夏目漱石 思い出す事など

二十一


 同じドストイェフスキーもまた死の門口(かどぐち)まで引(ひ)き摺(ず)られながら、辛(かろ)うじて後戻りをする事のできた幸福な人である。けれども彼の命を危(あや)めにかかった災(わざわい)は、余の場合におけるがごとき悪辣(あくらつ)な病気ではなかった。彼は人の手に作り上げられた法と云う器械の敵となって、どんと心臓を打(う)ち貫(ぬ)かれようとしたのである。
 彼は彼の倶楽部(クラブ)で時事を談じた。やむなくんばただ一揆(いっき)あるのみと叫んだ。そうして囚(とら)われた。八カ月の長い間薄暗(うすくら)い獄舎の日光に浴したのち、彼は蒼空(あおぞら)の下(もと)に引き出されて、新たに刑壇の上に立った。彼は自己の宣告を受けるため、二十一度の霜(しも)に、襯衣(シャツ)一枚の裸姿(はだかすがた)となって、申渡(もうしわたし)の終るのを待った。そうして銃殺に処すの一句を突然として鼓膜(こまく)に受けた。「本当に殺されるのか」とは、自分の耳を信用しかねた彼が、傍(かたわら)に立つ同囚(どうしゅう)に問うた言葉である。……白い手帛(ハンケチ)を合図に振った。兵士は覘(ねらい)を定めた銃口(つつぐち)を下に伏せた。ドストイェフスキーはかくして法律の捏(こ)ね丸めた熱い鉛(なまり)の丸(たま)を呑(の)まずにすんだのである。その代り四年の月日をサイベリヤの野に暮した。
 彼の心は生から死に行き、死からまた生に戻って、一時間と経(た)たぬうちに三たび鋭どい曲折を描いた。そうしてその三段落が三段落ともに、妥協を許さぬ強い角度で連結された。その変化だけでも驚くべき経験である。生きつつあると固く信ずるものが、突然これから五分のうちに死ななければならないと云う時、すでに死ぬときまってから、なお余る五分の命を提(ひっさ)げて、まさに来(きた)るべき死を迎えながら、四分、三分、二分と意識しつつ進む時、さらに突き当ると思った死が、たちまちとんぼ返りを打って、新たに生と名づけられる時、――余のごとき神経質ではこの三象面(フェーゼス)の一つにすら堪(た)え得まいと思う。現にドストイェフスキーと運命を同じくした同囚の一人(いちにん)は、これがためにその場で気が狂ってしまった。
 それにもかかわらず、回復期に向った余は、病牀(びょうしょう)の上に寝ながら、しばしばドストイェフスキーの事を考えた。ことに彼が死の宣告から蘇(よみが)えった最後の一幕を眼に浮べた。――寒い空、新らしい刑壇、刑壇の上に立つ彼の姿、襯衣一枚のまま顫(ふる)えている彼の姿、――ことごとく鮮やかな想像の鏡に映った。独(ひと)り彼が死刑を免(まぬ)かれたと自覚し得た咄嗟(とっさ)の表情が、どうしても判然(はっきり)映らなかった。しかも余はただこの咄嗟の表情が見たいばかりに、すべての画面を組み立てていたのである。
 余は自然の手に罹(かか)って死のうとした。現に少しの間死んでいた。後から当時の記憶を呼び起した上、なおところどころの穴へ、妻(さい)から聞いた顛末(てんまつ)を埋(う)めて、始めて全くでき上る構図をふり返って見ると、いわゆる慄然(りつぜん)と云う感じに打たれなければやまなかった。その恐ろしさに比例して、九仞(きゅうじん)に失った命を一簣(いっき)に取り留める嬉(うれ)しさはまた特別であった。この死この生に伴う恐ろしさと嬉しさが紙の裏表のごとく重なったため、余は連想上常にドストイェフスキーを思い出したのである。「もし最後の一節を欠いたなら、余はけっして正気ではいられなかったろう」と彼自身が物語っている。気が狂うほどの緊張を幸いに受けずとすんだ余には、彼の恐ろしさ嬉しさの程度を料(はか)り得ぬと云う方がむしろ適当かも知れぬ。それであればこそ、画竜点睛(がりゅうてんせい)とも云うべき肝心(かんじん)の刹那(せつな)の表情が、どう想像しても漠(ばく)として眼の前に描き出せないのだろう。運命の擒縦(きんしょう)を感ずる点において、ドストイェフスキーと余とは、ほとんど詩と散文ほどの相違がある。
 それにもかかわらず、余はしばしばドストイェフスキーを想像してやまなかった。そうして寒い空と、新らしい刑壇と、刑壇の上に立つ彼の姿と、襯衣(シャツ)一枚で顫(ふる)えている彼の姿とを、根気よく描き去り描き来(きた)ってやまなかった。
 今はこの想像の鏡もいつとなく曇って来た。同時に、生き返ったわが嬉しさが日に日にわれを遠ざかって行く。あの嬉しさが始終(しじゅう)わが傍(かたわら)にあるならば、――ドストイェフスキーは自己の幸福に対して、生涯(しょうがい)感謝する事を忘れぬ人であった。







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