ファウスト ゲーテ







  書斎



ファウスト狗(いぬ)を伴ひて入る。



  ファウスト

何か物を暗示するような、神聖な恐怖を起させて、
我等の善い方の霊を呼び醒そうとする、
深い夜(よる)に掩(おお)われた
田畑から己は帰った。
総て荒々しい振舞をさせようとする、
粗暴な欲望は寐入った。
今は博愛の心、
神の愛の心が動いている。

尨犬(むくいぬ)。じっとしていろ。そんなに往ったり来たりするな。
そこの出口の所へ行って、何を嗅ぎ廻っている。
その煖炉の背後へ行って寝ていろ。
己の一番好(い)い布団を貸して遣る。
(そと)で、あの坂道のような所で
飛んだり跳ねたりして己達を喜ばせた代りに、
歓迎せられた、おとなしい客になって、
己の接待を受けるが好(い)い。

この狭い書斎に
ランプがいつものように優しく附くと、
己達のこの胸の中、
自ら知り抜いている胸の中が明るくなる。
理性がまた物を言いはじめる。
希望の花がまた咲き出す。
ああ。生(せい)の小川(おがわ)へ、生(せい)の元(もと)つ泉(いずみ)へと
この心があこがれるなあ。

尨犬。そんなにうなるな。今己の心の全幅を領している
神聖なる物の音には、
獣の声では調子が合わない。
人間が自分の解せぬ事を嘲り、
往々うるさい物に思う善や美を見て
ぐずぐず云うのには、
己達は慣れている。
狗もやっぱりそれをぐずぐず云うのかい。

ああ。しかしもうなんと思っても、
この胸から満足が涌いて来(こ)ぬ。
なぜまた流(ながれ)がこう早う涸れて
己達は渇に悩んでいなくてならんのか。
これは年来経験して知っている。
この欠陥を埋め合せようとして、
形而上のものを尊重するようになり、
啓示がほしいとあこがれる。
あのどの伝よりも尊く、美しく
新約全書の中に燃えている啓示がそれだ。
原本を開けて見て、
素直な感じのままに、一遍
神聖なる本文を
(すき)な独逸語に訳して見たい。

(一書巻を開き、翻訳の支度す。)

こう書いてある。「初にロゴスありき。語(ことば)ありき。」
もう此所(ここ)で己はつかえる。誰の助(たすけ)を借りて先へ進もう。
己には語をそれ程高く値踏することが出来ぬ。
なんとか別に訳せんではなるまい。
霊の正しい示(しめし)を受けているなら、それが出来よう。
こう書いてある。「初に意(こころ)ありき。」
軽卒に筆を下さぬように、
初句に心を用いんではなるまい。
あらゆる物を造り成すものが意(こころ)であろうか。
一体こう書いてあるはずではないか。「初に力(ちから)ありき。」
しかしこう紙に書いているうちに、
どうもこれでは安心出来ないと云う感じが起る。
はあ。霊の助(たすけ)だ。不意に思い附いて、
安んじてこう書く。「初に業(わざ)ありき。」
尨犬。己と一しょにこの部屋にいる積(つもり)なら、
うなることを廃(よ)せ。
吠えることを廃(よ)せ。
そんな邪魔をする奴を
傍に置いて我慢して遣ることは出来ぬ。
お前か己か、どちらかが
書斎を出て行(い)かなくてはならん。
己は客を逐うことは好まぬが
あの通り戸は開いている、出て行(い)くなら行(い)け。
はてな。妙に見えるな。
自然にありそうもない事だ。
あれは幻か。現(うつつ)か。
あの尨犬は幅も広がり丈も伸びる。
勢好く起き上がって来る。
あれは狗の姿ではない。
己はなんと云う化物を内へ連れて来たのだろう。
もう火のような目、恐ろしい歯並(はなみ)をした
河馬(かば)のように見える。
はあ。もうお主は己の手の裏(うち)の物だ。
お主のような、半ば地獄に産み出されたものには、
クラウィクラ・サロモニスの呪が好(よ)い。


  霊等(廊下にて。)

この中に一人(ひとり)捕われている。
皆外(そと)におれ。附いて這入るな。
係蹄(わな)に掛かった狐のように、
地獄の古(ふる)リンクス奴が怯れている。
しかし気を附けて見ておれ。
あちらへ漂い、こちらへ漂い、
(のぼ)っては降りて見ておれ。
あいつはとうとう逃げて出よう。
あいつに手が貸されるなら、
あいつを棄て置かぬが好(よ)い。
己達はあいつには
いろいろ世話になっている。


  ファウスト

こんな獣に立ち向うには、
先ず四大(しだい)の呪(まじない)がいる。
「火の精(せい) サラマンデル 燃えよ。
水の精 ウンデネ うねれ。
風の精 シルフェ 消えよ。
土の精 コボルド いそしめ。」
四大を、
その力、
その性(さが)
知らぬものが、
なんで霊どもを御する
師になれよう。
「サラマンデルは
(ほのお)のうちに消えよ。
ウンデネは
さざめきて流れ寄れ。
シルフェは
隕石(いんせき)の美しさに耀(かがや)け。
インクブスは
木樵り水汲め。
進み出でて終を告げよ。」
四大のどれも
あの獣のうちにはいぬ。
平気で蹲(うずくま)って、己の顔を睨(にら)んでいる。
この呪ではまだ痛い目を見ぬと見える。
も少し強い祷(いのり)
聞せて遣ろう。
「奴(やっこ)。お前は地獄を
逃れ出たものか。
そんならこの印を見い。
これは暗黒の群が
(うなじ)を屈する印だ。」
はあ。もうとげとげしい毛を竪ててふくれるな。
「廃物奴(すたれものめ)
これが読めるか。
かつて芽ざさず、
言挙(ことあげ)せられず、
あらゆる天(てん)に灌(そそ)がれ、
無慙(むざん)にも刺し貫かれた、これが読めるか。」
煖炉の背後に封(ふう)ぜられて、
象の大さにふくれ上がるな。
部屋一ぱいになる。
霧になって散ろうとする。
天井へ升ってはならぬ。
師の脚下に身を倒せ。
見い。己はいたずらに嚇(おど)しはせぬ。
神聖なる火でお前を焼こうか。
三たび燃え立つ火を
待つなよ。
己の術の一番の奥の手を
待つなよ。

(霧落つると共に、メフィストフェレス旅の書生の装して煖炉の背後より現る。)



  メフィストフェレス

そうお騒(さわぎ)になるには及びません。なんの御用ですか。


  ファウスト

そんならこれが尨犬の正体であったのか。
旅の書生だな。笑わせる事件だ。


  メフィストフェレス

改めて御挨拶をいたします。博識でいらっしゃる。
わたくしに汗をたっぷりお掻かせになりました。


  ファウスト

名はなんと云うか。


  メフィストフェレス

それは小さいお尋(たずね)かと存じます。

(ことば)と云うものをおさげすみになり、
あらゆる外観をお遠ざけになって、
ただ本体の深みをお探(さぐり)になるあなたとしては。


  ファウスト

しかし君達のは名を聞くと、
大抵本体が読める。
蠅の神、残(そこな)う者、偽る者などと云えば、
はっきり知れ過ぎるではないか。
そんなら好(よ)い。一体君はなんだ。


  メフィストフェレス

常に悪を欲し、
却て常に善を為す、彼力の一部です。


  ファウスト

ふん。その謎めいた詞(ことば)の意(こころ)は。


  メフィストフェレス

わたしは常に物を否定する霊(れい)です。
そしてそれが至当です。なぜと云うに、
一切の生ずるものは滅しても好(よ)いものです。
して見れば、なんにも生ぜぬに如(し)くはない。
こうしたわけで、あなた方が罪悪だの、
破壊だの、約(つづ)めて言えば悪と仰ゃるものは、
皆わたしの分内の事です。


  ファウスト

君は一部だと名告(なの)る。そして全体で己の前にいるのか。


  メフィストフェレス

それは少しばかりの真理を申したのです。
人間は、気まぐれの小天地をなしていて、
大抵自分を全体だと思っていますが、
わたしなんぞは部分のまた部分です。
最初一切であって、後に部分になった暗黒の一部分です。
暗黒の生んだ驕(おご)れる光明は、母の闇夜と古い位を争い、
空間を略取しようとする。
しかしいくら骨折ってもそれの出来ぬのは、
光明が捕われて物体にねばり附いているからです。
物体から流れて、物体を美しくする。
そしてその行く道は物体に礙(さまた)げられる。
あれでは、わたしの見当で見れば、光明が物体と
一しょに滅びてしまうのも遠い事ではありますまい。


  ファウスト

そこで君の結構な任務は分かった。
君は大体からは物を破壊することが出来んので、
小さい所からなし崩しにこわし始めるのだな。


  メフィストフェレス

そうです。勿論それが格別役にも立ちません。
(む)に対して立っているある物
即ち不細工な世界ですな。こいつには、
これまでいろいろな企をして見ましたが、
どうにも手が著けようがありません。
海嘯(つなみ)、暴風(あらし)、地震、火事、どれを持って行っても
跡には陸と海とが依然としているですな。
それからあの禽獣とか人間とか云う咀(のろ)われた物は、
一層手が著けられませんね。
今までどれ程葬ったでしょう。
それでもやはり新しい爽かな血が循(めぐ)っています。
そんな風で万物は続いて行く。考えると、気が狂いそうです。
空気からも、水からも、土地からも、
乾いた所にも、濡れた所にも、熱い所にも、寒い所にも、
千万の物の芽が伸びる。
もしわたしが火と云う奴を保留して置かなかったら、
これと云う特別な物がわたしの手に一つも無い所でした。


  ファウスト

そんな風で君は、永遠に息(やす)む時なく、
恵深く製作する威力に対して、
君の陰険に、空しく握り固めた、
冷やかな悪魔の拳(こぶし)を揮うのだ。
実に混沌の生んだ奇怪な倅ではある。
何かちと外の事を始めてはどうだね。


  メフィストフェレス

実際そうですね。少し工夫して見ましょうよ。
いずれこの次にもっと精しくお話(はなし)します。
きょうはこれで御免を蒙りたいのですが。


  ファウスト

なぜそれを己に問うのだか分からんな。
まあ、これで君にお近附(ちかづき)になったと云うものだ。
いつでも君の気の向いた時にまた来給え。
そこには窓がある。そこには戸口もある。
君にはあの煙突なんぞも非常門になるのだろう。


  メフィストフェレス

間が悪いが打明けて言いましょう。わたしが出て行くには、
ちょいとした邪魔があるのですよ。
あの敷居にあるペンタグランマの印(しるし)ですな。


  ファウスト

ふん。あの印を君は気にするのか。
妙だね。あれに君は縛られるなら、這入る時は
どうして這入ったか。地獄の先生、それを言って見給え。
そんな霊のある印を、どうごまかして這入ったのだ。


  メフィストフェレス

好くあれを御覧なさい。本当に引いてないのです。
(そと)へ向いている一角が、
御覧の通(とおり)、少し開(あ)いています。


  ファウスト

それは偶然の為合(しあわせ)だった。
そこで君は己の俘(とりこ)になっているわけだね。
これは意外な、旨い成功だった。


  メフィストフェレス

実は尨犬は気が附かずに飛び込んだが、
今になって見ると少し工合が違っていて、
どうも悪魔はこの部屋を出にくいのです。


  ファウスト

ところで君なぜ窓から出ない。


  メフィストフェレス

悪魔や化物には掟があって、
這入って来た口から、出て行かなくてはならんのです。
初にすることは自由ですが、二度目は奴隷になるのです。


  ファウスト

そんなら地獄にも法律はあるわけなんだね。
兎に角好都合だ。こうなると君達と
契約を結ぶことも、随分出来るわけだね。


  メフィストフェレス

それは約束をする上は、あなたに十分の権利がある。
なんのかのと云って、それを狭めるような事はしません。
しかしそれはそう手短には行きませんから、
こん度の御相談にいたしましょう。
今度だけはお暇を下さるように、
切にお願申すのですがな。


  ファウスト

それにしてもちょいと位好さそうなものだ。
面白い話が聞きたいのだが。


  メフィストフェレス

いや。今度だけはお暇を下さい。直(すぐ)に帰って来ます。
その時なんでもお尋下さい。


  ファウスト

一体己が君を追い掛けたのではない。
君が自業自得で網に掛かったのだ。
悪魔なんと云うものが、手に這入っては手放せないね。
また早速掴まえようと云うわけには行かんから。


  メフィストフェレス

いや。是非お伽をするのがお望だと云うことなら、
それはいてお上(あげ)申しても好いですよ。
しかしお慰(なぐさみ)に何か術をして
御覧に入れても好いと云う条件附に願いましょう。


  ファウスト

それは結構だ。君の勝手にし給え。
なるたけ気持の好い術にしてくれ給え。


  メフィストフェレス

それは承知です。単調極まる一年間に、
あなたの官能の享けたよりは、
この一時間に享けた方がたっぷりだと思わせて上げます。
これから優しい霊どもが歌ってお聞せ申したり、
美しい形を現(あらわ)してお見せ申すのは、
いたずらな幻の戯ではない。
鼻にも好い匂(におい)がしよう。
舌にも好い味がしよう。
それから心にも好い感じがしよう。
別に用意なんぞはいらない。
仲間はもう揃っている。始めろ始めろ。


  霊等

消えよ、目の上なる
暗き穹窿(きゅうりゅう)
蒼きこう気よ。
やさしく美しく
(むろ)を窺へ。
暗き雲霧(くもきり)
はや散り失せしよ。
星あまたきらめけり。
やさしき日等は
照りわたれり。
(てん)の子等の
(れい)めく美しさよ。
揺りつゝ身を曲げて
漂ひ過ぎよ。
あこがるゝ心もて
こなたへ続け。
その衣(きぬ)
ひらめく帯は
下界を覆ひ、
四阿(あずまや)を覆へ。
恋する二人が深き心もて
生涯を相委ぬる
四阿を覆へ。
四阿は四阿に並べり。
芽ぐむ蔓草(つるくさ)あり。
枝たわわなる葡萄は
籠み合ふ酒蔵(さかぐら)
桶に灌(そそ)げり。
泡立つ酒は
小川(おがわ)と流れ、
浄き宝玉の
川床にせゝらぎて、
山の上の高き処を
(せ)になしつゝ、
事足れる
緑なる岡の辺(べ)
(みずうみ)に入る。
群鳥(むらとり)
(よろこび)を啜り、
日の方(かた)へ飛び、
波間に
漂ひ浮ける、
晴やかなる
島々の方へ飛ぶ。
その島には合唱の群の
歓び歌ふが聞え、
踊手の野の上に
踊るが見ゆ。
舞ひ歌ふ人皆
四方(よも)にあらけぬ。
岡のつかさに
(よ)づるあり。
湖の上に
(およ)ぐあり。
空に冲(ひひ)るあり。
皆生(せい)に向へり。
(せい)なる恵(めぐみ)
愛する星の
遠方(おちかた)に向へり。


  メフィストフェレス

寐たな。身の軽い、やさしい小僧ども、好く遣った。
好く真面目に骨を折って寐入らせてくれた。
あの合奏のお礼は忘れはしないよ。
へん。悪魔を抑留しようとは、お前にはまだ過ぎた話だ。
小僧ども。こいつの夢に艶(えん)な姿を見せて遣れ。
迷の海に沈(しず)めて遣れ。
ところでこの敷居の禁厭(まじない)を破るには
鼠の牙がいり用だ。
呼ぶには手間は掛からない。
そこらをがさがさ云わせる奴に、もう己の詞が聞えよう。
こら。大鼠、小鼠、蠅に蛙に
南京虫、蝨(しらみ)の王の
(おおせ)だぞ。遠慮なく這って出て、
そこの敷居をかじれかじれ。
ちょいと油を塗り附けると、
早速そこへ飛んで来る。
さあ、為事(しごと)に掛かれ掛かれ。邪魔なのは
その一番手前の角(すみ)の所だ。
もう一かじりだ。それで好(い)い。さようなら、ファウストさん、
またお目に掛かるまで、たんと夢を御覧なさい。


  ファウスト(醒めて。)

己はまた騙されたか。
夢に悪魔を見せられて、
尨犬に逃げられるのが、
意味の深い願(ねがい)の果(はて)か。


————————————

ファウスト。メフィストフェレス登場。



  ファウスト

戸を敲(たた)いたな。おはいりなさい。誰がまた悩ましに来たのか。


  メフィストフェレス

わたくしです。


  ファウスト

おはいりなさい。


  メフィストフェレス

三度言って下さいまし。


  ファウスト

はてさて。おはいりなさい。


  メフィストフェレス

 それで宜しゅうございます。

そこで大抵中好く交際が出来る積(つもり)です。
あなたの気晴らしをしてお上(あげ)申そうと思って、
ちょっと貴公子と云うなりをして来ました。
赤い上衣に金の刺繍がしてある。
上に羽織ったのは、こわばる絹の外套です。
帽子には鳥の羽を挿しました。
そしてこんな長い、尖った剣(けん)を吊りました。
そこで早い話が、あなたの方(ほう)でも
こう云う支度をしてお貰(もらい)申したいのです。
そこであらゆる絆(きずな)を絶って、自由に
人生がどんなものだと云うことを御経験なさるのですね。


  ファウスト

いや。この狭い下界の生活の苦は
どの著物を著ても逃れられまい。
一体己は当のない遊をするには、もう年を取り過ぎた。
あらゆる欲を断とうには、まだ年が若過ぎる。
世間が己に何を提供しよう。
闕乏(けつぼう)に堪えよ、忍べよと云うのが、
人の一生涯時々刻々
(いや)な声で歌われて、
誰の耳にも聞えて来る
永遠なる歌なのだ。
己は毎朝恐怖の念をして目を醒ます。
ただ一つの、ただ一つの願も適(かな)えずに、
歓楽の暗示をさえ
かたくなな批評で打ちこわし、
活動している己の胸の創作を
凡百の世相で妨碍(ぼうがい)する
日の目をまた見ることかと思えば、
己は苦(にが)い涙を飜(こぼ)して泣きたくなる。
また夜闇が下界を包みに降りて来ても、
己は恐る恐る身を臥所(ふしど)に倒す。
そこでも甘寐(うまい)の安さを貪ることは出来ずに、
恐ろしい夢に驚かされる。
己のこの胸のうちに住んでいる神は
心の深い底の底まで掻き乱すことは出来るが、
己のあらゆる力の上に超然と座を占めている神は、
外界の物を何一つ動かすことが出来ぬ。
それで己には世にあるのが重荷で、
死が願わしく生(せい)が憎いのだ。


  メフィストフェレス

そのくせ死が真に客として歓迎せられることは決して無いのです。


  ファウスト

いや。勝軍(かちいくさ)のかがやきのうちに
死が血に染まった月桂樹の枝をこめかみに纏(まと)う人、
急調の楽につれて広間を踊り廻った揚句に、
少女の腕に支えられながら死を迎えた人は幸(さいわい)だ。
ああ。己もあの高い精霊を覿面(てきめん)に見たとき、
歓喜の余にその場に死んで倒れてしまえば好かったに。


  メフィストフェレス

でも誰やらあの晩に
茶色な汁を飲み干さなかったようですね。


  ファウスト

ふん。君は探偵が道楽だと見える。


  メフィストフェレス

わたしは全知ではないが、大ぶいろんな事を知って居ますよ。


  ファウスト

あの恐ろしい心の乱(みだれ)の中で、
馴れた優しい音色に牽(ひ)かれ、
(おさな)かった世の記念(かたみ)の感情が、
旧い歓楽の余韻に欺かれたとは云え、
餌や囮(おとり)やまやかしで人の霊を擒(とりこ)にし、
目をくらましたり賺(すか)したりして、
この悲哀の洞窟(どうくつ)に繋いで置こうとするような、
あらゆる手段を己は咀(のろ)う。
人の霊が自ら高しとして我と我身の累(るい)をなす、
その慢心を先ず咀う。
わが官能の小窓に迫る
現象の幻華を咀う。
わが夢の世に来て欺く
名聞や身後の誉の迷を咀う。
妻となり子となり奴婢(ぬひ)となり鋤鍬となり、
占有(せんゆう)と称して人に媚ぶる一切の物を咀う。
宝を見せて促して冒険の業をもさせ、
また怠(おこたり)の快楽(けらく)に誘(さそ)うて
軟い茵(しとね)を体の下にも置き直す、
あの金銭を己は咀う。
葡萄から醸す霊液を咀う。
恋の成就の快楽を咀う。
希望を咀う。信仰を咀う。
何より切に忍耐を咀う。


  合唱する霊等(目に見えず。)

(いた)まし。痛まし。
強き拳(こぶし)もて
美しき世界を
(なむじ)毀ちぬ。
世界は倒れ崩れぬ。
半ば神なる人毀ちぬ。
その屑(くず)を「無」のうちへ
我等負ひ行きつゝ、
失はれし美しさを
歎く。
下界の子のうちの
力強き汝(なむじ)
(さき)より美しく
そを再び建立せよ。
(な)が胸のうちにそを建立せよ。
爽かなる目もて耳もて
新なる生(せい)の歩(あゆみ)
始めよ。
さらば新しき歌
聞えむ。


  メフィストフェレス

あれはわたしの仲間の
小僧どもです。
ませた言草(いいぐさ)で歓楽や事業を
あなたに勧めるのをお聞なさい。
官能の働(はたらき)、体の汁の循(めぐり)の止(と)まる
寂しい所から、
遠い世間へ
あいつ等はあなたを誘い出すのです。

角鷹(くまたか)のようにあなたの命の根を啄(つつ)
「憂(うれえ)」をおもちゃにするのはお廃(よし)なさい。
最下等の人間とでも一しょにいたら、
人の中の人だと云うことがあなたにも感ぜられよう。
こう申したからとて、何もあなたを
下司(げす)の中へ連れ出そうと云うのではありません。
わたしはえらい人のお仲間ではない。
それでもあなたがわたしと一しょに
世間を渡って見ようと云う思召がありゃあ、
即座にわたしは甘んじて
あなたのものになってしまう。
まあ、兎に角お連になって見て、
わたしのする事がお気に入ったら、
御家隷(ごけらい)にもなるですね。


  ファウスト

そしてその代(かわり)に己の方(ほう)からどうすれば好いのだ。


  メフィストフェレス

そりゃあまだ急ぐことはありません。


  ファウスト

いやいや。悪魔は利己主義だから、
人の為(ため)になることを
容易に只でしてはくれまい、
条件をはっきり言って貰おう。
そう云う家隷は己の内へ危険を及ぼしそうだから。


  メフィストフェレス

そんならこの世でわたしはあなたに身を委ねて、
休まずに頤で使われましょう。
そこであの世でお目に掛かった時は
あなたがあべこべに使われて下さるですね。


  ファウスト

あの世なんぞは己は余り気にしない。
まあ、君がこの世界をこなごなに砕いたところで、
別の世界がその跡へ出来ようというものだ。
この大地から己の歓喜は涌く。
この日が己の苦痛を照す。
己がこの天地に別れてしまうことが出来たら、
それから先はどうにでもなるが好い。
未来に愛や憎(にくみ)があるか、
あの世にもまたこの世のように
上と下とがあるかなどと、
己は問うて見る気がないのだ。


  メフィストフェレス

そう云うお考(かんがえ)なら思い切ってお遣なさい。
お約束なさい。その上は早速
わたしの術を面白く御覧になることが出来ます。
まだ人間の見たことのない物を御覧に入れます。


  ファウスト

ふん。悪魔風情が何を見せる積(つもり)やら。
向上の道にいそしむ人間の霊が
君なんぞに分かった例(ためし)があるかい。
腹の太らない馳走か、
水銀のようにころころと
間断なく手のうちで散る赤い金(きん)か、
勝つことのない博奕(ばくち)か、
己の懐に抱かれていながら
隣の男を流眄(ながしめ)に見る女か、
隕石(いんせき)のように消えてしまう
名望の、神のような快さをでも授けるのか。
摘まぬ間(ま)に腐る果(このみ)でも、日毎に若葉の
茂る木でも、見せるなら己に見せて貰おう。


  メフィストフェレス

そんな御註文には驚きません。
そう云う珍物が御用とあれば差し上げる。
しかしそれよりは落ち著いて、何か旨い物を
食っていたいと云う時がおいおい近くなりますよ。


  ファウスト

ふん。己が気楽になって安楽椅子に寝ようとしたら、
その時は己はどうなっても好い。
己を甘い詞(ことば)で騙して
己に自惚(うぬぼれ)の心を起させ、
己を快楽(けらく)で賺(すか)すことが君に出来たら、
それが己の最終の日だ。
賭をしよう。


  メフィストフェレス

宜しい。



  ファウスト

容赦はならぬ。

己がある「刹那」に「まあ、待て、
お前は実に美しいから」と云ったら、
君は己を縛り上げてくれても好い。
己はそれきり滅びても好い。
葬の鐘が鳴るだろう。
君の奉公がおしまいになるだろう。
時計が止(と)まって針が落ちるだろう。
己の一代はそれまでだ。


  メフィストフェレス

だが好く考えて御覧なさい。聞いた事は忘れませんよ。


  ファウスト

己は軽はずみに大胆に振舞いはせぬから、
どうぞしっかり覚えていて貰おう。
己が一所に停滞したら、己は奴隷だ。
君のにしろ、誰のにしろ。


  メフィストフェレス

そんならきょうの卒業宴会に
早速御家隷の役をしましょう。
ただ一つ願いたいのは、後に間違のないように
一寸二三行書いて置いてお貰(もらい)申しましょうか。


  ファウスト

書物(かきもの)まで取るのかい。悪く堅い奴だな。
男同士の附合も男の詞の信用も知らないのか。
口で言った己の詞が永遠に己の生涯を
自由にすると云うだけでは不満足なのかい。
一体世界のあらゆる潮流は頃刻(けいこく)も息(やす)まないのに、
己だけが契約一つで繋がれていると云うのも変だ。
しかしそう云う迷は誰の心にも深く刻まれていて、
誰も好んでそれを霽(はら)そうとするものがない。
胸の中に清浄に信義を懐いているものは幸福だ。
そう云う人はどんな犠牲をも辞するものではない。
ところが、字を書いて印を押した巻紙を、
世間のものは皆化物のようにこわがっている。
いざ筆に上(のぼ)するとなると、一字一句にも気怯(きおくれ)がする。
そりゃ用紙、そりゃ封蝋と、どなたもお持廻(もちまわり)になる。
おい、悪霊(あくりょう)。君は何がいるのだ。
紙に書くのか、革(かわ)に書くのか、石や金に彫(ほ)るのかい。
鉛筆か、鵝ペンか、それとも鑿(のみ)で書けと云うのか。
己は君の註文どおりにするのだがね。


  メフィストフェレス

何もそんなにむきになって誇張した
言草をしなくったって好いでしょう。
どんな紙切でも好いのです。
ただちょいと血を一滴出して署名して下さい。


  ファウスト

それで君の気が済むことなら、
下らない為草(しぐさ)だが異存はないよ。


  メフィストフェレス

血という奴は兎に角特別な汁ですからね。


  ファウスト

己が違約するだろうと云う御心配だけはいらぬ事だ。
平生力一ぱい遣って見ようと思っている事と、
君に約束する事とが一つなのだからね。
己は大きく丈高くなろうとして、ふくらみ過ぎた。
所詮君くらいの地位にいるはずの己だろう。
大なる霊は己を排斥して、
「自然」の戸は己の前に鎖された。
思量の糸は切れて、
あらゆる知識が嘔吐を催しそうになった。
どうぞ官能世界の深みに沈めて、
燃える情欲の渇を医(いや)してくれ給え。
未だかつて搴(かか)げられたことのない秘密の垂衣(たれぎぬ)の背後に
一つ一つの奇蹟が己達の窺うのを待っている。
さあ、「時」の早瀬に、事件の推移の中に
この身を投げよう。
受用と痛苦と、
成就と失敗とが
あらん限の交錯をなして来るだろう。
活動して暫くも休まずにいてこそ男児だ。


  メフィストフェレス

あなたにこれ程と云う尺度や、これまでと云う限界は示さない。
どうぞ到る処に撮食(つまみぐい)をして、
逃げしなに好(い)い物を引(ひ)っ手繰(たくり)なさるが好い。
たんとお楽(たのしみ)なさって、跡腹の病めないようになさい。
兎に角すばしこく手をお出(だし)なさい。ぼんやりしていないで。


  ファウスト

いや。先っきも云うとおり己は快楽は貪らない。
最も悲しい受用に、受用のよろめきに身を委ねよう。
恋に迷う心の憎、爽快に伴う胸悪さに委ねよう。
物の識りたい欲を擲(なげう)ったこの胸は、
これから甘んじてどんな苦痛をも迎えて、
人間全体の受くるべきはずのものを
この内の我で受けて味わって見よう。
この己の霊で人間の最上のもの深甚のものを捉えて、
歓喜をも苦痛をもこの胸の中に積んで、
この自我を即人生になるまで拡大して、
遂にはその人生と云うものと同じく、滅びて見よう。


  メフィストフェレス

まあ、お聞(きき)なさい。わたしは何千年と云う間
この靭(しわ)いお料理を噬(か)んでいるから、知っています。
揺籃(ゆりかご)から棺桶までの道中に、
この先祖伝来の饅頭種をこなす奴はありませんよ。
わたしどもは知っています。この一切の御馳走は
神と云う奴でなくてはこなせない。
なんでもそいつが自分はいつも明るい所にいて、
わたしどもをいつも暗い所に置いて、
あなた方(がた)に夜昼(よるひる)を寝たり起きたりして過させるのだ。


  ファウスト

しかし己は遣って見る。


  メフィストフェレス

さあ、出来ないこともないでしょう。
だが、気になることが一つありますよ。
時は短くして道は長しですな。
お望(のぞみ)の適(かな)うような工夫をお授(さずけ)しましょうか。
一つ詩人と云う奴と結托なさるです。
そこでその先生が思想を馳騁(ちてい)して、
宇宙の物のあらゆる栄誉を
あなたの頭銜(とうかん)に持って来るのです。
胆大(たんだい)なること獅子の如く、
足早きこと鹿の如く、
血の熱することイタリア人の如く、
堅忍不抜は北辺の民の如しと云う工合です。
その先生にお頼(たのみ)なさって、宏量と狡智とを兼ねて、
温い青春の血を失わずに、
予定の計画どおりに恋をすると云う
秘法を授けてお貰なさるが好い。
わたしもそう云う先生にお近附になりたいのです。
そして小天地先生の尊号を上(たてまつ)るですな。


  ファウスト

しかしね、君。己が見聞覚知の限を尽して、
窮めようとしている人生の頂上が
窮められないものとしたら、己は一体何物だ。


  メフィストフェレス

あなたですか。あなたは、さよう、やっぱりあなたですな。
何百万本の縮毛(ちぢれけ)を植えた仮髪をお被(かぶり)なさっても、
何尺と云う高さの足駄をお穿(はき)なさっても、
所詮あなたはあなたですな。


  ファウスト

己もどうもそんな気がする。人智の集めた宝の限を、
己はいたずらに身のまわりに掻き寄せて見た。
さてじっと据わって考えて見ても、
内から新しい力は涌いて出ぬ。
毛一本の幅程も己の身の丈は加っていぬ。
己は一歩も無極に近づいてはいぬ。


  メフィストフェレス

いや、先生、それは通途(つうず)の物の見ようで
物を御覧になると云うものだ。
生の喜が逃げ去らぬ間に、取る物を取ろうとするには、
も少し気の利いた手段をしなくてはいけません。
なに、べらぼうな。それは慥(たし)かにあなたの物と云うのは、
手足や頭やし□だけでしょう。
しかしなんでも自分が新しく受用すりゃあ、
それが自分の物でないとは云われません。
六匹の馬の代(だい)が払えたら、
その馬の力が自分のではないでしょうか。
そいつに駆けさせりゃあ、こっちは立派に
二十四本足のある男だ。
さあ、思い切って出掛けましょう。思案なんぞは廃(やめ)にして
御一しょにまっしくらに世間へ飛び出して見ましょう。
わたしがあなたに言いますがね。理窟を考えている奴は、
牛や馬が悪魔に取り附かれて、草の無い野原を
圏なりに引き廻されているようなものです。
その外囲(そとまわり)にはどこにも牧草が茂っているのに。


  ファウスト

そこで手始にどうしろと云うのだ。


  メフィストフェレス

出掛けるですね。

一体ここはなんと云う拷問所(ごうもんじょ)です。
こんな所で自分も退屈し、学生どもをも退屈させるのが、
生きていると云うものですか。
こんな事は御同僚の太っ腹に任せてお置(おき)なさい。
なんだって実(み)の無い藁(わら)をいつまでも扱(こ)くのですか。
それにあなたに分かる学問の中で、一番大切な事は
学生どもには言うことが出来ないのでしょう。
そう云えば、さっきから廊下に一人(ひとり)来ているようですね。


  ファウスト

今面会することは己には出来ないが。


  メフィストフェレス

小僧大ぶ長く待っているのだから、
慰めて遣らずに帰すわけには行きますまい。
一寸その上衣と帽子とをわたしにお貸(かし)なさい。
こう云う服装はわたしには好く似合いそうです。

(メフィストフェレス著換ふ。)

これで好い。跡はわたしの頓智に任せてお置(おき)なさい。
十五分間もあれば沢山だ。
どうぞその隙に面白い旅の支度をして下さい。

(ファウスト退場。)



  メフィストフェレス(ファウストの服装にて。)

へん。これからは人間最高の力だと云う
理性や学問を馬鹿にして、
幻術魔法によって、
(いつわり)の心を長ぜさせるが好い。
そうなりゃあ先生こっちのものだ。
なんの箝制(けんせい)も受けずに、前へ前へと進んで行く
精神を運命に授けられたので、
先生慌ただしい努力のために、
下界の快楽(けらく)を飛び越して来たものだ。
これから己が先生を乱暴な生活、
平凡な俗事の中へ連れ込んで引き擦り廻し、
もがかせて、放さずに、こびり附かせて、
あくことを知らない嗜欲の脣の前に、
旨い料理や旨い酒をみせびらかしてくれる。
先生医し難い渇に悶えるだろう。
そうなると、よしや悪魔に身を委ねていないでも、
破滅せずにはいられまいて。

一学生登場。



  学生

わたくしはこの土地へたった今参ったばかりですが、
どこで承っても御高名な
先生にお目に掛かって、お話が伺いたいと存じまして、
わざわざ罷(まか)り出ましたのですが。


  メフィストフェレス

これは御丁寧な挨拶で痛み入る。
わしも外(ほか)に沢山いるとおりの並(なみ)の男だ。
どうだね。少しはここらの様子を見たかね。


  学生

どうぞ何分宜しくお願(ねがい)申します。
わたくしは体は丈夫で、学資もかなりありますし、
奮発して出て参ったものでございます。
母はなかなか手放しませんでしたが、
是非余所でしっかりした修行がいたしたいので。


  メフィストフェレス

それは君丁度好い土地へ来られた。


  学生

実の所はなんだかもう帰りたくなりました。
この高い石垣や広い建物を見ますと、
余り好(よ)い心持はいたしません。
なんだかこう窮屈らしい所で、
草や木のような青いものも見えませんし、
講堂に出て、ベンチに腰を掛けますと、
なんにも見えも聞えもしないで、頭さえぼんやりして来ます。


  メフィストフェレス

それは習慣ですよ。
生れたばかりの赤子に乳を含ませると、
すぐには吸い附かないものだ。
少し立てば旨がって飲む。
それと同じ事で今に君も知識の乳房に
かじり附いて離れないようになるさ。


  学生

それはわたくしも学問の懐に抱かれないのは山々です。
どうしたらそこへ到達することが出来ましょう。


  メフィストフェレス

まあ、外の話は跡の事にして
何科に這入るつもりだか、それを言って見給え。


  学生

ええ。わたくしはなんでもえらい学者になりたいのです。
下界の事から天上の事まで窮めまして、
自然と学問とに
通じたいと存じます。


  メフィストフェレス

それは至極のお考だ。
しかし余所見をしては行けませんよ。


  学生

それは体をも魂をも委ねて遣ります。
しかし愉快な暑中休暇なんぞには
少しは自由を得て暇潰(ひまつぶし)な事も
遣られるようだと好いのですが。


  メフィストフェレス

光陰は過ぎ易いものだから、時間を善用せんと行かん。
なんでも規律を立てて遣ると、時間が儲かるよ。
まあ、わしに御相談とあれば、
最初に論理学を聴くだね。
そこで君の精神が訓錬を受けて、
スパニアの長靴で腓腸(ふくらはぎ)を締め附けられたように、
思慮の道を
改めてゆっくり歩くようになるのだ。
燐火が空を飛ぶように、
縦横(たてよこ)十文字に跳ね廻っては行かん。
それから暫くはこう云う教育を受ける。
(たと)えば勝手に飲食(のみくい)をするように、
これまで何事も一息に、無造做(むぞうさ)にしたのを、
一、二、三と秩序を経て遣るようにする。
一体思想の工場(こうば)
機屋の工場のようなもので、
一足踏めば千万本の糸が動いて、
(ひ)は往ったり来たりする、
目に止まらずに糸を流れる、
一打打てば千万の交錯が出来ると云うわけだ。
哲学者と云う奴が出掛けて来て、
これはこうなくてはならんと、君に言って聞せる。
第一段がこうだ、第二段がこうだ。
それだから第三段、第四段がこうなくてはならん。
もし第一段、第二段がなかったら、
第三段、第四段は永久に有りようがないと云うのだ。
そんな理窟をどこの学生も難有(ありがた)がっている。
しかし誰も織屋になったものは無い。
誰でも何か活動している物質を認識しよう、
記述しようとするには、兎角精神を度外に置こうとする。
そこで一部分一部分は掌中に握っているが、
お気の毒ながら、精神的脈絡が通じていない。化学でそれを
エンヘイレエジス・ナツレエ、「自然処置」と称している。
自ら欺く詞で、どうして好いか知らぬのだ。


  学生

どうも仰ゃる事が皆は分かりません。


  メフィストフェレス

それは君が複雑な事を単一に戻して、
それぞれ部門に入れて考えるようになると、
おいおい今よりは好く分かるようになる。


  学生

どうも頭の中で擣屋(つきや)の車が廻っているようで、
ぼうっとしてまいりました。


  メフィストフェレス

それから君、先ず何は措いても、
形而上学に取り掛からなくてはいかん。
なんでも人間の頭に嵌(は)まりにくい事を、
あの学問で深邃(しんすい)に領略するのだね。
頭に這入る事を斥(さ)すにも、這入らない事を斥すにも
立派な術語が出来ていて重宝なわけだ。
それはまあ、後の事として、最初半年は
講義を聴く順序を旨く立てなくてはいかん。
毎日五時間の課程がある。
鐘の鳴る時ちゃんと講堂に出ていなくてはいかん。
聴く前に善く調べて置いて、
一章一章としっかり頭に入れて置くのだ。
そうすると、先生が本に書いてある事より外には
なんにも言わないのが、跡で好く分かって好(い)い。
しかし筆記は勉強してしなくてはいかん。
聖霊(せいれい)が口ずから授けて下さると云う考(かんがえ)でね。


  学生

それは二度と仰ゃらなくっても好うございます。
筆記がどの位用に立つかと云うことは、好く分かっています。
なんでも白紙の上に黒い字で書いて置いたものは、
安心して内へ持って帰ることが出来ますから。


  メフィストフェレス

ところで君、兎に角何科にするのだね。


  学生

どうも法律学は遣りたくありません。


  メフィストフェレス

わしもあの学科の現状は知っているから、
君が気の進まないのも無理とは思わない。
兎角法律制度なんと云うものは
永遠な病気のように遺伝して行く。
先祖から子孫へぐずぐずに譲り渡されて、
国から国へゆるゆると広められる。
そのうち道理が非理になって、仁政が秕政(ひせい)になる。
人は澆季(ぎょうき)には生れたくないものだ。
さて人間生れながらの権利となると、
惜いかなどこでも問題になっていない。


  学生

そのお話で厭なのが益々厭になりました。
先生のお指図を受けるものは、実に為合(しあわせ)です。
そこでわたくしは神学でも遣ろうかと存じますが。


  メフィストフェレス

そうさな。君を方向に迷わせたくはない。
あの学問をして、
邪路に奔(はし)らないようにするのは、頗(すこぶ)るむずかしいて。
あの中には毒と見えない毒が沢山隠れている。
それを薬と見分けることがほとんど不可能だ。
まあ、一番都合の好いのは、ただ一人の講義を聴いて、
その先生の詞どおりを堅く守っているのだね。
概して詞に、言句にたよるに限る。
そうすれば不惑の門戸から
堅固の堂宇に入ることが出来る。


  学生

しかし先生、詞には概念がなくてはなりますまい。


  メフィストフェレス

それはそうだ。だが、余り小心に考えて徒労をせぬが好(い)い。
なぜと云うに、丁度概念の無い所へ、
詞が猶予なく差し出(で)ているものだ。
詞で立派に議論が出来る。
詞で学問の系統が組み立てられる。
詞に都合好く信仰を托することが出来る。
詞の上ではグレシアのヨタの字一字も奪われない。


  学生

どうも色々伺って先生のお暇を潰して済みませんが、
も少し御面倒を願いたいのでございます。
どうぞ医学はどんなものだと云うことについても
しっかりした御一言を承らせて下さいまし。
三年の学期は短いのに、
学問の範囲は実に広いのです。
先生がちょいと一言方針を御示(しめし)下さいますと、
それにたよって探りながらでも進んで行かれましょう。


  メフィストフェレス(独語。)

もうそろそろ乾燥無味な調子に厭(あ)きて来た。
ちと本色の悪魔で行って遣るかな。

(声高く。)

医学の要旨は造做もないものだよ。
君は大天地と小天地とを窮めるのだ。
そして詰まる所はやはり神の思召どおりに、
なるがままにさせて置くのさ。
君がいくらあちこち学問をしようとしてさまよっても、
それは駄目だ。てんでに学ばれる事しか学ばれない。
ところで、なんでも旨く機会を掴まえるのが、
それが本当の男と云うものだ。
見た所が、君は大ぶ体格が好(い)い。
度胸もなくはないだろう。
そこで君に自信が出来て来ると、
世間の人も自然に君を信じて来るのだ。
殊に女を旨く扱うことを修行しなくては行けない。
女と云う奴はここが痛いの、かしこが苦しいのと、
いろいろな言葉の絶える時はない。
それがただ一箇所から直すことが出来るのだ。
そこで君がかなり真面目に遣って行くと、
女どもはみんな君の手の裏にまるめられてしまう。
なんでも学位か何かがあって、世間のいろいろな技術より
君の技術が優れていると信ぜさせるのが第一だ。
さてお客になって遣って来たら、人の何年も掛かって
障られない所々(ところどころ)を、初対面の印(しるし)にいじって遣る。
脈なんぞを旨く取るのだね。
そして細い腰が、どの位堅く締めてあるかと云うことを、
熱心らしい、狡猾そうな目附(めつき)をして、
探って見て遣るのだね。


  学生

そう云うお話なら、何をどうすると云うことが分かって結構です。


  メフィストフェレス

兎に角君に教えるがね。一切の理論は灰いろで、
緑なのは黄金(こがね)なす生活の木だ。


  学生

正直に申しますが、わたくしはどうも夢を見ているようです。
また改めて先生のお説の極深い処を伺いに
参りましても宜しゅうございましょうか。


  メフィストフェレス

なんでもわしに出来る事なら喜んでして上げる。


  学生

恐れ入りますが、お暇乞をいたすには
この記念帖にお書入(かきいれ)を願わなくてはなりません。
どうぞ先生の御眷顧(ごけんこ)を蒙りましたお印(しるし)を。


  メフィストフェレス

お易い事で。

(書きて渡す。)



  学生(読む。)

エリチス・シイクト・デウス・スチエンテス・ボヌム・エット・マルム
(爾等知(二)善与(一レ)悪。則応(レ)(レ)神。)

(恭しく帖を閉ぢて退場。)



  メフィストフェレス

その古語の通(とおり)にしろ。己の姪の蛇の云う通(とおり)にしろ。
一度は貴様も自分が神のようなのがこわくなるだろう。

ファウスト登場。



  ファウスト

さあ、どこへ行くのだ。


  メフィストフェレス

お好(すき)な所へ行きましょう。

先ず御一しょに小天地を見て、それから大天地を見ます。
まあ、一通(とおり)の修行を遣って御覧なさい。
なかなか面白くて有益ですよ。


  ファウスト

しかしこの長い髯の看板どおりに、
気軽な世間の渡様(わたりよう)は己には出来ない。
所詮遣って見ても旨くは行くまいて。
己には世間に調子を合せると云うことが出来たことがない。
人の前に出ると、自分が小さく思われてならない。
己は間を悪がってばかりいるだろうて。


  メフィストフェレス

そんな事はどうにかなりますよ。
万事わたしにお任せなさると、直(すぐ)に調子が分ります。


  ファウスト

そこでどうしてこの家を出て行くのだ。
馬や車や供(とも)なんぞはどこにある。


  メフィストフェレス

それはついこの外套を拡げれば好(い)い。
これに乗って空を飛んで行くのです。
この大胆な門出には
大きな荷物だけは御免蒙ります。
わたしが少しばかりの瓦斯(ガス)を製造しますと、
そいつが造做なく二人を地から捲き上げてくれます。
そこで荷が軽いだけ早く升(のぼ)れる。
新生涯の序開だ。ちょっとおよろこびを申します。







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