夏目漱石 思い出す事など

二十六


 五十グラムと云うと日本の二勺半にしか当らない。ただそれだけの飲料で、この身体(からだ)を終日持(も)ち応(こた)えていたかと思えば、自分ながら気の毒でもあるし、可愛(かわい)らしくもある。また馬鹿らしくもある。
 余は五十グラムの葛湯(くずゆ)を恭(うやう)やしく飲んだ。そうして左右の腕に朝夕(あさゆう)二回ずつの注射を受けた。腕は両方とも針の痕(あと)で埋(う)まっていた。医師は余に今日はどっちの腕にするかと聞いた。余はどっちにもしたくなかった。薬液を皿に溶いたり、それを注射器に吸い込ましたり、針を丁寧(ていねい)に拭(ぬぐ)ったり、針の先に泡のように細(こま)かい薬を吹かして眺めたりする注射の準備ははなはだ物奇麗(ものぎれい)で心持が好いけれども、その針を腕にぐさと刺して、そこへ無理に薬を注射するのは不愉快でたまらなかった。余は医師に全体その鳶色(とびいろ)の液は何だと聞いた。森成(もりなり)さんはブンベルンとかブンメルンとか答えて、遠慮なく余の腕を痛がらせた。
 やがて日に二回の注射が一回に減じた。その一回もまたしばらくすると廃(や)めになった。そうして葛湯の分量が少しずつ増して来た。同時に口の中が執拗(しゅうね)く粘(ねば)り始めた。爽(さわや)かな飲料で絶えず舌と顋(あご)と咽喉(のど)を洗っていなくてはいたたまれなかった。余は医師に氷を請求した。医師は固い片(かけ)らが滑(すべ)って胃の腑(ふ)に落ち込む危険を恐れた。余は天井(てんじょう)を眺めながら、腹膜炎を患(わず)らった廿歳(はたち)の昔を思い出した。その時は病気に障(さわ)るとかで、すべての飲物を禁ぜられていた。ただ冷水で含嗽(うがい)をするだけの自由を医師から得たので、余は一時間のうちに、何度となく含嗽をさせて貰った。そうしてそのつど人に知れないように、そっと含嗽の水を幾分かずつ胃の中に飲み下して、やっと熬(い)りつくような渇(かわき)を紛(まぎ)らしていた。
 昔の計(はかりごと)を繰り返す勇気のなかった余は、口中(こうちゅう)を潤(うるお)すための氷を歯で噛(か)み砕(くだ)いては、正直に残らず吐き出した。その代り日に数回平野水(ひらのすい)を一口ずつ飲まして貰う事にした。平野水がくんくんと音を立てるような勢で、食道から胃へ落ちて行く時の心持は痛快であった。けれども咽喉を通り越すや否やすぐとまた飲みたくなった。余は夜半(よなか)にしばしば看護婦から平野水を洋盃(コップ)に注(つ)いで貰って、それをありがたそうに飲んだ当時をよく記憶している。
 渇(かつ)はしだいに歇(や)んだ。そうして渇よりも恐ろしい餓(ひも)じさが腹の中を荒して歩くようになった。余は寝ながら美くしい食膳(しょくぜん)を何通(なんとお)りとなく想像で拵(こし)らえて、それを眼の前に並べて楽んでいた。そればかりではない、同じ献立(こんだて)を何人前も調(ととの)えておいて、多数の朋友にそれを想像で食わして喜こんだ。今考えると普通のものの嬉しがるような食物(くいもの)はちっともなかった。こう云う自分にすらあまりありがたくはない御膳(おぜん)ばかりを眼の前に浮べていたのである。
 森成さんがもう葛湯(くずゆ)も厭(あ)きたろうと云って、わざわざ東京から米を取り寄せて重湯(おもゆ)を作ってくれた時は、重湯を生れて始めて啜(すす)る余には大いな期待があった。けれども一口飲んで始めてその不味(まず)いのに驚ろいた余は、それぎり重湯というものを近づけなかった。その代りカジノビスケットを一片(ひときれ)貰った折の嬉(うれ)しさはいまだに忘れられない。わざわざ看護婦を医師の室(へや)までやって、特に礼を述べたくらいである。
 やがて粥(かゆ)を許された。その旨(うま)さはただの記憶となって冷やかに残っているだけだから実感としては今思い出せないが、こんな旨いものが世にあるかと疑いつつ舌を鳴らしたのは確かである。それからオートミールが来た。ソーダビスケットが来た。余はすべてをありがたく食った。そうして、より多く食いたいと云う事を日課のように繰り返して森成さんに訴えた。森成さんはしまいに余の病床に近づくのを恐れた。東君(ひがしくん)はわざわざ妻(さい)の所へ行って、先生はあんなもっともな顔をしている癖に、子供のように始終(しじゅう)食物(くいもの)の話ばかりしていておかしいと告げた。


(はらわた)に春滴(したた)るや粥の味







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