夏目漱石 思い出す事など

二十


 ツルゲニェフ以上の芸術家として、有力なる方面の尊敬を新たにしつつあるドストイェフスキーには、人の知るごとく、小供の時分から癲癇(てんかん)の発作(ほっさ)があった。われら日本人は癲癇と聞くと、ただ白い泡を連想するに過ぎないが、西洋では古くこれを神聖なる疾(やまい)と称(とな)えていた。この神聖なる疾に冒(お)かされる時、あるいはその少し前に、ドストイェフスキーは普通の人が大音楽を聞いて始めて到(いた)り得るような一種微妙の快感に支配されたそうである。それは自己と外界との円満に調和した境地で、ちょうど天体の端から、無限の空間に足を滑(すべ)らして落ちるような心持だとか聞いた。「神聖なる疾」に罹(かか)った事のない余は、不幸にしてこの年になるまで、そう云う趣(おもむき)に一瞬間も捕われた記憶をもたない。ただ大吐血後五六日――経(た)つか経たないうちに、時々一種の精神状態に陥(おちい)った。それからは毎日のように同じ状態を繰り返した。ついには来ぬ先にそれを予期するようになった。そうして自分とは縁の遠いドストイェフスキーの享(う)けたと云う不可解の歓喜をひそかに想像してみた。それを想像するか思い出すほどに、余の精神状態は尋常を飛び越えていたからである。ドクインセイの細(こま)かに書き残した驚くべき阿片(あへん)の世界も余の連想に上(のぼ)った。けれども読者の心目(しんもく)を眩惑(げんわく)するに足る妖麗(ようれい)な彼の叙述が、鈍(にぶ)い色をした卑しむべき原料から人工的に生れたのだと思うと、それを自分の精神状態に比較するのが急に厭(いや)になった。
 余は当時十分と続けて人と話をする煩(わずら)わしさを感じた。声となって耳に響く空気の波が心に伝(つたわ)って、平らかな気分をことさらに騒(ざわ)つかせるように覚えた。口を閉じて黄金(こがね)なりという古い言葉を思い出して、ただ仰向(あおむ)けに寝ていた。ありがたい事に室(へや)の廂(ひさし)と、向うの三階の屋根の間に、青い空が見えた。その空が秋の露(つゆ)に洗われつつしだいに高くなる時節であった。余は黙ってこの空を見つめるのを日課のようにした。何事もない、また何物もないこの大空は、その静かな影を傾むけてことごとく余の心に映じた。そうして余の心にも何事もなかった。また何物もなかった。透明な二つのものがぴたりと合った。合って自分に残るのは、縹緲(ひょうびょう)とでも形容してよい気分であった。
 そのうち穏かな心の隅(すみ)が、いつか薄く暈(ぼか)されて、そこを照らす意識の色が微(かす)かになった。すると、ヴェイルに似た靄(もや)が軽く全面に向って万遍(まんべん)なく展(の)びて来た。そうして総体の意識がどこもかしこも稀薄(きはく)になった。それは普通の夢のように濃いものではなかった。尋常の自覚のように混雑したものでもなかった。またその中間に横(よこた)わる重い影でもなかった。魂が身体(からだ)を抜けると云ってはすでに語弊がある。霊が細(こま)かい神経の末端にまで行き亘(わた)って、泥でできた肉体の内部を、軽く清くすると共に、官能の実覚から杳(はる)かに遠からしめた状態であった。余は余の周囲に何事が起りつつあるかを自覚した。同時にその自覚が窈窕(ようちょう)として地の臭(におい)を帯びぬ一種特別のものであると云う事を知った。床(ゆか)の下に水が廻って、自然と畳が浮き出すように、余の心は己(おのれ)の宿る身体と共に、蒲団(ふとん)から浮き上がった。より適当に云えば、腰と肩と頭に触れる堅い蒲団がどこかへ行ってしまったのに、心と身体は元の位置に安く漂(ただよ)っていた。発作前(ほっさぜん)に起るドストイェフスキーの歓喜は、瞬刻のために十年もしくは終生の命を賭(と)しても然(しか)るべき性質のものとか聞いている。余のそれはさように強烈のものではなかった。むしろ恍惚(こうこつ)として幽(かす)かな趣(おもむき)を生活面の全部に軽くかつ深く印(いん)し去ったのみであった。したがって余にはドストイェフスキーの受けたような憂欝性(ゆううつせい)の反動が来なかった。余は朝からしばしばこの状態に入(い)った。午過(ひるすぎ)にもよくこの蕩漾(とうよう)を味(あじわ)った。そうして覚(さ)めたときはいつでもその楽しい記憶を抱(いだ)いて幸福の記念としたくらいであった。
 ドストイェフスキーの享(う)け得(え)た境界(きょうがい)は、生理上彼の病(やまい)のまさに至らんとする予言である。生を半(なかば)に薄めた余の興致は、単に貧血の結果であったらしい。


仰臥人如唖。 黙然見大空。
大空雲不動。 終日杳相同。







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