萩原朔太郎 青猫



 さびしい青猫



ここには一疋の青猫が居る。さうして柳は風にふかれ、墓場には月が登つてゐる。


 みじめな街燈

雨のひどくふつてる中で

道路の街燈はびしよびしよぬれ

やくざな建築は坂に傾斜し へしつぶされて歪んでゐる

はうはうぼうぼうとした烟霧の中を

あるひとの運命は白くさまよふ

そのひとは大外套に身をくるんで

まづしく みすぼらしい鳶(とんび)のやうだ

とある建築の窓に生えて

風雨にふるへる ずつくりぬれた青樹をながめる

その青樹の葉つぱがかれを手招き

かなしい雨の景色の中で

厭やらしく 靈魂(たましひ)のぞつとするものを感じさせた。

さうしてびしよびしよに濡れてしまつた。

影も からだも 生活も 悲哀でびしよびしよに濡れてしまつた。


 恐ろしい山

恐ろしい山の相貌(すがた)をみた

まつ暗な夜空にけむりを吹きあげてゐる

おほきな蜘蛛のやうな眼(め)である。

赤くちろちろと舌をだして

うみざりがにのやうに平つくばつてる。

手足をひろくのばして麓いちめんに這ひつた

さびしくおそろしい闇夜である

がうがうといふ風が草を吹いてる 遠くの空で吹いてる。

自然はひつそりと息をひそめ

しだいにふしぎな 大きな山のかたちが襲つてくる。

すぐ近いところにそびえ

怪異な相貌(すがた)が食はうとする。


 題のない歌

南洋の日にやけた裸か女のやうに

夏草の茂つてゐる波止場の向うへ ふしぎな赤錆びた汽船がはひつてきた

ふはふはとした雲が白くたちのぼつて

船員のすふ煙草のけむりがさびしがつてる。

わたしは鶉のやうに羽ばたきながら

さうして丈(たけ)の高い野茨の上を飛びまはつた

ああ 雲よ 船よ どこに彼女は航海の碇をすてたか

ふしぎな情熱になやみながら

わたしは沈默の墓地をたづねあるいた

それはこの草叢(くさむら)の風に吹かれてゐる

しづかに 錆びついた 戀愛鳥の木乃伊(みいら)であつた。


 艶めかしい墓場

風は柳を吹いてゐます

どこにこんな薄暗い墓地の景色があるのだらう。

なめくぢは垣根を這ひあがり

みはらしの方から生(なま)あつたかい潮みづがにほつてくる。

どうして貴女(あなた)はここに來たの

やさしい 青ざめた 草のやうにふしぎな影よ

貴女は貝でもない 雉でもない 猫でもない

さうしてさびしげなる亡靈よ

貴女のさまよふからだの影から

まづしい漁村の裏通りで 魚(さかな)のくさつた臭ひがする

その腸(はらわた)は日にとけてどろどろと生臭く

かなしく せつなく ほんとにたへがたい哀傷のにほひである。

ああ この春夜のやうになまぬるく

べにいろのあでやかな着物をきてさまよふひとよ

妹のやうにやさしいひとよ

それは墓場の月でもない 燐でもない 影でもない 眞理でもない

さうしてただなんといふ悲しさだらう。

かうして私の生命(いのち)や肉體(からだ)はくさつてゆき

「虚無」のおぼろげな景色のかげで

艶めかしくも ねばねばとしなだれて居るのですよ。


 くづれる肉體

蝙蝠のむらがつてゐる野原の中で

わたしはくづれてゆく肉體の柱(はしら)をながめた

それは宵闇にさびしくふるへて

影にそよぐ死(しに)びと草(ぐさ)のやうになまぐさく

ぞろぞろと蛆蟲の這ふ腐肉のやうに醜くかつた。

ああこの影を曳く景色のなかで

わたしの靈魂はむずがゆい恐怖をつかむ

それは港からきた船のやうに 遠く亡靈のゐる島島を渡つてきた

それは風でもない 雨でもない

そのすべては愛欲のなやみにまつはる暗い恐れだ

さうして蛇つかひの吹く鈍い音色に

わたしのくづれてゆく影がさびしく泣いた。


 鴉毛の婦人

やさしい鴉毛の婦人よ

わたしの家根裏の部屋にしのんできて

麝香のなまめかしい匂ひをみたす

貴女(あなた)はふしぎな夜鳥

木製の椅子にさびしくとまつて

その嘴(くちばし)は心臟(こころ)をついばみ 瞳孔(ひとみ)はしづかな涙にあふれる

夜鳥よ

このせつない戀情はどこからくるか

あなたの憂鬱なる衣裳をぬいで はや夜露の風に飛びされ。


 緑色の笛

この黄昏の野原のなかを

耳のながい象たちがぞろりぞろりと歩いてゐる。

黄色い夕月が風にゆらいで

あちこちに帽子のやうな草つぱがひらひらする。

さびしいですか お孃さん!

ここに小さな笛があつて その音色は澄んだ緑です。

やさしく歌口(うたぐち)をお吹きなさい

とうめいなる空にふるへて

あなたの蜃氣樓をよびよせなさい

思慕のはるかな海の方から

ひとつの幻像がしだいにちかづいてくるやうだ。

それはくびのない猫のやうで 墓場の草影にふらふらする

いつそこんな悲しい暮景の中で 私は死んでしまひたいのです。お孃さん!


 寄生蟹のうた

潮みづのつめたくながれて

貝の齒はいたみに齲ばみ酢のやうに溶けてしまつた

ああここにはもはや友だちもない 戀もない

渚にぬれて亡靈のやうな草を見てゐる

その草の根はけむりのなかに白くかすんで

春夜のなまぬるい戀びとの吐息のやうです。

おぼろにみえる沖の方から

船人はふしぎな航海の歌をうたつて 拍子も高く楫の音がきこえてくる。

あやしくもここの磯邊にむらがつて

むらむらとうづ高くもりあがり また影のやうに這ひまはる

それは雲のやうなひとつの心像 さびしい寄生蟹(やどかり)の幽靈ですよ。


 かなしい囚人

かれらは青ざめたしやつぽをかぶり

うすぐらい尻尾(しつぽ)の先を曳きずつて歩きまはる

そしてみよ そいつの陰鬱なしやべるが泥土(ねばつち)を掘るではないか。

ああ草の根株は掘つくりかへされ

どこもかしこも曇暗な日ざしがかげつてゐる。

なんといふ退屈な人生だらう

ふしぎな葬式のやうに列をつくつて 大きな建物の影へ出這入りする

この幽靈のやうにさびしい影だ

硝子のぴかぴかするかなしい野外で

どれも青ざめた紙のしやつぽをかぶり

ぞろぞろと蛇の卵のやうにつながつてくる さびしい囚人の群ではないか。


 猫柳

つめたく青ざめた顏のうへに

け高くにほふ優美の月をうかべてゐます

月のはづかしい面影

やさしい言葉であなたの死骸に話しかける。

ああ 露しげく

しつとりとぬれた猫柳 夜風のなかに動いてゐます。

ここをさまよひきたりて

うれしい情(なさけ)のかずかずを歌ひつくす

そは人の知らないさびしい情慾 さうして情慾です。

ながれるごとき涙にぬれ

私はくちびるに血潮をぬる

ああ なにといふ戀しさなるぞ

この青ざめた死靈にすがりつきてもてあそぶ

夜風にふかれ

猫柳のかげを暗くさまよふよ そは墓場のやさしい歌ごゑです。


 憂鬱な風景

猫のやうに憂鬱な景色である

さびしい風船はまつすぐに昇つてゆき

りんねるを着た人物がちらちらと居るではないか。

もうとつくにながい間(あひだ)

だれもこんな波止場を思つてみやしない。

さうして荷揚げ機械のばうぜんとしてゐる海角から

いろいろさまざまな生物意識が消えて行つた。

そのうへ帆船には綿が積まれて

それが沖の方でむくむくと考へこんでゐるではないか。

なんと言ひやうもない

身の毛もよだち ぞつとするやうな思ひ出ばかりだ。

ああ神よ もうとりかへすすべもない

さうしてこんなむしばんだ囘想から いつも幼な兒のやうに泣いて居よう。


 野鼠

どこに私らの幸福があるのだらう

泥土(でいど)の砂を掘れば掘るほど

悲しみはいよいよふかく湧いてくるではないか。

春は幔幕のかげにゆらゆらとして

遠く俥にゆすられながら行つてしまつた。

どこに私らの戀人があるのだらう

ばうばうとした野原に立つて口笛を吹いてみても

もう永遠に空想の娘らは來やしない。

なみだによごれためるとんのづぼんをはいて

私は日傭人(ひようとり)のやうに歩いてゐる

ああもう希望もない 名譽もない 未來もない。

さうしてとりかへしのつかない悔恨ばかりが

野鼠のやうに走つて行つた。


 五月の死びと

この生(いき)づくりにされたからだは

きれいに しめやかに なまめかしくも彩色されてる

その胸も その脣(くち)も その顏も その腕も

ああ みなどこもしつとりと膏油や刷毛で塗られてゐる。

やさしい五月の死びとよ

わたしは緑金の蛇のやうにのたうちながら

ねばりけのあるものを感觸し

さうして「死」の絨毯に肌身をこすりねりつけた。


 輪と轉生

地獄の鬼がまはす車のやうに

冬の日はごろごろとさびしくまはつて

輪(りんね)の小鳥は砂原のかげに死んでしまつた。

ああ こんな陰鬱な季節がつづくあひだ

私は幻の駱駝にのつて

ふらふらとかなしげな旅行にでようとする。

どこにこんな荒寥の地方があるのだらう

年をとつた乞食の群は

いくたりとなく隊列のあとをすぎさつてゆき

禿鷹の屍肉にむらがるやうに

きたない小蟲が燒地(やけち)の穢土(ゑど)にむらがつてゐる。

なんといふいたましい風物だらう

どこにもくびのながい花が咲いて

それがゆらゆらと動いてゐるのだ

考へることもない かうして暮れ方(がた)がちかづくのだらう

戀や孤獨やの一生から

はりあひのない心像も消えてしまつて ほのかに幽靈のやうに見えるばかりだ。

どこを風見の鷄(とり)が見てゐるのか

冬の日のごろごろとる瘠地の丘で もろこしの葉が吹かれてゐる。


 さびしい來歴

むくむくと肥えふとつて

白くくびれてゐるふしぎな球形の幻像よ

それは耳もない 顏もない つるつるとして空にのぼる野蔦のやうだ

夏雲よ なんたるとりとめのない寂しさだらう

どこにこれといふ信仰もなく たよりに思ふ戀人もありはしない。

わたしは駱駝のやうによろめきながら

椰子の實の日にやけた核(たね)を噛みくだいた。

ああ こんな乞食みたいな生活から

もうなにもかもなくしてしまつた

たうとう風の死んでる野道へきて

もろこしの葉うらにからびてしまつた。

なんといふさびしい自分の來歴だらう。





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