萩原朔太郎 青猫



憂鬱なる櫻



感覺的憂鬱性! それは櫻のはなの酢えた匂ひのやうに、白く埃つぽい外光の中で、いつもなやましい光を感じさせる。


 憂鬱なる花見

憂鬱なる櫻が遠くからにほひはじめた

櫻の枝はいちめんにひろがつてゐる

日光はきらきらとしてはなはだまぶしい

私は密閉した家の内部に住み

日毎に野菜をたべ 魚やあひるの卵をたべる

その卵や肉はくさりはじめた

遠く櫻のはなは酢え

櫻のはなの酢えた匂ひはうつたうしい

いまひとびとは帽子をかぶつて外光の下を歩きにでる

さうして日光が遠くにかがやいてゐる

けれども私はこの暗い室内にひとりで坐つて

思ひをはるかなる櫻のはなの下によせ

野山にたはむれる青春の男女によせる

ああいかに幸福なる人生がそこにあるか

なんといふよろこびが輝やいてゐることか

いちめんに枝をひろげた櫻の花の下で

わかい娘たちは踊ををどる

娘たちの白くみがいた踊の手足

しなやかにおよげる衣裝

ああ そこにもここにも どんなにうつくしい曲線がもつれあつてゐることか

花見のうたごゑは横笛のやうにのどかで

かぎりなき憂鬱のひびきをもつてきこえる。

いま私の心は涙をもてぬぐはれ

閉ぢこめたる窓のほとりに力なくすすりなく

ああこのひとつのまづしき心はなにものの生命(いのち)をもとめ

なにものの影をみつめて泣いてゐるのか

ただいちめんに酢えくされたる美しい世界のはてで

遠く花見の憂鬱なる横笛のひびきをきく。


 夢にみる空家の庭の祕密

その空家の庭に生えこむものは松の木の類

びはの木 桃の木 まきの木 さざんか さくらの類

さかんな樹木 あたりにひろがる樹木の枝

またそのむらがる枝の葉かげに ぞくぞくと繁茂するところの植物

およそ しだ わらび ぜんまい もうせんごけの類

地べたいちめんに重なりあつて這ひまはる

それら青いものの生命(いのち)

それら青いもののさかんな生活

その空家の庭はいつも植物の日影になつて薄暗い

ただかすかにながれるものは一筋の小川のみづ

夜も晝もさよさよと悲しくひくくながれる水の音

またじめじめとした垣根のあたり

なめくぢ へび かへる とかげ類のぬたぬたとした氣味わるいすがたをみる。

さうしてこの幽邃な世界のうへに

夜(よる)は青じろい月の光がてらしてゐる

月の光は前栽の植込からしつとりとながれこむ。

あはれにしめやかな この深夜のふけてゆく思ひに心をかたむけ

わたしの心は垣根にもたれて横笛を吹きすさぶ

ああ このいろいろのもののかくされた祕密の生活

かぎりなく美しい影と 不思議なすがたの重なりあふところの世界

月光の中にうかびいづる羊齒(しだ) わらび 松の木の枝

なめくぢ へび とかげ類の無氣味な生活

ああ わたしの夢によくみる このひと住まぬ空家の庭の祕密と

いつもその謎のとけやらぬおもむき深き幽邃のなつかしさよ。


 黒い風琴

おるがんをお彈きなさい 女のひとよ

あなたは黒い着物をきて

おるがんの前に坐りなさい

あなたの指はおるがんを這ふのです

かるく やさしく しめやかに 雪のふつてゐる音のやうに

おるがんをお彈きなさい 女のひとよ。

だれがそこで唱つてゐるの

だれがそこでしんみりと聽いてゐるの

ああこのまつ黒な憂鬱の闇のなかで

べつたりと壁にすひついて

おそろしい巨大の風琴を彈くのはだれですか

宗教のはげしい感情 そのふるへ

けいれんするぱいぷおるがん れくれえむ!

お祈りなさい 病氣のひとよ

おそろしいことはない おそろしい時間はないのです

お彈きなさい おるがんを

やさしく とうえんに しめやかに

大雪のふりつむときの松葉のやうに

あかるい光彩をなげかけてお彈きなさい

お彈きなさい おるがんを

おるがんをお彈きなさい 女のひとよ。

ああ まつくろのながい着物をきて

しぜんに感情のしづまるまで

あなたはおほきな黒い風琴をお彈きなさい

おそろしい暗闇の壁の中で

あなたは熱心に身をなげかける

あなた!

ああ なんといふはげしく陰鬱なる感情のけいれんよ。


 憂鬱の川邊

川邊で鳴つてゐる

蘆や葦のさやさやといふ音はさびしい

しぜんに生えてる

するどい ちひさな植物 草本(さうほん)の莖の類はさびしい

私は眼を閉ぢて

なにかの草の根を噛まうとする

なにかの草の汁をすふために 憂愁の苦い汁をすふために

げにそこにはなにごとの希望もない

生活はただ無意味な憂鬱の連なりだ

梅雨だ

じめじめとした雨の點滴のやうなものだ

しかし ああ また雨! 雨! 雨!

そこには生える不思議の草本

あまたの悲しい羽蟲の類

それは憂鬱に這ひまはる 岸邊にそうて這ひまはる

じめじめとした川の岸邊を行くものは

ああこの光るいのちの葬列か

光る精神の病靈か

物みなしぜんに腐れゆく岸邊の草むら

雨に光る木材質のはげしき匂ひ。


 佛の見たる幻想の世界

花やかな月夜である

しんめんたる常盤木の重なりあふところで

ひきさりまたよせかへす美しい浪をみるところで

かのなつかしい宗教の道はひらかれ

かのあやしげなる聖者の夢はむすばれる。

げにそのひとの心をながれるひとつの愛憐

そのひとの瞳孔(ひとみ)にうつる不死の幻想

あかるくてらされ

またさびしく消えさりゆく夢想の幸福とその怪しげなるかげかたち

ああ そのひとについて思ふことは

そのひとの見たる幻想の國をかんずることは

どんなにさびしい生活の日暮れを色づくことぞ

いま疲れてながく孤獨の椅子に眠るとき

わたしの家の窓にも月かげさし

月は花やかに空にのぼつてゐる。

佛よ

わたしは愛する おんみの見たる幻想の蓮の花瓣を

青ざめたるいのちに咲ける病熱の花の香氣を

佛よ

あまりに花やかにして孤獨なる。


 鷄

しののめきたるまへ

家家の戸の外で鳴いてゐるのは鷄(にはとり)です

聲をばながくふるはして

さむしい田舍の自然からよびあげる母の聲です

とをてくう、とをるもう、とをるもう。

朝のつめたい臥床(ふしど)の中で

私のたましひは羽ばたきをする

この雨戸の隙間からみれば

よもの景色はあかるくかがやいてゐるやうです

されどもしののめきたるまへ

私の臥床にしのびこむひとつの憂愁

けぶれる木木の梢をこえ

遠い田舍の自然からよびあげる鷄(とり)のこゑです

とをてくう、とをるもう、とをるもう。

戀びとよ

戀びとよ

有明のつめたい障子のかげに

私はかぐ ほのかなる菊のにほひを

病みたる心靈のにほひのやうに

かすかにくされゆく白菊のはなのにほひを

戀びとよ

戀びとよ。

しののめきたるまへ

私の心は墓場のかげをさまよひあるく

ああ なにものか私をよぶ苦しきひとつの焦燥

このうすい紅(べに)いろの空氣にはたへられない

戀びとよ

母上よ

早くきてともしびの光を消してよ

私はきく 遠い地角のはてを吹く大風(たいふう)のひびきを

とをてくう、とをるもう、とをるもう。





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