんなのは暫くは持つ。
もう何百年か、色の蒼い化物の仲間に
お前のいるのを見ているから


  セイレエン等(岩の上にて。)

月の周囲(めぐり)に濃き暈(かさ)なして、
まろがる雲は何の雲にか。
鳩なり。光の如き、真白なる翼して、
恋に身を焦す鳩なり。
この恋する鳥の群をば
パフォスの市送りおこせつ。
晴やかなる喜、明かに満ちわたりて、
われ等の祭は闌(たけなわ)なり。


  海の神(タレスに歩み近づく。)

夜道を歩く人間が、あの月の暈を
空気の現象だと云ったそうだが、
己達のような霊(れい)の仲間では、そうでないことを
知っている。本当の事を知っている。
あれは昔から覚え込んだ、
特別な、不思議な飛方をして、
己の娘の貝の車に乗って来る
案内をする鳩共だ。


  タレス

静かな、暖い巣に
神聖な物が生きながらえているということは、
すなおな男に気に入る通(とおり)に、
己も一番好い事だと思う。


  リビアのプシルロイとイタリアのマルシと


(海の牡牛、海の犢(こうし)、牡羊に乗れり。)

キプロスの荒き岩室(いわむろ)に、
海の神にも塞がれず、
地震(ない)の神にも崩されず、
常世(とこよ)の風に吹かれつゝ、
上れる代に変らぬ、
静かに覚(さと)れる、楽しき心を持ちて、
われ等キプリスの車を蔵(おさ)め持(も)たり。
さて優しき波のゆきかひに、
夜の囁くとき、
新に生れたる徒(ともがら)の目を避(よ)きて、
はしき少女を載せて来(き)なんとす。
われ等ひそかにいそしむもの等は
鷲をも、翼ある獅子をも、
十字架をも、月をも怖れず。
(かみ)つ方(かた)にて国を立て、位に即き、
入り代りて立ち働き、
かたみに逐ひ遣り、打ち殺し、
穀物(たなつもの)をも、青人草をも刈り倒すに
任せてん。今はわれ等
はしき少女を率(い)て来なんとす。


  セイレエン等

やゝ賑はしく、程好く急ぎ、
車の周囲(めぐり)に、幾重か圏(わ)をかき、
蛇のうねりせる列(つら)をなし、
列と列と入り乱れ、
近づき来たるよ。汝達。憎からず暴(あ)れたる、
逞しき女等(おみなら)、ネエレウスのたけき族(うから)
(かしず)き来たるよ。優しきドオリスの族、
ガラテア、母の似姿を。
厳めしさは、神々と同じく見ゆる、
尊き、死(しに)せぬ姿ながら、
また優しき人の世の女(おみな)に似て、
(さそ)ふたをやかなる形あり。


  ドオリス族


(群をなしてネエレウスの前を過ぐ。皆鯨に乗れり。)

ルナの神よ。われ等に光と陰とを借させ給へ。
若きこの群を明(あきら)けく照しませ。
われ等は父のみ前に、願ふ心もて、
夫等(おっとら)を率(い)てまゐりぬ。

(ネエレウスに。)

こは岸噛む波の怒れる牙(きば)より
われ等の救ひ出(い)だしし若者等なり。
蒲の上、苔の上にをらせて、
温め、日の光に近づかしめき。
その光はわれ等の賜ぞと、まめやかに
熱き口附(くちづけ)してわれ等に報いつ。
優しき人々を恵のみ心もて見ませ。


  海の神

高き価ある事をいしくも併せ得つるよ。
人に恵を与へ、みづからも楽みて。


  ドオリス族

父君、われ等の業(わざ)を褒めまし、
われ等の享けし楽(たのしみ)をゆるしまさば、
とはに若きこの胸に、夫等を死(しに)せず、
堅く寄り添ひてあらせ給へ。


  海の神

汝達(なむたち)、美しきものを取り得しを喜び、
若者を夫(おっと)と教へかしづけ。
さはれチェウスならではえ允(ゆる)さぬ事を、
われいかでか授くることを得む。
汝達を揺(ゆ)り弄(もてあそ)ぶ波は、
恋をもとはにならしめねば、
靡く夢の覚めむ日待ちて、
おだしく陸(くが)へおくり返さむ。


  ドオリス族

めぐしき童等(わらわら)。われ等は惜めど、
悲しくも今より別れなむ。
とはに渝(かわ)らぬ盟(ちかい)を願へど、
神等そをゆるし給はず。


  少年等

われ等すなほなる舟人(ふなびと)の子を、
君等今のごと、長く養ひまさばとぞ思ふ。
かつて知らぬ、めでたき日を送りぬ。
これに増す願あらめや。

(ガラテア貝の車に乗りて近づく。)



  海の神

(い)い子。お前だな。


  ガラテア

お父う様。嬉しい事。

鯨。少しお待(まち)よ。わたしは目が放したくない。


  海の神

もう行ってしまった。はずみのある、
(わ)をかくような動方(うごきかた)をして、行ってしまった。
あれも胸になんと思っても為方(しかた)がないのだ。
ああ。己を連れて行ってくれれば好(い)いに。
それでも一年の間の填合(うめあわせ)になる程、
ただ一目見るのが嬉しい。


  タレス

万歳。万歳。何遍繰り返しても好(い)い。
己は真と美とが骨身に徹(こた)えて、
盛んに嬉しくなって来た。
何もかも水から出て来たのだ。
何もかも水で持っているのだ。
大洋。どうぞ己達のために永遠に働いていてくれ。
お前が雲を送り出して、
何本かの小川(こがわ)を流れ出させて、
中位な川をあちこちうねらせて、
大川を出来(でか)してくれなかったら、
山や平地や世界がどうなろう。
一番新しい性命を保たせてくれるのはお前だ。


  反響(登場者一同に呼ぶ。)

一番新しい性命の出て来る源はお前だ。


  海の神

今ゆらつきながら遠くを戻って来るが、
もう目と目を見合せるようには通らない。
儀式めいて伸びた鎖の
圏を造ろうとして、
おお勢の群がうねっている。
それでもガラテアの貝の車だけは、
今ちょいと見える。あ。またちょいと見える。
あの群の中で
星のように光っている。
どんなに遠い所にいても、
やはり近く、真(まこと)らしく、
浄く、明るくきらめいて、
あの可哀い姿は群集の中に照っている。


  小人

この恵(めぐみ)ある湿(うるおい)の中では、
何に明(あかり)を浴(あび)せて見ても、
美しくないものはない。


  変形の神

この性命の湿の中で、
お前の明(あかり)も始て
好い音(ね)をして照るのだ。


  海の神

なんの新しい秘密を、あの群の真ん中で、
己達の目に打ち明けて見せようとするのだろう。
ガラテアの足の傍(そば)、貝の車の辺(へん)で光るのはなんだ。
恋の脈の打つのに感動させられているように、
ぱっと燃えるかと思うと、また愛らしく微かに光る。


  タレス

あれはプロテウスがホムンクルスを騙して
連れて来たのだ。肆(ほしいまま)な係恋(あこがれ)の兆(しるし)だ。
悶えて声を立てるうめきが聞えそうだ。
あの赫く玉座に触れて砕けるだろう。
今燃え立つ。今光る。もう流れ散る。


  セイレエン等

打ち合ひて光りて砕くる彼波を
照らし浄むるは、いかなる火の怪(あやしみ)ぞ。
赫きて、ゆらめきて、こなたへ照りてぞ来る。
夜闇の水の面(おも)に燃ゆる物等よ。
めぐりには総て火流る。
この事共を皆始めしエロスの神よ。汝(なれ)に任せむ。
(かしこ)き火に囲まれたる
海を称(たた)へむ。波を称へむ。
水を称へむ。火を称へむ。
稀なる奇(く)しき蹟を称へむ。


  皆々

優しく、恵ある風を称へむ。
(く)しき事多き岩室(いわむろ)を称へむ。
こゝなるもの皆祀らばや、
(つち)、水(みず)、火(ひ)、風(かぜ)の四つを皆。







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