與謝野晶子 晶子詩篇全集





五月雨と私





ああ、さみだれよ、昨日(きのふ)まで、

そなたを憎いと思つてた。

魔障(ましやう)の雲がはびこつて

地を亡(ほろ)ぼそと降るやうに。



もし、さみだれが世に絶えて

唯(た)だ乾く日のつづきなば、

都も、山も、花園も、

サハラの沙(すな)となるであろ。



恋を命とする身には

涙の添ひてうらがなし。

空を恋路にたとへなば、

そのさみだれはため涙。



降れ、しとしとと、しとしとと、

赤をまじへた、温かい

黒の中から、さみだれよ、

網形(あみがた)に引け、銀の糸。



ああ、さみだれよ、そなたのみ、

わが名も骨も朽ちる日に、

埋(うも)れた墓を洗ひ出し、

涙の手もて拭(ぬぐ)ふのは。







隅田川





隅田川、

隅田川、

いつ見ても

土の色して

かき濁り、

黙(もく)して流(なが)る。



今は我身(わがみ)に

引きくらべ、

土より出たる

隅田川、

隅田川、

ひとしく悲し。



行(ゆ)く人は

悪を離れず、

行(ゆ)く水は

土を離れず。

隅田川、

隅田川。







朝日の前





あはれ、日の出、

山山(やまやま)は酔(ゑ)へる如(ごと)く、

みな喜びに身を揺(ゆす)りて、

黄金(きん)と朱(しゆ)の笑(ゑ)まひを交(かは)し、

海と云(い)ふ海は皆、

虹(にじ)よりも眩(まば)ゆき

黄金(きん)と五彩の橋を浮(うか)べて、

「日よ、先(ま)づ

此処(ここ)より過ぎたまへ」とさし招き、

さて、日の脚(あし)に口づけんとす。



あはれ、日の出、

万象(ばんしやう)は

一瞬にして、奇蹟の如(ごと)く

すべて変れり。

大寺(おほてら)の屋根に

鳩(はと)のむれは羽羽(はば)たき、

裏街に眠りし

運河のどす黒(ぐろ)き水にも

銀と珊瑚(さんご)のゆるき波を揚げて、

早くも動く船あり。

人、いづこにか

静かに怠りて在り得(う)べき。

あはれ、日の出、

神神(かうがう)しき日の出、

われもまた

かの喬木(けうぼく)の如(ごと)く、

光明(くわうみやう)赫灼(かくしやく)のなかに、

高く二つの手を開(ひら)きて、

新しき日を抱(いだ)かまし。







虞美人草





虞美人草(ぐびじんさう)の散るままに、

淫(たは)れた風も肩先を

深く斬(き)られて血を浴びる。



虞美人草(ぐびじんさう)の散るままに、

畑(はた)は火焔の渠(ほり)となり、

入日(いりひ)の海へ流れゆく。



虞美人草(ぐびじんさう)も、わが恋も、

ああ、散るままに散るままに、

散るままにこそまばゆけれ。







罌粟の花





この草原(くさはら)に、誰(だれ)であろ、

波斯(ペルシヤ)の布の花模様、

真赤(まつか)な刺繍(ぬひ)を置いたのは。



いえ、いえ、これは太陽が

土を浄(きよ)めて世に降らす

点、点、点、点、不思議の火。



いえ、いえ、これは「水無月(みなづき)」が

真夏の愛を地に送る

※(あつ)[#「執/れんが」、U+24360、188-下-11]いくちづけ、燃ゆる星眸(まみ)。



いえ、いえ、これは人同志

恋に焦(こが)れた心臓の

象形(うらかた)に咲く罌粟(けし)の花。



おお、罌粟(けし)の花、罌粟(けし)の花、

わたしのやうに一心(いつしん)に

思ひつめたる罌粟(けし)の花。







散歩





河からさつと風が吹く。

風に吹かれて、さわさわと

大きく靡(なび)く原の蘆(あし)。



蘆(あし)の間(あひだ)を縫ふ路(みち)の

何処(どこ)かで人の話しごゑ、

そして近づく馬の(だく)。



小高(こだか)い岡(をか)に突き当り

路(みち)は左へ一廻(ひとめぐ)り。

私は岡(をか)へ駈(か)け上がる。



下を通るは、馬の背に

男のやうな帽を被(き)た

亜米利加(アメリカ)婦人の二人(ふたり)づれ。



緑を伸べた地平には、

遠い工場(こうば)の煙突が

赤い点をば一つ置く。







夏日礼讃





ああ夏が来た。この昼の

若葉を透(とほ)す日の色は

ほんに酒ならペパミント、

黄金(きん)と緑を振り注ぎ、

広く障子を開(あ)けたれば、

子供のやうな微風(そよかぜ)が

衣桁(いかう)に掛けた友染(いうせん)の

長い襦袢(じゆばん)に戯れる。



ああ夏が来た。こんな日は

君もどんなに恋しかろ、

巴里(パリイ)の広場、街並木、

珈琲店(カツフエ)の[#「珈琲店の」は底本では「琲珈店の」]前庭(テラス)、Boi(ボワ) の池。

私も筆の手を止めて、

晴れた Seine(セエヌ) の濃紫(こむらさき)

今その水が目に浮(うか)び、

じつと涙に濡(ぬ)れました。



ああ夏が来た、夏が来た。

二人(ふたり)の画家とつれだつて、

君と私が Amian(アミアン) の

塔を観(み)たのも夏である。

二度と行(ゆ)かれる国で無し、

私に帽をさし出した

お寺の前の乞食(こじき)らに

物を遣(や)らずになぜ来たか。







庭の草





庭いちめんにこころよく

すくすく繁(しげ)る雑草よ、

弥生(やよひ)の花に飽いた目は

ほれぼれとして其(そ)れに向く。

人の気づかぬ草ながら、

十三塔(じふさんたふ)を高く立て

風の吹くたび舞ふもある。

女らしくも手を伸ばし、

誰(た)れを追ふのか、抱(いだ)くのか、

上目(うはめ)づかひに泣くもある。

五月(ごぐわつ)のすゑの外光(ぐわいくわう)に

汗の香(か)のする全身を

香炉(かうろ)としつつ焚(た)くもある。

名をすら知らぬ草ながら、

葉の形(かた)見れば限り無し、

さかづきの形(かた)、とんぼ形(がた)、

のこぎりの形(かた)、楯(たて)の形(かた)、

ペン尖(さき)の形(かた)、針の形(かた)。

また葉の色も限り無し、

青梅(あをうめ)の色、鶸茶色(ひわちやいろ)、[#「鶸茶色、」は底本では「鶸茶色」]

緑青(ろくしやう)の色、空の色、

それに裏葉(うらは)の海の色。

青玉色(せいぎよくいろ)に透(す)きとほり、

地にへばりつく或(あ)る葉には

緑を帯びた仏蘭西(フランス)の

牡蠣(かき)の薄身(うすみ)を思ひ出し、

なまあたたかい曇天(どんてん)に

細かな砂の灰が降り、

南の風に草原(くさはら)が

のろい廻渦(うねり)を立てる日は、

六(む)坪ばかりの庭ながら

紅海沖(こうかいおき)が目に浮(うか)ぶ。







暴風





洗濯物を入れたまま

大きな盥(たらひ)が庭を流れ、

地が俄(には)かに二三尺(じやく)も低くなつたやうに

姫向日葵(ひめひまはり)の鬱金(うこん)の花の尖(さき)だけが見え、

ごむ手毬(でまり)がついと縁の下から出て、

潜水服を著(き)たお伽噺(とぎばなし)の怪物の顧眄(みえ)をしながら

腐つた紅(あか)いダリアの花に取り縋(すが)る。

五六枚しめた雨戸の間間(あひだあひだ)から覗(のぞ)く家族の顔は

どれも栗毛(くりげ)の馬の顔である。

雨はますます白い刄(やいば)のやうに横に降る。



わたしは颶風(あらし)にほぐれる裾(すそ)を片手に抑(おさ)へて、

泡立つて行(ゆ)く濁流を胸がすく程じつと眺める。

膝(ひざ)ぼしまで水に漬(つか)つた郵便配達夫を

人の木が歩いて来たのだと見ると、

濡(ぬ)れた足の儘(まゝ)廊下で跳(をど)り狂ふ子供等は

真鯉(まごひ)の子のやうにも思はれた。

ときどき不安と驚奇(きやうき)との気分の中で、

今日(けふ)の雨のやうに、

物の評価の顛倒(ひつくりかへ)るのは面白い。







すいつちよ





青いすいつちよよ、

青い蚊帳(かや)に来て啼(な)く青いすいつちよよ、

青いすいつちよの心では

恋せぬ昔の私と思ふらん、

寂(さび)しい寂(さび)しい私と思ふらん。

思へば和泉(いづみ)の国にて聞いたその声も

今聞く声も変り無し、

きさくな、世(よ)づかぬ小娘の青いすいつちよよ。



[#1行アキは底本ではなし]青いすいつちよよ、

青いすいつちよは、なぜ啼(な)きさして黙(だま)るぞ。

わたしの外(ほか)に聞き慣れぬ男の気息(いき)に羞(はぢ)らふか、

やつれの見えるわたしの頬(ほ)、

ほつれたるわたしの髪をじつと見て、

虫の心も咽(むせ)んだか。



青いすいつちよよ、

何(なに)も歎(なげ)くな、驚くな、

わたしはすべて幸福(しあはせ)だ、

いざ、今日(けふ)此頃(このごろ)を語らはん、

来てとまれ、

わたしの左の白い腕(かひな)を借(か)すほどに。






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