與謝野晶子 晶子詩篇全集





四月の太陽





ああ、今やつと目の醒(さ)めた

はればれとせぬ、薄い黄の

メランコリツクの太陽よ、

霜、氷、雪、北風の

諒闇(りやうあん)の日は過ぎたのに、

永く見詰めて寝通(ねとほ)した

暗い一間(ひとま)を脱け出して、

柳並木の河岸(かし)通(どほ)り

塗り替へられた水色の

きやしやな露椅子(バンク)に腰を掛け、

白い諸手(もろて)を細杖(ほそづゑ)の

銀の把手(とつて)に置きながら、

風を怖(おそ)れて外套(ぐわいたう)の

淡(うす)い焦茶の襟を立て、

病(やまひ)あがりの青ざめた

顔を埋(うづ)めて下を向く

若い男の太陽よ。

しかし早くも、美(うつ)くしい

うすくれなゐの微笑(ほゝゑみ)は

太陽の頬(ほ)にさつと照り、

掩(おほ)ひ切れざる喜びの

底ぢからある目差(まなざし)は

金(きん)の光をちらと射る。

あたりを見れば、桃さくら、

エリオトロオプ、チユウリツプ、

小町(こまち)娘を選(よ)りぬいた

花の踊りの幾むれが

春の歌をば口口(くちぐち)に

細い腕(かひな)をさしのべて、

ああ太陽よ、新しく

そなたを祝ふ朝が来た。

もとより若い太陽に

春は途中の駅(しく)なれば、

いざ此処(ここ)にして胸を張り

全身の血を香らせて

花と青葉を呼吸せよ、

いざ魂(たましひ)をすこやかに

はた清くして、晶液(しやうえき)の

滴(したゝ)る水に身を洗へ。

やがて、そなたの行先(ゆくさき)は

すべての溝が毒に沸(わ)き、

すべての街が悪に燃え、

腐れた匂(にほ)ひ、※(あつ)[#「執/れんが」、U+24360、165-上-4]い気息(いき)、

雨と洪水、黴(かび)と汗、

蠕虫(うじ)[#ルビの「うじ」は底本では「うぢ」]、バクテリヤ、泥と人、

其等(それら)の物の入(い)りまじり、

濁り、泡立ち、咽(む)せ返る

夏の都を越えながら、

汚(けが)れず、病まず、悲(かなし)まず、

信と勇気の象形(うらかた)に

細身の剣と百合(ゆり)を取り、

ああ太陽よ、悠揚(いうやう)と

秋の野山に分け入(い)れよ、

其処(そこ)にそなたの唇は

黄金(きん)の果実(このみ)に飽くであろ。







雑草





雑草こそは賢けれ、

野にも街にも人の踏む

路(みち)を残して青むなり。



雑草こそは正しけれ、

如何(いか)なる窪(くぼ)も平(たひら)かに

円(まろ)く埋(うづ)めて青むなり。



雑草こそは情(なさけ)あれ、

獣(けもの)のひづめ、鳥の脚(あし)、

すべてを載せて青むなり。



雑草こそは尊(たふと)けれ、

雨の降る日も、晴れし日も、

微笑(ほゝゑ)みながら青むなり。







桃の花





すくすく伸びた枝毎(えだごと)に

円(まろ)くふくらむ好(よ)い蕾(つぼみ)。

若い健気(けなげ)な創造の

力に満ちた桃の花。



この世紀から改まる

女ごころの譬(たとへ)にも

私は引かう、華やかに

この美(うつ)くしい桃の花。



ひと目見るなり、太陽も、

風も、空気も、人の頬(ほ)も、

さつと真赤(まつか)に酔(ゑ)はされる

愛と匂(にほ)ひの桃の花。



女の明日(あす)の※情(ねつじやう)[#「執/れんが」、U+24360、166-下-6]が

世をば平和にする如(ごと)く、

今日(けふ)の世界を三月(さんぐわつ)の

絶頂に置く桃の花。







春の微風





ああ三月(さんぐわつ)のそよかぜ、

蜜(みつ)と、香(か)と、日光とに

そのたをやかな身を浸して、

春の舞台に登るそよかぜ。



そなたこそ若き日の初恋の

あまき心を歌ふ序曲なれ。

たよたよとして微触(ほの)かなれども、

いと長きその喜びは既に溢(あふ)る。



また、そなたこそ美しきジユリエツトの

ロメオに投げし燃ゆる目なれ。

また、フランチエスカとパウロとの[#「パウロとの」は底本では「バウロとの」]

額(ぬか)寄せて心酔(ゑ)ひつつ読みし書(ふみ)なれ。



ああ三月(さんぐわつ)のそよかぜ、

今、そなたの第一の微笑(ほゝゑ)みに、

人も、花も、胡蝶(こてふ)も、

わなわなと胸踊る、胸踊る。







桜の歌





花の中なる京をんな、

薄花(うすはな)ざくら眺むれば、

女ごころに晴れがまし。



女同士とおもへども、

女同士の気安さの

中に何(なに)やら晴れがまし。



春の遊びを愛(め)づる君、

知り給(たま)へるや、この花の

分けていみじき一時(ひととき)を。



日は今西に移り行(ゆ)き、

知り給(たま)へるや、木(こ)がくれて、

青味を帯びしひと時を。



日は今西に移り行(ゆ)き、

静かに霞(かす)む春の昼、

花は泣かねど人ぞ泣く。







緋桜(ひざくら)





赤くぼかした八重ざくら、

その蔭(かげ)ゆけば、ほんのりと、

歌舞伎(かぶき)芝居に見るやうな

江戸の明(あか)りが顔にさし、

ひと枝折れば、むすめ気(ぎ)の、

おもはゆながら、絃(いと)につれ、

何(なに)か一(ひと)さし舞ひたけれ。



さてまた小雨(こさめ)ふりつづき、

目を泣き脹(は)らす八重ざくら、

その散りがたの艶(いろ)めけば、

豊國(とよくに)の絵にあるやうな、

繻子(じゆす)の黒味の落ちついた

昔の帯をきゆうと締め、

身もしなやかに眺めばや。







春雨





工場(こうば)の窓で今日(けふ)聞くは

慣れぬ稼(かせ)ぎの涙雨(なみだあめ)、

弥生(やよひ)と云(い)へど、美(うつ)くしい

柳の枝に降りもせず、

煉瓦(れんが)の塀や、煙突や、

トタンの屋根に濡(ぬ)れかかり、

煤(すゝ)と煙を溶(と)きながら、

石炭殻(がら)に沁(し)んでゆく。

雨はいぢらし、思ひ出す、

こんな雨にも思ひ出す、

母がこと、また姉がこと、

そして門田(かどた)のれんげ草。







薔薇の歌(八章)





賓客(まらうど)[#ルビの「まらうど」は底本では「まろうど」]よ、

いざ入(い)りたまへ、

否(いな)、しばし待ちたまへ、

その入口(いりくち)の閾(しきゐ)に。



知りたまふや、賓客(まらうど)よ、

ここに我心(わがこゝろ)は

幸運の俄(には)かに来(きた)れる如(ごと)く、

いみじくも惑へるなり。



なつかしき人、

今、われに

これを得させたまへり、

一抱(ひとかゝ)へのかずかずの薔薇(ばら)。



如何(いか)にすべきぞ、

この堆(うづたか)き

めでたき薔薇(ばら)を、

両手(もろで)に余る薔薇(ばら)を。



この花束のままに[#「花束のままに」は底本では「花束のまにまに」]

太き壺(つぼ)にや活(い)けん、

とりどりに

小(ち)さき瓶(かめ)にや分(わか)たん。



先(ま)づ、何(なに)はあれ、

この薄黄(うすき)なる大輪(たいりん)を

賓客(まらうど)よ、

君が掌(てのひら)に置かん。



花に足る喜びは、

美(うつ)くしきアントニオを載せて

羅馬(ロオマ)を船出(ふなで)せし

クレオパトラも知らじ。



まして、風流(ふうりう)の大守(たいしゆ)、

十二の金印(きんいん)を佩(お)びて、

楊州(やうしう)に下(くだ)る楽(たのし)みは

言ふべくも無し。



いざ入(い)りたまへ、

今日(けふ)こそ我が仮の家(いへ)も、

賓客(まらうど)よ、君を迎へて、

飽かず飽かず語らまほしけれ。

    ×

一つの薔薇(ばら)の瓶(かめ)は

梅原さんの

寝たる女の絵の前に置かん。

一つの薔薇(ばら)の瓶(かめ)は

ロダンの写真と

並べて置かん。

一つの薔薇(ばら)の瓶(かめ)は

君と我との

間(あひだ)の卓に置かん。

さてまた二つの薔薇(ばら)の瓶(かめ)は

子供達の

部屋部屋に分けて置かん。

あとの一つの瓶(かめ)は

何処(いづこ)にか置くべき。

化粧(けはひ)の間(ま)にか、

あの粗末なる鏡に

影映らば

花のためにいとほし。

若き藻風(さうふう)の君の

来たまはん時のために、

客間の卓の

葉巻の箱に添へて置かん。

    ×

今日(けふ)、わが家(いへ)には

どの室(しつ)にも薔薇(ばら)あり。

我等は生きぬ、

香味(かうみ)と、色と、

春と、愛と、

光との中に。



なつかしき博士(はかせ)夫人、

その花園(はなぞの)の薔薇(ばら)を、

朝露(あさつゆ)の中に摘みて、

かくこそ豊かに

贈りたまひつれ。

どの室(しつ)にも薔薇(ばら)あり。



同じ都に住みつつ、

我は未(いま)だその君を

まのあたり見ざれど、

匂(にほ)はしき御心(みこころ)の程は知りぬ、

何時(いつ)も、何時(いつ)も、

花を摘みて賜(たま)へば。

    ×

われは宵より

暁(あかつき)がたまで

書斎にありき。

物書くに筆躍りて

狂ほしくはずむ心は

※病(ねつびやう)[#「執/れんが」、U+24360、172-下-7]の人に似たりき。

振返れば、

隅なる書架の上に、

博士(はかせ)夫人の賜(たま)へる

焔(ほのほ)の色の薔薇(ばら)ありき。

思はずも、我は

手を伸べて叫びぬ、

「おお、我が待ちし

七つの太陽は其処(そこ)に」と。

    ×

今朝(けさ)、わが家(いへ)の

どの室(しつ)の薔薇(ばら)も、

皆、唇なり。

春の唇、

本能の唇、

恋人の唇、

詩人の唇、

皆、微笑(ほゝゑ)める唇なり、

皆、歌へる唇なり。

    ×

あはれ、何(なん)たる、

若やかに、

好色好色(すきずき)しき

微風(そよかぜ)ならん。

青磁の瓶(かめ)の蔭(かげ)に

宵より忍び居て、

この暁(あかつき)、

大輪(たいりん)の薔薇(ばら)の

仄(ほの)かに落ちし

真赤(まつか)なる

一片(ひとひら)の下(もと)に、

あへなくも圧(お)されて、

息を香(か)に代へぬ。

    ×

瓶毎(かめごと)に

わが侍(かしづ)き護(まも)る

宝玉(はうぎよく)の如(ごと)き

めでたき薔薇(ばら)、

天(あま)つ日の如(ごと)き

盛りの薔薇(ばら)、

恋知らぬ天童(てんどう)の如(ごと)き

清らなる薔薇(ばら)、

これらの花よ、

人間の身の

われ知りぬ、

及び難(がた)しと。



此処(ここ)に

われに親しきは、

肉身の深き底より

已(や)むに已(や)まれず

燃えあがる※情(ねつじやう)[#「執/れんが」、U+24360、174-上-12]の

其(そ)れにひとしき紅(あか)き薔薇(ばら)、

はた、逸早(いちはや)く

愁(うれひ)を知るや、

青ざめて、

月の光に似たる薔薇(ばら)、

深き疑惑に沈み入(い)る

烏羽玉(うはたま)の黒き薔薇(ばら)。

    ×

薔薇(ばら)がこぼれる。

ほろりと、秋の真昼、

緑の四角な瓶(かめ)から

卓の上へ静かにこぼれる。

泡のやうな塊(かたまり)、

月の光のやうな線、

ラフワエルの花神(フロラ)の絵の肉色(にくいろ)。

つつましやかな薔薇(ばら)は

散る日にも悲しみを秘めて、

修道院の壁に凭(よ)る

尼達のやうには青ざめず、

清く貴(あて)やかな処女の

高い、温かい寂(さび)しさと、

みづから抑(おさ)へかねた妙香(めうかう)の

金色(こんじき)をした雰囲気(アトモスフエエル)との中に、

わたしの書斎を浸してゐる。

    ×

まあ華やかな、

けだかい、燃え輝いた、

咲きの盛りの五月(ごぐわつ)の薔薇(ばら)。

どうして来てくれたの、

このみすぼらしい部屋へ、

この疵(きず)だらけの卓(テエブル)の上へ、

薔薇(ばら)よ、そなたは

どんな貴女(きぢよ)の飾りにも、

どんな美しい恋人の贈物にも、

ふさはしい最上の花である。

もう若さの去つた、

そして平凡な月並の苦労をしてゐる、

哀れな忙(せは)しい私が

どうして、そなたの友であらう。

人間の花季(はなどき)は短い、

そなたを見て、私は

今ひしひしと是(こ)れを感じる。

でも、薔薇(ばら)よ、

私は窓掛を引いて、

そなたを陰影(かげ)の中に置く。

それは、あの太陽に

そなたを奪はせないためだ、

猶(なほ)、自分を守るやうに、

そなたを守りたいためだ。







牡丹の歌





おお、真赤(まつか)なる神秘の花、

天啓の花、牡丹(ぼたん)。

ひとり地上にありて

かの太陽の心を知れる花、牡丹(ぼたん)。

愛の花、※(ねつ)[#「執/れんが」、U+24360、176-上-8]の花、

幻想の花、焔(ほのほ)の花、牡丹(ぼたん)。

コンテツス・ド・ノワイユを、

ルノワアルを、梅蘭芳(メイランフワン)を、

梅原龍三郎(りようざぶらう)を連想する花、牡丹(ぼたん)。



おお、そなたは、また、

宇宙の不思議に酔(ゑ)へる哲人の

大歓喜(だいくわんぎ)を示す記号(アンブレエム)、牡丹(ぼたん)。

また詩人が常に建つる

※情(ねつじやう)[#「執/れんが」、U+24360、176-下-5]の宝楼(はうろう)の

柱頭(ちゆうとう)[#ルビの「ちゆうとう」は底本では「ちうとう」]を飾る火焔模様、牡丹(ぼたん)。

また、青春の秘経(ひきやう)の奥に

愛と栄華を保証する

運命の黄金(きん)の大印(たいいん)、牡丹(ぼたん)。



おお、そなたは、また、

新しき思想が我に差出す

甘き接吻(ベエゼ)の唇、牡丹(ぼたん)。

我は狂ほしき眩暈(めまひ)の中に

そを受けぬ、そを吸ひぬ、

※(あつ)[#「執/れんが」、U+24360、177-上-1]き、※(あつ)[#「執/れんが」、U+24360、177-上-1]きヒユウマニズムの唇、牡丹(ぼたん)。

おお、今こそ目を閉ぢて見る我が奥に、

そなたは我が愛、我が心臓、

我が真赤(まつか)なる心の花、牡丹(ぼたん)。







初夏(はつなつ)





初夏(はつなつ)が来た、初夏(はつなつ)は

髪をきれいに梳(す)き分けた

十六七の美少年。

さくら色した肉附(にくづき)に、

ようも似合うた詰襟(つめえり)の

みどりの上衣(うはぎ)、しろづぼん。



初夏(はつなつ)が来た、初夏(はつなつ)は

青い焔(ほのほ)を沸(わ)き立たす

南の海の精であろ。

きやしやな前歯に麦の茎

ちよいと噛(か)み切り吹く笛も

つつみ難(がた)ない火の調子。



初夏(はつなつ)が来た、初夏(はつなつ)は

ほそいづぼんに、赤い靴、

杖(つゑ)を振り振り駆けて来た。

そよろと匂(にほ)ふ追風(おひかぜ)に、

枳殻(きこく)の若芽、けしの花、

青梅(あをうめ)の実も身をゆする。



初夏(はつなつ)が来た、初夏(はつなつ)は

五行ばかりの新しい

恋の小唄(こうた)をくちずさみ、

女の呼吸(いき)のする窓へ、

物を思へど、蒼白(あをじろ)い

百合(ゆり)の陰翳(かげ)をば投げに来た。







夏の女王





おお、暑い夏、今年の夏、

ほんとうに夏らしい夏、

不足の言ひやうのない夏、

太陽のむき出しな

心臓の皷動(こどう)に調子を合せて、

万物が一斉に

うんと力(りき)み返り、

肺一(いつ)ぱいの息を太くつき

たらたらと汗を流し、

芽と共に花を、

花と共に香りを、

愛と共に歌を、

歌と共に踊りを、

内から投げ出さずにゐられない夏、

金色(こんじき)に光る夏、

真紅(しんく)に炎上する夏、

火の粉(こ)を振撒(ふりま)く夏、

機関銃で掃射する夏、

沸騰する焼酎(せうちう)の夏、

乱舞する獅子頭(ししかしら)の夏、

かう云(い)ふ夏のあるために

万物は目を覚(さま)し、

天地(てんち)初生(しよせい)の元気を復活し、

救はれる、救はれる、

沈滞と怠慢とから、

安易と姑息(こそく)とから、

小さな怨嗟(ゑんさ)から、

見苦(みぐるし)い自己忘却から、

サンチマンタルから、

無用の論議から……

おお、密雲の近づく中の

霹靂(へきれき)の一音(いちおん)、

それが振鈴(しんれい)だ、

見よ、今、

赫灼(かくしやく)たる夏の女王(ぢよわう)の登場。







五月の歌





ああ、五月(ごぐわつ)、

そなたは、美(うつ)くしい

季節の処女(をとめ)

太陽の花嫁。



そなたの為(た)めに、

野は躑躅(つゝじ)を、

水は杜若(かきつばた)を、

森は藤(ふぢ)を捧(さゝ)げる。



微風(そよかぜ)も、蜜蜂(みつばち)も、

はた杜鵑(ほとゝぎす)も、

唯(た)だそなたを

讃(ほ)めて歌ふ。



五月(ごぐわつ)よ、そなたの

桃色の微笑(ほゝゑみ)は

木蔭(こかげ)の薔薇(ばら)の

花の上にもある。







五月礼讃(らいさん)





五月(ごぐわつ)は好(よ)い月、花の月、

芽の月、香(か)の月、色(いろ)の月、

ポプラ、マロニエ、プラタアヌ、

つつじ、芍薬(しやくやく)、藤(ふぢ)、蘇枋(すはう)、

リラ、チユウリツプ、罌粟(けし)の月、

女の服のかろがろと

薄くなる月、恋の月、

巻冠(まきかんむり)に矢を背負ひ、

葵(あふひ)をかざす京人(きやうびと)が

馬競(うまくら)べする祭月(まつりづき)、

巴里(パリイ)の街の少女等(をとめら)が

花の祭に美(うつ)くしい

貴(あて)な女王(ぢよわう)を選ぶ月、

わたしのことを云(い)ふならば

シベリアを行(ゆ)き、独逸(ドイツ)行(ゆ)き、

君を慕うてはるばると

その巴里(パリイ)まで著(つ)いた月、

菖蒲(あやめ)の太刀(たち)と幟(のぼり)とで

去年うまれた四男(よなん)目の

アウギユストをば祝ふ月、

狭い書斎の窓ごしに

明るい空と棕櫚(しゆろ)の木が

馬来(マレエ)の島を想(おも)はせる

微風(そよかぜ)の月、青い月、

プラチナ色(いろ)の雲の月、

蜜蜂(みつばち)の月、蝶(てふ)の月、

蟻(あり)も蛾(が)となり、金糸雀(かなりや)も

卵を抱(いだ)く生(うみ)の月、

何(なに)やら物に誘(そゝ)られる

官能の月、肉の月、

ヴウヴレエ酒の、香料の、

踊(をどり)の、楽(がく)の、歌の月、

わたしを中に万物(ばんぶつ)が

堅く抱きしめ、縺(もつ)れ合ひ、

呻(うめ)き、くちづけ、汗をかく

太陽の月、青海(あをうみ)の、

森の、公園(パルク)の、噴水の、

庭の、屋前(テラス)の、離亭(ちん)の月、

やれ来た、五月(ごぐわつ)、麦藁(むぎわら)で

細い薄手(うすで)の硝杯(こつぷ)から

レモン水(すゐ)をば吸ふやうな

あまい眩暈(めまひ)を投げに来た。







南風





四月の末(すゑ)に街行(ゆ)けば、

気ちがひじみた風が吹く。

砂と、汐気(しほけ)と、泥の香(か)と、

温気(うんき)を混ぜた南風(みなみかぜ)。



細柄(ほそえ)の日傘わが手から

気球のやうに逃げよとし、

髪や、袂(たもと)や、裾(すそ)まはり

羽ばたくやうに舞ひ揚(あが)る。



人も、車も、牛、馬も

同じ路(みち)踏む都とて、

電車、自転車、監獄車、

自動車づれの狼藉(らうぜき)さ[#「狼藉さ」は底本では「狼籍さ」]。



鼻息荒く吼(ほ)えながら、

人を侮り、脅(おびや)かし、

浮足立(た)たせ、周章(あわ)てさせ、

逃げ惑はせて、あはや今、



踏みにじらんと追ひ迫り、

さて、その刹那(せつな)、冷(ひやゝ)かに、

からかふやうに、勝つたよに、

見返りもせず去つて行(ゆ)く。



そして神田の四つ辻(つじ)に、

下駄を切らして俯(うつ)向いた

わたしの顔を憎らしく

覗(のぞ)いて遊ぶ南風(みなみかぜ)。







五月の海





おお、海が高まる、高まる。

若い、やさしい五月(ごぐわつ)の胸、

群青色(ぐんじやういろ)の海が高まる。

金岡(かなをか)の金泥(こんでい)の厚さ、

光悦(くわうえつ)の線の太さ、

寫樂(しやらく)の神経のきびきびしさ、

其等(それら)を一つに融(と)かして

音楽のやうに海が高まる。



さうして、その先に

美しい海の乳首(ちゝくび)と見える

まんまるい一点の紅(あか)い帆。

それを中心に

今、海は一段と緊張し、

高まる、高まる、高まる。

おお、若い命が高まる。

わたしと一所(いつしよ)に海が高まる。







チユウリツプ





今年も五月(ごぐわつ)、チユウリツプ、

見る目まばゆくぱつと咲く、

猩猩緋(しやう/″\ひ)に咲く、黄金(きん)に咲く、

紅(べに)と白とをまぜて咲く、

人に構はず派手に咲く。







五月雨





今日(けふ)も冷たく降る雨は

白く尽きざる涙にて、

世界を掩(おほ)ふ梅雨空(つゆぞら)は

重たき繻子(しゆす)の喪(も)の掛布(かけふ)。



空は空とて悲しきか、

かなしみ多き我胸(わがむね)も

墨と銀との泣き交(かは)す

ゆふべの色に変る頃。







夏草





庭に繁(しげ)れる雑草も

見る人によりあはれなり、

心に上(のぼ)る雑念(ざふねん)も

一一(いち/\)見れば捨てがたし。

あはれなり、捨てがたし、

捨てがたし、あはれなり。







たんぽぽの穂





うすずみ色の梅雨空(つゆぞら)に、

屋根の上から、ふわふわと

たんぽぽの穂が[#「穂が」は底本では「穂か」]白く散る。



※(ねつ)[#「執/れんが」、U+24360、184-下-2]と笑ひを失つた

老いた世界の肌皮(はだかは)が

枯れて剥(は)がれて落ちるのか。



たんぽぽの穂の散るままに、

ちらと滑稽(おど)けた骸骨(がいこつ)が

前に踊つて消えて行(い)く。



何(なに)か心の無かるべき。

ほつと気息(いき)をばつきながら

思ひあまりて散るならん、

梅雨(つゆ)[#ルビの「つゆ」は底本では「づゆ」]の晴間(はれま)の屋根の草。








屋根の草





一(ひと)むら立てる屋根の草、

何(な)んの草とも知らざりき。

梅雨(つゆ)の晴間(はれま)に見上ぐれば、

綿より脆(もろ)く、白髪(しらが)より

細く、はかなく、折折(をりをり)に

たんぽぽの穂がふわと散る。







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