夏目漱石 思い出す事など

二十五


 子供が来たから見てやれと妻(さい)が耳の傍(そば)へ口を着けて云う。身体(からだ)を動かす力がないので余は元の姿勢のままただ視線だけをその方に移すと、子供は枕を去る六尺ほどの所に坐っていた。
 余の寝ている八畳に付いた床の間は、余の足の方にあった。余の枕元は隣の間を仕切る襖(ふすま)で半(なかば)(ふさ)いであった。余は左右に開かれた襖(ふすま)の間から敷居越しに余の子供を見たのである。
 頭の上の方にいるものを室(へや)を隔てて見る視力が、不自然な努力を要するためか、そこに坐っている子供の姿は存外遠方に見えた。無理な一瞥(いちべつ)の下(もと)に余の眸(ひとみ)に映った顔は、逢(お)うたと記(しる)すよりもむしろ眺めたと書く方が適当なくらい離れていた。余はこの一瞥よりほかにまた子供の影を見なかった。余の眸はすぐと自然の角度に復した。けれども余はこの一瞥の短きうちにすべてを見た。
 子供は三人いた。十二から十(とお)、十から八つと順に一列になって隣座敷の真中に並ばされていた。そうして三人ともに女であった。彼等は未来の健康のため、一夏(ひとなつ)を茅(ち)が崎(さき)に過すべく、父母(ふぼ)から命ぜられて、兄弟五人で昨日(きのう)まで海辺(うみべ)を駆(か)け廻っていたのである。父が危篤(きとく)の報知によって、親戚のものに伴(つ)れられて、わざわざ砂深い小松原を引き上げて、修善寺(しゅぜんじ)まで見舞に来たのである。
 けれども危篤の何を意味しているかを知るには彼らはあまり小(ち)さ過(す)ぎた。彼らは死と云う名前を覚えていた。けれども死の恐ろしさと怖(こわ)さとは、彼らの若い額(ひたい)の奥に、いまだかつて影さえ宿さなかった。死に捕(とら)えられた父の身体が、これからどう変化するか彼らには想像ができなかった。父が死んだあとで自分らの運命にどんな結果が来るか、彼らには無論考え得られなかった。彼らはただ人に伴われて父の病気を見舞うべく、父の旅先まで汽車に乗って来たのである。
 彼らの顔にはこの会見が最後かも知れぬと云う愁(うれい)の表情がまるでなかった。彼らは親子の哀別以上に無邪気な顔をもっていた。そうしていろいろ人のいる中に、三人特別な席に並んで坐らせられて、厳粛な空気にじっと行儀よく取りすます窮屈を、切なく感じているらしく思われた。
 余はただ一瞥(いちべつ)の努力に彼らを見ただけであった。そうして病(やまい)を解し得ぬ可憐な小さいものを、わざわざ遠くまで引張り出して、殊勝(しゅしょう)に枕元に坐らせておくのをかえって残酷に思った。妻(さい)を呼んで、せっかく来たものだから、そこいらを見物させてやれと命じた。もしその時の余に、あるいはこれが親子の見納めになるかも知れないと云う懸念(けねん)があったならば、余はもう少ししみじみ彼らの姿を見守ったかも知れなかった。しかし余は医師や傍(はた)のものが余に対して抱いていたような危険を余の病の上に自(みずか)ら感じていなかったのである。
 子供はじきに東京へ帰った。一週間ほどしてから、彼らは各々(めいめい)に見舞状を書いて、それを一つ封に入れて、余の宿に届けた。十二になる筆子(ふでこ)のは、四角な字を入れた整わない候文(そうろうぶん)で、「御祖母様(おばばさま)が雨がふっても風がふいても毎日毎日一日もかかさず御しゃか様へ御詣(おまいり)を遊ばす御百度(おひゃくど)をなされ御父様の御病気一日も早く御全快を祈り遊ばされまた高田の御伯母(おんおば)様どこかの御宮へか御詣り遊ばすとのことに御座候(ござそうろう)ふさ、きよみ、むめの三人の連中は毎日猫の墓へ水をとりかえ花を差し上げて早く御父様の全快を御祈りに居り候」とあった。十(とお)になる恒子(つねこ)のは尋常であった。八(やつ)になるえい子のは全く片仮名だけで書いてあった。字を埋(う)めて読みやすくすると、「御父様の御病気はいかがでございますか、私は無事に暮しておりますから御安心なさいませ。御父様も私の事を思わずに御病気を早く直して早く御帰りなさいませ。私は毎日休まずに学校へ行って居ります。また御母様によろしく」と云うのである。
 余は日記の一頁(ページ)を寝ながら割(さ)いて、それに、留守の中(うち)はおとなしく御祖母様(おばばさま)の云う事を聞かなくてはいけない、今についでのあった時修善寺(しゅぜんじ)の御土産(おみやげ)を届けてやるからと書いて、すぐ郵便で妻(さい)に出さした。子供は余が東京へ帰ってからも、平気で遊んでいる。修善寺の土産(みやげ)はもう壊してしまったろう。彼等が大きくなったとき父のこの文を読む機会がもしあったなら、彼等ははたしてどんな感じがするだろう。


傷心秋已到。 嘔血骨猶存。
病起期何日。 夕陽還一村。







この本を、全文縦書きブラウザで読むにはこちらをクリックしてください。
【明かりの本】のトップページはこちら

 
 
 
以下の「読んだボタン」を押してツイッターやFacebookを本棚がわりに使えます。
ボタンを押すと、友人にこの本をシェアできます。
↓↓↓ 

Facebook Twitter Email
facebooktwittergoogle_plusredditpinterestlinkedinmailby feather

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 * が付いている欄は必須項目です


*

次のHTML タグと属性が使えます: <a href="" title=""> <abbr title=""> <acronym title=""> <b> <blockquote cite=""> <cite> <code> <del datetime=""> <em> <i> <q cite=""> <strike> <strong> <img localsrc="" alt="">