新版 放浪記 林芙美子



     第二部


(一月×日)
私は野原へほうり出された赤いマリ

力強い風が吹けば

大空高く

(わし)の如く飛びあがる

おお風よ叩け

燃えるような空気をはらんで

おお風よ早く

赤いマリの私を叩いてくれ


(一月×日)

 雪空。

 どんな事をしてでも島へ行ってこなくてはいけない。島へ行ってあのひとと会って来よう。
「こっちが落目になったけん、馬鹿にしとるとじゃろ。」

 私が一人で島へ行く事をお母さんは賛成をしていない。
「じゃア、今度島へお母さん達が行くときには連れて行って下さい。どうしても会って話して来たいもの……」

 私に「サーニン」を送ってよこして、恋を教えてくれた男じゃないか、東京へ初めて連れて行ったのもあの男、信じていていいと言ったあのひとの言葉が胸に来る。――波止場には船がついたのか、低い雲の上に、船の煙がたなびいていた。汐風(しおかぜ)が胸の中で大きくふくらむ。
「気持ちのなくなっているものに、さっちついて行く事もないがの……サイナンと思うてお母さん達と一緒に又東京へ行った方がええ。」
「でも、一度会うて話をして来んことには、誰だって行き違いと云う事はあるもの……」
「考えてみなさい、もう去年の十一月からたよりがないじゃないかの、どうせ今は正月だもの、本気に考えがあれば来るがの、あれは少し気が小さいけん仕様がない。酉(とり)年はどうもわしはすかん。」

 私は男と初めて東京へ行った一年あまりの生活の事を思い出した。

 晩春五月のことだった。散歩に行った雑司(ぞうし)ヶ谷(や)の墓地で、何度も何度もお腹(なか)をぶっつけては泣いた私の姿を思い出すなり。梨のつぶてのように、私一人を東京においてけぼりにすると、いいかげんな音信しかよこさない男だった。あんなひとの子供を産んじゃア困ると思った私は、何もかもが旅空でおそろしくなって、私は走って行っては墓石に腹をドシンドシンぶっつけていたのだ。男の手紙には、アメリカから帰って来た姉さん夫婦がとてもガンコに反対するのだと云っている。家を出てでも私と一緒になると云っておいて、卒業あと一年間の大学生活を私と一緒にあの雑司ヶ谷でおくったひとだのに、卒業すると自分一人でかえって行ってしまった。あんなに固く信じあっていたのに、お養父(とう)さんもお母さんも忘れてこんなに働いていたのに、私は浅い若い恋の日なんて、うたかたの泡(あわ)よりはかないものだと思った。
「二三日したら、わしも商売に行くけん、お前も一度行って会うて見るとええ。」

 そろばんを入れていたお養父さんはこう言ってくれたりした。尾道(おのみち)の家は、二階が六畳二間、階下は帆布と煙草を売るとしより夫婦が住んでいる。
「随分この家も古いのね。」
「あんたが生れた頃、この家は建ったんですよ。十四五年も前にゃア、まだこの道は海だったが、埋立して海がずっと向うへ行きやんした。」

 明治三十七年生れのこの煤(すす)けた浜辺の家の二階に部屋借りをして、私達親子三人の放浪者は気安さを感じている。
「汽車から見て、この尾道はとても美しかったもんのう。」

 港の町は、魚も野菜もうまいし、二度目の尾道帰りをいつもよろこんでいて、母は東京の私へ手紙をよこしていた。帰ってみると、家は違っていても、何もかもなつかしい。行李(こうり)から本を出すと、昔の私の本箱にはだいぶ恋の字がならんでいる。隣室は大工さん夫婦、お上(かみ)さんはだるま上りの白粉(おしろい)の濃い女だった。今晩、町は、寒施行(かんせぎょう)なので、暗い寒い港町には提灯(ちょうちん)の火があっちこっち飛んでいた。赤飯に油揚げを、大工さんのお上さんは白粉くさい手にいっぱいこんなものを持って来てくれた。
「おばさんは、二三日うち島へ行きなさるな?」
「この十五日が工場の勘定日じゃけん、メリヤスを少し持って行こうと思ってますけに……」
「私のうちも船の方じゃあ仕事が日がつまんから、何か商売でもしたら云うて、繻子(しゅす)足袋の再製品を聞いたんじゃけど、どんなもんだろうな?」
「そりゃアよかろうがな、職工はこの頃景気がよかとじゃけん、品さえよけりゃ買うぞな、商売は面白かもん私と行ってみなさい、これに手伝わせてもええぞな。」
「そいじゃ、おばさんと一緒にお願い申しましょう。」

 船大工もこのごろ工賃が安くて人が多いし、寒い浜へ出るのは引きあわない話だそうな。

 夕方。

 ドックに勤めている金田さんが、「自然と人生」と云う本を持って来てくれる。金田さんは私の小学校友達なり。本を読む事が好きな人だ。桃色のツルツルしたメクリがついていて、表紙によしの芽のような絵が描いてあった。

 ――勝てば官軍、負けては賊の名をおわされて、降り積む雪を落花と蹴散(けちら)し。暗くなるまで波止場の肥料置場でここを読む。紫のひふを着た少女の物語り、雨後の日の夜のあばたの女の物語など、何か、若い私の胸に匂いを運んでくれる。金田さんは、みみずのたわごとが面白いと云っていた。十時頃、山の学校から帰って来ると、お養父さんが、弄花(はな)をしに行ってまだ帰らないのだと母は心配していた。こんな寒い夜でもだるま船が出るのか、お養父さんを迎えに町へ出てみると、雁木(がんぎ)についたランチから白い女の顔が人魂(ひとだま)のようにチラチラしていた。いっそ私も荒海に身を投げて自殺して、あの男へ情熱を見せてやろうかしらとも思う、それともひと思いに一直線に墜落して、あの女達の群にはいってみようかと思う。

(一月×日)

 島で母達と別れると、私は磯づたいに男の村の方へ行った。一円で買った菓子折を大事にかかえて因(いん)の島(しま)の樋(とい)のように細い町並を抜けると、一月の寒く冷たい青い海が漠々と果てもなく広がっていた。何となく胸の焼ける思いなり。あのひととはもう三カ月も会わないのだもの、東京での、あの苦しかった生活をあのひとはすぐ思い出してくれるだろう……。丘の上は一面の蜜柑(みかん)山、実のなったレモンの木が、何か少女時代の風景のようでとてもうれしかった。

 牛二匹。腐れた藁(わら)屋根。レモンの丘。チャボが花のように群れた庭。一月の太陽は、こんなところにも、霧のような美しい光芒(こうぼう)を散らしていた。畳をあげた表の部屋には、あのひとの羽織がかけてあった。こんな長閑(のどか)な住居にいる人達が、どうして私の事を、馬の骨だの牛の骨だのなんかと言うのだろうか、沈黙(だま)って砂埃(すなぼこり)のしている縁側に腰をかけていると、あの男のお母さんなのだろう、煤けて背骨のない藁人形のようなお婆さんが、鶏を追いながら裏の方から出て来た。
「私、尾道から来たんでございますが……」
「誰をたずねておいでたんな。」

 声には何かトゲトゲとした冷たさがあった。私は誰を尋ねて来たかと訊(き)かれると、少女らしく涙があふれた。尾道でのはなし、東京でのはなし、私は一年あまりのあのひととの暮しを物語って見た。
「私は何も知らんけん、そのうち又誰ぞに相談しときましょう。」
「本人に会わせてもらえないでしょうか。」

 奥から、あのひとのお父さんなのか、六十近い老人が煙管(きせる)を吹き吹き出て来る。結局は、アメリカから帰った姉さん夫婦が反対の由なり。それに本人もこの頃造船所の庶務課に勤めがきまったので、あんまり幸福を乱さないでくれと言う事だった。こんな煤けたレモンの山裾に、数万円の財産をお守りして、その日その日の食うものもケンヤクしている百姓生活。あんまり人情がないと思ったのか、あのひとのお父さんは、今日は祭だから、飯でも食べて行けと云った。女は年を取ると、どうして邪ケンになるものだろう。お婆さんはツンとして腰に繩帯を巻いた姿で、牛小屋にはいって行った。真黒いコンニャクの煮〆(にしめ)と、油揚げ、里芋、雑魚の煮つけ、これだけが祭の御馳走である。縁側で涙をくくみながらよばれていると、荒れた水田の小道を、なつかしい顔が帰って来ている。

 私を見ると、気の弱い男は驚いて眼をタジタジとさせていた。
「当分は、一人で働きたいと云っとるんじゃから、帰ってもおこらんで、気ながに待っておって下さい。何しろあいつの姉の云う事には、一軒の家もかまえておらん者の娘なんかもらえんと云うのだから……」

 お父さんの話だ。あのひとは沈黙って首をたれていた。――どう煎(せん)じ詰めても、あんなにも勇ましいと思っていた男が沈黙っていて一言も云ってくれないのでは、私が百万べん言っても動いてくれるような親達ではない。私は初めて空漠とした思いを感じた。男と女の、あんなにも血も肉も焼きつくような約束が、こんなにたあいもなく崩れて行くものだろうかと思う。私は菓子折をそこへ置くと、蜜柑山に照りかえった黄いろい陽を浴びて村道に出た。あの男は、かつてあの口から、こんなことを云ったことがある。
「お前は、長い間、苦労ばかりして来たのでよく人をうたがうけれども、子供になった気持ちで俺を信じておいで……」

 一月の青く寒く光っている海辺に出ると、私はぼんやり沖を見ていた。
「婆さんが、こんなものをもらう理由はないから、返して来いと云うんだよ。」

 私に追いすがった男の姿、お話にならないオドオドした姿だった。
「もらう理由がない? そう、じゃ海へでもほかして下さい、出来なければ私がします。」

 男から菓子折を引き取ると、私はせいいっぱいの力をこめてそれを海へ投げ捨てた。
「とても、あの人達のガンコさには勝てないし、家を出るにしても、田舎でこそ知人の世話で仕事があるんだが、東京なんかじゃ、大学出なんか食えないんだからね。」

 私は沈黙って泣いていた。東京での一年間、私は働いてこの男に心配かけないでいた心づかいを淋しく思い出した。
「何でもいいじゃありませんか、怒って私が菓子折を海へ投げたからって、貴方に家を出て下さいなんて云うんじゃありませんもの。私はそのうち又ひとりで東京へ帰ります。」

 砂浜の汚い藻(も)の上をふんで歩いていると、男も犬のように何時(いつ)までも沈黙って私について来た。
「おくってなんかくれなくったっていいんですよ。そんな目先きだけの優しさなんてよして下さい。」

 町の入口で男に別れると、体中を冷たい風が吹き荒れるような気がした。会ったらあれも言おう、これも言おうと思っていた気持ちが、もろく叩きこわされている。東京で描いていたイメージイが愚にもつかなかったと思えて、私はシャンと首をあげると、灰色に蜿蜒(えんえん)と続いた山壁を見上げた。

 造船所の入口には店を出したお養父さんとお母さんが、大工のお上さんと、もう店をしまいかけていた。
「オイ、この足袋は紙でこしらえたのかね、はいたと思ったらじき破れたよ。」

 薬で黒く色染めしてあるので、はくとすぐピリッと破れるらしい。
「おばさん! 私はもう帰りますよ。皆おこって来そうで、おそろしいもん……」大工のお上さんは、再製品のその繻子足袋を一足七十銭に売っているんだからとても押が太かった。大工の上さんが一船先へ帰ると云うので、私も連れになって、一緒に船着場へ行く。
「さあ、船を出しますで!」

 船長さんが鈴を鳴らすと、利久下駄をカラカラいわせていた大工の上さんは、桟橋と船に渡した渡し子をわたるとき、まだ半分も残っていた足袋の風呂敷包みを、コロリと海の中へ落してしまった。
「あんまり高いこと売りつけたんで、罰が当ったんだでな。」

 上さんはヤレヤレと云いながら、棒の先で風呂敷包みをすくい取っていた。

 皆、何もかも過ぎてしまう。船が私の通った砂浜の沖に出ると、灯のついたようなレモンの山が、暮色にかすんでしまっていた。三カ月も心だのみに空想を描いていた私だのに、海の上の潮風にさからって、いつまでも私は甲板に出ていた。

(一月×日)
「お前は考えが少しフラフラしていかん!」

 お養父さんは、東京行きの信玄袋をこしらえている私の後から言った。
「でもなお父さん、こんなところへおっても仕様のない事じゃし、いずれわし達も東京へ行くんだから、早くやっても、同じことじゃがな。」
「わし達と一緒に行くのならじゃが、一人ではあぶないけんのう。」
「それに、お前は無方針で何でもやらかすから。」

 御もっとも様でございます。方針なんて真面目くさくたてるだけでも信じられないじゃありませんか。方針なんてたてようもない今の私の気持ちである。大工のお上さんがバナナを買ってくれた。「汽車の中で弁当代りにたべなさいよ。」停車場の黒いさくに凭(もた)れて母は涙をふいていた。ああいいお養父さん! いいお母さん! 私はすばらしい成金になる空想をした。
「お母さん! あんたは、世間だの義理だの人情だのなんてよく云い云いしているけれども、世間だの義理だの人情だのが、どれだけ私達を助けてくれたと云うのです? 私達親子三人の世界なんてどこにもないんだからナニクソと思ってやって下さい。もうあの男ともさっぱり別れて来たんですからね。」
「親子三人が一緒に住めん云うてのう……」
「私は働いて、うんとお金持ちになりますよ、人間はおそろしく信じられないから、私は私一人でうんと身を粉にして働きますよ。」

 いつまでも私の心から消えないお母さん、私は東京で何かにありついたらお母さんに電報でも打ってよろこばせてやりたいと思った。――段々陽のさしそめて来る港町をつっきって汽車は山波(さんば)の磯べづたいに走っている。私の思い出から、たんぽぽの綿毛のように色々なものが海の上に飛んで行った。海の上には別れたひとの大きな姿が虹(にじ)のように浮んでいた。

        *

(六月×日)

 烈々とした太陽が、雲を裂き空を裂き光っている。帯の間にしまった二通の履歴書は、ぐっしょり汗ばんでしまった。暑い。新富河岸(しんとみがし)の橋を曲線(カーヴ)しながら、電車は新富座に突きささりそうに朽ちた木橋を渡って行く。坂本町で降りると、汚い公園が目の前にあった。金でもあれば氷のいっぱいも呑んで行くのだけれど、ああこのジトジトした汗の体臭はけいべつされるに違いない。石突きの長いパラソルの柄に頬をもたせて、公園の汚れたベンチに私は涼風をもとめてすずんでいた。
「オイ! 姉さん、五銭ほど俺にくんないかね……」

 驚いて振り返って見ると、垢(あか)もぶれな手拭を首に巻いた浮浪者が私の後に立っていた。
「五銭? 私二銭しか持たないんですよ、電車切符一枚と、それきり……」
「じゃア二銭おくれよ。」

 三十も過ぎているだろうこのガンジョウな男が、汗ばんだ二銭を私からもらうと、共同便所の方へ行ってしまった。あの人に二銭あげてあの人はあんなに喜んで行ったんだから、私にもきっといい事があるに違いない。玩具(おもちゃ)箱をひっくり返したような公園の中には、樹とおんなじように埃をかぶった人間が、あっちにもこっちにもうろうろしている。

 茅場町(かやばちょう)の交叉点(こうさてん)から一寸右へはいったところに、イワイと云う株屋がみつかった。薄暗い鉄格子のはまった事務室には遊び人風の男や、忙がし気に走りまわっている小僧やまるで人種の違ったところへ来た感じだった。
「月給は弁当つき三十五円でしてね、朝は九時から、ひけは四時です。ところで玉(ぎょく)づけが出来ますかね。」
「玉づけって何です?」
「簿記ですよ。」
「少しぐらいは出来ようと思います。」

 まあ、月給が弁当つき三十五円なんて! 何とすばらしい虹の世界だろう――。三十五円、これだけあれば、私は親孝行も出来る。

 お母さんや!

 お母さんや!

 あなたに十円位も送れたらあんたは娘の出世に胸がはちきれて、ドキドキするでしょうね。
「ええ玉づけだって、何だってやります。」
「じゃアやって見て下さい、そして二三日してからきめましょう――」

 白い絹のワイシャツを、帆のように扇風器の風でふくらましたこの頭の禿(は)げた男は、私を事務机の前に連れて行ってくれた。大きな、まるで岩のような事務机を前にすると、三十五円の憂鬱が身にしみて、玉づけだって何だって出来ますと云った事が、おそろしく思えてきた。小僧が持って来た大きい西洋綴りの帳面を開くと、それは複式簿記で、私の一寸知っている簿記とは、はるかに縁遠いものだった。目がくらみそうに汗が出る。生れてかつて見た事もないような、長い数字の行列、数字を毎日書き込んだり、珠算を入れるとなると、私は一日で完全に、キチガイになってしまうだろう。でも私は珠算をいかにもうまそうにパチパチ弾(はじ)きながら子供の頃、算術で丙ばかりもらっていた事を思い出して、胸が冷たくなるような気がした。これだけの長い数字が、どれだけ我々の人生に必要なのだろうか、ふっと頭を上げると小僧が氷あずきをおやつに持って来てくれている。私は浅ましくもうれし涙がこぼれそうだった。氷と数字、赤や青の直線、簿記棒で頭をコツコツやりながら、でたらめな数字を書き込んだのが恐ろしくなっている。

 帰ってみたら電報が来ていた。

 シュッシャニオヨバズ。

 えへだ! あんなに大きい数字を毎日毎日加えてゆかなくちゃならない世界なんて、こっちから行きたくもありませんよだ。成金になりたい理想も、あんな大きな数字でへこたれるようでは一生駄目らしい。

(六月×日)

 二階から見ると、赤いカンナの花が隣の庭に咲いている。

 昨夜、何かわけのわからない悲しさで、転々ところがりながら泣いた私の眼に、白い雲がとてもきれいだった。隣の庭のカンナの花を見ていると、昨夜の悲しみが又湧(わ)いて来て、熱い涙が流れる。いまさら考えて見るけれど、生活らしいことも、恋人らしい好きなひとも、勉強らしい勉強も出来なかった自分のふがいなさが、凪(なぎ)の日の舟のように侘(わび)しくなってくる。こんどは、とても好きなひとが出来たら、眼をつぶってすぐ死んでしまいましょう。こんど、生活が楽になりかけたら、幸福がズルリと逃げないうちにすぐ死んでしまいましょう。

 カンナの花の美しさは、瞬間だけの美しさだが、ああうらやましいお身分だよだ。またのよには、こんな赤いカンナの花にでも生れかわって来ましょう。昼から、千代田橋ぎわの株屋へ行ってみる。

  ――[#ここから横組み]1 2 3 4 5 6 7 8 9 10[#ここで横組み終わり]――

 これだけの数字を何遍も書かせられると、私は大勢の応募者達と戸外へ出ていった。女事務員入用とあったけれど、又、簿記をつけさせるのかしら、でも、沢山の応募者達を見ると、当分私は風の子供だ。

 明石(あかし)の女もメリンスの女も、一歩外に出ると、睨(にら)みあいを捨ててしまっている。
「どちらへお帰りですの?」

 私はこの魚群のような女達に別れて、銀座まで歩いてみた。銀座を歩いていると、なぜか質屋へ行くことを考えている。とある陳列箱の中の小さな水族館では、茎のような細い鮎(あゆ)が、何尾も泳いでいた。銀座の鋪道(ほどう)が河になったら面白いだろうと思う。銀座の家並が山になったらいいな、そしてその山の上に雪が光っていたらどんなにいいだろう……。赤煉瓦(れんが)の鋪道の片隅に、二銭のコマを売っている汚れたお爺さんがいた。人間って、こんな姿をしてまでも生きていなくてはならないのかしら、宿命とか運命なんて、あれは狐つきの云う事でしょうね、お爺さん! ナポレオンのような戦術家になって、そんな二銭のコマで停滞する事は止(や)めて下さい。コマ売りの老人の同情を強いる眼を見ていると、妙に嘲笑(ちょうしょう)してやりたくなる。あんなものと私と同族だなんて、ああ汚れたものと美しいものとけじめのつかない錯覚だらけのガタガタの銀座よ……家へかえったら当分履歴書はお休みだ。
空と風と

河と樹と

みんな秋の種子

流れて 飛んで


 夜。

 電気を消して畳に寝転んでいると、雲のない夜の空に大きい月が出ている。歪(ゆが)んだ月に、指を円めて覗(のぞ)き眼鏡していると、黒子(ほくろ)のようなお月さん! どこかで氷を削る音と風鈴が聞える。
「こんなに私はまだ青春があるのです。情熱があるんですよお月さん!」両手を上げて何か抱き締めてみたい侘しさ、私は月に光った自分の裸の肩をこの時程美しく感じた事はない。壁に凭れると男の匂いがする。ズシンと体をぶっつけながら、何か口惜(くや)しさで、体中の血が鳴るように聞える。だが呆然(ぼんやり)と眼を開くと、血の鳴る音がすっと消えてお隣でやっている蓄音器のマズルカの、ピチカットの沢山はいった嵐の音が美しく流れてくる。大陸的なそのヴァイオリンの音を聞いていると、明日のない自分ながら、生きなくては嘘だと云う気持ちが湧いて来るのだった。

(六月×日)

 おとつい行った株屋から速達が来た。×日より御出社を乞う。私は胸がドキドキした。今日から株屋の店員さんだ。私は目の前が明るくなったような気がした。パラソルを二十銭で屑屋(くずや)に売った。

 日立商会、これが私のこれからお勤めするところなり。隣が両替屋、前が千代田橋、横が鶏肉(とりにく)屋、橋の向うが煙草屋、電車から降りると、私は色んなものが豊かな気持ちで目についた。荻谷文子、これが私の相棒で、事務机に初めて差しむかいになると、二人共笑ってしまった。
「御縁がありましたのねイ。」
「ええ本当に、どうぞよろしくお願いします。」

 この人は袴(はかま)をはいて来ているが、私も袴をはかなくちゃいけないのかしら……。二人の仕事はおトクイ様に案内状を出す事と、カンタンな玉づけをならって行く事だった。相棒の彼女は、岐阜の生まれで小学校の教師をしていたとかで、ネーと云う言葉が非常に強い。「そうしてねイー」二人の小僧が真似をしては笑う。お昼の弁当も美味(うま)し、鮭(さけ)のパン粉で揚げたのや、いんげんの青いの、ずいきのひたし、丹塗(にぬ)りの箱を両手にかかえて、私は遠いお母さんの事を思い出していた。

 ニイカイ サンヤリ!

 自転車で走って小僧がかえって来ると、店の人達は忙がしそうにそれを黒板に書きつけたり電話をしている。
「奥のお客さんにお茶を一ツあげて下さい。」

 重役らしい人が私の肩を叩いて奥を指差す。茶を持ってドアをあけると、黒眼鏡をかけた色の白い女のひとが、寒暖計の表のような紙に、赤鉛筆でしるしをつけていた。
「オヤ! これはありがとう、まあ、ここには女の人もいるのね、暑いでしょう……」

 黒ずくめの恰好をした女のひとは、帯の間から五十銭銀貨二枚を出すと、氷でも召し上れと云って、私の掌にのせてくれた。

 こんなお金を月給以外にもらっていいのかしら……前の重役らしい人に聞くと、くれるものはもらっておきなさいと云ってくれた。社の帰り、橋の上からまだ高い陽をながめて、こんなに楽な勤めならば勉強も出来ると思った。
「貴女はまだ一人なの?」

 袴をはいて靴を鳴らしている彼女は、気軽そうに口笛を吹いて私にたずねた。
「私二十八なのよ、三十五円くらいじゃ食えないわね。」

 私は黙って笑っていた。

(七月×日)

 大分仕事も馴れた。朝の出勤はことに楽しい。電車に乗っていると、勤めの女達が、セルロイドの円い輪のついた手垂(てさ)げ袋を持っている。月給をもらったら私も買いたいものだ。階下の小母さんはこの頃少し機嫌よし。――社へ行くと、まだ相棒さんは見えなくて、若い重役の相良(さがら)さんが一人で、二階の広い重役室で新聞を読んでいた。
「お早うございます。」
「ヤア!」

 事務服に着かえながら、ペンやインキを机から出していると、
「ここの扇風器をかけて。」と呼んでいる。

 私は屑箱を台にすると、高いかもいのスイッチをひねった。白い部屋の中が泡立つような扇風器の音、「アラ?」私は相良さんの両手の中にかかえられていた。心に何の用意もない私の顔に大きい男の息がかかって来ると、私は両足で扇風器を突き飛ばしてやった。
「アッハハハハハいまのはじょうだんだよ。」

 私は梯子段を飛びおりると、薄暗いトイレットの中でジャアジャア水を出した。頬を強く押した男の唇が、まだ固くくっついているようで、私は鏡を見ることがいやらしかった。
「いまのはじょうだんだよ……」

 何度顔を洗ってもこの言葉がこびりついている。
「怒った! 馬鹿だね君は……」

 ジャアジャア水を出している私を見て、降りて来た相良さんは笑って通り過ぎた。

 昼。

 黒い眼鏡の夫人と一緒に場の中へ行ってみる。高いベランダのようなところから拍子木が鳴ると、若い背ビロの男が、両手を拡げてパンパン手を叩いている。「買った! 買った!」ベランダの下には、芋をもむような人の頭、夫人は黒眼鏡をズリ上げながら、メモに何か書きつける。

 夫人を自動車のあるところまでおくると、また、小さなのし袋に一円札のはいったのをもらう。何だかこんな幸運もまたズルリと抜けてゆきそうだ。帰ると、合百師(ごうひゃくし)達や小僧が丁半でアミダを引いていた。
「ねイ林さん! 私達もしない? 面白そうよ。」

 茶碗を伏せては、サイコロを振って、皆で小銭を出しあっていた。
「おい姉さん! はいんなよ……」
「…………」
「はいるといいものを見せてやるぜ。生れて初めてだわって、嬉しがる奴を見せてやるがどうだい。」

 羽二重のハッピをゾロリと着ながした一人の合百師が、私の手からペンを取って向うへ行ってしまった。
「アラ! そんないいもの……じゃアはいるわ、お金そんなにないから少しね。」
「ああ少しだよ、皆でおいなりさん買うんだってさ……」
「じゃ見せて!」

 相棒はペンを捨てて皆のそばへ行くと、大きいカンセイがおきる。
「さあ! 林さんいらっしゃいよ。」

 私も声につられて店の間へ行って見る。ハッピの裏いっぱいに描いた真赤な絵に私は両手で顔をおおうた。
「意気地がねえなア……」

 皆は逃げ出している私の後から笑っていた。

 夜。

 ひとりで、新宿の街を歩いた。

(七月×日)
「ああもしもし××の家(や)ですか? こちらは須崎ですがねイ、今日は一寸行かれませんから、明日の晩いらっしゃるそうです。××さんにそう云って下さいねイ。」

 又、重役が、どっか芸者屋へ電話をかけさせているのだろう、荻谷さんのねイがビンビンひびいている。
「ねイ! 林さん、今晩須崎さんがねイ、浅草をおごってくれるんですって……」

 私達は事務を早目に切りあげると、小僧一人を連れて、須崎と荻谷と私と四人で自動車に乗った。この須崎と云う男は上州の地主で、古風な白い浜縮緬(はまちりめん)の帯を腰いっぱいぐるぐる巻いて、豚のように肥った男だった。
「ちんやにでも行くだっぺか!」

 私も荻谷も吹き出して笑った。肉と酒、食う程に呑む程に、この豚男の自惚(うぬぼれ)話を聞いて、卓子の上は皿小鉢の行列である。私は胸の中かムンムンつかえそうになった。ちんやを出ると、次があらえっさっさの帝京座だ。私は頭が痛くなってしまった。赤いけだしと白いふくらっぱぎ、群集も舞台もひとかたまりになって何かワンワン唸りあっている。こんな世界をのぞいた事もない私は、妙に落ちつかなかった。小屋を出ると、ラムネとアイスクリーム屋の林立の浅草だ。上州生れのこの重役は、「ほう! お祭のようだんべえ。」とあたりをきょろきょろながめていた。

 私は頭が痛いので、途中からかえらしてもらう。荻谷女史は妙に須崎氏と離れたがらなかった。
「二人で待合へでも行くつもりでしょう。」

 小僧は須崎氏からもらった、電車の切符を二枚私に裂いてくれた。
「さよなら、又あした。」

 家へかえると、八百屋と米屋と炭屋のつけが来ていた。日割でもらっても少しあまるし、来月になったら国へ少し送りましょう。階下でかたくりのねったのをよばれる。床へはいったのが十一時、今夜も隣のマズルカが流れて来る。コウフンして眠れず。

        *

(九月×日)

 今日もまたあの雲だ。

 むくむくと湧き上る雲の流れを私は昼の蚊帳の中から眺めていた。今日こそ十二社(じゅうにそう)に歩いて行こう――そうしてお父さんやお母さんの様子を見てこなくちゃあ……私は隣の信玄袋に凭れている大学生に声を掛けた。
「新宿まで行くんですが、大丈夫でしょうかね。」
「まだ電車も自動車もありませんよ。」
「勿論(もちろん)歩いて行くんですよ。」

 この青年は沈黙って無気味な暗い雲を見ていた。
「貴方はいつまで野宿をなさるおつもりですか?」
「さあ、この広場の人達がタイキャクするまでいますよ、僕は東京が原始にかえったようで、とても面白いんですよ。」

 この生齧(なまかじ)りの哲学者メ。
「御両親のところで、当分落ちつくんですか……」
「私の両親なんて、私と同様に貧乏で間借りですから、長くは居りませんよ。十二社の方は焼けてやしないでしょうかね。」
「さあ、郊外は朝鮮人が大変だそうですね。」
「でも行って来ましょう。」
「そうですか、水道橋までおくってあげましょうか。」

 青年は土に突きさした洋傘を取って、クルクルまわしながら雲の間から霧のように降りて来る灰をはらった。私は四畳半の蚊帳をたたむと、崩れかけた下宿へ走った。宿の人達は、みんな荷物を片づけていた。
「林さん大丈夫ですか、一人で……」

 皆が心配してくれるのを振りきって、私は木綿の風呂敷を一枚持って、時々小さい地震のしている道へ出て行った。根津の電車通りはみみずのように野宿の群がつらなっていた。青年は真黒に群れた人波を分けて、くるくる黒い洋傘をまわして歩いている。

 私は下宿に昨夜間代を払わなかった事を何だかキセキのように考えている。お天陽(てんとう)様相手に商売をしているお父さん達の事を考えると、この三十円ばかりの月給も、おろそかにはつかえない。途中一升一円の米を二升買った。外に朝日を五つ求める。

 干しうどんの屑を五十銭買った。母達がどんなに喜んでくれるだろうと思うなり。じりじりした暑さの中に、日傘のない私は長い青年の影をふんで歩いた。
「よくもこんなに焼けたもんですね。」

 私は二升の米を背負って歩くので、はつか鼠くさい体臭がムンムンして厭(いや)な気持ちだった。
「すいとんでも食べましょうか。」
「私おそくなるから止(よ)しますわ。」

 青年は長い事立ち止って汗をふいていたが、洋傘をくるくるまわすとそれを私に突き出して云った。
「これで五十銭貸して下さいませんか。」

 私はお伽話(とぎばなし)的なこの青年の行動に好ましい微笑を送った。そして気持ちよく桃色の五十銭札を二枚出して青年の手にのせてやった。
「貴方はお腹がすいてたんですね……」
「ハッハッ……」青年はそうだと云ってほがらかに哄笑(こうしょう)していた。
「地震って素敵だな!」

 十二社までおくってあげると云う青年を無理に断って、私は一人で電車道を歩いた。あんなに美しかった女性群が、たった二三日のうちに、みんな灰っぽくなってしまって、桃色の蹴出(けだ)しなんかを出して裸足(はだし)で歩いているのだ。

 十二社についた時は日暮れだった。本郷からここまで四里はあるだろう。私は棒のようにつっぱった足を、父達の間借りの家へ運んだ。
「まあ入れ違いですよ。今日引っ越していらっしたんですよ。」
「まあ、こんな騒ぎにですか……」
「いいえ私達が、ここをたたんで帰国しますから。」

 私は呆然としてしまった。番地も何も聞いておかなかったと云う関西者らしい薄情さを持った髪のうすいこの女を憎らしく思った。私は堤の上の水道のそばに、米の風呂敷を投げるようにおろすと、そこへごろりと横になった。涙がにじんできて仕方がない。遠くつづいた堤のうまごやしの花は、兵隊のように皆地べたにしゃがんでいる。

 星が光りだした。野宿をするべく心をきめた私は、なるべく人の多いところの方へ堤を降りて行くと、とっつきの歪んだ床屋の前にポプラで囲まれた広場があった。そこには、二三の小家族が群れていた。私がそこへ行くと、「本郷から、大変でしたね……」と、人のいい床屋のお上さんは店からアンペラを持って来て、私の為(た)めに寝床をつくってくれたりした。高いポプラがゆっさゆっさ風にそよいでいる。
「これで雨にでも降られたら、散々ですよ。」

 夜警に出かけると云う、年とった御亭主が鉢巻をしながら空を見てつぶやいていた。

(九月×日)

 朝。

 久し振りに鏡を見てみた。古ぼけた床屋さんの鏡の中の私は、まるで山出しの女中のようだ。私は苦笑しながら髪をかきあげた。油っ気のない髪が、ばらばら額にかかって来る。床屋さんにお米二升をお礼に置いた。
「そんな事をしてはいけませんよ。」

 お上さんは一丁ばかりおっかけて来て、お米をゆさゆさ抱えて来た。
「実は重いんですから……」

 そう云ってもお上さんは二升のお米を困る時があるからと云って、私の背中に無理に背負わせてしまった。昨日来た道である。相変らず、足は棒のようになっていた。若松町まで来ると、膝(ひざ)が痛くなってしまった。すべては天真ランマンにぶつかってみましょう。私は、罐詰(かんづめ)の箱をいっぱい積んでいる自動車を見ると、矢もたてもたまらなくなって大きい声で呼んでみた。
「乗っけてくれませんかッ。」
「どこまで行くんですッ!」

 私はもう両手を罐詰の箱にかけていた。順天堂前で降ろされると、私は投げるように、四ツの朝日を運転手達に出した。
「ありがとう。」
「姉さんさよなら……」

 みんないい人達である。

 私が根津の権現様の広場へ帰った時には、大学生は例の通り、あの大きな蝙蝠(こうもり)傘の下で、気味の悪い雲を見上げていた。そして、その傘の片隅には、シャツを着たお父さんがしょんぼり煙草をふかして私を待っていたのだ。
「入れ違いじゃったそうなのう……」と父が云った。もう二人とも涙がこぼれて仕方がなかった。
「いつ来たの? 御飯たべた? お母さんはどうしています?」

 矢つぎ早やの私の言葉に、父は、昨夜朝鮮人と間違えられながらやっと本郷まで来たら、私と入れ違いだった事や、疲れて帰れないので、学生と話しながら夜を明かした事など物語った。私はお父さんに、二升の米と、半分になった朝日と、うどんの袋をもたせると、汗ばんでしっとりとしている十円札を一枚出して父にわたした。
「もらってええかの?……」

 お父さんは子供のようにわくわくしている。
「お前も一しょに帰らんかい。」
「番地さえ聞いておけば大丈夫ですよ、二三日内には又行きますから……」

 道を、叫びながら、人を探している人の声を聞いていると、私もお父さんも切なかった。
「産婆さんはお出でになりませんかッ……どなたか産婆さん御存知ではありませんか!」

 と、産婆を探して呼んでいる人もいた。

(九月×日)

 街角の電信柱に、初めて新聞が張り出された。久しぶりになつかしいたよりを聞くように、私も大勢の頭の後から新聞をのぞきこんだ。

 ――灘(なだ)の酒造家より、お取引先に限り、酒荷船に大阪まで無料にてお乗せいたします。定員五十名。

 何と云う素晴らしい文字だろう。ああ私の胸は嬉しさではち切れそうだった。私の胸は空想でふくらんだ。酒屋でなくったってかまうものかと思った。

 旅へ出よう。美しい旅の古里へ帰ろう。海を見て来よう――。

 私は二枚ばかりの単衣(ひとえ)を風呂敷に包むと、それを帯の上に背負って、それこそ飄然(ひょうぜん)と、誰にも沈黙(だま)って下宿を出てしまった。万世(まんせい)橋から乗合の荷馬車に乗って、まるでこわれた羽子板のようにガックンガックン首を振りながら長い事芝浦までゆられて行った。道中費、金七十銭也。高いような、安いような気持ちだった。何だか馬車を降りた時は、お尻が痺(しび)れてしまっていた。すいとん――うであずき――おこわ――果物――こうした、ごみごみと埃をあびた露店の前を通って行くと、肥料くさい匂いがぷんぷんしていて、芝浦の築港には鴎(かもめ)のように白い水兵達が群れていた。
「灘の酒船の出るところはどこでしょうか?」と人にきくと、ボートのいっぱい並んでいる小屋のそばの天幕の中に、その事務所があるのがわかった。
「貴女お一人ですか……」

 事務員の人達は、みすぼらしい私の姿をジロジロ注視(み)ていた。
「え、そうです。知人が酒屋をしてまして、新聞を見せてくれたのです。是非乗せて戴(いただ)きたいのですが……国では皆心配してますから。」
「大阪からどちらです。」
「尾道です。」
「こんな時は、もう仕様おまへん。お乗せしますよってに、これ落さんように持って行きなはれ……」

 ツルツルした富久娘(ふくむすめ)のレッテルの裏に、私の東京の住所と姓名と年齢と、行き先を書いたのを渡してくれた。これは面白くなって来たものだ。何年振りに尾道へ行く事だろう。あああの海、あの家、あの人、お父さんや、お母さんは、借金が山ほどあるんだから、どんな事があっても、尾道へは行かぬように、と云っていたけれど、少女時代を過したあの海添いの町を、一人ぽっちの私は恋のようにあこがれている。「かまうもんか、お父さんだって、お母さんだって知らなけりゃ、いいんだもの?」鴎のような水兵達の間をくぐって、酒の匂いのする酒荷船へ乗り込むことが出来た。――七十人ばかりの乗客の中に、女といえば、私と取引先のお嬢さんであろう水色の服を着た娘と、美しい柄の浴衣を着た女と三人きりである。その二人のお嬢さん達は、青い茣蓙(ござ)の上に始終横になって雑誌を読んだり、果物を食べたりしていた。

 私と同じ年頃なのに、私はいつも古い酒樽(さかだる)の上に腰をかけているきりで、彼女達は、私を見ても一言も声を掛けてはくれない。「ヘエ! お高く止っているよ。」あんまり淋しいんで、声に出してつぶやいてみた。

 女が少ないので船員達が皆私の顔を見ている。ああこんな時こそ、美しく生れて来ればよかったと思う。私は切なくなって船底へ降りてゆくと、鏡をなくした私は、ニッケルのしゃぼん箱を膝でこすって、顔をうつしてみた。せめて着物でも着替えましょう。井筒の模様の浴衣にきかえると、落ちついた私の耳のそばでドッポンドッポンと波の音が響く。

(九月×日)

 もう五時頃であろうか、様々な人達の物凄(ものすご)い寝息と、蚊にせめられて、夜中私は眠れなかった。私はそっと上甲板に出ると、吻(ほっ)と息をついた。美しい夜あけである。乳色の涼しいしぶきを蹴って、この古びた酒荷船は、颯々(さっさつ)と風を切って走っている。月もまだうすく光っていた。
「暑くてやり切れねえ!」

 機関室から上って来たたくましい船員が、朱色の肌を拡げて、海の涼風を呼んでいる。美しい風景である。マドロスのお上さんも悪くはないなと思う。無意識に美しいポーズをつくっているその船員の姿をじっと見ていた。その一ツ一ツのポーズのうちから、苦しかった昔の激情を呼びおこした。美しい夜あけであった。清水港が夢のように近づいて来た。船乗りのお上さんも悪くはない。

 午前八時半、味噌汁と御飯と香の物で朝食が終る。お茶を呑んでいると、船員達が甲板を叫びながら走って行った。
「ビスケットが焼けましたから、いらっして下さい!」

 上甲板に出ると、焼きたてのビスケットを私は両の袂(たもと)にいっぱいもらった。お嬢さん達は貧民にでもやるように眺めて笑っている。あの人達は私が女である事を知らないでいるらしい。二日目であるのに、まだ、一言も声をかけてはくれない。この船は、どこの港へも寄らないで、一直線に大阪へ急いで走っているのだから嬉しくて仕方がない。

 料理人の人が「おはよう!」と声をかけてくれたので、私は昨夜蚊にせめられて寝られなかった事を話した。
「実は、そこは酒を積むところですから蚊が多いんですよ。今日は船員室でお寝(やす)みなさい。」

 この料理人は、もう四十位だろうけれど、私と同じ位の背の高さなのでとてもおかしい。私を自分の部屋に案内してくれた。カーテンを引くと押入れのような寝室がある。その料理人は、カーネエションミルクをポンポン開けて私に色んなお菓子をこしらえてくれた。小さいボーイがまとめて私の荷物を運んで来ると、私はその寝室に楽々と寝そべった。一寸(ちょっと)頭を上げると枕もとの円い窓の向うに大きな波のしぶきが飛んでいる。今朝の美しい機関士も、ビスケットをボリボリかみながら一寸覗(のぞ)いて通る。私は恥かしいので寝たふりをして顔をふせていた。肉を焼く美味(おい)しそうな油の匂いがしていた。
「私はね、外国航路の厨夫(ちゅうふ)だったんですが、一度東京の震災を見たいと思いましてね、一と船休んで、こっちに連れて来て貰ったんですよ。」

 大変丁寧な物云いをする人である。私は高い寝台の上から、足をぶらさげて、御馳走を食べた。
「後でないしょでアイスクリームを製(つく)ってあげますよ。」本当にこの人は好人物らしい。神戸に家があって、九人の子持ちだとこぼしていた。

 船に灯がはいると、今晩は皆船底に集まってお酒盛りだと云う。料理人の人達はてんてこ舞いで忙がしい。――私は灯を消して、窓から河のように流れ込む潮風を吸っていた。フッと私は、私の足先に、生あたたかい人肌を感じた。人の手だ! 私は枕元のスイッチを捻(ひね)った。鉄色の大きな手が、カーテンの外に引っこんで行くところである。妙に体がガチガチふるえてくる。どうしていいのかわからないので、私は大きなセキをした。

 やがて、カーテンの外に呶鳴(どな)っている料理人の声がした。
「生意気な! 汚ない真似をしよると承知せんぞ!」

 サッとカーテンが開くと、料理庖丁(ぼうちょう)のキラキラしたのをさげて、料理人のひとが、一人の若い男の背中を突いてはいって来た。そのむくんだ顔に覚えはないけれど、鉄色の手にはたしかに覚えがあった。何かすさまじい争闘が今にもありそうで、その料理庖丁の動く度びに、私は冷々とした思いで、私は幾度か料理人の肩をおさえた。
「くせになりますよッ!」

 機関室で、なつかしいエンジンの音がしている。手をはなしながら、私は沈黙ってエンジンの音を聞いていた。

        *

(二月×日)

 ああ何もかも犬に食われてしまえである。寝転んで鏡を見ていると、歪(ゆが)んだ顔が少女のように見えてきて、体中が妙に熱っぽくなって来る。

 こんなに髪をくしゃくしゃにして、ガランスのかった古い花模様の蒲団の中から乗り出していると、私の胸が夏の海のように泡立(あわだ)って来る。汗っぽい顔を、畳にべったり押しつけてみたり、むき出しの足を鏡に写して見たり、私は打ちつけるような激しい情熱を感じると、蒲団を蹴って窓を開けた。――思いまわせばみな切な、貧しきもの、世に疎(うと)きもの、哀れなるもの、ひもじきもの、乏しく、寒く、物足らぬ、はかなく、味気なく、よりどころなく、頼みなきもの、捉(とら)えがたく、あらわしがたく、口にしがたく、忘れ易く、常なく、かよわなるもの、詮(せん)ずれば仏ならねどこの世は寂し。――チョコレート色の、アトリエの煙を見ていると、白秋のこんな詩をふっと思い出すなり、まことに頼みがいなきは人の世かな。三階の窓から見降ろしていると、川端画塾のモデル女の裸がカーテンの隙間から見える。青ペンキのはげた校舎裏の土俵の日溜(ひだま)りでは、ルパシカの紐(ひも)の長い画学生達が、これは又野放図もなく長閑(のどか)な角力(すもう)遊びだ。上から口笛を吹いてやると、カッパ頭が皆三階を見上げた。さあ、その土俵の上にこの三階の女は飛び降りて行きますよッって呶鳴ったら、皆喜んで拍手をしてくれるだろう――川端画塾の横の石垣のアパートに越して来て、今日でもう十日あまり、寒空には毎日チョコレート色のストーヴの煙があがっている。私は二十通あまりも履歴書を書いた。原籍を鹿児島県、東桜島、古里(ふるさと)、温泉場だなんて書くと、あんまり遠いので誰も信用をしてくれないのです、だから東京に原籍を書きなおすと、非常に肩が軽くて、説明もいらない。

 障子にバラバラ砂ッ風が当ると、下の土俵場から、画学生達はキャラメルをつぶてのように、三階へ投げてくれる。そのキャラメルの美味(おい)しかったこと……。隣室の女学生が帰って来る。
「うまくやってるわ!」

 私のドアを乱暴に蹴って、道具をそこへほうり出すと、私の肩に手をかけて、
「ちょいと画描きさん、もっとほうってよ、も一人ふえたんだから……」と云った。

 下からは遊びに行ってもいいかと云うサインを画学生達がしている、すると、この十七の女学生は指を二本出してみせた。
「その指何の事よ。」
「これ! 何でもないわ、いらっしゃいって言う意味にも取っていいし、駄目駄目って事だっていいわ……」

 この女学生は不良パパと二人きりでこのアパートに間借りをしていて、パパが帰って来ないと私の蒲団にもぐり込みに来る可愛らしい少女だった。
「私のお父さんはさくらあらいこの社長なのよ。」

 だから私は石鹸(せっけん)よりも、このあらいこをもらう事が多い。
「ね、つまらないわね、私月謝がはらえないので、学校を止(よ)してしまいたいのよ。」

 火鉢がないので、七輪に折り屑(くず)を燃やして炭をおこす。
「階下の七号に越して来た女ね、時計屋さんの妾(めかけ)だって、お上さんがとてもチヤホヤしていて憎らしいったら……」

 彼女の呼名はいくつもあるので判らないのだけれど、自分ではベニがねと云っていた。ベニのパパはハワイに長い事行っていたとかで、ビール箱でこしらえた大きいベッドにベニと寝ていた。何をやっているのか見当もつかないのだけれど、桜あらいこの空袋が沢山部屋へ持ちこまれる事がある。
「私んとこのパパ、あんなにいつもニコニコ笑ってるけれど、ほんとはとても淋しいのよ、あんたお嫁さんになってくれない。」
「馬鹿ね! ベニさんは、私はあんなお爺さんは大嫌いよ。」
「だってうちのパパはね、あなたの事を一人でおくのはもったいないって、若い女が一人でゴロゴロしている事は、とてもそんだってさア。」

 三階だてのこのガラガラのアパートが、火事にでもならないかしら。寝転んで新聞を見ていると、きまって目の行くところは、芸者と求妻と、貸金と女中の欄が目についてくる。
「お姉さん! こんど常盤座(ときわざ)へ行ってみない、三館共通で、朝から見られるわよ、私、歌劇女優になりたくって仕様がないのよ。」

 ベニは壁に手の甲をぶっつけながら、リゴレットを鼻の先で器用に唄っていた。

 夜。

 松田さんが遊びに来る。私は、この人に十円あまりも借りがあって、それを払えないのがとても苦しいのだ。あのミシン屋の二畳を引きはらって、こんな貧乏なアパートに越して来たものの、一つは松田さんの親切から逃げたい為めであった。
「貴女にバナナを食べさせようと思って持って来たのです。食べませんか。」

 この人の言う事は、一ツ一ツが何か思わせぶりな言いかたにきこえてくる。本当はいい人なのだけれども、けちでしつこくて、する事が小さい事ばかり、私はこんなひとが一番嫌いだ。
「私は自分が小さいから、結婚するんだったら、大きい人と結婚するわ。」

 いつもこう言ってあるのに、この人は毎日のように遊びに来る。さよなら! そう云ってかえって行くと、非常にすまない気持ちで、こんど会ったら優しい言葉をかけてあげようと思っていても、こうして会ってみると、シャツが目立って白いのなんかも、とてもしゃくだったりする。
「いつまでもお金が返せないで、本当にすまなく思っています。」

 松田さんは酒にでも酔っているのか、わざとらしくつっぷして溜息(ためいき)をしていた。さくらあらいこの部屋へ行くのは厭(いや)だけれども、自分の好かない場違いの人の涙を見ている事が辛くなってきたので、そっとドアのそばへ行く。ああ十円と云う金が、こんなにも重苦しい涙を見なければならないのかしら、その十円がみんな、ミシン屋の小母さんのふところへはいっていて、私には素通りをして行っただけの十円だったのに……。セルロイド工場の事。自殺した千代さんの事。ミシン屋の二畳でむかえた貧しい正月の事。ああみんなすぎてしまった事だのに、小さな男の後姿を見ていると、同じような夢を見ている錯覚がおこる。
「今日は、どんなにしても話したい気持ちで来たんです。」

 松田さんのふところには、剃刀(かみそり)のようなものが見えた。
「誰が悪いんです! 変なまねは止めて下さい。」

 こんなところで、こんな好きでもない男に殺される事はたまらないと思った。私は私を捨てて行った島の男の事が、急に思い出されて来ると、こんなアパートの片隅で、私一人が辛い思いをしている事が切なかった。
「何もしません、これは自分に言いきかせるものなのです。死んでもいいつもりで話しに来たのです。」

 ああ私はいつも、松田さんの優しい言葉には参ってしまう。
「どうにもならないんじゃありませんか、別れていても、いつ帰ってくるかも知れないひとがあるんですよ。それに私はとても変質者だから、駄目ですよ。お金も借りっぱなしで、とても苦しく思っていますが、四五日すれば何とかしますから……」

 松田さんは立ちあがると、狂人のようにあわただしく梯子(はしご)段を降りて帰って行ってしまった。――夜更け、島の男の古い手紙を出して読んだ。皆、これが嘘だったのかしらとおもう。ゆすぶられるような激しい風が吹く。詮ずれば、仏ならねどみな寂し。

(三月×日)

 花屋の菜の花の金色が、硝子(ガラス)窓から、広い田舎の野原を思い出させてくれた。その花屋の横を折れると、産園××とペンキの板がかかっていた。何度も思いあきらめて、結局は産婆にでもなってしまおうと思って、たずねて来た千駄木町の××産園。歪んだ格子を開けると玄関の三畳に、三人ばかりも女が、炬燵(こたつ)にゴロゴロしていた。
「何なの……」
「新聞を見て来たんですけども……助手見習入用ってありましたでしょう。」
「こんなにせまいのに、ここではまだ助手を置くつもりかしら……」

 二階の物干には、枯れたおしめが半開きの雨戸にバッタンバッタン当っていた。
「ここは女ばかりてすから、遠慮はないんですのよ、私が方々へ出ますから、事務を取って戴けばいいんです。」

 このみすぼらしい産園の主人にしては美しすぎる女が、私に熱い紅茶をすすめてくれた。階下の女達が、主人と言ったのがこの女のひとなのだろうか……高価な香水の匂いが流れていて、二階のこの四畳半だけは、ぜいたくな道具がそろっていた。
「実はね、階下にいる女達は、皆素性が悪くて、子供でも産んでしまえば、それっきり逃げ出しそうなのばかりなんですよ。だから今日からでも、私の留守居をしてもらいたいんですが御都合いかが?」

 あぶらのむちむちして白い柔かい手を頬に当てて、私を見ているこの女の眼には、何かキラキラした冷たさがあった。話ぶりはいかにも親しそうにしていて、眼は遠くの方を見ている。そのはるかなものを見ている彼女の眼には空もなければ山も海も、まして人間の旅愁なんて何もない。支那人形の眼のような、冷々と底知れない野心が光っていた。
「ええ今日からお手伝いをしてもよろしゅうございますわ。」

 昼。

 黒いボアに頬を埋めて女主人が出て行った。小女が台所で玉葱(たまねぎ)を油でいためている。
「一寸! 厭になっちゃうね、又玉葱にしょっぺ汁かい?」
「だって、これだけしか当てがって行かねえんだもの!……」
「へん! 毎日五十銭ずつ取ってて、まるで犬ころとまちがえてるよ。」

 ジロジロ睨(にら)みあっている瞳(ひとみ)を冷笑にかえると、彼女達は煙草をくゆらしながら、「助手さん! 寒いから汚ないでしょうけど、ここへ来て当りませんか!」と云ってくれた。私は何か底知れない気うつさを感じながら襖(ふすま)をあけると、雑然とした三畳の玄関に、女が六人位も坐っていた。こんなに沢山の妊婦達はいったいどこから来たのかしら……。
「助手さん! 貴方はお国どこです?」
「東京ですの。」
「おやおや、そうでございますの、一寸これゃごまめだわよ。」

 女達は、あはあは笑いながら何か私のことに就いて話しあっていた。昼の膳の上は玉葱のいためたのに醤油をかけたのが出る。そのほかには、京菜の漬物に薄い味噌汁、八人の女が、猿のように小さな卓子を囲んで、箸(はし)を動かせる。
「子供だ子供だと言って、一日延ばしに私から金を取る事ばかり考えているのよ、そして栄養食ヴィタミンBが必要ですとさ、淫売奴のくせに!」

 女給が三人、田舎芸者が一人、女中が一人、未亡人が一人と云う素性の女達が去ったあと、小女が六人の女たちの説明をしてくれた。
「うちの先生は、産婆が本業じゃないのよ、あの女の人達は、前からうちの先生のアレの世話になってんですの、世話料だけでも大したものでしょう。」

 淫売奴、と云い散らした女の言葉が判ると、自分が一直線に落ち込んだような気がして急にフッと松田さんの顔が心に浮んで来た。不運な職業にばかりあさりつく私だ。もう何も言わないであの人と一緒になろうかしらとも思う。何でもない風をよそおい、玄関へ出る。
「どうしたの、荷物を持ったりして、もう帰るの……」
「ちょいと、先生がかえるまでは帰っちゃ駄目だわ……私達が叱られるもの、それにどんなもん持って行かれるか判らないし。」

 何と云うすくいがたなき女達だろう。何がおかしいのか皆は目尻に冷笑を含んで、私が消えたら一どきに哄笑(こうしょう)しそうな様子だった。いつの間に誰が来たのか、玄関の横の庭には、赤い男の靴が一足ぬいであった。
「見て御らんなさいな、本が一冊と雑記帳ですよ、何も盗(と)りやしませんよ。」
「だって沈黙(だま)って帰っちゃ、先生がやかましいよ。」

 女中風な女が、一番不快だった。腹が大きくなると、こんなにも、女はひねくれて動物的になるものか、彼女達の眼はまるで猿のようだった。
「困るのは勝手ですよ。」

 戸外の暮色に押されて花屋の菜の花の前に来ると、初めて私は大きい息をついたのだ。ああ菜の花の咲く古里。あの女達も、この菜の花の郷愁を知らないのだろうか……。だが、何年と見きわめもつかない生活を東京で続けていたら、私自身の姿もあんな風になるかも知れないと思う。街の菜の花よ、清純な気持ちで、まっすぐに生きたいものだと思う。何とかどうにか、目標を定めたいものだ。今見て来た女達の、実もフタもないザラザラした人情を感じると、私を捨てて去って行った島の男が呪(のろ)わしくさえ思えて、寒い三月の暮れた街に、呆然と私はたちすくんでいる。玉葱としょっぺ汁。共同たんつぼのような悪臭、いったいあの女達は誰を呪って暮らしているのかしら……。

(三月×日)

 朝、島の男より為替を送って来た。母のハガキ一通あり。――当にならない僕なんか当にしないで、いい縁があったら結婚をして下さい。僕の生活は当分親のすねかじりなのだ。自分で自分がわからない。君の事を思うとたまらなくなるが、二人の間は一生絶望状態だろう――。男の親達が、他国者の娘なんか許さないと言ったことを思い出すと、私は子供のように泣けて来た。さあ、この十円の為替を松田さんに返しましょう、そしてせいせいしてしまいたいものだ。

 オトウサンガ、キュウシュウヘ、ユクノデ、ワタシハ、オマエノトコロヘ、ユクカモシレマセン、タノシミニ、マッテイナサイ――母よりの手紙。

 せいいっぱい声をはりあげて、小学生のような気持ちで本が読みたい。

 ハト、マメ、コマ、タノシミニマッテイナサイか!

 郵便局から帰って来ると、お隣のベニの部屋には刑事が二人も来ていて何か探していた。窓を開けると、三月の陽を浴びて、画学生達が相撲を取ったり、壁に凭(もた)れたり、あんなに長閑(のどか)に暮らせたら愉しいだろう、私も絵を描いた事がありますよ、ホラ! ゴオガンだの、ディフィだの、好きなのですけれど、重苦しくなる時があります。ピカソに、マチイス、この人達の絵を見ていると、生きていたいと思います。
「そこのアパートに空間はありませんか?」

 新鮮な朗かな青年達の笑い声がはじけると、一せいに男の眼が私を見上げた。その眼には、空や、山や海や、旅愁が、キラキラ水っぽく光って美しかった。
「二間あいてるんですか!」

 私はベニの真似をして二本の指を出して見せた。ベニの部屋では、何か家宅捜索されているらしい。ビール箱のベッドを動かしている音がしている。

 焦心。女は辛し。生きるは辛し。

        *

(三月×日)

 階下の台所に降りて行くと、誰が買って来たのか、アネモネの花の咲いた小さな鉢が窓ぶちに置いてあった。汚い台所の小窓に、スカートをいっぱい拡げた子供のような可愛い花の姿である。もう四月が来ると云うのに、雪でも降りそうなこの寒い空、ああ、今日は何か温かいものが食べたいものなり。
「お姉さんいますか?」

 敷きっぱなしの蒲団の上で内職に白樺(しらかば)のしおりの絵を描いていると、学校から帰って来たベニがドアを開けてはいって来た。
「一寸! とてもいい仕事がみつかったわ、見てごらんなさいよ……」

 ベニは小さく折った新聞紙を私の前に拡げると、指を差して見せた。

 ――地方行きの女優募集、前借可……。
「ね、いいでしょう、初め田舎からみっちり修業してかかれば、いつだって東京へ帰れるじゃないの、お姉さんも一緒にやらない。」
「私? 女優って、あんまり好きな商売じゃないもの、昔、少し素人芝居をやった事があるけど、私の身に添わないのよ、芝居なんて……時に、あんたがそんな事をすれば、パパが心配しないかしら?」
「大丈夫よ、あんな不良パパ、この頃は、七号室のお妾さんにあらいこをやったりなんかしてるわ。」
「そんな事はいいけど、パパも刑事が来たりなんかしちゃいけないわね。」

 お昼、ベニの履歴書を代筆してやる。下の一番隅っこの暗い部屋を借りている大工さんの子供が、さつま芋を醤油で炊いたのを持って来てくれた。

 ベニのパパが紹介をしてくれた白樺のしおり描きはとても面白い仕事だ。型を置いては、泥絵具をベタベタ塗りさえすればいいのである。クロバーも百合(ゆり)もチュウリップも三色菫(すみれ)も御意のままに、この春の花園は、アパートの屋根裏にも咲いて、私の胃袋を済度してくれます。激しい恋の思い出を、激しい友情を、この白樺のしおり達はどこへ持って行くのだろうか……三畳の部屋いっぱい、すばらしいパラダイスです。

 夜。

 春日町の市場へ行って、一升の米袋を買って来る。階下まで降りるのがめんどくさいので、三階の窓でそっと炊いた。石屋のお上さんは、商売物の石材のように仲々やかましくて朝昼晩を、アパートを寄宿舎のようにみまわっているのだ。四十女ときたら、爪の垢(あか)まで人のやることがしゃくにさわるのかも知れない。フン、こんな風来(ふうらい)アパートなんて燃えてなくなれだ! 出窓で、グツグツ御飯を炊いていると、窓下の画塾では、夜学もあるのか、カーテンの蔭(かげ)から、コンテを動かしている女の人の頭が見える。自分の好きな勉強の出来る人は羨(うらや)ましいものだ。同じ画描きでも私のは個性のないペンキ屋さんです。セルロイドの色塗りだってそうだったし……。明日は、いいお天気だったら、蒲団を干してこのだらしのない花園をセイケツにしましょう。

(三月×日)

 昨夜、夜更けまで内職をしたので、目が覚めたのが九時ごろだった。蒲団の裾にハガキが二通来ている。病気をして入院をしていると云う松田さんのと、来る×日、万世橋駅にお出向きを乞う、白いハンカチを持っていて下さると好都合ですと云った風な私宛のハガキだった。心当りが少しもないので、色々考えた末、不図、ベニの事を思いついた。パパにも知れないように、一人者の私の名を利用したのかも知れないと思う。手に白いハンカチを持っていて下されば好都合ですか……淫売にでも叩きうられるのが関の山かも知れない。かつて、本郷の街裏で見た、女アパッシュの群達の事が胸に浮んできた。ベニは粗野で、生(き)のままの女だから、あんな風な群に落ちればすさまじいものだと思う。

 今日は風強し。上野の桜は咲いたかしら……桜も何年と見ないけれど、早く若芽がグングン萌(も)えてくるといい。夕方ベニのパパが街から帰ってくる。
「林さん! 坊やはどこへ行きましたでしょうね。」
「さあ、何だか、今日は方々を歩くんだと云ってましたが……」
「しようがないな、寒いのに。」
「ベニちゃんは、もう学校を止したんですか、小父さん。」

 外套(がいとう)をぬぎぬぎ私のドアをあけたベニのパパは、ずるそうに笑いながら、
「学校は新学期から止さしますよ。どうも落ちつかない子供だから……」
「おしいですわね、英語なんか出来たんですのに……」
「母親がないからですよ、一ツ林さんマザーになって下さい。」
「小父さんと年をくらべるより、ベニちゃんとくらべた方が早いんですからね。いやーアよ。」
「だってお半長右衛門だってあるじゃありませんか。」

 私はいやらしいので沈黙ってしまった。こんな仕事師にかかっては口を動かすだけ無駄かも知れない。やがてベニが、鼻を真紅(まっか)にして帰って来る。
「お姉さん! うどんの玉、沢山買って来たから上げるわ。」
「ええありがとう、パパ早く帰って来たわよ。」

 ベニは片目をとじてクスリと笑うと、立ちあがって、壁越しに「パパ!」と呼んだ。
「ハガキが来ていてよ、白いハンカチを持ってって書いてあるわ、香水ぐらいつけて行くといいわよ……」
「あらひどい!」

 七号室ではお妾さんが三味線を鳴らしている。河のそばを子供達が、活動芝居をいましめてなんて、日曜学校の変なうたをうたって通った。仕事、二百六十枚出来る。松田さん、どんな病気で入院をしているのかしら、遠くから考えると、涙の出るようないいひとなのだけれども、会うとムッとする松田さんの温情主義、こいつが一番苦手なのだ。その内、何か持って見舞に行こうと思う。夜、龍之介の「戯作三昧(ざんまい)」を読んだ。魔術、これはお伽噺(とぎばなし)のようにセンチメンタルなものだった。印度人と魔術、日本の竹藪(たけやぶ)と雨の夜か……。霧つよく、風が静かになる、ベニは何か唄っている。

(四月×日)

 ベニの帰らない日が続く。
「別に心配してくれるなって、坊やからハガキが来ましたが、もう四日ですからね。」

 ベニのパパは心配そうに目をしょぼしょぼさせていた。

 今日は陽気ないいお天気である。もう病院を出たかも知れないと思いながら、植物園裏の松田さんの病院へ行った。そこは外科医院だった。工場のかえり、トラックにふれたのだと云って、松田さんは肩と足を大きくほうたいをしていた。
「三週間位でなおるんだそうです。根が元気だから何でもないんです。」

 松田さんは、由井正雪(ゆいしょうせつ)みたいに髪を長くしていて、寒気がする程、みっともない姿だった。昔昔、毒草と云う映画を見たけれど、あれに出て来るせむし男にそっくりだと思った。ちょいとした感傷で、この人と一緒になってもいいと云うことを、よく考えた事だが厭だった。外の事でも真実は返せる筈だ、蜜柑(みかん)をむいてあげる。

 病院から帰って来ると、ベニが私の万年床に寝ころがっていた。帯も足袋もぬぎ散らかしている。ベニははかなげに天井を見ていた。疲れているようだ。彼女は急速度に変った女の姿をしている。
「パパには沈黙っててね。」
「御飯でもたべる?」

 ベニは自分の部屋には誰もいないのに、妙に帰るのをおっかながっていた。

 夕刊にはもう桜が咲いたと云うニュースが出ていた。尾道の千光寺の桜もいいだろうとふっと思う。あの桜の並木の中には、私の恋人が大きい林檎(りんご)を噛(か)んでいた。海添いの桜並木、海の上からも、薄紅(あか)い桜がこんもり見えていた。私は絵を描くその恋人を大変愛していたのだけれど、私が早い事会いに行けないのを感違いして、そのひとは町の看護婦さんと一緒になってしまった。ベニのように、何でもガムシャラでなくてはおいてけぼりを喰ってしまう。桜はまた新らしい姿で咲き始めている。――やがてベニはパパが帰って来たので、帯と足袋を両手にかかえると、よその家へ行くようにオズオズ帰って行った。別に呶鳴り声もきこえては来ない。あのパパは、案外ケンメイなのかも知れないと思う。ベニが捨てて行った紙屑を開いてみたら、宿屋の勘定がきだった。

 十四円七十三銭也。八ツ山ホテル、品川へ行ったのかしら、二人で十四円七十銭、しかもこれが四日間の滞在費、八ツ山ホテルと云う歪んだ風景が目に浮んでくる。

(四月×日)

 ひからびた、鈴蘭(すずらん)もチュウリップも描き飽きてしまった。白樺のしおりを鼻にくっつけると、香ばしい山の匂いがする。山の奥深いところにこの樹があるのだと云うけれど、その葉っぱはどんなかたちをしているのかしら……粛々としたその姿を胸に描きながら、私は毎日こうして、泥絵具をベタベタ塗りたくっているのだ。

 軒一つの境いで、風景や静物や裸体を描いている画学生と、型の中へ泥絵具を流してはそれで食べている女と、――新聞を見ると、アルスの北原という人の家で女中が欲しいと出ている、勉強をさせてくれるかしらとも思う。もっとうんと叩かれたい。方針のない生活なんて、本当はたまらないのだから……、明日は行ってみよう。午後、ベニが風呂へ行った留守に、白いハンカチの男が私をたずねて来た。ベニはどんな風に云っているのかしら、階下へ降りてゆくと、頭を油で光らせて、眼鏡をかけた男がつったっていた。「私がそうですが。」部屋に通ると、背の高い男はすぐひざを組んで煙草に火をつけ出した。
「ホウ絵をお描きになるんですね。」
「いいえ内職ですのよ。」

 およそこんな男は大きらいだ。この男の眼の中には、人を莫迦(ばか)にしたところがある。内職をする女の姿が、チンドン屋みたいに写っているのかも知れない。
「昨日、信越の旅から来たのですか、東京はあたたかですね。」
「そうですか。」

 新劇はとてもうけると云う話だった。ベニ、外出先からすぐ帰って来る。彼女は女らしく、まるで鳴らないほおずきみたいに円くかしこまって返事をしていた。
「貴女も、芝居をなすったそうですが、芝居の方を少し手伝って戴けませんか、女優が足りなくって弱っているんです。」
「女優なんて、とても柄じゃアありませんよ。自分だけの事でもやっと生きてますのに、舞台に立つなンて私にはメンドクサクてとても出来ません。」
「仲々貴女は面白い事を言いますね。」
「そうですかね。」
「これから、しょっちゅう遊びに来させてもらいます。いいですか。」

 十七八の娘って、どうしてこうシンビ眼がないのだろう。きたない男の前で、ベニはクルクルした眼をして沈黙っているのだ。夜、ベニは私の部屋に泊ると云う、パパは帰って来ない。あまり淋しいので、チエホフの「かもめ」を読んだ……。

 ベニは寝床の中から「面白いわね。」と云っている。
「自分で後悔しなきゃ、何やってもいいけれど、取るにたらないような感傷に溺(おぼ)れて、取りかえしのつかない事になるのは厭ね、ベニちゃんは、とても生一本で面白い人だけれど、案外貴女の生一本は内べんけいじゃなかったの、色んな事に目が肥えるまでは用心はした方がいいと思ってよ。」

 彼女は薄っすらと涙を浮べて、まぶしそうに電気を見つめていた。
「だって逃げられなかったのよ。」
「八ツ山ホテルってところでしょう。」
「うん。」

 ベニはけげんな顔をしていた。
「男の払った勘定書を持って来るのいやだわ、赤ちゃんみたいねえ、――十四円七十三銭って、こんなもの落してみっともないわよ。」
「あの男、花柳はるみを知ってるだの何だのってでたらめばかり言うのよ、からかってやるつもりだったの……」
「貴女がからかわれたんでしょう、御馳走さま。」

 パパのいないベニは淋しそうだった。河水の音を聞いて、コドクを感じたものか、ベニは指を噛んで泣いている。

(四月×日)

 朝。

 東中野と云うところへ新聞を見て行ってみた。近松さんの家にいた事をふっと思い出した。こまめそうな奥さんが出てくる。お姑(しゅうとめ)さんが一人ある由。
「別に辛い事もないけれど、風呂水がうちじゃ大変なんですよ。」

 暗い感じの家だった。北原白秋氏の弟さんの家にしては地味なかまえである。行ってみる間は何か心が燃えながら、行ってみるとどかんと淋しくなる気持ちはどうした事だろう。所詮(しょせん)、私と云う女はあまのじゃくかも知れないのだ。柳は柳。風は風。

 ベニのパパ、詐欺横領罪で引っぱられて行ったとの事だった。帰ってみると、一人の刑事が小さな風呂敷包みをこしらえていた。ベニは呆然としてそれを見ている。アパート中の内儀さん達が、三階のベニの部屋の前に群れてべちゃくちゃ云っている。人情とは、なぜかくも薄きものか、部屋代はとるだけ取って、別にこのアパートには迷惑も掛けていないと云うのに、あらゆる末梢(まっしょう)的な事を大きくネツゾウして、お上さん達は口々に何かつぶやいているのだ。刑事が帰って行くと、台所はアパートじゅうの女が口から泡を飛ばしているようだった。お妾さんは平然と三味線を弾いている。スッとした女なり。
「お姉さん! 私金沢へ帰るのよ、パパからの言伝(ことづ)けなの、そこはねえ、皆他人なんですのよ、だってまだ見ない親類なんて、他人より困るわねえ、本当はかえりたくないのよ。」
「そうね、こっちにいられるといいのにね。」
「アパートじゃ、じき立ちのいてくれって云うし……」

 夜、ベニと貧しい別宴を張った。
「忘れないわ、二三年あっちでくらして、ぜひ東京へ来ようと思うの、田舎の生活なんて見当がつかないわ。」二人は、時間を早めに上野駅へ行く。
「桜でも見に行きましょうか?」

 二人は公園の中を沈黙って歩いている。こんなに肩をくっつけて歩いている女が、もう二時間もすれば金沢へ行く汽車の中だなんて、本当にこのベニコがみじめでありませんようにと私は神様に祈っている。私はオールドローズの毛糸の肩掛をベニの肩にかけてやった。
「まだ寒いからこれをあげるわ。」

 上野の桜、まだ初々たり。

        *

(七月×日)

 ちっとも気がつかない内に、私は脚気(かっけ)になってしまっていて、それに胃腸も根こそぎ痛めてしまったので、食事もこの二日ばかり思うようになく、魚のように体が延びてしまった。薬も買えないし、少し悲惨な気がしてくる。店では夏枯れなので、景気づけに、赤や黄や紫の風船玉をそろえて、客を呼ぶのだそうである――。じっと売り場に腰を掛けていると、眠りが足らないのか、道の照りかえしがギラギラ目を射て頭が重い。レースだの、ボイルのハンカチだの、仏蘭西(フランス)製カーテンだの、ワイシャツ、カラー、店中はしゃぼんの泡のように白いものずくめである。薄いものずくめである。閑散な、お上品なこんな貿易店で、日給八十銭の私は売り子の人形だ。だが人形にしては汚なすぎるし、腹が減りすぎる。
「あんたのように、そう本ばかり読んでいても困るよ。お客様が見えたら、おあいそ位云って下さい。」

 酸っぱいものを食べた後のように、歯がじんと浮いてきた。本を読んでいるんじゃないんです。こんな婦人雑誌なんか、私の髪の毛でもありはしない。硝子(ガラス)のピカピカ光っている鏡の面を一寸(ちょっと)(のぞ)いて御覧下さい。水色の事務服と浴衣が、バックと役者がピッタリしないように、何とまあおどけた厭な姿なのでしょう……。顔は女給風で、それも海近い田舎から出て来たあぶらのギラギラ浮いた顔、姿が女中風で、それも山国から来たコロコロした姿、そんな野生の女が、胸にレースを波たたせた水色の事務服を着ているのです。ドミエの漫画ですよこれは……。何とコッケイな、何とちぐはぐな牝鶏(めんどり)の姿なのでしょう。マダム・レースやミスター・ワイシャツや、マドモアゼル・ハンカチの衆愚に、こんな姿をさらすのが厭なのです。それに、サーヴィスが下手だとおっしゃる貴方の目が、いつ私をくびきるかも判らないし、なるべく、私と云う売り子に関心を持たれないように、私は下ばかりむいているのです。あまりに長いニンタイは、あまりに大きい疲れを植えて、私はめだたない人間にめだたない人間に訓練されていますのよ。あの男は、お前こそめだつ人間になって闘争しなくちゃ嘘だと云うのです。あの女は、貴女はいつまでもルンペンではいけないと云うのです。そして勇ましく戦っているべき、彼も彼女もいまはどこへ行っているのでしょう。彼や彼女達が、借りものの思想を食いものにして、強権者になる日の事を考えると、ああそんなことはいやだと思う。宇宙はどこが果てなんだろうと考えるし、人生の旅愁を感じる。歴史は常に新らしく、そこで燃えるマッチがうらやましくなった。

 夜――九時。省線を降りると、道が暗いのでハーモニカを吹きながら家へ帰った。詩よりも小説よりも、こんな単純な音だけれど音楽はいいものです。

(七月×日)

 青山の貿易店も、いまは高架線のかなたになった。二週間の労働賃銀十一円也、東京での生活線なんてよく切れたがるもんだ。隣のシンガーミシンの生徒?さんが、歯をきざむようにギイギイとひっきりなしにミシンのペタルを押している。毎日の生活断片をよくうったえる秋田の娘さんである。古里から十五円ずつ送金してもらって、あとはミシンでどうやら稼(かせ)いでいる、縁遠そうな娘さんなり。いい人だ。彼女に紹介状をもらって、××女性新聞社に行く。本郷の追分で降りて、ブリキの塀(へい)をくねくね曲ると、緑のペンキの脱落した、おそろしく頭でっかちな三階建の下宿屋の軒に、螢(ほたる)程の小さい字で社名が出ていた。まるで心太(ところてん)を流すよりも安々と女記者になりすました私は、汚れた緑のペンキも最早何でもないと思った。

 昼。

 下宿の昼食をもらって舌つづみを打つと、女記者になって二三時間もたたない私は、鉛筆と原稿紙をもらって談話取りだ。四畳半に尨大(ぼうだい)な事務机が一ツ、薄色の眼鏡をかけた中年の社長と、××女性新聞発行人の社員が一人、私を入れて三人の××女性新聞。チャチなものなり。又、生活線が切れるんじゃないかと思ったけれど、とにかく私は街に出てみたのだ。訪問先は秋田雨雀(うじゃく)氏のところだった。この頃の御感想は……私はこの言葉を胸にくりかえしながら、雑司(ぞうし)ヶ谷(や)の墓地を抜けて、鬼子母神(きしぼじん)のそばで番地をさがした。本郷のごみごみした所からこの辺に来ると、何故(なぜ)か落ちついた気がしてくる。一二年前の五月頃、漱石(そうせき)の墓にお参りした事もあった……。秋田氏は風邪を引いていると云って鼻をかみながら出ていらした。まるで少年のようにキラキラした眼、やさしそうな感じの人である。お嬢さんは千代子さんと云って、初めて行った私を十年のお友達のように話して下すった。厚いアルバムか出ると、一枚一枚繰って説明して下さる。この役者は誰、この女優は誰、その中に別れた男のプロマイドも張ってあった。
「女優ってどんなのが好きですか、日本では……」
「私判らないけど、夏川静江なんか好きだわ。」

 私はいまだかつて私をこんなに優しく遇してくれた女の人を知らない。二階の秋田さんの部屋には黒い手の置物があった。高村光太郎さんの作で、有島武郎さんが持っていらっしたのだとかきいた。部屋は実に雑然と古本屋の観があった。談話取りが談話がとれなくて、油汗を流していると、秋田さんは二三枚すらすらと私のノートへ手を入れて下すった。お寿司を戴く。来客数人あり。暮れたのでおくって戴く。赤い月が墓地に出ていた。火のついた街では氷を削るような音がしている。
「僕は散歩が好きですよ。」

 秋田氏は楽し気にコツコツ靴を鳴らしている。
「あそこがすずらんと云うカフエーですよ。」

 舞台の様なカフエーがあった。変ったマダムだって誰かに聞いたことがある。秋田氏はそのまま銀座へ行かれた。

 私は何か書きたい興奮で、沈黙(だま)って江戸川の方へ歩いて行った。

(七月×日)

 階下の旦那さんが二日程国へ行って来ますと云って、二階の私達へ後の事を頼みに今朝上ってみえたのに、社から帰ってみると、隣のミシンの娘さんが、帯をときかけている私を襖(ふすま)の間から招いた。
「あのね一寸!」

 低声なので、私もそっといざりよると、
「随分ひどいのよ、階下の奥さんてば外の男と酒を呑んでるのよ……」
「いいじゃないの、お客さんかも知れないじゃないですか。」
「だって、十八やそこいらの女が、あんなにデレデレして夫以外の男と酒を呑めるかしら……」

 帯を巻いて、ガーゼの浴衣をたたんで、下へ顔洗いに行くと、腰障子の向うに、十八の花嫁さんは、平和そうに男と手をつなぎあって転がっていた。昔の恋人かも知れないと思う。只うらやましいだけで、ミシンの娘さんのような興味もない。夜は御飯を炊くのがめんどうだったので、町の八百屋で一山十銭のバナナを買って来てたべた。女一人は気楽だとおもうなり。糊(のり)の抜けた三畳づりの木綿の蚊帳の中に、伸び伸びと手足を投げ出してクープリンの「ヤーマ」を読む。したたか者の淫売婦が、自分の好きな男の大学生に、非常な清純な気持ちを見せる。尨大な本だ、頭がつかれる。
「一寸起きてますか?」

 もう十時頃だろうか、隣のシンガーミシンさんが帰って来たらしい。
「ええまだねむれないでいます。」
「一寸! 大変よ!」
「どうしたんです。」
「呑気(のんき)ねッ、階下じゃ、あの男と一緒に蚊帳の中へはいって眠っててよ。」

 シンガーミシン嬢は、まるで自分の恋人でも取られたように、眼をギロギロさせて、私の蚊帳にはいって来た。いつもミシンの唄に明け暮れしている平和な彼女が、私の部屋になんかめったにはいって来ない行儀のいい彼女が、断りもしないで私の蚊帳へそっともぐり込んで来るのだ。そして大きい息をついて、畳にじっと耳をつけている。
「随分人をなめているわね、旦那さんがかえって来たら皆云ってやるから、私よか十も下なくせに、ませてるわね……」

 ガードを省線が、滝のような音をたてて走った。一度も縁づいた事のない彼女が、嫉妬がましい息づかいで、まるで夢遊病者のような変な狂態を演じようとしている。
「兄さんかも知れなくってよ。」
「兄さんだって、一ツ蚊帳には寝ないや。」

 私は何だか淋しく、血のようなものが胸に込み上げて来た。
「眼が痛いから電気を消しますよ。」と云うと、彼女はフンゼンとして沈黙って出て行った。やがて梯子(はしご)段をトントン降りて行ったかと思うと、「私達は貴女を主人にたのまれたのですよ。こんな事知れていいのですかッ!」と云う声がきこえている。切れ切れに、言葉が耳にはいってくる。一度も結婚をしないと云う事は、何と云う怖(おそ)ろしさだ。あんなにも強く云えるものかしら……。私は蒲団を顔へずり上げて固く瞼(まぶた)をとじた。何もかもいやいやだ。

(七月×日)

――ビョウキスグカエレタノム

 母よりの電報。本当かも知れないが、また嘘かも知れないと思った。だけど嘘の云えるような母ではないもの……、出社前なので、急いで旅支度をして旅費を借りに社へ行く。社長に電報をみせて、五円の前借りを申し込むと、前借は絶対に駄目だと云う。だが私の働いた金は取ろうと思えば十五円位はある筈なのだ。不安になって来る。廊下に置いたバスケットが妙に厭になってきた。大事な時間を「借りる!」と云う事で、それも正当な権利を主張しているのに、駄目だと云われて悄気(しょげ)てしまう。これは、こんなところでみきわめをつけた方がいいかも知れない。
「じゃ借りません! その代り止めますから今までの報酬を戴きます。」
「自分で勝手に止されるのですから、社の方では、知りませんよ。満足に勤めて下すっての報酬であって、また十二三日しかならないじゃありませんか!」

 黄色にやけたアケビのバスケットをさげて、私は又二階裏へかえって来た。ミシン嬢は、あれから階下の細君と気持ちが凍って、引っ越しをするつもりでいたらしかったが、帰って見ると、どこか部屋がみつかったらしく、荷物を運び出している処(ところ)だった。彼女の唯一の財産である、ミシンだけが、不恰好な姿で、荷車の上に乗っかっていた。全てはああ空(むな)しである――。

(七月×日)

 駅には、山や海への旅行者が白い服装で涼し気だった。下の細君に五円借りた。尾道まで七円くらいであろう。やっと財布をはたいて切符を買うと、座席を取ってまず指を折ってみた。何度目の帰郷だろうと思う。
露草の茎

粗壁(かべ)に乱れる

万里の城


 いまは何かしらうらぶれた感じが深い。昔つくった自分の詩の一章を思い出した。何もかも厭になってしまうけれど、さりとて、自分の世界は道いまだ遠しなのだ。この生ぐさきニヒリストは腹がなおると、じき腹がへるし、いい風景を見ると呆然としてしまうし、良い人間に出くわすと涙を感じるし、困った奴なり。バスケットから、新青年の古いのを出して読んだ。面白き笑話ひとつあり――。

 ―囚人曰(いわ)く、「あの壁のはりつけの男は誰ですか?」

 ―宣教師答えて、「我等の父キリストなり。」

 囚人が出獄して病院の小使いにやとわれると、壁に立派な写真が掛けてある。

 ―囚人、「あれは誰のです?」

 ―医師、「イエスの父なり。」

 囚人、淫売婦を買って彼女の部屋に、立派な女の写真を見て――

 ―囚人、「あの女は誰だね。」

 ―淫売婦、「あれはマリヤさ、イエスの母さんよ。」

 そこで囚人歎(たん)じて曰く、子供は監獄に父親は病院に、お母さんは淫売帰にああ――。私はクツクツ笑い出してしまった。のろい閑散な夜汽車に乗って退屈していると、こんなにユカイなコントがめっかった。眠る。

(七月×日)

 久し振りで見る高松の風景も、暑くなると妙に気持ちが焦々(いらいら)してきて、私は気が小さくなってくる。どことなく老いて憔悴(しょうすい)している母が、第一番に言った言葉は、「待っとったけん! わしも気が小さくなってねえ……」そう云って涙ぐんでいた。今夜は海の祭で、おしょうろ流しの夜だ。夕方東の窓を指さして、母が私を呼んだ。
「可哀そうだのう、むごかのう……」

 窓の向うの空に、朝鮮牛がキリキリぶらさがっている。鰯雲(いわしぐも)がむくむくしている波止場の上に、黒く突き揚った船の起重機、その起重機のさきには一匹の朝鮮牛が、四足をつっぱって、哀れに唸(うな)っている。
「あんなのを見ると、食べられんのう……」

 雲の上にぶらさがっているあの牛は、二三日の内には屠殺(とさつ)されてしまって、紫の印を押されるはずだ。何を考えているのかしら……。船着場には古綿のような牛の群が唸っていた。

 鰯雲がかたくりのように筋を引いてゆくと、牛の群も何時(いつ)か去ってゆき、起重機も腕を降ろしてしまった。月の仄(ほの)かな海の上には、もう二ツ三ツおしょうろ船が流れていた。火を燃やしながら美しい紙船が、雁木(がんぎ)を離れて沖の方へ出ていた。港には古風な伝馬(てんま)船が密集している。そのあいだを火の紙船が月のように流れて行った。
「牛を食ったりおしょうろを流したり、人間も矛盾が多いんですねお母さん。」
「そら人間だもん……」

 母は呆(ぼ)んやりした顔でそんな事を云っている。

        *

(八月×日)

 海が見えた。海が見える。五年振りに見る、尾道の海はなつかしい。汽車が尾道の海へさしかかると、煤(すす)けた小さい町の屋根が提灯(ちょうちん)のように拡がって来る。赤い千光寺の塔が見える、山は爽かな若葉だ。緑色の海向うにドックの赤い船が、帆柱を空に突きさしている。私は涙があふれていた。

 貧しい私達親子三人が、東京行きの夜汽車に乗った時は、町はずれに大きい火事があったけれど……。「ねえ、お母さん! 私達の東京行きに火が燃えるのは、きっといい事がありますよ。」しょぼしょぼして隠れるようにしている母達を、私はこう言って慰めたものだけれど……だが、あれから、あしかけ六年になる。私はうらぶれた体で、再び旅の古里である尾道へ逆もどりしているのだ。気の弱い両親をかかえた私は、当もなく、あの雑音のはげしい東京を放浪していたのだけれど、ああ今は旅の古里である尾道の海辺だ。海添いの遊女屋の行燈(あんどん)が、椿(つばき)のように白く点々と見えている。見覚えのある屋根、見覚えのある倉庫、かつて自分の住居であった海辺の朽ちた昔の家が、五年前の平和な姿のままだ。何もかも懐しい姿である。少女の頃に吸った空気、泳いだ海、恋をした山の寺、何もかも、逆もどりしているような気がしてならない。

 尾道を去る時の私は肩上げもあったのだけれど、今の私の姿は、銀杏返(いちょうがえ)し、何度も水をくぐった疲れた単衣(ひとえ)、別にこんな姿で行きたい家もないけれど、とにかくもう汽車は尾道にはいり、肥料臭い匂いがしている。

 船宿の時計が五時をさしている。船着場の待合所の二階から、町の燈火(あかり)を見ていると、妙に目頭が熱くなってくるのだった。訪ねて行こうと思えば、行ける家もあるのだけれど、それもメンドウクサイことなり。切符を買って、あと五十銭玉一ツの財布をもって、私はしょんぼり、島の男の事を思い出していた。落書だらけの汽船の待合所の二階に、木枕を借りて、つっぷしていると、波止場に船が着いたのか、汽笛の音がしている。波止場の雑音が、フッと悲しく胸に聞えた。「因の島行きが出やんすで……」歪(ゆが)んだ梯子段を上って客引が知らせに来ると、陽にやけた縞のはいった蝙蝠(こうもり)と、小さい風呂敷包みをさげて、私は波止場へ降りて行った。
「ラムネいりやせんか!」
「玉子買うてつかアしゃア。」

 物売りの声が、夕方の波止場の上を行ったり来たりしている。紫色の波にゆれて因の島行きのポッポ船が白い水を吐いていた。漠々たる浮世だ。あの町の灯の下で、「ポオルとヴィルジニイ」を読んだ日もあった。借金取りが来て、お母さんが便所へ隠れたのを、学校から帰ったままの私は、「お母さんは二日程、糸崎へ行って来る云うてであった……」と嘘をついて母が、侘(わび)し気にほめてくれた事もあった。あの頃、町には城ヶ島の唄や、沈鐘の唄が流行(はや)っていたものだ。三銭のラムネを一本買った。

 夜。
「皆さん、はぶい着きやんしたで!」

 船員がロープをほどいている。小さな船着場の横に、白い病院の燈火が海にちらちら光っていた。この島で長い事私を働かせて学校へはいっていた男が、安々と息をしているのだ。造船所で働いているのだ。
「この辺に安宿はありませんでしょうか。」

 運送屋のお上さんが、私を宿屋まで案内して行ってくれた。糸のように細い町筋を、古着屋や芸者屋が軒をつらねている。私は造船所に近い山のそばの宿へついた。二階の六畳の古ぼけた床の上に風呂敷包みをおくと、私は雨戸を開けて海を眺めた。明日は尋ねて行ってみようとおもう。私は財布を袂(たもと)に入れると、ラムネ一本のすきばらのまま潮臭い蒲団に長く足を延ばした。耳の奥の方で、蜂(はち)の様なブンブンと云う喚声があがっている。

(八月×日)

 枕元をごそごそと水色の蟹(かに)が這(は)っている。町にはストライキの争議があるのだそうだ。
「会いに行きなさるというても、大変でごじゃんすで、それよりも、社宅の方へおいでんさった方が……」女中がそう云っている。私は心細くかまぼこを噛(か)んでいた。社員達は全部書類を持って倶楽部(クラブ)へ集まっていると云うことだ。食事のあと、私はぼんやりと戸外へ出てみた。万里の城のように、うねうねとコンクリートの壁をめぐらしたドックの建物を山の上から見降ろしていると、旗を押したてて通用門みたいなところに黒蟻(くろあり)のような職工の群が唸っていた。山の小道を子供を連れたお上さんやお婆さんが、点々と上って来る。八月の海は銀の粉を吹いて光っているし、縺(もつ)れた樹の色は、爽かな匂いをしていた。
「尾道から警官がいっぱい来たんじゃと。」

 髪を後になびかせた若いお上さん達が、ドックを見下ろして話しあっていた。
「しっかりやれッ!」
「負けなはんな!」
「オーイ……」真昼間の、裸の職工達の肌を見ていると、私も両手をあげて叫んだ。旅の古里の言葉で、「しっかりやってつかアしゃア。」
「御亭主があそこにおってんな? うちの人は、こうなったら、もう死んでもええつもりでやる云いよりやんした。」

 私はわけもなく涙があふれていた。事務員をしたりしてあんなにつくした私の男が、大学を出ると、造船所の社員になって、すました生活をしている、ここから見ていると、あんな門位はすぐ崩れてしまうようにもろく見えているのに……。
「職工は正直でがんすけん、皆体で打(ぶ)っつかって行きゃんさアね。」

 とうとう門が崩れた。蜂が飛ぶように黒点が散った。光った海の上を、小舟が無数に四散して行っている。
潮鳴の音を聞いたか!

茫漠と拡がった海の上の叫喚を聞いたか!

煤けたランプの灯を女房達に託して

島の職工達は磯の小石を蹴散(けちら)

夕焼けた浜辺へ集まった。

遠い潮鳴の音を聞いたか!

何千と群れた人間の声を聞いたか!

ここは内海の静かな造船港だ

貝の蓋を閉じてしまったような

因の島の細い町並に

油で汚れたズボンや菜っぱ服の旗がひるがえっている

骨と骨で打ち破る工場の門の崩れる音

その音はワアン、ワアンと

島いっぱいに吠えていた。

青いペンキ塗りの通用門が勢いよく群れた肩に押されると

敏活なカメレオン達は

職工達の血と油で色どられた清算簿をかかえて

雪夜の狐のようにランチへ飛び乗って行ってしまう

表情の歪んだ固い職工達の顔から

怒りの涙がほとばしって

プチプチ音をたてているではないか

逃げたランチは

投網(とあみ)のように拡がった巡警の船に横切られてしまうと

さてもこの小さな島の群れた職工達と逃げたランチの間は

只一筋の白い水煙に消されてしまう。

歯を噛み額を地にすりつけても

空は――昨日も今日も変りのない平凡な雲の流れだ

そこで頭のもげそうな狂人になった職工達は

波に呼びかけ海に吠え

ドックの破船の中に渦をまいて雪崩(なだ)れていった。

潮鳴の音を聞いたか!

遠い波の叫喚を聞いたか!

旗を振れッ!

うんと空高く旗を振れッ

元気な若者達が

光った肌をさらして

カララ カララ カララ

破れた赤い帆の帆綱を力いっぱい引きしぼると

海水止の堰(せき)を喰い破って

帆船は風の唸る海へ出て行った

それ旗を振れッ

勇ましく歌を唄えッ

朽ちてはいるが元気に風を孕(はら)んだ帆船は

白いしぶきを蹴って海へ出てゆく

寒冷な風の吹く荒神山の上で呼んでいる

波のように元気な叫喚に耳をそばだてよ!

可哀想な女房や子供達が

あんなにも背伸びをして

空高く呼んでいるではないか!

遠い潮鳴の音を聞いたか!

波の怒号するのを聞いたか

山の上の枯木の下に

枯木と一緒に双手(もろて)を振っている女房子供の目の底には

火の粉のように海を走って行く

勇ましい帆船がいつまでも眼に写っていたよ。


 宿へ帰ったら、蒼(あお)ざめた男の顔が、ぼんやり煙草を吸って待っていた。
「宿の小母さんが迎いに来て、ビックリしちゃった。」
「…………」

 私は子供のように涙が溢(あふ)れた。何の涙でもない。白々とした考えのない涙が、あとからあとからあふれて、沈黙(だま)ってしきいの所に立って長いこと泣いていた。
「ここへ来るまでは、すがれたらすがってみようと思って来たけれど、宿の小母さんの話では、奥さんも子供もあるって聞きましたよ。それに、町のストライキを見たら、どうしても、貴方に会って、はっきりとすがらなくてはいけないと思いました。」

 沈黙っている二人の耳に、まだ喚声が遠く聞えて来る。
「今晩町の芝居小屋で、職工達の演説があるから、一寸覗いてみなくては……」男は、自分の腕時計を床の上に投げると、そそくさと町へ出てしまった。私は、ぼんやりと部屋で、しゃっくりを続けながら、高価な金色の腕時計をそっと自分の腕にはめてみた。涙があふれた。東京で苦労した事や、裸で門を壊していた昼間の職工達の事が、グルグルしていて、時計の白い腹を見ていると目が廻りそうだった。

(八月×日)

 宿の娘と連れだって浜を歩いた。今日でここへ来て一週間にもなる。
「くよくよおしんさんな。」私は何もかもつまらなくなって呆然としていると、宿の娘は私を心配してくれている。何も考えてやしない。何も考えようがないのだ。昨日は高松のお母さんへ電報ガワセを送ったし、私はこうして海の息を吸っているし、男がハラハラしようとしまいと、それはお勝手なのだ。私から何もかもむさぼり取ったひとなのだから、この位の事がいったい何だろうと思う。――尾道の海辺で、波止場の石垣に、お腹(なか)を打ちつけては、あのひとの子供を産む事をおそれていたけれど、今はそれもいじらしいお伽話(とぎばなし)になってしまった。昨日の電報ガワセで義父や母が一息ついてくれればいいと思うなり。浜辺を洗髪をなびかせながら歩いていると、町で下駄屋をしているあのひとの兄さんが、私をオーイオーイと後から呼びかけて来た。久し振りに見る兄さん、尾道の私の家に、枝になった蜜柑(みかん)や、オレンジを持って来てくれたあの姿そのままで笑いかけている。
「わしに、何も言わんもんじゃけん、苦労させやした。」

 海が青く光っている。宿の娘をかえして、兄さんと二人で町はずれの兄さんの家へ歩いて行った。海近くまで、田が青々していて蜜柑山がうっそうと風に鳴っていた。
「あいつが気が弱いもんじゃけん。」

 陽にやけた侘し気な顔をして兄さんは私をなぐさめてくれるなり。家では嫂(ねえ)さんが、米をついていた。牛が一匹優しい眼をして私を見ている。私は、どうしてもはいりたくなかったのだ。何だか、こんなところへ来た事さえも淋しくなっている。白い道のつづいている浜路を、私はあとしざりをするように、宿へ帰って行った。

(八月×日)

 朝風をあびて、私は島へさよならとハンカチを振っている。どこへ行っても、どこにも仕様のない事だらけなのだ。東京へ帰ろう。私の財布は五六枚の十円札でふくらんでいた。兄さんの家でもらったお金とデベラの青籠と、風呂敷包みをかかえて、私は板子を渡って尾道行きの船へ乗った。
「気をつけてのう……」
「ええ! 兄さん、もうストライキはすんだんですか。」
「職工の方が折れさせられて手打ちになったが、太いもんにゃかなわないよ。」

 あのひとも寝ぶそくな目をさせて波止場へ降りてきてくれていた。「体が元気だったら、又いつか会えるからね。」そんなことを小さい声で云った。船の中には露に濡れた野菜がうずたかく積んであった。

 ああ何だか馬鹿になったような淋しさである。私は口笛を吹きながら遠く走る島の港を見かえっていた。岸に立っている二人の黒点が見えなくなると、静かなドックの上には、ガアン、ガアンと鉄を打つ音がひびいていた。尾道についたら半分高松へ送ってやりましょう。東京へかえったら、氷屋もいいな、せめて暑い日盛りを、ウロウロと商売をさがして歩かないように、この暮は楽に暮したいものだ。私は体を延ばして走る船の上から波に手をひたしていた。手を押しやるようにして波が白くはじけている。五本の指に藻(も)がもつれた糸のようにからまって来る。
「こんどのストライキは、えれえ短かかったなあ――」
「ほんまに、どっちも不景気だけんな。」

 船員達が、ガラス窓を拭きながら話している。私はもう一度ふりかえって、青い海の向うの島を眺めていた。

        *

(四月×日)
――その夜

カフエーの卓子(テーブル)の上に

盛花のような顔が泣いた

何のその

樹の上にカラスが鳴こうとて

――夜は辛い

両手に盛られた

わたしの顔は

みどり色の白粉(おしろい)に疲れ

十二時の針をひっぱっていた。


 横浜に来て五日あまりになる。カフエー・エトランゼの黒い卓子の上に、私はこんな詩を書いてみた。「俺くらいだよ、お前と一緒にいるのは……誰がお前のような荒(すさ)んでボロボロに崩れるような女を愛すものか。」

 あの東京の下宿で、男は私に思い知れ、思い知れと云う風な事を云うのです。泊るところも、たよる男も、御飯を食べるところもないとしたら、……私は小さな風呂敷包みをこしらえながら、どこにも行き場のない気持ちであった。そう云って別れてしまった男なのに、「お前が便利なように云ってやったんだよ、俺から離れいいようにね。」男は私を抱き伏せると、お前も俺と同じような病気にしてやるのだ。そう云って、肺の息をフウフウ私の顔に吐きかけてくる。あの夜以来、私は男の下宿代をかせぐために、こんなところへまで流れて来たのです。
「国へかえってみましょう、少し位は出来るかも知れませんから……」

 こんなことをして金をこしらえる事を私は貞女だとでも思っているのでしょうか神様!
「もう店をしまって下さい。」

 マダム・ロアの鼻の頭が油で光っている。ここは十二時にはカンバンにするのであるらしい。桃割れに結ったお菊さんと、お君さんと私、バラックの女給部屋には、重い潮風が窓から吹きこんでくる。
「ね、東京にかえりたくなったわ。」

 お君さんは子供の事を思い出したのか、手拭で顔をふきながら、大きい束髪に風を入れていた。――ここのマダム・ロアは、独逸(ドイツ)人で、御亭主は東京に独逸ビールのオフィスを持っている人だった。何時(いつ)も土曜日には帰って来るのだそうである。一度チラとやせた背の高い姿を見たきり。マダム・ロアは、古風なスカートのように肥って沈黙った女だった。私はお君さんの御亭主の紹介で来たものの、ここはあまり収入もないのだ。コックも日本人なので、外人客は料理は食べないで、いつもビールばかり呑んで行った。
「私、あんたんとこの人に紹介されて来たので、本当は東京へ帰りたいんだけれど、遠慮をしていたのよ。」
「浜へ行ったら金になるなんて云って、結局はあの女と一緒になりたかったからでしょうよ。」

 お君さんの御亭主は、お君さんと親子ほども年が違っているのに妾(めかけ)を持っていた。
「実際、私達は男の為めに苦労して生きてるようなものなのね。」

 お君さんは波止場の青い灯を見ながら、着物もぬがないでぼんやり部屋に立っている。私はふっと、去年のいまごろ、寒い日にお君さんと、この浜へ来た事を思い出した。あれから半年あまり、もうお君さんとは会えないと思いながら、どっちからともなく尋ねあって行き来している事を思うと、ほほ笑ましくなって来る。――十三の時に子供を産んだと云うお君さんは、「私はまだほんとうの恋なんてした事がないのよ。」と云うなり。いまは二十二で、九つの子供のあるお君さんは、子供が恋人だとも言っていた。ふしあわせなお君さんである。養母の男であったのが、今の御亭主になって十年もお君さんはその男の為めに働いて来たのだと云う。十年も働きあげたと思うと、カフエーの女給を妾に引き入れてみたり、家の中は一人の男をめぐって、彼女に妾に養母さんと云った不思議な生活だった。彼女は、「私、本当に目をおおいたくなる時があってよ。」と涙ぐむ時がある。どんなにされても、一人の子供の為めに働いているお君さんの事を考えると、私の苦しみなんて、彼女から言えばコッケイな話かも知れない。
「電気を消して下さい!」

 独逸人はしまり屋だと云うけれど、マダム・ロアが水色の夜の着物を着て私達の部屋を覗きにくるのだ。電気の消えたせまい部屋の中で、私はまるでお伽話のような蛙(かえる)の声を聞いた。東京の生活の事、お母さんの事、これからさきの事、なかなか眠れない。

(四月×日)

 九つになるお君さんの上の子供が一人でお君さんをたずねて来た。港では船がはいって来たのか、自動車がしっきりなしに店の前を走って行く。

 朝。

 マダム・ロアは裏のペンキのはげたポーチで編物をしていた。「お菊さんに店をたのんで一寸波止場へ行ってみない? 子供に見せたいのよ。」冷たいスープを呑んでいる私の傍で、お君さんは長い針を動かせて、子供の肩上げをたくし上げては縫ってやっていた。
「お君さんの弟かい!」

 船乗り上りの年をとったコックが、煙草を吸いながら、子供をみていた。
「ええ私の子供なのよ……」
「ホー、いくつだい? よく一人で来られたね。」
「…………」

 歯の皓(しろ)い少年は、沈黙って侘し気に笑っていた。私たち三人は手をつなぎあって波止場の山下公園の方へ行ってみる。赤い吃水線(きっすいせん)の見える船が、沖にいくつも碇泊(ていはく)していた。インド人が二人、呆(ぼ)んやり沖を見ている。蒼(あお)い四月の海は、西瓜(すいか)のような青い粉をふいて光っていた。
「ホラ! お船だよ、よく見ておおき、あれで外国へ行くんだよ。あれは起重機ね、荷物が空へ上って行ったろう。」

 お君さんの説明をきいて、板チョコを頬ばりながら、子供はかすんだような嬉しい眼をして海を見ている。桟橋から下を見ると深い水の色がきれいで、ずるずると足を引っぱられそうだった。波止場には煙草屋だの、両替店、待合所、なんかが並んでいる。
「母さん、僕、水のみたい。」

 ひざ小僧を出したお君さんの子供が、白い待合所の水道の方へ走って行くと、お君さんは袂(たもと)からハンカチを出して子供のそばへ歩いて行く。
「さあ、これでお顔をおふきなさい。」

 ああ何と云う美しい風景だろう、その美しい母子風景が、思い思いな苦しみに打ちのめされてはきりっと立ちあがっては前進してゆくのだ。少年が母をたずねて、この浜辺までひとりで辿(たど)って来た情熱を考えると、泣き出したいだろうお君さんの気持ちが胸に響くなり。
「あの子と一緒に間借りでもしようかとも思うのよ、でも折角、父親がいて離すのもいけないと思って我慢はしてるのだけれど、私、働き死にをしに生れて来たようで、厭(いや)になる時があるわよ。」
「ね、小母さん! ホテルって何?」

 フッと見ると波止場のそばの橋の横に、何時か見たホテルと云う白い文字が見えた。
「旅をする人が泊るところよ。」
「そう……」
「ね、坊や! 皆うちにまだいるの?」
「うん、お父さん家にいるよ、お婆ちゃんも、小母ちゃんも銀座の方にこの頃通って、とても夜おそいの、だから僕だの父ちゃんが、かわりばんこに駅へむかいに行くんだよ……」

 お君さんはおこったように沈黙って海の方を見ていた。

 昼は伊勢佐木町に出て、三人で支那蕎麦(そば)を食べた。
「ね、あんた、私、写真を取りたいのよ、一緒に写ってくれない。」
「私もそう思ってたの、いつまた離ればなれになるかも判らないんですもの、丁度いいわ、坊やも一緒に取りましょう。」

 支那の軍人の制服のような感じの電車に乗って、浜近い写真館に行った。
「三人で取ると、誰かが死ぬんだって、だから犬ころでもいいから借りましょうよ。」

 お君さんが、不恰好なはり子の犬をひざに抱いて、坊やと私とが立っている姿を撮ってもらう。バックは、波止場の桟橋、林立した古風な帆柱が見えます。
「坊や! 今日は母ちゃんとこへ寝んねしていらっしゃいね。」
「一緒に帰るの……」

 お君さんは淋しそうに、一人でスヴニールのレコードをかけていた。マダム・ロアは今日は東京へ外出していない。椅子を二つ並べてコックはぐうぐう眠っている。もらい一円たらず、私も坊や達と東京へ帰ろうと思う。

(四月×日)
「こんな旅が一生続いたらユカイよ。」

 エトランゼの裏口から、一ツずつ大きい荷物を持った私たち二人の女を、マダム・ロアは気の毒そうにみて、一週間あまりしかいない私達へ給料を十円ずつ封筒へ入れてくれた。
「また来て下さい、夏はいいんですよ。」

 お君さんと違って家のない私は、又ここへ逆もどりしたいなつかしい気持ちで、マダム・ロアを振り返った。沈黙った女ってしっかりしているものだ。背広を着た彼女が、二階から私達を何時までも見送ってくれていた。
「よかったら家へいらっしゃいよ。雑居だけどいいじゃないの……そしてゆっくりさがせば。」

 駅でバナナをむきながら、お君さんがこう言ってくれた。東京へ行ったところで、ひねくれたあの男は、私を又殴ったり叩いたりするのかも知れない。いっそお君さんの家にでもやっかいになりましょう。サンドウイッチを買って汽車に乗った。汽車の中には桜のマークをつけたお上りさんの人達がいっぱいあふれていた。
「桜時はこれだから厭ね……」

 一つの腰掛けをやっとみつけると、三人で腰を掛ける。
「子供との汽車の旅なんて何年にもない事だわ。」

 夕方、お君さんの板橋の家へ着いた。
「随分、一人でやるのは心配したけれど、一人で行きたいって云うから、あたしがやったんだよ。」

 髪を蓬々させたお婆さんが寝転んで煙草を吸っていた。
「この間は失礼しました、今日は何だか一緒にかえりたくなってついて来ましたのよ。」

 長屋だてのギシギシした板の間をふんで、お君さんの御亭主が出て来た。
「こんなところでよければ、いつまででもいらっしゃい。またそのうちいいところがありますよ。」と云ってくれる。

 部屋の中には、若い女の着物がぬぎ散らかしてあった。

 夜更け。フッと目が覚めると、
「子供なんかを駅へむかいにやる必要はないじゃありませんか、貴方が行っていらっしゃい、貴方が厭だったら私が行って来ます。」

 お君さんの癇(かん)走った声がしている。やがて、土間をあける音がして、御亭主が駅へ妾さんをむかいに出て行った。
「オイお君! お前もいいかげん馬鹿だよ、なめられてやがって……」

 向うのはじに寝ていたお婆さんが口ぎたなくお君さんをののしっている。ああ何と云う事だろう、何と云う家族なのだろうと思う。硝子窓の向うには春の夜霧が流れていた。一緒に眠っている人達の、思い思いの苦しみが、夜更けの部屋に満ちていて、私はたった一人の部屋がほしくなっていた。

(四月×日)

 雨。終日坊やと遊ぶ。妾はお久さんと云って頬骨の高い女だった。お君さんの方がずっと柔かくて美しいひとだのに、縁と云うものは不思議なものだと思う。男ってどうしてこんななのだろう……。
「フンそんなに浜は不景気かね。」

 肌をぬいで、髪に油を塗りながら、お久さんは髪をすいていた。
「何だよお前さんのその言いかたは……」

 お婆さんが台所で釜を洗いながらお久さんに怒っていた。雨が降っている。うっとうしい四月の雨だ。路地のなかの家の前に、雨に濡れながら野菜売りが車を引いて通る。

 神様以上の気持ちなのか、お君さんは笑って、八百屋とのんびり話をしていた。
「いまは丁度何でも美味(おい)しい頃なのね。」と云っている。

 雨の中を、夕方、お久さんと御亭主とが街へ仕事に出て行った。婆さんと、子供とお君さんと私と四人で卓子を囲んで御飯をたべる。
「随分せいせいするよ、おしめりはあるし、二人は出て行ったし。」

 お婆さんがいかにもせいせいしたようにこんなことを云った。

(五月×日)

 新宿の以前いた家へ行ってみた。お由さんだけがのこっていて古い女達は皆いなくなってしまっていた。新らしい女が随分ふえていて、お上さんは病気で二階に臥(ふ)せっていた。――又明日から私は新宿で働くのだ。まるで蓮沼(はすぬま)に落ちこんだように、ドロドロしている私である。いやな私なり、牛込(うしごめ)の男の下宿に寄ってみる。不在。本箱の上に、お母さんからの手紙が来ていた。男が開いてみたのか、開封してあった。養父の代筆で、――あれが肺病だって言って来たが本当か、一番おそろしい病気だから用心してくれ、たった一人のお前にうつると、皆がどんなに心配するかわからない、お母さんはとても心配して、この頃は金光(こんこう)様をしんじんしている、一度かえって来てはどうか、色々話もある。――まあ! 何と云う事だろう、そんなにまでしなくても別れているのに、古里の私の両親のもとへ、あの男は自分が病気だからって云ってやったのかしら……よけいなおせっかいだと思った。宿の女中の話では、「よく女の方がいらっしてお泊りになるんですよ。」と云っている。ブトウ酒を買って来た、いままでのなごやかな気持ちが急にくらくらして来る。苦労をしあった人だのに何と云うことだろう。よくもこんなところまで辿って来たものだと思う。街を吹く五月のすがすがしい風は、秋のように身にしみるなり。

 夜。

 ここの子供とかるめらを焼いて遊ぶ。

        *

(五月×日)

 六時に起きた。

 昨夜の無銭飲食の奴のことで、七時には警察へ行かなくてはならない。眠くって頭の芯(しん)がズキズキするのをこらえて、朝の街に出てゆくと、汚い鋪道(ほどう)の上に、散しの黄や赤が、露にベトベト濡れて陽に光っていた。四谷(よつや)までバスに乗る。窓硝子(ガラス)の紫の鹿(か)の子(こ)を掛けた私の結い綿の頭がぐらぐらしていて、まるでお女郎みたいな姿だった。私はフッと噴き出してしまう。こんな女なんて……どうしてこんなに激しくゆられ、ゆすぶられても、しがみついて生きていなくてはならないのだろう! 何とコッケイなピエロの姿よ。勇ましくて美しい車掌さん! 笑わないで下さいね。なまめかしく繻子(しゅす)の黒襟(くろえり)を掛けたりしているのですが、私だって、貴女みたいにピチピチした車掌さんになろうとした事があったんですよ。貴女と同じように、植物園、三越、本願寺、動物園なんて試験を受けた事があるんです。近眼ではねられてしまったんだけれど、私は勇ましい貴女の姿がうらやましくて仕方がない。――神宮外苑(がいえん)の方へ行く道の、一寸高い段々のある灰色の建物が警察だった。八ツ手の葉にいっぱい埃(ほこり)がかぶさったまま露がしっとりとしていて、洞穴のような留置場の前へはいって行くと、暗い刑事部屋には茶を呑んでいる男、何か書きつけている男、疲れて寝ころんでいる男、私はこんなところへまで、昨夜の無銭飲食者に会いにこなければならないのかしらと厭(いや)な気持ちだった。ここまで取りに来なければ十円近くの金は、私が帳場に立て替えなければならないし、転んでも只では起きないカフエーのからくりを考えると厭になる。結局は客と女給の一騎打ちなのだ。ああ金に引きずりまわされるのがとても胸にこたえてくる。店の女達が、たかるだけたかっておいて、勘定になると、裏から逃げ出して行った昨夜の無銭飲食者の事を思うと、わけのわからないおかしさがこみ上げて来て仕方がなかった。
「代書へ行って届書をかいて来い、アーン!」

 あぶくどもメ! 昨夜の無銭飲食者が、ここではすばらしい英雄にさえ思える。

 代書屋に行って書いてもらったのが一時間あまりもかかった。茶が出たり塩せんべいが出たり、金を払うだんになると、二枚並べた塩せんべいの代金まではいっている。全く驚いてしまった。届書を渡して、引受人のような人から九円なにがしかをもらって外に出ると、もうお昼である。規律とか規則とかと云うものに、私はつばきを引っかけてけいべつをしてやりたくなった。

 帰って帳場に金を渡して二階へ上ると、皆はおきて蒲団をたたんでいる処だった。掃除をすっぽかして横になる。五月の雲が真綿のように白く伸びて行くのに、私は私の魂を遠くにフッ飛ばして、棒のように石のように私は横になって目をとじているのだ。悲しや、おいたわしや、お芙美さん、一ツ手拍子そろえて歌でも唄いましょう。
陸の果てには海がある。

白帆がゆくよ。


(五月×日)

 時ちゃんが、私に自転車の乗りかたを教えてくれると云うので、掃除が済むと、店の自転車を借りて、遊廓(ゆうかく)の前の広い道へ出て行った。朝の陽をいっぱい浴びて、並んだ女郎屋の二階のてすりには、蒲団の行列、下の写真棚には、お葬式のビラのような初店の女の名前を書いた白い紙がビラビラ風に吹かれていた。朝帰りの男の姿が、まるで雨の日のこうもりがさのようだと、時ちゃんは冷笑しながら、勇ましく大通りで自転車を乗りまわしている。桃割れにゆった女が自転車で廓(くるわ)の道を流しているので、男も女も立ちどまっては見て行くなり。
「さあ、ゆみちゃんお乗りよ、後から押してやるから。」

 馬鹿げた朗かさで、ドン・キホーテの真似をする事も面白い。二三回乗っているうちにペタルが足について来て、するするとハンドルでかじが取れるようになった。
キング・オブを十杯呑ませてくれたら

私は貴方に接吻を一ツ投げましょう

おお哀れな給仕女よ

青い窓の外は雨の切子(きりこ)硝子

ランタンの灯の下で

みんな酒になってしまった

カクメイとは北方に吹く風か!

酒はぶちまけてしまったんです。

卓子の酒の上に真紅(まっか)な口を開いて

火を吐いたのです

青いエプロンで舞いましょうか

金婚式、それともキャラバン

今晩の舞踏曲は……

さあまだあと三杯もある

しっかりしているかって

ええ大丈夫よ

私はお悧巧(りこう)な人なのに

本当にお悧巧なひとなのに

私は私の気持ちを

つまらない豚のような男達へ

おし気もなく切り花のように

ふりまいているんです

ああカクメイとは北方に吹く風か――


 さてさてあぶない生胆(いきぎも)取り、ああ何もかも差しあげてしまいますから、二日でも三日でも誰か私をゆっくり眠らせて下さい。私の体から、何でも持って行って下さい。私は泥のように眠りたい。石鹸のようにとけてなくなってしまって、下水の水に、酒もビールも、ジンもウイスキーも、私の胃袋はマッチの代用です。さあ、私の体が入用だったらタダで差し上げましょう。なまじっかタダでプレゼントした方があとくされがなくてせいせいするでしょう。酔っぱらって椅子と一緒に転んだ私を、時ちゃんは馬のように引きおこしてくれた。そうして耳に口をつけて言った事は、
「新聞を上からかぶせとくから、少しつっぷして眠んなさい、酔っぱらって仕様がないじゃないの……」

 私の蒲団は新聞で沢山なのですよ、私は蛆虫(うじむし)のような女ですからね、酔いだってさめてしまえばもとのもくあみ、一日がずるずると手から抜けて行くのですもの、早く私のカクメイでもおこさなくちゃなりません。

(六月×日)

 太宗寺で、女給達の健康診断がある日だ。雨の中を、お由さんと時ちゃんと三人で行った。古風な寺の廊下に、紅紫とりどりの疲れた女達が、背景と二重写しみたいに、そぐわないモダンさで群れている。一寸(ちょっと)した屏風(びょうぶ)がたててあるのだけれども、おえんま様も映画の赤い旗もみんなまる見えだ。上半身を晒(さら)して、店(たな)ざらしのお役人の前に、私達は口をあけたり胸を押されたりしている。匂いまで女給になりきってしまった私は、いまさら自分を振りかえって見返してみようにもみんな遠くに飛んでしまっている。お由さんは肺が悪いので、診てもらうのを厭がっていた。時ちゃんを待ちながら、寺の庭を見ているとねむの花が桃色に咲いて、旅の田舎の思い出がふっと浮んできた。

 夜、鼠花火を買って来て燃やす。

 チップ一円二十銭也。

(六月×日)

 昼、浴衣を一反買いたいと思って街に出てみると、肩の薄くなった男に出会う。争って別れた二人だけれども、偶然にこんなところで会うと、二人共沈黙(だま)って笑ってしまう。あのひとは鰻(うなぎ)がたべたいと云う。二人で鰻丼(うなどん)をたべにはいる。何か心楽し。浴衣の金を皆もたせてやる。病人はいとしや。――母より小包み来る。私が鼻が悪いと云ってやったので、ガラガラに乾(ほ)してある煎(せん)じ薬と足袋と絞り木綿の腰巻を送って来た。カフエーに勤めているなんて云ってやろうものなら、どんなにか案じるお母さん、私は大きいお家の帳場をしていると嘘の手紙を書いて出した。

 夜。

 お君さんが私の処へたずねて来た。これから質屋に行くのだと云って大きい風呂敷包みを持っていた。
「こんな遠い処の質屋まで来るの?」
「前からのところなのよ。板橋の近所って、とても貸さないのよ……」

 相変らず一人で苦労をしているらしいお君さんに同情するなり。
「ね、よかったらお蕎麦(そば)でも食べて行かない、おごるわよ。」
「ううんいいのよ、一寸人が待っているから、又ね。」
「じゃア質屋まで一緒に行く、いいでしょう。」

 その後銀座の方に働いていたと云うお君さんには若い学生の恋人が出来ていた。
「私はいよいよ決心したのよ、今晩これから一寸遠くへ都落ちするつもりで、実は貴女の顔を見に来たの。」

 こんなにも純情なお君さんがうらやましくて仕方がない。何もかも振り捨てて私は生れて初めて恋らしい恋をしたのだわ。ともお君さんは云うなり。
「子供も捨てて行くの?」
「それが一番身に堪(こた)えるんだけれども、もうそんな事を言ってはおられなくなってしまったのよ。子供の事を思うと空おそろしくなるけれど、私とても、とても勝てなくなってしまったの。」

 お君さんの新らしい男の人は、あんまり豊かでもなさそうだったけれど、若者の持つりりしい強さが、あたりを圧していた。
「貴女も早く女給なんてお止(よ)しなさい、ろくな仕事じゃアありませんよ。」

 私は笑っていた。お君さんのように何もかも捨てさる情熱があったならば、こんなに一人で苦しみはしないとおもう。お君さんのお養母さんと、御亭主とじゃ、私のお母さんの美しさはヒカクになりません。どんなに私の思想の入れられないカクメイが来ようとも、千万人の人が私に矢をむけようとも、私は母の思想に生きるのです。貴方達は貴方達の道を行って下さい。私はありったけの財布をはたいて、この勇ましく都落ちする二人に祝ってあげたい。私のゼッタイのものが母であるように、お君さんの唯一の坊やを、私は蔭で見てやってもいいと思えた。

 街では星をいっぱい浴びて、ラジオがセレナーデを唄っている。

 私の袂(たもと)には、エプロンがまるまってはいっている。

 夜の曲。都会の夜の曲。メカニズム化したセレナーデよ、あんなに美しい唄を、ラジオは活字のように街の空で唸(うな)っている。騒音化した夜の曲。人間がキカイに食われる時代、私は煙草屋のウインドウの前で白と赤のマントを拡げたマドリガルと云う煙草が買いたかったのだ。すばらしい享楽、すばらしい溺酔(できすい)、マドリガルの甘いエクスタシイ、嘘でも言わなければこの世の中は馬鹿らしくって歩けないじゃありませんか――。さあ、みんなみんな、私は何でもかでもほしいんですよ。

 時ちゃんは文学書生とけんかをしていた。
「何だいドテカボチャ、ひやけの茄子(なす)! もう五十銭たしゃ横町へ行けるじゃあないか!」

 酔っぱらった文学書生がキスを盗んだというので、時ちゃんが、ソーダ水でジュウジュウ口をすすぎながら呶鳴(どな)っていた。お上さんは病気で二階に寝ている。何時(いつ)も女給達の生血を絞っているからろくな事がないのよ。しょっちゅう病気してるじゃないの……こう言ってお由さんはお上さんの病気を気味良がっていた。

(六月×日)

 お上さんはいよいよ入院してしまった。出前持ちのカンちゃんが病院へ行って帰ってこないので、時ちゃんが自転車で出前を持って行く。べらぼうな時ちゃんの自転車乗りの姿を見ていると、涙が出る程おかしかった。とにかく、この女は自分の美しさをよく知っているからとても面白い。――夕方風呂から帰って着物をきかえていると、素硝子の一番てっぺんに星が一つチカチカ光っていた。ああ久しく私は夜明けと云うものを見ないけれど、田舎の朝空がみたいものだ。表に盛塩(もりじお)してレコードをかけていると、風呂から女達が順々に帰って来る。
「もうそろそろ自称飛行家が来る頃じゃないの……」

 この自称飛行家は奇妙な事に支那そば一杯と、老酒(ラオチュー)いっぱいで四五時間も駄法螺(だぼら)を吹いて一円のチップをおいて帰って行く。別に御しゅうしんの女もなさそうだ。

 三番目。

 私の番に五人連のトルコ人がはいって来た。ビールを一ダース持って来させると、順々に抜いてカンパイしてゆくあざやかな呑みぶりである。白い風呂敷包みの中から、まるでトランクのように大きい風琴(ふうきん)を出すと、風琴の紐(ひも)を肩にかけて鳴らし出す。秋の山の風でも聞いているような、風琴の音色、皆珍らしがってみていた。ボクノヨブコエワスレタカ。何だと思ったらかごの鳥の唄だった。帽子の下に、もう一つトルコ帽をかぶって、仲々意気な姿だった。
「ニカイ アガリマショウ。」

 若いトルコ人が私をひざに抱くと、二階をさかんに指差している。
「ニカイノ アルトコロコノヨコチョウデス。」
「ヨコチョウ? ワカラナイ。」

 私達を淫売婦とでもまちがえているらしい。
「ワタシタチ トケイヤ。」

 若いのが遠い国で写したのか、珍らしい樹の下で写した小さい写真を一枚ずつくれるなり。
「ニカイ アガリマショウ、ワタシ アヤシクナイ。」
「ニカイアリマセン。ミンナ カヨイデス。」
「ニカイ アリマセン?」

 またビール一ダースの追加、一人がコールドビーフを註文(ちゅうもん)すると、お由さんが気に入っていたのか、何かしきりに皿を指さしている。
「困ったわ、私英語なんか知らないんですもの、ゆみちゃん何を言ってんのか聞いてみてよ……」
「あの、飛行機屋さんにおききなさいよ、知ってるかも知れないわ。」
「冗談じゃない、発音がちがうから判らないよ。」
「あら飛行機屋さんにも判らないの、困っちゃうわね。」
「ソースじゃなさそうね。」

 何だか辛子(からし)のようにも思えるんだけれど、生憎(あいにく)、からしかと訊(き)く事を知らない私は、
「エロウ・パウダ?」

 顔から火の出る思いで聞いてみた。
「オオエス! エス!」

 辛子をキュウキュウこねて持って行くと、みんな手の指を鳴らして喜んでいた。

 自称飛行家はコソコソ帰っていった。
「トルコの天子さん何て言うの?」

 時ちゃんが、エロウ・パウダ氏にもたれて聞いている。
「テンシサンなんて判るもんですか。」
「そう、私はこの人好きだけど通じなきゃ仕方がないわ。」

 酒がまわったのか、風琴は遠い郷愁を鳴らしている。ニカイ アガリマショウの男は、盛んに私にウインクしていた。日本人とよく似た人種だと思う、トルコってどんなところだろう。私は笑いながら聞いた。
「アンタの名前、ケマルパシャ?」

 五人のトルコ人は皆で私にエスエスと首を振っていた。

        *

(九月×日)

 古い時間表をめくってみた。どっか遠い旅に出たいものだと思う。真実のない東京にみきりをつけて、山か海かの自然な息を吸いに出たいものなり。私が青い時間表の地図からひらった土地は、日本海に面した直江津(なおえつ)と云う小さい小港だった。ああ海と港の旅情、こんな処へ行ってみたいと思う。これだけでも、傷ついた私を慰めてくれるに違いない。だけど今どき慰めなんて言葉は必要じゃない。死んでは困る私、生きていても困る私、酌婦にでもなんでもなってお母さん達が幸福になるような金がほしいのだ。なまじっかガンジョウな血の多い体が、色んな野心をおこします。ほんとに金がほしいのだ!

 富士山――暴風雨

 停車場の待合所の白い紙に、いま富士山は大あれだと書いてある。フン! あんなものなんか荒れたってかまいはしない。風呂敷包み一つの私が、上野から信越線に乗ると、朝の窓の風景は、いつの間にか茫々とした秋の景色だった。あたりはすっかり秋になっている。窓を区切ってゆく、玉蜀黍(とうもろこし)の葉は、骨のようにすがれてしまっていた。人生はすべて秋風万里、信じられないものばかりが濁流のように氾濫(はんらん)している。爪の垢(あか)ほどにも価しない私が、いま汽車に乗って、当もなくうらぶれた旅をしている。私は妙に旅愁を感じると瞼(まぶた)が熱くふくらがって来た。便所臭い三等車の隅ッこに、銀杏返(いちょうがえ)しの鬢(びん)をくっつけるようにして、私はぼんやりと、山へはいって行く汽車にゆられていた。
古里の厩(うまや)は遠く去った

花がみんなひらいた月夜

港まで走りつづけた私であった

(おぼろ)な月の光りと赤い放浪記よ

首にぐるぐる白い首巻をまいて

汽船を恋した私だった。


 一切合切が、何時も風呂敷包み一つの私である。私は心に気弱な熱いものを感じながら、古い詩稿や、放浪日記を風呂敷包みから出しては読みかえしてみた。体が動いているせいか、瞼の裏に熱いものがこみあげて来ても、詩や日記からは、何もこみ上げて来る情熱がこない。たったこれだけの事だったのかと思う。馬鹿らしい事ばかりを書きつぶして溺(おぼ)れている私です。

 汽車が高崎に着くと、私の周囲の空席に、旅まわりの芸人風な男女が四人で席を取った。私はボンヤリ彼等を見ていた。彼達は、私とあまり大差のないみすぼらしい姿である。上の網棚には、木綿の縞の風呂敷でくるんだ古ぼけた三味線と、煤(すす)けたバスケットが一つ、彼達の晒された生活を物語っていた。
「姐御(あねご)はこっちに腰掛けたら……」

 同勢四人の中の、たった一人の女である姐御と呼ばれた彼女は、つぶしたような丸髷(まるまげ)に疲れた浴衣である。もう三十二三にはなっているのだろう、着崩れた着物の下から、何か仇(あだ)めいた匂いがして窶(やつ)れた河合武雄と云ってもみたい女だった。その女と並んで、私の向う横に腰かけたつれの男は額がとても白い。紺縮みの着物に、手拭のように細いくたびれた帯をくるくる巻いて、かんしょうに爪をよく噛(か)んでいた。
「ああとてもひでえ目にあったぜ。」

 目玉のグリグリした小さい方が、ひとわたり周囲をみまわして大きい方につぶやくと、汽車は逆もどりしながら、横川の駅に近くなった。この芸人達は、寄席芸人の一行らしいのだ。向うの男と女は、時々思い出したようにボソボソ話しあっていた。「アレ! 何だね、俺ァ気味が悪いでッ。」突然トンキョウな声がおこると、田舎者らしい子供連れのお上さんが、網棚の上を見上げた。お上さんの目を追うと、芸人達の持ちものである網棚のバスケットから、黒ずんだ赤い血のようなものがボトボトしたたりこぼれていた。
「血じゃねえかね!」
「旅のお方! お前さんのバスケットじゃねえかね。」

 背中あわせの、芸人の男女に、田舎女の亭主らしいのが、大きい声で呶鳴(どな)ると、ボンヤリと当もなく窓を見ていた男と女は、あたふたと、恐れ入りながら、バスケットを降ろして蓋をあけている。――ここにもこれだけの生活がある。私は頬の上に何か血の気の去るのを感じる思いだった。そのバスケットの中には、ふちのかけた茶碗や、朱のはげた鏡や、白粉(おしろい)や櫛(くし)や、ソースびんが雑然と入れてあった。
「ソースの栓が抜けたんですわ……」

 女はそう一人ごとを言いながら、自分の白い手の甲にみみずのように流れているソースの滴をなめた。その侘し気なバスケット物語が、トヤについたこの人達の幾日かの生活をものがたっている。女のひとはバスケットを棚へ上げると、あとは又汽車の轟々(ごうごう)たる音である。私の前の弟子らしい男達は、眠ったような顔をしていた。
「ああ俺アつまらねえ、東京へ帰って、いまさんの座にでもへえりていや、いつまでこうしてたって、寒くなるんだしなア……」

 弟子たちのこの話が耳にはいったのか、紺縮みの男は、キラリと眼をそらすと、
「オイ! たんちゃん、横川へついたら、電報一ツたのんだぜ。」

 と、云った。四人共白けている。夫婦でもなさそうな二人のものの言いぶりに、私はこの男と女が妙に胸に残っていた。

 夜。

 直江津の駅についた。土間の上に古びたまま建っているような港の駅なり。火のつきそめた駅の前の広場には、水色に塗った板造りの西洋建ての旅館がある。その旅館の横を切って、軒の出っぱった煤けた街が見えている。嵐もよいの湫々(しゅうしゅう)とした潮風が強く吹いていて、あんなにあこがれて来た私の港の夢はこっぱみじんに叩きこわされてしまった。こんなところも各自の生活で忙がしそうだ。仕方がないので私は駅の前の旅館へひきかえす。硝子戸に、いかやと書いてあった。

(九月×日)

 階下の廊下では、そうぞうしく小学生の修学旅行の群がさわいでいた。

 洗面所で顔を洗っていると、
「俺ァ鰯(いわし)をもういっぺん食べてえなア。」

 山国の小学生の男の子達が魚の話を珍らしげに話していた。私は二円の宿代を払って、外へ散歩に出てみた。雲がひくくかぶさっている。街をゆく人達は、家々の深いひさしの下を歩いている。芝居小屋の前をすぎると長い木橋があった。海だろうか、河なのだろうか、水の色がとても青すぎる。ぼんやり立って流れを見ていると、目の下を塵芥(じんかい)に混って鳩の死んだのがまるで雲をちぎったように流れていっていた。旅空で鳩の流れて行くのを見ている私。ああ何もこの世の中からもとめるもののなくなってしまったいまの私は、別に私のために心を痛めてくれるひともないのだと思うと、私はフッと鳩のように死ぬる事を考えているのだ。何か非常に明るいものを感じる。木橋の上は荷車や人の跫音(あしおと)でやかましく鳴っている。静かに流れて行く鳩の死んだのを見ていると、幸福だとか、不幸だとか、もう、あんなになってしまえば空(くう)の空(くう)だ。何もなくなってしまうのだと思った。だけど、鳥のように美しい姿だといいんだが、あさましい死体を晒す事を考えると侘しくなってくる。駅のそばで団子を買った。
「この団子の名前は何と言うんですか?」
「ヘエ継続だんごです。」
「継続だんご……団子が続いているからですか?」

 海辺の人が、何て厭な名前をつけるんでしょう、継続だんごだなんて……。駅の歪(ゆが)んだ待合所に腰をかけて、白い継続だんごを食べる。あんこをなめていると、あんなにも死ぬる事に明るさを感じていた事が馬鹿らしくなってきた。どんな田舎だって人は生活しているんだ。生きて働かなくてはいけないと思う。田舎だって山奥だって私の生きてゆける生活はあるはずだ。私のガラスのような感傷は、もろくこわれやすい。田舎だの、山奥だの、そんなものはお伽噺(とぎばなし)の世界だろう。煤けた駅のベンチで考えた事は、やっぱり東京へかえる事であった。私が死んでしまえば、誰よりもお母さんが困るのだもの……。

 低迷していた雲が切れると、灰をかぶるような激しい雨が降ってきた。汐(しお)くさい旅客と肩をあわせながら、こんなところまで来た私の昨日の感傷をケイベツしてやりたくなった。昨夜の旅館の男衆がこっちを見ている。銀杏返しに結っているから、酌婦かなんかとでも思っているのかも知れない。私も笑ってやる。

 長い夜汽車に乗った。

(九月×日)

 又カフエーに逆もどり。めちゃくちゃに狂いたい気持ちだった。めちゃくちゃにひとがこいしい……。ああ私は何もかもなくなってしまった酔いどれ女でございます。叩きつけてふみたくって下さい。乞食と隣りあわせのような私だ。家もなければ古里も、そしてたった一人のお母さんをいつも泣かせている私である。誰やらが何とか云いましたって……、酒を飲むと鳥が群れて飛んで来ます。樹がざわざわ鳴っているような不安で落ちつけない私の心、ヘエ! 淋しいから床を蹴(け)って、心臓が唄います事に、凭(よ)りどころなきうすなさけ、ても味気ないお芙美さん……。誰かが、めちゃくちゃに酔っぱらった私の唇を盗んで行きました。声をたてて泣いている私の声、そっと眼を挙げると、女達の白い手が私の肩に鳥のように並んでいました。
「飲みすぎたのね、この人は感情家だから。」

 サガレンのお由さんが私のことを誰かに言っている。私は血の上(のぼ)るようなみっともなさを感じると、シャンと首をもたげて鏡を見に立って行った。私の顔が二重に写っている鏡の底に、私を睨(にら)んでいる男の大きい眼、私は旅から生きてかえった事がうれしくなっている。こんな甘いものだらけの世の中に、自分だけが真実らしく死んで見せる事は愚かな至りに御座候だ。継続だんごか! 芝居じみた眼をして、心あり気に睨んでいる男の顔の前で、私はおばけの真似でもしてみせてやりたいと思う。……どんな真実そうな顔をしていたって、酒場の男の感傷は生ビールよりはかないのですからね、私がたくさん酒を呑んだって帳場では喜んでいる、蛆虫メ!
「酔っぱらったからお先に寝さしてもらいます。」

 芙美子は強し。

(十月×日)

 秋風が吹く頃になりました。わたしはアイーダーを唄っています。
「ね! ゆみちゃん、私は、どうも赤ん坊が出来たらしいのよ、厭になっちまうわ……」

 沈黙(だま)って本を読んでいる私へ、光ちゃんが小さい声でこんな事を云った。誰もいないサロンの壁に、薔薇(ばら)の黄いろい花がよくにおっていた。
「幾月ぐらいなの?」
「さあ、三月ぐらいだとおもうけど……」
「どうしたのよ……」
「いま私んとこ子供なんか出来ると困るのよ……」

 二人はだまってしまった。おでんを食べに行った女達がぞろぞろかえって来る。

 私のいやな男が又やって来る。えてして芝居もどきな恰好で、女を何とかしようと云うものに、ろくなのはいない。こんなお上品な男の前では、大口をあけて、何かムシャムシャ食べているに限ります。私はうで玉子を卓子の角で割りながら、お由さんと食べる。
「おゆみさんいらっしゃいよ。」

 酔いどれ女の芸当がまた見たいんですか、私は表に出てゆくと、街を吹く秋の風を力いっぱい吸った。エプロンをはずして、私もこの人混の中にはいってみたいと思った。露店が雨のようにならんでいる。
「一寸おたずねしますが、お宅は女給さん入(い)らないでしょうか?」

 昔のスカートのように、いっぱいふくらんだ信玄袋を持った大きい女が、人混から押されて私の前に出て来た。
「さあ、いま四人もいるのですけれど、まだ入ると思いますよ、聞いてあげましょうか、待っていらっしゃい。」

 ドアを押すと、あの男は酔いがまわったのか、お由さんの肩を叩いて言っていた。
「僕はどうも気が弱くてね。」

 御もっとも様でございますよ。――連れて来てごらんと云うお上さんの言葉で、台所からまわって、私は信玄袋の女をまねくと、急に女は泣き出して言った。「私は田舎から出て来たばかりで、初めてなんですが、今晩行くところがないから、どうしてもつかって下さい、一生懸命働きます。」と云っている。うすら冷たい風に、メリンスの単衣(ひとえ)がよれよれになって寒そうだった。どうせ、こんなカフエーなんて、女でありさえすればいいのだもの、この女だって、信玄袋をとれば鏡をみつめ出すにわかっています。
「お上さん、とても店には女がたりないんですからおいてあげて下さいよ。」

 上州生れで、繭(まゆ)のように肥った彼女は、急な裏梯子(うらばしこ)から信玄袋をかついで二階の女給部屋に上って行った。「お蔭様でありがとうございます。」暗がりにうずくまっている女の首が太く白く見えた。
「あなた、いくつ?」
「十八です。」
「まあ若い……」

 女が着物をぬいで不器用な手つきで支度をしているのをそばでじっと見ていると、私は何かしら眼頭が熱くなって来た。ああ暗がりって、どうしてこんなにいいものなのだろう、埃のいっぱいしている暗い燈の下で、唇を毒々しくルウジュで塗った女達が、せいいっぱいな唄をうたっている。おお神様いやなことです。
「ゆみちゃん! あの人がいらっしゃってよ。」

 いつまでもこの暗がりで寝転がっていたいのに、由ちゃんが何か頬ばりながら二階へ上ってきた。新らしくきた女のひとにエプロンを貸してやる。妙にガサガサ荒れた手をしていた。
「私、一度世帯を持った事がありましてね。」
「…………」
「これから一生懸命働きますから、よろしくお願いいたします。」
「ここにいる人達は、皆同じことをして来た人達なんだから、皆同じようにしていりゃいいのよ。場銭(ばせん)が十五銭ね、それから、店のものはこわさないようになさい、三倍位には取られてしまうのよ、それから、この部屋で、お上さんも旦那も、女給もコックも一緒に寝るんだから、その荷物は棚へでもあげておおきなさい。」
「まあこんなせまいところにねるのですか。」
「ええそうなのよ。」

 階下へ降りると、例の男がよろよろ歩いて来て私にいった。
「どっか公休日に遊びに行きませんか!」
「公休日? ホッホホホホ私とどっかへ行くと、とても金がかかりますよ。」

 そうして私は帯を叩いて言ってやった。
「私赤ん坊がいるから当分駄目なんですよ。」

        *

(十二月×日)
「飯田がね、鏝(こて)でなぐったのよ……厭になってしまう……」

 飛びついて来て、まあよく来たわね、と云ってくれるのを楽しみにしていた私は、長い事待たされて、暗い路地の中からしょんぼり出て来たたい子さんを見ると、不図(ふと)自動車や行李(こうり)や時ちゃんが何か非常に重荷になってきてしまって、来なければよかったんじゃないかと思えて来た。
「どうしましょうね、今さらあのカフエーに逆もどりも出来ないし、少し廻って来ましょうか、飯田さんも私に会うのはバツが悪いでしょうから……」
「ええ、ではそうしてね。」

 私は運転手の吉さんに行李をかついでもらうと、酒屋の裏口の薬局みたいな上りばなに行李を転がしてもらって、今度は軽々と、時ちゃんと二人で自動車に乗った。
「吉さん! 上野へ連れて行っておくれよ。」

 時ちゃんはぶざまな行李がなくなったので、陽気にはしゃぎながら私の両手を振った。
「大丈夫かしら、たい子さんって人、貴女の親友にしちゃあ、随分冷たい人ね、泊めてくれるかしら……」
「大丈夫よ、あの人はあんな人だから、気にかけないでもいいのよ、大船に乗ったつもりでいらっしゃい。」

 二人はお互に淋しさを噛み殺していた。
「何だか心細くなって来たわね。」

 時ちゃんは淋しそうに涙ぐんでいる。
「もうこれ位でいいだろう、俺達も仕事しなくちゃいけないから。」

 十時頃だった、星が澄んで光っている。十三屋の櫛屋のところで自動車を止めてもらうと、時ちゃんと私は、小さい財布を出して自動車代を出した。
「街中乗っけてもらったんだから、いくらかあげなきゃあ悪いわ。」

 吉さんは、私達の前に汚れた手を出すと、
「馬鹿! 今日のは俺のセンベツだよ。」と云った。

 吉さんの笑い声があまり大きかったので、櫛屋の人達もビックリしてこっちを見ている。
「じゃ何か食べましょう、私の心がすまないから。」

 私は二人を連れると、広小路のお汁粉屋にはいった。吉さんは甘いもの好きだから、ホラお汁粉一杯上ったよ! ホラも一ツ一杯上ったよ! お爺さんのトンキョウな有名な呼び声にも今の淋しい私には笑えなかった。「吉さん! 元気でいてね。」時ちゃんは吉さんの鳥打帽子の内側をかぎながら、子供っぽく目をうるませていた。――歩いて私達が本郷の酒屋の二階へ帰って行った時はもう十二時近かった。夜更けの冷たい鋪道の上を、支那蕎麦屋の燈火が通っているきりで、二人共沈黙って白い肩掛を胸にあわせた。

 酒屋の二階に上って行くと、たいさんはいなくて、見知らない紺がすりの青年が、火の気のない火鉢にしょんぼり手をかざしていた。何をする人なのかしら……私は妙に白々としたおもいだった。寒い晩である。歯がふるえて仕方がない。
「たい子さんと云うひとが帰らなければ私達は寝られないの?」

 時ちゃんは、私の肩にもたれて、心細げに聞いている。
「寝たっていいのよ、当分ここにいられるんだもの、蒲団を出してあげましょうか。」

 押入れをあけると、プンと淋しい女の一人ぐらしの匂いをかいだ。たい子さんだって淋しいのだ。大きなアクビにごまかして、袖で眼をふきながら、蒲団を敷いて時ちゃんをねせつけてやる。
「貴女は林さんでしょう……」

 その青年はキラリと眼鏡を光らせて私を見た。
「僕、山本です。」
「ああそうですか、たいさんに始終聞いていました。」

 なあんだ、私がしびれの切れた足を急に投げだすと、寒いですねと云う話から、二人の気持ちはほぐれて来た。色々話をしていると、段々この青年のいい所がめについて来る。私は一生懸命あいつを愛しているんですがと云って、山本さんは涙ぐんでいる。そして、火鉢の灰をじっとかきならしていた。

 たい子さんは幸福者だと思う。私は別れて間もない男の事を考えていた。あんなに私をなぐってばかりいたひとだったけれど、このひとの純情が十分の一でもあったらと思う。時ちゃんはもういびきをかいて眠っていた。「では僕は帰りますから、明日の夕方にでも来るように云って下さいませんか。」もう二時すぎである。青年は下駄を鳴らして帰って行った。たい子さんは、あの人との子供の骨を転々と持って歩いていたけれど、いまはどうしてしまったかしら、部屋の中には折れた鏝が散乱していた。

(十二月×日)

 雨が降っている。夕方時ちゃんと二人で風呂に行った。帰って髪をときつけていると、飯田さんが来る。私は袖のほころびを縫いながら、このごろおぼえた唄をフッとうたいたくなっていた。ああ厭になってしまう。別れてまでノコノコと女のそばへ来るなんて、飯田さんもおかしい人だと思う。たい子さんは沈黙っている。
「こんなに雨が降るのに行くの?」

 たい子さんは侘しそうに、ふところ手をして私達を見ていた。

 二人で浅草へ来た時は夕方だった。激しい雨の降る中を、一軒一軒、時ちゃんの住み込みよさそうな家をさがしてまわった。やがてきまったのはカフエー世界と云う家だった。
「どっかへ引っ越す時は知らしてね、たい子さんによろしく云ってね。」

 時ちゃんはほんとうに可愛い娘だ。野性的で、行儀作法は知らないけれども、いいところのある女なり。
「久し振りで、二人で、別れのお酒もりでもしましょうか……」
「おごってくれる?」
「体を大事にして、にくまれないようにね。」

 浅草の都寿司にはいると、お酒を一本つけてもらって、私達はいい気持ちに横ずわりになった。雨がひどいので、お客も少いし、バラック建てだけれども、落ちついたいい家だった。
「一生懸命勉強してね。」
「当分会えないのね時ちゃんとは……私、もう一本呑みたい。」

 時ちゃんはうれしそうに手を鳴らして女中を呼んだ。やがて、時ちゃんをカフエーに置いて帰ると、たい子さんは一生懸命何か書きものをしていた。九時頃山本さんみえる。

 私は一人で寝床を敷いて、たい子さんより先に寝ついた。

(十二月×日)

 フッと眼を覚ますと、せまい蒲団なので、私はたい子さんと抱きあってねむっていた。二人とも笑いながら背中をむけあう。
「起きなさい。」
「私いくらでも眠りたいのよ……」

 たい子さんは白い腕をニュッと出すと、カーテンをめくって、陽の光りを見上げた。――梯子段を上って来る音がしている。たい子さんは無意識に、手を引っこめると、
「寝たふりをしてましょう、うるさいから。」と云った。

 私とたいさんは抱きあって寝たふりをしていた。やがて襖(ふすま)があくと、寝ているの? と呼びかけながら山本さんはいって来る。山本さんが私達の枕元になれなれしく坐ったので、私は一寸不快になる。しかたなく目をさました。たい子さんは、
「こんなに朝早くから来てまだ寝てるじゃありませんか。」
「でも勤め人は、朝か夜かでなきゃあ来られないよ。」

 私はじっと目をとじていた。どうしたらいいのか、たいさんのやり方も手ぬるいと思った。厭なら厭なのだと、はっきりことわればいいのだ。

 今日から街はりょうあんである。昼からたい子さんと二人で銀座の方へ行ってみた。
「私はね、原稿を書いて、生活費位は出来るから、うるさいあそこを引きはらって、郊外に住みたいと思っているのよ……」

 たいさんは茶色のマントをふくらませて、電気スタンドの美しいのをショーウインドウに眺めながら、そのスタンドを買うのが唯一の理想のように云った。歩けるだけ歩きましょう。銀座裏の奴寿司で腹が出来ると、黒白の幕を張った街並を足をそろえて二人は歩いていた。朝でも夜でも牢屋(ろうや)はくらい、いつでも鬼メが窓からのぞく。二人は日本橋の上に来ると、子供らしく欄干に手をのせて、飄々(ひょうひょう)と飛んでいる白い鴎(かもめ)を見降ろしていた。
一種のコウフンは私達には薬かも知れない

二人は幼稚園の子供のように

足並をそろえて街の片隅を歩いていた。

同じような運命を持った女が

同じように眼と眼とみあわせて淋しく笑ったのです。

なにくそ!

笑え! 笑え! 笑え!

たった二人の女が笑ったとて

つれない世間に遠慮は無用だ

私達も街の人達に負けないで

国へのお歳暮(せいぼ)をしましょう。

(たい)はいいな

甘い匂いが嬉しいのです

私の古里は遠い四国の海辺

そこには父もあり母もあり

家も垣根も井戸も樹木も

ねえ、小僧さん!

お江戸日本橋のマークのはいった

大きな広告を張って下さい

嬉しさをもたない父母が

どんなに喜んで遠い近所に吹(ふい)ちょうして歩く事でしょう

――娘があなた、お江戸の日本橋から買って送って呉(く)れましたが、まあ一ツお上りなして

ハイ……。

信州の山深い古里を持つかの女も

茶色のマントをふくらませ

いつもの白い歯で叫んだのです。

――明日は明日の風が吹くから、ありったけの銭で買って送りましょう……。

小僧さんの持っている木箱には

さつまあげ、鮭(さけ)のごまふり、鯛の飴干(あめぼ)

二人は同じような笑いを感受しあって

日本橋に立ちました。

日本橋! 日本橋!

日本橋はよいところ

白い鴎が飛んでいた。

二人はなぜか淋しく手を握りあって歩いたのです。

ガラスのように固い空気なんて突き破って行こう

二人はどん底の唄をうたいながら

気ぜわしい街ではじけるように笑いあいました。


 私はなつかしい木箱の匂いを胸に抱いて、国へのお歳暮を愉しむ思いだった。

(十二月×日)
「今夜は、庄野さんが遊びに来てよ、ひょっとすると、貴女の詩集位は出してくれるかもわからないわね。新聞をやっているひとの息子ですってよ……」

 たいさんがそんなことを云った。たいさんと二人で夕飯を食べ終ると、二人は隣の部屋の、軍人上りの株屋さんだと云う、子持ちの夫婦者のところへまねかれて遊びに行く。「貴女達は呑気ですね。」たいさんも私もニヤニヤ笑っている。お茶をよばれながら、三十分も話をしていると庄野さんがやって来た。インバネスを着て、ぞろりとした恰好だ。この人は酔っぱらっているんじゃないかと思う程クニャクニャした躯(からだ)つきをしていた。でも人の良さそうな坊ちゃんである。こんな人に詩集を出して貰ったって仕様がない。私は菓子を買って来た。炬燵(こたつ)にあたって三人で雑談をする。やがて、飯田さんと山本さん二人ではいって来る、ただならない空気だ。

 飯田さんがたい子さんにおこっている。飯田さんは、たい子さんの額にインキ壺を投げつけた。唾が飛ぶ。私は男への反感がむらむらと燃えた。「何をするんですッ。又、たい子さんもどうしたのッ、これは……」たいさんは、流れる涙をせぐりあげながら話した。「飯田にいじめられていると、山本のいいところが浮んで来るの、山本のところへ行くと、山本がものたりなくなるのよ。」「どっちをお前は本当に愛しているのだ?」私は二人の男がにくらしかった。
「何だ貴方達だって、いいかげんな事をしてるじゃないのッ!」
「なにッ!」

 飯田さんは私を睨む。
「私は飯田を愛しています。」

 たい子さんはキッパリ云い切ると、飯田さんをジロリと見上げていた。私はたいさんが何故(なぜ)か憎らしかった。こんなにブジョクされてまでもあんなひとがいいのかしら……山本さんは溝(どぶ)へ落ちた鼠のようにしょんぼりすると、蒲団は僕のものだから持ってかえると云い出した。すべてが渦のようである。――やがて何時の間にか、たい子さんはいち早く山田清三郎氏のところへ逃げて行った。私はブツブツ云いながら三人の男たちと外に出た。カフエーにはいって、酒を呑む程に酔がまわる程に、四人はますますくだらなく落ちこんで来る。庄野さんは私に下宿に泊れと云った。蒲団のない寒さを思うと、私は何時の間にか庄野さんと自動車に乗っていた。舌たらずのギコウにまけてなるものか。私は酒に酔ったまねは大変上手です。二人はフトンの上に、二等分に帯をひっぱって寝た。
「山本君だって飯田君だってたいさんだって、あとで聞いたら関係があると云うかも知れないね。」
「云ったっていいでしょう。貴方も公明正大なら、私も公明正大ね、一夜の宿をしてくれてもいいでしょう。蒲団がなけりゃ仕様がないもの。」

 私は、私に許された領分だけ手足をのばして目をとじた。たいさんも宿が出来たかしら……目頭に熱い涙が湧(わ)いてくる。
「庄野さん! 明日起きたら、御飯を食べさせて下さいね、それからお金もかしてね、働いて返しますから……」

 私は朝まで眠ってはならないと思った。男のコウフン状態なんて、政治家と同じようなものだ、駄目だと思ったらケロリとしている。明日になったら、又どっかへ行くみちをみつけなくてはいけないと思う。

(十二月×日)

 ゆかいな朝である。一人の男に打ち勝って、私は意気ようようと酒屋の二階へ帰ってきた。たいさんも帰っていた。畳の上では何か焼いた跡らしく、点々と畳が焦げていて、たいさんの茶色のマントが、見るもむざんに破られていた。
「庄野さんとこへ昨夜泊ったのよ。」

 たいさんはニヤリと笑っていた。いやな笑いかたである。思うように思うがいいだろう。私はもう捨てばちであった。たいさんはいいひとが出来たと云った。そして結婚をするかも知れないと云っている。うらやましくて仕様がない。今は只沈黙っていたいと云っていた。淋しかったが、たいさんの顔は何か輝いていて幸福そうだ。みじめな者は私一人じゃないか。私はくず折れた気持ちで、片づけているたい子さんの白い手を呆(ぼ)んやりながめていた。

        *

(二月×日)

 黄水仙の花には何か思い出がある。窓をあけると、隣の家の座敷に燈火がついていて、二階から見える黒い卓子の上には黄水仙が三毛猫のように見えた。階下の台所から夕方の美味(おい)しそうな匂いと音がしている。二日も私は御飯を食べない。しびれた体を三畳の部屋に横たえている事は、まるで古風なラッパのように埃(ほこり)っぽく悲しくなってくる。生唾(なまつば)が煙になって、みんな胃のふへ逆もどりしそうだ。ところで呆然としたこんな時の空想は、まず第一に、ゴヤの描いたマヤ夫人の乳色の胸の肉、頬の肉、肩の肉、酸っぱいような、美麗なものへ、豪華なものへの反感が、ぐんぐん血の塊のように押し上げて来て、私の胃のふは旅愁にくれてしまった。いったい私はどうすれば生きてゆけるのだ。

 外へ出てみる。町には魚の匂いが流れている。公園にゆくと夕方の凍った池の上を、子供達がスケート遊びをしていた。固い御飯だって関(かま)いはしないのに、私は御飯がたべたい。荒れてザラザラした唇には、上野の風は痛すぎる。子供のスケート遊びを見ていると、妙に切ぱ詰った思いになって涙が出た。どっかへ石をぶっつけてやりたいな。耳も鼻も頬も紅(あか)くした子供の群れが、束子(たわし)でこするようにキュウキュウ厭な音をたてて、氷の上をすべっていた。――一縷(いちる)の望みを抱いて百瀬さんの家へ行ってみる。留守なり。知った家へ来て、寒い風に当る事は、腹がへって苦しいことだ。留守居の爺さんに断って家へ入れて貰う。古呆けて妖怪じみた長火鉢の中には、突きさした煙草の吸殻が葱(ねぎ)のように見えた。壁に積んである沢山の本を見ていると、なぜだか、舌に唾が湧いて来て、この書籍の堆積(たいせき)が妙に私を誘惑してしまう。どれを見ても、カクテール製法の本ばかりだった。一冊売ったらどの位になるのかしら、支那蕎麦(そば)に、てん丼(どん)に、ごもく寿司、盗んで、すいている腹を満たす事は、悪い事ではないように思えた。火のない長火鉢に、両手をかざしていると、その本の群立が、大きい目玉をグリグリさせて私を嗤(わら)っているように見える。障子の破れが奇妙な風の唄をうたっていた。ああ結局は、硝子(ガラス)一重さきのものだ。果てしもなく砂に溺(おぼ)れた私の食慾は、風のビンビン吹きまくる公園のベンチに転がるより仕ようがない。へへッとにかく、二々が四である。たった一枚のこっている、二銭銅貨が、すばらしく肥え太ったメン鶏にでも生れかわってくれないかぎり、私の胃のふは永遠の地獄だ。歩いて池(いけ)の端(はた)から千駄木町に行った。恭ちゃんの家に寄ってみる。がらんどうな家の片隅に、恭ちゃんも節ちゃんも凸坊も火鉢にかじりついていた。這(は)うような気持ちで御飯をよばれる。口一杯に御飯を頬ばっている時、節ちゃんが、何か一言優しい言葉をかけてくれたのでやみくもに涙が溢(あふ)れて困ってしまった。何だか、胸を突き上げる気持ちだった。口のなかの飯が、古綿のように拡がって、火のような涙が噴きこぼれてきた。塩っぱい涙をくくみながら、声を挙げて泣き笑いしていると、凸坊が驚いて、玩具(おもちゃ)をほおり出して一緒に泣き出してしまった。
「オイ! 凸坊! おばちゃんに負けないでもっともっと大きい声で泣け、遠慮なんかしないで、汽笛の様な大きな声で泣くんだよ。」

 恭ちゃんが凸坊の頭を優しく叩くと、まるで町を吹き流してくるじんたのクラリオネットみたいに、凸坊は節をつけて大声をあげて泣いた。私の胸にはおかしく温かいものが矢のように流れてくる。
「時ちゃんて娘どうして?」
「月初めに別れちゃったわ、どこへ行ったんだか、仕合せになったでしょう……」
「若いから貧乏に負けっちまうのよ。」

 私は赤い毛糸のシャツを二枚持っているから、一枚を節ちゃんに上げようと思った。節ちゃんの肌が寒そうだった。寝転んで、天井を睨(にら)んでいた恭ちゃんがこの頃つくった詩だと云って、それを大きい声で私に朗読してくれた。激しい飛び散るようなその詩を聞いていると、私一人の飢えるとか飢えないとかの問題が、まるでもう子供の一文菓子のようにロマンチックで、感傷的で、私の浅い食慾を嘲笑(ちょうしょう)しているようである。正(まさ)しく盗む事も不道徳ではないと思えた。帰って今夜はいいものを書こう。コウフンしながら、楽しみに私は夜風の冷たい町へ出て行った。
星がラッパを吹いている。

突きさしたら血が吹きこぼれそうだ

破れ靴のように捨てられた白いベンチの上に

私はまるで淫売婦のような姿態で

無数の星の冷たさを眺めている。

朝になれば

あんな光った星は消えてしまうじゃありませんか

誰でもいい!

思想も哲学もけいべつしてしまった、白いベンチの女の上に

臭い接吻でも浴びせて下さいな

一つの現実は

しばし飢えを満たしてくれますからね。


 家に帰る事が、むしょうに厭になってしまった。人間の生活とは、かくまでも侘しいものなのか! ベンチに下駄をぶらさげたまま横になっていると、星があんまりまぶしい。星は何をして生きているのだろう。

 星になった女! 星から生まれた女! 頭がはっきりする事は、風が筒抜けで馬鹿のように悲しくなるだけだ。夜更け、馬に追いかけられた夢を見た。隣室の唸り声頭痛し。

(二月×日)

 朝から雪混りの雨が降っている。寝床で当にならない原稿を書いていると、十子が遊びに来てくれた。
「私、どこへも行く所がなくなったのよ、二三日泊めてくれない?」

 羽根のもげたこおろぎのような彼女の姿態から、押花のような匂いをかいだ。
「二三日泊めることは安いことだけれど、お米も何もないのよ、それでよかったら何日でも泊っていらっしゃい。」
「カフエーのお客って、みんなジュウみたいね、鼻のさきばかり赤くしていて、真実なんかと云うものは爪の垢(あか)ほどもありやしないんだから……」
「カフエーのお客でなくったって、いま時、物々交換でなくちゃ……この世の中はせち辛いのよ。」
「あんなところで働くのは、体より神経の方が先に参っちゃうわね。」

 十子は、帯を昆布(こぶ)巻きのようにクルクル巻くと、それを枕のかわりにして、私の裾に足を延ばして蒲団へもぐり込んで来た。「ああ極楽! 極楽!」すべすべと柔かい十子のふくらはぎに私の足がさわると、彼女は込み上げて来る子供の様な笑い声で、何時(いつ)までもおかしそうに笑っていた。

 寒い夜気に当って、硝子(ガラス)窓が音を立てている。家を持たない女が、寝床を持たない女が、可愛らしい女が、安心して裾にさしあって寝ているのだ。私はたまらなくなって、飛びおきるなり火鉢にドンドン新聞をまるめて焚(た)いた。
「どう? 少しは暖かい?」
「大丈夫よ……」

 十子は蒲団を頬までずり上げると、静かに息を殺して泣き出していた。

 午前一時。二人で戸外へ出て支那そばを食べた。朝から何もたべていなかった私は、その支那そばがみんな火になってしまうようなおいしい気持ちがした。炬燵がなくても、二人で蒲団にはいっていると、平和な気持ちになってくる。いいものを書きましょう、努力しましょう……。

(二月×日)

 朝六枚ばかりの短篇を書きあげる。この六枚ばかりのものを持って、雑誌社をまわることは憂鬱になって来た。十子は食パンを一斤買って来てくれる。古新聞を焚いて茶をわかしていると、暗澹(あんたん)とした気持ちになってきて、一切合切が、うたかたの泡(あわ)より儚(はか)なく、めんどくさく思えて来る。
「私、つくづく家でも持って落ちつきたくなったのよ、風呂敷一ツさげて、あっちこっち、カフエーやバーをめがけて歩くのは心細くなって来たの……」
「私、家なんかちっとも持ちたくなんぞならないわ。このまま煙のように呆っと消えられるものなら、その方がずっといい。」
「つまらないわね。」
「いっそ、世界中の人間が、一日に二時間だけ働くようになればいいとおもうわ、あとは野や山に裸で踊れるじゃないの、生活とは? なんて、めんどくさい事考えなくてもいいのにね。」

 階下より部屋代をさいそくされる。カフエー時代に、私に安ものの、ヴァニティケースをくれた男があったけれど、あの男にでも金をかりようかしらと思う。
「あああの人? あの人ならいいわ、ゆみちゃんに参っていたんだから……」

 ハガキを出してみる、神様! こんな事が悪い事だとお叱り下さいますな。

(二月×日)

 思いあまって、夜、森川町の秋声(しゅうせい)氏のお宅に行ってみた。国へ帰るのだと嘘を言って金を借りるより仕方がない。自分の原稿なんか、頼む事はあんまりはずかしい気持ちがするし、レモンを輪切りにしたような電気ストーヴが赤く愉しく燃えていて、部屋の中の暖かさは、私の心と五百里位は離れている。犀(さい)と云う雑誌の同人だと云う、若い青年がはいって来た。名前を紹介されたけれども、秋声氏の声が小さかったので聞きとれなかった。金の話も結局駄目になって、後で這入って来た順子さんの華やかな笑い声に押されて、青年と私と秋声氏と順子さんと四人は戸外に散歩に出て行った。
「ね、先生! おしるこでも食べましょうよ。」

 順子さんが夜会巻き風な髪に手をかざして、秋声氏の細い肩に凭(もた)れて歩いている。私の心は鎖につながれた犬のような感じがしないでもなかったけれど、非常に腹がすいていたし、甘いものへの私の食慾はあさましく犬の感じにまでおちこんでしまっていたのだ。誰かに甘えて、私もおしる粉を一緒に食べる人をさがしたいものだ。四人は、燕楽軒(えんらくけん)の横の坂をおりて、梅園と云う待合のようなおしる粉屋へはいる。黒い卓子について、つまみのしその実を噛んでいると、ああ腹いっぱいに茶づけが食べてみたいと思った。しる粉屋を出ると、青年と別れて私達三人は、小石川の紅梅亭と云う寄席(よせ)に行った。賀々寿々(かがすず)の新内と、三好(さんこう)の酔っぱらいに一寸(ちょっと)涙ぐましくなっていい気持ちであった。少しばかりの金があれば、こんなにも楽しい思いが出来るのだ。まさか紳士と淑女に連れそって来た私が、お茶づけを腹いっぱい食いたい事にお伽噺(とぎばなし)のような空想を抱いていると、いったい誰が思っているだろう。順子さんは寄席も退屈したと云う。三人は細かな雨の降る肴町(さかなまち)の裏通りを歩いていた。
「ね、先生! 私こんどの女性の小説の題をなんてつけましょう? 考えて見て頂戴な。流れるままには少しチンプだから……」

 順子さんがこんな事を云った。団子坂のエビスで紅茶を呑んでいると、順子さんは、寒いから、何か寄鍋(よせなべ)でもつつきたいと云う。
「あなた、どこか美味いところ知ってらっしゃる?」

 秋声氏は子供のように目をしばしばさせて、そうねとおっしゃったきりだった。やがて、私は、お二人に別れた。二人に別れて、やがて小糠雨(こぬかあめ)を羽織に浴びながら、団子坂の文房具屋で原稿用紙を一帖(じょう)買ってかえる。――八銭也――体中の汚れた息を吐き出しながら、まるで尾を振る犬みたいな女だったと、私は私を大声あげて嘲笑(あざわら)ってやりたかった。帰ったら部屋の火鉢に、切り炭が弾(はじ)けていて、カレーの匂いがぐつぐつ泡(あわ)をふいていた。見知らない赤いメリンスの風呂敷包みが部屋の隅に転がっていて、新らしい蛇の目の傘がしっとりと濡れたまま縁側に立てかけてあった。隣室では又今夜も秋刀魚(さんま)だ。十ちゃんの羽織を壁にかけていると、十ちゃんが笑いながら梯子(はしご)段を上って来て、「お芳ちゃんがたずねて来てね、二人でいま風呂へ行ったのよ。」と云った。皆カフエーの友達である。この女はどこか、英(はなぶさ)百合子に似ていて、肌の美しい女だった。「十ちゃんも出てしまうし、面白くないから出て来ちゃったわ、二日程泊めて下さいね。」まるで綿でも詰っているかの様に大きな髷(まげ)なしの髪をセルロイドの櫛(くし)でときつけながら、「女ばかりもいいものね……時ちゃんにこの間逢ってよ。どうも思わしくないから、又カフエーへ逆もどりしようかって云ってたわ。」お芳さんが米も煮えているカレーも買ってくれたんだと云って、十子がかいがいしく茶ブ台に茶碗をそろえていた。久し振りに明るい気持ちになる。敷蒲団がせまいので、昼夜帯(ちゅうやおび)をそばに敷いて、私が真中、三人並んで寝る事にした。何だか三畳の部屋いっぱいが女の息ではち切れそうな思いだった。高いところからおっこちるような夢ばかり見るなり。

(二月×日)

 新聞社に原稿をあずけて帰って来ると、ハガキが一枚来ていた。今夜来ると云う、あの男からの速達だった。十ちゃんも芳ちゃんも仕事を見つけに行ったのか、部屋の中は火が消えたように淋しかった。あんな男に金を貸してくれなんて言えたものではないではないか……、十ちゃんに相談をしてみようかと思う……、妙に胸がさわがしくなってきた。あのヴァニティケースだってほてい屋の開業日だって云うので、物好きに買って来た何割引かのものなのだ。そうして、偶然に私の番だったので、くれたようなものであろう。路傍の人以外に何でもありはしないではないの。あんなハガキ一本で来ると云う速達をみて気持ち悪し。その人はもうかなりな年であったし、私は歯がズキズキする程胸さわがしくなってしまった。夜。――霰(あられ)まじりの雪が降っていた。女達はまだ帰って来ない。雪を浴びた林檎(りんご)の果実籠をさげて、ヴァニティケースをくれた男が来る。神様よ笑わないで下さい。私の本能なんてこんなに汚れたものではないのです。私は沈黙(だま)って両手を火鉢にかざしていた。「いい部屋にいるんだね。」この男は、まるで妾(めかけ)の家へでもやって来たかの如く、オーヴァをぬぐと、近々と顔をさしよせて、「そんなに困っているの……」と云った。
「十円位ならいつでも貸してあげるよ。」

 暗いガラス戸をかすめて雪が降っている。私の両手を、男は自分の大きい両手でパンのようにはさむと、アイマイな言葉で「ね!」と云った。私はたまらなく汚れた憎しみを感じると、涙を振りほどきながら、男に云ったのだ。
「私はそんなンじゃないんですよ。食えないから、お金だけ貸してほしかったのです。」

 隣室で、細君のクスクス笑う声が聞えている。
「誰です! 笑っているのは……笑いたければ私の前で笑って下さい! 蔭(かげ)でなぞ笑うのは止(よ)して下さい!」

 男の出て行った後、私は二階から果物籠を地球のように路地へほうり投げてしまった。

        *

(二月×日)

 私は私がボロカス女だと云うことに溺れないように用心をしていた。街を歩いている女を見ると、自分のみっともなさを感じないけれども、何日も食えないで、じっと隣室の長閑(のどか)な笑い声を聞いていると、私は消えてなくなりたくなるのだ。死んだって生きていたって不必要な人間なんだと考え出してくると、一切合切がグラグラして来て困ってしまう。つかみどころなき焦心、私の今朝の胃のふが、菜っぱ漬けだけのように、私の頭もスカスカとさみしい風が吹いている。極度の疲労困憊(こんぱい)は、さながら生きているミイラのようだ。古い新聞を十度も二十度も読みかえして、じっと畳に寝ころんでいる姿を、私はそっと遠くに離れて他人(ひと)ごとのように考えている。私の体はいびつ、私のこころもいびつなり。とりどころもない、燃えつくした肉体、私はもうどんなに食えなくなってもカフエーなんかに飛び込む事は止(や)めましょう。どこにも入れられない私の気持ちに、テラテラまがいものの艶ぶきをかけて笑いかける必要はないのだ。どこにも向きたくないのなら、まっすぐ向うを向いていて飢えればいいのだ。

 夜。

 利秋君が、富山の薬袋に米を一升持って来てくれる。この男には、何度も背負い投げを食わしたけれど、私はこんなアナキストは嫌いなのだ。「貴女が死ぬほど好きだ。」と言ってくれたところで、大和館でのように、朝も晩も朝も晩も遠くから私を監視している状態なんて、私の好かないところです。
「もう当分御飯を食べる事を休業しようかと思っていますのよ。」

 私は固く扉を閉ざしてかぎをかけた。少しばかり腹を満たしたいために、不用な渦を吸いたくなかった。頭の頂天まで飢えて来ると鉄板のように体がパンパン鳴っているようで、すばらしい手紙が書きたくなってくる。だが、私はやっぱり食べたいのです。ああ私が生きてゆくには、カフエーの女給とか女中だなんて! 十本の指から血がほとばしって出そうなこの肌寒さ……さあカクメイでも何でも持って来い。ジャンダークなんて吹っ飛ばしてしまおう。だがとにかく、何もかもからっぽなのだ。階下の人達が風呂へ行ってる隙に味噌汁を盗んで飲む。神よ嗤(わら)い給え。あざけり給えかし。

 あああさましや芙美子消えてしまえである。

 働いていても、自分には爪の垢ほども食べるたしにはならないなんて、今までの生活(くらし)むきは、細く長くだった。ああ一円の金で私は五日も六日も食べていった事があった。死ぬる事なんていつも大切に取っておいたのだけれど、明日にも自殺しようかと考えると、私はありったけのぼろ屑(くず)を出して部屋にばらまいてやった。生きている間の私の体臭、なつかしやいとしや。疲れてドロドロに汚れた黒いメリンスの衿(えり)に、垢と白粉(おしろい)が光っている。私は子供のように自分の匂いをかぎました。この着物で、むかし、私はあのひとに抱かれたのです。あの思い! この思い! 蒼(あお)ざめて血の上って来る孤独の女よ、むねを抱いた両手の中には、着物や帯や半衿のあらゆる汚れから来る体臭のモンタージュなり。

 私はこのすばらしいエクスタシイを前にして、誰に最後の嘲笑(ちょうしょう)さるべき手紙を書こうかと思った。Aにか、Bにか、Cにか……。シャックリの出る私の人生観を一寸匂わしてね。面白い興奮だと思う。「ね、こんなに、私は貴方を愛しているのに……」古新聞の上に散らかった広告の上には、一寸面白いサラダとビフテキのような名前がのっていた。三上於菟吉(おときち)なんて一寸エネルギッシュでビフテキみたいたが、これも面白い。吉田絃二郎(げんじろう)なんて、菜っぱと小鳥みたいなエトランゼ。私は二人へ同じ文章を書いてみようと思った。
海ぞいの黍畑(きびばたけ)

何の願いぞも

固き葉の颯々(さっさつ)と吹き荒れて

二十五の女は

真実命を切りたき思いなり

真実死にたき思いなり

伸びあがり伸び上りたる

玉蜀黍(とうもろこし)は儚(はか)なや実が一ツ


 ああこんな感傷を手紙の中にいれる事は止めましょう。イサベラ皇后様がコロンブスを見つけた興奮で、私のペン先はもうしどろもどろなのだ。ああソロモンの百合の花に、ドブドブと墨汁をなすりつけ給え!

(二月×日)

 朝、冷たい霧雨が降っていた。晩あたりは雪になるかも知れない。久しく煙草も吸わない。この美しい寝ざめを、ああ石油の匂いのプンプンする新らしい新聞が読みたいものだと思う。

 隣室のにぎやかな茶碗の音、我に遠きものあり。昨夜書いた二通の手紙、私は薄っすりとした笑いを心に感じると、何もかも、馬鹿くさい気がしてしまった。だけどまあ、人生なんてどっちを見ても薄情なものだ。真実めかして……ところで、問題は私の懐中に三銭の銅貨があることである。この三銭のお金にセンチメンタルを送ってもらうなんて事は、向う様に対してボウトクだけれど、十銭玉で七銭おつりを取るヨユウがあったら、私はこの二通の手紙を書かないで済んだかも知れないのだ――。日本綴りのボロボロになった「一茶句集」を出して読むなり。
きょうの日も棒ふり虫よ翌日(あす)も又

故郷は蠅(はえ)まで人をさしにけり

思うまじ見まじとすれど我家かな


 一茶は徹底した虚無主義者だ。だけど、いま私は飢えているのです。この本がいくらにでも売れないかしら。――寝たっきりなので、体をもち上げるとポキポキ骨が鳴ってくる。指で輪をこしらえて、私の首を巻いてみると、おいたわしや私の動脈は別に油をさしてやらないのに、ドクドク澄んだ音で血が流れを登っている。尊しや。

 二通の手紙。ドッチヲサキニダシマショウカ。何と他愛もない事なのだろう。吉田氏へ手紙を出す事にきめる。さて、音のしなくなった足をふみしめて街に出てみるなり。

 湯島天神に行ってみた。お爺さんが車をぶんぶんまわして、桃色の綿菓子をつくっていた。あるかなきかの桃色の泡が真鍮(しんちゅう)の桶(おけ)の中から湧(わ)いて出てくると、これが霧のような綿菓子になる。長い事草花を見ない私の眼には、まるでもう牡丹(ぼたん)のように写ります。「おじいさん! 二銭頂戴。」子供の頭ぐらいの大きい綿菓子を私はそっと抱いた。誰もいない石のベンチでこれを食べよう。綿菓子を頬ばって、思うまじ見まじとすれど我家かな、漠然とこんな孤独を愛する事もいいではありませんか。
「おじいさん、三銭下さいな。」

 あえなくも菜っぱと小鳥の感傷が、桃色の甘い綿菓子に変ってしまった。何と愛すべき感傷であろう。私の聯想(れんそう)は舌の上で涙っぽい砂糖に変ってしまった。しっかりと目をつぶって、切手をはらない吉田氏への手紙をポストに投げる。新潮社気付で送ったけれど、一笑されるかもしれない。三上氏への手紙は破る。とても華やかに暮している人に、こんな小さな現実なんて、消えてなくなるかも知れないもの――。身近にある人の事なんか妙にかすんでしまってくる。綿菓子のじいさんは、この寒空に雨が煙っているのに、何時までもガラガラと真鍮の車をまわしていた。ベンチに腰をかけて雨を灰のようにかぶって綿菓子をなめている女、その女の眼には遠い古里と、お母さんと男のことと、私のかんがえなんて、こんなくだらない郷愁しかないのだ!

(三月×日)

 昼夜帯と本を二三冊売って二円十銭つくる。本屋さんが家までついて来て云う事には、「お家さえ判っておりませば、又頂きに上ります。」どういたしまして、私の押入れの中はマニア作家の頭のように、がらくたばかりですよ。

 昼。

 浅草へ行った。浅草はちっぽけな都会心から離れた楽土です。そんなことをどっかの屋根裏作家が云いました。浅草は下品で鼻もちがならぬとね。どのお方も一カ月せっせと豚のように食っているものだから、頭ばかり厖大(ぼうだい)になって、シネマとシャアローとエロチックか、顔を鏡にてらしあわせてとっくりとよくお考えの程を……ところで浅草のシャアローは帽子を振って言いました。「地上のあらゆるものを食いあきたから、こんどは、空を食うつもりです。」浅草はいい処(ところ)だと思うなり。灯のつき始めた浅草の大提灯(おおぢょうちん)の下で、私の思った事は、この二円十銭で朗かな最後をつくしましょう。と云うことだ……何だか春めかしい宵なり、線香と女の匂いが薫じて来ます。雑沓(ざっとう)の流れ。――公園劇場の前に出てみると、水谷八重子の一座の旗の中に、別れたひとの青い旗が出ている。これは面白い。他人よりも上品にかぎの締ったあの男と私の間、すべてはお静かにお静かにと永遠に歳月が流れています。裏口からまわって、楽屋口の爺さんに尋ねてみるとつんけんした面がまえだった。廊下はいっぱい食物の皿小鉢で、お姫様も女学生も雑居のありさまなり。歪(ゆが)んだ硝子窓に立てかけた鏡が二ツ、何年か前の見覚えのある黒い鞄(かばん)が転がっていた。
「ヤア!」

 楽屋へ坐っていると、下男風な丁髷(ちょんまげ)をのっけた男がはいって来た。
「随分御無沙汰しています。」
「お元気でしたか。」

 浅草の真中の劇場の中で久し振りに、私は別れた男の声を聞いた。
「芝居でも見ていらっしゃい、一役すんだら私のは済むんだからお茶でも飲みましょう!」
「ええ、ありがとう、奥さんもいま一緒に何か演(や)っているんですか?」
「あああれ! 死にましたよ、肺炎で。」

 あんなにも憎しみを持って別れた女優の顔が、遠くに浮んで、私はしばらくは信じられなかった。この男はとても真面目な顔をして嘘をついたから……。
「嘘でしょう。」
「貴女に嘘なんかついたって仕様がないもの、前々から体は弱かったのね。」
「本当ですか? 気の毒な……顔をつくって下さいな、私初めて貴方の楽屋を見たの。楽屋の中って随分淋しいもんね。」

 男と話していると、背の高い若侍が、両刀をたばさんではいって来る。
「ああ紹介しましょう、この人は宮島資夫(すけお)君の弟さんでやっぱり宮島さんと云うひとです。」

 このひとはきっちりと肉のしまった、青年らしい肩つきをしていた。――随分、この男も年をとったとも思えるし、鞄の中から詩稿なぞを出しているのを見ると、この人が役者である事が場違いのような気がして仕方がない。体だって肥っているし、それに年をとって、若い渋味のない声だし、こんな若い人達ばかりの間に混って芝居なんかしているのが、気の毒に思えて仕方がなかった。私はこの男と田端に家を持った時、初めて肩上げをおろしたのを覚えている。「僕の芝居を見て下さい、そして昔のように又悪口たたかれるかな。」私は名刺をもらうと楽屋口から外へ出た。今さらあの男の芝居を見たところでしようがないし、だが、大きな雨がひとしずく私の頬にかかってきたので、あわてて小屋へはいるなり。舞台はバテレン信徒を押し込めてある牢屋(ろうや)の場面で、八重子の華魁(おいらん)や、牢番や、侍が並んでいる。桜がランマンと舞台に咲いている。そして舞台には小鳥が鳴いていた。長い愚にもつかない芝居である。私は舞台を眺めながら色んな事を考えていた。「バテレンよゼウスよ!」あのひとは一寸声が大きすぎる。私は耳をふさいであの男の牢屋の中の話を聞いていた。八重子の美しい華魁が牢の外に出ると、観客は湧き立って拍手を送っていた。美しい姿ではあるけれども、何か影のない姿である。私は退屈して外へ出てしまった。あのひとは「お茶でも一緒に飲みましょう。」と言ったけれど、縁遠いものをいつまでも見ていなくてはならないなんて、渦は一切吸わぬ事だ――。薬屋をみつけては、小さいカルモチンの箱を一ツずつ買う。死ねないのならば、それでもいいし、少し長く眠れるなんて、幸福な逃げ道ではないか、すべては直線に朗かに。

(三月×日)

 五色のテープがヒラヒラ舞っていた。

 どこかで爆竹の弾ける音がすさまじく耳のそばでしている。飛行機かしら、モータボートかしら……私の錯覚から、白い泡を飛ばしている海の風景が空の上に見えてきました。銀色の燈台が限の底に胡麻粒(ごまつぶ)程に見えたかと思うと、こんどはまるで象の腹のようなものが眼の中じゅうに拡がって、私はずしんずしん地の底に体をゆりさげられているようだった。十子が私の裸の胸に手拭を当ててくれている。私はどうしても死にたくないと思った。眼をあけると、瞼(まぶた)に弾力がなくて、扇子をたたむようにくぼんで行く。私は死にたくない……。「若布(わかめ)とかまぼこのてんぷらと、お金が五円きていますよ。」私は瞼を締める事が出来なかった。耳の中へゴブゴブ熱い涙がはいって行く。枕元で、鋏(はさみ)をつかいながら十子が、母さんのところから送って来た小包をあけてくれた。お母さんが五円送ってくれるなんて、よっぽどの事だと思う。階下の叔母さんがかゆをたいて持って来てくれた。気持ちがよくなったら、この五円を階下へあげて、下谷の家を出ようと思う。
「洗濯屋の二階だけれどいいところよ、引越さない?」

 私は生きていたい。死にそくないの私を、いたわってくれるのは男や友人なんかではなかった。この十子一人だけが、私の額をなでていてくれている。私は生きたい。そして、何でもいいから生きて働く事が本当の事だと思う――。





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