ワーニャ伯父さん アントン・チェーホフ



ソーニャ ワーニャ伯父さん、面白くないわ、そんなお話!
 
ヴォイニーツカヤ夫人 (息子に)お前は自分の昔もっていた信念を、なんだか怨(うら)みに思っておいでのようだね。……けれど、悪いのは信念ではありません、お前自身なのだよ。信念そのものはなんでもない、ただの死んだ文字だということを、お前は忘れていたのです。……仕事をしなければならなかったのですよ。
 
ワーニャ 仕事ですって? だが人間みんながみんな、物を書く自働人形になれるとは限りませんからね、――あなたの教授閣下みたいにねえ。
 
ヴォイニーツカヤ夫人 それは一体なんのこと?
 
ソーニャ (哀願するように)おばあ様! ワーニャ伯父さん! 後生ですから!
 
ワーニャ 黙るよ。黙って、あやまるよ。
間。
 
エレーナ いいお天気だこと、きょうは。……暑くもなし。……
間。
 
ワーニャ こんな天気に首をくくったら、さぞいいだろうなあ。……
テレーギン、ギターの調子を合せる。マリーナ、家のまわりを歩きながら庭鳥を呼ぶ。
 
マリーナ とう、とうとうと……
 
ソーニャ ばあや、百姓たちは何しに来たの?
 
マリーナ 相変らず一つことですよ、あの荒地のことですよ。とう、とうとうと……
 
ソーニャ 何を呼んでるのさ。
 
マリーナ ぶちのめん鶏(どり)が、ひよっ子を連れて、どこかへ行ってしまったんですよ。……鴉(からす)にさらわれなけりゃいいが……(退場)
テレーギン、ポルカを弾(ひ)く。一同だまって聞き入る。下男登場。
 
下男 お医者さまはこちらですか。(アーストロフに)おそれいりますが、アーストロフ先生、お迎えが参りました。
 
アーストロフ どこからだい。
 
下男 工場(こうば)からで。
 
アーストロフ (いまいましげに)ありがたい仕合せだ。とにかく、行かなきゃなるまい。……(帽子を目で捜す)ちえっ、いまいましい……
 
ソーニャ ほんとに、お気の毒ねえ。……工場のご用が済んだら、おひるをあがりにいらしてくださいね。
 
アーストロフ いいや、晩(おそ)くなるでしょう。どうして……とてもとても……(下男に)君すまないが、ウオトカを一杯たのむよ。ほんとにさ。(下男退場)どうして……とても……とても……(帽子を見つける)オストローフスキイのなんとかいう芝居にね、ばかでっかい口髭を生(は)やした、さっぱり能のない男が出てくるが。……僕がつまりそれだな。では皆さん、失礼します。……(エレーナに)もしそのうち、このソーニャさんとご一緒に、わたしのところへもお立寄り願えたら、ほんとに嬉(うれ)しく存じます。地所といっても僅(わず)かなもので、三十町歩そこそこですが、まあご興味がおありでしたら、三百里四方どこを捜してもないような、模範的な庭と、苗木の林をごらんに入れます。うちの地所の隣に、官有林がありましてね。……そこの森番が年寄りで、おまけに病気ばかりしているものですから、実際のところ、この私が、何から何まで采配(さいはい)をふっているようなものです。
 
エレーナ あなたが大そう森や林のお好きな方だということは、もう承っておりますわ。それはもちろん、たいへん世の中のためになることには違いないでしょうけれど、でもご本職の邪魔にはなりませんこと? だって、お医者さまでらっしゃいますものね。
 
アーストロフ 何がわれわれの本職か、ということは、神さまだけがご存じです。
 
エレーナ で、面白くていらっしゃる?
 
アーストロフ ええ、面白い仕事です。
 
ワーニャ (皮肉に)すこぶるね!
 
エレーナ (アーストロフに)あなたはまだ、お若くてらっしゃるわ、お見受けするところ……そうね、三十六か七ぐらい。だから本当は、おっしゃるほどには面白がってらっしゃらないのよ。しょっちゅう森や林のことばっかり。それじゃあんまり単調だとあたし思うわ。
 
ソーニャ いいえ、それがとても面白いんですの。アーストロフさんは毎年(まいねん)々々、あたらしい林を植えつけて、そのご褒美(ほうび)にもう、銅牌(どうはい)だの賞状だのを、もらっていらっしゃいますの。古い森が根絶やしにならないように、いつも骨折ってらっしゃるんです。このかたの話をとっくりお聞きになったら、きっとなるほどとお思いになりましてよ。ドクトルのお説だと、森林はこの地上を美しく飾って、美しいものを味わう術(すべ)を人間に教え、おおどかな気持を吹きこんでくれる、とおっしゃるんですの。森林はまた、きびしい気候を和(やわ)らげてもくれます。気候のおだやかな国では、自然との闘いに力を費やすことが少ないので、したがってそこに住む人間の性質も、優しくて濃(こま)やかです。そういう土地の人間は、顔だちが好(よ)くって、しなやかで、ものに感じやすく、言葉はみやびやかで、動作はしとやかです。そこでは学問や芸術が栄え、哲学も暗い色合いを帯びず、婦人にたいする態度も、上品で優美です。……
 
ワーニャ (笑いながら)いや、ブラボー、ブラボー……お説は一々ごもっともだが、疑問の余地もなきにしも非(あら)ずだね。だからね(とアーストロフに)僕だけには一つ、相変らずストーブに薪(まき)をくべたり、材木を使って小屋を建てたりすることを、お許しねがいたいものだね。
 
アーストロフ ストーブなら泥炭(でいたん)を焚(た)けばいいし、小屋なら石で造ればいいじゃないか。もっとも、必要とあらば、木を伐(き)り出すのに反対はしないが、わざわざ森を根絶やしにする必要が、どこにある? 今やロシアの森は、斧(おの)の下でめりめり音を立てているよ。何十億本という木が滅びつつあるし、鳥やけものの棲家(すみか)は荒されるし、河はしだいに浅くなって涸(か)れてゆくし、すばらしい景色も、消えてまた返らずさ。というのも、人間というやつが元来無精者で、腰をまげて地面から焚物(たきもの)を拾うだけの才覚がないからさ。(エレーナに)そうじゃないでしょうか、ねえ、奥さん。あれほど美しいものをストーブで燃しちまったり、われわれの手では創(つく)り出せないものを滅ぼしてしまうような乱暴は、よっぽど無分別な野蛮人ででもない限り、できるはずはありませんよ。人間は物を考える理性と、物を創り出す力とを、天から授かっています。それでもって、自分に与えられているものを、ますます殖やして行けという神さまの思召(おぼしめ)しなんです。ところが、今日(こんにち)まで人間は、創り出すどころか、ぶち毀(こわ)してばかりいました。森はだんだん少なくなる、河は涸れてゆく、鳥はいなくなる、気候はだんだん荒くなる、そして土地は日ましに、愈々(いよいよ)ますます痩(や)せて醜くなってゆく。(ワーニャに)そらまた君は、例の皮肉な目で僕を見ているね。僕の言うことは残らずみんな、君には真面目(まじめ)に受けとれないんだ。もっとも……もっとも、こうしたことは実際のところ、正気の沙汰(さた)じゃないかもしれん。しかしね、僕のおかげで、伐採の憂目(うきめ)をまぬかれた、百姓たちの森のそばを通りかかったり、自分の手で植えつけた若木の林が、ざわざわ鳴るのを聞いたりすると、僕もようやく、風土というものが多少とも、おれの力で左右できるのだということに、思い当るのだ。そして、もし千年ののち人間が仕合せになれるものとすれば、僕の力も幾分はそこらに働いているわけなのだと、そんな気がしてくるのだ。白樺(しらかば)の若木を自分で植えつけて、それがやがて青々と繁(しげ)って、風に揺られているのを見ると、僕の胸は思わずふくらむのだ。そして僕は……(下男がウオトカのグラスを盆にのせてくるのを見て)だがしかし……(飲む)もう行かなけりゃならん。まあ結局のところは、こんなことは一切、正気の沙汰じゃないかもしれないがね。ではご機嫌よう、皆さん! (家のほうへ行く)
 
ソーニャ (彼と腕を組んでいっしょにゆく)今度はいつおいでになって?
 
アーストロフ わかりませんな。……
 
ソーニャ また、ひと月もしてから?……
アーストロフとソーニャ、家の中へはいる。ヴォイニーツカヤ夫人とテレーギンが、テーブルのそばに残る。エレーナとワーニャは、ベランダのほうへ行く。
 
エレーナ ワーニャさん、またあなたは、やんちゃぶりを発揮なすったのねえ。わざわざ自働人形なんてことを言いだして、お母さまの気を悪くしないじゃいられないのね! けさの食事の時も、またアレクサンドルと言い合いをなさるし、つまらないことだわ。
 
ワーニャ だがもし、わたしが本気であの人を憎んでいるとしたら!
 
エレーナ アレクサンドルを憎むなんて、意味ないことよ。あの人だって、べつに変った人間じゃないんですもの。あなたより悪い人でもなし。
 
ワーニャ もしもあなたが、自分の顔や、自分の立ち居振舞いを、われとわが目で見られたらなあ。……あなたは生きているのが、じつに大儀そうですよ! じつになんとも、大儀そうですよ!
 
エレーナ ええそりゃあ、大儀でもあり、退屈でもありますわ! みんな寄ってたかって、宅の悪口ばかり言って、あたしを気の毒そうな目で見るのよ。可哀(かわい)そうに、あんな年寄りの亭主を持ってさ、と言わんばかりにね。そういって同情してくださる気持――それは本当によくわかるの! 現にさっき、アーストロフさんも仰(おっ)しゃったとおり、あなたがたはみんな、分別もなく森を枯らしてばかりいるので、まもなくこの地上は丸坊主(まるぼうず)になってしまうんだわ。それと同じように、あなたがたは、分別もなしに人間を枯らしているので、やがてそのおかげで、この地上には貞節も、純潔も、自分を犠牲にする勇気も、何ひとつなくなってしまうでしょうよ。どうしてあなたがたは、自分のものでもない女のこと、そう気に病むんでしょうねえ。わかっていますわ、それはドクトルの仰(おっ)しゃるとおり、あなたがたは一人のこらず、破壊とやらの悪魔をめいめい胸の中に飼ってらっしゃるからなのよ。森も惜しくない、鳥も、女も、お互い同士の命も、何ひとつ大事なものはない。……
 
ワーニャ 僕、そんな哲学は嫌(きら)いですよ! (間)
 
エレーナ あのドクトルは、疲れきったような神経質な顔をしてらっしゃるわね。いい顔だわ。ソーニャはどうやら、あの人が好きで、恋しているらしいけれど、その気持はあたしにもわかるの。あたしが来てから、あの人はもう三度もここへ見えたけれど、あたしは内気なたちだもので、一度もゆっくりお話ししたこともないし、やさしい言葉一つかけてあげたこともない。ずいぶん意地の悪い女だと、思ってらっしゃるでしょう。ねえワーニャさん、あなたとあたしがこんなに仲がいいのも、きっと二人とも陰気くさい、わびしい人間だからなんでしょうね! ほんとに私たち、陰気くさいわ! そんなに人の顔を見るものじゃなくてよ。あたしそんなこと嫌い。
 
ワーニャ じゃあほかに、どんな眺めようがあるというんです、こんなにあなたが好きなのにさ! あなたは、わたしの悦(よろこ)びです。わたしの命です、わたしの青春です! そりゃもちろん、思い思われるという見込みがほとんどなくて、まずゼロに等しいことぐらい、よく心得ています。が僕は、何もいらない。ただあなたの顔を眺め、あなたの声を聞くことさえできれば……
 
エレーナ しっ、人が聞きますよ! (家へはいろうとする)
 
ワーニャ (あとを追いながら)好きだと言ったっていいじゃありませんか。どうぞそう邪慳(じゃけん)にしないでください。それだけでもう、僕はほんとに仕合せなんです。……
 
エレーナ ああ、困ったわ。……(二人、家の中へ消える)
テレーギン、ギターの弦を打って、ポルカを弾く。ヴォイニーツカヤ夫人はパンフレットの余白に何やら書きこんでいる。
――幕――




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