夏目漱石 思い出す事など

三十二


 初めはただ漠然(ばくぜん)と空を見て寝ていた。それからしばらくしていつ帰れるのだろうと思い出した。ある時はすぐにも帰りたいような心持がした。けれども床の上に起き直る気力すらないものが、どうして汽車に揺られて半日の遠きを行くに堪(た)え得ようかと考えると、帰りたいと念ずる自分がかなり馬鹿気て見えた。したがって傍(はた)のものに自分はいつ帰れるかと問(と)い糺(ただ)した事もなかった。同時に秋は幾度の昼夜を巻いて、わが心の前を過ぎた。空はしだいに高くかつ蒼(あお)くわが上を掩(おお)い始めた。
 もう動かしても大事なかろうと云う頃になって、東京から別に二人の医者を迎えてその意見を確めたら、今二週間の後(のち)にと云う挨拶(あいさつ)であった。挨拶があった翌日(あくるひ)から余は自分の寝ている地と、寝ている室(へや)を見捨るのが急に惜しくなった。約束の二週間がなるべくゆっくり廻転するようにと冀(ねが)った。かつて英国にいた頃、精一杯(せいいっぱい)英国を悪(にく)んだ事がある。それはハイネが英国を悪んだごとく因業(いんごう)に英国を悪んだのである。けれども立つ間際(まぎわ)になって、知らぬ人間の渦(うず)を巻いて流れている倫敦(ロンドン)の海を見渡したら、彼らを包む鳶色(とびいろ)の空気の奥に、余の呼吸に適する一種の瓦斯(ガス)が含まれているような気がし出した。余は空を仰いで町の真中(まなか)に佇(たた)ずんだ。二週間の後この地を去るべき今の余も、病む躯(からだ)を横(よこた)えて、床(とこ)の上に独(ひと)り佇ずまざるを得なかった。余は特に余のために造って貰った高さ一尺五寸ほどの偉大な藁蒲団(わらぶとん)に佇ずんだ。静かな庭の寂寞(せきばく)を破る鯉(こい)の水を切る音に佇ずんだ。朝露(あさつゆ)に濡(ぬ)れた屋根瓦(やねがわら)の上を遠近(おちこち)と尾を揺(うご)かし歩く鶺鴒(せきれい)に佇ずんだ。枕元の花瓶(かへい)にも佇ずんだ。廊下のすぐ下をちょろちょろと流れる水の音(ね)にも佇ずんだ。かくわが身を繞(めぐ)る多くのものに徊(ていかい)しつつ、予定の通り二週間の過ぎ去るのを待った。
 その二週間は待ち遠いはがゆさもなく、またあっけない不足もなく普通の二週間のごとくに来て、尋常の二週間のごとくに去った。そうして雨の濛々(もうもう)と降る暁を最後の記念として与えた。暗い空を透(す)かして、余は雨かと聞いたら、人は雨だと答えた。
 人は余を運搬する目的をもって、一種妙なものを拵(こし)らえて、それを座敷の中(うち)に舁(か)き入(い)れた。長さは六尺もあったろう、幅はわずか二尺に足らないくらい狭かった。その一部は畳を離れて一尺ほどの高さまで上に反(そ)り返(かえ)るように工夫してあった。そうして全部を白い布(ぬの)で捲(ま)いた。余は抱かれて、この高く反った前方に背を託して、平たい方に足を長く横たえた時、これは葬式だなと思った。生きたものに葬式と云う言葉は穏当でないが、この白い布で包んだ寝台(ねだい)とも寝棺(ねがん)とも片のつかないものの上に横になった人は、生きながら葬(とむら)われるとしか余には受け取れなかった。余は口の中で、第二の葬式と云う言葉をしきりに繰り返した。人の一度は必ずやって貰う葬式を、余だけはどうしても二返(へん)執行しなければすまないと思ったからである。
 舁(か)かれて室(へや)を出るときは平(たいら)であったが、階子段(はしごだん)を降りる際(きわ)には、台が傾いて、急に輿(こし)から落ちそうになった。玄関に来ると同宿の浴客(よくかく)が大勢並んで、左右から白い輿を目送(もくそう)していた。いずれも葬式の時のように静かに控えていた。余の寝台はその間を通り抜けて、雨の降る庇(ひさし)の外に担(かつ)ぎ出された。外にも見物人はたくさんいた。やがて輿を竪(たて)に馬車の中に渡して、前後相対する席と席とで支えた。あらかじめ寸法を取って拵(こし)らえたので、輿はきっしりと旨(うま)く馬車の中に納った。馬は降る中を動き出した。余は寝ながら幌(ほろ)を打つ雨の音を聞いた。そうして、御者台(ぎょしゃだい)と幌の間に見える窮屈な空間から、大きな岩や、松や、水の断片をありがたく拝した。竹藪(たけやぶ)の色、柿紅葉(かきもみじ)、芋(いも)の葉、槿垣(むくげがき)、熟した稲の香(か)、すべてを見るたびに、なるほど今はこんなものの有るべき季節であると、生れ返ったように憶(おも)い出しては嬉(うれ)しがった。さらに進んでわが帰るべき所には、いかなる新らしい天地が、寝ぼけた古い記憶を蘇生せしむるために展開すべく待ち構えているだろうかと想像して独(ひと)り楽しんだ。同時に昨日(きのう)まで徊(ていかい)した藁蒲団(わらぶとん)も鶺鴒(せきれい)も秋草も鯉(こい)も小河もことごとく消えてしまった。


万事休時一息回。 余生豈忍比残灰。
風過古澗秋声起。 日落幽篁瞑色来。
漫道山中三月滞。 知門外一天開。
帰期勿後黄花節。 恐有羇魂夢旧苔。







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