夏目漱石 思い出す事など

三十


 山を分けて谷一面の百合(ゆり)を飽(あ)くまで眺めようと心にきめた翌日(あくるひ)から床の上に仆(たお)れた。想像はその時限りなく咲き続く白い花を碁石(ごいし)のように点々と見た。それを小暗(おぐら)く包もうとする緑の奥には、重い香(か)が沈んで、風に揺られる折々を待つほどに、葉は息苦しく重なり合った。――この間宿の客が山から取って来て瓶(へい)に挿(さ)した一輪の白さと大きさと香(かおり)から推して、余は有るまじき広々とした画(え)を頭の中に描いた。
 聖書にある野の百合とは今云う唐菖蒲(からしょうぶ)の事だと、その唐菖蒲を床に活けておいた時、始めて芥舟君(かいしゅうくん)から教わって、それではまるで野の百合の感じが違うようだがと話し合った一月前(ひとつきまえ)も思い出された。聖書と関係の薄い余にさえ、檜扇(ひおうぎ)を熱帯的に派出(はで)に仕立てたような唐菖蒲は、深い沈んだ趣(おもむき)を表わすにはあまり強過ぎるとしか思われなかった。唐菖蒲はどうでもよい。余が想像に描いた幽(かす)かな花は、一輪も見る機会のないうちに立秋に入(い)った。百合は露(つゆ)と共に摧(くだ)けた。
 人は病むもののために裏の山に入(い)って、ここかしこから手の届く幾茎(いくくき)の草花を折って来た。裏の山は余の室(へや)から廊下伝いにすぐ上(のぼ)る便(たより)のあるくらい近かった。障子(しょうじ)さえ明けておけば、寝ながら縁側(えんがわ)と欄間(らんま)の間を埋(うず)める一部分を鼻の先に眺(なが)める事もできた。その一部分は岩と草と、岩の裾(すそ)を縫うて迂回(うかい)して上(のぼ)る小径(こみち)とから成り立っていた。余は余のために山に上(のぼ)るものの姿が、縁の高さを辞して欄間の高さに達するまでに、一遍影を隠して、また反対の位地から現われて、ついに余の視線のほかに没してしまうのを大いなる変化のごとくに眺めた。そうして同じ彼等の姿が再び欄間の上から曲折して下(くだ)って来るのを疎(うと)い眼で眺めた。彼らは必ず粗(あら)い縞(しま)の貸浴衣(かしゆかた)を着て、日の照る時は手拭(てぬぐい)で頬冠(ほおかむ)りをしていた。岨道(そばみち)を行くべきものとも思われないその姿が、花を抱(かか)えて岩の傍(そば)にぬっと現われると、一種芝居にでも有りそうな感じを病人に与えるくらい釣合(つりあい)がおかしかった。
 彼等の採(と)って来てくれるものは色彩の極(きわ)めて乏しい野生の秋草であった。
 ある日しんとした真昼に、長い薄(すすき)が畳に伏さるように活けてあったら、いつどこから来たとも知れない蟋蟀(きりぎりす)がたった一つ、おとなしく中ほどに宿(とま)っていた。その時薄は虫の重みで撓(しな)いそうに見えた。そうして袋戸(ふくろど)に張った新らしい銀の上に映る幾分かの緑が、暈(ぼか)したように淡くかつ不分明(ふぶんみょう)に、眸(ひとみ)を誘うので、なおさら運動の感覚を刺戟(しげき)した。
 薄は大概すぐ縮(ちぢ)れた。比較的長く持つ女郎花(おみなえし)さえ眺めるにはあまり色素が足りなかった。ようやく秋草の淋(さみ)しさを物憂(ものう)く思い出した時、始めて蜀紅葵(しょっこうあおい)とか云う燃えるような赤い花弁(はなびら)を見た。留守居の婆さんに銭(ぜに)をやって、もっと折らせろと云ったら、銭は要(い)りません、花は預かり物だから上げられませんと断わったそうである。余はその話を聞いて、どんな所に花が咲いていて、どんな婆さんがどんな顔をして花の番をしているか、見たくてたまらなかった。蜀紅葵の花弁(はなびら)は燃えながら、翌日(あくるひ)散ってしまった。
 桂川(かつらがわ)の岸伝いに行くといくらでも咲いていると云うコスモスも時々病室を照らした。コスモスはすべての中(うち)で最も単簡(たんかん)でかつ長く持った。余はその薄くて規則正しい花片と、空(くう)に浮んだように超然と取り合わぬ咲き具合とを見て、コスモスは干菓子(ひがし)に似ていると評した。なぜですかと聞いたものがあった。範頼(のりより)の墓守(はかもり)の作ったと云う菊を分けて貰って来たのはそれからよほど後(のち)の事である。墓守は鉢に植えた菊を貸して上げようかと云ったそうである。この墓守の顔も見たかった。しまいには畠山(はたけやま)の城址(しろあと)からあけびと云うものを取って来て瓶(へい)に挿(はさ)んだ。それは色の褪(さ)めた茄子(なす)の色をしていた。そうしてその一つを鳥が啄(つつ)いて空洞(うつろ)にしていた。――瓶に挿(さ)す草と花がしだいに変るうちに気節はようやく深い秋に入(い)った。


日似三春永。 心随野水空。
牀頭花一片。 閑落小眠中。







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