與謝野晶子 晶子詩篇全集













幻想と風景

   (雑詩八十七章)







曙光





今、暁(あかつき)の

太陽の会釈に、

金色(こんじき)の笑ひ

天の隅隅(すみずみ)に降り注ぐ。



彼(か)れは目覚(めざ)めたり、

光る鶴嘴(つるはし)

幅びろき胸、

うしろに靡(なび)く

空色の髪、

わが青年は

悠揚(いうやう)として立ち上がる。



裸体なる彼(か)れが

冒険の旅は

太陽のみ知りて、

空より見て羨(うらや)めり。



青年の行手(ゆくて)には、

蒼茫(さうばう)たる

無辺の大地、

その上に、遥(はる)かに長く

濃き紫の一線

縦に、前へ、

路(みち)の如(ごと)く横たはるは、

唯(た)だ、彼(か)れの歩み行(ゆ)く

孤独の影のみ。



今、暁(あかつき)の

太陽のみ

光の手を伸べて

彼(か)れを見送る。







大震後第一春の歌





おお大地震(だいぢしん)と猛火、

その急激な襲来にも

我我は堪(た)へた。

一難また一難、

何(な)んでも来(こ)よ、

それを踏み越えて行(ゆ)く用意が

しかと何時(いつ)でもある。



大自然のあきめくら、

見くびつてくれるな、

人間には備はつてゐる、

刹那(せつな)に永遠を見通す目、

それから、上下左右へ

即座に方向転移の出来る

飛躍自在の魂(たましひ)。



おお此(こ)の魂(たましひ)である、

鋼(はがね)の質を持つた種子(たね)、

火の中からでも芽をふくものは。

おお此(こ)の魂(たましひ)である、

天の日、太洋(たいやう)の浪(なみ)、

それと共に若やかに

燃え上がり躍り上がるのは。



我我は「無用」を破壊して進む。

見よ、大自然の暴威も

時に我我の助手を勤める。

我我は「必要」を創造して進む。

見よ、溌溂(はつらつ)たる素朴と

未曾有(みぞう)[#ルビの「みぞう」は底本では「みそうう」]の喜びの

精神と様式とが前に現れる。



誰(たれ)も昨日(きのふ)に囚(とら)はれるな、

我我の生活のみづみづしい絵を

塗りの剥(は)げた額縁に入(い)れるな。

手は断(た)えず一(いち)から図を引け、

トタンと荒木(あらき)の柱との間(あひだ)に、

汗と破格の歌とを以(もつ)て

かんかんと槌(つち)の音を響かせよ。



法外な幻想に、

愛と、真実と、労働と、

科学とを織り交ぜよ。

古臭い優美と泣虫とを捨てよ、

歴史的哲学と、資本主義と、

性別と、階級別とを超えた所に、

我我は皆自己を試さう。



新しく生きる者に

日は常に元日(ぐわんじつ)、

時は常に春。

百の禍(わざはひ)も何(なに)ぞ、

千の戦(たゝかひ)で勝たう。

おお窓毎(まどごと)に裸の太陽、

軒毎(のきごと)に雪の解けるしづく。







元朝の富士





今、一千九百十九年の

最初の太陽が昇る。

美(うつ)くしいパステルの

粉(こな)絵具に似た、

浅緑(あさみどり)と淡黄(うすき)と

菫(すみれ)いろとの

透(す)きとほりつつ降り注ぐ

静かなる暁(あかつき)の光の中、

東の空の一端に、

天をつんざく

珊瑚紅(さんごこう)の熔岩(ラ)――

新しい世界の噴火……



わたしは此時(このとき)、

新しい目を逸(そら)さうとして、

思はずも見た、

おお、彼処(かしこ)にある、

巨大なダンテの半面像(シルエツト)が、

巍然(ぎぜん)として、天の半(なかば)に。



それはバルジエロの壁に描(か)かれた

青い冠(かんむり)に赤い上衣(うはぎ)、

細面(ほそおもて)に

凛凛(りゝ)しい上目(うはめ)づかひの

若き日の詩人と同じ姿である。

あれ、あれ、「新生」のダンテが

その優(やさ)しく気高(けだか)い顔を

一(いつ)ぱいに紅(あか)くして微笑(ほゝゑ)む。



人人(ひとびと)よ、戦後の第一年に、

わたしと同じ不思議が見たくば、

いざ仰(あふ)げ、共に、

朱(しゆ)に染まる今朝(けさ)の富士を。







伊豆の海岸にて





石垣の上に細路(ほそみち)、

そして、また、上に石垣、

磯(いそ)の潮で

千年の「時」が磨減(すりへ)らした

大きな円石(まろいし)を

層層(そうそう)と積み重ねた石垣。



どの石垣の間(あひだ)からも

椿(つばき)の木が生(は)えてゐる。

琅(らうかん)のやうな白い幹、

青銅のやうに光る葉、

小柄な支那(しな)の貴女(きぢよ)が

笑つた口のやうな紅(あか)い花。



石垣の崩れた処(ところ)には

山の切崖(きりぎし)が

煉瓦色(れんがいろ)の肌を出し、

下には海に沈んだ円石(まろいし)が

浅瀬の水を透(とほ)して

亀(かめ)の甲のやうに並んでゐる。



沖の初島(はつしま)の方から

折折(をりをり)に風が吹く。

その度に、近い所で

小(ち)さい浪頭(なみがしら)がさつと立ち、

石垣の椿(つばき)が身を揺(ゆす)つて

落ちた花がぼたりと水に浮く。







田舎の春





正月元日(ぐわんじつ)、里(さと)ずまひ、

喜びありて眺むれば、

まだ木枯(こがらし)はをりをりに

向ひの丘を過ぎながら

高い鼓弓(こきふ)を鳴らせども、

軒端(のきは)の日ざし温かに、

ちらり、ほらりと梅が咲く。



上には晴れた空の色、

濃いお納戸(なんど)の支那繻子(しなじゆす)に、

光、光と云(い)ふ文字を

銀糸(ぎんし)で置いた繍(ぬひ)の袖(そで)、

春が著(き)て来た上衣(うはぎ)をば

枝に掛けたか、打香(うちかを)り、

ちらり、ほらりと梅が咲く。







太陽出現





薄暗がりの地平に

大火の祭。

空が焦げる、

海が燃える。



珊瑚紅(さんごこう)から

黄金(わうごん)の光へ、

眩(まば)ゆくも変りゆく

焔(ほのほ)の舞。



曙(あけぼの)の雲間(くもま)から

子供らしい円(まろ)い頬(ほ)を

真赤(まつか)に染めて笑ふ

地上の山山。



今、焔(ほのほ)は一(ひと)揺れし、

世界に降らす金粉(きんぷん)。

不死鳥(フエニクス)の羽羽(はば)たきだ。

太陽が現れる。







春が来た





春が来た。

せまい庭にも日があたり、

張物板(はりものいた)の紅絹(もみ)のきれ、

立つ陽炎(かげろふ)も身をそそる。



春が来た。

亜鉛(とたん)の屋根に、ちよちよと、

妻に焦(こが)れてまんまろな

ふくら雀(すゞめ)もよい形(かたち)。



春が来た。

遠い旅路の良人(をつと)から

使(つかひ)に来たか、見に来たか、

わたしを泣かせに唯(た)だ来たか。



春が来た。

朝の汁(スウプ)にきりきざむ

蕗(ふき)の薹(たう)にも春が来た、

青いうれしい春が来た。







二月の街





春よ春、

街に来てゐる春よ春、

横顔さへもなぜ見せぬ。



春よ春、

うす衣(ぎぬ)すらもはおらずに

二月の肌を惜(をし)むのか。



早く注(さ)せ、

あの大川(おほかは)に紫を、

其処(そこ)の並木にうすべにを。



春よ春、

そなたの肌のぬくもりを

微風(そよかぜ)として軒(のき)に置け。



その手には

屹度(きつと)、蜜(みつ)の香(か)、薔薇(ばら)の夢、

乳(ちゝ)のやうなる雨の糸。



想(おも)ふさへ

好(よ)しや、そなたの贈り物、

そして恋する赤い時。



春よ春、

おお、横顔をちらと見た。

緑の雪が散りかかる。







我前に梅の花





わが前に梅の花、

淡(うす)き緑を注(さ)したる白、

ルイ十四世(じふしせ)の白、

上には瑠璃(るり)色の

支那絹(しなぎぬ)の空、

目も遥(はる)に。



わが前に梅の花、

心は今、

白金(はくきん)の巣に

香(か)に酔(ゑ)ふ小鳥、

ほれぼれと、一節(ひとふし)、

高音(たかね)に歌はまほし。



わが前に梅の花、

心は更に、

空想の中なる、

羅馬(ロオマ)を見下(みおろ)す丘の上の、

大理石の柱廊(ちゆうらう)[#ルビの「ちゆうらう」は底本では「ちうらう」]に

片手を掛けたり。







紅梅





おお、ひと枝の

花屋の荷のうへの

紅梅の花、

薄暗(うすくら)い長屋の隅で

ポウブルな母と娘が

つぎ貼(は)りした障子の中の

冬の明(あか)りに、

うつむいて言葉すくなく、

わづかな帛片(きれ)と

糊(のり)と、鋏(はさみ)と、木の枝と、

青ざめた指とを用ひて、

手細工(てざいく)に造つた花と云(い)はうか。

いぢらしい花よ、

涙と人工との

羽二重の赤玉(あかだま)を綴(つゞ)つた花よ、

わたしは悲しい程そなたを好く。

なぜと云(い)ふなら、

そなたの中に私がある、

私の中にそなたがある。

そなたと私とは

厳寒(げんかん)と北風(きたかぜ)とに曝(さら)されて、

あの三月(さんぐわつ)に先だち、

怖(おそ)る怖(おそ)る笑つてゐる。







新柳





空は瑠璃(るり)いろ、雨のあと、

並木の柳、まんまろく

なびく新芽の浅みどり。



すこし離れて見るときは、

散歩の路(みち)の少女(をとめ)らが

深深(ふかぶか)とさす日傘(パラソル)か。



蔭(かげ)に立寄り見る時は、

絵のなかに舞ふ鳳凰(ほうわう)の

雲より垂れた錦尾(にしきを)か。



空は瑠璃(るり)いろ、雨のあと、

並木の柳、その枝を

引けば翡翠(ひすゐ)の露が散る。







牛込見附外





牛込見附(うしごめみつけ)の青い色、

わけて柳のさばき髪(がみ)、

それが映つた濠(ほり)の水。



柳の蔭(かげ)のしつとりと

黒く濡(ぬ)れたる朝じめり。

垂れた柳とすれすれに

白い護謨輪(ごむわ)の馳(は)せ去れば、

あとに我児(わがこ)の靴のおと。



黄いろな電車を遣(や)りすごし、

見上げた高い神楽坂(かぐらざか)、

何(なに)やら軽(かろ)く、人ごみに

気おくれのする快さ。



我児(わがこ)の手からすと離れ、

風船玉(だま)が飛んでゆく、

軒(のき)から軒(のき)へ揚(あが)りゆく。







市中沙塵





柳の青む頃(ころ)ながら、

二月の風は殺気(さつき)だち、

都の街の其処(そこ)ここに

砂の毒瓦斯(どくがす)、砂の灰、

砂の地雷を噴き上げる。



よろよろとして、濠端(ほりばた)に

山高帽を抑(おさ)へたる

洋服づれの逃げ足の

操人形(あやつり)に似る可笑(をか)しさを、

外目(よそめ)に笑ふひまも無く、



さと我顔(わがかほ)に吹きつくる

痛き飛礫(つぶて)に目ふさげば、

軽(かろ)き眩暈(めまひ)に身は傾(かし)ぎ、

思はずにじむ涙さへ

砂の音して、あぢきなし。



二月の風の憎きかな、

乱るる裾(すそ)は手に取れど、

髪も袂(たもと)も鍋鶴(なべづる)の

灰色したる心地して、

砂の煙(けぶり)に羽羽(はば)たきぬ。







弥生の歌





にはかに人の胸を打つ

高い音(ね)じめの弥生(やよひ)かな、

支那(しな)の鼓弓(こきう)の弥生(やよひ)かな。



かぼそい靴を爪立(つまだ)てて

くるりと旋(めぐ)る弥生(やよひ)かな、

露西亜(ロシア)バレエの弥生(やよひ)かな。



薔薇(ばら)に並んだチユウリツプ、

黄金(きん)[#ルビの「きん」は底本では「ん」]」と白との弥生(やよひ)かな、

ルイ十四世(じふしせい)の弥生(やよひ)かな。







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