夏目漱石 思い出す事など

三十一


 若い時兄を二人失った。二人とも長い間床(とこ)についていたから、死んだ時はいずれも苦しみ抜いた病(やまい)の影を肉の上に刻(きざ)んでいた。けれどもその長い間に延びた髪と髯(ひげ)は、死んだ後(あと)までも漆(うるし)のように黒くかつ濃かった。髪はそれほどでもないが、剃(そ)る事のできないで不本意らしく爺々汚(じじむさ)そうに生えた髯(ひげ)に至っては、見るから憐(あわ)れであった。余は一人の兄の太く逞(たくま)しい髯の色をいまだに記憶している。死ぬ頃の彼の顔がいかにも気の毒なくらい瘠(や)せ衰(おとろ)えて小(ちい)さく見えるのに引き易(か)えて、髯だけは健康な壮者を凌(しの)ぐ勢(いきおい)で延びて来た一種の対照を、気味悪くまた情(なさけ)なく感じたためでもあろう。
 大患に罹(かか)って生か死かと騒がれる余に、幾日かの怪しき時間は、生とも死とも片づかぬ空裏(くうり)に過ぎた。存亡の領域がやや明かになった頃、まず吾(わが)存在を確めたいと云う願から、とりあえず鏡を取ってわが顔を照らして見た。すると何年か前に世を去った兄の面影(おもかげ)が、卒然として冷かな鏡の裏を掠(かす)めて去った。骨ばかり意地悪く高く残った頬、人間らしい暖味(あたたかみ)を失った蒼(あお)く黄色い皮、落ち込んで動く余裕のない眼、それから無遠慮に延びた髪と髯、――どう見ても兄の記念であった。
 ただ兄の髪と髯が死ぬまで漆(うるし)のように黒かったのにかかわらず、余のそれらにはいつの間にか銀の筋が疎(まば)らに交っていた。考えて見ると兄は白髪(しらが)の生える前に死んだのである。死ぬとすればその方が屑(いさぎ)よいかも知れない。白髪に鬢(びん)や頬をぽつぽつ冒されながら、まだ生き延びる工夫(くふう)に余念のない余は、今を盛りの年頃に容赦なく世を捨てて逝(ゆ)く壮者に比(くら)べると、何だかきまりが悪いほど未練らしかった。鏡に映るわが表情のうちには、無論はかないと云う心持もあったが、死(し)に損(そく)なったと云う恥(はじ)も少しは交っていた。また「ヴァージニバス・ピュエリスク」の中に、人はいくら年を取っても、少年の時と同じような性情を失わないものだと書いてあったのを、なるほどと首肯(うなず)いて読んだ当時を憶(おも)い出して、ただその当時に立ち戻りたいような気もした。「ヴァージニバス・ピュエリスク」の著者は、長い病苦に責められながらも、よくその快活の性情を終焉(しゅうえん)まで持ち続けたから、嘘(うそ)は云わない男である。けれども惜しい事に髪の黒いうちに死んでしまった。もし彼が生きて六十七十の高齢に達したら、あるいはこうは云い切れなかったろうと思えば、思われない事もない。自分が二十の時、三十の人を見れば大変に懸隔があるように思いながら、いつか三十が来ると、二十の昔と同じ気分な事が分ったり、わが三十の時、四十の人に接すると、非常な差違を認めながら、四十に達して三十の過去をふり返れば、依然として同じ性情に活きつつある自己を悟ったりするので、スチーヴンソンの言葉ももっともと受けて、今日(きょう)まで世を経(へ)たようなものの、外部から萌(きざ)して来る老頽(ろうたい)の徴候を、幾茎(いくけい)かの白髪に認めて、健康の常時とは心意の趣(おもむき)を異(こと)にする病裡(びょうり)の鏡に臨んだ刹那(せつな)の感情には、若い影はさらに射(さ)さなかったからである。
 白髪に強(し)いられて、思い切りよく老(おい)の敷居を跨(また)いでしまおうか、白髪を隠して、なお若い街巷(ちまた)に徘徊(はいかい)しようか、――そこまでは鏡を見た瞬間には考えなかった。また考える必要のないまでに、病める余は若い人々を遠くに見た。病気に罹(かか)る前、ある友人と会食したら、その友人が短かく刈(か)った余の揉上(もみあげ)を眺めて、そこから白髪に冒(おか)されるのを苦にしてだんだん上の方へ剃(す)り上(あ)げるのではないかと聞いた。その時の余にはこう聞かれるだけの色気は充分あった。けれども病(やまい)に罹(かか)った余は、白髪(しらが)を看板にして事をしたいくらいまでに諦(あきら)めよく落ちついていた。
 病の癒(い)えた今日(こんにち)の余は、病中の余を引き延ばした心に活きているのだろうか、または友人と食卓についた病気前(びょうきぜん)の若さに立ち戻っているだろうか。はたしてスチーヴンソンの云った通りを歩く気だろうか、または中年に死んだ彼の言葉を否定してようやく老境に進むつもりだろうか。――白髪と人生の間に迷うものは若い人たちから見たらおかしいに違ない。けれども彼等若い人達にもやがて墓と浮世の間に立って去就を決しかねる時期が来るだろう。


桃花馬上少年時。 笑拠銀鞍払柳枝。
緑水至今迢逓去。 月明来照鬢如糸。







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