和辻哲郎 巨椋池の蓮













 はすの花は日本人に最も親しい花の一つで、その大きい花びらの美しい彎曲線わんきょくせんや、ほのぼのとした清らかな色や、その葉のすがすがしい匂いや肌ざわりなどを、きわめて身近に感じなかった人は、われわれの間にはまずなかろうと思う。文化の上から言っても蓮華れんげの占める位置は相当に大きい。日本人に深い精神的内容を与えた仏教は、蓮華によって象徴されているように見える。仏像は大抵蓮華の上にすわっているし、仏画にも蓮華は盛んに描かれている。仏教の祭儀の時に散らせる華は、蓮華の花びらであった。仏教の経典のうちの最もすぐれた作品は妙法蓮華経であり、その蓮華経は日本人の最も愛読したお経であった。仏教の日本化を最も力強く推し進めて行ったのは阿弥陀崇拝であるが、この崇拝の核心には、蓮華の咲きそろう浄土の幻想がある。そういう関係から蓮華は、日本人の生活のすみずみに行きわたるようになった。ただに食器に蓮華れんげがあるのみでない。蓮根は日本人の食う野菜のうちのかなりに多い部分を占めている。

 というようなことは、私はかねがね承知していたのであるが、しかし巨椋池おぐらいけのまん中で、咲きそろっている蓮の花をながめたときには、私は心の底から驚いた。蓮の花というものがこれほどまでに不思議な美しさを持っていようとは、実際予期していなかったのである。



 それはもう二十何年か前のことである。そのころ京都にいた谷川徹三たにかわてつぞう君が、巨椋池の蓮の話をして、見に行かないかとさそってくれた。私はそれほどの期待もかけず、機会があったらと頼んでおいたのであったが、たしか八月の五、六日ごろのことだったと思う、夜の九時ごろに谷川君がひょっこりやって来て、これから蓮の花を見に行こうという。もう二、三日すれば、お盆のために蓮の花をどんどん切って大阪と京都とへ送り出すので、その前の今がちょうど見ごろだというわけであった。それでは落合太郎君もさそおうではないかと言って、そのころ真如堂しんにょどうの北にいた落合君のところを十時ごろに訪ねた。そうして三人で町へ出て、伏見ふしみに向かった。

 谷川君が案内してくれたのは、伏見の橋のそばの宿屋であった。もう夜も遅いし、明朝は三時に起きるというのでその夜はあまり話もせずに寝た。

 寝たと思うとすぐに起こされたような感じで、朝はひどく眠かったが、宿の前から小舟に乗って淀川をぎ出すと、気持ちははっきりしてきた。朝と言ってもまだまっ暗で、淀川がひどく漫々としているように見える。それを少し漕ぎ下ってから、舟は家と家との間の狭い運河へはいって行った。運河の両岸の光景は暗くて何もわからない。そういうところを何十分か漕いで行くうちに、だんだん左右が開けてくる。巨椋池の一端に達したらしいが、まだ暗くて遠くは見晴らせない。そういうふうにしていつとはなしに周囲が池らしくなって来たのである。

 舟はもう蓮の花や葉の間を進んでいる。その時に、誰いうともなく、蓮の花の開くときに音がする、ということが話題になった。一つ試してみようじゃないか、というわけで舟を蓮の花の側に止めさせて、今にも開きそうなつぼみを三人で見つめた。その蕾はいっこう動かないが、近辺で何か音がする。蓮の花の開く時の音はポンという言葉で形容されているが、どうもそれとは似寄りのない、クイというふうな鋭い音である。何だろうとその音のする方をうかがって見たりなどしながら、また目前の蕾に目を返すと、驚いたことには、もう二ひら三ひら花弁が開いている。やがてはらはらと、解けるように花が開いてしまう。この時には何の音もしない。最初二ひら三ひら開いたときには、つい見ていなかったのではあるが、しかし側にいたのであるから、音がすれば聞こえたはずである。どうも音なんぞはしないらしい。

 それでは、さっきの音は何であろうか。また舟を進めながら、しきりに近くの蕾に注意していると、偶然にも、最初の一ひらがはらりと開く場合にぶつかることがある。いかにもなだらかにほどけるのであって、ぱっと開くのではない。が、それとは別に、クイというふうな短い音は、遠く近くで時々聞こえてくる。何だかその頻度が増してくるように思われる。それを探すような気持ちであちこちをながめていると、水面の闇がいくらか薄れて来て、池の広さがだんだん目に入るようになって来た。

 私たちのそういう騒ぎを黙って聞いていて口を出さない船頭に、一体音のすることがあるのかと聞いてみると、わしもそんな音は聞いたことがないという。蓮の花は朝開くとは限らない。前の晩にすでに開いているのもある。夜中よなかに開くのもある。明け方に音がするというのは変な話だという。そういわれてみると、蓮の花が日光のささない時刻に、すなわち暗くて人に見えずまた人の見ない時刻に、開くのであるということ、そのために常人の判断に迷うような伝説が生じたのであるということが、やっとわかって来た。もちろん、日光のほかに気温も関係しているであろう。右のような時刻には、外気が冷たくなり、蕾の内部の気温との相対的な関係が、昼間と逆になるはずである。何かそういう類の微妙な空気の状態が、蓮の開花と連関しているのかもしれない。その点から考えると、気温の最も低くなる明け方が、最も開花に都合のいい時刻であるかもしれない。しかしそれにしても、あの妙な音は何だろう。それを船頭にただしてみると、船頭は事もなげに、あああれだっか、あれはばんどす、鷭が目をさましよる、と言った。

 そういうことに気をとられているうちに、いつか舟はひろびろとした池の中に出ていた。そうしてあたりの蓮の花がはっきりと見え出した。夜がほのぼのと明け初めたのである。その変化はわりに短い時の間に起こったように思われる。ふっと気がついて見ると、私たちは見渡す限り蓮の花ばかりの世界のただ中にいたのである。

 蓮の花は葉よりも上へ出ている。その花が小舟の中にすわっているわれわれの胸のあたり、時には目の高さに見える。舟ばたにすれすれの花から、一尺先、二尺先、あるいは一間先、二間先、一面にあの形の整った、清らかな花が並んでいるのである。舟の周囲、船頭のさおの届く範囲だけでも何百あるかわからない。しかるにその花は、十間先も、一町先も、五町先も、同じように咲き続いている。その時の印象でいうと、蓮の花は無限に遠くまで続いていた。どの方角を向いてもそうであった。地上には、葉の上へぬき出た蓮の花のほかに、何も見えなかった。

 これは全く予想外の光景であった。私たちは蓮の花の近接した個々の姿から、大量の集団的な姿や、遠景としての姿をまで、一挙にして与えられたのである。しかも蓮の花以外の形象をことごとく取り除いて、純粋にただ蓮の花のみの世界として見せられたのである。これは、それまでの経験からだけではとうてい想像のできない光景であった。私は全く驚嘆の情に捕えられてしまった。

 が、この時の驚嘆の情は、ただ自然物としての蓮の花の形や感触によってのみき起こされたのではなかった。蓮の花の担っている象徴的な意義が、この花の感覚的な美しさを通じて、猛然と襲いかかって来たのである。われわれの祖先が蓮花によって浄土の幻想を作り上げた気持ちは、私にはもうかなり縁遠いものになっていたが、しかしこの時に何か体験的なつながりができたように思う。蓮花の世界にびたる心持ちは、どうも仏教的な理想と切り離し難いようである。それはただに仏教の経典に蓮華が説かれ、仏教の美術に蓮華が作られているからのみではない。蓮の花そのものの形や感触に何かインド的なもの、日本の国土をはるかに超えたものが感ぜられたからであろう。日本人にとっては、そのことが特に現実を超えた理想を象徴するのに役立ったであろう。しかし同時にそれは顕著にインド的なものであって、インドを超えたものではなかった。日本の蓮の花はインドのそれと同じ種類のものであるが、しかしこの種類は現在アジアの温かい地方と北オーストラリアとに限られていて、他の地方にはないと言われている。エジプトには昔はあったらしいが、今はない。日本へはたぶん、直接ではないにしても、とにかくインドから来たのであろう。それもいつのことであったかはわからない。太古からすでに日本にあったとも言われているが、仏教に伴なって来たということもあり得ぬことではない。そうなると蓮の花は、われわれの祖先の精神生活を象徴するのみならず、広くアジアの文化を象徴することにもなるのである。

 私はこの蓮華の世界に入り浸りながら、ここまでいくぶんか強制的に引っ張って来てくれた谷川君に心から感謝した。



 そういう印象を受けたのは、ほのぼのと夜が明けて来て、広い蓮池が見渡せるようになった時であるが、それが何時ごろであったかははっきりしない。四時と五時の間であったことだけは確かである。どれほど長くこの光景に見とれていたかということも、はっきりとは覚えていない。が、やがてわれわれは、船頭のすすめるままに、また舟を進ませた。蓮の花の世界の中のいろいろな群落を訪ね回ったのである。そうしてそこでもまたわれわれは思いがけぬ光景に出逢った。

 最初われわれの前に蓮の花の世界が開けたとき、われわれを取り巻いていたのは、爪紅つまべにの蓮の花であった。花びらのとがった先だけが紅色に薄くぼかされていて、あとの大部分は白色である。この手の花が最も普通であったように思う。しかし舟が、葉や花を水に押し沈めながら進んで行くうちに、何となく周囲の様子が変わってくる。いつの間にか底紅の花の群落へ突入していたのである。花びらの底の方が紅色にぼかされていて、尖端の方がかえって白いのであるが、花全体として淡紅色の加わっている度合が大きい。その相違はわずかであるとも言えるが、しかし花の数が多いのであるから、ひどく花やかになったような気持ちがする。

 何分かかかってその群落を通りぬけると、今度は紅蓮ぐれんの群落のなかへ突き進んで行った。紅色が花びらの六、七分通りにかかっていて、底の方は白いのである。これは見るからに花やかで明るい。そういう紅い花が無数に並んでいるのを見ると、いかにもにぎやかな気持ちになる。が、しばらくの間この群落のなかを進んで行って、そういう気分に慣れたあとであったにかかわらず、次いで突入して行った深紅の紅蓮の群落には、われわれはまたあっと驚いた。この紅蓮は花びらの全面が濃い紅色なのであって、白い部分は毛ほども残っていない。実になまめかしい感じなのである。そういう紅蓮があたり一面に並んだとなると、一種異様な気分にならざるを得ない。それは爪紅の、大体において白い蓮の花とは、まるで質の違った印象を与える。もしこれが蓮の花の代表者であったとすれば、おそらく浄土は蓮の花によって飾られはしなかったであろう。

 紅蓮の群落はちょっと息の詰まるような印象を与えたが、そこを出て、少し離れたところにある次の群落へはいったときには、われわれはまた新しい驚きを感じた。今度は白蓮の群落であったが、その白蓮は文字通り純白の蓮の花で、紅の色は全然かかっていない。そういう白蓮に取り巻かれてみると、これまで白蓮という言葉から受けていた感じとはまるで違った感じが迫って来た。それは清浄な感じを与えるのではなく、むしろ気味の悪い、物すごい、不浄に近い感じを与えたのである。死の世界と言っていいような、寒気を催す気分がそこにあった。これに比べてみると、爪紅の蓮の花の白い部分は、純白ではなくして、心持ち紅の色がかかっているのであろう。それは紅色としては感じられないが、しかし白色に適度の柔らかみ暖かみを加えているのであろう。われわれが白い蓮の花を思い浮かべるとき、そこに出てくるのはこういう白色の花弁であって、真に純白の花弁なのではあるまい。そう私は感ぜざるを得なかった。真に純白な蓮の花は決して美しくはない。艶めかしい紅蓮の群落から出て行ってこの白蓮の群落へ入って行ったためにそう感じたのであるとは私は考えない。真紅の紅蓮が艶めかし過ぎて閉口であるように、純粋の白蓮もまた冷たすぎ堅すぎておもしろくない。やはり白色に淡紅色のかかっているような普通の蓮の花が最も蓮の花らしいのである。



 こうして蓮の花の群落めぐりをやっているうちにどれほどの時間がたったかは忘れたが、やがてだんだん明るさが増し、東の空が赤るんでくると、ついに東の山、西の山が見えるようになって来た。それとともに、蓮の花のみの世界は、壊れざるを得なかった。蓮の花が無限に遠くまで打ち続いているという印象も消えた。そのころに舟は帰路についたのである。

 帰路はさんざんであった。舟がまだ池を出はずれない前に、もう朝日が東の山を出たように思う。来る時に見えなかったいろいろな物が、朝日の光に照らし出された。池はだんだん狭くなり、水田と入り組み、いつともなしになくなってしまう。その水田の間の運河に入って、町裏のきたないところを通り、淀川に出る。その間に目に入るものは、すべて、さきほどまでの美しい蓮華の世界の印象を打ちこわすようなものばかりであった。この現実暴露といっていいような帰り道がなかったら、巨椋池の蓮見は完全にすばらしいのだが、と思わずにいられなかった。

 宿に帰ったのは七時近くであったと思う。朝飯は、蓮の若葉を刻み込んだ蓮飯であった。



 谷川君はこの時には何も言わなかったが、その後何かの機会にマラリヤの話が出て、巨椋池の周囲の地方には昔から「おこり医者」といってマラリヤの療法のうまい医者があることを聞かせてくれた。巨椋池にはそれほどマラリヤの蚊が多いのである。あの蓮見の時にはそんな心配は少しもしなかった。で、そのことを谷川君にいうと、「うっかりそんな話をすれば、引っ張り出しが成功しなかったかもしれませんからね」という答えであった。落合君はもうその前から東山のマラリヤの蚊にやられていたのである。この谷川君の英断にも私は心から感謝した。あのすばらしい蓮の花の光景のことを思うと、マラリヤの蚊などは何でもない。また夜明け前後のあの時刻には、蚊はあまりいなかったように思う。



 ところで、巨椋池のあの蓮の光景が、今でも同じように見られるかどうかは、私は知らないのである。巨椋池はその後干拓工事によって水位を何尺か下げた。前に蓮の花の咲いていた場所のうちで水田に化したところも少なくないであろう。それに伴なって蓮の栽培がどういう影響を受けたかも私は知らない。もし蓮見を希望せられる方があったら、現状を問い合わせてからにしていただきたい。

 あの蓮の花の光景がもう見られなくなっているとしたら、実に残念至極のことだと思うが、しかし巨椋池はかなり広いのであるからそんなことはあるまい。

(昭和二十五年七月)










底本:「和辻哲郎随筆集」岩波文庫、岩波書店

   1995(平成7)年9月18日第1刷発行

   2006(平成18)年11月22日第6刷発行

初出:「新潮」

   1950(昭和25)年8月号

入力:門田裕志

校正:noriko saito

2011年10月21日作成

青空文庫作成ファイル:

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