夏目漱石 思い出す事など

十九


 余はこの心持をどう形容すべきかに迷う。
 力を商(あきな)いにする相撲(すもう)が、四つに組んで、かっきり合った時、土俵の真中に立つ彼等の姿は、存外静かに落ちついている。けれどもその腹は一分と経(た)たないうちに、恐るべき波を上下(じょうげ)に描かなければやまない。そうして熱そうな汗の球が幾条(いくすじ)となく背中を流れ出す。
 最も安全に見える彼等の姿勢は、この波とこの汗の辛うじて齎(もた)らす努力の結果である。静かなのは相剋(あいこく)する血と骨の、わずかに平均を得た象徴である。これを互殺(ごさつ)の和(わ)という。二三十秒の現状を維持するに、彼等がどれほどの気魄(きはく)を消耗(しょうこう)せねばならぬかを思うとき、看(み)る人は始めて残酷の感を起すだろう。
 自活の計(はかりごと)に追われる動物として、生を営む一点から見た人間は、まさにこの相撲のごとく苦しいものである。吾(われ)らは平和なる家庭の主人として、少くとも衣食の満足を、吾らと吾らの妻子(さいし)とに与えんがために、この相撲に等しいほどの緊張に甘んじて、日々(にちにち)自己と世間との間に、互殺の平和を見出(みいだ)そうと力(つと)めつつある。戸外(そと)に出て笑うわが顔を鏡に映すならば、そうしてその笑いの中(うち)に殺伐(さつばつ)の気に充(み)ちた我を見出すならば、さらにこの笑いに伴う恐ろしき腹の波と、背の汗を想像するならば、最後にわが必死の努力の、回向院(えこういん)のそれのように、一分足(いっぷんた)らずで引分を期する望みもなく、命のあらん限は一生続かなければならないという苦しい事実に想(おも)い至るならば、我等は神経衰弱に陥(おちい)るべき極度に、わが精力を消耗するために、日に生き月に生きつつあるとまで言いたくなる。
 かく単に自活自営の立場に立って見渡した世の中はことごとく敵である。自然は公平で冷酷な敵である。社会は不正で人情のある敵である。もし彼対我の観を極端に引延ばすならば、朋友(ほうゆう)もある意味において敵であるし、妻子もある意味において敵である。そう思う自分さえ日に何度となく自分の敵になりつつある。疲れてもやめえぬ戦いを持続しながら、然(けいぜん)として独(ひと)りその間に老ゆるものは、見惨(みじめ)と評するよりほかに評しようがない。
 古臭い愚痴(ぐち)を繰返すなという声がしきりに聞えた。今でも聞える。それを聞き捨てにして、古臭い愚痴を繰返すのは、しみじみそう感じたからばかりではない、しみじみそう感じた心持を、急に病気が来て顛覆(くつがえ)したからである。
 血を吐いた余は土俵の上に仆(たお)れた相撲と同じ事であった。自活のために戦う勇気は無論、戦わねば死ぬという意識さえ持たなかった。余はただ仰向(あおむ)けに寝て、わずかな呼吸(いき)をあえてしながら、怖(こわ)い世間を遠くに見た。病気が床の周囲(ぐるり)を屏風(びょうぶ)のように取り巻いて、寒い心を暖かにした。
 今までは手を打たなければ、わが下女さえ顔を出さなかった。人に頼まなければ用は弁じなかった。いくらしようと焦慮(あせ)っても、調(ととの)わない事が多かった。それが病気になると、がらりと変った。余は寝ていた。黙って寝ていただけである。すると医者が来た。社員が来た。妻(さい)が来た。しまいには看護婦が二人来た。そうしてことごとく余の意志を働かさないうちに、ひとりでに来た。「安心して療養せよ」と云う電報が満洲から、血を吐いた翌日に来た。思いがけない知己(ちき)や朋友が代る代る枕元(まくらもと)に来た。あるものは鹿児島から来た。あるものは山形から来た。またあるものは眼の前に逼(せま)る結婚を延期して来た。余はこれらの人に、どうして来たと聞いた。彼等は皆新聞で余の病気を知って来たと云った。仰向(あおむけ)に寝た余は、天井を見つめながら、世の人は皆自分より親切なものだと思った。住(す)み悪(にく)いとのみ観じた世界にたちまち暖かな風が吹いた。
 四十を越した男、自然に淘汰(とうた)せられんとした男、さしたる過去を持たぬ男に、忙(いそが)しい世が、これほどの手間と時間と親切をかけてくれようとは夢にも待設けなかった余は、病(やまい)に生き還(かえ)ると共に、心に生き還った。余は病に謝した。また余のためにこれほどの手間と時間と親切とを惜しまざる人々に謝した。そうして願わくは善良な人間になりたいと考えた。そうしてこの幸福な考えをわれに打壊(うちこわ)す者を、永久の敵とすべく心に誓った。


馬上青年老。 鏡中白髪新。
幸生天子国。 願作太平民。







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