與謝野晶子 晶子詩篇全集






上総の勝浦





おお美(うつ)くしい勝浦、

山が緑の

優しい両手を伸ばした中に、

海と街とを抱いてゐる。



此処(ここ)へ来ると、

人間も、船も、鳥も、

青空に掛る円(まろ)い雲も、

すべてが平和な子供になる。



太洋(たいやう)で荒れる波も、

この浜の砂の上では、

柔かな鳴海(なるみ)絞りの袂(たもと)を

軽(かろ)く拡げて戯れる。



それは山に姿を仮(か)りて

静かに抱く者があるからだ。

おお美(うつ)くしい勝浦、

此処(ここ)に私は「愛」を見た。







木(こ)の間(ま)の泉





木(こ)の間(ま)の泉の夜(よ)となる哀(かな)しさ、

静けき若葉の身ぶるひ、夜霧の白い息。



木(こ)の間(ま)の泉の夜(よ)となる哀(かな)しさ、

微風(そよかぜ)なげけば、花の香(か)ぬれつつ身悶(みもだ)えぬ。



木(こ)の間(ま)の泉の夜(よ)となる哀(かな)しさ、

黄金(こがね)のさし櫛(くし)、月姫(つきひめ)うるみて彷徨(さまよ)へり。



木(こ)の間(ま)の泉の夜(よ)となる哀(かな)しさ、

笛、笛、笛、笛、我等も哀(かな)しき笛を吹く。







草の葉





草の上に

更に高く、

唯(た)だ一(ひと)もと、

二尺ばかり伸びて出た草。



かよわい、薄い、

細長い四五片(へん)の葉が

朝涼(あさすゞ)の中に垂れて描(ゑが)く

女らしい曲線。



優しい草よ、

はかなげな草よ、

全身に

青玉(せいぎよく)の質(しつ)を持ちながら、

七月の初めに

もう秋を感じてゐる。



青い仄(ほの)かな悲哀、

おお、草よ、

これがそなたのすべてか。













蛇(へび)よ、そなたを見る時、

わたしは二元論者になる。

美と醜と

二つの分裂が

宇宙に並存(へいぞん)するのを見る。

蛇よ、そなたを思ふ時、

わたしの愛の一辺(いつぺん)が解(わか)る。

わたしの愛はまだ絶対のもので無い。

蛮人(ばんじん)と、偽善者と、

盗賊と、奸商(かんしやう)と、

平俗な詩人とを恕(ゆる)すわたしも、

蛇よ、そなたばかりは

わたしの目の外(ほか)に置きたい。







蜻蛉(とんぼ)





木の蔭(かげ)になつた、青暗(あおぐら)い

わたしの書斎のなかへ、

午後になると、

いろんな蜻蛉(とんぼ)が止まりに来る。

天井の隅や

額(がく)のふちで、

かさこそと

銀の響(ひゞき)の羽(はね)ざはり……

わたしは俯向(うつむ)いて

物を書きながら、

心のなかで

かう呟(つぶや)く、

其処(そこ)には恋に疲れた天使達、

此処(ここ)には恋に疲れた女一人(ひとり)。







夏よ





夏、真赤(まつか)な裸をした夏、

おまへは何(なん)と云(い)ふ強い力で

わたしを圧(おさ)へつけるのか。

おまへに抵抗するために、

わたしは今、

冬から春の間(あひだ)に貯(た)めた

命の力を強く強く使はされる。



夏、おまへは現実の中の

※(ねつ)[#「執/れんが」、U+24360、197-上-4]し切つた意志だ。

わたしはおまへに負けない、

わたしはおまへを取入(とりい)れよう、

おまへに騎(の)つて行(い)かう、

太陽の使(つかひ)、真昼(まひる)の霊、

涙と影を踏みにじる力者(りきしや)。



夏、おまへに由(よ)つてわたしは今、

特別な昂奮(かうふん)が

偉大な情※(じやうねつ)[#「執/れんが」、U+24360、197-上-12]と怖(おそろ)しい直覚とを以(もつ)て

わたしの脈管(みやくくわん)に流れるのを感じる。

なんと云(い)ふ神神(かうがう)しい感興、

おお、※(ねつ)[#「執/れんが」、U+24360、197-下-2]した砂を踏んで行(ゆ)かう。







夏の力





わたしは生きる、力一(ちからいつ)ぱい、

汗を拭(ふ)き拭(ふ)き、ペンを手にして。

今、宇宙の生気(せいき)が

わたしに十分感電してゐる。

わたしは法悦に有頂天にならうとする。

雲が一片(いつぺん)あの空から覗(のぞ)いてゐる。

雲よ、おまへも放たれてゐる仲間か。

よい夏だ、

夏がわたしと一所(いつしよ)に燃え上がる。







大荒磯崎にて





海が急に膨(ふく)れ上がり、

起(た)ち上がり、

前脚(まへあし)を上げた

千匹(せんびき)の大馬(おほうま)になつて

まつしぐらに押寄(おしよ)せる。



一刹那(いつせつな)、背を乾(ほ)してゐた

岩と云(い)ふ岩が

身構へをする隙(すき)も無く、

だ、だ、だ、だ、ど、どおん、

海は岩の上に倒れかかる。



磯(いそ)は忽(たちま)ち一面、

銀の溶液で掩(おほ)はれる。

やがて其(そ)れが滑(すべ)り落ちる時、

真珠を飾つた雪白(せつぱく)の絹で

さつと撫(な)でられぬ岩も無い。



一つの紫色(むらさきいろ)をした岩の上には、

波の中の月桂樹(げつけいじゆ)――

緑の昆布(こんぶ)が一つ捧(さゝ)げられる。

飛沫(しぶき)と爆音との彼方(かなた)に、

海はまた遠退(とほの)いて行(ゆ)く。







女の友の手紙





手紙が山田温泉から著(つ)いた。

どんなに涼しい朝、

山風(やまかぜ)に吹かれながら、

紙の端(はし)を左の手で

抑(おさ)へ抑(おさ)へして書かれたか。

この快闊(くわいくわつ)な手紙、

涙には濡(ぬ)れて来(こ)ずとも、

信濃の山の雲のしづくが

そつと落ち掛つたことであらう。







涼風





涼しい風、そよ風、

折折(をりをり)あまえるやうに[#「あまえるやうに」は底本では「あまへるやうに」]

窓から入(はひ)る風。

風の中の美(うつ)くしい女怪(シレエネ)、

わたしの髪にじやれ、

わたしの机の紙を翻(ひるが)へし、

わたしの汗を乾かし、

わたしの気分を

浅瀬の若鮎(わかあゆ)のやうに、

溌溂(はつらつ)と跳(は)ね反(かへ)らせる風。







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