半分だけの物語(前編) ヘンリー・ヴァン・ダイク

半分だけの物語
ヘンリー・ヴァン・ダイク 作
山田由香里 訳
 
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はじめに

 どんな短編よりももっと短い話、たとえば人生というノートのほんの片隅に書かれたメモのような話を書きたい、と私は長年思い続けていた。
「肝心な部分以外は省け」というのは熱意のない編集者のきまり文句だが、こんなやり方で話を短くしようなどというのではない。実際、本筋とは関係のないくだりも残しつつ、大切だと思うところにはたっぷりページを割くつもりだ。
 人生の意味。それは、我々の理解をはるかに越えるものだ。いわんや、書き言葉などの及ぶところではない。とはいえ、象徴的な表現を用いることでわかりやすくなることもあれば、寓話やたとえはひらめきを与えてくれることもある。また、小さなできごとが遠くを照らすこともある。ギリシャ人奴隷のイソップやスコットランドのロマン派作家スティーヴンソン(1)から、私は多くを学んだ。だが、この一番短い話は私にしか書けない。
 私の文章について言えば、特に誇れるような美点はないものの、明快な書き方をした。また、どの言葉にも文字通りの意味だけでなく、言外の意味も含ませている。
 内容については、おもねったり受けを狙ったりするようなものではなく、映画になりそうなドラマチックなものでもない。だから、このまま味わってもらえればうれしい。
 今回新しく書いた話に、昔同じ方法で書いた古い話も加えてある。いずれも半分だけしか語られていないが、ものごとの真理が語られていると信ずる。
 誠に恐縮だが、私は読者のみなさんに、奇妙な、ことによると厚かましいお願いをしたい。だが、その願いによってきっと何かが見つけられるだろうと思っている。
 それは、よく考えながら読んでほしい、というお願いだ。そうでなければ、この『半分だけの物語』は意味のないものになってしまうだろう。
 本の価値というのは、書き手にもよるが、読み手にもよるのだ。
  
      ヘンリー・ヴァン・ダイク
      1925・6・22 シルヴァノラにて

(1)ロバート・ルイス・スティーヴンソン(一八五〇〜一八九四年) 『宝島』の著者。





 夏の滞在者たちは、南へ帰る準備に大わらわだった。丘の上の黄色く色づいた樺の木やポプラの木々に、岩だらけの海岸にほど近いとがったモミの木の森に、また山の湖を縁どる真っ赤な楓の林に、無数の住人たちが集い、羽ばたき、木の葉を鳴らし、さえずりを交わしていた。ちょっと目をこらせばその姿が見え、耳をすませばその声が聞こえた。とにかく、何かおびただしい数の群れが集まっている気配が、あたりに満ちていた。
 さて、このボストンのとある場所で、なぜ大移動を行わなければならないのか、という問題が話し合われていた。羽根をもつ二本足の動物たちは、熱く議論を戦わせていた。
「これは現代の愚行だ。動機などあるものか! 私は冬の服に着替えてここに残る」と言ったのはフクロウ教授。
「これは昔からの習慣です。我が家ではずっと守ってきたので、我々もその伝統を守ります」とアオサギ博士。
「まぁ、流行みたいなものね。私は大好きだわ。流行に乗り遅れるくらいなら死んだ方がましよ」とハチドリ夫人。
「楽しい旅行と同じだよ。人生で何が楽しいって、速く飛ぶことと電線にとまることだ」とツバメ。
「曲芸ってとこだね。僕は誰よりも長い距離を、たとえば北極から南極までだって飛べる」と言ったのは、アジサシ船長。
「これは経済の問題だ。クロウタドリのパイが販売禁止になってからというもの、我々の仲間は急速に増えつつある。もうここでは食べものにありつけないから、南へ移動する。生き延びるためにも」とクロウタドリの関係者団体が発言した。
「道中で強盗をはたらくチャンスが転がっているからさ」とモズの爺さんが口を出す。
「おいおい! 君たちと一緒にするなよ。まぁ、僕らも芋虫には目がないけどね。だから地面が凍ったら大変だ。芋虫を捕まえられなくなる」と血色のいいひばりが言った。
「私たちウグイスはね、アメリカを見て回るのが好きなのよ。景色が変わるのは楽しいものよ。家の中でくすぶってなどいられないわ。ワクワクしたくて旅に出るの」と早口にまくしたてたのはウグイス嬢だ。
「おい、ちょっと待てよ。このインテリぶったたわごとは何なんだ? こりゃ、ただの本能だろう? 違うのか?」最近イギリスから渡ってきた、少々下品なホシムクドリのトミーが口をはさむ。
「まさにその通り!」と群れ全体にどよめきが起こった。
「さぁ、行くぞ!」とばかりに、彼らはいっせいに飛び立った。
 だが、イギリスのスズメはフクロウとともに残った。フクロウと同じ考えのものもいたのだ。



二人の走者

 アルゴリスの谷で行われた競走で勝ったのはニカトルだ。彼は、ライバルである友人のクレオンと激しく競り合った。膝を高くあげ、胸をつきだし、頭をうしろにそらし、……二人のものすごい速さを思い浮かべてほしい。
 ところがゴール目前で、クレオンは履物がすべったためによろけてしまった。なんとかもちこえたものの、その瞬間に勝負が決まった。ニカトルが指一本の差で、さきにゴールしたのだ。
 クレオンは誰よりもあたたかく勝者をほめたたえた。褒美は野生のパセリを編んだ冠で、これは二人に与えられた。というのも、彼らがかつてないほどわずかの差で、いやほとんど同時にゴールしたからだ。当然ながら、パセリの冠はあっという間にしおれてしまう。ところが今回の勝者には、自分の銅像を立ててもらえる——しかも、この町の偉人たちの銅像と並んで——という特別な褒美が加わった。クレオンは、もっともだとその栄誉をたたえる反面、内心では大いに不満だった。履物さえすべらなかったら……。考えれば考えるほど、くやしくて、腹が立った。やがて、ねたみという名の毒が彼の心を蝕みはじめた。
 クレオンは、今までになくあからさまにニカトルを傷つけた。それは恥ずべきことだった。だが城壁に立つニカトルの銅像は、まるで勝負の無言の目撃者のように、あのうるわしいアルゴリスの谷を見下ろしながら永遠にそこに立っている。そんなことがあってもよいのか? あの勝利はただの偶然によってもたらされたというのに。神よ、あの偶然さえ起らなければ! パセリの冠はすでにしおれてしまったが、あの銅像はいまだに倒れない!
 こんなことを考えながら、クレオンは日ごと恨みの気持ちをつのらせつつ、城壁の前を行き来した。台座に注意深く目をこらし、地震か大嵐でもやってきて銅像が岩だらけの谷に落ちればいい、と願うのだった。
 この思いは日に日に高じて、ついにある晩クレオンは外套の下に縄の束を抱えて家を出ると、危険を冒して城壁を外側からよじ登った。そして銅像に向かって縄を投げ、引いた。すると銅像はぐらりと揺れた。もう一度引いてみると、それは台座の上でまた揺れた。町の側に落ちては元も子もない、とばかりに力いっぱいに縄を手前に引くと、銅像は倒れて頭の上に落ちてきた。クレオンはニカトルの銅像もろとも、暗い谷に向かってまっさかさまに落ちていった。人間も銅像もこなごなに砕けた。
 こうしてクレオンはねたみから解き放たれた。一方、ニカトルはその後も生き続けた。銅像のことを少し残念に思いながら。そして友のことを大いに残念に思いながら。



資本家を呪う

「畜生! 資本家のやつらめ」とボーテックス(「渦巻き」の意)は言った。こうした下品な言葉は、激しい感情のあらわれであることが多いものだ。
「まったくだ。けど、どうしたっていうんだ?」とシンプレックス(「単純な」の意)は言った。
シンプレックスは年老いた配管工で、おおざっぱな性格だ。長老派のこの男は運命論者だが、信じているものといえば讃美歌にある呪いの言葉くらいのものだった。一方の若いボーテックスはプロレタリアート(無産階級)の配管工見習いで、神などまったく信じていないくせに、神の名を借りてののしりの言葉を吐き散らしていた。この若者は、懐中電灯で相手の手もとを照らす仕事と、忘れた道具をとりに店までぶらぶら歩いて帰る仕事が特に嫌いだった。その間、彼の上司は風呂場でパイプをふかしながら二ドル五〇セントの時給をもらっていた。
「あいつら資本家は、金をもうけたいばっかりに大きな戦争を起こしやがった」とボーテックスは言った。
「まったくだ。ただし俺たちの給料も上がったけどな。身勝手なごろつきめ! 険しい山道へでも連れて行って、突き落として殺しちまうか。しかし、誰にやらせる?」とシンプレックスは言った。
「俺たちがやるのさ、プロレタリアート! 俺たちのつらさや苦しみが、やつらの贅沢を支えているんだ。人間は自分が汗水流して作ったものしか手に入れられない。違うか?」
「まったくだ」シンプレックスはそう言いながら金メッキの腕時計を見て、終業時間になったことを確かめた。
「なぁ、おっさん。五〇〇ドル貸してくれないか。フォードの車を買うんだ。銀行に貯めているんだろう?」とボーテックスは続けた。
「もちろんだ。銀行に一三〇〇〇ドル預けてある。お前の家を担保にして五〇〇ドル貸してやるよ。利子は七パーセントでどうだ?」とシンプレックスは得意げだった。
「よし! あんたいい人だ」とボーテックスは叫び、老人の背中を叩いた。「ところで聖書によれば、人は自分の器にあった人間にしかなれないんだとよ。その中でも財産をもっている人間は最悪だ。そいつらは強盗か盗人で、神の憎悪の的なんだとさ。俺たち、つらい労働に耐えている者で、そいつらを捕まえて穴倉に落としてやろうじゃないか」



宝石の物語

 ソフィア・アレシア・マクナマラははなはだ染まりやすい性格だった。目新しい考え方に出会うと、たちまちその激しい表現にとりつかれ、鵜呑みにしてしまうのだった。仏教徒になったばかりのとき、彼女は蚊を殺すことに異をとなえた。なぜなら、蚊は死んだ友だちの生まれ変わりかもしれないと考えたからだ。真の平和主義者になったときは、たとえ違法な暴力や強盗から身を守るためであっても、暴力を用いることには断固反対だと言い張った。そして、必死に屁理屈をこねるのだった。「山賊だってやむにやまれず山賊になったのよ。それは力では解決できないわ」と。熱心な慈善家になったとき、彼女は自分の所有する先祖伝来の宝石を売りに出し、貧しい人々にその売上げを配るのが自分の義務だ、と言い出した。
 もちろん、兄や弟は反対した。「だったら、僕らの妻たちに譲ってくれ」と。「でも、それじゃあお金にならないじゃないの」と、ソフィア・アレシアは文句を言った。結局、彼女の良心の詰まった宝石箱を家族の古い友人にゆだねる、ということで話がついた。その人物は敬虔で思慮深い、丸々と太ったサウス・セントラル・ジャージーの司教だった。
「司教さま。私は目覚めました。宝石を残らず売って、そのお金を貧しい人々に差し上げようと決めました。私はこんな呪われた飾り物なんかいりません。こうしている間にも、ぼろをまとったあの人たちは、手回しオルガンを奏でながら鉛筆を売って暮らしているというのに」とソフィア・アレシアは訴えた。
「ちょっとお待ちなさい。この美しい宝石は、どこにでもあるという代物ではありません。信心深いあなたのおばあ様からゆずられたものばかりなんですよ」と司教は言った。
「かまいませんわ。こんなもの珍しくもありません。罪深い道楽です。まるでひき臼のように首にぶら下がって、わたしを地獄にひきずり込むんです。売ってしまいたい。さもなければ、捨ててしまわないと」とソフィア・アレシアは答えた。
「しかし」と司教は言いながら目をわずかに輝かせていた。「もしあなたが売れば、誰かがそれを買います。あなたの宝石を買った人たちは、どうなるのでしょう? そのひき臼を、あなたはその人たちの首にぶら下げさせるつもりですか?」
「そんなこと考えもしませんでした」ソフィア・アレシアは答えた。彼女は立ち去り、宝石をいくつか義理の姉妹たちに譲ろうか、それとも危険を承知で全部もっていようか、と思案した。「ほかの人々を救うために自ら危険に向き合う、これもひとつの神への務めだわ。やっぱり」と彼女は思ったのだった。



結婚

 その若者は、牛の飼育を生業としているボーデンタウン家の王子で、有名な植民地貴族の末裔だった。メイ岬を訪れたとき、明るい魅力あふれる海の王女に激しい恋をし、情熱にまかせて求婚すると王女はそれを受け入れた。こうして二人は先祖代々の館で暮らし始めた。
 しかし、やがて王子の情熱はその地方の平均気温にまで下がってしまい、王女の明るさも日照りや寒さで輝きを失ってしまった。
 三度目の夏、王女は海辺で女たらしの公爵に出会った。その並はずれたしつこさをこばみ切れなくなった王女は、海へ出かけてこっそり逢い引きを重ねているうちに、とうとう王子のもとを去ってしまった。
 王子は再び情熱を燃やした。しかし、今度は以前のものとは正反対の情熱だった。そしてサウス・セントラル・ジャージーの司教に「不貞の王女を亡き者にする呪いをかけてほしい」と頼んだ。
「落ち着きなさい、王子様」と司教は言いながら、肉づきのよい脚を組んだ。「それは、よく考えたうえでなければ。ところで、王女様に結婚を申し込んだとき、あなたは何か約束をしましたか?」
「えぇ、しました。そのようなときは誰でも、思いを遂げるために何でもいいから約束をするものでしょう。大理石で作った塩水のプール、潜水艦にもなる飛行機、変わらぬ忠誠、明るい毎日を約束しました」と王子は言った。
「もちろん、守ったんでしょうね」と、司教は脚を組み替えながら、やさしく微笑んで問うた。
「いえ、言葉通りには……、つまり……守りませんでした。なにしろその約束は、私が先祖から受け継いだ牛の飼育や厳しい教会への務めとは両立できない、とわかったのです。妻はボーデンタウン家の習慣や伝統に合わせるべきだと思ったので」と王子。
「ふーむ」と司教はうなると、組んでいた脚をもどし、申立人と目を合わせた。「あなたは約束を一方だけのものだと思っていたようだ。妻は夫を喜ばせる魅力的な存在であり続けるべきだ、と。ところが、自分は面白味がなかったり、不機嫌だったり、怠惰だったりしても平気だった。言わせてもらえば、結婚生活で用いる『従う』という言葉は、暴君が使う言葉とは違います。確かに、この州ではあなたには離婚が法律で認められますが、哀れなことに、女性から離婚を申し立てることは違法なのです。従って教会としては、偽りの契約にもとづく違法な結婚の場合、永遠の呪いをかけることはできません」



経験から学ぶ

「師匠」と若い釣り人が熟練した釣り人に言った。「ヒラメとカレイの見分け方を教えてください」と。
「両方とも平べったい魚だが、片方は何もしない。だが、もう片方はふいに噛みつく。見分けるには経験から学ぶことだ」と、熟練した釣り人は答えた。
「でも、どうすれば経験できるんです? 僕が十分に経験を積んだということは、どうすれば分かるんです?」と若い釣り人は尋ねた。
「そのつど試すしかないさ。でも、特別に教えてやろう。平べったい魚を捕まえたら、その口のところに自分の指をあててごらん。噛み切られたら、それがヒラメだ」
 若い釣り人は平べったい魚を釣ったので、その口に自分の指をあててみた。そして、その魚がヒラメだと確信した。
「これは確かな方法だ。でも高くつく」と、彼は指をおさえながら言った。



堤防

 荒れ狂った川は静まり、流域は水びたしになった。空はまだ暗く、雲の流れが速い。人々は再び大洪水が起こることをおそれた。賢者は言った。「堤防を築こう。絶対にこわれないとは言い切れないが、少しの間は身を守れるだろう。水に襲われるまでの時間稼ぎにはなる。みんな手を貸してくれ」
 しかし、力持ちの男が言った。「いやだ! 俺は忙しいんだ。関わり合いはごめんだ。だいいち、俺の家は高台にあるから安全だ。あんたの考えは甘いな。まぁ、堤防が弱かろうと、強かろうと、俺にはどうでもいいが」
 結局力持ちの男は手を貸さなかった。それでも、堤防はできた。やがて雨が降り、風が吹き、堤防を激しく叩いた。川は水かさを増し、堤防に躍りかかった。だが、堤防はぐらぐらと揺れながらも、こわれなかった。
「そんなもの役に立つもんか、と俺はみんなに言った。でも、俺が一生懸命やったところで、もっと強い堤防ができただろうか」と力持ちの男はつぶやいた。
 彼はひそかに恐怖に震え、じっと堤防を見つめたまま座っていた。蔵の中には一センチあまりの水が入ってきていた。



エリコの道

 エリコ(1)の道の中のもっとも高い地点にある、古い大きな隊商宿で三人の旅人が火を囲んでいた。寒い夜だった。いずれも働き盛りの年格好で、財を築いた者たちだった。彼らの従者たち——召使、番人、馬、荷を運ぶ家畜——は、中庭のまわりにあるあずまやに群がっていた。
 三人のうちのひとりは、エルサレムから来たローマの取税人。二人目は、エクバタナから来たペルシャの絹商人。三人目はヨルダンの向こうにあるゲラサという豊かな町から来た、ギリシャの劇場支配人だった。三人はたびたびこの宿で顔を合わせた。みな仕事上、始終この危険な道を通らねばならなかったからだ。会えば喜び合い、温めたワインを飲みながら親しく言葉を交わすのが常だった。たとえ宗教が違っても、そうした生き生きとした温かい交わりを保てる時代だった。旅人がみなそうするように、彼らもくつろいで互いの話を聞いた。
「ところで、あの人。あの善良なサマリア人はどうしたんだろう? この時期になるとドーサンからのトウモロコシ袋と、イズレル産のワインが入った革袋を積んで、いつもこの道を通るんだが。どちらも今エルサレムでは高く売れるから」と、ローマ人が言った。
「恐らく、もう少し値が高くなるのを待っているんでしょう。あの人は商売上手だから。だが、彼はいい人です。とてもいい人です。アフラマズダ(2)を信仰しています」と、ペルシャ人は言った。
 ギリシャ人は微笑みながら言った。「その通りだ。彼は情け深さにかけては人後に落ちない。怪我をした人に包帯を巻いてやったり、貧しい人たちに施しをしたり。きっとまた、エリコの道端で困っている人を見つけて世話を焼いているに違いない。そのせいで遅れているんだよ。いつもそうじゃないか」
 ちょうどそのとき、まるで鐘の音に呼ばれるように、サマリア人が入ってきた。彼は埃にまみれ少し息を切らしていたが、いつものように礼儀正しく東洋風のあいさつをすると、友のそばに来て火にあたった。
「また何かあったのか?」と、ローマ人が尋ねた。
「えぇ、またひとつ……いいえ、実はいくつも」と、サマリア人は答えた。
「ここで初めて出会って以来、どれほどあったかな?」と、ギリシャ人。
 サマリア人は両手をあげた。
「さぁ、わかりません。覚えていませんよ。三〇年近くこの道を通っていますが、同じようなことが毎年、いいえ、ときには半年ごとにあります。あいかわらずの略奪、暴力、殺人です。道端には横たわった血まみれの死体、乱暴された女性そして切り刻まれた子供が残されています。今回はナザレン人と呼ばれる人が、かわいそうに殴り殺されていました。妻は刺し殺され、二人の女の子は暴行されて放心していました。私はできるだけのことをしようと、召使たちとここへ保護を求めました」
「そんなことがローマ帝国で起こっては大変だ。正義とローマの平和を脅かしている無法者は誰なんだ?」とローマ人が真剣な面持ちで言った。
「いつも同じ部族ですよ。やつらはそれを『通行料だ』と言うんです。やつらの宗教では、それが許されるのでしょう。終われば手を洗って、祈りの言葉を口にします。きっと悪魔の名でも呼んでいるにきまっています。体に流れている血までは、洗い流すことができないでしょう」とサマリア人は言った。
「それにしても、この部族を服従させなければ。教育して、平和を守らせなければならん」と、ローマ人。
「服従させろ、というのはやさしい。けれど私の国では、虎を飼い猫に変えることはできない、と言われていますよ。やつらの体から血の臭いがしていたら、あなたはやつらを信用できますか」と、ペルシャ人は言った。
「まさにあの部族も同じです。何度も様々な軍隊がやってきては、制圧していきます。そのつどやつらはぺこぺこ謝って媚を売り、もう悪いことはしないと約束します。ところが許されて軍隊が去ると、また盗み、強姦、虐殺、放火をはじめるんですよ。相手が強かったり、武器を持っていたりすれば黙って通しますが、弱くて無抵抗だと、情け容赦なく苦しめ、殺すんです。くる年も、くる年も、同じような野蛮な行為や恐怖が繰り返される! 私の住む谷はエリコの道での残虐行為に対して、反乱を起こしました」サマリア人は言った。
「しかし、なぜなんだ。なぜあなたは、回り道をして別の道を行かないんだ? 深い心の痛みを感じ、財産を失うような光景から目をそらせばよいのに。まぁ、よけいなお世話かもしれないが。ユダヤ人は、あなたにとって顧客という以外にどういう存在なんだ?」
とギリシャ人が、ごく穏やかに尋ねた。
 サマリア人は彼を見つめ、はっきりと確信をもって答えた。あたかも、その質問について絶えず考え、答えを用意していたかのように。
「理由は二つあります。ひとつは、あなたたちがここへ来る理由と同じです。我々はみな仕事のためにこの道を通らなければならないからです。エルサレムへ行くには、この道が一番速いのです。二つ目の理由は、多分みなさんには理解できないでしょう。エリコの道を避けても、私は悲しみから解放されないでしょう。常に、彼らの姿がまぶたに浮かぶでしょうから。傷つけられた人、暴行された人、虐殺された人。みな私につきまとい、助けをもとめています。彼らは私たちと同じ肉体と血をもっているのです。神は私が犠牲を払っていることをご存じです。けれど、私は犠牲を厭いません。もっとこの身を役立てたいと願うのみです」
「お前たちには、それができる」低い声が旅人たちの真うしろで聞こえた。みなが驚いて見上げると、そこにはひとりの男が立っていた。彼はラクダの毛皮でできた粗末な衣を革の帯でしばっていた。静かに近づいてきて、長い杖で体を支えながら厳しい面持ちで彼らを見つめていた。
「お前たちは、ひとりひとりがもっと何かできるはずだ。自分の務めに向き合って、もっと力を尽くしなさい。お前たちには、財産がある。力もある。血と恥辱にまみれたこの道に強い壁を築いて、この盗みと殺戮を繰り返す部族を恐れさせなさい。彼らにはいかなる議論も通用しない。残虐な行為をやめさせる方が、けが人を助けるよりもはるかに慈悲深い。無力な人々を守る方が、彼らのみじめさを慰めるよりもはるかに慈悲深い。これこそ、お前たちがなすべきことだ。できない人に押しつけてはいけない。私は神の名において、お前たちに『エリコの見張り人』を命ずる!」
 四人の旅人は、見知らぬ男が威厳に満ちた声で言うのを聞き、驚いて顔を見合わせた。彼らがもう一度振り返って尋ねようとしたとき、その男は闇の中に消えていった。

(1)古代オリエントの中でもっとも古い町。死海にそそぐヨルダン川河口から北西約15キロメートルにあるパレスチナの村。現ヨルダン川西岸地区
(2)ゾロアスター教の最高神



馬をつなぐ柱

『オールド・イン(古宿)』の前に、その柱は立っていた。自分に大層満足し、その務めと義務を誇りにしながら。
あの素晴らしい時代、旅人たちは『古宿』を素通りすることはなかった。ここで与えられる安らぎを分かち合おうと、みな必ず足を止めたものだ。足を止めると、そこには柱があった。柱は、旅人の馬が繋がれるとすぐに、その馬たちを相手に自分の仕事ぶりを大袈裟に話すのだった。
 ある日荷馬車が、新しい農園に運んでゆくため大枝を刈りこんだ樺の木を積んでやってきた。馭者が宿で一服している間、柱は若い樺の木たちに向かって話しはじめた。
「こっちを見ろ。まぁ、話を聞け。俺は木としては最高の名誉を手にしている。不動の力の象徴、つまり、しっかり留まり決して動かない力だ。俺は不動と永遠のシンボルだ。俺の行いを学び、見習うがいい。そうすればいつか同じ名誉を手にすることができるかもしれんぞ」
 若い木々たちはかしこまって聞いていたが、小枝をさらさら鳴らしながらこんなことを囁いた。
「でも、おじいさん。あなたはもう枯れているようだ。私たちは若いんです。もっともっと大きくなって新しい農園を作るんです」
 柱は言った。「それは作れるかもしれないな。だが作れんかもしれないぞ。結局お前たちは、俺の名誉に勝るものは絶対に手に入れられないのさ。なぜそんなに動きたがる? なぜそんなに大きくなりたがる? じっとしているのが、一番安全で素晴らしいというのに。人々が進歩と呼んでいるものの大半は、単に良いものから悪いものへの変化に過ぎない。永遠とは……」
 ちょうどそのとき、一服し終わった馭者が宿から出てきて馬の手綱をはずし、若い木々とともに走り去った。柱は残されて、あとから来た旅人を相手に演説を繰り返すのだった。
 それから長い年月が過ぎて、あの樺の木たちは新しい農園で大きくなり、ブロンズ色の大枝、緑の葉、銀色の樹皮をもつ美しい姿に成長した。そしてときどき、あの柱が聞かせてくれた話のことを噂しあうのだった。あれはどういうことだったのか、あのおじいさんは今どうしているのか、と。
 ところがその長い年月の間に、馬車は道路から姿を消した。そして、自動車が『古宿』の扉のそばに停まっていた。柱は今もかわらず堂々と昔の場所に立っていたが、鎖や掛け金は近所のいたずらっ子たちが持ち去ってしまっていた。だが、それがなくなっていることに、もう誰も気づくことはなかった。



石鹸

「手を洗え」満州国の支配者たる皇帝は言った。「余に謁見したい者、余の町に住みたい者はみな手を洗わねばならぬ。この触れを出せ。手がきれいで心の清らかな者のほかは、余の町に住まうことも入ることも許されぬ」
 この勅令は帝国に混乱を巻き起こすと同時に、いかに手をきれいに洗うかは人々の関心の的となった。学者たちは大まじめに、この問題に取り組んだ。また知恵をしぼれば金がもうかるというわけで、石鹸会社はみな様々な石鹸を作っては売り出した。それぞれが「必ず手がきれいになる石鹸はこれだけです。これを使えば皇帝の住む町に入れます」と、宣伝を繰り広げた。
 こうして、様々な会社が激しく張り合った。その石鹸が本当に町に入れるほど手をきれいにしてくれるか否か、その単純な問題はそっちのけで、会社同士の競争ばかりが熱を帯び、激しさを増していった。
「わが社の石鹸は、必ずきれいになります」と、ある会社が叫ぶ。
「わが社の石鹸でなければ、きれいにするのは不可能です」と、別の会社が叫ぶ。
 その結果、町へ入る門の前にそれぞれの会社の番人が立ち、互いに同じ質問を通行人に浴びせた。
「わが社の石鹸を使いましたか? 使わないと町には入れませんよ」と。
 ある日、そこへひとりのみすぼらしい旅人がやってきた。彼は、『王のなかの王』の顔を何としても拝みたい、そして皇帝の住む町で暮らしたいと願っていた。しかし身分の低いこの旅人は浴びせられる質問の意味が理解できず、答えることができなかった。
 旅人が困惑して震えながら立っていたちょうどそのとき、門が開き、偉大な為政者がアーチ型の門をくぐってきらびやかなその姿をあらわした。
「余に会いにやってきたのか?」と皇帝は問うた。
 男はひざまずいて手を伸ばし、慈悲を乞うた。
 そのとき、皇帝は男の手が白くてきれいなのを見届けた。その心も清いと認められたのだった。
「さぁ、入れ。約束通りに」と皇帝は言って、旅人を町に招き入れた。
 それを見て、石鹸会社の番人たちはあっけにとられた。とたんに今までよりもっと激しい言い争いが始まった。一番手をきれいにする石鹸はどれか、あの旅人は必ずどれかを使ったことは間違いない、そうでなければ町に入れないはずだから。



祈る者

 ひとりの男が森の静かな一角で祈りをささげていると、どこからか二人の男の言い争う声が聞こえてきた。男は気が散ってしまったので祈るのをやめ、こっそりのぞいていた。ひとりは肥満体の雄弁家で、もうひとりはやせていて科学者のようだった。
「あなた。人間は神がお作りになった最も気高い作品です」と雄弁家が言った。「私を見てごらんなさい。私はサルに似ていますか? 自然はなぞに満ちています。あなたは自らを侮辱しているのですよ。進化論とやらによって、自然の神秘のベールを剥ごうとするのは無神論です」
「待ってください」やせた科学者は答えた。「あなたがサルのようであるかどうか、はっきりわかりません。というのも、たとえあなたの所作が少々サルのようであっても、その体重では木の上で生活できないしょうから。けれど、造物主が人間をどのように作られたか知ろうとすることが、なぜ造物主を否定したり侮辱したりすることになるのか、教えてください」
「あなたは不敬だ!」雄弁家は叫んだ。「聖書を無視するのですか。聖書によると、神は地の塵から人間をお作りになった、とある」
「とんでもない。私はその言葉を心から信じています。そして、その製造方法を追求することで、聖書の正しさを裏づけようとしているのです」
「あなたは神の言葉を軽んじている」と雄弁家は叫んだ。
「あなたこそ、神の作品をきちんと見ていません」科学者は答えた。
「あなたのおばあさんはサルでしたか?」雄弁家は大声を出した。
「違うに決まっているじゃありませんか。最新の証明では、サルは昔から我々の敵です。ところで、お聞きしたいのですが、あなたのおじいさんは泥の人形ですか? 塀に立てかけて乾かされていたのですか?」と科学者。
「あなたは何も知らないではないか」と太った雄弁家が叫んだ。
「その通りです。だから学ぼうとしているんです。それにくらべて、あなたは知らないことを恥じていません」とやせた方が言った。こうして二人は言い争いをしながら森を抜けて行った。
「あの人たちは、ひどく怒っていたな。やせた人の方が正しいような気がするが。しかし、だからといってこの片隅で祈りを続けるのが無駄ということはないはずだ。だって、私には色々な悩みがあるから。さぁ、農園にもどろう。今年は厳しい年だぞ」と、男は言った。



揺れる橋

 荒野に住むロバと象が一緒に旅をしていた。飢饉に見舞われた土地から逃げ出そうと急いでいたのだ。まもなく二匹は大きな川にたどりついた。そこには、木の橋がかかっていた。
 ロバが叫んだ。「見ろよ。神様のお恵みだ。向こう岸は静かな緑にあふれている。この橋さえ渡ればいいんだ。行くぞ!」
「この橋はぐらぐらしている」と象は言い、はじめ鼻のさきで橋を押してみたが、そのうち前足で押しはじめた。
 その間ロバは尻尾を振りながら揺れる橋を一気に渡り、対岸に生い茂る緑の草を食べはじめた。だが象は、慎重に調べていた。そうこうするうち、無慈悲にも大きな波におそわれ、橋はこわれてしまった。
「ほら、見ろ。俺の言うとおりだった。この橋はとても危険だったのさ。お前はバカだから渡ってしまった」と象は言った。
「ヒィーン!!」とひと鳴きすると、ロバは言った。「俺はもう渡ってしまったんだ。お前こそバカだよ、俺と一緒に来ればよかったのに」
 こうして二日間、川をはさんでののしりあいが続いた。やがて川の水が引き、こわれた橋の真下に安全な浅瀬があらわれた。象は注意深く浅瀬を渡り、さきに渡った友のところへたどりついた。
「着いたぞ。やっぱり慎重な方が得だろう。お前は急いだが、俺は待った。でも結局は一緒に餌にありつける」
「ヒィーン!! だが、俺はお前より四八時間も速く着いたじゃないか」とロバは言った。
「人生には少々無駄があった方が絶対に楽しいんだ」と象はつぶやいた。

   

囚人

 その男は、途方もなく凶暴な敵から一目散に逃げていた。崖のふちでつまずき、ずるずると滑り落ちると、たわみのある茂みの中に放り出された。体のあちこちをぶつけたものの大した怪我はなく、美しい緑あふれる谷に転がり落ちた。
 見回すと、男は直径一〇キロ足らずのすばらしいオアシスにいるのだった。生い茂る木々には果物がたわわに実り、狩りの獲物も十分いて、おまけに魚のいる小さな川もあった。川は崖の上から滝となってオアシスに流れ込み、地下にある水路に流れ込んでいるのだった。だがこのエデンの園は、周囲をすっかり断崖に囲まれ、登ることはできなかった。この断崖のてっぺんでは、敵が、つまり巨大で獰猛な熊がまるで執念深い看守のように、その小さな目で男を悔しそうににらみつけながらうろうろと歩きまわっていた。
 男は笑い、快適に暮らすための準備にとりかかった。雨風をしのぐ小屋を建て、罠で動物を捕まえ、魚を釣り、果物をもぎ、まずまず幸せに暮らした。一方、お腹をすかした機嫌の悪い熊は、自分の獲物を眺めながら断崖のうえをよろよろと歩きまわっていた。
 数か月が過ぎ、男を探しに救助隊がやってきた。彼らはこのオアシスから流れ出た川の浸食でできた洞窟を伝ってきたのだった。みな男の肩を叩き、抱き合って喜んだ。
「やっと、囚人を自由にしてやることができる!」と救助隊の人たちは叫んだ。
「囚人? 何のことかな。俺はこの心地よい場所でずっと野宿していたいところだが、あんたたちと一緒に帰るよ。だが、本当の囚人はまだあそこにいる。断崖のうえでうろうろしている奴を見ろ。あいつは空腹や憎しみから逃れることができないんだ」
  


見せかけの哲学者

「あなたの奥様は大変すばらしい」と、老政治家が言った。その年老いた両の肩の間には若々しい心が宿っていた。
「あなたのお目が高いことは、折り紙つきです」と哲学者ぶった男は言った。「確かに妻は称賛すべき女性です。まるで咲き誇るバラのようだ」
「その通りですな。また会話のときの何と生き生きとしていることか。差し支えなければ、奥様ともう少しご一緒したいのですが」
「どうぞ。妻の視野を広げるためなら、私が反対などするはずがありませんよ、この文明の時代に。我々夫婦は互いを敬い、喜ばせたいのですから。ご安心を」
「では、私の称賛の気持ちをあらわしてもよいでしょうか?」
「もちろんです。妻は大いに喜ぶでしょう。果樹園のはずれの松の下を散歩しているはずです。この時間に散歩をするのが日課ですから。雲ひとつない快晴ですね! 自然があちこちから手招きしているようです。楽しい午後を!」
 そこで、老政治家はしばし自分の痛風も忘れ、金のステッキを振りながら軽快な足取りで庭を抜け果樹園へ向かった。五分後、彼は足をひきずりながら書斎に戻ってきた。そこでは哲学者ぶった夫が『時代のタブー』という作品を執筆していた。
「随分早かったですね。妻には会えましたか?」
「会えました。でも、私は彼女の会話を遮りたくなかったので」
「何のことです、会話とは」夫は叫ぶように言うと、興奮して勢いよく立ちあがった。
「まさか若い男が……、ブロンドの口髭を生やしたハンサムな男が、詩をそらんじていたとでも?」
「失礼ながら、あれは密会ですぞ。しかしまあ、この文明の時代ですから……」
「くそっ、悪魔め! ならず者、悪党! そいつはどこです!」
 そして一番重いステッキを取り出すと、彼は果樹園めがけて飛び出した。



平和会議

 動物たちが平和会議を開いた。種族間の争いで自らを絶滅の危機にさらすのはやめようではないか、と。
 最初に出された意見は「いかなる種族間の争いも、それが敵意を帯びる前に公平な裁きにゆだねるべし」というものだ。
「だめだ。賛成できない。それでは小さい動物も大きい動物も平等になってしまう。それは特権の放棄と同じだ。自然の絶対的な力関係に矛盾する」と灰色グマが言った。
 トラ、ライオン、その他の大型動物もみなその意見を支持した。スカンクは静かにしっぽを振りながら、うずくまっていた。ガラガラヘビは、とぐろをもうひと巻きした。
「しかし、それこそ我々の目指すものだと思うんだが。つまり、力の代わりに理性を用いるということだ」と犬が言った。
「いや、違う。あんたたちは人間になついて堕落したからそんなことを言うんだ」とトラが反論した。
「本当にそうならいいんだがな」と犬は言い、会議は終わった。



人間と機械

 新しい機械の発明に成功すると、その男はひざまずき自らの手で作り出した作品を拝んだ。
「あぁ、素晴らしい機械だ。どこから見ても完璧だ。お前のおかげで俺は先人を超えた。手をこまねいていた先人に勝ったんだ。お前とともに、俺は高みに昇り、深きへ降りて行ける。お前さえいれば、種蒔き、刈り入れ、収穫は思いのままだ。お前は俺を金持ちにし、辛い仕事を半分肩代わりしてくれる。だから俺はお前をもっともっと拝むぞ。ようこそ、全能の神!」と彼は叫んだ。
 こうして機械を拝んでいる男を見て、思慮深い巡礼者が慎み深く尋ねた。「あなたの神は生きていますか?」
「まぁ、生きている、と言ってもいい」と男は少々誇らしげに答えた。
「その神は考えることができますか? 感情はありますか?」と、巡礼者はまた尋ねた。
「いや、まだだ」と彼は自信なげに答えた。
 巡礼者は言った。「そうですか。あなたにできることさえできない者を拝むとは、不思議ですね。でも、もしもあなたが熱心に拝み続ければ、あなたもいつかその神のようになれるでしょう。それでは、ごきげんよう」



友だち

 ある男が友だちにこう言った。「君はものを知らなさ過ぎる。僕とは話が合わないから友だちにはなれない」
 すると友だちは言った。「僕はものを知らないが、君のおかげで賢くなれる。これは理にかなっているじゃないか」
「でも、もうひとつ。君は貧しすぎる。僕らの財産には差があり過ぎて、互いに訪問しあうこともできないよ。だから友だちにはなれない」
「だったら、君は退屈な暮らしを我慢すればいいのさ。僕は、ときどき君の宝石を拝むという楽しみを我慢するから」
「でも、まだある。君は品格に欠けるよ。僕が属している階級は上品な人たちばかりなんだ。だから君とは友だちになれない」
「僕にとって君との友情は特別なんだ。だから、君には誰よりもうやうやしく頭を下げるよ」
「うん。しかし、僕らは属する階級も教会もクラブも違うから、友だちにはなれないよ」
「そうか、どちらかが逆境に陥るまで、友だちにはなれないんだね。そして、そのときこそ友情とは何なのかを学ぶというわけか」
 そう言うと彼は口笛を吹いて犬を呼び、通りを去って行った。



熟した果実

 プラミトラの心の清らかさは有名だった。彼が、神に人並みはずれた忠誠を尽くしていることは誰もが知っていた。まるで借金の支払いのようにきちんと神への務めを果たし、ブラフマー(1)に対しても、ヴィシュヌ(2)に対しても、シヴァ(3)に対しても、わけへだてなく祈りをささげ寄進をした。また、見事なほどの厳格さで信仰のルールや仕事のルールを守り、非の打ちどころのない人、という評判をほしいままにしていた。
 しかしプラミトラは人なつっこい性格ではなかった。だから村の小さな子供たちにしばしば甘いお菓子やおもちゃをあげてはいたが、彼らに愛されてはいなかった。また大変裕福だったため、絶えず彼を憎む人やねたむ人がいた。彼らはプラミトラの幸福をうらやめばうらやむほど、ますますその幸福ぶりに驚嘆した。プラミトラにすれば、それをひけらかす気などないのだから、やはり不快な気持ちにさせられるのだった。
「何もかも見通す力があればなぁ……」と、まるで自分にはろくな情報がないから仕方ない、とでもいうように、賢げに頭を振りながらそう言う人々もいた。
「せめて、プラミトラくらいの幸運に恵まれていたら」とため息まじりに言う者もいた。
 だが、プラミトラはこうしたことを聞くと言った。「この世の果実は天の恵みによってもたらされる。収穫は神の手にゆだねられている」と。
 そんなことを言いながら、プラミトラは謙虚な面持ちで庭の片隅へ静かに歩いていった。そこで瞑想にふけり、心の奥に秘めた思いをふり返るのを日課としていた。
 ところで心の奥に秘めた思い、といってもそれは結局のところ強い願望に過ぎなかったのだが、信心深いプラミトラはそれをしばしば「祈り」と称していた。祈りは自分自身のことが中心だった。そのあとは二人の人物、友人のインドゥラヌと仇のヴィシュナモルスのことだった。
 友情は静かにゆっくりとしか変化しないので、毎日同じように見える。ところが憎しみは急激に活発に変化し、蛇の体の色のように変わりやすい。だから、プラミトラは友人のことはあまり考えなくなり、仇について多く考えるようになった。日が暮れて庭の片隅にもどってくると、そこにはオレンジの木が、お気に入りの椅子の上につややかな豊かな葉で陰を作っていた。彼はそこで瞑想に入り、自分の思いを神に包み隠さず打ち明けた。
 まずは、インドゥラヌのことだ。この友はいつも自分のことを助けてくれ、尽くしてくれ、ほめてくれる。これを彼は愛と呼んだ。そのあとヴィシュナモルスのことを長い時間考えた。この仇は自分を憎み、邪魔し、嫌な言葉でバカにしたり、あざ笑ったりする。これを彼は憤怒と呼んだ。そして仇の様々な悪行や無礼を、暗い深刻な気分で思いおこした。貧困、苦痛、恥辱、死その他諸々の罰(これは三九段階ある)は、すべて神の手で下されるべき天罰だ、と彼は考えていた。そして彼の頭の中には、いつも玉が転がっていた。玉の中は空洞になっていて、そこにいくつもの輪が入っている。その輪は滑らかに複雑に次々と回転し、中心ではヴィシュナモルスの顔が描かれた小さな黒い像が、のたうち渦を巻いていた。
 こうしてプラミトラが神の裁きや仇に下される天罰について思いめぐらしている間にも、頭上ではオレンジの木が日々絶え間なく伸び、繁り、その枝を長く伸ばして、祈る彼を日差しから守った。やがて白い花が咲き、強い香りもいつしかやわらぐと、淡い緑の果実が実を結び、熟しきらぬまま木から落ちた。だが、早々と落ちてしまう実の中に、たったひとつだけ一番低い大枝にしがみついて残ったものがあった。それはうっそうと茂る葉の間から、不思議な輝きを放って丸く熟した。激しく燃えるような赤に染まった丸い果実は、あたかもプラミトラの仇に対する思いのようだった。
「ずいぶん考え込んでおるな」とバラモン(4)が言った。彼はプラミトラのことをよく知っており、ときどきこの庭を訪れていた。
「お坊様。私は祈っています」とプラミトラは言った。
「何を?」
「神の意思がすべてのものの上に様々な形をとって現われますように、と」
「ところで、なぜお前は躍起になって木をだめにしようとするのだ?」
「何のことですか? 私は木に何もしていません」
「見なさい」そう言って、バラモンは杖の先で果実に触れた。赤紫色の丸い実からしずくがしたたり落ちた。血のように赤かった。しずくが落ちたところの草は、炎に焼かれたように枯れてしまった。それを見て、プラミトラはドキッとした。なぜならこの成り行きにしたがえば、彼の心の奥にある思いは、いずれ木の上に実を結ぶと気づいたからだ。
 プラミトラはひどく謙虚に言った。「賢いお坊様。この世の果実は神の意思によって実ります」
「それは誰のために実るのだ?」
「それも神の手にゆだねられています」
 やがてバラモンは道を歩いてゆき、プラミトラは瞑想にもどった。
 翌日、プラミトラは庭を貫く広々とした道を開放し、誰もが自由に通れるようにせよ、と命じた。つややかな果実が道の上に赤々と熟していた。
「これは人知の及ぶところではない。もしも悪事を働く者がこの実に手を伸ばせば、神の裁きがくだるだろう」とプラミトラは考えた。こうして夕方になると、彼は繁みの中に身をひそめて、ことが起こるのを待ち受けた。
 ひとりの男がそっと道を忍んできて、木の下にたたずんだ。その顔はマントで隠されていたが、プラミトラは言った。「動き次第で誰だかわかるはずだ。私の仇なら、私のものに手を伸ばすにきまっている」さてその男は、裕福な庭の主の面目を失わせ恥をかかせてやろうと、この邪悪なたくらみの裏をかくことを思いついた。そして、その果実を憎み、さげすんで、つぶやいた。「神が禁じているので、俺は哀れなプラミトラの持ち物には手を出すまい」と。やがて小道は次第に暗くなってきた。
 間もなくもうひとりの男が何もかぶらずに歩いてきた。見張っていたプラミトラは言った。「神が何をお考えか、今にわかる」と。その男は無遠慮に、のんきに、用心もせずに歩いてきた。やがて果実の下へやってくると、いきなり手を伸ばし、それをもいだ。「情け深いプラミトラは俺がこれをもらえば喜ぶだろう。だってあいつは友だちみんなにやさしいのだから」と、独り言を言いながら果実を食べ、そのまま木の根本に倒れた。
 プラミトラは駆けつけると死んだ男を抱き上げ、その顔をのぞきこんだ。そこには友の顔があった。大好きなインドゥラヌだった。
 プラミトラは声を上げて泣き、頭をかきむしった。もはや心臓さえ止まりそうだった。まわり道をして庭にもどってきたヴィシュナモルスは、悲嘆にくれる声を聞きつけ、近づいてきて笑った。そこへバラモンが通りかかった。彼は三人を見て言った。「神のなされることは、なぞに満ちている。だが、この三人の中で最も運がいいのはインドゥラヌだ」と。

(1)(2)(3)ヒンドゥー教の三つの神
(4)インドにおけるカーストのバラモン階級の僧侶




底本:「半分だけの物語」明かりの本
   2013(平成25)年7月28日初版発行
翻訳:山田由香里
編集:明かりの本
書誌情報:
HALF-TOLD TALES by Henry Van Dyke
New York CHARLES SCRIBNER’S SONS 1926
(原書『HALF-TOLD TALES(ヘンリー・ヴァン・ダイク作)』は1926年にアメリ カのCHARLES SCRIBNER’S SONSから出版された。)
明かりの本作成ファイル:
このファイルは、インターネットの図書館、明かりの本で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。

後編はこちら





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