夏目漱石 思い出す事など

二十四


 小供のとき家に五六十幅の画(え)があった。ある時は床の間の前で、ある時は蔵の中で、またある時は虫干(むしぼし)の折に、余は交(かわ)る交るそれを見た。そうして懸物(かけもの)の前に独(ひと)り蹲踞(うずく)まって、黙然と時を過すのを楽(たのしみ)とした。今でも玩具箱(おもちゃばこ)を引繰(ひっく)り返したように色彩の乱調な芝居を見るよりも、自分の気に入った画に対している方が遥(はる)かに心持が好い。
 画のうちでは彩色(さいしき)を使った南画(なんが)が一番面白かった。惜しい事に余の家の蔵幅(ぞうふく)にはその南画が少なかった。子供の事だから画の巧拙(こうせつ)などは無論分ろうはずはなかった。好(す)き嫌(きら)いと云ったところで、構図の上に自分の気に入った天然の色と形が表われていればそれで嬉(うれ)しかったのである。
 鑑識上の修養を積む機会をもたなかった余の趣味は、その後別段に新らしい変化を受けないで生長した。したがって山水によって画を愛するの弊(へい)はあったろうが、名前によって画を論ずるの譏(そし)りも犯(おか)さずにすんだ。ちょうど画を前後して余の嗜好(しこう)に上(のぼ)った詩と同じく、いかな大家の筆になったものでも、いかに時代を食ったものでも、自分の気に入らないものはいっこう顧みる義理を感じなかった。(余は漢詩の内容を三分して、いたくその一分を愛すると共に、大いに他の一分をけなしている。残る三分の一に対しては、好むべきか悪(にく)むべきかいずれとも意見を有していない。)
 ある時、青くて丸い山を向うに控えた、また的(てきれき)と春に照る梅を庭に植えた、また柴門(さいもん)の真前(まんまえ)を流れる小河を、垣に沿うて緩(ゆる)く繞(めぐ)らした、家を見て――無論画絹(えぎぬ)の上に――どうか生涯(しょうがい)に一遍で好いからこんな所に住んで見たいと、傍(そば)にいる友人に語った。友人は余の真面目(まじめ)な顔をしけじけ眺めて、君こんな所に住むと、どのくらい不便なものだか知っているかとさも気の毒そうに云った。この友人は岩手(いわて)のものであった。余はなるほどと始めて自分の迂濶(うかつ)を愧(は)ずると共に、余の風流心に泥を塗った友人の実際的なのを悪んだ。
 それは二十四五年も前の事であった。その二十四五年の間に、余もやむをえず岩手出身の友人のようにしだいに実際的になった。崖(がけ)を降りて渓川(たにがわ)へ水を汲(く)みに行くよりも、台所へ水道を引く方が好くなった。けれども南画に似た心持は時々夢を襲った。ことに病気になって仰向(あおむけ)に寝てからは、絶えず美くしい雲と空が胸に描かれた。
 すると小宮君が歌麿(うたまろ)の錦絵(にしきえ)を葉書に刷(す)ったのを送ってくれた。余はその色合(いろあい)の長い間に自(おのず)と寂(さ)びたくすみ方に見惚(みと)れて、眼を放さずそれを眺めていたが、ふと裏を返すと、私はこの画の中にあるような人間に生れたいとか何とか、当時の自分の情調とは似ても似つかぬ事が書いてあったので、こんなやにっこい色男(いろおとこ)は大嫌(だいきらい)だ、おれは暖かな秋の色とその色の中から出る自然の香(か)が好きだと答えてくれと傍(はた)のものに頼んだ。ところが今度は小宮君が自身で枕元へ坐(すわ)って、自然も好いが人間の背景にある自然でなくっちゃとか何とか病人に向って古臭い説を吐(は)きかけるので、余は小宮君を捕(つらま)えて御前は青二才(あおにさい)だと罵(ののし)った。――それくらい病中の余は自然を懐(なつ)かしく思っていた。
 空が空の底に沈み切ったように澄んだ。高い日が蒼(あお)い所を目の届くかぎり照らした。余はその射返(いかえ)しの大地に洽(あま)ねき内にしんとして独(ひと)り温(ぬく)もった。そうして眼の前に群がる無数の赤蜻蛉(あかとんぼ)を見た。そうして日記に書いた。――「人よりも空、語(ご)よりも黙(もく)。……肩に来て人懐(なつ)かしや赤蜻蛉(あかとんぼ)
 これは東京へ帰った以後の景色(けしき)である。東京へ帰ったあともしばらくは、絶えず美くしい自然の画が、子供の時と同じように、余を支配していたのである。


秋露下南。 黄花粲照顔。
欲行沿澗遠。 却得与雲還。







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