夏目漱石 思い出す事など

十三


 その日は東京から杉本さんが診察に来る手筈(てはず)になっていた。雪鳥君が大仁(おおひと)まで迎(むかえ)に出たのは何時頃か覚えていないが、山の中を照らす日がまだ山の下に隠れない午過(ひるすぎ)であったと思う。その山の中を照らす日を、床を離れる事のできない、また室(へや)を出る事の叶(かな)わない余は、朝から晩までほとんど仰ぎ見た試しがないのだから、こう云うのも実は廂(ひさし)の先に余る空の端(はし)だけを目当(めあて)に想像した刻限(こくげん)である。――余は修善寺(しゅぜんじ)に二月(ふたつき)と五日(いつか)ほど滞在しながら、どちらが東で、どちらが西か、どれが伊東へ越す山で、どれが下田へ出る街道か、まるで知らずに帰ったのである。
 杉本さんは予定のごとく宿へ着いた。余はその少し前に、妻(さい)の手から吸飲(すいのみ)を受け取って、細長い硝子(ガラス)の口から生温(なまぬる)い牛乳を一合ほど飲んだ。血が出てから、安静状態と流動食事とは固く守らなければならない掟(おきて)のようになっていたからである。その上できるだけ病人に営養を与えて、体力の回復の方から、潰瘍(かいよう)の出血を抑えつけるという療治法を受けつつあった際だから、否応(いやおう)なしに飲んだ。実を云うとこの日は朝から食慾が萌(きざ)さなかったので、吸飲の中に、動く事のできぬほど濁った白い色の漲(みな)ぎる様を見せられた時は、すぐと重苦しく舌の先に溜(たま)るしつ濃(こ)い乳の味を予想して、手に取らない前からすでに反感を起した。強いられた時、余はやむなく細長く反(そ)り返(かえ)った硝子の管(くだ)を傾けて、湯とも水とも捌(さば)けない液(しる)を、舌の上に辷(すべ)らせようと試みた。それが流れて咽喉(のど)を下(くだ)る後(あと)には、潔(いさぎ)よからぬ粘(ねば)り強い香(か)が妄(みだ)りに残った。半分は口直しのつもりであとから氷(アイス)クリームを一杯取って貰った。ところがいつもの爽(さわや)かさに引き更えて、咽喉(のど)を越すときいったん溶(と)けたものが、胃の中で再び固まったように妙に落ちつきが悪かった。それから二時間ほどして余は杉本さんの診察を受けたのである。
 診察の結果として意外にもさほど悪くないと云う報告を得た時、平生森成さんから病気の質(たち)が面白くないと聞いていた雪鳥君は、喜びの余りすぐ社へ向けて好いという電報を打ってしまった。忘るべからざる八百グラムの吐血は、この吉報を逆襲すべく、診察後一時間後の暮方に、突如として起ったのである。
 かく多量の血を一度に吐いた余は、その暮方の光景から、日のない真夜中を通して、明る日の天明に至る有様を巨細(こさい)残らず記憶している気でいた。程経(ほどへ)て妻(さい)の心覚(こころおぼえ)につけた日記を読んで見て、その中に、ノウヒンケツ(狼狽(ろうばい)した妻は脳貧血をかくのごとく書いている)を起し人事不省に陥(おちい)るとあるのに気がついた時、余は妻は枕辺(まくらべ)に呼んで、当時の模様を委(くわ)しく聞く事ができた。徹頭徹尾明暸(めいりょう)な意識を有して注射を受けたとのみ考えていた余は、実に三十分の長い間死んでいたのであった。
 夕暮間近く、にわかに胸苦しいある物のために襲われた余は、悶(もだ)えたさの余りに、せっかく親切に床の傍(わき)に坐(すわ)っていてくれた妻に、暑苦しくていけないから、もう少しそっちへ退(ど)いてくれと邪慳(じゃけん)に命令した。それでも堪(た)えられなかったので、安静に身を横(よこた)うべき医師からの注意に背(そむ)いて、仰向(あおむけ)の位地(いち)から右を下に寝返ろうと試みた。余の記憶に上(のぼ)らない人事不省の状態は、寝ながら向(むき)を換えにかかったこの努力に伴う脳貧血の結果だと云う。
 余はその時さっと迸(ほとば)しる血潮を、驚ろいて余に寄り添おうとした妻の浴衣(ゆかた)に、べっとり吐(は)きかけたそうである。雪鳥君は声を顫(ふる)わしながら、奥さんしっかりしなくてはいけませんと云ったそうである。社へ電報をかけるのに、手が戦(わなな)いて字が書けなかったそうである。医師は追っかけ追っかけ注射を試みたそうである。後から森成さんにその数を聞いたら、十六筒(とう)までは覚えていますと答えた。


淋漓絳血腹中文。 嘔照黄昏漾綺紋。
入夜空疑身是骨。 臥牀如石夢寒雲。







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