フランツ・カフカ Franz Kafka 原田義人訳 審判 DER PROZESS

審判


DER PROZESS


フランツ・カフカ Franz Kafka


原田義人訳





第一章 逮捕・グルゥバッハ夫人との
    対話・次にビュルストナー嬢




 誰かがヨーゼフ・Kを誹謗(ひぼう)したにちがいなかった。なぜなら、何もわるいことをしなかったのに、ある朝、逮捕されたからである。彼の部屋主グルゥバッハ夫人の料理女は、毎日、朝の八時ごろに朝食を運んでくるのだったが、この日に限ってやってはこなかった。そういうことはこれまであったためしがなかった。Kはなおしばらく待ち、枕(まくら)についたまま、向う側の家に住んでいる老婆がいつもとまったくちがった好奇の眼で自分を観察しているのをながめていたが、やがていぶかしくもあれば腹がすいてきもしたので、呼鈴を鳴らした。すぐにノックの音が聞え、この家についぞ見かけたことのない一人の男がはいってきた。すんなりとはしているが、頑丈(がんじょう)な身体(からだ)のつくりで、しっくりした黒服を着ていた。その服は、旅行服に似ていて、たくさんの襞(ひだ)やポケットや留め金やボタンがつき、バンドもついており、そのため、何の用をするのかはっきりはわからぬが、格別実用的に見受けられた。
「どなたですか?」と、Kはききただし、すぐ半分ほどベッドに身を起した。
 ところが男は、まるで自分の出現を文句なしに受入れろと言わんばかりに、彼の質問をやりすごし、逆にただこう言うのだった。
「ベルを鳴らしましたね?」
「アンナに朝食を持ってきてもらいたいのです」と、Kは言い、まず黙ったままで、いったいこの男が何者であるか、注意と熟考とによってはっきり見定めようと試みた。
 ところがこの男はあまり長くは彼の視線を受けてはいないで、扉(とびら)のほうを向き、それを少しあけて、明らかに扉のすぐ背後に立っていた誰かに言った。
「アンナに朝食を持ってきてもらいたいのだそうだよ」
 隣室でちょっとした笑い声が聞えたが、その響きからいって、数人の人々がそれに加わっているのかどうか、はっきりしなかった。見知らぬ男はそれによってこれまで以上に何もわかったはずがなかったが、Kに対して通告するような調子で言った。
「だめだ」
「そりゃあ変だ」と、Kは言って、ベッドから飛びおり、急いでズボンをはいた。
「ともかく、隣の部屋にどんな人たちがいるのかを見て、グルゥバッハ夫人がこの私に対する邪魔の責任をどうとるのか知りたいのです」
 こんなことをはっきり言うべきではなかったし、こんなことを言えば、いわばその男の監督権を認めたことになるということにすぐ気づきはしたが、それも今はたいしたこととは思われなかった。見知らぬ男もずっとそう考えていたらしい。男がこう言ったからである。
「ここにいたほうがよくはないですか?」
「いたくもありませんし、あなたが身分を明らかにしないうちは、あなたに口をきいていただきたくもないんです」
「好意でやったんですよ」と、見知らぬ男は言い、今度は進んで扉をあけた。
 Kがはいろうと思ってゆっくり隣室へはいってゆくと、部屋はちょっと見たところ、前の晩とほとんどまったくちがったところがなかった。それはグルゥバッハ夫人の住居で、おそらくこの家具や敷物や花瓶(かびん)や写真やでいっぱいの部屋は、今日はいつもよりいくらかゆとりがあった。そのことはすぐには気づかなかったが、おもな変化は一人の男がいるという点にあっただけに、なおさらそうであった。男は開いた窓のそばで一冊の本を読みながらすわっていたが、ふと本から眼を上げた。
「君は部屋にいなければいけなかったのだ! いったいフランツは君にそう言わなかったか?」
「で、どうしようというんです?」と、Kは言い、この新しく知った人物から眼を転じて、戸口のところに立ち止っているフランツと呼ばれる男のほうを見、次にまた視線をもどした。
 開いた窓越しにまた例の老婆が見えたが、彼女はいかにも老人らしい好奇の眼で、今ちょうど、向い合った窓のところへ歩み寄って、その後の成行きを一部始終見届けようとしていた。
「グルゥバッハ夫人にちょっと――」と、Kは言い、彼から遠く離れて立っている二人の男から身を引離そうとするようなしぐさを見せて、歩みを進めようとした。
「いけない」と、窓ぎわの男が言い、本を小さな机の上に投げて、立ち上がった。「行っちゃいけない。君は逮捕されたんだぞ」
「どうもそうらしいですね」と、Kは言い、次にたずねた。「ところで、いったいどうしてなんです?」
「君にそんなことを言うように言いつかっちゃいない。部屋にはいって、待っていたまえ。訴訟手続きはもう始まったんだから、時が来れば万事わかるようになるだろう。君にこんなに親切に話すことは命令の範囲を出ているんだ。けれど、おそらくフランツ以外に聞いている者は誰もいないだろうし、あれからして規則に違反して君に親切なんだからね。これからさきも、君の監視者がきまったときのように幸運に恵まれるなら、安心できるわけだよ」
 Kはすわろうと思ったが、さて、部屋じゅうどこにも窓ぎわの椅子のほかにすわるところがないことに気づいた。
「まあ今に、万事がしごくもっともだということがわかるさ」と、フランツが言い、もう一人の男といっしょに彼のほうに歩み寄ってきた。特に後者はKよりもひどく背が高く、何度も彼の肩をたたいた。二人ともKの寝巻をためつすがめつして、君はこれからもっとわるいシャツを着なければならぬようになるだろうが、このシャツもほかの下着類といっしょに保管しておいてやろう、そして事が有利に解決したら、君にまた返してやろう、と言うのだった。
「そういうものを倉庫に入れるくらいなら、おれたちに渡したほうがましだ」と、彼らは言った。「倉庫ではしばしば横領されることがあるし、そのうえ、ある期間が過ぎると、その手続きが終ろうが終るまいがおかまいなく、何でもかでも売り払ってしまうからね。それに、こんな訴訟はなんて手間取ることだろう、ことに近頃はねえ! もちろん、最後には倉庫から売上金をもらうだろうが、第一に、売却の場合言い値の金高できまるものじゃなく、賄賂(わいろ)の金高が物を言うんだから、この売上金というやつからして少ないものだし、そのうえこんな売上金は、手から手へと長年かかって渡っているうちには、減ってゆくのが普通だよ」
 Kはこんな話にほとんど注意をはらっていなかった。自分の持物に対する所有権というものはおそらくまだあるはずだが、彼はそんなものをあまり重んじていなかったし、自分の置かれた状態をはっきり知ることのほうが、いっそう大切だった。しかし、この連中のいる前では、少しもゆっくり考えてみることができず、二番目の監視人――まったくのところただの監視人にすぎないはずだが――の腹がしょっちゅう、明らかになれなれしげに彼にぶつかり、彼が眼を上げると、頑丈そうな、わきへねじれた鼻をした、このでっぷりした図体とはおよそ似つかわしからぬ干からびて骨ばった顔が見え、この顔が彼の頭越しにもう一方の監視人と話し合っていた。いったいこいつは何者だろう? 何をしゃべっているのだろう? どんな役所の者なのだろう? おれは法治国に住んでいるのだし、国じゅうに平和が支配しているし、すべての法律は厳として存在しているのに、何者がおれの住居においておれを襲うということをあえてしたのだろうか? 彼はつねに、万事をできるだけ気安く考え、最悪のことはそれがほんとうに始まってから信じ、たといいっさいの危険が迫っても、将来のことは取越し苦労しない、という傾向であった。ところが今の場合、それは正しくないように思われた。すべてを悪戯(いたずら)と見なすことができようし、何かわからぬ理由から、おそらく今日は彼の三十歳の誕生日だからというのだろうが、銀行の同僚が計画した性(たち)のよくない悪戯と見なすことができよう。それはもちろんありうることだし、おそらくなんらかのやりかたで監視人たちに面と向って笑ってやりさえすれば事はすむのであって、そうすれば彼らもいっしょに笑いだすことだろう。おそらくこの連中は町角の使い走りの男たちなのだ。そう言えば、彼らに似ていないこともない。――それにもかかわらず、彼は今度の場合、この監視人のフランツという男を最初に見たまさにそのときから、彼がおそらくこの連中に対して持っている最小の利点さえも放棄はすまい、と決心したのであった。自分が冗談を解しなかったのだ、と後になって言われるだろうという点では、Kはほんの少しでも危険を覚えなかったが、確かに彼は――経験に徴して考えるなどというのは普通彼の習慣ではなかったのだが――二、三の、それ自体は取るに足らない出来事のことを、思い出していた。それらの場合に、意識的な友人たちとはちがって、ありうべき結果を少しも予想しなかったため、慎重でない態度をとり、そのため、その結果によってひどい目にあわされたのであった。あんなことは二度と繰返してはならないし、少なくとも今回はやってはならない。もし喜劇ならば、自分もいっしょになってやってやろう、そう彼は考えたのだった。
 彼はまだ自由であった。
「失礼します」と、彼は言って、急いで二人の監視人のあいだを通って自分の部屋へ行った。
「やつは物がわかるらしいな」と、背後で言うのが聞えた。
 部屋にはいった彼は、すぐ机の引出しをあけた。そこは万事がきちんと片づいていたが、捜した身分証明書だけは、興奮しているためか、すぐには見つからなかった。とうとう自動車証明書を見つけだし、それを持って監視人たちのほうへ行こうとしたが、この書類はあまり役にたたぬように思えたので、もっと捜したうえ、ついに出生証明を見つけだした。彼がまた隣室にもどったとき、ちょうど向い合った扉が開き、グルゥバッハ夫人がそこへ足を入れようとした。彼女はほんの一瞬間姿を見せただけで、Kを認めたとたん、明らかに当惑した様子を見せ、ごめんなさいと言って、引っこみ、きわめて慎重に扉をしめた。
「どうぞおはいりなさい」と、Kは今ならまだ言うこともできた。
 だが彼は、書類を持って部屋の真ん中に立ち、まだ扉をじっと見ていたが、扉は二度とは開かず、やがて監視人たちに声をかけられてびっくりした。二人の男は開いた窓ぎわの机にすわっており、Kが気づいたときには、彼の朝飯を食っていた。
「なぜあの人ははいらなかったんです?」と、彼はきいた。
「はいっちゃいけないんだよ」と、大きいほうの監視人が言った。「君は逮捕されているんだからな」
「いったいどうして逮捕なんかされているんです? しかもこんなやりかたで?」
「ああ、また始まったね」と、その監視人は言い、バタパンを蜜(みつ)の壺(つぼ)に浸した。「そんな質問には返答しないよ」
「答えてもらわなくちゃなりません」と、Kは言った。「これが私の身分証明書です、今度はあなたがたのを見せてください、それに何よりもまず逮捕状をね」
「冗談言うな!」と、監視人は言った。「君は君の立場に往生(おうじょう)できず、今君のすべての仲間の中でも明らかにいちばん身近にいるおれたちを無益に怒らせるつもりだったらしいな」
「そうだ、君も観念したほうがいいぜ」と、フランツが言い、手にしていたコーヒー茶碗(ぢゃわん)を口もとへは持ってゆかずに、長々と、いかにも意味ありげな、しかしどういうつもりなのかわからぬ眼差(まなざし)で、Kをじっと見つめた。
 Kは思わず知らず、フランツと視線で渡り合っていたが、やがて書類をたたいて、こう言った。
「これが私の身分証明書です」
「そんなものがなんだというんだ」と、大男の監視人がすぐさま叫んだ。「子供より行儀がわるいぞ。いったいどうしようっていうんだ? われわれ監視人と身分証明書だとか逮捕状だとかのことで議論すれば、君のたいへんな、厄介きわまる訴訟がたちまち片づくとでも思っているのか? われわれは下(した)っ端(ぱ)なんで、身分証明書なんか知ったことじゃないし、君を毎日十時間ずつ見張ってその報酬をもらうということ以外、何も君とは関係がないんだからね。これがおれたちの身分に関するすべてだ。それでもおれたちには、おれたちが仕えている偉い役所は、こんな逮捕をやる前には、逮捕の事由や逮捕人の身柄を非常に詳しく調べあげている、ということはわかるんだ。それに誤りなんかありやしない。われわれの役所は、おれの知るかぎりでは、もっともおれはいちばん下の連中だけしか知らないが、何か住民のうちに罪を捜すんじゃなくて、法律にもあるとおり、罪のほうに引きつけられ、そしておれたち監視人をよこさざるをえないんだ。それが法律というもんだ。どこに誤りがあるんだ?」
「そんな法律って知りませんね」と、Kは言った。
「それだからなお困るんだよ」と、監視人が言った。
「ただあなたがたの頭にだけある法律なんですよ」と、Kは言い、なんとかして監視人の考えていることのなかにはいりこみ、それを彼の都合のよいほうに向けるか、あるいはそれにもぐりこんで同化しようと思った。ところが監視人はただ突き放すように言うのだった。
「今にわかるようになるよ」
 フランツが嘴(くちばし)を入れ、
「おい、ウィレム、あいつは、法律を知らないって白状し、同時に、自分は無罪だって言い張っているぜ」
「まったくお前の言うとおりだが、あいつには全然わからせることはできやしないよ」と、もう一方の男が言った。
 Kはもう返事をしなかった。こんな下っ端の連中――彼ら自身が、そうだ、と白状している――のおしゃべりでこれ以上頭を混乱させられる必要なんかあろうか、と彼は思った。連中は、自分自身でもまったくわからないことを言っているのだ。落着きはらっているのは、阿呆(あほう)だからこそのことだ。自分と対等の人間とほんの少しでも言葉を交(か)わせば、万事は、こんな連中と長々しゃべっているよりも比較にならぬほど明瞭(めいりょう)になるだろう。Kは二、三度、部屋の中のあいている場所を行ったり来たりしたが、窓の向うに、例の老婆が一人のもっと老いぼれた老人を窓ぎわに引っ張ってきて、抱きかかえるようにしているのが見えた。Kはこんな見世物になっているのに我慢してはいられなかった。
「あなたがたの上役のところへ連れていってくれませんか」と、彼は言った。
「あちらが、そうしろ、と言われるならばね。それまではだめだ」と、ウィレムと呼ばれた男が言った。
「で、君に言っておくが」と、彼は言い足した。「部屋に帰っておとなしくしていて君についての指示が来るのを待ったがいいね。つまらぬ考えでぼんやりしてないで、落着いているがいいぜ。そのうち大きな命令が君に下るよ。君はおれたちを、おれたちの親切にふさわしいようには扱わなかったね。おれたちは相も変らぬつまらぬ連中かもしれないが、少なくとも今は君に対しては自由な人間だ、ということを君は忘れているんだ。これはけっして少しばかりの優越じゃないんだぜ。それでも、君が金を持っているなら、あの喫茶店から軽い朝飯ぐらいは取ってきてやるつもりはあるよ」
 この申し出には答えずに、Kはしばらくじっと立ち止っていた。隣の部屋の扉、あるいは控えの間の扉をあけてさえも、おそらく二人はあえて彼を阻止しないだろうし、極端にまでやってみることがおそらく最も簡単な、事の解決法であろう。けれど二人は彼につかみかかってくるかもしれないし、一度たたき倒されたならば、現在彼らに対してある点ではまだ持ち続けている優越的地位をすべて失ってしまうのだ。それゆえ彼は、事の自然な成行きがもたらすはずの解決の安全ということのほうを選び、部屋にもどったが、彼のほうからも監視人のほうからも、もう一言も発せられなかった。
 彼はベッドに身を投げ、洗面台から見事な林檎(りんご)を取った。昨晩、朝食のためにとっておいたものである。今のところこの林檎だけが彼の朝飯だが、一口大きくかじって確かめたところでは、ともかく、監視人たちのお情けで手に入れることができるかもしれない、きたならしい喫茶店の朝飯よりはずっとましだった。気分がよくなり、前途に期待が持てる気がした。この午前中は銀行の仕事を休むことになるが、それも、彼が銀行で占めているかなり高い地位からいえば、なんとでも言い訳がたつことだった。ほんとうの言い訳を述べるべきだろうか? 彼はそうしよう、と思った。その場合に大いにありうることだが、もし人が彼の言うことを信じないならば、グルゥバッハ夫人、あるいはあちらの二人の老人を証人にすることもできる。ところでこの二人の老人は、確かに今、向い合った窓ぎわに歩みを進めているのだった。監視の連中が彼を部屋に追いやって、いくらも自殺する可能性のあるここにただひとり放っておくということは、Kには不思議に思えたし、少なくとも監視人たちの考えそうな筋道から言って不思議であった。もちろん同時に、今度は自分の考える筋道からして、自殺するというどんな理由があるのか、と自問してみた。あの二人が隣室にすわっており、自分の朝飯を平らげてしまったから、とでもいうのか? 自殺しようなどというのはばかげたことであるから、たといしようとしても、そのばかばかしさのために実行はできなかったであろう。もし監視人たちの頭の足りなさがあんなにひどくないのであったら、連中もまた、おれと同じ確信から、おれをひとりで放っておくということに危険を認めなかったのだ、と考えることもできたのだが。連中は今、もし見ようと思うのなら、彼が、上等のブランデーを納めてある小さな戸棚(とだな)のところへ来て、まず一杯目を朝飯がわりに乾(ほ)し二杯目のほうは元気をつけるためだときめている様子を、ながめていることだろうが、二杯目のほうはただ、実際にそんな必要があるというおよそありそうもない場合に備えてやっているのだった。
 そのとき、隣室からの呼び声が彼をひどく驚かしたので、彼は歯をコップにぶつけた。
「監督が呼んでおられる!」と、いうことだった。彼を驚かしたのは、ただその叫び声だけだった。この短い、断ち切られたような、軍隊式の叫び声は、監視人のフランツのものとはまったく思えないものだった。ところで命令そのものは、彼にはきわめて好ましかった。
「とうとう来ましたね!」と、彼は叫び返し、戸棚をしめ、すぐ隣室へ急いで行った。そこには二人の監視人が立っていて、当然だといわんばかりに、彼をまた部屋へ追い返した。
「冗談じゃないぞ、え?」と、彼らは叫んだ。
「シャツを着たまま監督の前に出ようっていうのか? そんなことをしたら、あの人は君をさんざんにたたきのめさせるぞ、それにおれたちも巻き添えだ!」
「ちぇ、放っておいてくれたまえ!」と、もう洋服箪笥(だんす)のところまで押しもどされていたKは、叫んだ。「寝込みを襲っておいて、礼装して来いもあるもんか」
「なんと言おうとだめだ」と、監視人たちは言ったが、Kが大声で叫ぶと、まったくおとなしく、いやほとんど悲しげにさえなり、そのため、彼を当惑させ、あるいはいわば正気に返らせるのだった。
「ばかばかしい仰山さだ!」と、なおもぶつぶつ言ったが、すでに上着を椅子から取上げ、しばらく両手で持ったまま、監視人たちの指図(さしず)を求めているような格好になった。二人は頭を振った。
「黒の上着じゃなくちゃいけない」と、彼らは言った。
 Kはすぐさま上着を床に投げ、言った。――彼自身、どんなつもりでこう言ったのか、わからなかった。
「だってまだ本審理じゃないんだ」
 監視人たちはにやりとしたが、主張はまげなかった。
「黒の上着じゃなくちゃいけない」
「そうすれば事が早くすむのなら、それでもかまいませんよ」と、Kは言い、自分で洋服箪笥をあけ、長いことたくさんの服をひっかきまわし、いちばんいい黒の服を選んだ。腰まわりの出来がよいので知人たちのあいだでほとんど大評判となった背広である。
 そして、別なシャツも引出して、念入りに着はじめた。風呂にはいれ、と無理強(じ)いすることを監視人たちが忘れたので、万事を早めることができたのだ、と心ひそかに思った。しかし二人がおそらくそのことを思い出すのではないかと様子をうかがっていたが、もちろん彼らにはそのことは思いつかなかった。そのかわり、Kは着替えしております、という報告を携えてフランツを監督のところへやることを、ウィレムは忘れはしなかった。
 着物を完全に着てしまうと、ウィレムのすぐ前を通って、空(から)の隣室を抜け、次の部屋に行かねばならなかった。扉は両側ともすでに開かれていた。この部屋には、Kもよく知っているとおり、少し前からタイピストのビュルストナー嬢が住んでいるが、彼女は非常に早く仕事に出てゆくのがならわしであり、帰りも遅いので、Kとは挨拶(あいさつ)以上にたいして言葉を交わしたこともなかった。ところが夜間用の小さな机がベッドのそばから部屋の真ん中に引っ張り出されて審理用の机にされ、その向うに監督がすわっていた。脚(あし)を組んで、片腕を椅子の背にかけていた。
 部屋の隅(すみ)には三人の若い男がいて、壁にかかったマットに留めてあるビュルストナー嬢のさまざまな写真をながめていた。開いた窓の把手(とって)には、一枚の白いブラウスがかかっていた。向いの窓にはまた例の二人の老人がいたが、仲間がふえていた。というのは、彼らの背後に、ずっと背丈(せたけ)の高い一人の男が、胸のはだけたシャツ姿で立っており、赤みがかった髯(ひげ)を指でおしたり、ひねったりしていたからである。
「ヨーゼフ・Kだね?」と、監督はきいたが、おそらくはただ、Kのきょろきょろした眼差を自分に向けさせるためであった。Kはうなずいた。
「今朝(けさ)の出来事できっと非常に驚いただろうな?」と、監督はたずね、そう言いながら両手で、蝋燭(ろうそく)とマッチ、本と針床といった、まるで審理に必要な物ででもあるかのように夜間用の小さな机の上にのっている数少ない品物を、わきへ押しやるのだった。
「そうですね」と、Kは言ったが、ついに物のわかる人間に向い合って、自分のことに関して話ができるのだ、という快い感情が彼をとらえた。
「確かに驚きはしましたが、けっして非常に驚いたというわけでもありません」
「非常に驚いたわけでもない?」と、監督はきき、机の真ん中に蝋燭を立てて、そのまわりにはほかの品々を並べたてた。
「どうも申上げた意味を誤解しておられるらしいですが」と、Kは急いで述べたてようとした。
「つまり」――ここで彼は言葉を切り、椅子はないだろうかと、あたりを見まわした。
「すわってもかまいませんか?」と、彼はきいた。
「それはできないことになっている」と、監督は答えた。
「つまり」と、Kはこれ以上間(ま)をおかずにしゃべりはじめた。「もちろん非常に驚きはしましたが、人間三十にもなると、そして、私がそういう運命にあったように、孤軍奮闘しなければならなかったとすると、驚きなんていうものには鍛えあげられ、たいして苦にもしなくなります。ことに今日の出来事のようなのにはそうです」
「なぜ、ことに今日の出来事のようなのにはそうなんだ?」
「事のすべてを冗談だと見ている、と言うんじゃないのです。冗談にしては、やられた道具だてがおおげさすぎますからね。アパートの住人みな、そしてあなたがたも、事に加担しておられるようですし、こうなると冗談の範囲を超(こ)えていますからね。だから、冗談なんだ、と言うつもりはありません」
「まったくそうだ」と、監督は言い、何本マッチがマッチ箱のなかにあるのか、数えていた。
「しかし一面、この事件はたいして重要性を持ってはいません。そう推論できるのは、私は告発されてはいるものの、私が告発されるような罪は、少しも見つけだせないからです。しかし、それも二の次です。問題は、誰に告発されたのか、ということです。どの役所が手続きをやっているのか? あなた方は役人なのか? どなたも制服は着ておられないし、あなた方の服は」――ここで彼はフランツのほうを向いた――「制服とは申せませんからね。どうみても、むしろ旅行服といったものです。こうした疑問に明瞭なご返事を願いたいと思います。これがはっきりすれば、お互いにきわめて気持よくお別れできる、と確信します」
 監督はマッチ箱を机の上に置いて、言った。
「君はたいへん間違っている。ここにおられる方々も私も、君の事件についてはまったく枝葉の存在なんだ。実のところ、それについてはほとんど何ひとつ知ってはいやしない。われわれは規則どおりの制服を着ることもできようが、それで君の事件がどうなろうというものじゃない。君が告発されているなどということは、私はまったく言えないし、あるいはむしろ、いったい君が告発されているのかどうかさえ、知ってはいないのだ。君が逮捕された、ということは確かだ。それ以上は知ったことじゃない。おそらく監視人たちが何かよけいなことをしゃべったかもしれないが、それならそれはただのおしゃべりだ。君の質問にはお答えしないが、われわれのことや、君にこれから起るかもしれないことやにはあまり頭を使わないで、それよりか君自身のことを考えるほうがよい、と忠告しよう。自分は潔白だという気持でこんな騒ぎをやらないことだな。君がほかのことでは与えているさしてわるからぬ印象を、ぶちこわしてしまうからね。それにまた、およそ口をもっと慎むことだ。君がこれまでしゃべったことはほとんどみな、ただほんの二言三言にとどめておいても、君の態度からしてわかったことだろうし、そのうえ、君にとって格別有利なものでもなかったからね」
 Kはじっと監督を見た。見かけたところ年下らしい男から、ここで杓子定規(しゃくしじょうぎ)の説教をされるのか? 公明正大に言ったおかげで、訓戒されるわけか? そして、逮捕理由についても命令の出し主についても、何も聞かされないのか? 彼は一種の興奮状態に陥って、あちこちと歩くのだったが、誰もその邪魔をする者はなく、彼はカフスを引っこめたり、胸のあたりにさわったり、頭髪をなで直したりし、三人の男の前を通りながら、言った。
「まったくばかげたことだ」
 これを聞いて三人は彼のほうを向き、言うことは聞いてやるがという様子だが、真剣な顔つきで、彼をじっと見た。Kは最後にまた監督の前で立ち止った。
「ハステラー検事は私の親友なんですが」と、彼は言った。「電話をかけてかまいませんか?」
「よろしい」と、監督は言った。「だが、電話をかけることにどんな意味があるのかは私にはわからないが、まあ、個人的な用事で検事と話さねばならないんだろうな」
「どんな意味かわからないですって?」と、Kは腹をたてたというよりは唖然(あぜん)として叫んだ。
「あなたはいったい何者です? 意味などと言っているくせに、およそありうるかぎり無意味なことをやっているじゃないですか? かわいそうなくらいばかげたことじゃありませんか? この方々がまず私を襲ったのに、今はこの部屋であちらこちらに立ったりすわったりしていて、あなたの面前で私に高等馬術をやらせているんです。私は明らかに逮捕されているらしいが、検事に電話することがどんな意味を持っているか、と言われるんですか? よろしい、電話はかけますまい」
「だがまあそう言わずに」と、監督は言って、電話のある控えの間のほうに手を伸ばし、「どうぞ、電話をかけたまえ」
「いや、もう結構です」と、Kは言い、窓ぎわへ行った。
 向うでは連中がまだ窓ぎわにいたが、今やっと、Kが窓ぎわへ寄ったので、静かにながめていることを少しばかり邪魔された様子だった。二人の老人は身体(からだ)を起そうとしたが、彼らの後ろの男が制していた。
「向うには向うで、あんな見物がいるんです」と、Kは大声で監督に向って叫び、人差指で外を示した。
「そこからどけ!」と、彼は窓向うにどなった。
 三人のほうもすぐ二、三歩退き、そのうえ、二人の老人は男の後ろにまわったが、男は二人の老人をその幅広い身体でおおい隠し、その口の動きから判断するのに、遠くてよくはわからないが何か言っているらしかった。しかし、彼らはすっかり見えなくなってしまったのではなく、そっとまた窓ぎわに近づくことのできる瞬間をねらっているらしかった。
「あつかましい、遠慮のないやつらだ!」と、部屋のほうに振返りながら、Kは言った。Kが横眼で見取ったところでは、監督もおそらく彼の言うことに同感だったらしかった。しかしまた、全然彼の言うことに耳をかしていないようにも思えた。というのは、片方の手をしっかりと机の上に押しつけ、指の長さをそれぞれ比べてみている様子だったからである。二人の監視人は飾り布でおおったトランクに腰をかけ、膝(ひざ)をこすっていた。三人の若い男が手を腰にあてて、ぼんやりとあたりを見ていた。どこか忘れられた事務室でのように静かであった。
「さて、みなさん!」と、Kは叫んだが、一瞬のあいだ、三人全部を肩に背負っているように思えた。「あなたがたのご様子では、私についての用件は終ったものと考えてよさそうですが。私の意見では、あなたがたの行動が正しかったか、正しくなかったか、というようなことをもうこれ以上考えずに、互いに握手し合って事を円満に決着することがいちばんよいように思われます。あなたがたも私と同意見でいらっしゃるなら、どうか――」
 そう言って彼は、監督の机に歩み寄って、手を差出した。監督は眼を上げ、唇(くちびる)を噛(か)んでKが差出した手を見ていた。監督は応じてくれるものと、Kはまだ思いこんでいた。ところが監督は立ち上がると、ビュルストナー嬢のベッドの上に置かれた、硬(かた)くて円い帽子を取上げ、新しい帽子をためすときやるように、両手で念入りにかぶりながら、「君は万事をなんて単純に考えているんだろう!」と、Kに言った。「円満に事を決着する、と言うのかね? いや、いや、ほんとうにそうはいかないよ。もっともそうかといって、君を絶望させるつもりは少しもない。いや、そんなことをどうしてしよう? ただ君は逮捕された、それだけの話だ。そのことを君に知らさねばならなかったので、そうしたまでだし、君がそれを受入れたということも見てとった。それで今日のところは十分だし、お別れもできる。もちろんしばらくのことだがね。きっと君は、もう銀行に行きたいところだろうね?」
「銀行ですって?」と、Kは言った。「私は逮捕されたんだ、と思っていましたよ」
 Kはちょっと居丈高(いたけだか)になってきいた。というのは、彼の申出た握手は受入れられなかったけれども、ことに監督が立ち上がってからは、この連中のすべてからいよいよ拘束されていない立場にある自分を感じたからである。彼はこの連中と戯れるのだった。彼らが立ち去るときになったら、玄関まで追っかけてゆき、私は逮捕されているのですが、と言ってやる下心だった。そこで彼はまた繰返した。
「逮捕されたんですから、どうして銀行へ行けましょう」
「ああ、そのことか」と、すでに戸口にいた監督は言った。「それは君の考え違いだよ。君は逮捕された、確かにそうだが、それは君が職業をやってゆくことを妨げはしないんだ。今までどおりの暮しかたをしても、ちっともかまわないんだ」
「それじゃあ逮捕されるのも、たいしてわるいことじゃありませんね」と、Kは言い、監督のそばに近づいた。
「初めからそう言っているはずだ」と、監督は言った。
「しかしそれなら、逮捕通知もたいして必要でなかったようですが」と、Kは言って、さらに近くへ寄っていった。ほかの連中も近寄ってきた。皆が狭い部屋の扉のところへ集まった。
「それは私の義務だったのだ」と、監督が言った。
「ばからしい義務ですね」と、Kは負けてはいずに言った。
「そうかもしれない」と、監督が答えた。「だが、こんな話で時間をつぶしたくない。君が銀行に行くものとばかり私はきめこんでいた。君はあらゆる言葉を気にしているので言っておくが、銀行に行くように君を強制するつもりはないんで、君が行きたいと思っているときめこんだだけのことだ。そして、君が気軽に出かけられ、銀行に出てもできるだけ目だたぬようにするため、君の同僚の三人の方々を君のためにここへお連れしてきてある」
「なんですって?」と、Kは叫び、三人をまじまじとながめた。このなんの特徴もない、貧血の若い男たちは、写真を撮(と)ったときの仲間としてだけ今も記憶に残っているのだが、事実彼の銀行の行員だが、同僚というわけでなく、同僚などというのはおおげさな話で、監督の全知全能ぶりにはすきがあることを示しているのだったが、ともかく彼らは銀行の下っ端の行員にはちがいなかった。どうしてKは彼らに気づかなかったのだろうか? この三人に気づかなかったなんて、なんと監督や監視人たちに気をとられていたことだろう! 身体つきのぎごちない、両手をぶらぶら振っているラーベンシュタイナー、金壺眼(かなつぼまなこ)のブロンドのクリヒ、慢性の筋肉引きつりのため気味の悪い薄笑いを浮べているカミナー。
「お早う」と、Kはしばらくして言い、きちんと頭を下げる三人に手を差伸べた。
「僕は君たちにちっとも気がつかなかった。それじゃ、仕事に出かけようか?」
 三人は笑いながら、ずっとそれを待ちもうけてでもいたかのように気を入れてうなずき、ただKが帽子を部屋に取残して手にしていないのに気づくと、彼らは皆相次いで取りに走っていったが、その様子からは、ともかくある種の当惑ぶりというものが想像されるのであった。Kは黙って立ったまま、二つの開いた扉を通ってゆく後ろ姿を見ていたが、いちばん後(あと)は、もちろん、気のはいっていないラーベンシュタイナーで、彼は格好のよい早足をやってみせるだけだった。カミナーが帽子を渡したが、Kは自分に、これはともかく銀行でもしばしばせざるをえないことだったが、カミナーの薄笑いはそうしようと思ってやっているのではない、いやおよそ彼は、自分でやろうと思って薄笑いなど浮べることはできないのだ、と言って聞かせた。次に控えの間でグルゥバッハ夫人が一同に玄関の扉をあけたが、彼女はまったくたいして責任を感じてはいないように見受けられた。そしてKは、いつもと同じように、不必要に深く彼女の大きな図体(ずうたい)に食いこんでいるエプロンの紐(ひも)を、見下ろした。表でKは、時計を片手にして、もう半時間にもなる遅刻をこれ以上不必要に延ばさないように、自動車に乗ろうと決心した。カミナーは、車を呼ぶために角まで走ってゆき、ほかの二人は明らかに、Kの気をまぎらそうと努めるのだったが、突然クリヒが筋向いの家の戸口を示した。そこにはちょうど、例のブロンドの髯(ひげ)の大男が姿を見せ、図体をすっかり見せてしまったことに最初の瞬間は少し当惑して、壁のところまで引っこみ、そこにもたれていた。二人の老人はまだ階段を降りてくるところだった。自分がすでに先刻見つけ、そのうえ現われるだろうと期待さえしていた例の男をクリヒが指さしたことに、Kは立腹してしまった。
「あんなところを見るんじゃない!」と、大声で叫んでしまい、一人前の男たちに対してこんな物の言いかたをすることがどんなに目だつことかに、気づくことさえなかった。だが弁解の必要もなかった。ちょうど自動車が来たからである。彼らは車に乗り、走りだした。そのときKは、監督と監視人たちとが帰ってゆくのに全然気づかなかったことを思い出した。監督に気を取られて三人の行員を見そこない、今度はまた行員たちに気を取られて監督を見失ったのだった。こんなことではあまり気を配っているとは言えないし、この点でもっと精密に観察しよう、とKは決心した。しかし、彼は思わず知らずのうちに振向き、自動車の背のクッションの上へ身体を曲げ、できればまだ監督と監視人たちが見えないか、とうかがってみた。しかし、すぐにまた向き直り、ゆったりと車の片隅(かたすみ)によりかかって、誰か相手を求めようとする試みさえもしはしなかった。今のところ話しかける必要がある様子もなかったが、三人の行員たちは疲れているようであり、ラーベンシュタイナーは右側、クリヒは左側で、車の外をながめ、ただカミナーだけが例のごとくにやにやして、なんでもいたしますという面持だった。こんなのをからかうことは、残念ながら人情としてできないことだった。

 この春Kは、できれば――というのはいつもたいてい九時までは事務室にすわっていたからだが――仕事のあと、ひとりでかあるいは行員たちといっしょに、ちょっとした散歩をし、そのあとであるビヤホールに行き、年配の紳士が多い常連のテーブルの仲間にはいって、普通、十一時まですわるというふうにして、夜分を過す習慣だった。しかし、たとえばKの仕事の力倆(りきりょう)と信頼できる点とを非常に評価している支店長にドライヴに誘われたり、あるいはその別荘での晩餐(ばんさん)に招かれたりするときには、こんな時間の割り振りにも例外があった。そのほかにKは、一週に一度、エルザという女のところへ行くが、夜じゅう通して朝も遅くまで或(あ)る酒場に勤めている女で、日中に訪(たず)ねると、きまってベッドにいて迎えるのだった。
 しかしこの夜は――日中は仕事に追われ、また丁重で親しげな誕生日の祝いを言われながらたちまち過ぎ去ってしまったが――Kはすぐ家に帰ろうと思った。昼間の仕事のちょっとした合間に、彼はそのことを考えていた。いったいなぜこんなことを考えるのかはっきりとはわからなかったが、今朝の出来事のためにグルゥバッハ夫人の家全体に大きな混乱が引起され、秩序を回復するためにはまさに自分が必要なように思われるのだった。しかし、この秩序が一度回復されれば、あの出来事のあらゆる痕跡(こんせき)は消えてなくなり、万事は元どおりになることだろう。ことに例の三人の行員については何も恐れる必要はなく、彼らはまた銀行の大勢の勤め人仲間のうちに埋もれてしまい、彼らにはなんらの変化も認められなかった。Kはときどき彼らを、一人あるいは三人いっしょにというふうに、自分の事務室に呼んでみたが、彼らの様子をうかがう以外の目あてもなかったのだった。ところが、いつでも安心してかえすことができた。
 夜の九時半に、住んでいる家の前に来ると、入口で一人の若い男に出会った。その男はそこで足を踏んばって立っており、パイプをふかしていた。
「どなたです?」と、Kはすぐたずね、顔をその若い男に近づけたが、玄関の薄暗がりのなかではよくは見えなかった。
「門番の息子です、旦那(だんな)」と、若者は答え、パイプを口から放して、わきへどいた。
「門番の息子だって?」と、Kはきき、ステッキでいらいらしたように床をたたいた。
「旦那、ご用でしょうか? 親爺(おやじ)を呼んできましょうか?」
「いや、いいよ」と、Kは言ったが、その声のなかには、この男がある悪事をやったのだが自分はゆるしてやるのだ、というような何かゆるすような調子が含まれていた。
「もういいよ」と、彼は言い、歩みを進めたが、階段を登る前に、もう一度振向いた。
 まっすぐ自分の部屋へ行ってもよかったが、グルゥバッハ夫人と話したくなって、すぐ彼女の部屋の扉をたたいた。夫人は靴下を編みながら机のそばにすわり、机の上にはさらに一山の古靴下がのっていた。Kはどぎまぎして、こんなに遅くお邪魔してすみません、と申し訳をしたが、グルゥバッハ夫人は非常に愛想よく、そんな申し訳は聞きたくないというふうで、あなたならいつでも、お話ししてよい、私があなたを間借人のうちいちばんよい、いちばんりっぱな方だと思っていることはよくご存じでしょう、と言うのだった。Kは部屋を見まわしたが、また完全に元どおりになっていて、朝には窓ぎわの小さな机の上にのっていた朝飯の道具も、すでに片づけられてあった。
「女の手というやつは、こっそりと多くのものを片づけるものだ」と、思った。自分ならおそらく道具を即座にたたき割ってしまって、部屋から運び出すことなどはきっとできるものではなかったろう。彼はグルゥバッハ夫人を感謝めいた気持でじっと見つめた。
「なぜこんなに遅くまでお仕事をなさるんです?」と、彼はたずねた。
 二人とも机にすわり、Kはときどき手を靴下のなかへ突っこんだ。
「仕事が多うござんしてね」と、彼女は言った。「昼間は間借人の方々にかかりきりですし、自分の仕事を片づけておこうとすると、どうしても夜分だけしかありません」
「今日はさだめしよけいな仕事をおさせしましたろう?」
「どうしてですの?」と、夫人はたずね、いくらか真顔になって仕事の手を膝(ひざ)に休めた。
「今朝ここにいた連中のことです」
「ああ、あのこと」と、彼女は言い、また平静にかえって、「たいして手のかかることではありませんでしたわ」
 Kは黙って、靴下編みをまた始めた夫人をながめた。あのことを言ったので、彼女は不審に思っているようだ、あのことを言ったのを変なふうにとっているらしい、と思った。それだけに、あのことを言うことが大切なのだ。年配の婦人とだけあのことを話すことができる。
「いや、きっとお手数をおかけしました」と、彼は言った。「しかし、あんなことはもう二度と起りますまい」
「ええ、あんなことは二度と起りませんよ」と、励ますように言い、ほとんど悲しげに彼に微笑(ほほえ)みかけた。
「ほんとうにそうお思いですか?」と、Kはたずねた。
「そうですとも」と、彼女は低い声で言った。「けれど何より、あのことをあまりむずかしくお考えになってはいけませんわ。この世の中では何が起るかわかったものじゃありませんもの! Kさん、あなたがうちとけて私とお話しくださるので、私もつつまずに申しますが、私は扉の後ろでちょっと盗み聞きしましたし、二人の監視人たちも私にいくらか話してくれましたの。なにしろあなたのご運に関することですし、ほんとうに私の気にかかることですもの。そりゃあ、私には出すぎたことでしょうよ、なにしろ私は下宿の女将(おかみ)にすぎませんからねえ。ところで、少し監視人から聞いたと申しましたが、何かとりたててわるいことがあったとは、申せません。そんなことはありませんでした。逮捕されたと言いましても、泥棒なんかで逮捕されるのとはちがいますものねえ。泥棒のように逮捕されるんなら、わるいことですが、あなたの逮捕は――。そう、何か学問めいた感じですわ。もし何かばかげたことを申上げたなら、おゆるしください。私には何か学問めいた感じですわ、もちろん私にはよくわかりませんし、誰もわかるはずがないんですけれど」
「おっしゃったことはばかげたことじゃありませんよ、グルゥバッハさん。少なくとも私も部分的にはあなたと同じ考えです。だが私はこのことをあなたよりも鋭く判断しますから、私は簡単にそれを何か学問めいたことなどとは少しも考えないで、およそ無意味なことだと考えるんです。私は急に襲われたっていうわけです。もし眼がさめたらすぐ、アンナが来ないことなどに惑わされずに起き上がり、邪魔にはいる人間なんかに眼もくれずにあなたのところへ行き、今朝は番外に台所ででも朝飯を食べ、着物はあなたに私の部屋から持ってきていただいたなら、つまり理性的に振舞っていたなら、それ以上のことは何も起らず、起るはずのいっさいのことが防がれたことでしょう。でも心構えが全然できていなかったんです。たとえば銀行でなら心構えもできており、こんなことは起りようもないんです。自分の小使がいるし、外線と社内との電話が眼の前の机の上にあるし、顧客や行員がひっきりなしにやってきます。そのうえ、何よりも肝心なことですが、銀行ではいつも仕事とつながりがあり、そのためいつも頭が働いていて、こんな仕事の相手をさせられることは、まったく楽しみみたいなもんです。だが、事はすんだのですし、私もまったくこれ以上あんなことについてお話ししたくはありません。ただ、あなたのご判断、物わかりのよい女の方の判断というものをお聞きしたいと思ったのです。私たちの意見が一致したことをよろこんでいます。では私に手をお出しください、こんなに意見が一致したからは、手を握り合ってその気持を強めなくてはなりますまい」
 夫人は手を差出すだろうか? 監督のやつは手を差出さなかったが、とKは考え、夫人を前とは変って探るようにじっと見つめた。彼が立ち上がったので、彼女も立ち上がったが、Kが言ったことが全部はのみこめなかったので、少しこだわっている様子だった。このこだわりのため、彼女は、自分で少しも言おうとは思わなかった、そしてその場にまったくそぐわぬようなことを、口走ってしまった。
「どうかそうむずかしくお考えにならないでください、Kさん」と、彼女は言い、泣き声になって、もちろん握手などは忘れていた。
「私は何もむずかしくなぞ考えてはいないと思いますが」と、Kは言い、突然疲れを感じ、この夫人の同意などは意味がないということをさとったのだった。
 扉のところで彼はさらにたずねた。
「ビュルストナーさんはおりますか?」
「いらっしゃいません」と、グルゥバッハ夫人は言い、この素っ気ない返事に気づいて、おくればせながら物のわかったような気持をこめて、微笑んでみせた。
「あの方はお芝居ですわ。何かご用ですか? 私からお伝えしておきましょうか?」
「いや、ちょっとあの人とお話ししようと思っただけです」
「残念ですが、いつお帰りかわかりませんわ。芝居にいらっしゃると、いつもお帰りが遅いんでね」
「いや、どうでもいいんです」と、Kは言い、頭を垂(た)れて扉のほうにくるりと向き、出ようとした。「あの人の部屋を今日使ったことをおわびしようと思っただけです」
「それにはおよびません、Kさん、あなたは気を使いすぎますわ。あの人は何もご存じありませんし、朝早くから出かけているうちに、もうすっかり片づきました。ご自分でごらんになってください」
 そして、彼女はビュルストナー嬢の部屋の扉をあけた。
「結構です、よくわかっています」と、Kは言ったが、開いた扉のところまで行っていた。
 月が静かに真っ暗な部屋のなかにさしこんでいた。見たところでは、実際、万事元のままで、ブラウスももう窓の把手(とって)にはかかっていなかった。ベッドの布団(ふとん)が目だって盛り上がっていて、一部分が月光を浴びていた。
「あの人はよく夜遅く帰ってきますね」と、Kは言い、その責任はあなたにある、というようにグルゥバッハ夫人を見つめた。
「どうしても若い人たちはそうですわ!」と、グルゥバッハ夫人は言い訳をするように言った。
「確かにそうですね」と、Kは言った。「でも極端になりがちですよ」
「そうですね」と、グルゥバッハ夫人は言った。「あなたのおっしゃるとおりです、Kさん。おそらくこの人の場合もそうでしょう。ビュルストナーさんのことをわるく言うつもりはほんとうにありません。あの人はよい、かわいい娘さんですし、親切で、きちんとし、時間もしまりがあり、よく働きますから、万事たいへん感心しているんですが、もっと自分に誇りを持ち、慎みがなくてはならないということだけはほんとうですわ。今月になってもう二度も、場末の通りを男を変えて歩いているのを見ました。Kさん、あなただけに申しますが、私はほんとうにいやな気持がしました。けれど、そのうちあの人に面と向ってこのことを言うことに、どうしてもなるでしょう。それに、私にあの人のことを疑わせるのは、何もこのことだけではありませんわ」
「それはまったく見当ちがいですよ」と、怒って、ほとんどそれを隠すのを忘れて、Kは言った。「それにあなたは、私があの人のことについて言ったことを明らかに誤解なすったようですね。そんなつもりで言ったんじゃないんです。はっきり言っておきますが、あの人に何かそんなことを言っちゃいけませんよ。あなたは全然間違っておられる。私はあの人のことをよく知っていますが、あなたが言われたことはまったく嘘(うそ)です。まあ、どうもこれは言いすぎたかもしれません。何もあなたの邪魔をするわけじゃないんですから、なんなりとあの人におっしゃったらいいでしょう。おやすみなさい」
「Kさん」と、グルゥバッハ夫人は嘆願するように言って、彼がもうあけている扉のところまで、急いで追いかけてきた。「ほんとうのところまだあの人に話を持ち出そうとは思っていません。もちろん、その前にもっとよくあの人のことを見ようと思うんですけれど、私の知っていることをあなたにだけお打明けしたんです。結局のところ、こう考えるのは、自分の下宿をきれいにしておきたいと思う家主の誰でもの気持にちがいありません。そして私のつもりもそれとは少しもちがわないんですわ」
「きれいにだって!」と、Kは扉の隙間(すきま)から叫んだ。「もし下宿をきれいにしておこうと思われるなら、まずこの私に立ちのきを言わなくちゃならないでしょう」
 そして彼は扉をぴしゃりとしめ、低いノックの音にはもうおかまいなしでいた。
 だが、全然眠たくないので、まだ起きていて、ビュルストナー嬢が何時に帰ってくるかをこの機会に確かめよう、と決心した。それからまた、あまりよいことではないが、またあの女と一言二言話すことも、おそらくできるだろう。窓ぎわで横になって、疲れた眼を押えると、グルゥバッハ夫人を罰してやろう、ビュルストナー嬢を説き伏せて、いっしょにこの家を出てやろう、ということさえ一瞬頭に浮ぶのだった。しかしすぐに、そんなことをするのはおそろしくやりすぎだと思われたし、今朝の出来事のために住居を変える気になった自分というものに対して、疑念さえも覚えた。これよりも無意味で、ことに無益でばからしいことは、何もないだろう、と思うのだった。
 人けのない通りをながめることに飽きたとき、この家にはいってくる者がすぐソファから見えるように、控えの間の扉を少しあけてから、ソファの上に身を横たえた。およそ十一時まで、葉巻を一本ふかしながら、ソファの上に静かに横になっていた。それからあとは、もうそこにじっと待ってはいられなくなり、少し控えの間にはいった。こうすれば、ビュルストナー嬢の帰宅を早めることができるように思われたのだった。特に彼女を求める気持はなかったし、どんな格好の女だったかけっして詳しく思い出せもしなかったが、今は彼女と話がしたく、帰りが遅いため今日という日の終らぬうちに不安と混乱とを彼女がもたらしたことが、彼をいらつかせた。今晩の食事を食べもしないで、今晩に予定していたエルザを訪ねることもやめてしまったについては、彼女にも責任があるのだ。もちろん、今からでもエルザの勤めている酒場へ行けば、この二つのことは取返しがつく。それはもっと後(あと)で、ビュルストナー嬢と話が終ってからにしよう、と思った。
 十一時半を過ぎたとき、誰かの足音が階段のところで聞えた。考えに没頭し、自分の部屋ででもあるかのように足音高く控えの間をあちこち歩いていたKは、自分の部屋の扉の背後に逃げた。やってきたのは、ビュルストナー嬢だった。寒気を覚えながら、扉をしめるとき、絹のショールを細い肩に締めつけた。この機を失すれば、彼女は自分の部屋にはいってしまい、真夜中なので、きっとKはそこへ押し入ることもできないだろう。そこで今こそ声をかけるべきときだったが、自分の部屋の電燈をつけておくことを運わるく忘れていたので、暗闇(くらやみ)から出てゆくことは、まるで襲いでもするような格好になり、少なくとも相手を非常に驚かすことになったにちがいなかった。途方にくれ、また一刻の猶予もならなかったので、彼は扉の隙間から小声で呼んだ。
「ビュルストナーさん」
 それは呼びかけているのではなく、嘆願の調子だった。
「どなたかいらっしゃるの?」と、ビュルストナー嬢はたずね、大きな眼をしてあたりを見まわした。
「私です」と、Kは言って、姿を現わした。
「ああ、Kさんでしたの!」と、ビュルストナー嬢は微笑(ほほえ)みながら言った。
「今晩は」と、彼女はKに手を差出した。
「あなたにちょっとお話ししたいことがあるんです、今でよろしいでしょうか?」
「今ですの?」と、ビュルストナー嬢はたずねた。「今じゃなくちゃいけませんの? 少し変じゃありません?」
「九時からお待ちしていたんです」
「でも、私は芝居に行っていましたの。あなたがお待ちだなんて少しも存じませんでしたわ」
「お話ししようということの動機になっているのは、今日初めて起ったことなんです」
「それじゃ、倒れるほど疲れてはいますけれど、それ以外にはどうしてもお断わりする理由もありませんから、ほんの少しだけ私の部屋に来ていただきましょう。こんなところでは絶対にお話もできませんし、みなさんをお起ししてしまうでしょう。そうなったらほかの人たちのためというより、私たちのため不愉快なことになりますわ。私の部屋の明りをつけますから、それまでここでお待ちになってちょうだい。それからここの明りを消してくださいね」
 Kは言われるままにしたが、なおしばらく、ビュルストナー嬢が彼女の部屋からもう一度小声で、はいるようにと求めるまで待っていた。
「おかけください」と、彼女は言い、安楽椅子を示したが、彼女自身は、疲れていると言ったくせに、ベッドの枠柱(わくばしら)のところへ立ったままであった。小さいが花をいっぱい飾ってある帽子も、けっして脱がない。
「で、どんなご用ですの? ほんとうにお伺いしたいですわ」
 彼女は軽く脚を組んだ。
「あなたはおそらく」と、Kは言い始めた。「事柄は今お話しせねばならぬほど差迫ったことでないとお思いかもしれませんが、しかし――」
「前置きなどはいつも聞きすごしますわ」と、ビュルストナー嬢は言った。
「それなら私のほうも気が楽です」と、Kが言った。「あなたのお部屋が今朝(けさ)、いわば私の責任なんですが、少しかきまわされたんです。私の知らない連中の手で私の意に逆らってやられたことですが、申上げたように、私のためにやられたのです。それでおわびを申上げようと思ったのでした」
「私の部屋がですって?」と、ビュルストナー嬢は言い、部屋を見るかわりに、Kをまじまじとながめた。
「そうなんです」と、Kは言って、二人はここで初めて互いに視線を交(か)わした。「どういうふうにしてそれが行われたか、ということは全然申上げる価値がありません」
「でもそれがほんとうに伺いたいことですわ」と、ビュルストナー嬢は言った。
「いや」と、Kは言った。
「それじゃあ」と、ビュルストナー嬢は言った。「私は別に秘密に立ち入りたいとも思いませんし、おもしろくないとおっしゃるなら、何も異議は申上げません。あなたが求めていらっしゃるゆるしというのは、よろこんで差上げますわ、別にかきまわした様子も全然見受けられませんもの」
 平手を腰の辺へぴったり当てたまま、彼女は部屋のなかを一まわりした。写真のあるマットのところで立ち止った。
「まあごらんなさい!」と、彼女は叫んだ。「私の写真がほんとうにごちゃごちゃですわ。いやですこと。それじゃあやっぱり、誰かが私の部屋にはいりましたのね。失礼ですわ」
 Kはうなずいてみせ、単調で無意味なはしゃぎかたをどうしても抑(おさ)えられないでいるあの行員のカミナーのことを、心ひそかに呪(のろ)った。
「変なことですわ」と、ビュルストナー嬢が言った。「留守のあいだに私の部屋にはいってはいけないなんて、あなたご自身がよくおわかりでしょうに、私から申上げねばならないなんて」
「いや、つまり私が申上げたのは」と、Kは言い、自分も写真のところへ行った。「あなたのお写真に手をかけたのは、私じゃなかったということです。あなたはお信じにならないでしょうから申上げますが、審理委員会が三人の銀行員を引っ張ってきたんです。そのうちの一人は、近い機会に銀行から追い出してやろうと思っていますが、そいつが写真を実際手に取ったのです。そうです、審理委員会がここで開かれました」と、女が物問いたげな眼差(まなざし)で彼を見つめたので、彼は付け加えたのだった。
「あなたのためにですの?」と、女がたずねた。
「そうです」と、Kが答えた。
「そんなことありませんわ」と、女は叫んで、笑い声をあげた。
「でも」と、Kは言った。「それじゃあ私が無罪だと信じてくださるんですか?」
「さあ、無罪って……」と、女は言った。「たぶんゆゆしい判断をそうすぐには申せませんわ、それに私もあなたのことはよく存じておりませんけれど、すぐに審理委員会に押しかけられるなんていうだけでも、重罪人にきまっています。でもあなたは自由でいらっしゃるんですから――少なくともあなたの落着いたご様子を拝見して、あなたは牢獄(ろうごく)から逃げてきたんではないって判断できますけれど――そんな犯罪をおやりになるはずはありませんわ」
「そうです」と、Kは言った。「でも審理委員会は、私が無罪だ、あるいは考えられたほど罪はないのだ、とさとったかもしれません」
「きっとそうですわ」と、ビュルストナー嬢はきわめて慎重に言った。
「ねえ」と、Kは言った。「あなたは裁判沙汰(ざた)のことはたいしてご存じじゃありませんね」
「ええ、存じません」と、ビュルストナー嬢は言った。「そしてこれまでもしばしば残念に思っていましたわ。なぜって、私はなんでも知っておきたいんですし、裁判のことなんかは特に興味があるんですもの。裁判というのは独特の魅力がありますわね? でもこの方面で私の知識はきっと完全なものになりますわ、来月になれば事務員としてある弁護士事務所にはいりますから」
「そりゃあ、たいへん結構です」と、Kは言った。「そうなればあなたに少しは私の審理にお力添えいただけましょう」
「もちろん、できますわ」と、ビュルストナー嬢が言った。「なぜできないということがありましょう? よろこんで私の知っていることをご用だてます」
「まじめで申上げているんですよ」と、Kは言った。「あるいは少なくとも、あなたがおっしゃっているのと同じ程度に半ばまじめで言っているんですよ。弁護士を引っ張ってくるには、事は少々小さすぎますが、できれば忠告者をよく利用しなければなりません」
「そうですね、けれど私に忠告者になってくれとおっしゃるんでしたら、問題は、いったい何なのかを知らなければなりません」
「それがまさにむずかしいんです」と、Kは言った。「私自身がわからないんです」
「ああ、それじゃ私をからかっていらっしゃったのね」と、ひどく失望した様子でビュルストナー嬢が言った。「そんなことのためにこんな夜遅くを選ぶなんて、あんまりばかげていますわ」
 そして、それまでずっと二人いっしょに立っていた写真のところから離れてしまった。
「いや、そうじゃありません」と、Kは言った。「ふざけてなんかいるんじゃありませんよ。私の言うことをお信じにならないっておっしゃるんですか! 私にわかっていることは、すでにあなたに申上げました。いや、私にわかっている以上にです。というのは、審理委員会なんていうものじゃなかったのですが、ただ私がそう勝手に名づけたのです。どうもどう言ってよいのかわからなかったものですから。審理などは全然行われませんでした、私はただ逮捕されただけなんです、けれどある委員会の手で行われたことだけは確かです」
 ビュルストナー嬢は安楽椅子にすわっていたが、笑い声をたてた。
「で、逮捕はどんなふうにして行われましたの?」と、彼女はきいた。
「恐ろしいことでした」と、Kは言ったが、今はそんなことなどは考えていないで、ビュルストナー嬢の様子にすっかり心を奪われていた。彼女は片手で顔をささえ、――肘(ひじ)は安楽椅子のクッションにのせていた――もう一方の手がゆるやかに腰をなでているのだった。
「それじゃああんまり月並みで、なんのことやらわかりませんわ」と、ビュルストナー嬢が言った。
「何が月並みすぎるとおっしゃるんです?」と、Kはたずねたが、すぐに思い出して、たずねた。「あのときどういう有様だったか、あなたに申上げろとおっしゃるんですね?」
 彼は動こうとしたが、立ち去ろうとはしなかった。
「もう疲れてしまいましたわ」と、ビュルストナー嬢は言った。
「お帰りが遅いんですよ」と、Kが言った。
「とうとうあげくの果てが、お叱(しか)りを受けるということになりましたのね。でも自業自得ですわ、なにせこんな時間にはあなたに来ていただくべきではなかったんですから。それに、これまでにもうわかったように、来ていただく必要もなかったんですわ」
「必要だったのです。それはすぐわかっていただけると思います」と、Kは言った。
「夜間用の机をベッドのところからこっちへ持ってきてもよろしいですか?」
「なんということをお思いつきになったのです?」と、ビュルストナー嬢は言った。「もちろんそんなことをしていただいては困ります!」
「それじゃあ、あなたにお見せできないじゃありませんか」と、その言葉によって測り知れない損害をこうむったように興奮しながら、Kは言った。
「そうね、もし説明してくださるのに必要なら、机をほんのそっと動かしてください」と、ビュルストナー嬢は言い、しばらくしてからかなり弱々しい声で付け加えた。「疲れていたので、つい度を越したことをさせてしまったわ」
 Kは机を部屋の真っ只中(ただなか)に置き、その後ろにすわった。
「人物の配置を正しくのみこんでいただきます。それはたいへんおもしろいんです。私が監督とします。そこのトランクの上には二人の監視人が腰かけており、写真のところには三人の若い男が立っています。窓の把手には、私はただついでに言っておくのですが、一枚の白いブラウスがかかっています。そして今や、審理が始まります。ああ、私は自分のことを忘れていました。最も重要な人物、つまりこの私は、ここの机の前に立っています。監督は脚を組み、腕を椅子の背にこうやってだらりと下げ、ひどくのんびりとすわっている。無類の不作法者です。そして今や、ほんとうに審理が始まります。監督は、まるで私の眼をさまさなくてはならないというように大声をあげ、真っ向からどなりつけます。あなたにおわかりねがうためには、恐縮ですが私もここでどなってみなければなりません。ところで、彼がこうやってどなるのは、ただ私の名前だけなんです」
 笑いながら耳を傾けていたビュルストナー嬢は、Kがどなるのをさえぎるために、人差指を口もとにあてたが、時すでに遅かった。Kはすっかり役柄に没頭していて、ゆっくりと叫んだ。
「ヨーゼフ・K!」
 それでも彼がおどかしたほどは大声ではなかったけれども、その叫び声は、突然口をついて吐き出されると、ゆっくりと部屋のなかでひろがってゆくように思われた。
 そのとき、二、三度隣室の扉をたたく音がした。力強く、短かな、規則正しいノックだった。ビュルストナー嬢は蒼(あお)くなり、手を胸にあてた。Kはなおしばらくのあいだ、今朝の出来事と彼がそれを演じてみせている相手のこの女と以外のことを何も考えることができなかっただけに、特にひどく驚いたのであった。気が落着くやいなや、ビュルストナー嬢のところへ飛んでゆき、彼女の手を取った。
「何もこわがることはありません」と、彼はささやいた。「万事は私にまかせておきなさい。人がいるはずはありませんよ。この隣は空部屋で、誰も寝てはいませんよ」
「でも」と、ビュルストナー嬢はKの耳もとでささやいた。「昨日(きのう)からあそこにはグルゥバッハさんの甥(おい)の大尉の人が寝ていますわ。ちょうどどの部屋もあいてはいませんのよ。私も忘れていました。それなのにあんなにどなったりなさって! そのため私は具合がわるいことになりますわ」
「そんなことは全然ありませんよ」と、Kは言い、彼女がクッションに倒れかかると、その額に接吻(せっぷん)した。
「どいて、どいて」と、彼女は言い、急いでまた身を起した。「帰ってください、お帰りになって。どうしようというおつもりですの、あの人は扉のところで聞き耳をたてていますわ、すっかり聞えますわ。なんて私に面倒をおかけになるの!」
「私は帰りませんよ」と、Kは言った。「あなたがもう少し落着かれるまでは。部屋の向うの隅(すみ)に行ってください、あすこなら私たちの話すことが聞えませんから」
 彼女はそこまで連れてゆかれるままになっていた。彼は言った。
「なるほどあなたにとって不都合なことではありましょうが、全然危険というようなことじゃない、ということをあなたはよく考えてくださらなくちゃいけません。ご存じのように、このことの鍵(かぎ)を握っているグルゥバッハさんは、そして特に大尉があの人の甥でありますからなおさらそうなるわけですが、あの人はたいへん私を尊敬し、私の言うことはなんでも無条件に信じているのです。あの人はそうでなくとも私の厄介になっています。かなりの金を私から借りたことがあるからです。私たちが同室したことに対する釈明については、少しでも辻褄(つじつま)が合うことならどんなことでも、あなたの申し出をお引受けしましょう。そして、グルゥバッハさんを動かして、ただ人々に対する釈明を信じさせるばかりでなく、ほんとうに心からそれを信じさせることができるのです。その場合あなたは、私をけっしていたわってはなりません。私があなたを襲ったのだ、という噂(うわさ)を広めてしまいたいとお思いなら、グルゥバッハさんをそういうふうに教えこむことはわけはありませんし、そう信じこんでも私に対する信頼を失いっこはありません。それほどあの人は私に傾倒しているんです」
 ビュルストナー嬢は、黙って、少し崩(くず)れた姿勢で、じっと床を見ていた。
「私があなたを襲ったのだ、とグルゥバッハさんが信じたってかまわないじゃありませんか?」と、Kは言葉を継いだ。
 すぐ眼の前に、彼女の髪毛(かみのけ)、分けられ、少しふくらみをつけ、しっかりとくくった、赤みがかった髪毛が、見えた。彼女が自分に眼差(まなざし)を向けるものと彼は思ったが、彼女は姿勢を変えないで言った。
「ごめんなさい、突然ノックが聞えたためすっかり驚いてしまったので、大尉がいることから起るかもしれない結果を恐れたわけじゃないの。あなたがどなられたあとたいへん静かになったのに、そこへノックの音が聞えたものですから、あんなに驚いてしまいました。また私は扉の近くにすわっていたものですから、ほとんどすぐそばにノックの音が聞えたの。あなたのお申し出はありがとうございますが、私は結構ですわ。私の部屋で起ったことはすべて、私が責任を持ちます。しかも誰が何を言ってきましてもそうしますわ。もちろん、あなたのご好意はよくわかりますが、それと並んで、どんな私に対する侮辱があなたのお申し出のなかに含まれているかをお気づきにならないなんて、ほんとうに不思議ですわ。でも、もうお帰りになって、私をひとりにしておいてください。今はさっき以上にひとりでいることが必要ですの。ほんの二、三分とおっしゃったのが、もう三十分かそれ以上にもなりましたわ」
 Kは彼女の手をとらえ、次に手首をつかんだ。
「お気をわるくしたんじゃありませんか?」と、彼は言った。彼女はその手をはずして、答えた。
「いいえ、どういたしまして。私はいつでも、どなたに対してでも、気なんかわるくはいたしませんわ」
 彼はふたたび彼女の手首をつかんだが、今度ははずしもせずに、そのまま彼を扉のところまで連れていった。Kは、帰ろうとしっかと心をきめていた。ところが、扉の前まで来ると、こんなところに扉があるなんて思いもしなかったというような顔で止ってしまい、ビュルストナー嬢はこの瞬間を利用してKから逃れ、扉をあけ、控えの間に滑(すべ)りこみ、そこからKに小声で言った。
「ねえ、ちょっとこっちに来てちょうだい。ごらんになって」――彼女は大尉の扉を示したが、扉の下からは明りがもれていた――「あの人は明りをつけて、私たちの様子をおもしろがって聞いていたんだわ」
「どれ」と、Kは言い、飛びこみ、女をひっとらえて、口に接吻し、それから顔じゅうに接吻したが、まるで渇(かわ)いた獣が、とうとう見つけだした泉の水に舌で飛びかかるような有様だった。ついに彼は、喉(のど)のあるあたりの頸(くび)に接吻し、そこに唇を長いあいだ押しあてていた。大尉の部屋から物音が聞えたので、彼は眼を上げた。
「もう帰ります」と、彼は言い、ビュルストナー嬢の洗礼名を呼ぼうとしたが、知らなかった。彼女は物憂げにうなずき、すでに半分ほど身体をそむけ、彼が手に接吻するままに呆然(ぼうぜん)としてまかせていたが、次に身体をかがめて部屋へ帰っていった。間もなくKはベッドの中に横たわった。すぐ眠りこんでしまったが、眠りにはいる前に、ほんのしばらく自分の振舞いを考え、満足を感じたが、もっと満足していないことが不思議だった。大尉がいるため、彼はビュルストナー嬢のことを真剣に心配したのだった。





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