夏目漱石 思い出す事など

二十九


 修善寺(しゅぜんじ)が村の名で兼(かね)て寺の名であると云う事は、行かぬ前から疾(とく)に承知していた。しかしその寺で鐘の代りに太鼓を叩(たた)こうとはかつて想(おも)い至らなかった。それを始めて聞いたのはいつの頃であったか全く忘れてしまった。ただ今でも余が鼓膜の上に、想像の太鼓がどん――どんと時々響く事がある。すると余は必ず去年の病気を憶(おも)い出す。
 余は去年の病気と共に、新らしい天井(てんじょう)と、新らしい床(とこ)の間(ま)にかけた大島将軍の従軍の詩を憶い出す。そうしてその詩を朝から晩までに何遍となく読み返した当時を明らさまに憶い出す。新らしい天井と、新らしい床の間と、新らしい柱と、新らし過ぎて開閉(あけたて)の不自由な障子(しょうじ)は、今でも眼の前にありありと浮べる事ができるが、朝から晩までに何遍となく読み返した大島将軍の詩は、読んでは忘れ、読んでは忘れして、今では白壁(しらかべ)のように白い絹の上を、どこまでも同じ幅で走って、尾頭(おかしら)ともにぷつりと折れてしまう黒い線を認めるだけである。句に至っては、始めの剣戟(けんげき)という二字よりほか憶い出せない。
 余は余の鼓膜(こまく)の上に、想像の太鼓がどん――どんと響くたびに、すべてこれらのものを憶い出す。これらのものの中に、じっと仰向(あおむ)いて、尻の痛さを紛(まぎ)らしつつ、のつそつ夜明を待ち佗(わ)びたその当時を回顧すると、修禅寺(しゅぜんじ)の太鼓の音(ね)は、一種云うべからざる連想をもって、いつでも余の耳の底に卒然と鳴り渡る。
 その太鼓は最も無風流な最も殺風景な音を出して、前後を切り捨てた上、中間だけを、自暴(やけ)に夜陰に向って擲(たた)きつけるように、ぶっきら棒な鳴り方をした。そうして、一つどんと素気(そっけ)なく鳴ると共にぱたりと留った。余は耳を峙(そば)だてた。一度静まった夜の空気は容易に動こうとはしなかった。やや久(しば)らくして、今のは錯覚ではなかろうかと思い直す頃に、また一つどんと鳴った。そうして愛想(あいそ)のない音は、水に落ちた石のように、急に夜の中に消えたぎり、しんとした表に何の活動も伝えなかった。寝られない余は、待ち伏せをする兵士のごとく次の音(ね)の至るを思いつめて待った。その次の音はやはり容易には来なかった。ようやくのこと第一第二と同じく極(きわ)めて乾(から)び切(き)った響が――響とは云(い)い悪(にく)い。黒い空気の中に、突然無遠慮な点をどっと打って直(すぐ)筆を隠したような音が、余の耳朶(じだ)を叩(たた)いて去る後(あと)で、余はつくづくと夜を長いものに観じた。
 もっとも夜は長くなる頃であった。暑さもしだいに過ぎて、雨の降る日はセルに羽織を重ねるか、思い切って朝から袷(あわせ)を着るかしなければ、肌寒(はださむ)を防ぐ便(たより)とならなかった時節である。山の端に落ち込む日は、常の短かい日よりもなおの事短かく昼を端折(はしお)って、灯(ひ)は容易に点(つ)いた。そうして夜(よ)は中々明けなかった。余はじりじりと昼に食い入る夜長を夜ごとに恐れた。眼が開(あ)くときっと夜であった。これから何時間ぐらいこうしてしんと夜の中に生きながら埋(うず)もっている事かと思うと、我ながらわが病気に堪(た)えられなかった。新らしい天井と、新らしい柱と、新らしい障子を見つめるに堪えなかった。真白な絹に書いた大きな字の懸物(かけもの)には最も堪えなかった。ああ早く夜が明けてくれればいいのにと思った。
 修禅寺の太鼓はこの時にどんと鳴るのである。そうしてことさらに余を待ち遠しがらせるごとく疎(まば)らな間隔を取って、暗い夜をぽつりぽつりと縫い始める。それが五分と経(た)ち七分と経つうちに、しだいに調子づいて、ついに夕立の雨滴(あまだれ)よりも繁(しげ)く逼(せま)って来る変化は、余から云うともう日の出に間もないと云う報知であった。太鼓を打ち切ってしばらくの後(のち)に、看護婦がやっと起きて室(へや)の廊下の所だけ雨戸を開けてくれるのは何よりも嬉しかった。外はいつでも薄暗く見えた。
 修善寺に行って、寺の太鼓を余ほど精密に研究したものはあるまい。その結果として余は今でも時々どんと云う余音(よいん)のないぶっ切ったような響を余の鼓膜の上に錯覚のごとく受ける。そうして一種云うべからざる心持を繰り返している。


夢繞星露幽。 夜分形影暗灯愁。
旗亭病近修禅寺。 一疎鐘已九秋。







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