小川未明 忘れられたる感情




忘れられたる感情



小川未明





 もはや記憶から、消えてしまった子供の時分の感情がある。また、或時分に、ある事件によって、自分の心を占領したことのあった、忘れられた感覚がある。また、偶然にふら/\と頭の中に顔を出して、はっと思ってその気分を意識しようとする刹那には、もう、其の顔が隠れてしまって、たゞ、単調な連続的の感情に頭が占領せられているのを意識するばかりである。
 これを要するに、たゞ、吾等には、幾何(いくばく)の忘れられた感覚や、感情や、知覚があるということを知らなければならない。また、幾何のまさに忘れられんとしている感覚や、感情や、知覚のあることを知らなければならない。而(しか)して、現在の自分の頭を占領している感情や、感覚のみが、子供の時分から変りのない、つゞいて来た感情や、感覚であると思うことが出来ない。人間は其の時々の境遇によって、頭の中を占領する感情や感覚が異っている。だから今、かりに自分の頭には灰色な、重苦しい感情しかないからといって、この気分で見るすべてのものが、今は、眼底に灰色なものとなってうつるからといって此の世界が灰色であり、此の人生が灰色でなければならぬと思うものは少なかろうと思う。
 曾(かつ)て、子供の時分には、此の世界をもっと明るく、また赤い色に見たことがあったかも知れない。また、過去の或日に於て、或る時、ある事件に出遇った場合に、自分の心は、いま迄で経験したことのない、また其の後にも経験したことのない、一種の言い現わし難い重苦しい気分によって、占領せられたことがあったであろう。其の刹那、此の人生を、此の世界を、すべてあらゆるものが此の気分に沈んだ眼底には黒い色に見られたことがあったかも知れない。
 多くの場合に、出会(でくわ)して、
『君の頭と、僕の頭とが違っている。』とか『僕の見ている人生と、君の見ている人生とは異っている。』とかいうことを聞くたびに、私は、其等の言葉によって現わされた思想について考えさせられる。さながら、是等の言葉は、全く生れながらに頭の違った人間が此の地球の上に幾何となく住んでいるということを思わせるからだ。
 涙の光るところ、其の眼に同じい悲しみが宿る。恋の歌を聞くところ、其処に同じい怨みに泣く人があることを知る。こう、考えると私には、たゞ、其等の人々の境遇によって、現在の頭を占領している気分が違っているに留まるものだと思われた。
 人間は、誰れでも同じいように、さま/″\の感情や、感覚や、知覚を長い間に於いて、ある時、ある事件によって、経験すべきものである。また、甲の頭と、乙の頭とが、生れながらにして、全く、異っているというよりは、或者は、まだ、其の感情や、感覚を学び知らないのだといった方が当然であろうと思われる。
 何故となれば、私は、すべての人が私と同じような人間であると思うからだ。
 子供の自分に感じたことがあって、既に忘れてしまった感情や、また、或時、ある事件に対して、刹那ながらも心の全幅を掩(お)うた感覚や、また、もはや忘れられんとして時々、頭の中に顔を出して来るような感情や、感覚が、さらに、一つ作家の作物を読むことによって蘇生されるならば、しばらくまた其の気分の中に、自からを忘れることが出来る。これが芸術の真の吾等に与える快感であろう。私は、この権威ある快感を何よりも尊く嬉しく思うのである。
 私は、さま/″\の忘れられた懐しい夢を、もう一度見せてくれる、また心を、不可思議な、奥深い怪奇な、感情の洞穴に魅(み)しくれる、此種の芸術に接するたびに、之を愛慕し、之を尊重視するの念を禁じ得ない。







底本:「芸術は生動す」国文社
   1982(昭和57)年3月30日初版第1刷発行
底本の親本:「北国の鴉より」岡村盛花堂
   1912(大正元)年11月25日初版
   1913(大正2)年6月17日再版
入力:Nana ohbe
校正:仙酔ゑびす
2011年11月30日作成
青空文庫作成ファイル:
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