夏目漱石 思い出す事など

十六


 安らかな夜はしだいに明けた。室(へや)を包む影法師が床(とこ)を離れて遠退(とおの)くに従って、余はまた常のごとく枕辺(まくらべ)に寄る人々の顔を見る事ができた。その顔は常の顔であった。そうして余の心もまた常の心であった。病(やまい)のどこにあるかを知り得ぬほどに落ちついた身を床の上に横(よこた)えて、少しだに動く必要をもたぬ余に、死のなお近く徘徊(はいかい)していようとは全く思い設けぬところであった。眼を開けた時余は昨夕(ゆうべ)の騒ぎを(たとい忘れないまでも)ただ過去の夢のごとく遠くに眺めた。そうして死は明け渡る夜と共に立(た)ち退(の)いたのだろうぐらいの度胸でも据(すわ)ったものと見えて、何らの掛念(けねん)もない気分を、障子(しょうじ)から射し込む朝日の光に、心地(ここち)よく曝(さら)していた。実は無知な余を詐(いつ)わり終(おお)せた死は、いつの間にか余の血管に潜(もぐ)り込んで、乏(とも)しい血を追い廻しつつ流れていたのだそうである。「容体(ようだい)を聞くと、危険なれどごく安静にしていれば持ち直すかも知れぬという」とは、妻(さい)のこの日の朝の部に書き込んだ日記の一句である。余が夜明まで生きようとは、誰も期待していなかったのだとは後から聞いて始めて知った。
 余は今でも白い金盥(かなだらい)の底に吐き出された血の色と恰好(かっこう)とを、ありありとわが眼の前に思い浮べる事ができる。ましてその当分は寒天(かんてん)のように固まりかけた腥(なまぐさ)いものが常に眼先に散らついていた。そうして吾(わ)が想像に映る血の分量と、それに起因した衰弱とを比較しては、どうしてあれだけの出血が、こう劇(はげ)しく身体(からだ)に応(こた)えるのだろうといつでも不審に堪(た)えなかった。人間は脈の中の血を半分失うと死に、三分の一失うと昏睡(こんすい)するものだと聞いて、それに吾(われ)とも知らず妻(さい)の肩に吐きかけた生血(なまち)の容積(かさ)を想像の天秤(てんびん)に盛って、命の向う側に重(おも)りとして付け加えた時ですら、余はこれほど無理な工面(くめん)をして生き延びたのだとは思えなかった。
 杉本さんが東京へ帰るや否や、――杉本さんはその朝すぐ東京へ帰った。もっとおりたいが忙がしいから失礼します、その代り手当は充分するつもりでありますと云って、新らしい襟(えり)と襟飾(えりかざり)を着け易(か)えて、余の枕辺に坐ったとき、余は昨夕(ゆうべ)夜半(よなか)に、裄丈(ゆきたけ)の足りない宿の浴衣(ゆかた)を着たまま、そっと障子(しょうじ)を開けながら、どうかと一言(ひとこと)森成さんに余の様子を聞いていた彼人(かのひと)の様子を思い出した。余の記憶にはただそれだけしかとまらなかった杉本さんが、出がけに妻を顧みて、もう一遍吐血があれば、どうしても回復の見込はないものと御諦(おあき)らめなさらなければいけませんと注意を与えたそうである。実は昨夕にもこの恐るべき再度の吐血が来そうなので、わざわざモルヒネまで注射してそれを防ぎ止めたのだとは、後(のち)になってその顛末(てんまつ)を審(つまび)らかにした余に取って、全く思いがけない報知であった。あれほど胸の中(うち)は落ちついていたものをと云いたいくらいに、余は平常(へいぜい)の心持で苦痛なくその夜を明したのである。――話がつい外(そ)れてしまった。
 杉本さんは東京へ帰るや否や、自分で電話を看護婦会へかけて、看護婦を二人すぐ余の出先へ送るように頼んでくれた。その時、早く行かんと間に合わないかも知れないからと電話口で急(せ)いたので、看護婦は汽車で走る途々(みちみち)も、もういけない頃ではなかろうかと、絶えず余の生命に疑いを挟(さしは)さんでいた。せっかく行っても、行き着いて見たら、遅過ぎて間に合わなかったと云うような事があってはつまらないと語り合って来た。――これも回復期に向いた頃、病牀(びょうしょう)の徒然(つれづれ)に看護婦と世間話をしたついでに、彼等の口からじかに聞いたたよりである。
 かくすべての人に十の九まで見放された真中(まなか)に、何事も知らぬ余は、曠野(こうや)に捨てられた赤子(あかご)のごとく、ぽかんとしていた。苦痛なき生は余に向って何らの煩悶(はんもん)をも与えなかった。余は寝ながらただ苦痛なく生きておるという一事実を認めるだけであった。そうしてこの事実が、はからざる病(やまい)のために、周囲の人の丁重(ていちょう)な保護を受けて、健康な時に比べると、一歩浮世の風の当(あた)り悪(にく)い安全な地に移って来たように感じた。実際余と余の妻とは、生存競争の辛(から)い空気が、直(じか)に通わない山の底に住んでいたのである。


露けさの里にて静(しずか)なる病(やまい)







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